文化祭が終わり、僕の世界は塗り替えられた。
 秋が深まり、生徒たちの制服がブレザーに戻る頃には、僕と陽菜が一緒にいることはクラスメイトにとって当たり前の光景になっていた。僕たちはまだ、「付き合っている」という明確な言葉を交わしたわけではなかったけれど、放課後はいつも一緒に帰り、時には図書室で並んで本を読み、他愛のないメッセージを夜遅くまで送り合った。

 陽菜は約束通り、僕の「一番最初の読者」だった。
 僕は、文化祭の後に書き上げた数編の掌編を一番に彼女に読ませた。それはまだ、あの『夏夜』の延長線上にあるような、世界のきらめきを切り取った光の物語だった。

 「すごい……朔の言葉って、どうしてこんなに優しいんだろう」
 学校近くの河原のベンチ。夕暮れの光の中で僕のノートを読み終えた陽菜が、感嘆のため息を漏らした。
 「優しい、なんて思ったことない」
 「ううん、優しいよ。道端の雑草とか、自動販売機の明かりとか、普段なら気にも留めないようなものに、朔はちゃんと光を当ててあげる。そういうところがすごく優しい」

 彼女にそう言われると、僕の見ていた無機質な世界までが温かい色彩を帯びていくようだった。君の隣にいるだけで、僕の世界はこんなにも変わる。
 僕は自分の黒いノートの存在を、心の奥底の暗がりにしまい込んでいた。もうあのノートを開く必要はない。君が隣にいてくれる限り、僕は光の物語だけを書いていられる。
 そう、信じていた。

 順風満帆。僕たちの関係はまさにそうだった。穏やかで、温かくて、一日一日が大切にしたい思い出になっていく。
 だが、物語に平坦な道が続かないように、僕たちの時間にも静かな影が差し込もうとしていた。



 影の予兆は、神谷 蓮との会話から始まった。
 文芸部の部室で、彼は僕が陽菜のために書いた掌編を読むと、一言、こう言った。
 「綺麗すぎる」
 「……どういう意味だ」
 「毒にも薬にもならない。美しいが、それだけだ。お前が『夏夜』で見せた、魂を削るような切実さがない。まるで、誰かに褒めてもらうことを前提に書いているようだ」

 彼の言葉は、僕の心の核心を的確に撃ち抜いた。
 その通りだった。僕は、陽菜に「すごい」と言ってもらうために、彼女が喜ぶような、美しくて優しい物語だけを選んで書いていた。僕の内側にある、醜いもの、暗いもの、どろどろとした感情には、固く蓋をして。

 「次号の部誌には、お前の本性を載せろ、蒼井」
 神谷は、挑戦的な目で僕を見た。
 「お前が本当に書くべきは、そんなお伽話じゃないはずだ」

 その日を境に、僕は書けなくなった。
 ペンを握っても陽菜の笑顔がちらついて、当たり障りのない言葉しか出てこない。だが、心の奥底では神谷に言われた「本性」――つまり、黒いノートに綴ってきたような、人間の孤独やエゴイズムが、再び鎌首をもたげ始めていた。

 「朔、最近元気ないね。悩み事?」
 帰り道、心配そうに僕の顔を覗き込む陽菜に、僕はうまく笑顔を返すことができなかった。
 「……いや、少し考え事を」
 「考え事? 新作のこと?」
 彼女の瞳が、期待にきらりと輝く。
 「もしよかったら、聞くよ? 私でよければ、相談に乗る!」
 「……大丈夫だ」
 僕は彼女の申し出を、反射的に断ってしまった。
 君にだけは、相談できない。僕が今、どんな醜い物語と格闘しているかなんて、知られたくなかった。

 僕のその一言が、二人の間に微かな、しかし確かな亀裂を入れたことに僕はまだ気づいていなかった。


 亀裂がはっきりと目に見える形になったのは、冬の匂いがし始めた十一月のことだった。
 神谷に挑発されたこともあり、再び自分の内面と向き合う覚悟を決めて新しい短編を書き上げていた。それは、家族との歪んだ関係をテーマにした、重く、救いのない物語だった。僕がずっと目を背けてきた、僕自身の本性の一部を、初めて物語として形にしたものだ。

 放課後の教室。陽菜は、僕がノートに向かっているのを見ると嬉しそうに隣の席に座った。
 「もしかして、できたの? 新作!」
 「……まあ、一応」
 「読みたい! 読ませて!」
 太陽のような笑顔。だが、今の僕にはその光がひどく眩しく、痛かった。

 「……これは。まだ、誰にも見せられない」
 僕はノートを閉じて、彼女から視線を逸らした。
 「どうして? 私、一番最初の読者だって、約束したじゃない」
 「約束は、してる。けど、この話は……ダメだ」
 「なんでダメなの? どんな話でも私はちゃんと読むよ! 朔が一生懸命書いたものなら、何だって!」
 彼女は必死に僕に食い下がった。僕を理解しようと、僕の世界に寄り添おうと、一生懸命だった。
 だからこそ、僕は拒絶しなければならなかった。君を、僕の闇に引きずり込むわけにはいかない。

 「これは陽菜が読むような話じゃない!」

 僕の口から出たのは、自分でも驚くほど冷たくて、突き放すような声だった。
 陽菜の表情が凍りついた。彼女の瞳から光がすっと消えていくのが分かった。傷ついた、というよりも、どうしていいか分からずに、途方に暮れているような顔だった。

 「……そっか」
 長い沈黙の後、彼女はか細い声でそう言うと、静かに立ち上がった。
 「ごめんね。邪魔、しちゃったね」
 そう言って、僕に背を向けて教室を出て行く。その背中は僕が今まで見た中で、一番小さく、寂しく見えた。

 一人残された教室で、僕は自分のノートを握りしめた。
 これでよかったんだ。君を、僕の醜さから守るためには、こうするしかなかった。
 僕は自分にそう言い聞かせた。だが、胸に開いた穴はどうしようもなく冷たい風が吹き抜けていくだけだった。

 穏やかだった日々に最初の谷が訪れた。
 僕が君を守るためについた嘘は、かつてと同じように僕たちの間に深く、静かな溝を作ってしまったのだ。


 あの日以来、僕と陽菜の間の時間は気まずく凍りついてしまった。
 隣の席の四十五センチは再び深く、冷たい谷となって僕たちを隔てていた。僕たちは言葉を交わさなくなり、休み時間に目が合えば、どちらからともなく気まずく視線を逸らした。クラスメイトたちも、僕たちの不自然な空気に気づいているのか、心配そうに遠巻きに見ているだけだった。

 陽菜は、僕の前では無理に明るく振る舞うことをやめた。友達と話している時も、どこか心ここにあらずといった表情で、ふとした瞬間に寂しげな顔で窓の外を眺めていることが増えた。その横顔を見るたびに、僕の胸は罪悪感で軋んだ。僕が彼女から笑顔を奪ったのだ。

 僕はといえば、あの重い短編を書き上げて以来、一行も小説を書けずにいた。
 陽菜に読ませるための光の物語も、僕自身の内面を吐き出すための闇の物語も、どちらも書くことができなかった。ペンを握る指は、行き場を失って空を掻くだけだった。陽菜という一番の読者を失った僕は、物語を紡ぐ羅針盤を失った船のように、ただ目的もなく漂っていた。

 「お前は馬鹿か」
 放課後の文芸部室。僕が窓の外を眺めてため息をついていると、神谷が忌々しげに言った。
 「せっかく手に入れたものを、自分から手放すとはな」
 彼は、僕と陽菜の間に流れる不穏な空気にとっくに気づいていた。
 「……お前には、関係ない」
 「関係なくはない。お前のせいで、次号の部誌の原稿が滞っている」
 彼は僕の書いた、あの家族の物語の原稿を指さした。
 「この作品は、確かにお前の本性の一部だろう。だが、これだけがお前の全てじゃない。お前は、あの人のために光の物語だって書けるはずだ。どうして片方しか見せられない? 人間なんて、光も闇も両方抱えて生きているものだろう」

 神谷の言葉は正論だった。
 だが、その正論が今の僕にはひどく息苦しかった。
 分かっている。頭では分かっているんだ。でも、僕の闇を見せて、君に幻滅されるのが怖い。僕が僕でなくなるのが、怖いんだ。

 「……うるさい」
 僕はそれだけを吐き捨てて、部室を飛び出した。神谷の冷ややかな視線が、背中に突き刺さるのを感じた。


 十二月に入り、街はクリスマスイルミネーションで輝き始めた。そのきらびやかな光が、僕の孤独をより一層際立たせる。
 期末テストが終わり、学校が短縮授業になったある日の午後。僕は陽菜が教室で一人、俯いているのを見つけた。友達はもうみんな帰った後だった。

 声をかけるべきか、迷った。
 今の僕に、彼女にかけるべき言葉が見つからない。
 だが、そのあまりに寂しそうな背中を見ていたら、気づけば足が勝手に動いていた。

 「……陽菜」
 僕が声をかけると、彼女の肩がびくりと震えた。ゆっくりと顔を上げたその瞳は、少し赤く腫れているように見えた。泣いていたのかもしれない。

 「……朔」
 彼女の声は、か細く掠れていた。
 「どうしたんだ。具合でも、悪いのか?」
 「ううん、違うの」
 彼女は力なく首を振った。
 「……朔は、すごいね」
 「え?」
 「私、朔の書いた『夏夜』、何度も何度も読み返したんだ。あの話を読むと、すごく心が温かくなる。何回読んだとしても、それに見合う言葉が見つからないよ。だから、朔は人の心を動かす力を持ってる。それは、すごく、尊いことだと思う」
 彼女は、一度言葉を切ると、ぎゅっと自分の膝を抱きしめた。

 「でも、今の朔はすごく苦しそう。小説を書くことが、朔を苦しめているみたいに見える。……私、そんなの嫌だよ」
 彼女の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
 「私、朔には笑っていてほしい。ただ、それだけなのに。私が朔の読者でいることが、朔を苦しめているなら、私……もう読まない方がいいのかな」

 違う!
 心の底から叫びたいのに、声が出ない。
 君が読んでくれなければ、僕の物語には意味がないんだ。君がいてくれるから、僕は光の物語を書ける。そして、君がいるからこそ、僕は自分の闇と向き合おうと思えるんだ。

 なのに、僕の口から出たのはまたしても、本心とは正反対の凍てついた言葉だった。
 「……そう、かもな」
 最低の言葉だった。君の優しさを、真正面から踏みにじるような、許されない一言。
 陽菜の顔が、絶望に染まっていく。
 ああ、僕はまた間違えた。取り返しのつかない、間違いを。

 「……そっか。分かった」
 彼女はそう言うと、静かに立ち上がった。その瞳からは、もう感情の色が消えていた。
 「今までありがとう。朔の最初の読者でいられて、幸せだったよ」
 それは紛れもない、別れの言葉だった。
 陽菜は僕に一度も振り返ることなく、教室から出て行った。

 窓の外では、その年初めての雪が音もなく舞い落ち始めていた。
 それは僕たちの間に積もっていく、決して溶けることのない雪のように、僕には思えた。


 陽菜との関係が完全に断絶してから、僕は抜け殻のようになった。
 学校へ行っても、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。授業の内容も、クラスメイトの声も、何も頭に入ってこない。隣の席の陽菜は、僕にとって透明な存在になった。いや、僕が彼女にとって、そうなってしまったのだ。

 僕は、あの重い短編の原稿を破り捨てようとした。
 この物語が、僕たちを壊した元凶だ。
 だが、できなかった。これは、僕が初めて自分自身と向き合って生み出した、醜い我が子のようなものだったからだ。その我が子を愛せない自分が、酷く気味が悪い。

 冬休みに入り、僕は自室に引きこもった。
 ただぼんやりと窓の外を眺める。気分転換に本を読もうともしたが、手が震えて読むことが出来なかった。
 物語が、恐ろしい。
 外では雪が降り積もり、世界は白一色に染まっていく。まるで僕の心の中みたいだ、と皮肉交じりに思った。

 そんな僕を見かねてか、ある日神谷が突然家まで訪ねてきた。
 「いつまでそうしているつもりだ」
 彼は僕の部屋に入るなり、吐き捨てるように言った。
 「お前が書かなければ、何も始まらない。言葉にしなければ、誰にも伝わらない。そんな簡単なことが、天才作家気取りのお前には分からないのか」
 「……もう、書けないんだよ」
 「なぜだ」
 「読者が、いないからだ」

 僕がそう言うと、神谷は呆れたように、大きなため息をついた。
 そして、僕の胸倉を掴み、無理やり引き起こした。
 「いい加減にしろ、蒼井」
 彼の初めて聞く、怒りが混じった声だった。
 「お前が本当に物語を届けたい相手は、たった一人だろう。 なら、書け。 そのたった一人に届けるための言葉を、死ぬ気で紡ぎ出せ。 お前の武器は、それしかないはずだ」

 神谷は僕の机の上に、一冊の新しいノートを叩きつけた。
 「これは俺からお前へのクリスマスプレゼントだ。せいぜい傑作を書いてみせろ」

 彼はそれだけ言うと、嵐のように去っていった。
 一人残された部屋で、僕は机の上の真新しいノートをただ見つめていた。
 僕が陽菜に届けるための物語。
 今の僕に、そんなものが書けるのだろうか。
 雪はまだ、しんしんと降り続いていた。
 

 神谷が置いていった真新しいノートは、僕の机の上でまるで墓標のように鎮座していた。
 冬休みは無音の映画のように過ぎていく。窓の外では雪が積もり、世界から色彩が消えていく。それは読者を失い、言葉を失った僕の心象風景そのものだった。

 僕は書けなかった。
 ペンを握っても、指が震えるだけだった。陽菜に届けるための物語? そんな資格が今の僕にあるはずがない。僕は彼女を深く傷つけ、自ら別れを選んだのだ。どんな言葉を紡いだところで、それは独りよがりな感傷であり自己満足の言い訳でしかない。

 僕は何度も『夏夜』を読み返した。そこには、確かに光があった。夏の夜のあの奇跡のような一瞬を、僕は確かに美しいと信じていた。だが、その光は陽菜という太陽が隣にあったからこそ見えたものだ。太陽を失った今、僕の世界は再び光の届かない深い海の底に戻ってしまった。

 クリスマスが過ぎ、大晦日の夜が来た。
 家族がテレビの周りで笑い合う声を遠くに聞きながら、僕は自室のベッドでただ天井を見つめていた。スマートフォンの画面を何度も点灯させる。陽菜とのメッセージ履歴を開く。最後のやりとりは、あの公園での約束の数日後、他愛のないスタンプの応酬で終わっていた。そこに新しいメッセージを打ち込む勇気は、僕にはない。

 『元気か?』
 『あけましておめでとう』
 そんなありきたりな言葉さえ、今の僕たちにはあまりに遠すぎた。

 年が明けて、数日が過ぎた。
 僕は半ば自暴自棄な気持ちで、本棚の奥からあの黒いノートを引っ張り出した。僕の「本性」が詰まった、呪詛のノート。これを読めば、また以前のように暗い物語が書けるかもしれない。

 ページをめくる。そこには中学時代の僕が書き殴った、歪んだ自己憐憫と、世界への絶望が詰まっていた。
 『少年は、光が嫌いだった。なぜなら、光は自分の影の濃さを、残酷なまでに浮き彫りにするからだ』
 そんな一文が目に飛び込んできた。

 僕はそのノートを読んで、初めて気づいた。
 僕は光が嫌いだったんじゃない。光に焦がれて、手を伸ばしたくて、でもその資格がないと思い込んで、必死に自分に嘘をついていただけだ。
 そして、僕の光はいつだって陽菜、ただ一人だった。


 何かが僕の中で堰を切ったように溢れ出した。
 僕は神谷が置いていった真新しいノートを掴むと、無我夢中でペンを走らせ始めた。

 それは『夏夜』のような光の物語ではなかった。
 家族との関係を描いたような、純粋な闇の物語でもなかった。
 光と闇がどうしようもなく混ざり合った、僕自身の物語だった。

 主人公は影の中でしか生きられないと思い込んでいる少年。
 ヒロインは何もかもを照らし出す、太陽のような少女。
 少年は少女の光に惹かれる。だが、同時に自分の影が彼女の光を飲み込んでしまうことを何よりも恐れていた。だから少年は少女を遠ざける。冷たい言葉で、嘘で自分自身を偽って。彼は少女を傷つけていると知りながら、それが少女を守る唯一の方法だと信じていた。

 僕の指は止まらなかった。
 陽菜との出会い、隣の席になった日のこと、夏祭り、文化祭。そして僕が彼女を拒絶した、あの凍てつくような冬の日。そのすべてが、物語の中に溶け込んでいく。
 それは、僕の懺悔であり、告白であり、そして、か細い希望を込めたラブレターだった。

 書いている間、涙が何度も溢れて原稿用紙を濡らした。
 ごめん、陽菜。ごめん。
 僕は心の中で何度も繰り返した。君を傷つけたかったわけじゃない。ただ怖かったんだ。君という眩しすぎる光の隣で、僕の醜い影が君を曇らせてしまうことが。

 何日も、何日も僕は書き続けた。食事も、睡眠も、ろくに取らなかった。
 僕を突き動かしていたのは作家としての矜持などではない。
 ただもう一度、陽菜と話したい。僕の本当の気持ちを、今度こそ嘘偽りなく伝えたい。
 その一心だけだった。
 

 冬休みが終わろうとしていた。
 外では、降り積もった雪が少しずつ溶け始めている。

 僕は、ついに物語の最後の一行を書き終えた。
 タイトルは、すぐには思いつかなかった。そして、数時間考えた末に僕は静かに、その言葉を記した。

 『君のためのプレリュード』

 プレリュード。前奏曲。
 僕たちの物語は、まだ始まってもいない。これは、君ともう一度出会うための不器用な前奏曲だ。

 僕は完成した原稿を新しい封筒に入れた。宛名は書かない。
 これをどうやって彼女に渡すか。読んでくれる保証なんて、どこにもない。軽蔑されて、目の前で破り捨てられるかもしれない。
 それでも、僕はこれを渡さなければならない。

 三学期の始業式の日。
 僕はいつもより少しだけ早く家を出た。心臓が痛いほどに鳴っている。手の中には、僕の魂そのものである一冊のノートがあった。

 通学路の途中にある、小さな公園。夏の終わりに僕たちが初めて本音で話したあの公園だ。
 僕はその公園のベンチに座り、彼女が通りかかるのを待った。
 やがて、見慣れた後ろ姿が見えた。マフラーに顔を埋めるようにして一人で歩いてくる、陽菜。

 僕は立ち上がった。
 彼女が僕の存在に気づく。その足が、ぴたりと止まった。驚きと、戸惑いが入り混じった表情で、僕を見ている。

 僕たちの間には、十メートルほどの距離。
 それはあまりに遠く、そして、絶望的に近い距離だった。

 僕は一歩、踏み出した。
 僕たちの凍てついた冬を終わらせるために。
 君と僕の、本当の物語を始めるために。


 公園の入り口に立つ陽菜と、ベンチの前で向き合う僕。
 僕たちが最後に言葉を交わしてから、一ヶ月近くが経っていた。その時間は、僕たちを完全に他人にしてしまうのに十分すぎる長さだった。

 陽菜は、僕が一歩踏み出すと怯えたように少しだけ後ずさった。その仕草が、僕が彼女をどれだけ深く傷つけたかを物語っていた。胸が鋭いガラスの破片で抉られるように痛む。
 それでも、僕はもう一歩彼女に近づいた。ここで逃げたら、僕は二度と君の前に立つことさえできなくなる。

 「……陽菜」
 僕の声は冬の朝の空気の中で、白く震えていた。
 彼女は何も言わない。ただ僕をじっと見つめている。その瞳には警戒心と、ほんの少しの好奇心、そして心の奥底にしまい込んだはずの、悲しみの色が滲んでいた。

 僕は手に持っていた封筒を、両手でそっと彼女に差し出した。
 「これを……読んで、ほしい」

 陽菜の視線が、僕の手にある封筒に落ちる。彼女はそれが何なのかを察したように唇をきつく結んだ。
 「……もう読まないって、言ったはずだよ」
 彼女の声は凍りついていた。それは、僕が彼女に向けた言葉と同じ、冷たい拒絶の色をしていた。

 「分かってる。君がこれを読む義務なんてないことも、分かってる」
 僕は必死に言葉を続けた。
 「これは俺の、ただの自己満足だ。言い訳だって言われても仕方ない。でも、これだけは信じてほしい。この中には、嘘は一つもない。俺の全部だ」

 僕の全部。
 それは光も、闇も、醜さも、弱さも、そしてどうしようもないくらいに君を大切に想う気持ちも、すべて含んだものだった。

 陽菜は僕の手の中の封筒と、僕の顔を何度も交互に見た。彼女の心の中で、激しい葛藤が起きているのが、痛いほどに伝わってくる。
 数秒が数時間にも感じられるような沈黙の後、彼女はおそるおそる、といった様子で小さな手を伸ばした。
 そして、その指先が封筒に触れる。

 僕は安堵で泣きそうになった。

 「……読むだけ、だからね」
 彼女は俯いたまま、ぽつりと言った。
 「読んでも許すとか、そういうのじゃ、ないから」
 「……ああ。分かってる」
 「じゃあ……」

 彼女は封筒を受け取ると、僕の横をすり抜けて、公園から去っていこうとした。
 僕はその背中に声をかけずにはいられなかった。

 「陽菜!」
 彼女の足が止まる。
 「もし……もし読んで、何か少しでも感じてくれたら……今日の放課後、文芸部の部室に来てほしい。待ってるから」

 彼女は振り返らなかった。
 ただ小さく、ほとんど聞こえないくらいの声で、「……分かった」とだけ言うと、今度こそ行ってしまった。

 一人残された公園で、僕はその場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
 僕にできることは、もう何もない。
 あとはただ、信じて待つだけだ。僕の言葉が、僕の魂が、凍てついた君の心に届くことを。


 その日の学校は、まるで現実感のない夢の中の出来事のようだった。
 授業の内容は全く頭に入ってこず、隣の席の陽菜の横顔を盗み見ることさえできなかった。彼女は、僕の渡したノートを読んでくれたのだろうか。

 放課後を告げるチャイムが鳴り響く。僕の心臓が大きく跳ねた。
 生徒たちが騒がしく教室を出て行く。陽菜も友達に呼ばれて、一度は席を立った。だが、彼女は何かを思いついたように立ち止まると、「ごめん、先に行ってて」と友達に告げた。
 教室には、僕と陽菜の二人だけが残される。

 彼女は僕の方には来なかった。
 ただ、自分のカバンの中から僕が渡したノートを取り出した。そして、それを自分の机の上に置くと、何も言わずに教室を出て行った。
 僕は彼女の意図が分からず、しばらく呆然としていた。

 やがて、僕は意を決して彼女の机へと近づいた。
 机の上に置かれた、僕のノート。
 その表紙の、『君のためのプレリュード』というタイトルの下に、赤ペンで小さな文字が書き加えられているのが目に飛び込んできた。

 『拝啓 蒼井 朔様。
 あなたの物語、確かに受け取りました。
 今までで一番不器用で、自分勝手で、そして今までで一番、あなたの心が詰まった物語でした。
 追伸。プレリュードの次は、何ていう曲が始まるんですか?
 その答えを聞かせに、ちゃんと来てください。待ってます。
 桜 陽菜』


 僕はノートを握りしめて、廊下を走っていた。
 息が切れるのも、周りの生徒たちの訝しげな視線も気にならなかった。
 目指す場所は一つだけ。
 三階の、一番端の文芸部室。

 扉の前にたどり着き、僕は一度大きく息を吸い込んだ。
 そして静かに扉を開ける。

 夕暮れの光が差し込む部室の中。
 窓際に、彼女は立っていた。
 僕が来るのを、待っていた。

 「……陽菜」
 僕が名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返った。その瞳は少し潤んでいたけれど、僕がずっと見たかったあの太陽のような笑顔がそこにはあった。

 「遅いよ、朔」
 彼女はそう言って、少しだけはにかんだ。
 「プレリュードの次、教えてくれるんでしょ?」

 僕は彼女に向かって、ゆっくりと歩き出した。
 僕たちの間を隔てていた冷たくて分厚い氷が、夕暮れの優しい光の中で、音を立てて溶けていく。

 「……ああ」
 僕は彼女の目の前で立ち止まった。
 「プレリュードの次は……まだタイトルも決まってない、始まったばかりの曲だ。一人じゃ、たぶん、うまく演奏できない」

 僕は震える手を伸ばして、彼女の手にそっと触れた。
 彼女は驚いたように少しだけ肩を震わせたが、その手を優しく握り返してくれた。

 「だから、陽菜。……一緒に作ってくれないか。俺たちの物語を」

 それは僕の人生で最初の、嘘偽りのない本当の言葉だった。
 陽菜は何も言わなかった。
 ただ、涙を流しながら満面の笑みで、何度も、何度も頷いた。

 窓の外では冬の終わりを告げる柔らかな光が世界を包んでいた。
 僕と君の、本当の物語が今、静かに始まる。
 それはきっと、山あり谷ありで、綺麗事だけでは済まない。不器用な物語だ。

 でも、君が隣にいてくれるなら。
 君が、僕の物語を読んで笑ってくれるなら。
 僕はどんな物語だって、紡いでいける。

 そう確信した。