三度目の春。高校三年生になった僕たちの日常は、穏やかな海のようにきらきらと凪いでいた。
 だが、海に潮の満ち引きがあるように、僕たちの周りでも、一つの季節が終わろうとしていた。新入生の部活動勧誘期間である。

 「……結局、誰も来なかったな」

 四月が終わりに近づいた、ある日の放課後。
 文芸部室の長机に並べた、数枚の真っ白な入部届を前に、僕は大きなため息をついた。
 一昨年の文化祭で、僕たちの部誌『青藍』は予想以上の反響を呼んだ。僕の『夏夜』を読んで感動した、と言ってくれる生徒も少なからずいた。だから、ほんの少しだけ、期待していたのだ。この静かな部室の扉を開けてくれる、新しい仲間が現れるのではないか、と。
 しかし、現実は非情だった。新入生の入部希望者は、ゼロ。

 僕が項垂れていると、隣に座っていた陽葵が、不思議そうに小首を傾げた。
 「私って結構、珍しい存在だったんスかね?」

 そのあまりに純粋な問いに、それまで神妙な顔をしていた陽菜が、たまらずぷっと吹き出した。
 「ふふっ……あははは! 珍しいなんてもんじゃないよ! 絶滅危惧種だよ、陽葵ちゃん!」
 「ぜ、絶滅危惧種ッスか!?」
 陽菜の笑い声につられて、僕も思わず口元が緩む。
 「……絶滅危惧種、か。確かに、そうかもしれないな」

 部室に、久しぶりに明るい笑い声が響く。だが、その和やかな空気を、氷のように冷たい一言が切り裂いた。

 「笑い事じゃない」

 声の主は、対面の席で静かに本を読んでいた神谷だった。彼は、分厚い本から顔も上げずに、淡々と言い放つ。
 「俺たちが卒業したら、一色。お前は一人になるんだぞ」

 「「「…………」」」
 僕と陽菜、そして陽葵の動きがぴたりと止まった。

 「ひ、一人ッスか!?」
 数秒の沈黙の後、陽葵が絶叫した。
 「この、広すぎる部室に!? 私が!? 私が来年、部長ッスか!?」
 「他に誰もいなければ、そうなるな」
 神谷はページをめくりながら、こともなげに言う。

 「む、無理無理無理! 無理ッスよ! 私一人で、新入生に『文学の素晴らしさ』なんて語っても、絶対伝わらないッス! 『なんかヤバい先輩がいる』って噂が流れて、石を投げられるのがオチッス!」
 「石は投げられん。だが、哀れみの目で見られ、遠巻きにされる可能性は高い」
 「それが一番キツいッスーー!!」

 陽葵は、机に突っ伏してわんわんと泣き始めた。
 「だ、大丈夫だよ、陽葵ちゃん!」
 陽菜が、慌ててその背中をさする。
 「私たちも、卒業したら遊びに来るから! ね、朔!」
 「ああ。たまに、OBとして新作を寄稿してやってもいい」
 僕がそう言うと、陽葵は砂漠でオアシスを見つけたかのようにキラキラとした目線を僕に送る。しかし神谷が冷ややかにツッコミを入れる。
 「それは規約違反だ」
 「ああああ、もうダメッス! 文芸部は、私の代で廃部ッス! 私が、この部の歴史に終止符を打つ最後の女になるんス……!」
 「大袈裟だ」

 まるで、テンポのいいコントを見ているようだった。泣き叫ぶ陽葵、必死に慰める陽菜、冷静に事実だけを突きつける神谷。そして、その光景に僕はどうしようもなく、温かい気持ちになっていた。
 このくだらなくて、愛おしい日常。これが、僕たちの文芸部なのだ。


 ひとしきり騒いだ後、陽葵が泣き疲れて静かになったのを見計らって、神谷がふっと息をついた。
 「……だからこそだ」
 彼が静かに呟く。
 「ん? 何がッスか?」
 涙目の陽葵が顔を上げた。

 「この部が、ただの仲良しサークルで終わらないために。そして、一色のような奇特な後輩が来年以降も現れる可能性を、少しでも上げるために。俺たちがここにいたという爪痕を、はっきりと残す必要がある」

 神谷はそう言うと、おもむろにカバンから一冊の文芸雑誌を取り出した。
 そして、そのページを僕の目の前に叩きつけるように置いた。

 「蒼井。これに出せ」

 そこに印刷されていたのは、高校生限定の、全国規模の文学賞の募集要項だった。
 僕の心臓が、大きく跳ねる。
 「……無理だ。俺なんかが」
 「またその台詞か」
 神谷は呆れたように言った。
 「お前が書け。そして、賞を取れ。この無名で、部員も増えず、来年には廃部の危機に瀕している弱小文芸部に、『全国』の名を刻むんだ。それが部長である、俺の命令だ」

 それは、いつもの彼らしくない、ひどく熱のこもった言葉だった。
 陽菜と陽葵が、固唾を飲んで僕を見つめている。
 僕たちのくだらなくて、穏やかで、愛おしい日常を守るために。そして、この場所が確かにここに存在したという証を、未来に残すために。

 僕の震える指先が、募集要項の冷たい紙に触れた。
 穏やかだった三度目の春に、突然吹き込んできた嵐の序章。
 僕のペン先は今、僕と陽菜だけの小さな世界を飛び越えて、まだ見ぬ誰かが待つ大きな海へと、その切っ先を向けようとしていた。



 「全国、か……」
 家に帰っても、僕の頭の中はその四文字でいっぱいだった。神谷に言われた、「部長命令だ」という冗談めかした、しかし本気の言葉が重く僕の肩にのしかかる。
 机の上に広げた募集要項。そのきらびやかなタイトルと、並べられた審査員たちの大御所と呼ぶにふさわしい名前が、僕を萎縮させた。ここに、僕の物語を? 僕の内側にある、このどろどろとした不器用な感情の塊を、白日の下に晒すというのか。

 僕は無意識のうちに、スマートフォンを手に取っていた。
 メッセージアプリを開き、陽菜の名前をタップする。

 『やっぱり、俺には無理かもしれない』

 数秒と経たずに返信が来た。
 『まだ何も書いてないのに、諦めるの?』
 その文字は彼女の声で再生された。少し呆れたような、でも優しい声。
 『それに、朔は一人じゃないでしょ』

 その言葉にはっとさせられる。
 そうだ。僕はもう一人じゃない。僕の物語は、僕だけのものではないのだから。

 『なあ、陽菜』
 僕は新しいメッセージを打ち込む。
 『明日、少し相談に乗ってくれないか。どんな物語を書くべきか、一緒に考えてほしい』
 『もちろん!』
 すぐに、親指を立てたスタンプが返ってきた。
 『私たち、共同執筆者なんだから!』

 その言葉に、僕の心に巣食っていた恐怖がほんの少しだけ和らいだ。
 そうだ。僕には、世界で最高のパートナーがいるじゃないか。


 翌日の放課後、僕と陽菜は図書室の片隅、いつもの閲覧席に向かい合って座っていた。
 目の前には真っ白なノートと、僕の歴代の作品たち――部誌に載せた『夏夜』、陽菜にだけ見せた恋愛小説、そして、僕の闇が詰まった、あの家族の物語の原稿。

 「こうして見ると、朔の作品って色々あるよね」
 陽菜が原稿の束を愛おしそうに撫でながら言う。
 「どれも朔の大事な一部なんだなって、分かるよ」
 「でも、この文学賞に出すとなると話は別だ」
 僕は真剣な顔で言った。
 「審査員に、読者に、一番響くのはどの『蒼井朔』だと思う?」

 僕は三つの選択肢を提示した。
 一つ目は、『夏夜』のような、世界のきらめきを切り取った、光の物語。誰もが共感しやすいが、他の応募者の中に埋もれてしまうかもしれない。
 二つ目は恋愛小説。僕の一番得意なジャンルかもしれないが、個人的な想いが強すぎて独りよがりになる危険性がある。
 そして三つ目は、家族をテーマにしたような、僕の影の部分を色濃く反映した闇の物語。インパクトは強いが、読者を突き放し、不快にさせるかもしれない。

 陽菜は腕を組んで、うーん、と真剣に考え込んでいる。その表情は恋人というより、まさに編集者のそれだった。
 数分後、彼女は顔を上げた。その瞳には、確かな光が宿っていた。

 「全部、書けばいいんじゃない?」
 「……へ?」
 僕は彼女の意図が理解できず、間抜けな声を上げた。

 「一つに絞る必要、ないよ」
 彼女は僕の目を真っ直ぐに見て、言った。
 「光も、恋も、影も、全部朔なんでしょ? なら、その全部を詰め込んだ物語を書けばいい。光の中にいるからこそ見える影があって、影の中にいるからこそ焦がれる光がある。好きな人がいるからこそ生まれる、孤独や葛藤だってあるはずだよ」
 彼女は僕の三つの原稿を、そっと一つに重ねた。
 「これらは別々の物語じゃない。全部繋がってるんだよ。蒼井朔っていう、一人の人間の大きな物語として」

 その言葉は、僕の心の中にあった分厚い壁を、いとも容易く打ち砕いた。
 どうして気づかなかったのだろう。
 光か、影か。どちらか一つを選ばなければならないと、僕は勝手に思い込んでいた。だが、本当はそのどちらもが僕であり、その両方を描いてこそ僕だけの物語が生まれるのだ。

 「……そっか」
 僕の口から、安堵のため息が漏れた。
 「そうだよな……。ありがとう、陽菜。お前がいてくれて、よかった」
 「どういたしまして!」
 彼女は太陽のように笑った。

 僕の目の前にあった霧が、完全に晴れていく。
 書くべき物語の輪郭が、はっきりと見えた。


 その日から、僕らの執筆生活が始まった。
 それは、今までのどの創作とも違う、過酷で、しかし充実した時間だった。

 学校が終わると、僕は文芸部室に直行し、原稿用紙に向かう。陽菜はその隣で静かに自分の勉強をしたり、僕のために資料を探してくれたりした。僕が一行も書けずに頭を抱えていると、「焦らなくていいよ」と温かいお茶を淹れてくれる。僕が深夜まで執筆に没頭していると、「ちゃんと寝ないと、いい話は書けないよ」と、少し怒ったようなメッセージを送ってくる。
 彼女はまさに最高の共同執筆者として、僕の戦いを支えてくれた。

 陽葵は、「邪魔しちゃいけないッスから!」と言って、僕が執筆中は神谷の指導の元、基礎的な文学理論を猛勉強していた。時折、僕の机にそっと栄養ドリンクを置いていく、その後輩の気遣いが、僕の心を温めた。
 神谷は何も言わなかった。だが、彼が部室の空気を誰にも邪魔されないように守ってくれていることを、僕は知っていた。

 夏が近づき、窓の外から聞こえる蝉の声が、日増しに強くなっていく。
 締め切りまで、あと一ヶ月。

 僕は、僕と僕の大切な人たちの全てを賭けて、インクの海へと深く、深く潜っていく。思うように息ができない。僕が動かすこの右手は正しい方向へと、向かっているのだろうか。人の意見ばかりを気にして、自分の思いを、曲げていないだろうか。頭上に見える。水面を反射している光は、僕の求めているものなんだろうか。仮にその光を得たとして、誰かに影を振り回さないでいれるだろうか。
 その先にどんな結末が待っているのかは、まだ誰にも分からない。
 それでも、僕はペンを止めなかった。


 夏休みが来た。
 それは、高校生にとっては解放の季節であるはずだが、僕にとっては締め切りという名の断崖絶壁に向かってひたすら走り続ける、孤独なレースの始まりだった。
 文学賞の締め切りは、九月一日。

 僕は、ほとんどの時間を自室の机の前で過ごした。エアコンの低い唸り声と、ペンを紙に走らせる音、キーボードを叩く音だけが、僕の世界の全てだった。
 陽菜とのデートも、陽葵や神谷との部活の時間も、全てを返上し、僕は執筆に没頭した。
 物語は僕の予想以上に難産だった。光と影、希望と絶望、愛と孤独。それら全てを一つの物語に織り込もうとすればするほど、プロットは複雑に絡み合い、登場人物たちは僕の制御を離れて勝手に動き出した。

 『ごめん。今日も、会えそうにない』
 『大丈夫だよ。集中して』

 陽菜とのやりとりは、そんな短いメッセージだけになっていた。彼女が気遣ってくれているのは分かっていた。僕の邪魔をしないように、僕が最高の物語を書けるように、一歩引いて見守ってくれている。
 その優しさがありがたかった。そして同時に、僕の胸を締め付けた。
 会いたい。声が聞きたい。他愛のない話をして、笑い合いたい。
 だが、僕にはその資格がない。僕がこの物語を書き上げるまでは。

 八月も半ばを過ぎた頃、僕のスランプは最高潮に達した。
 クライマックスのシーンが、どうしても書けない。伝えたいことはあるのに、言葉がまるで乾いた井戸のように、一滴も出てこない。
 僕は、苛立ち紛れに書きかけの原稿を丸めて、ゴミ箱に投げ捨てた。そんな紙くずの山が、いくつもできる。

 「……くそっ!」
 僕は机に突っ伏して、うめいた。
 もう、だめかもしれない。諦めてしまおうか。
 僕なんかに、全国で通用する物語が書けるはずなんてなかったんだ。

 その時、スマートフォンの通知音が鳴った。
 陽菜からだった。
 『ちょっと、息抜きしない? 今から、少しだけ電話しない?』

 そのメッセージは、砂漠で水を見つけたような救いの光だった。
 僕は震える指で、『ああ』とだけ返信し、通話ボタンを押した。


 「……もしもし?」
 「朔? 大丈夫? 生きてる?」
 受話器の向こうから聞こえてきた、久しぶりの陽菜の声。その、少しからかうような優しい響きに、僕の心の強張りが、ふっと解けていくのが分かった。

 「生きてる?だなんて、失礼だな。けどまぁ……ギリギリ、生きてる」
 「ふふっ。そっか。よかった」
 彼女は、僕が何も言わないのに、全てを察してくれているようだった。
 「煮詰まってるんでしょ」
 「……ああ。クライマックスが、書けないんだ」
 「そっか。……じゃあさ、思い切って今日はもう書くの、やめちゃえば?」
 「え?」

 「朔は、頑張りすぎなんだよ。たまには、頭を空っぽにしないと。……ねえ。今から近くの神社まで、散歩しない? 夜風が気持ちいいよ」
 僕は一瞬ためらった。締め切りは、もう目前だ。こんなことをしている時間はない。
 だが、陽菜の声には逆らえない魅力があった。

 「……分かった。今から行く」

 十分後、僕は神社の境内で、自販機の明かりに照らされる陽菜の姿を見つけた。彼女は僕に気づくと、ぱっと笑顔になった。
 「お疲れ様、朔」
 彼女は、僕に一本の缶コーヒーを差し出した。
 「ありがとう」

 僕たちは拝殿の前の階段に、並んで腰を下ろした。
 夜の神社は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。遠くで、虫の声が聞こえた。
 僕たちは何も話さなかった。ただ、二人で同じ夜空を眺めていた。
 陽菜は、僕の執筆の進捗について、一言も聞かなかった。ただ、隣にいてくれる。それだけで、僕の荒れ狂っていた心が凪いでいくのが分かった。

 「……ごめんな」
 しばらくして、僕がぽつりと言った。
 「夏休み、どこにも連れて行ってやれなくて」
 「ううん」
 彼女は、首を振った。
 「私は平気だよ。朔が自分の夢のために頑張ってるの、一番近くで見てるんだから。邪魔なんて、絶対したくない」
 彼女は、僕の肩に、そっと頭を乗せた。
 「でも、たまにはこうして、ただ隣にいてくれると、嬉しいな」

 その言葉と、肩にかかる彼女の温かさが、僕の心の乾いた部分にゆっくりと染み渡っていく。
 ああ、そうか。
 僕に足りなかったのは、これだったんだ。
 物語の構成でも、美しい比喩でも、斬新な展開でもない。
 ただ君の隣で、静かに夜空を眺める、この穏やかな時間。
 僕が書こうとしていた物語の登場人物たちも、きっと、こんな温かい場所を探していたに違いない。

 「……ありがとう、陽菜」
 僕は彼女の頭に、そっと自分の頭を寄せた。
 「もう大丈夫だ。書ける気がする」

 「うん。信じてる」
 彼女はそう言って、僕の手を優しく握り返してくれた。


 その夜、家に帰った僕は朝まで一心不乱に書き続けた。
 迷いは、もうなかった。
 僕が書くべき結末は、僕と陽菜が今見つけた、この小さな光の中にある。

 八月三十一日。締め切り前日。
 僕は完成した原稿を封筒に入れ、郵便局の窓口で、震える手でそれを差し出した。
 「お願いします」
 僕の夏が、終わった。

 結果がどうであれ、もう後悔はない。
 僕は、僕の全てを、この物語に込めた。
 そして、その物語は僕一人で書いたものではない。陽菜が、神谷が、陽葵が、みんながいてくれたからこそ、生まれたものだ。

 郵便局を出ると、空は秋の気配を帯びた、高く澄んだ青色をしていた。
 僕はスマートフォンを取り出し、陽菜にメッセージを送る。

 『終わったよ。今から、会いに行く』

 僕たちの長い夏が終わり、そして、新しい季節が始まろうとしていた。


 原稿を郵送した翌日から、僕の世界はまるで嵐が過ぎ去った後のように静かになった。
 あれだけ僕の頭を支配していた物語の登場人物たちは、もう僕に語りかけてはこない。机の上の原稿用紙の山も、今はもうない。
 僕は、完全に燃え尽きていた。そして、その燃え殻の中に、ぽつんと一人取り残されたような、不思議な虚無感を抱えていた。

 「お疲れ様、朔」
 始業式の日の放課後。文芸部室の扉を開けると、陽菜がいつもの笑顔で迎えてくれた。机の上には湯気の立つマグカップが二つ、用意されている。
 「ありがとう」
 僕はその一つを受け取り、彼女の向かいの席に座った。カモミールティーなんていう洒落た飲み物の優しい香りが、疲れた心を解きほぐしていく。

 「どう? 少しは、休めそう?」
 「……ああ。でも、なんだか変な感じだ。何もすることがないっていうのが」
 「ふふっ。燃え尽き症候群ってやつだね」
 彼女は楽しそうに笑う。
 「でも、大丈夫だよ。朔の中には、もう新しい物語の種が、ちゃんと生まれてるはずだから」
 「……だと、いいんだけどな」

 僕たちは他愛のない話をした。夏休みの間にあったクラスメイトたちの出来事、新しく駅前にできたカフェの話、秋になったらどこかへ紅葉を見に行こうという計画。
 その全てが、執筆中は遠い世界のことのように感じられた、穏やかで、当たり前の日常だった。
 僕が命を削るようにして守りたかった、この温かい時間。

 部室の扉が開き、神谷と陽葵が入ってきた。
 「お、師匠! 生きてたんスか!」
 「勝手に殺すなよ。死んでると思うなら、もう少し悲しい顔で部室に入ってきてほしいよ」
 「蒼井、顔色が死人のようだが、ちゃんと寝ているか」
 「十時間は寝てる」
 「それは少し、寝すぎなのではないか?」 
 相変わらずのやりとりに、陽菜がくすくすと笑う。

 「で、どうなんだ、蒼井」
 神谷が核心を突いてきた。
 「手応えは」
 僕は、マグカップを持つ手に、ぐっと力を込めた。
 「……分からない。正直、全く。自分の全てを出し切ったことだけは、確かだ。でも、それが他の人にどう読まれるかなんて、想像もつかない」
 「そうか」
 神谷はそれ以上は何も聞かず、静かに頷いた。

 「私は信じてるッスよ!」
 陽葵が拳を握りしめて言った。
 「先輩の物語は、絶対、人の心を動かす力があるッス! だって、私がそうだったんスから!」
 その後輩の真っ直ぐな言葉が、今は素直に、ありがたかった。


 結果発表は、十一月。
 それまでの二ヶ月間は、僕にとって人生で最も長く、奇妙な時間だった。
 期待と不安が、毎日交互に僕の心を揺さぶる。朝、目が覚めた瞬間に「もしかしたら今日、連絡が来るかもしれない」と心臓が跳ね上がり、夜、眠りにつく前に「やっぱり、だめだったんだ」と深い溜息をつく。その繰り返し。際限のないその螺旋に、僕の身体は引きちぎれそうだった。

 そんな僕を、陽菜はただ静かに、隣で見守ってくれていた。
 彼女は決して、「結果、どうだった?」などと急かすようなことは言わなかった。僕が不安で押しつぶされそうになっている夜は、ただ黙って、僕の手を握ってくれた。僕が、ほんの少しだけ前向きな言葉を口にした時は、「うん、そうだね」と、心から嬉しそうに微笑んでくれた。

 彼女の存在がなければ、僕は、この途方もなく長い待ち時間を、乗り越えることはできなかっただろう。
 僕たちはたくさんの時間を共有した。秋風の中を散歩し、一緒に映画を観て、図書室で並んで本を読んだ。それは、夏の間、僕が犠牲にした時間を取り戻すような、濃密で、かけがえのない日々だった。

 ある日の放課後、僕たちは河原のベンチに座って、ただ夕日を眺めていた。
 「ねえ、朔」
 陽菜が、ぽつりと言った。
 「もし、もしだよ。今回の賞が、ダメだったとしても……朔は小説、書き続けるよね?」
 それは、僕が心のどこかで、ずっと恐れていた質問だった。

 僕はオレンジ色に染まる彼女の横顔を見つめながら、静かに、しかしはっきりと答えた。
 「……ああ。書き続けるよ」
 「そっか。よかった」
 彼女は、心から安堵したように、微笑んだ。その表情は、嬉しさという表情とは別の、形容し難い何かだった。

 「別に、賞が全てじゃないんだ」
 僕は、自分自身に言い聞かせるように、言葉を続けた。
 「俺は、俺が書きたいから書く。そして……読んでほしい人が一人でもいる限り、俺は書き続けるんだと思う」
 僕の視線の先には、陽菜がいた。

 彼女は何も言わなかった。
 ただ、僕の言葉を、世界で一番優しい顔で受け止めてくれていた。けれど、どこかその顔には哀しみの色が見えたのは、きっと気のせいだ。



 そして、運命の日はあまりにも突然に訪れた。
 十一月最後の金曜日。
 放課後、部室でいつものように四人で談笑していると、僕のスマートフォンの画面が見知らぬ番号からの着信を告げた。
 東京の市外局番だった。

 部室の空気が、一瞬で凍りつく。
 四対の瞳が、僕のスマートフォンに突き刺さる。
 ゴクリ、と誰かが唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。

 僕は、震える指で通話ボタンを押した。
 耳に当てたスマートフォンから聞こえてきたのは、知らない大人の、落ち着いた男性の声だった。

 「もしもし。蒼井朔さんのお電話でよろしいでしょうか」
 「……はい、そうです」
 「わたくし、文芸雑誌『新鋭』編集部の、氷室と申します。この度は、弊社の文学賞にご応募いただき、誠にありがとうございます。選考の結果……」

 僕は息を止めた。
 陽菜が祈るように、ぎゅっと僕の手を握る。
 その温かさを感じながら、僕は、僕の物語がたどり着いた、運命の言葉を待っていた。


 「選考の結果……蒼井さんの作品は、最終選考委員の皆様からも非常に高い評価をいただきました。しかし誠に残念ながら、今回は受賞には至りませんでした」

 スマートフォンの向こう側で、編集者の氷室と名乗る男性が、丁寧な、しかし非情な言葉を紡いでいく。ナイフにオブラートを覆っても、オブラートが切れていくように、その言葉に僕は傷ついた。
 僕はただ「はい」と「分かりました」を繰り返すだけだった。
 電話が切れる。しん、と静まり返った部室。陽菜、神谷、陽葵の三対の瞳が、僕に突き刺さる。

 僕はゆっくりと顔を上げた。そして、練習してきたかのように、できるだけ自然に、肩をすくめてみせた。
 「――だめだった」

 その一言で、部屋の空気が重く沈んだ。
 「そ、そんな……」
 陽葵の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。神谷は、黙って僕の顔を見つめ、やがて「そうか」とだけ短く呟いた。

 僕の視線は、陽菜へと向かう。彼女は言葉を失い、自分のことのように、顔を真っ青にしていた。その唇が、小さく震えている。
 僕はそんな彼女を見て、たまらない気持ちになった。僕のせいで、君にそんな顔をさせている。
 僕は、彼女を安心させなければならなかった。

 「まあ、分かってたけどな。ぶっちゃけ」
 僕は、努めて明るい声を出した。
 「最終選考まで残っただけでも、奇跡みたいなもんだ。全国の壁は厚いってことだよ。むしろ趣味の域を出ていない俺が受賞したら、それはそれで真剣に夢を追ってる人にも、申し訳ないしな」

 だが、僕の言葉は彼女には届かなかった。
 陽菜の大きな瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。
 「……そんなこと、ない。あんなに、あんなに、頑張ったのに……」
 その心からの悲しみに、僕はどうしようもなく焦った。違うんだ。君にそんな顔をしてほしくて、言ったんじゃない。

 「おいおい、そんな悲しむなよ」
 僕は茶化すように、彼女の頬を指で軽くつついてみせた。僕にできる、精一杯の慰めのつもりだった。
 「主役より、悲しんでどうするんだ?」

 その瞬間、陽菜はまるで知らない人を見るかのような目で、僕を見た。
 呆気に取られている。僕の言葉も、行動も、今の彼女には、何一つ届いていない。
 まずい、と思った。僕は、また選択を間違えようとしている。


 その日の帰り道。僕と陽菜は二人きりだったが、そこには重い沈黙だけが流れていた。
 このままではいけない。僕はこの気まずい空気を、なんとかしなければならないと思った。僕の得意なやり方で。つまり、道化を演じることで。

 「まあ、でもさ! これでよかったんだよ、きっと!」
 僕はわざと大きな声を出して、元気に振る舞った。
 「賞なんて取っちゃったら、天狗になって、勉強しなくなるかもしれないしな! これですっぱり諦めがついて、受験勉強に集中出来るわ!」

 我ながら、完璧なジョークのつもりだった。これで陽菜も少しは笑ってくれるだろう。
 だが、彼女はぴたりと足を止めた。
 またしても、信じられないという表情で、僕の顔を見上げた。

 「……どうして、そんなに平気そうなの?」
 彼女の声は震えていた。
 「……悔しく、ないの?」

 「いや、悔しいけどさ。でも、仕方ないだろ。終わったことなんだから。切り替えていかないと」
 「切り替える……?」
 陽菜の言葉に、だんだんと怒りの色が混じり始める。

 「違う……! 違うよ、朔!」
 彼女は、叫ぶように言った。
 「あれは、ただの応募作品じゃない! 朔が、夏休みを全部かけて、魂を削って書いた物語だよ! 私だけじゃない、神谷くんだって、陽葵ちゃんだって、みんなが朔の帰りを、信じて待ってた! なのに、どうして……!」

 彼女の瞳から、涙が堰を切ったように溢れ出す。
 「どうして、そんなに平気なの!? まるで、全部がどうでもよかったみたいに……! 私たちが一緒に過ごしたあの時間まで、無駄だったみたいに言わないでよ!」

 「けれど、これで終わりじゃないだろ?文芸部としては終わりかもしれないけど、俺はまだ描くんだ。約束、しただろ?」
 無駄だったなんて、思ってない。どうでもいいなんて、思ってない。
 悔しくて、死にそうだ。心臓が、張り裂けそうだ。でも、それを君に見せたら、君はもっと悲しむだろう? だから僕は、笑って……

 「私の信じた、蒼井朔は……!」
 陽菜が何かを叫ぼうとした、その時だった。

 「……っ、ごほっ、ごほっ!」

 彼女は突然、激しく咳き込み始めた。それは、ただの咳ではなかった。息もできないような、苦しげな、発作的な咳だった。
 「陽菜!?」
 彼女の体から、ふっと力が抜ける。僕は、慌ててその体を支えようとしたが、間に合わなかった。
 陽菜はその場に、崩れるように倒れ込んだ。


 「陽菜! しっかりしろ、陽菜!」
 僕はパニックになりながら、彼女の隣に膝をついた。彼女はアスファルトの上で、ぜえぜえと苦しそうに肩で息をしている。顔は真っ青だった。
 「大丈夫か!? 背中、さするぞ!」
 僕は心配で、彼女の背中に手を伸ばした。

 パシン!

 乾いた音が響いた。
 陽菜が、僕の手を、力いっぱい叩いたのだ。
 彼女は涙と、苦痛に歪んだ顔で、僕を睨みつけていた。その瞳が、はっきりと告げていた。

 ――あなたにだけは、触られたくない。

 僕は叩かれた手を見つめたまま、凍りついた。
 僕の冗談は、君を笑わせるどころか、君の心を、そして体までをも、深く傷つけてしまった。
 どうして、いつもこうなんだ。
 僕の言葉は、どうして、一番届けたい相手にだけ、届かないんだ。

 遠くで、救急車のサイレンの音が聞こえ始めた気がした。