文芸部の部室は、廊下の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 壁には歴代の部誌や、部員がそれぞれ好きな文学作品から引用した一節が飾られている。部屋の中央に置かれた長机に、出来上がったばかりの部誌『青藍(せいらん)』が、十数冊、きれいに並べられていた。
 表紙は文化祭の夜を思わせる深い藍色。そこに、銀色のインクでタイトルが箔押しされている。シンプルだが、気品のある装丁だった。

 「来たか、蒼井」
 部屋の奥、窓際に座って文庫本を読んでいた神谷が顔を上げて言った。彼が店番らしい。
 「……ああ」
 僕は、自分の心臓の音で神谷の声が聞こえなくなりそうだった。僕は並べられた部誌に近づき、その一冊をそっと手に取った。指先がわずかに震える。

 目次を開くと、一番上に僕の名前とタイトルがあった。

 『夏夜(かや)』 蒼井 朔

 自分の名前が、活字になっている。それがひどく現実味のない、不思議な感覚だった。僕は自分のページをめくる。そこに印刷されていたのは、間違いなく僕が書いた文章だった。何度も推敲を重ねた、あの夏の夜の物語。

 「もう、何人か持っていったぞ」
 神谷が本から目を離さないまま言った。
 「女子生徒が多かったな。『この『夏夜』って話、マジのエモ』とか言っていた」
 「……からかうな」
 「声を高くしたことに、ツッコミが欲しかったんだが。照れないでくれ、そんな事実はない」
 神谷は、ぱたんと本を閉じた。
 「しかし、お前の文章には人を惹きつける何かがあるのも事実。お前がそれを信じようと信じまいと、事実は事実だ」

 その時、部室の扉が静かに開き、数人の女子生徒が入ってきた。彼女たちは僕と神谷を一瞥すると、机の上の部誌へと歩み寄り、きゃっきゃと楽しそうにページをめくり始めた。
 僕はたまらない気持ちになって、部屋の隅へと後ずさった。まるで、公開処刑を待つ罪人のようだ。

 「ねえ、少し読んだだけだけどこの話すごくない?」
 「わかる。花火のシーン、情景が目に浮かぶみたい」
 「書いたの、蒼井朔くんだって。一年四組の」
 「え、あの静かな子? イメージと違う!」

 聞こえてくる会話に、顔から火が出そうだった。僕は壁に寄りかかり、ただ俯く。嬉しいとか、恥ずかしいとかそういう感情を超えて、ただひたすらに自分が自分でないような感覚に襲われていた。


 女子生徒たちが去り、再び静寂が戻る。
 僕は、もうここにはいられない、と踵を返した。自分の作品が他人に読まれ、評価されるという現実に、僕の心はまだ耐えられそうになかった。

 「どこへ行く」
 神谷が低い声で呼び止める。
 「……教室に、戻る」
 「そうか。逃げるのか」
 その言葉は、ナイフのように突き刺さった。
 「……逃げるわけじゃない」
 「そうか? お前は、自分の書いたものから目を逸らしているだけに見えるが」

 僕は、何も言い返せなかった。図星だったからだ。
 神谷は立ち上がると、僕の横を通り過ぎ、扉の前で足を止めた。
 「蒼井。お前が本当にこの物語を届けたい相手は、まだここに来ていないんだろう?」
 「……」
 「なら、ここにいろ。自分の言葉の行方を、最後まで見届けろ。それも物を書く人間の責任だ」

 神谷はそれだけ言うと、「少し席を外す。店番、代わってくれ」と言い残し、部室から出て行った。
 一人残された僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 僕が、本当に届けたい相手。
 桜、陽菜。
 彼女がもしこの物語を読んだら。

 僕の心臓は、期待と恐怖で張り裂けそうだった。


 神谷が去ってから、十分ほどが過ぎただろうか。
 数組の生徒が出入りし、そのたびに部誌が数冊、手に取られていく。僕は幽霊のような店番を続けながら、扉が開くたびに無意識に息を潜めていた。

 そして、その瞬間はあまりに不意に訪れた。

 「失礼しまーす。……あ、朔!」

 そこに立っていたのは陽菜だった。クラスの友達だろうか、二人の女子生徒と一緒に、楽しそうに笑っている。
 僕の心臓が大きく跳ね上がった。

 「朔、店番だったの? お疲れ様!」
 陽菜は何も知らない様子で、僕に駆け寄ってきた。
 「クラスのお化け屋敷、すごい行列できてるよ! 朔も後で来てね!」
 「……ああ」
 僕は頷くのが精一杯だった。声がうまく出ない。

 「わ、これが文芸部の部誌? おしゃれだね!」
 陽菜の友達の一人が、机の上の『青藍』を手に取った。
 「本当だ! あ、見て陽菜! これ、蒼井くんが書いたんだって!」
 もう一人の友達が、目次の僕の名前を指さして声を上げる。

 陽菜の動きがぴたりと止まった。
 彼女は驚いたように、僕の顔と友達が持つ部誌を交互に見た。
 そして、ゆっくりと机に置かれていた新しい一冊を、その手に取った。

 「朔が……書いたの?」
 彼女の声は、わずかに上ずっていた。
 僕は何も答えられない。ただ、固唾を飲んで彼女を見つめる。

 陽菜は、僕の返事を待たずにゆっくりとページをめくり始めた。
 そして、指が止まる。

 『夏夜』

 そのタイトルを、彼女の唇が声にはならずにそっと形作ったのを、僕は見た。
 陽菜が僕の物語を読み始める。
 僕の青春の、不器用な告白が今、君に届こうとしている。

 教室の喧騒も、廊下を駆け抜ける足音も、すべてが遠のいていく。
 僕の世界には君と、僕の書いた物語の乾いたページをめくる音だけが存在していた。


 陽菜が僕の小説を読んでいる数分間は、僕にとって永遠よりも長く感じられた。
 僕はただ息を殺して、彼女の表情の変化を見守ることしかできない。彼女の友達たちも、何かを察したのか、黙って部屋から出ていく。ドアの前に立っているのが見える。

 彼女の指が、最後のページをめくる。
 そしてゆっくりと、部誌が閉じられた。

 陽菜は、顔を上げなかった。
 長いまつげが、彼女の頬に小さな影を落としている。どんな顔をしているのか、僕からは見えない。沈黙が重く、重く部室の空気にのしかかる。

 軽蔑されただろうか。
 幻滅されただろうか。
 「イメージと違う」と、思われただろうか。

 僕の頭の中を、ありとあらゆるネガティブな想像が駆け巡る。黒いノートに書き殴ってきたような、自己憐憫に満ちた言葉が僕の心を埋め尽くしていく。
 ああ、やはり僕なんかが物を書くべきではなかったのだ。僕がペンを握れば、結局は誰かを、そして君を、不快にさせるだけだったんだ。

 「……陽菜?」
 その時、陽菜の肩が小さく震えているのに気づいた。

 やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
 その瞳は、潤んでいた。頬を一筋、涙が伝っている。
 僕の心臓が凍りついた。
 泣かせた。僕の書いたものが、君を泣かせた。

 「……ごめん」
 陽菜はしゃくりあげるような声で、そう言った。
 「ごめんね、朔……」
 「な、なんで……陽菜が謝るんだ?」
 僕はかろうじてそれだけの言葉を絞り出した。

 「だって……私、全然気づかなかったから」
 彼女は潤んだ瞳で僕を真っ直ぐに見つめた。
 「朔が、こんなに……こんなにきれいなものを見てたなんて。知らなかった。花火がきれいだったとか、そんな簡単な言葉じゃなくて……朔の目には、世界がこんな風に映ってたんだね。私全然分かってあげられてなかった」

 違う。
 違うんだ陽菜。
 君は、何も分かってなんかいなくていい。君はただ、太陽みたいに笑っていてくれればそれでよかったんだ。僕の方が、君の隣にいようとしたのが間違いだったんだ。

 「私ね」
 陽菜は涙を手の甲で拭うと、少しだけ微笑んだ。その笑顔は、今まで僕が見てきたどんな笑顔よりも儚くて、愛おしかった。
 「あの夏祭り、本当はすごく寂しかったんだ。朔がいないだけで、花火の音もなんだか遠くに聞こえて。……でも、そっか。朔も、同じ場所にいて、同じものを見てたんだね。ううん、私が見てたものより、もっとずっと、素敵なものを」

 彼女は手に持っていた部誌を、ぎゅっと胸に抱きしめた。
 「ありがとう、朔。教えてくれて。……宝物にするね、この話」

 ドアの向こうからこちらを見つめる陽菜の友達が見える。陽菜もそれに気づく。
 気まずい沈黙。だが、それは以前の息が詰まるようなものではなく、どこか温かい、不思議な沈黙だった。
 先に口を開いたのは僕だった。

 「……嗤わなかったな」
 「え?」
 「俺の書いたものを見て……君は俺を、嗤わなかった」
 それは、僕の心の奥底からようやく漏れ出た本音だった。僕がずっと恐れていた日。僕の歪んだ内面を知った君が、僕を軽蔑して嗤う日。

 陽菜は、僕の言葉の意味が分からないというように小首を傾げた。
 そして、心から可笑しいというように、ふふっと笑った。
 「笑う? なんで? どうして私が、朔のこと、笑うの?」
 「だって、俺は……」
 君に嘘ばかりついて、君を傷つけて、と続けようとした言葉は、声にならなかった。

 「馬鹿だなあ、朔は」
 陽菜はそう言って、僕に一歩近づいた。
 「私がそんなことで朔のこと、嫌いになったりするわけ、ないじゃない」
 彼女の瞳からまた一粒、涙がこぼれ落ちた。でも、その表情は笑っていた。
 「私、嬉しいんだよ。朔の世界を、少しだけ見せてもらえて。……だから、これからももっと見せて。朔が書くもの、全部。私が一番最初の読者になってあげるから」

 その言葉は、どんな賛辞よりも、どんな賞賛よりも、僕の心に深く、深く染み渡った。
 魂の救済。
 神谷が言っていた言葉の意味が、今分かった気がした。
 僕が書いてきたものは呪詛なんかじゃなかった。僕がペンを握っていたのは、たった一人、君に届けるためだったんだ。


 文化祭の喧騒が遠くに聞こえる。
 僕と君の間を、秋の柔らかな光が満たしていく。

 僕はずっと言えなかった言葉を、ようやく口にすることができた。
 「……ありがとう、陽菜。読んでくれて」

 陽菜は満面の笑みで頷いた。
 「どういたしまして!」

 僕がずっと恐れていた日は来なかった。
 代わりに訪れたのは、僕の物語を抱きしめて、君が僕のために泣いて、笑ってくれる日だった。
 それは、僕が今まで想像したこともなかった、あまりにも優しくて、温かい一日だった。

 僕の黒いノートに綴られてきた、暗く長い物語は今日、ここで終わりを告げる。
 そして、ここから始まる新しい物語はきっと一人で書くものじゃない。
 君の隣で、君の笑顔を見ながら書いていく物語だ。

 僕は陽菜に向かって、ほんの少しだけぎこちなく微笑んだ。
 僕らの青春が本当の意味で始まった、そんな音がした。