約束を断ったはずの夏祭りの日。僕は自室の机で開かれたままのノートを前に、一行も書けずにいた。
 窓の外からは、遠く聞こえる祭囃子と、人々の楽しげな喧騒が風に乗って届いてくる。それは僕が自ら捨てたはずの世界の音だった。ペンを握る指先にじっとりと汗が滲む。

 『行くな』と理性が言う。『お前が行く資格のない場所だ』と。
 だが、心臓の奥深くでくすぶるような疼きがあった。陽菜は今、何をしているだろう。友達と笑っているだろうか。僕がいないことなんて、気にも留めていないだろうか。

 気づけば、僕は椅子から立ち上がっていた。
 「……取材だ」
 誰に言うでもなく、そう呟く。それはひどく陳腐な言い訳だった。
 「小説家は、人間を観察しなくちゃならない。夏の夜に浮かれる人々を、この目で見ておく必要がある」
 自分にそう言い聞かせ、僕はTシャツとジーンズという、祭りの熱気からは程遠い格好で、そっと家を抜け出した。

 神社の境内へ続く参道は電球の柔らかい光と、食べ物の甘く香ばしい匂いで満たされていた。射的の乾いた発砲音、子供たちのはしゃぐ声、浴衣姿の男女が囁き合う楽しげな会話。その全てが、僕という異物を浮き彫りにするようだった。僕は人混みの縁を、幽霊のように彷徨い歩く。

 そして、見つけてしまった。
 りんご飴の屋台の前。人垣の中心に、陽菜がいた。

 紺色地に、白い朝顔が描かれた浴衣。少しだけうなじを見せるように結い上げた髪。普段の快活な彼女とは違う、しっとりとした横顔に、僕は息を呑んだ。きれいだ、と思った。その単純な感想が、何の比喩も通さず、すとんと胸に落ちてきた。

 彼女は中学時代の友人らしい男女数人と一緒だった。皆、楽しそうに笑い合っている。陽菜も笑っていた。でも、僕は見てしまった。ふとした瞬間に彼女の笑顔が消え、辺りをきょろきょろと見回すのを。誰かを探しているような、その寂しげな瞳を。

 罪悪感が心臓を冷たく握り潰した。
 あそこにいるはずだったのは、僕だったのかもしれない。僕のついた身勝手な嘘が、君の笑顔からほんの少しだけ光を奪っている。その事実に、僕はその場に縫い付けられたように動けなくなった。


 ドン、と腹の底に響くような鈍い音がして、夜空に最初の一輪が咲いた。
 花火が始まったのだ。
 わあっ、と歓声が上がる。誰もが空を見上げ、光の饗宴に目を奪われていた。僕も、人々の視線の先を追う。

 だが、僕が見ていたのは花火ではなかった。
 花火の光に照らされる、陽菜の横顔だった。

 赤、青、緑、金。次々と打ち上がる光が、彼女の白い頬を染めては消えていく。大きく見開かれた瞳に、大輪の花が映り込む。その表情は無垢な子供のように純粋で、ひどく儚げに見えた。
 僕はまるで、世界に僕と君の二人しかいないような、不思議な錯覚に陥った。
 蝉の声も、祭囃子も、人々の歓声も遠のいていく。ただ、花火の音と、君の横顔だけが僕の世界の全てだった。

 この瞬間を永遠にしたい。
 そう思った瞬間、神谷の言葉が脳裏をよぎった。
 『君が本当に守りたかったものまで、失うことになるぞ』

 僕が守ろうとしているものは、何だ? 嘘で固めた僕のプライドか? 傷つくことへの恐怖か?
 僕が失おうとしているものは、今目の前にあるじゃないか。
 君と笑い合う、この夏の夜。二度と戻らない、この一瞬。

 「感傷に浸っているところ、悪いが」

 すぐそばで静かな声がした。
 はっとして横を向くと、いつの間にいたのか神谷 蓮が涼しい顔で立っていた。彼もまた、僕と同じように普段着だった。
 「神谷……。お前も、来てたのか」
 「人間観察、だよ」
 彼は、僕が自分にした言い訳と全く同じ言葉を口にした。
 「物語の登場人物が、こういう場所でどんな顔をして、どんな会話をするのか。見ておくだけで、筆の運びが少しは変わる」
 彼は僕の視線の先、陽菜たちがいる方を一瞥し、ふっと鼻で笑った。
 「だが、ただ見ているだけでは物語は一行も進まないぞ、蒼井。主人公が動かなければ、何も始まらない。そうだろ?」

 その言葉は僕が書いている小説の登場人物に向けられたものなのか、それとも、僕自身に向けられたものなのか。
 神谷はそれ以上何も言わず、人混みの中へと消えていった。


 花火が終わり、人々がぞろぞろと帰り始める。僕は、陽菜たちが見えなくなるまで、その場を動けずにいた。結局、声をかけることはできなかった。主人公は、動けなかった。

 帰り道、夏の夜の生温い風が火照った頬を撫でていく。
 胸の中には後悔と、罪悪感と、そしてどうしようもないほどの鮮やかな記憶が渦巻いていた。
 浴衣姿の君。花火を見上げる君の瞳。

 家に帰り着き、僕は黒いノートを開いた。
 いつもなら自分の内側から溢れる歪んだ感情をここに叩きつけていたはずだ。
 だが、その夜は違った。

 僕は、ただ見たままの光景を書き写していた。

 『少女は、紺色の浴衣を着ていた。白い朝顔の柄だった。夜空に花火が咲くたび、その光が少女の横顔を照らした。きれいだった。ただ、ひたすらに、きれいだった』

 そこには何の比喩も、感傷も、自己憐憫もなかった。
 あるのは僕の心が揺さぶられた、その事実だけ。
 それは僕の分厚い嘘の鎧に初めて入った、小さな、しかし確かな亀裂だった。



 夏祭りの夜から僕の中で何かが少しずつ変わり始めていた。
 黒いノートを開いても以前のように淀んだ言葉がすらすらと出てくることはなくなった。代わりに、ペンは何度も宙を彷徨い、結局は意味のない線を引くだけで終わる日が増えた。僕の物語の主人公は、動けなくなった僕自身と同じように立ち尽くしてしまった。

 あれだけ焦がれた孤独な時間は、今やただの退屈な空白でしかなくなった。
 夏休みが終わるまであと一週間となった日。蝉の声が、焦燥感を煽るようにやかましく降り注ぐ中で、僕は無気力にベッドの上で寝返りを打っていた。

 その時、静寂を破ってスマートフォンの着信音が鳴った。
 画面に表示された名前を見て、心臓が跳ねた。

 『桜 陽菜』

 電話なんて、中学の卒業以来初めてだった。出るべきか、出ざるべきか。数秒の間に僕の頭の中を何十ものシミュレーションが駆け巡る。嘘をつく準備はできていない。だが、この電話を無視すれば僕はまた君を傷つけることになる。

 僕は意を決して通話ボタンをスライドさせた。

 「……もしもし」
 『あ、朔? よかった、出てくれた!』
 受話器の向こうから聞こえてきた陽菜の声は、僕が思っていたよりもずっと明るかった。そのことに、少しだけ安堵する。
 「どうしたんだ、急に」
 『ううん、別に用事ってわけじゃないんだけど……。夏休みの課題、終わった?』
 「……まあ、だいたい」
 『そっか。私、読書感想文が全然進まなくてさ。朔ならもうとっくに終わらせてるんだろうなーって思って』

 他愛のない会話。だが、その一言一言が、乾いた僕の心に染み渡っていくようだった。電話越しに聞こえる君の息遣いや、背景の微かな生活音が、僕たちが同じ時間を生きているのだという当たり前の事実を思い出させてくれる。

 「……なあ、陽菜」
 僕は自分でも無意識のうちに彼女の名前を呼んでいた。
 『ん? なあに?』
 「夏祭り……その、楽しかったか?」
 言ってしまってから、後悔が押し寄せる。何て馬鹿な質問だ。断った僕がそれを聞く資格なんてない。

 電話の向こうで、陽菜が少しだけ息を呑むのが分かった。
 『……うん。楽しかったよ。花火、すごくきれいだったし』
 「そうか」
 『でも……』
 陽菜が言葉を続ける。
 『……朔も、いたら、もっと楽しかっただろうなって。ちょっと思った』

 その言葉は静かに、しかし確かな重さを持って僕の心に届いた。
 ああ、そうか。
 君は、僕がいないことをちゃんと寂しいと思ってくれていたのか。僕が必死に築いた壁の向こう側で、君はちゃんと僕のことを見ていてくれたのか。

 胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。それは罪悪感だけではない。もっと温かくて、切ない感情だった。
 僕は何も言えなかった。ただ、受話器を握りしめる。


 沈黙を破ったのは、陽菜の方だった。
 『あ、そうだ! 朔、今から少しだけ時間ある?』
 「え?」
 『課題に行き詰まっちゃって、気分転換に散歩でもしようかと思ってたんだけど。よかったら近くの公園まで来ない? 少し、話したくて』

 また選択を迫られる。
 断るのは簡単だ。いつものように「用事がある」と嘘をつけばいい。そうすれば、僕の平穏な孤独は守られる。
 だが、僕の口から出たのは自分でも予期しない言葉だった。

 「……分かった。今から、行く」

 それは嘘で塗り固められた僕の世界に、僕自身の手で開けた最初の風穴だった。

 公園に着くと、陽菜はブランコに座ってぼんやりと空を見ていた。夏の日差しが少しだけ和らいだ、午後の遅い時間。
 僕の姿を見つけると、彼女はぱっと顔を輝かせた。

 「朔! 来てくれたんだ」
 「……ああ」
 僕はぎこちなく彼女の隣のブランコに腰を下ろした。何を話せばいいのか分からない。気まずい沈黙が流れる。

 「あのさ」
 先に口を開いたのは、陽菜だった。
 「私、朔のこと、誤解してたかもしれない」
 「……え?」
 「朔って、昔から自分のことあんまり話さないじゃない? 高校に入ってからもっと話さなくなった気がして。私、何か悪いことしちゃったのかな、って少し悩んでたんだ」
 彼女は俯きながらつま先で地面を蹴った。ブランコが小さく揺れる。

 「でも違うんだよね。きっと。朔は、朔の世界をすごく大事にしてるんだと思う。小説を書くのだって、きっと、朔にとってはすごく大事なことで……。だから、私が土足で踏み込んじゃいけない領域なのかもしれないなって」

 僕は何も言えなかった。
 君は僕が思っていたよりもずっと、僕のことを考えてくれていた。僕が君を遠ざけるために重ねた嘘を、君は君なりの優しさで、別の形に解釈しようとしてくれていた。
 その優しさが、僕にはあまりに眩しくて、痛かった。

 「でもね」
 陽菜は顔を上げて、僕の目を真っ直ぐに見た。その瞳は、夏の終わりの夕暮れの光を映してきらきらと輝いていた。
 「たまにはその世界から出てきて、私と話してくれたら嬉しいな。朔が考えてること、全部じゃなくていいから少しだけでも教えてほしいな。……なんて、わがままかな?」

 わがままなんかじゃない。
 僕の方こそ、どれだけ君に甘えていたのだろう。君の優しさの上に胡坐をかいて、自分の殻に閉じこもっていただけじゃないか。

 「……陽菜」
 僕はゆっくりと口を開いた。
 「俺は……」
 本当のことを言わなくてはならない。
 すべてを話すことはできなくても、このまま嘘で君を欺き続けることはもうできない。

 「俺は、君が思ってるような人間じゃない。君の隣にいると、自分がすごくくだらない人間に思えて、怖くなるんだ」
 それは僕の口からこぼれ落ちた、初めての「本当のこと」だった。

 陽菜は驚いたように目を瞬かせた。そしてゆっくりと、ふわりと花が綻ぶように笑った。
 「なんだ、そんなこと考えてたの?」
 「……そんなこと、じゃ」
 「私だって、同じだよ」
 彼女はブランコを少しだけ揺らしながら言った。

 「私だって朔が読んでる難しい本のこと、全然分からないし。朔が静かに何かを考えてる時、自分がおしゃべりで、すごく馬鹿な子に思えて、不安になる時、あるよ」

 彼女の言葉は、僕がずっと抱えていた思い込みをあっさりと打ち砕いた。
 僕だけが特別に醜くて、弱い人間だと思っていた。君は完璧な光で、僕は卑屈な影だとそう信じて疑わなかった。
 でも、違ったのか。君も僕と同じように、不安になったり、怖くなったりすることがあるのか。

 僕と君を隔てていた、分厚くて透明な壁が音を立てて崩れていくような気がした。

 「……そっか」
 僕がようやく絞り出したのは、そんな一言だった。
 でも、その一言には今までついてきたどんな嘘よりも、ずっと多くの意味が込められていた。

 夏の終わりの公園。
 僕たちの間を心地よい風が吹き抜けていった。
 僕の長い物語は間違いなく、この瞬間から新しい章へとページをめくったのだ。


 あの夏の終わりの公園での会話から、僕と陽菜の間の空気は明らかに変わった。
 隣の席の四十五センチはもはや天国と地獄を隔てる境界線ではなく、ただの心地よい距離になった。僕たちは、休み時間に他愛のない言葉を交わすようになった。昨日見たテレビ番組の話、次の小テストの範囲、購買のパンで何が一番美味しいか。
 そのどれもが僕が書く小説の世界とはかけ離れた、平凡できらきらした日常の欠片だった。

 僕はまだ、本当の僕の全てを陽菜に話したわけではなかった。黒いノートの存在も、その中に渦巻くどろどろとした感情も、ひた隠しにしたままだ。
 だが、僕はもう「嘘」をつく必要はなくなっていた。分からないことは分からないと、行きたくない時は行きたくないと、正直に言えるようになった。そして、陽菜はそんな僕をただ「そっか」と受け入れてくれるようになった。

 その小さな変化は、僕の創作活動にも影響を与えた。
 黒いノートを開く時間は、確実に減っていた。以前は書くことでしか自分を保てなかったのに、今は書かなくても息ができるようになっていた。僕の物語の主人公は、暗い部屋の隅で膝を抱えたまま動けずにいる。外の世界が、少しだけ明るくなってしまったからだ。

 その日、僕は放課後の図書室で、神谷 蓮に声をかけられた。
 「蒼井。顔つきが少し変わったな」
 彼は僕の隣の椅子を引きながら言った。
 「夏休みの間に、何かあったか」
 「……別に、何も」
 僕は反射的にそう答えたが、その言葉に以前のような棘がないことに自分でも気づいていた。

 神谷は僕の答えを気にするでもなく、持っていた本を開いた。
 「文芸部の部誌、秋の文化祭で出すことになった。お前も何か書いてみないか」
 「……俺が?」
 「ああ。短編でいい。テーマは自由だ」
 僕は戸惑った。僕の書くものが、誰かの目に触れる? それは僕が最も恐れていたことのはずだ。僕の文章は僕だけの聖域であり、呪いでもあった。

 「……無理だ。俺の書くものは、人が読んで楽しいものじゃない」
 「誰が楽しいものを書けと言った?」
 神谷は本から目を離さずに言った。
 「小説は、必ずしも読者を楽しませるためだけにあるんじゃない。作者自身の魂の救済のために書かれるものもある。君のは、そっち側の人間だろう」
 彼は全てを見透かしていた。

 「……考えておく」
 僕がそう答えるのが、精一杯だった。神谷は「期待している」とだけ短く言うと、再び読書の世界に沈んでいった。
 僕は彼の隣で、しばらくその言葉の意味を考えていた。
 僕の小説が、魂の救済? 僕が書いているのはただの自己満足で、醜い感情の掃き溜めではなかったのか。


 神谷からの誘いは、僕の心に重い石のように沈んだ。
 部誌に載せるということは、陽菜もそれを読む可能性があるということだ。僕の内側にある、暗く歪んだ世界を彼女に見せることになるかもしれない。
 それは絶対に避けなければならないことだった。

 数日後の昼休み。僕は陽菜に、どう切り出すべきか迷いながら、話しかけた。
 「なあ、陽菜」
 「ん?」
 サンドイッチを頬張りながら、彼女が振り向く。
 「もし……もし俺が小説を書いたとして、読んでみたいと思うか?」
 それは、ひどく回りくどい質問だった。
 陽菜はきょとんとした顔で僕を見た後、すぐに太陽のような笑顔になった。
 「当たり前じゃん! 読みたいに決まってる! 朔がどんな物語を書くのか、ずっと気になってたんだから!」

 その屈託のない答えが、僕の胸を締め付けた。
 君は僕に期待している。僕が書くのは、きっと希望に満ちた、美しい物語だと信じている。
 そんな君に、あの黒いノートの中身を見せることなんてできるはずがない。

 「……そうか」
 僕はそれ以上、何も言えなくなった。
 陽菜は僕の様子の変化に気づいたのか、少し心配そうな顔で僕を覗き込んだ。
 「どうしたの、朔? もしかして、もう何か書いてるの? 文化祭とかで発表したり?」
 「いや……まだ何も」
 僕は嘘をついた。もうつかないと決めたはずなのに、君を傷つけたくない、君に幻滅されたくないという一心で、僕はまた嘘の壁の内側へと逃げ込んだ。

 その日の放課後、僕は文芸部の部室の前に立っていた。
 神谷に断りの言葉を伝えなければならない。
 扉をノックしようとした、その時だった。中から神谷と、もう一人、女子生徒の声が聞こえてきた。

 「――だから、神谷くんのその言い方が人を傷つけるって言ってるの!」
 「事実を言ったまでだ。感傷的なだけの文章に、価値はない」
 「価値があるとかないとか、そういうことじゃない! 人が一生懸命書いたものを……!」
 言い争うような声。僕は思わずドアノブから手を引いた。

 扉が勢いよく開き、中から小柄な女子生徒が飛び出してきた。彼女は目に涙を浮かべていて、僕の存在に気づくと、はっとした顔で立ち止まりすぐに走り去っていった。その生徒の上履きの色は、僕らのとは異なっていた。
 部室の中では、神谷が忌々しげな顔で腕を組んで立っていた。

 「……今の、見たか」
 「……ああ。先輩を泣かせるのはどうかと思う」
 そんなんじゃない、と彼はツッコミを入れる。そんなことができたのか。 
 「見ての通り、うちはいつもうまくいっているわけじゃない」
 神谷は自嘲するように言った。
 「俺の言葉が人を傷つけることくらい、分かっている。だが、お世辞や同情でいい作品が書けるとは思わない」
 彼は僕の方を向き、真っ直ぐに僕の目を見た。
 「蒼井。君はどうだ? 君は誰にも傷つけられず、誰も傷つけない、安全な場所でだけ物語を書いていくつもりか?」

 その問いは、僕の心の最も柔らかい部分を鋭く抉った。


 家に帰る道すがら、僕は神谷の言葉を反芻していた。
 安全な場所。確かにそうだ。僕は自分の殻に閉じこもり、誰にも評価されず、誰にも傷つけられない場所でだけペンを握ってきた。
 陽菜にさえ、本当の自分を見せることを恐れていた。彼女に嫌われるのが怖かったからだ。

 僕は公園のベンチに腰を下ろした。夏の終わりの、陽菜と話したあの公園だ。
 空は秋の気配を帯びた高く澄んだ、しかし確かな夕焼けの色をしていた。

 僕はカバンから例の黒いノートとは別の、新しい大学ノートを取り出した。そして、万年筆のキャップを外す。
 何を書くか、決めていたわけではない。
 ただ、書かなければならないと思った。
 神谷のためじゃない。部誌のためでもない。僕自身のために。そして、陽菜にいつか本当の僕を知ってもらう、その第一歩として。

 僕は書き始めた。
 それは僕と君の物語ではなかった。
 光と影を抱えた、一人の不器用な少年の物語。
 彼がどうしようもなく美しいと感じてしまった、夏の夜の花火の物語だ。
 そこには、僕が初めて感じたあの夜の純粋な感動だけを、嘘偽りなく込めることにした。

 これが僕が君に話せる最初の「本当のこと」になるかもしれない。
 僕はただひたすらにペンを走らせた。
 秋の風がノートのページを優しくめくっていく。僕の新しい物語が、静かに産声を上げた瞬間だった。


 秋の空気は、嘘がつけないほどに澄み渡っていた。
 僕はあの日公園で書き始めた短編小説を来る日も来る日も磨き続けていた。それは、今まで僕がしてきた創作とは全く異なる行為だった。

 黒いノートに綴る言葉は、僕の内側から溢れるマグマをただ無秩序に書き殴る作業だった。だが、この新しい物語は違った。夏の夜、僕の目に映った花火の光、君の横顔。その記憶を濁らせず、汚さず、ありのままの形で言葉に結晶化させる。それは、泥の中から一粒の砂金を探し出すような途方もなく繊細で、根気のいる作業だった。

 何度も書き直し、そのたびに自分の語彙の乏しさに絶望した。僕の言葉は、あの夜の美しさに到底追いつけなかった。それでも、僕は書くのをやめなかった。これは僕が僕自身に課した、初めての誠実な試練だったからだ。

 原稿用紙にして、十五枚。
 文化祭の一週間前。僕は完成したそれを手に、文芸部の部室の扉を叩いた。

 「……来たか」
 中には、神谷 蓮が一人でいた。彼は僕の手にある原稿用紙の束を一瞥し、静かに手を差し出した。僕は汗で少し湿ったそれを、神谷に手渡す。まるで自分の心臓の一部を切り取って差し出すような気分だった。

 神谷はその場で原稿を読み始めた。パラ、パラ、と紙をめくる乾いた音だけが静かな部室に響く。僕は被告人のような気持ちで、彼の表情をただ見つめていた。
 数十分後、彼は最後のページを読み終え、原稿を机に置いた。

 「……なるほどな」
 神谷は僕の目を見て言った。
 「お前がずっと書いてきたであろう、自己憐憫と呪詛に満ちた文章とは、全く違う。これは、祈りの物語だ」
 「……」
 「技巧的には、まだ拙い部分も多い。だが熱がある。これを書いた人間本気で世界の一瞬を美しいと信じたことが伝わってくる」
 彼はふっと口元を緩めた。それは、僕が初めて見る彼の笑みだったかもしれない。
 「部誌の巻頭に載せる。いいな?」

 僕はただ頷くことしかできなかった。
 安堵と、それ以上に大きな恐怖が僕の全身を支配していた。僕の物語が、僕の手を離れていく。誰かの目に、そして、君の目に触れるかもしれない場所へと。


 文化祭の準備が本格化し、学校全体が非日常的な熱気に包まれていった。
 僕たちのクラス、一年四組の出し物は定番の「お化け屋敷」だった。陽菜は実行委員としてクラスの中心になり、企画から装飾まで楽しそうに飛び回っていた。

 「朔! ちょっと、そこの段ボール、黒く塗るの手伝って!」
 「分かった」

 僕は陽菜に指示されるがまま、ペンキの刷毛を動かした。クラスメイトたちと共同で何かを作り上げるという経験は、僕にとってひどく新鮮だった。ペンキの匂い、響き渡る金槌の音、そしてすぐそばで聞こえる君の笑い声。そのすべてが、僕が今まで知らなかった「青春」というものの、具体的な形のように思えた。

 「朔、最近なんだか楽しそうだね」
 休憩中、二人で床に座り込んで麦茶を飲んでいる時、陽菜がぽつりと言った。
 「……そう見えるか?」
 「うん。前はもっとこう……ガラスの壁があるみたいな感じだったけど、今はちゃんとここにいる感じがする」
 彼女は悪戯っぽく笑った。
 「何か、いいことでもあった?」

 僕は部誌の原稿のことを言いかけて、やめた。
 サプライズ、というわけではない。ただ、僕の物語は何の先入観もなく君に読んでほしかった。

 「……さあな。文化祭の準備が、思ったより楽しいだけかも」
 それは半分本当で、半分は照れ隠しだった。
 陽菜は僕の答えに満足そうに頷いた。「そっか! よかった!」と笑う。
 その笑顔を見ていると、僕の物語を君に読まれることへの恐怖がほんの少しだけ和らぐような気がした。君がこの物語を読んで、どんな顔をするだろう。僕が感じたあの夜の美しさが、少しでも君に伝わったらいい。

 いつの間にか、僕はそう願うようになっていた。


 そして文化祭当日。
 朝の澄んだ空気が、校内に満ちる喧騒をより一層際立たせている。正門にはアーチが飾られ、校舎の窓からは色とりどりの装飾が垂れ下がっていた。

 僕は、自分のクラスのお化け屋敷の呼び込みの当番をこなしながらも、ずっと上の階にある文芸部の展示室のことが気になっていた。
 部誌は、もう並べられているだろうか。
 誰かが、もう手に取っただろうか。
 君はいつ、そこへ行くのだろうか。

 昼休みになり、僕は交代のクラスメイトに後を任せて、そっと教室を抜け出した。
 心臓が早鐘のように鳴っている。
 これから起こることへの期待と不安で、足が竦みそうになる。

 三階の一番端にある、文芸部の部室。
 扉の前には、『文芸部誌「青藍」配布中』と書かれた看板が立てかけてあった。
 僕は深く、深く息を吸い込んだ。そして、意を決してその扉に手をかける。

 僕の書いた物語が、君に届くかもしれない。
 それは、僕が君を嗤わせるためではなく、ただ君に笑ってほしいためにペンを握った、最初の物語。

 僕の青春の、不器用で、精一杯の告白がそこにはあった。