二度目の春が来た。
 去年の春、僕はこの同じ通学路を世界に対する絶望と、分厚い嘘の鎧を抱えて一人で歩いていた。だが、今年の春は違う。
 僕の左隣には、陽菜がいた。僕の左手は、彼女の温かい右手と、ごく自然に繋がれている。

 「桜、今年もきれいだね」
 陽菜が空を見上げながら言う。舞い散る花びらが、彼女の髪にふわりと舞い降りた。僕は、そっとそれを指で取ってやる。彼女は少し照れたように「ありがとう」と笑った。
 なんでもない、穏やかな時間。
 文化祭のあの日、僕の告白を陽菜が受け入れてくれてから、僕たちの関係はゆっくりと様々な形に変容し、しかし確実に形になっていった。冬休みが終わり、三学期が始まる頃には、僕たちは正式に恋人として、この道を並んで歩くようになっていた。

 校門の前で、新入生たちが緊張した面持ちで記念写真を撮っている。
 「去年は、私たちもあんな感じだったね」
 陽菜が懐かしそうに目を細める。
 「……そうだな」
 僕は頷いた。だが、心の中は全く違う。去年の僕は、希望に満ちた新入生たちの中で、一人だけ未来を呪っていた。今の僕の心は、春の陽だまりのように穏やかで満たされている。
 それは全て、隣で微笑んでくれる君のおかげだった。

 僕たちは、先輩になった。
 その事実がくすぐったくもあり、僕たちの確かな成長の証のようにも感じられた。


 新入生を迎え、学校は部活動の勧誘で活気に満ち溢れていた。
 放課後、僕と陽菜、そして神谷は文芸部の部室で新入生を待っていた。とは言っても運動部のような派手な勧誘もできず、ただ机に去年の部誌『青藍』を並べているだけだ。

 「……誰も来ないな」
 神谷がため息混じりに言う。
 「まあ、仕方ないよ。文芸部は人気ないし」
 僕が苦笑していると、陽菜が「そんなことないよ! 『青藍』、すごく良かったもん! きっとこれに感動した子が入ってくれるよ!」と僕たちを励ましてくれた。彼女は自分のことのように、僕たちの部活を応援してくれている。

 その時だった。
 部室の扉が、爆発するような勢いでガラッと開いた。

 「失礼しますッス!」

 そこに立っていたのはショートカットがよく似合う、大きな瞳をきらきらさせた小柄な女子生徒だった。その全身から有り余るエネルギーが溢れ出している。
 僕たち三人が呆気に取られていると、彼女は部屋の中を見渡し僕の顔を見るなり、「あっ!」と星が弾けるような声を上げた。

 「見つけましたッス! 蒼井朔先輩!」
 彼女は一直線に僕の元へと駆け寄ってきた。
 「わ、私、一色陽葵(いっしき ひまり)って言います! 先輩の『夏夜』を読んで、めちゃくちゃ感動しましたッス! 私をこの文芸部に入れてくださいッス!」
 その口調は体育会系のそれだった。一息にそう言うと、彼女は深々と頭を下げる。

 「え、あ、うん……」
 僕はその圧倒的な熱量に、ただ戸惑うばかりだった。
 陽葵と名乗った後輩は、がばっと顔を上げると、自分のカバンから一冊の本を取り出した。それは少しよれた『青藍』だった。
 「私、中学の時ここの文化祭に来て、これを読んだんス! 特にこの『夏夜』! 何回も、何回も読んだッス! あの花火のシーンの、『光の残像が、瞼の裏で第二の人生を始める』って一文! 天才かと思ったッス!」

 彼女の瞳は、尊敬と憧憬で爛々と輝いている。
 僕がずっと恐れていた、読者の反応。軽蔑でも、幻滅でもない。それは、僕が想像したこともなかった、あまりにも真っ直ぐで熱烈な「崇拝」だった。


 一色陽葵は、その日のうちに文芸部に入部した。
 そして、僕の穏やかだった日常は、小さな嵐に見舞われることになる。

 「先輩! 今、何読んでるんスか!? 私にも見せてくださいッス!」
 「先輩! 今回の部誌のテーマ、何がいいと思いますか!? やっぱり『恋』ッスか!?」
 「先輩! 私も、先輩みたいな小説が書きたいッス! コツを教えてくださいッス!」

 陽葵は四六時中、僕の後ろをついて回るようになった。彼女の底抜けの明るさと、文学に対する純粋な情熱は、静かだった部室の空気を一変させた。
 神谷は「騒がしいが、やる気だけは認めよう」と静観し、陽菜は「すごいね朔! カリスマだ!」と面白そうに笑っている。

 だが、僕の心境は複雑だった。
 陽葵が崇拝しているのは、『夏夜』を書き上げた光の世界の「蒼井朔」だ。僕の内側にある、あの黒いノートに満ちたどろどろとした闇のことなど、彼女は何も知らない。
 彼女の純粋な憧憬の視線を受けるたび、僕は自分がまた嘘をついているような、詐欺師になったような気分に苛まれた。

 その日の帰り道。陽菜と二人、夕暮れの道を並んで歩く。
 「陽葵ちゃん、すごいね。朔のこと、本当に尊敬してるんだ」
 「……ああ。ありがたいけど、少し、どうしていいか……」
 「ふふっ、照れてるの?」
 陽菜が僕の顔を覗き込んで、からかうように笑う。
 「そういうわけじゃ……」
 「でも、よかったじゃない。朔の物語が、ちゃんと人に届いてるって証拠だよ。私、すごく嬉しいな」
 彼女は、心からそう言ってくれているのが分かった。その笑顔に嘘はない。

 でも、僕にはどうしても、小さな棘が心に刺さったように感じられた。
 陽葵が僕に向ける「尊敬」と、陽菜が僕に向ける「愛情」。
 どちらも僕が書いた物語から生まれたものだ。だが、その二つの感情は似ているようで、全く違うものだった。
 そして、その違いがこれから僕たちの穏やかな関係にどんな波紋を広げていくことになるのか。

 二度目の春。
 僕たちの物語は新たな登場人物を迎え、少しだけ複雑な様相を呈し始めていた。



 陽葵が入部してからというもの、文芸部は彼女のエネルギーを中心に回っているようだった。
 彼女は言われたことは何でもスポンジのように吸収し、毎日数ページの掌編を書いてきては、僕に「師匠! ご指導ご鞭撻をお願いしますッス!」と提出するのが日課になっていた。
 その作品は技巧的には未熟だったが、彼女の性格をそのまま映したように真っ直ぐで、生命力に溢れていた。僕が失ってしまった、初期衝動のきらめきがそこにはあった。

 「陽葵ちゃん、すごい集中力だね」
 部室の長机で、僕の隣に座った陽菜が感心したように呟いた。対面の席では、陽葵が唸り声を上げながら、必死に原稿用紙と格闘している。
 「ああ。少し、眩しいくらいだ」
 僕がそう言うと、陽菜は僕の顔を覗き込んだ。
 「もしかして、プレッシャー?」
 「……少し、な」
 僕は苦笑するしかなかった。後輩の、しかも熱烈な信奉者の前で、下手なものは書けない。その気負いが、僕の筆を鈍らせていた。

 僕は陽菜にだけ読ませるつもりで、新しい短編を書き進めていた。
 それは、僕と陽菜の関係をベースにした、穏やかで少し切ない恋愛小説だった。僕にとっては陽菜へのラブレターのような、パーソナルな作品だ。

 「師匠! ちょっと行き詰まったんで、気分転換に師匠の新作、読ませてくださいッス!」
 僕がノートに万年筆を走らせていると、陽葵が背後からひょっこりと顔を覗き込んだ。
 「わ、だめだ!」
 僕は反射的にノートを閉じて胸に抱えた。
 「えー! なんでッスか!? けちッス!」
 陽葵は唇を尖らせて抗議する。
 「これは、まだ誰にも見せられない」
 「私、師匠の二番目の読者になりたいんスよ! 一番は陽菜先輩だって分かってますから!」
 彼女は、僕と陽菜の関係をちゃんと理解していて、普段は陽菜がいる前では僕に過度に接近することはなかった。だが、創作のこととなると、その遠慮が吹っ飛んでしまうらしかった。

 「ごめん、陽葵ちゃん」
 僕の代わりに陽菜が優しく言った。
 「このお話はね、もう少しだけ、朔と私の二人だけの秘密にさせてほしいな」
 その言葉には、僕の恋人であるという、穏やかだが確かな主張が込められていた。
 「むむ……分かりましたッス!」
 陽葵は不満そうだったが、陽菜にそう言われては引き下がるしかなかったようだ。「じゃあ完成したら、絶対二番目に読ませてくださいッスよ!」と念を押して、自分の席に戻っていった。

 僕は陽菜に「助かった」と目配せした。彼女は「任せて」といたずらっぽく笑う。
 その時は、それで終わるはずだった。
 僕も陽菜も、陽葵の真っ直ぐな情熱の裏にある、純粋さ故の危うさに、まだ気づいていなかった。


 事件が起きたのは、数日後のことだった。
 その日、陽菜は委員会で部活を休んでいた。部室には、僕と神谷、そして陽葵の三人だけ。いつもより少し静かな空間で、それぞれが創作に打ち込んでいた。

 僕が少し席を外して、トイレから戻ってきた時だった。
 陽葵が僕の机の上に置いてあったノートを、熱心に読み込んでいる姿が目に飛び込んできた。
 それは、僕が陽菜のために書いていた、あの恋愛小説だった。

 「何してるんだ」
 僕の低い声に、陽葵の肩が大きく跳ねた。彼女は恐る恐る顔を上げる。その顔は、罪悪感ではなく、興奮と感動で真っ赤に紅潮していた。
 「せ、先輩……! これ……!」
 彼女は、ノートを胸に抱きしめて、立ち上がった。
 「最高ッス! 最高傑作ッスよ、師匠! 『夏夜』を超えました! この切なさ、この胸の痛み……! 私、読んでて、涙が止まらなかったッス!」
 彼女の瞳は潤んでいた。それは、文化祭の日の陽菜の涙とは違う。もっと熱狂的で、物語の登場人物に自分を重ね合わせたような、危うい光を宿していた。

 「……誰が、読んでいいと言った?」
 僕は怒りで声が震えるのを抑えられなかった。これは、僕と陽菜の、二人だけの物語だった。それを、土足で踏みにじられたような気分だった。
 「だって! こんな傑作、読んだら絶対師匠の力になるって、陽菜先輩が!」
 「陽菜が?」
 「はい! 『朔は今すごく大事なものを書いてるから、陽葵ちゃんの力で、そっと背中を押してあげてほしい』って! だから私は師匠のためを思って……!」

 陽葵の言葉に、僕は頭を殴られたような衝撃を受けた。
 陽菜が? 陽菜が、陽葵にこれを読めと?
 そんなはずはない。彼女は、これが僕たちの「二人だけの秘密」だと言っていたじゃないか。

 僕の心の中に、黒い疑念が渦を巻いた。
 陽菜は僕がスランプに陥っているのを気にして、陽葵の熱狂的な賛辞を促進剤として使おうとしたのか? 僕の創作を、僕たちの関係を、コントロールしようとしているのか?
 ありえない。そんなことを、陽菜がするはずがない。
 だが、陽葵の言葉はあまりに具体的で、嘘とは思えなかった。

 「……今日は、もう帰る」
 僕は陽葵の手から乱暴にノートをひったくると、それだけを言い捨てて部室を飛び出した。
 後ろで、陽葵の「師匠!」と叫ぶ声と、神谷の「面倒なことになったな」と呟く声が聞こえた気がした。


 帰り道、僕は陽菜にメッセージを送った。
 『今日、陽葵に俺のノートを読ませようとしたのか』
 すぐに返信が来た。
 『え? どういうこと? 私、何も知らないよ』

 その返信を見て、僕の混乱はさらに深まった。
 陽葵が僕を焚きつけるために、陽菜の名前を使って嘘をついたのか?
 それとも、陽菜が僕にバレたことで嘘をついているのか?

 どちらにせよ、事態は最悪だった。
 僕と陽菜と陽葵。三人の関係は、一つの「物語」を巡って複雑に絡み合い、きしみ始めていた。

 僕が陽菜のために書いたはずの、光の物語。
 それが今、僕たちの間に濃く、冷たい影を落とそうとしていた。
 僕は、自分の物語が、またしても大切な人を傷つける凶器になってしまったことを、ただ絶望的な気持ちで受け止めるしかなかった。



 陽葵が僕のノートを盗み読んだ、その翌日。
 僕は一つの仮説を胸に、学校へ向かった。それは、考えたくもない最悪の可能性だった。

 昼休み。陽菜は「ごめん、今日、委員会があるから!」と言って、慌ただしく教室を出て行った。僕は、その背中を、何も言わず見送る。これは昨日僕が見た風景。
 そして今日の放課後、僕は文芸部室で昨日のことについて陽葵を問い詰めた。

 「どうして、俺のノートを読んだ」
 僕の静かな問いに、陽葵はびくりと体を震わせた。
 「そ、それは……師匠のためを思って……!」
 「誰に、そうしろと言われたんだ」
 「……陽菜、先輩にッス」
 彼女は俯きながら、しかしはっきりとそう言った。
 「いつだ」
 「昨日の、お昼休みッス。『朔は今、すごく大事なものを書いてるから、陽葵ちゃんの力で、そっと背中を押してあげてほしい』って、言われたんス!」

 パズルのピースが、僕の頭の中でカチリと音を立ててはまった。
 陽葵が言った時間。昨日の昼休み。
 陽菜が、委員会でいなかったはずの時間だ。二人は委員会が違うから、委員会の時に話した、はありえない。

 僕の心は、急速に冷えていった。どちらかが嘘をついている。天真爛漫な後輩か、それとも、僕が世界で一番信じていた恋人か。
 僕は真実を確かめるための、静かな罠を仕掛けることにした。


 翌日の放課後。文芸部室。
 僕と陽菜、そして陽葵の三人が偶然にも顔を合わせた。神谷はまだ来ていない。
 僕は努めて穏やかな声で、陽菜に話しかけた。
 「陽菜。一昨日の昼の委員会、どうだった?」

 陽菜は僕が話しかけてきたことに少し驚いたようだったが、すぐににこやかに答えた。
 「うん、結構大変だったよ。今年の文化祭とかで、色々話し合って」
 「そうか。お疲れ様」
 僕はそれだけ言うと、今度は陽葵の方へ向き直った。

 「陽葵。お前が俺のノートを読むよう言われたのは、いつだ?」

 陽葵は、びくりとしながらも、正直に答える。
 「一昨日の、昼休みッス!」
 「そうか。……それで、誰に読めと言われたんだ?」

 僕の視線は、陽葵に向けられていた。だが、その質問が本当は誰に向けられたものなのか、この部屋にいる全員が理解していた。
 陽葵は何も知らずに、真実を口にする。
 「はい! 陽菜先輩に言われたッス!」

 その瞬間、部室の空気が凍りついた。
 僕はゆっくりと、陽菜の方を見た。

 彼女の顔から、血の気が引いていた。みるみるうちに、その表情は青ざめていく。彼女は、僕の仕掛けた罠に、完全にかかっていた。
 僕が彼女の嘘を知っていることに、気づいたのだ。

 「朔……違うの、これは……」
 陽菜は必死に言葉を探しているようだった。
 「あなたが、スランプみたいだったから……すごく、苦しそうだったから、心配で……! 陽葵ちゃんのストレートな感想がきっと、朔の刺激になるって、そう思って……!」

 それは弁解であり、同時に彼女の行動の動機を明らかにする、自白だった。
 僕は怒りを感じなかった。
 ただ、どうしようもなく悲しかった。


 「……信じて、くれなかったんだな」
 僕の口から、静かな言葉がこぼれた。
 「俺のこと」

 陽菜がはっとしたように顔を上げる。
 「違う! 信じてる! 信じてるからこそ、早く元気になってほしくて……!」
 「違うよ、陽菜」
 僕はゆっくりと首を振った。
 「君は、俺を信じてなかった。俺が自分の力で、このスランプを、この壁を乗り越えられるって、信じてくれなかったんだ」

 僕が光と闇の両方を抱えながら、それでも前に進もうとしていることを。その苦しみさえも、僕の創作に必要なのだということを。君は、理解しようとしてくれなかった。
 君は僕を、光の中にだけいさせようとした。僕の闇を、恐れた。

 「一番の読者だって、言ってくれただろ」
 僕は続ける。
 「読者は作者を信じるのが仕事だ。面白いとか、つまらないとか、その前に、まず信じることから始まる。じゃないと手に取らないだろ?……君は読者じゃなく、編集者になろうとしたんだ。俺の物語を、君の望む方向にコントロールしようとした」

 陽菜の瞳から涙が溢れた。彼女は何も言い返せない。
 僕の言葉が、真実だったからだ。

 僕は自分のカバンを手に取ると、静かに立ち上がった。
 陽葵が事態の深刻さにようやく気づき、「わ、私のせいで……ごめんなさいッス……!」と泣き崩れている。
 だが、もう僕の心には何も響かなかった。

 「ごめん、陽菜」
 僕はドアの前で立ち止まり、一度だけ彼女の方を振り返った。
 「君が俺を信じてくれないなら、俺は君のために物語を書くことができない」

 そして、僕が僕自身の心を守るための、最後の言葉を告げた。

 「少し、距離を置こう」

 僕が部室の扉を閉めると同時に、陽菜の嗚咽が壁の向こう側からくぐもって聞こえてきた。
 僕が信じた少女は、僕の知らないところで僕のためを思う嘘をついた。
 その優しくて、残酷な嘘が、僕たちの物語を今、完全に引き裂いてしまった。


 「距離を置こう」
 僕がそう告げた日から、僕たちの世界からは音が消えた。
 僕と陽菜は同じ教室の近くの席で、まるでそこに存在しないかのように互いを扱った。休み時間に目が合えば陽菜は怯えたように視線を逸らし、僕は心を無にして窓の外を眺めた。かつて心地よかった四十五センチの距離は、今や見えない壁となり、僕たちの間に氷のようにそびえ立っていた。

 放課後、一緒に帰ることもなくなった。僕は文芸部室へ、彼女はクラスの友人たちの元へ。僕たちが共有していた夕暮れの河原も、図書室の片隅も、今はもう、ただの痛みを伴う記憶の風景でしかない。
 クラスメイトたちは僕たちの間の決定的な断絶に気づき、腫れ物に触るように接してきた。陽菜の友人たちは、廊下ですれ違うたびに僕を非難するような目で見た。彼女たちがそう思うのも当然だった。事情を知らない人間から見れば、僕が一方的に陽菜を振ったようにしか見えないのだから。

 僕は何も弁解しなかった。
 僕が彼女を信じられなかったこと、そして、彼女が僕を信じなかったこと。そのどちらがより重い罪なのか、僕にはもう分からなかった。

 文芸部室では、陽葵が何度も僕に謝罪してきた。
 「私のせいッス! 本当に、ごめんなさいッス!」
 泣きながら頭を下げる彼女に、僕は「お前のせいじゃない」としか言えなかった。彼女はただの触媒だ。僕と陽菜の関係は彼女がいなくても、いつかはこの脆さを露呈していたのかもしれない。そう思うと彼女を責める気にはなれなかった。

 一番の変化は、僕の机の上にあった。
 ペンが全く進まないのだ。
 陽菜という読者を失った僕の物語は、完全に道を見失っていた。光の物語を書こうとすれば彼女の悲しい顔がちらついて言葉が偽善に変わる。闇の物語を書こうとすれば彼女を傷つけた罪悪感がペンを鉛のように重くする。

 僕のノートは、空白のままだった。
 僕の物語のプロットには、君がいない。
 君のいないプロットの上で、僕は一行も、書くことができなかった。


 二学期の期末テストが終わり、終業式が近づく頃。街は去年に見たのと同じイルミネーションで輝き始めた。だが、その光は今の僕の目にはどこか虚しく色褪せて見えた。

 その日の放課後。部室で一人空白のノートを睨みつけている僕に、神谷が静かに声をかけた。
 「これが、お前の出した結論か」
 僕は顔を上げなかった。
 「……何の話だ」
 「白々しい。お前が書いた『君のためのプレリュード』の、次の楽章のことだ。まさか、白紙のまま終わらせるつもりか?」

 彼の言葉には、棘があった。
 「……書けないんだよ」
 「なぜだ」
 「……意味が、ないからだ。読者がいない物語に、意味はない」

 それを聞いた瞬間、神谷は僕が今まで見たこともないほど、軽蔑に満ちた目で僕を見た。
 「傑作だな」
 彼は吐き捨てるように言った。
 「お前が書いているのは、恋愛小説ごっこか? 読者がいなければ書けないなど、それは作家ではなく、ただの承認欲求の塊だ」

 僕は彼の言葉に激昂した。
 「お前に何が分かる!」
 「分かるさ。お前は自分の悲しみに酔っているだけだ。陽菜さんに裏切られた、哀れな主人公。そうやって自分を物語の中に閉じ込めて、現実から逃げている。違うか?」
 図星だった。僕は何も言い返せない。

 神谷は僕の机の前に立つと、空白のノートを指さした。
 「陽菜さんがお前のプロットを勝手に編集しようとしたことに、お前は腹を立てた。だが、今のお前がやっていることはそれ以下だ。お前は彼女のたった一つの過ちを理由に、物語そのものを放棄している。結末を書くことから、逃げているんだ」

 彼の言葉が、僕の心の最も痛い部分を容赦なく抉っていく。
 「……じゃあ、どうしろって言うんだ」
 僕の声はか細く震えていた。

 「書けよ」
 神谷は静かに、しかし力強く言った。
 「たとえ読者がいなくても、書け。お前が今感じている、その悲しみも、絶望も、怒りも、後悔も、全て言葉にしろ。それがお前の武器だろうが。書くことから逃げたお前に、作家を名乗る資格はない。そして……」

 彼は一度言葉を切ると、僕の目を真っ直ぐに見て続けた。
 「彼女との物語を、悲劇のまま終わらせるな。蒼井」


 神谷が部室から出て行っても、僕はしばらくその場を動けなかった。
 彼の言葉が、頭の中で何度も反響する。
 『彼女との物語を、悲劇のまま終わらせるな』

 僕は自分の空白のノートに視線を落とした。
 本当に、このままでいいのか。陽菜が僕を裏切り、僕が彼女を突き放し、二人の関係が壊れたまま、全てを終わらせてしまっていいのか。
 それはあまりに救いがなく、あまりに悲しい結末じゃないか。

 僕はペンを握った。
 まだ、何を書くかは決まっていない。
 陽菜が許してくれる保証も、僕たちが元に戻れる保証も、どこにもない。
 だが、それでも。

 僕は書かなければならない。
 僕たちの物語の、次の章を。
 たとえそれが、ハッピーエンドではなかったとしても。僕が、僕自身の言葉で、この物語に一つの結末を与えるんだ。

 僕は空白のページに、最初の一行を、ゆっくりと、しかし確かな力で書き始めた。
 それは僕の贖罪であり、僕の決意表明だった。
 君のいない季節の中で、僕はもう一度、君のための物語を、書き始めようとしていた。


 僕の仕掛けたささやかな罠。
 陽菜が僕の嘘を知り、僕が彼女の嘘を知る。僕たちが互いに信じられなくなった、あの最悪の出来事の後。
 僕は、彼女との関係を修復するための、たった一つの方法しか知らなかった。
 物語を書くことだ。僕の全てを込めた物語を、彼女に読んでもらうこと。

 冬休みを全て捧げて書き上げた『終章、そして序章』。
 主人公は、影だけを使って絵を描く画家だった。彼は自分の影の色合いを誰よりも深く愛していたが、同時に、その影が誰かを飲み込んでしまうことを恐れてもいた。
 そんな彼の前に、光から生まれたような少女が現れる。少女は、画家の描く影の絵を「きれいだ」と言ってくれた、初めての人間だった。
 画家は少女のために、生まれて初めて「光」の絵を描こうと試みる。少女の笑顔を、陽だまりの暖かさを、彼は必死にカンヴァスに写し取った。
 だが、画家の本質は影だった。光を描き続けようとするうちに、彼の絵からは魂が失われ、彼は描けなくなってしまう。
 それを見た少女は悲しんだ。そして、彼を助けたい一心で、彼の影のアトリエに大量の光を持ち込んでしまう。「あなたの影に光を混ぜれば、もっと素敵な色が生まれるはずよ」と信じて。それは酷く純粋で、無垢であった。
 しかし、影と光はただ混ざり合って、汚い灰色を生み出すだけだった。画家の愛した影も、少女が愛した光も、全てがその意味を失ってしまった。絶望した画家は、少女の前から姿を消す――。

 僕はその原稿を神谷に託し、陽菜の机に『読んでほしい』とだけ書いたメモを忍ばせた。
 一年生のの時と同じだ。僕が書いた物語を、君が読む。そして、僕たちの関係は再生される。僕は無意識のうちに、その成功体験にすがっていたのかもしれない。

 部誌『青藍』の最新号が発行された日、僕は一日中、針の筵に座っているような気分だった。
 放課後、僕は文芸部室で机に積まれた部誌の束を、祈るような気持ちで見つめていた。
 陽菜は来るだろうか。僕のメモを読んで、ここに僕の物語を読みに来てくれるだろうか。

 数人の生徒が部誌を取りに来た後、部室の扉が静かに開いた。
 そこに立っていたのは、陽菜だった。
 僕の心臓が大きく跳ねる。彼女は、一人だった。

 来た。来てくれた。
 僕は安堵と期待で、胸が張り裂けそうだった。
 彼女は僕の存在に気づくと、まっすぐにこちらへ歩いてくる。僕は、彼女が部誌の積まれた机の前で足を止めるのだと思っていた。

 だが、違った。
 陽菜は、部誌には一瞥もくれず、僕の目の前で、ぴたりと足を止めた。
 そして、僕が想像していたのとは全く違う、静かで、しかしどこまでも強い意志を宿した瞳で、僕を見つめた。


 「朔。メモ、読んだよ」
 彼女は、落ち着いた声で言った。
 「この部誌に、私のために書いた物語が載ってるんだよね」
 「……ああ」
 僕は頷くのが精一杯だった。

 さあ、読んでくれ。そして僕の本当の気持ちを、僕の懺悔と後悔と、それでも捨てきれない君への想いを、分かってくれ。
 僕がそう念じた、次の瞬間。
 彼女の口から出たのは、僕のプロットを根底から覆す、たった一言だった。

 「でも、読まない。ごめんね」

 ――読まない?
 僕は彼女の言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
 「……どうして、だ?」
 僕の声は自分でも驚くほど、かすれていた。
 僕が全てを賭けて書いた物語を、君は、読んですらくれないというのか。

 陽菜は悲しそうに、でも、決して揺らがない瞳で、僕を見た。
 「もう、やめたいんだ。物語を通して、話をするの」

 その言葉は、僕の頭を鈍器で殴られたような衝撃を与えた。
 「どういう、ことだ……?」

 「文化祭の時、朔の『夏夜』を読んで、本当に嬉しかった。朔の世界に触れられた気がして。でもね、私たちはいつの間にか、朔が書いた言葉に頼ってばかりいたんだよ」
 彼女は一度息を吸い込むと、僕たちの過ちを一つ一つ、言葉にしていく。
 「私が朔の本心が分からなくて不安になったのも、朔が私のことを信じられなくなったのも、全部……全部私たちが本当の言葉で向き合ってこなかったからだよ」

 彼女の言う通りだった。
 僕は自分の本心を、いつだって物語というフィルターを通して彼女に伝えてきた。それは僕にとっての誠意の示し方だったが、同時に傷つくことから身を守るための、臆病な鎧でもあった。

 「朔がどんなに素敵な物語を書いてくれても、それは朔が書いた『物語』だよ。私が本当に知りたいのは……私が、本当に話したいのは……」
 彼女の瞳から一粒、涙がこぼれ落ちた。
 「私の目の前にいる、蒼井朔。あなたの生身の言葉なの」


 彼女は僕の武器を、僕の唯一の拠り所を、僕の前から奪い去った。
 そして、丸裸になった僕に最後の問いを投げかける。

 「だから、朔」
 彼女は涙を拭い、ほんの少しだけ微笑んだ。
 「今度は物語じゃなくて、あなたの口から直接、聞かせてほしい」

 僕の心臓が、大きく鳴った。

 「あなたが今、何を考えているのか。私がしたことを、どう思っているのか。そして……私たちのこと、これからどうしたいのか」

 僕は言葉を失った。
 ペンを握れば、いくらでも言葉を紡ぎ出すことができる。だが、君を目の前にして、自分の口から本当の気持ちを伝える?
 それは、僕が人生で最も苦手とし、最も避けてきたことだった。

 陽菜は、僕の答えを静かに待っている。
 彼女は僕に最後のチャンスをくれているのだ。物語という鎧を脱ぎ捨て、一人の人間として彼女と向き合うための、最後の機会を。

 部室の窓から、夕暮れの光が差し込んでいる。
 それはまるで、舞台の幕が上がるのを告げるスポットライトのようだった。
 僕と君の、本当の物語。
 そのプロットは今、完全に白紙に戻された。


 長い、長い沈黙が流れる。
 僕の頭の中では、何千、何万という言葉が、渦を巻いては消えていく。気の利いた比喩も、美しい情景描写も、今は何一つ思い浮かばない。
 僕は、ゆっくりと震える唇を開いた。

 「……怖いんだ」

 それが、僕の口からこぼれ落ちた、最初の本当の言葉だった。
 「自分の言葉で話すと、全部が陳腐で、嘘になりそうで……。俺が本当に感じていることの、百分の一も伝わらない気がして、怖い。だから……ずっと物語の中に逃げてた」

 僕は陽菜の目を真っ直ぐに見つめて言った。
 「君が俺を元気づけるために嘘をついたこと。その優しさは分かってる。でも……悲しかったんだ。君が嘘をついたことそのものより、俺が、自分の力で立ち上がれるって、君が信じてくれなかったことが、悲しかった」

 陽菜の瞳が大きく揺れる。

 「でも、俺も君を信じなかった」
 僕は続ける。
 「君の優しさを勝手に歪んだ形で解釈して、君を疑った。最低だった。本当に……ごめん」
 僕は深く、深く頭を下げた。

 顔を上げると、陽菜の頬を涙が伝っていた。彼女は何も言わずに、ただ僕の次の言葉を待っていた。
 僕は彼女の最後の質問に、答えなければならない。
 僕たちの、これからについて。


 「俺は……陽菜と一緒にいたい」
 それは、何の飾り気もない、僕の心の中心にあるたった一つの真実だった。

 「これからも俺は、きっと暗い話も書くと思う。どうしようもなく醜いものも、救いのない話も書く。それが俺っていう人間の一部だからだ。君を不安にさせるかもしれない。でも、そんな俺の隣で……笑っていてほしいのは、陽菜だけなんだ。君が隣にいてくれるなら、俺はちゃんと光の物語も書ける。君がいるから、俺は俺の闇の中から光を見つけ出すことができるんだ」

 僕は一歩、彼女に近づいた。
 そして僕の人生で最も勇気のいる提案を口にした。

 「だから……陽菜。俺の物語の、一番最初の読者でいることを、やめてください」

 陽菜が息を呑むのが分かった。
 僕は彼女の濡れた瞳を見つめながら、言葉を続けた。

 「その代わりに……俺の人生の、たった一人の、共同執筆者になってください」

 読者と作者じゃない。
 批評家と作家でもない。
 同じページに、同じ未来を一緒に書き込んでいく、パートナーとして。

 「俺が書く物語の結末を知っているのは、君だけでいい。君が俺の物語の、作家になってほしいんだ。……だめ、かな?」

 僕が言い終わると同時だった。
 陽菜はそれまで堪えていた嗚咽を、もう隠そうとはしなかった。彼女はわんわんと子供のように泣きじゃくりながら、何度も、何度も、首を横に振った。

 「だめじゃない……! だめなのは、私のほうだよ……!」
 彼女は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、僕に本当の気持ちを話してくれた。
 「私も、怖かったんだよ……! 朔が、どんどんすごい作家になって、私の知らない、遠い世界に行っちゃうのが、怖かった……! だから、あなたの物語を、私が理解できる、優しい世界に留めておきたかった……! ごめんなさい……! 朔のこと、信じてあげられなくて、ごめんなさい……!」

 彼女もまた、僕と同じように恐れていたのだ。
 僕たちは互いを大切に思うあまりに、互いを信じることができなくなっていた。


 僕は震える手を伸ばし、彼女の頬を伝う涙をそっと指で拭った。
 彼女はびくりと肩を震わせたが、僕の手を振り払ったりはしなかった。

 「……共同執筆者、なってくれるか?」
 僕はもう一度、尋ねた。

 陽菜は涙の向こう側で、僕がずっと見たかった笑顔をゆっくりと花が咲くように見せてくれた。
 そして、僕の人生で一番聞きたかった言葉を言ってくれた。

 「はい……!」
 彼女はしゃくりあげながらも、はっきりとそう頷いた。
 「喜んで……!」

 僕は彼女の体をそっと引き寄せた。
 腕の中で陽菜は小さく、温かかった。彼女の涙が僕のシャツを濡らしていく。それは、僕たちが流した全ての悲しみと後悔を洗い流してくれるような、優しい涙だった。

 夕暮れの光が、僕たち二人を静かに包み込んでいた。

 僕が書いた『終章、そして序章』は、結局陽菜に読まれることはなかった。
 それでよかったのだ。
 なぜなら僕たちの物語は、紙の上で完結するものじゃない。

 僕たちの物語の、本当の序章が今、始まったのだから。