「陽菜! おい、しっかりしろ!」
 僕の呼びかけに、彼女は答えない。ただ、ぜえ、ぜえ、と苦しそうに息を繰り返し、その瞳は僕を睨みつけたまま、ゆっくりと焦点を失っていく。
 パニックで、頭が真っ白になる。
 どうすればいい。何をすれば。救急車か?そうだ、救急車を呼ばなければ。

 僕が震える手でスマートフォンを取り出した、その時だった。
 「どうしたんですか!」
 近くを通りかかったのであろう中年の女性が、血相を変えて駆け寄ってきた。
 「この子、様子がおかしいわ! すぐに救急車を!」
 女性が、僕の代わりにテキパキと119番へ通報してくれる。その冷静な声を聞きながら、僕は自分の無力さに打ちのめされていた。
 大切な人が、目の前で倒れているのに。僕はただ狼狽えることしかできない。
 今まで必死に紡いできた言葉達も、今はなんにも役に立たない。
 目の前の人ですら、助けられない。 

 やがて、遠くから聞こえてきたサイレンの音が、急速に近づいてくる。
 赤色灯が、僕と陽菜の顔を、無感情に照らし出した。
 救急隊員がストレッチャーを運び、手際よく陽菜の容態を確認していく。
 「お連れの方ですか? 何か持病は?」
 「いえ、分かりません……」
 「倒れる直前の状況は?」
 「……口論、してて……それで、急に咳き込んで……」
 僕の言葉は、しどろもどろだった。救急隊員の目には、僕が彼女を追い詰めた加害者であるかのように映っているに違いなかった。

 「保護者の方に連絡をお願いします。搬送先の病院は……」
 隊員が告げた病院名を聞きながら、僕はストレッチャーに乗せられていく陽菜を、ただ見つめていた。
 彼女の手が、だらりと力なく垂れている。
 僕はその手に、もう一度触れたいと思った。だが、僕の手は彼女に拒絶された、汚れた手だ。

 救急車の扉が、無慈悲に閉まる。
 サイレンの音が再び鳴り響き、遠ざかっていく。
 手の届く距離から、数メートル、数十メートル。
 あっという間に、僕は一人、その場に取り残された。陽菜の通学カバンだけが、彼女がさっきまでここにいたという事実を残酷に物語っていた。


 僕が最初に電話をかけたのは、陽菜の母親だった。
 コール音が、永遠に続くように感じられる。
 『もしもし、桜ですが』
 「あ……あの、蒼井、です。朔です」
 『朔くん? どうしたの、陽菜と一緒じゃ……』
 「それが……陽菜が、倒れて……今、救急車で……」

 僕の言葉を最後まで聞く前に、彼女の、息を呑む音が聞こえた。
 僕は病院の名前と、口論の末に倒れたという事実だけを、なんとか伝えた。電話の向こうで、母親が悲鳴のような声を上げ、父親を呼ぶ声が聞こえた。
 電話が切れた後、僕はその場にへたり込んだ。

 なんてことをしてしまったんだ。
 僕のくだらないプライドと弱い心が、陽菜をここまで追い詰めてしまった。
 僕の冗談が、僕の偽りの強さが、彼女の心身を蝕んでしまった。

 しばらくして、神谷にメッセージを送った。状況を簡潔に伝えた。
 すぐに返信があった。
 『分かった。一色には、俺から伝えておく。お前は、お前がすべきことをしろ』
 すべきこと。
 僕が今、すべきこととは、何だ?

 僕は陽菜のカバンを拾い上げると、タクシーを拾い、病院へと向かった。
 会いに行く資格なんてない。分かっている。
 でも、ここに一人でいることなんて、到底できなかった。
 僕はそうして、カバンという大義名分を得て、その場から逃げ去った。

 病院の、救急外来の待合室。その冷たい長椅子に、僕は座ることができなかった。
 入り口の外、冬の冷たい風が吹き付ける場所で壁に寄りかかり、ただ、処置室のランプが消えるのを待った。
 やがて、慌ただしい足音と共に、陽菜の両親が駆け込んできた。
 母親は僕の姿を認めると、一瞬だけ憎しみに近い色を目に浮かべ、しかし何も言わずに、受付へと走っていった。

 僕は、透明人間だった。
 僕には、彼女の容態を知る権利も、彼女のそばにいる権利も、何もなかった。
 僕にできることは、何一つなかった。


 どれくらいの時間が、経っただろうか。
 処置室の扉が開き、医師たちが出てきた。僕は壁の影から、固唾を飲んでその様子を見守る。
 母親が、医師に何度も頭を下げている。

 やがて、母親が僕の方へと静かに歩いてきた。
 その顔は、疲労と、そして静かな怒りに満ちていた。

 「……朔くん」
 「……はい」
 「陽菜の診断は、過換気症候群。……極度の精神的ストレスが原因、だそうよ」

 過換気症候群。精神的ストレス。
 その言葉の一つ一つが、僕の罪状を読み上げているようだった。

 「先生が言ってたわ。今は、とにかく心身ともに、絶対安静が必要だって。陽菜を刺激するようなものは、全て遠ざけなければいけないって」
 彼女はそこで、一度言葉を切った。
 そして、僕の目を真っ直ぐに見て、言った。

 「陽菜がこんなことになったのは、あなたのせいなんでしょう?」
 「…………はい」
 僕は、頷くことしかできなかった。

 「お願いだから」
 彼女の声は、母親としての切実な祈りだった。
 「あの子が、心から笑えるようになるまで。もう、陽菜には会わないでください」

 それは、宣告だった。
 僕と陽菜の世界を完全に分断する、決定的な宣告。
 僕は、何も言い返せなかった。
 僕には、彼女のそばにいたいと願う資格も、権利も、もう何一つ残されてはいなかったのだから。

 母親は、僕に背を向けて病室へと戻っていく。
 一人残された僕は、ただ、病院の冷たくて白い壁を見つめていた。
 君が倒れた時、僕は救急車を呼ぶことさえ、すぐにできなかった。
 君のご両親に、うまく説明することもできなかった。
 そして今、僕は君に会うことさえ、禁じられた。

 僕にできることは、本当に何一つない。
 サイレンの音は、もうどこにも聞こえなかった。
 僕の世界は再び、完全な無音に包まれてしまった。


 僕の高校生活、最後の冬が来た。
 窓の外で雪が降るクリスマスイブの夜も、賑やかな正月も、僕にとっては参考書のページをめくる音と、蛍光灯の白い光の中に過ぎ去っていった。僕は高校三年生。全ての感傷や思い出を置き去りにして、ただひたすらに「合格」という二文字だけを目指すべき、最終コーナーに立っていた。

 陽菜が倒れ、彼女の母親に会うことを禁じられてから、僕は勉強という名の要塞に立てこもった。それは、感傷から逃れるための完璧な口実だった。神谷が「顔を出せよ」とメッセージをくれても、「模試の結果が悪かった」と一言返せば、誰もそれ以上は踏み込んでこなかった。
 高校三年生の冬。「受験」は、あらゆるものを犠牲にすることを正当化する、魔法の言葉だった。

 ペンを握る指は、物語を紡ぐためではなく、ただ数式を解き、英文を和訳するためだけに動いた。僕は自分の心を殺すことに、驚くほど順応していた。感情は、思考の効率を下げるノイズだ。志望校判定のAからEまでの記号だけが、僕の世界の唯一の真実だった。
 時折、脳裏をよぎる陽菜の苦しげな表情も、叩かれた手の痛みも、そのたびに僕は、数学の難問や、複雑な化学式の中に意識を沈めることで、無理やりかき消した。

 痛みを感じなくなれば、傷は存在しないのと同じだ。
 僕は、そう信じようとしていた。
 

 冬休みが明け、三学期が始まった。
 教室に漂う空気は、以前とは全く違っていた。そこには、浮ついた会話も、明るい笑い声もない。誰もが、数週間後に迫った大学入学共通テストという、最初の審判に向けて、見えない敵と戦っていた。
 クラスメイト全員が、孤独な戦士だった。その緊張感に満ちた静寂は、今の僕にとっては、むしろ心地よかった。僕の孤独は、もうこの教室で、異質なものではなくなっていたからだ。

 陽菜は、席にいた。
 冬休みの間に、少し痩せたように見えた。顔色は、まだ青白い。僕たちは、一度も目を合わせなかった。同じ教室で、同じ授業を受け、同じ未来への不安を抱えているはずなのに、僕たちの間には決して交わることのない、透明な壁が存在していた。

 ある日の放課後、僕は自習室で過去問題集を広げていた。
 不意に、隣の席に誰かが座る気配がした。僕は、参考書から目を離さずにいたが、ふわりと香った懐かしい匂いに、心臓が凍りついた。陽菜のシャンプーの匂いだった。
 彼女は、僕の隣で黙々と自分の問題集を解き始めた。
 シャーペンの芯が、紙の上を滑る音だけが、僕たちの間に響く。
 近くて、遠い。息が詰まりそうなほどの距離。
 僕は、彼女がどんな顔をしているのか、盗み見ることさえできなかった。ただ、彼女がそこにいるという事実だけで、僕の築き上げたはずの「無関心」の壁に、細かなひびが入っていくのを感じた。

 数十分後、彼女は静かに立ち上がり、去っていった。
 彼女が去った後の席には、まだ、微かに彼女の温もりが残っているような気がした。
 僕はその日、それ以上一文字も頭に入れることができなかった。


 そして、共通一次試験の朝が来た。
 凍てつくような空気の中、僕は試験会場である大学のキャンパスへと向かっていた。同じ方向へ向かう、大勢の顔のない受験生たち。その誰もが、僕と同じように緊張と不安で張り裂けそうな心を、厚いコートの内に隠している。

 正門の前で、人の流れが少しだけ滞った。
 その、ほんの一瞬。
 僕は人垣の向こうに、見慣れた後ろ姿を見つけた。
 陽菜だった。彼女も、同じ会場だったのだ。

 彼女がふと、振り返った。
 そして、僕たちの視線が数ヶ月ぶりに、真っ直ぐに交差した。

 彼女の瞳には、驚きの色が浮かんでいた。僕も、同じだっただろう。
 だが、そこに以前のような怒りや、拒絶の色はなかった。あったのは、同じ戦場に立つ者同士が交わす、静かで、真剣な眼差し。そして、その奥底にほんのわずかに見えた、祈るような心配そうな光。

 僕たちは、何も言わなかった。
 ただ一秒ほどの時間、見つめ合った。
 そして、僕は自分でも無意識のうちに、小さく頷いていた。
 頑張れよ、と。そう、言っているような気がした。

 陽菜の唇が、ほんの少しだけ、動いた。
 『うん』と、そう言ったように見えた。
 彼女は僕から視線を外すと、前を向き、試験会場の建物の中へと消えていく。

 僕はその後ろ姿が見えなくなるまで、その場を動けなかった。
 僕たちの解答用紙が、交わることはない。選ぶべき道も、目指す未来も、もう違うのかもしれない。
 それでも。
 僕の心の中に、ほんの小さな温かい光が灯った。

 僕はもう一度、前を向いた。
 そして、僕自身の戦場へと足を踏み出した。
 最後の冬の、長く、厳しい一日が、始まろうとしていた。


 二月の終わり。
 合格発表の掲示板の前で自分の番号を見つけた日も、僕の心は不思議なほどに静かだった。喜びも、安堵も、どこか他人事のようだった。受験という、僕の全てを支配していた巨大な怪物が消え去った後には、広大な、しかし色のない、空白だけが広がっていた。

 学校へ行くのは、もう三月の卒業式だけ。
 僕は、自室の机の前に座り、ただ窓の外を流れる雲を眺めていた。あれだけ僕の時間を埋め尽くしていた参考書や問題集は、今はもう、ただの紙の塊にしか見えない。
 思考を停止させてくれていた数字と記号の呪文が解けた今、僕の心には、抑えつけていた感情が濁流のように流れ込んできた。

 陽菜のことだ。
 病院の外で、彼女の母親に会うことを禁じられた、あの冷たい夜。
 共通一次試験の朝交わした、言葉にならない視線。
 そして、卒業すれば僕たちは、おそらくもう二度と会うことのない、別々の道を歩んでいくという、動かしがたい現実。

 後悔が僕の心を苛んだ。
 このまま、何も伝えずに終わってしまうのか。僕たちの物語を、あの最悪の場面で途切れさせてしまうのか。
 それは、嫌だ。
 たとえもう一度、彼女が僕を許してくれることがなかったとしても。このまま何もせずに終わることだけは、僕が、僕自身を許せない。

 僕はゆっくりと立ち上がると、クローゼットの奥にしまい込んでいた、段ボール箱を開けた。
 ガムテープを剥がすと、懐かしいインクの匂いがした。
 その中から、僕は一本の万年筆を手に取った。中学に入学した時に祖父に買ってもらった、僕の最初の武器。何年も、僕と共に物語を紡いできた、相棒。
 そのひやりとした金属の感触が、僕の指先に何かを思い出させてくれるようだった。

 僕はもう一度、小説を書こう。
 これは、彼女に読ませて関係を修復するための、打算的なコミュニケーションツールじゃない。
 僕の、このどうしようもない想いを、後悔を、そして、彼女への感謝を一つの「芸術」として、形に残すために。
 僕が蒼井 朔として、桜 陽菜という少女に出会った。その証を、この世界に刻みつけるために。

 後悔しないように。
 ただ、その一心で。


 僕は机に向かった。
 真っ白な原稿用紙を前に、長年を共にしている万年筆のキャップを外す。
 そして僕は書き始めた。

 それは祈るような、静かな行為ではなかった。
 僕の内に溜め込んでいた、言葉にならない全てを吐き出すための闘いだった。

 書いて、吐いて。
 彼女を疑ってしまった自分の弱さを書いた。彼女の嘘に気づいた時の、冷たい絶望を書いた。その言葉を、インクとして紙の上に吐き出すたび、僕は本当に吐き気を催した。

 泣いて、吐いて。
 彼女が倒れた時の、自分の無力さを書いた。叩かれた手の、痛みを書いた。病院の廊下で感じた、絶対的な孤独を書いた。涙で原稿用紙が何度も滲んだ。そのたびに、僕は新しい紙に同じ絶望を、何度も、何度も書き殴った。

 何日も、何日も、僕は書き続けた。食事も睡眠も、忘れていた。
 僕の部屋は、僕だけの告解室になった。
 万年筆のペン先が僕の魂を削り、インクが僕の血の代わりに、紙の上を流れていく。
 それは僕が今まで書いてきたどんな物語よりも正直な、僕自身の物語だった。


 全てを書き終えたのは、卒業式を三日後に控えた朝だった。
 僕は、まるで十年も眠っていたかのように深い疲労感の中で、自分が書き上げた原稿の束をぼんやりと眺めた。
 何を書いたのか、よく覚えていない。ただ、醜く、身勝手で、自己憐憫に満ちた、汚い言葉の羅列がそこにあるだけだろう。

 僕は恐る恐る、最初の一枚を手に取った。
 そして、僕は息を呑んだ。

 そこに綴られていた文章は、驚く程に、綺麗でした。

 僕が吐き出したはずの醜い絶望は、インクの中で、冬の夜空に輝く星座のような静かな美しさを湛えていた。僕の後悔は、夕暮れの空のような、切ないグラデーションを描いていた。僕の、陽菜へのどうしようもない想いはまるで、純粋な詩の一節のように、そこにあった。

 自分の心からの思い。それが、こんなにも綺麗だと感じるなんて。

 僕はその時、ようやく気づいたのだ。
 僕が醜いと思っていた僕の影。その影が、こんなにも豊かな色彩を持っていたのはいつだって、その隣に陽菜という眩しすぎる光があったからだ。
 僕の物語がたとえどれだけ暗くても、その根底に切ないほどの美しさが宿っていたのは、僕の魂がいつだって、君という存在に焦がれていたからだ。

 僕は原稿の束を、そっと胸に抱きしめた。
 涙が溢れてきた。
 でも、それは後悔や悲しみの涙ではなかった。
 僕の人生に、桜 陽菜という少女がいてくれたことへの、どうしようもないほどの、感謝の涙だった。

 卒業式まで、あと三日。
 僕にはまだ、やらなければならないことが、一つだけ、残っていた。

 僕は、書き上げたばかりの『君という名の物語』を、机の引き出しにそっとしまった。インクの匂いが、まだ生々しく僕の指先に残っている。この一日、僕はひたすらに推敲を重ねた。言葉を磨き、句読点一つに至るまで、僕の魂を注ぎ込んだ。

 そして、卒業式まであと二日。
 その日の午後、僕はほとんど無意識のうちに、文芸部室の扉の前に立っていた。もう二度と、この扉を開けることはないかもしれない。そんな感傷が、僕をこの場所へと導いた。
 扉を開けると、そこには、信じられない光景が広がっていた。

 神谷が、いつものように窓際で本を読んでいた。
 陽葵が、長机に突っ伏して、何事かぶつぶつと呟いている。
 そして――。
 入口に一番近い場所に、静かに、桜 陽菜がいた。

 僕の心臓が、大きく跳ねた。
 「……よお」
 神谷が本から顔を上げて、ぶっきらぼうに言った。
 「師匠! 陽菜先輩も! なんでみんな、今日に限って集まるんスか!?」
 陽葵が、がばっと顔を上げる。
 その場の空気は、ひどくぎこちなかった。誰もが互いの顔色を窺い、何を話すべきかを見つけられずにいる。
 だが、その沈黙は不思議と不快ではなかった。長い冬を越え、僕たちが再び、同じ場所に集えた。その事実だけで、何か温かいものが、凍てついた心を溶かしていくようだった。

 やがて、誰からともなく、ぽつり、ぽつりと、言葉が交わされ始めた。
 受験が終わったこと。解放感と、将来への漠然とした不安。三年間という時間の、あまりの短さ。
 ぎこちなかった会話は徐々に、あの頃のような、くだらなくて、愛おしい熱を取り戻していく。僕の心に、淡い光が差し込む。ああ、僕たちは、また笑い合えるのかもしれない。
 だが、一つだけ。
 この部屋には、僕たちの知らなかった決定的な変化があった。

 陽菜が、車椅子に乗っていたこと。

 僕は、部室に入った瞬間からその事実に気づいていた。車輪が、古い床板の上で軋むこともなく、静かに鎮座している。彼女が、自分の足で立っていない。その光景が僕の視界の端で、現実感を失ったまま、ずっと存在し続けていた。
 僕は動揺を悟られまいと、必死に平静を装った。過換気症候群の後遺症か? いや、そんなはずはない。僕の知らない間に、彼女に何かが起きたのだ。その問いを、僕は喉の奥に押し殺した。この温かい時間を、壊したくなかったからだ。


 「で、お前らは、これからどうするんだ」
 神谷が本を閉じ、最初に答えた。
 「俺は芸術系の大学に行く。そこで、批評を学ぶ」
 「うおー! さすが神谷先輩ッス!」
 陽葵が、目を輝かせる。
 「陽菜は?」
 神谷に促され、陽菜は少しだけ伏せていた顔を上げた。そして、穏やかに、しかしどこか寂しげに微笑んだ。
 「私は、医学部。……特待生として、合格もらったの」

 「医学部!? すげえ!」僕が驚きの声を上げると、陽菜は「たまたま、ね」と小さく笑った。
 「じゃあ陽菜は、お医者さんになるかもしれないんだ!」
 「だと、いいんだけど」
 「先輩たちが、みんなすごい進路に進んでいく……! 一年後、私、どうなってるんスかね〜……」
 陽葵が遠い目をして天井を仰ぐ。その姿に、部室がどっと笑いに包まれた。

 その、温かい笑い声の中で。
 僕だけが、笑えなかった。
 陽菜の言葉に引っかかっていた、たった一つの違和感。それが、僕の心に小さな棘のように突き刺さって離れない。
 僕は、この穏やかな空気が消え去ってしまうことも、そしてもしかしたら、二度と彼女と話せなくなるかもしれないことも覚悟の上で、聞かずにはいられなかった。

 「……なあ、陽菜」
 僕の声に、部室の空気がしんと静まり返る。
 「どうして、『合格を貰った』って言ったんだ? 『進学する』って、どうして言わないんだ?」
 陽菜の肩が、小さく震えた。
 「それに……」
 僕はずっと目を背けていた、その現実に、言葉で触れる。
 「過換気症候群で、日常的に車椅子は使わないはずだ。……一体、何があったんだ?」


 沈黙が、落ちた。
 それは僕たちが経験した、どんな沈黙よりも重く、痛かった。
 神谷は厳しい顔で唇を結び、陽葵は不安そうに僕と陽菜の顔を交互に見ている。
 陽菜は、何も言わなかった。ただ俯いて、自分の膝の上で、か弱く指を組んでいる。

 数分が、数十年にも感じられた。
 やがて、彼女は絞り出すような声でぽつりと言った。
 「……車椅子なのも、気になるよね」

 彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳はあまりに澄んでいて、あまりに哀しかった。
 「私ね、癌なんだ」

 その言葉は、音もなく、僕たちの心に突き刺さった。
 「骨に、転移してて……。背骨に。だから、下半身がもう、あんまり思うように、動かせないの。ずっと、隠してた。ごめんね」

 世界から、音が消えた。
 神谷も、陽葵も、そして僕も、呼吸さえ忘れていた。
 「だから、医学部に合格しても、意味ないんだ。特待生なんて、皮肉だよね。……もう、私、そんなに長くは、生きられないから」

 その瞬間、僕の足から力が抜けた。
 がくん、と膝が折れ、僕はその場に崩れ落ちた。
 視界が、急速に滲んでいく。涙が熱い塊になって、喉の奥からこみ上げてくる。違う。違う。これは悪い夢だ。僕が書いた、救いのない物語の一節だ。高校生なんだ。若年層の中でもまだ、高校生なんだぞ。まだ、人生の青春部分が残っているのに。それなのに、なんで。

 隣で神谷が、深く、深く俯くのが見えた。彼の握りしめた拳が、小刻みに震えている。彼は、泣いてはいなかった。だがその背中は、僕が今まで見た中で、一番小さく見えた。
 陽葵は、まるで信じられない、といった面持ちで立ち尽くしている。その大きな瞳から、ただ声もなく、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。

 僕たちの絶望が伝染したように。
 陽菜の澄み切っていた瞳からも、ついに涙が溢れ出した。

 「生きたい……」

 彼女のか細い、嗚咽混じりの声が、静かな部室に響き渡る。
 「みんなと、一緒に……それぞれの場所へ向かって、それぞれの夢を、追いかけて……。どれだけ歩く方向が違っても、地球の裏で、また会えるように……また、みんなと一緒に、笑える日を、迎えたい……」

 彼女の視線が、崩れ落ちたまま動けない、僕を捉えた。
 焦点の合わない僕の目線を彼女に合わせる。

 「そして……好きな人と一緒に、幸せに、暮らしたい……」

 それは、僕の心を完全に打ち砕く、あまりにも切実な願いだった。

 最後に、彼女は子供のように、声を上げて泣きじゃくった。
 その嗚咽の合間に、僕の耳に決して消えることのない言葉が、突き刺さった。

 「死にたくない……!」

 夕暮れの光が、僕たち四人の砕け散った心を、残酷なまでに美しく照らし出していた。

 陽菜の叫びは、僕たちの心を貫き、砕けたガラスのように静まり返った部室の床に散らばった。
 その言葉を最後に、彼女はまるで糸が切れた人形のように、車椅子の上でただ嗚咽を漏らし続けた。
 僕も、泣いていた。声も出せず、崩れ落ちたまま、子供のように、ただ涙を流し続けた。神谷は俯いたまま動かない。陽葵はその場にへたり込み、自分の制服のスカートを握りしめて、声を殺して泣いていた。

 どれくらいの時間が、経っただろうか。
 僕は震える手足を叱咤し、床を這うように歩き、陽菜の車椅子へと近づいた。もう、拒絶されることなど、どうでもよかった。彼女が今、一人でこの世の終わりのような孤独の中にいることだけは、耐えられなかった。

 僕が彼女の膝に、そっと手を伸ばす。
 陽菜の肩が、びくりと震えた。だが、彼女はもう、僕の手を叩いたりはしなかった。嗚咽が、少しだけ小さくなる。
 彼女は、涙で濡れた顔をゆっくりと上げた。そして、僕を見つめ、途切れ途切れに語り始めた。
 それは、僕が知らなかった君の、本当の物語だった。


 「……ごめんね」
 彼女の最初の言葉は、謝罪だった。
 「朔を、操ろうとしたこと。……陽葵ちゃんを、利用したこと。本当に、ごめんなさい」

 「あの時ね、私、すごく焦ってたんだ」
 彼女は遠い目をして、過去を振り返る。
 「自分の病気のことを知ったのは、高二の夏。朔が、すごく頑張ってた頃。……嬉しかったんだよ。あなたの才能が、花開こうとしてるのが、自分のことみたいに。でもね、同時にすごく、怖かった」

 彼女の声は、懺悔を続ける。
 「あなたの才能が、怖かった。朔が、私の手の届かない、遠い世界に行っちゃう気がして。私だけが、この動かない体に、限られた時間の中に取り残されていく気がして……。だから、あなたがスランプに陥った時、私、最低なことを考えちゃったんだ」

 彼女の瞳が、僕を捉えた。その瞳には、深い後悔の色が浮かんでいる。
 「時間がなかったの。私に残された、あなたとの時間が、もうあまりにも少なかったから。あなたの闇も、葛藤も全部、私が光で照らし尽くして、無理やりにでもハッピーエンドに書き換えたかった。あなたの物語を、私好みの幸せな結末に、したかった……。そうすれば、残りの時間、私たちはずっと笑っていられるって、信じてた」

 ああ、そうだったのか。
 君のあの不可解だった行動の裏には、こんなにも切実で、悲しい願いが隠されていたのか。君は、僕のためを思って、僕たちの未来のためを思って、必死だったのか。僕はそれに、気づいてやれなかった。

 「あなたの物語の、ヒロインでいたかった。最後まで、あなたの隣で笑っている、太陽みたいなヒロインで。でも……」
 彼女は自嘲するように、ふっと笑った。
 「作者の気持ちを無視して、結末を勝手に変えようとするなんて……そんなの、ヒロイン失格だよね」


 陽菜の告白は、僕が抱えていた全ての怒りや疑念を、跡形もなく溶かしていった。後に残ったのは、自分の愚かさへの、どうしようもない後悔だけだった。
 僕は、何も見えていなかった。君が、たった一人で、こんなにも大きな絶望と戦っていたことに、気づきもしなかった。

 「だから、朔が、『距離を置こう』って言ってくれた時、少しだけ、ほっとしたんだよ」
 「え……?」
 「もう、嘘をつかなくていいんだって。元気なフリも、平気なフリも、しなくていいんだって。……でも、やっぱり、寂しかったな。朔と話せないのも、朔の物語が読めないのも、すごく、すごく、寂しかった」

 彼女は、僕の方へとそっと手を伸ばした。その手は、驚くほどに冷たかった。
 僕は、その手を両手で、包み込むように握った。

 「馬鹿だな……俺は」
 僕の口から、ようやく言葉がこぼれた。
 「俺は、陽菜が俺を信じてないんだって、そう思ってた。でも、違ったんだな。俺の方が、陽菜を、何も見てなかった。陽菜の苦しみに、気づきもしなかった」
 「ううん、違う。私が隠してたんだから。朔のせいじゃない」
 「俺のせいだ」

 僕は彼女の手を握りしめたまま、泣いた。
 「陽菜。俺の物語のヒロインは、お前だけだ。今までも、これからも、ずっと。お前以外のヒロインなんて、いるわけないだろ……!」

 僕の言葉に、彼女は子供のように、声を上げて泣き出した。
 僕たちの涙が床に落ちて、小さな染みを作っていく。
 それは、僕たちがこの三年間で流した、全ての涙だったのかもしれない。

 神谷が静かに立ち上がり、僕たちの肩にそっと手を置いた。陽葵も、泣きじゃくりながら陽菜の車椅子のそばに、寄り添った。

 夕暮れの光が、僕たち四人を優しく包んでいた。
 そこには、もう何の嘘も、偽りもなかった。
 ただ、残酷な真実と、それでも消えることのない温かい想いだけが、存在していた。
 僕たちの、長く不器用な物語。その本当の意味を、僕たちは今、ようやく知ったのだ。