「桜の下で生きたい」
 桜の樹の下には死体が埋まっているらしい。自死をお洒落に、僕は一人呟く。
 高校の入学式を明日に控えた、四月の早朝。夜の名残が溶け残ったような青白い光が、街を静かに満たしていた。
 僕は、真新しい制服でも、期待に満ちた心でもなく、一冊の本を抱えて家の前に立っていた。
 『市立湊中学校 第七十期卒業記念アルバム』。
 ずしりと重いそれは、三年間という時間の結晶であり、未来への門出を祝う証のはずだった。

 指定のゴミ袋の中に、昨日まで使っていたくたびれた問題集やノートを詰め込む。その一番上に、僕はアルバムをそっと置いた。表紙の硬い感触が、指先に虚しく伝わる。
 可燃ゴミの収集は、明日の朝。入学式の朝だ。僕が新しい生活へ一歩を踏み出すその瞬間に、この思い出の塊は、無機質な機械音と共に砕かれ、焼却炉へと消えていく。

 それでいい。それがいいんだ。
 僕は自分にそう言い聞かせた。

 春も、夏も、体育祭で見た澄んだ群青の空も。その全てが僕にとって、あまりに眩しすぎた。アルバムの中で無邪気に笑う僕の隣には、ほとんどいつも君がいたから。
 太陽みたいに笑う、(さくら)()()が。

 このアルバムが未来のどこかで不意に開かれ、君との思い出が埃をかぶった光のように蘇ってしまうのが、僕は怖かった。
 君と笑っている僕の全てが、いつか「嘘」になってしまうことが。
 だから、僕の方から捨てなければならなかった。この思い出も、思い出の中にいる僕も。

 すべてが嘘になる、その前に。


 時計の針を、数週間だけ巻き戻す。
 まだ肌寒い風が吹く三月、僕たちは中学を卒業した。

 体育館での式典は、ひどく退屈だった。校長先生の陳腐な祝辞も、在校生の心のこもっていない送辞も、右から左へと抜けていく。僕の意識は、視界の隅の方で揺れている黒いモビールのように、現実から少しだけずれた場所を漂っていた。僕は小説家になりたい。だから、こういう儀式めいたイベントは、いつも物語の素材として俯瞰で観察してしまう癖があった。

 ――主人公は、世界の終わりみたいに退屈な卒業式で、唯一、隣の席の少女のことだけを考えている。

 そんなありきたりな平凡的の一行を、頭の中の原稿用紙に書きつけては、すぐに消した。

 式が終わり、それぞれの教室へ戻る。最後のホームルーム。担任の涙ぐんだ挨拶が終わると、教室は途端に騒がしくなった。解放感と、別れを惜しむセンチメンタリズムが混ざり合った、奇妙に明るい喧騒。
 誰もが卒業アルバムを手に、寄せ書きをせがんで教室中を歩き回っている。

 「朔! いた!」

 その声が聞こえた瞬間、僕の世界の解像度がぐっと上がる。振り返ると、陽菜がそこにいた。友達に囲まれながらも、その中心でひまわりのように笑っている。彼女は僕を見つけると、周りの子たちに「ごめん、ちょっとだけ!」と断って、僕の席まで駆け寄ってきた。

 「はい、これ!」
 「……アルバム?」
 「書いてよ、朔も。ほら、私のページ」

 陽菜がぱっと開いたページには何故か、制服姿の彼女が少し照れたように微笑んでいる写真があった。その周りは、すでにびっしりとカラフルなペンで埋め尽くされている。

 「すごいな、もうこんなに……」
 「でしょ? でも朔の場所、ちゃんと空けてあるんだから」

 そう言って彼女が指さしたのは、写真のすぐ下の一番いい場所だった。僕は戸惑いながら、胸ポケットに差していた万年筆を抜いた。小説を書くための、僕の唯一の武器。周りがサインペンでポップなイラストを描く中、僕の黒インクはあまりに場違いな気がした。

 「何て書こうかな……」
 「んー、何でもいいよ! あ、そうだ。『俺の次回作、主役はお前だ!』みたいな?」
 「……そんなキザな台詞、書けるわけないだろ」

 僕は苦笑しながら、ただペン先を紙に落とした。インクがじわりと染みていく。

 『高校でも、よろしく。小説、楽しみにしてる。 桜 陽菜』

 僕のアルバムに書かれた、彼女の丸っこいきれいな字。その隣に、僕は何を書けばいい?
 本当の気持ちなんて、書けるはずもなかった。反吐が出るほどの嘘なら、いくらでも並べられるのに。

 結局、数秒迷った末に、僕は当たり障りのない言葉をインクにした。

 『卒業おめでとう。高校でも頑張って。 蒼井 朔』

 「えー、固いなあ、朔は!」
 陽菜は唇を尖らせたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。「ま、朔らしいか! ありがとう!」と言って、アルバムを受け取る。
 彼女が去っていく背中を見送りながら、僕は自分のアルバムに書かれた陽菜のメッセージを指でなぞった。「小説、楽しみにしてる」。その言葉が、嬉しくて、同じくらい重かった。

 彼女は知らない。
 僕が書いている小説の本当の姿を。
 僕が、このきらきらした世界からどれだけ乖離した場所に立っているのかを。

 最初から全部知っていたなら、君は僕に「楽しみにしてる」なんて、言わなかっただろう。

 教室の窓から差し込む西日が、床の埃を金色に照らしていた。誰もが未来への希望に満ちている空間で、僕だけが、やがて来る終わりの日のことを考えていた。

 

 陽菜とは、同じ高校に進学することが決まっていた。
 それは偶然ではなく、僕が彼女に合わせたからだ。彼女が行くと言っていた進学校。僕の成績では少し挑戦だったけれど、死に物狂いで勉強した。
 陽菜のいない世界で生きていく方法を、まだ知らなかったから。

 そして、入学式前日の朝。
 僕は、ゴミ袋の口を固く縛った。僕たちの「思い出」が詰まった袋を、指定された収集場所へと運ぶ。金属製のカラス除けネットを被せながら、これでよかったのだと、もう一度自分に言い聞かせた。

 陽菜。君はきっと、高校でも太陽みたいに笑うんだろう。
 僕はその隣で、君を傷つけないための嘘を、これからいくつ重ねていくことになるんだろうか。

 僕は空を見上げた。春の空は、残酷なくらいに青く澄んでいた。
 僕には、似合わなかった。

 振り返らず、家に入る。
 自室の机に向かうと、一冊の黒いノートを開いた。僕が本当に書いている、誰にも見せたことのない物語。そこに、新しい一行を書き加える。

 『少年は、過去をゴミに出した。少女のいない未来を選ぶために。だが皮肉にも、明日になれば、少年はまた少女と同じ世界で息をすることになるのだ』

 これは、僕の物語だ。
 君が僕を嗤い、離れる。その日に向かっていく長い、長い物語の始まり。



 真新しいブレザーの袖口が、やけに落ち着かなかった。
 講堂に集められた新入生たちの間には、期待と緊張が飽和した蒸気のように立ち込めている。誰もが少しだけ上気した顔で、隣り合った見知らぬ誰かと小さな声で言葉を交わしていた。僕はその熱気から逃れるように、背中を丸めてパイプ椅子に深く座り込む。

 ここでも、僕は観察者だった。
 壇上では校長が「無限の可能性」という、無限に使い古された言葉を繰り返している。一度無限の定義を見直すべきだ。僕の視線は、校長から離れる。数メートル先、斜め前の席。そこにいる陽菜だけを、僕は目で追っていた。

 陽菜は、もう新しい友達を作っていた。隣の席の、髪の長い快活そうな女子と楽しげに囁き合っている。時折くすくすと弾ける笑い声が、この大きな講堂の中で僕の耳にだけはっきりと届く。彼女は光だ。人を惹きつけ、その周りを自然と温かく照らす。僕のような、日陰に留まることを自ら選んでいる人間とは、根本的な構造が違う。

 ――僕が君の隣に立つことは、光の隣に濃い影を落とすのと同じことなんだ。

 そんな感傷的な一文を、脳内で組み立てる。僕の小説は、いつもそんな風に、君を主軸にした僕の独り善がりな感傷から始まっていた。

 式典が終わり、新入生は各クラスが掲示されたボードの前へと殺到する。なぜ予め配布しないのだろう。僕は人混みが引くのを待ってから、ゆっくりと壁際に近づいた。自分の名前を探すよりも先に、無意識に「桜 陽菜」の文字を探してしまう。

 一年四組。
 そこにあった。そして、心臓が小さく跳ねるのを感じた。同じクラスだった。
 僕は彼女の数個上に、自分の名前「蒼井 朔」を見つけた。
 絶望が同時に胸を突く。
 逃げられない。逃げようと決めたはずなのに、運命は僕をまだ君のそばに縛り付けようとする。
 けれど僕の心は高揚感で満ちていた。


 一年四組の教室は、まだ誰のものでもない、新品の匂いがした。
 自分の席を見つけて荷物を置くと、僕は窓の外に視線を逃がした。桜はもう盛りを過ぎ、花びらが風に舞って、春の終わりを告げている。

 教室の前方で、陽菜が新しい友人たちと談笑している。その輪に加わることは、僕にはできない。僕が加われば、きっと場の空気が少しだけ淀む。そういう人間なのだ、僕は。

 やがて担任の教師がやってきて、最初のホームルームが始まった。ありきたりの自己紹介が、出席番号順に進んでいく。誰もが当たり障りのない趣味や、部活への意気込みを語る。僕の番が来た。

 「えー……蒼井 朔、です。……読書が好きです。一年間、よろしくお願いします」

 僕が言えたのは、それだけだった。小説家を目指しているなんて、言えるはずもない。それは僕だけの聖域であり、同時に、誰にも見せられない(おぞ)ましい秘密だったから。

 数人後、陽菜の番が来た。
 彼女はぱっと立ち上がると、太陽のような笑顔をクラス中に向けた。

 「桜 陽菜です! 中学ではソフトテニス部でした。体を動かすのが大好きです! あと、面白い話を聞くのも好きなので、みんな、たくさん話しかけてくれると嬉しいです! よろしくお願いします!」

 完璧な自己紹介だった。快活で、親しみやすく、他者を受け入れる姿勢に満ちている。数人の男子が、早くも色めき立っているのが分かった。教室の空気が、彼女の一言でふわりと明るくなる。

 ほら、やっぱり君は。

 僕が心の中で呟いた、その時だった。
 僕の数席後ろの男子が立ち上がった。少し気だるげな、整った顔立ちの少年。

 「神谷(しんや) (れん)。趣味は、蒼井くんと同じで読書。特に海外文学を少し。文芸部に入るつもりです。よろしく」

 短く、淡々とした挨拶。だが、その声には奇妙な自信が宿っていた。彼は僕の方を一瞥し、すぐに興味を失ったように窓の外に目を向けた。
 神谷 蓮。その名前を、僕は無意識に記憶に刻みつけた。


 ホームルームが終わり、解放された教室が再びざわめき始める。僕は誰に話しかけられるでもなく、静かに帰る準備を始めた。その時だった。

 「朔!」

 呼ばれて顔を上げると、目の前に陽菜が立っていた。
 「やっぱり同じクラスだったね! すごい偶然!」
 「……ああ。そうだな」
 僕は曖昧に笑った。本当は偶然などではないのに。君の笑顔を前にすると、僕はいつも、用意していたはずの嘘さえつけなくなる。

 「私、びっくりしたよ。朔の自己紹介、地味すぎない?」
 「地味でいいんだよ。目立ちたいわけじゃないし」
 「もー、そういうとこ! もっとさ、『壮大な物語を執筆中です』とか言えば、みんな食いついてきたのに!」
 「やめろよ、恥ずかしい」
 本心からそう思う。僕の書くものが、陽の当たる場所で評価されることなど、あってはならない。

 陽菜は楽しそうに笑う。
 「あ、そうだ。この後、さっき自己紹介で仲良くなった子たちと、駅前のカフェに行くんだけど、朔も来ない?」
 「……いや、俺は」
 行き先のない言葉が、喉の奥に詰まる。
 行きたい。君ともっと話したい。君の友達とだって、仲良くなれるものならなりたい。
 けれど、脳裏に朝の光景が蘇る。ゴミ袋の中の、卒業アルバム。
 僕はもう、決めたはずだ。

 「今日は、用事があるから」

 それが僕の高校生活で、君についた最初の嘘だった。
 顔、うまく笑えているだろうか。声が、震えてはいないだろうか。

 「そっか。残念」
 陽菜は少しだけ寂しそうな顔をしたが、すぐに「じゃあ、また明日ね!」と手を振った。彼女はすぐに友達の輪に戻っていく。その背中を見送りながら、僕はゆっくりと息を吐いた。うまく、やれた。

 教室を出て、一人で歩く帰り道。
 桜の花びらが、僕の肩に一片、舞い落ちた。
 春の景色も、新しい制服も、希望に満ちた空気も、何一つ僕には馴染まない。
 僕はポケットから黒い表紙のノートを取り出した。そして、今日の出来事を書き留める。

 『四月十日。初日。
 彼女と同じクラスになった。それは幸運であり、罰でもある。
 僕は今日、最初の嘘をついた。これから何度、同じことを繰り返すのだろう。
 この息苦しさこそが、僕の日常になる。
 君の前では、笑っていなければならないのだから』

 ペンを走らせる指先だけが、唯一、本当の僕だった。
 この長い物語は、まだ始まったばかりだ。


 高校生活というものがある一定のリズムを刻み始めるまで、そう時間はかからなかった。
 朝、決まった時間に家を出て、同じ教室の扉を開ける。退屈な授業を受け流し、昼休みは一人で文庫本の世界に逃げ込み、放課後のチャイムと共に誰よりも早く教室を後にする。
 僕の日常は完璧なまでに平坦で、無味乾燥だった。

 ただ一つ、計算外だったのは、席替えで君が僕のすぐ隣になったことだ。
 陽菜は、僕の左隣、窓際から二番目の席。その距離、わずか四十五センチ。それは僕にとって、天国と地獄を隔てる境界線の長さだった。

 授業中、僕はノートに視線を落としながらも、意識の半分は常に彼女に向いていた。風が窓から吹き込んで、彼女の髪からシャンプーの香りを運んでくる。古典の授業に退屈して、ノートの端に意味のない猫の絵を描いている細い指。時々、小さくこぼれるあくび。
 そのすべてが僕の心を乱し、同時に、どうしようもなく満たした。
 僕は君の隣で、息を潜めるようにして存在していた。まるで美しい絵画の隣に置かれた、染みだらけの額縁のように。

 「ねえ、朔」
 ある日の昼休み、いつものように本を読んでいた僕に、陽菜が話しかけてきた。
 「ここの問題、ちょっと教えてくれない?」
 彼女が指さしたのは、数学の問題集だった。僕の得意科目だ。
 「ああ、いいよ」
 僕は平静を装い、彼女のノートを覗き込む。心臓が、肋骨の裏でやかましく跳ねていた。

 「とりあえず実験して、法則が見えてくるんだ。そうしたらそれを成り立つよう仮定して、綻びを見出す。この問題だと……」
 僕が説明すると、陽菜は「なるほど!」と声を上げた。
 「すごい、朔! やっぱり頭いいんだね。ありがとう!」
 屈託のない笑顔。その純粋な称賛が、鋭い針のように僕の胸を刺した。
 違うんだ。僕は君が思うような人間じゃない。君の隣にいる資格なんてない。

 「……別に。これくらい、普通だろ」
 僕はぶっきらぼうにそう言うと、すぐに自分の文庫本に視線を戻した。これ以上、君と目を合わせていると、心の奥底で飼い慣らしている醜い何かが顔を出しそうだった。
 陽菜は少し意外そうな顔をしたが、すぐに「そっか。じゃあ、また分からなかったら聞くね!」と言って、友達の輪に戻っていった。

 僕は本を開いたまま、活字を目で追うことができなかった。
 君との短い会話の一つ一つが、僕にとっては薄氷の上を歩くようなものだった。いつ、どんな拍子にこの完璧な偽りの日常が崩れ落ちるか、分からなかった。


 僕の警戒心を、さらに強くする出来事があった。現代文の授業だ。
 課題は、夏目漱石の『こころ』を読み、先生とK、そして私の関係性について考察を述べるというもの。僕はこういう課題が好きだった。人間の内面に渦巻く嫉妬や孤独、エゴイズム。それは、僕が自分の黒いノートに書き殴っている世界と、よく似ていたからだ。

 レポートの提出日、教師は数人の優れたレポートを名前を挙げて講評した。
 「……特に、神谷のレポートは秀逸だった。Kの孤独と、先生が抱える罪悪感の根源を、自身の解釈を交えて鋭く分析している」
 名指しされた神谷 蓮は、表情一つ変えずに窓の外を見ていた。

 僕は、当たり障りのない模範解答のようなレポートを提出していた。Kの行動原理も、先生の苦悩も、僕には痛いほど理解できた。だが、それを書くことは、自分の内臓を抉り出して衆目に晒すのと同じことだった。僕にはできなかった。

 授業後、陽菜が僕の席にやってきた。
 「神谷くん、すごいね。頭いいんだ」
 「……そうだな」
 「朔も本が好きだから、ああいうの書けるんじゃない? どんなこと書いたの?」
 無邪気な質問。だが僕にとっては、尋問に等しかった。
 「俺のは、大したことないよ。教科書に書いてあるようなこと、まとめただけだ」
 「ふぅん。朔、もっと色々考えてそうなのに」

 時々核心を突く。
 その言葉に、僕の心の壁がひび割れそうになる。衝動的に、本当のことを話してしまいたくなる。
 僕が考えていること、書いていること。この世界に対する絶望と、君に対する歪んだ執着を。

 「……別に」
 僕は短く答えを切り、無理やり会話を終わらせた。陽菜は、また少し寂しそうな顔をして、自分の席に戻っていった。
 ごめん。ごめん、陽菜。
 僕は心の中で、ひたすら謝罪を繰り返した。君が僕の内側を覗き込めば、きっと幻滅する。軽蔑する。だから僕は、君の前では空っぽの人間でいなければならないんだ。


 その日の放課後、僕は文芸部の部室を、扉の外からそっと覗いていた。
 神谷 蓮が、一人で静かに本を読んでいる。彼なら、僕の書いているものを理解するかもしれない。そんな淡い期待が、一瞬だけ胸をよぎった。
 だが、すぐに首を振る。
 理解されてたまるか。これは僕だけの地獄だ。誰にも踏み込ませるわけにはいかない。

 僕は踵を返し、一人、家路についた。
 夕日が、僕の影を長く、長くアスファルトに伸ばしている。まるで、僕の中から溢れ出した黒い感情が、形になったかのようだった。

 家に帰ると、僕はすぐに机に向かい、黒いノートを開いた。
 苛立ちと、自己嫌悪を、すべてペン先に叩きつける。物語の中の主人公に、僕は自分を投影していた。

 『少年は、少女に才能を褒められる。だが、それは少年にとって呪いの言葉だった。彼は自分の才能が、泥の中から咲いた、醜い花であることを知っていたからだ。少女がその花を美しいと褒めるたび、少年は根が張っている泥の存在を思って、吐き気を催した』

 書くことだけが、僕の救いだった。
 書くことで僕は「本当の僕」を殺し、明日また君の隣で「嘘の僕」を演じることができる。

 この日常は、薄氷だ。
 その下にはどこまでも冷たくて暗い水が広がっている。
 僕は君を、決してこの水には落とさない。そのために僕は嘘をつき続ける。たとえこの氷が割れて、僕だけが沈むことになったとしても。

 
 季節は湿った空気と鮮やかな緑を連れて、初夏へと移り変わろうとしていた。
 ブレザーを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくる生徒が増える。僕と陽菜の関係は、隣の席という物理的な近さとは裏腹に、奇妙な均衡を保ったままだった。僕は必要最低限の言葉しか発さず、陽菜も、そんな僕の態度をどこか察しているのか、以前よりは少しだけ距離を置くようになった。

 それでいい。僕はそう自分に言い聞かせた。君が僕のテリトリーに深く踏み込まないことは、君にとっても、僕にとっても、安全なことなのだと。

 その均衡が、予期せぬ形で揺らいだのは、ある日の放課後のことだった。
 その日、僕は珍しく日直の仕事が残っており、教室で最後の黒板を消していた。他の生徒はもうほとんど帰宅し、西日が差し込む教室は静寂に包まれていた。

 「蒼井くん、だったよね」

 不意に、背後から声をかけられた。
 振り返ると、そこにいたのは神谷 蓮だった。彼は文芸部に行く途中なのか、肩にショルダーバッグをかけ、手には分厚いハードカバーの本を持っている。

 「神谷……くん」
 「レポート、読んだよ。君の『こころ』の」
 「え?」
 どういうことだ、と僕は眉をひそめた。レポートは教師に提出したはずだ。
 神谷は僕の表情を読み取ったのか、小さく笑った。
 「国語科の準備室で、先生が他のレポートと一緒に机に置いていたのを、たまたま目にしただけ。盗み見たわけじゃないさ」
 彼はそう言うと僕の机に歩み寄り、軽く腰掛けた。
 「君のレポートは実に巧みだった。教科書的な解釈を完璧になぞりながら、その行間から筆者の強い葛藤が滲み出ている。まるで、本心を幾重ものオブラートで包んでいるような……そんな文章だった」

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
 見抜かれている。この男は、僕が当たり障りのない言葉の裏に隠した本当の思考を読み取っている。

 「……買い被りだよ。何も考えてない」
 僕は反射的に否定の言葉を口にした。声が自分でも驚くほど冷たく響く。
 神谷はつまらなそうに肩をすくめた。
 「そうかな。君、何か書いてるだろ。小説とかそういう類のものを」
 「……」
 「図星か。まあ、興味があるなら、いつでも文芸部の部室に来るといい。うちは部員が少なくてね。君みたいな人間は、歓迎する」

 それだけ言うと、神谷は「じゃあ」と短く告げて、教室を出て行った。
 一人残された教室で、僕はしばらく動けなかった。
 初めてだった。自分の内側にある、誰にも触れさせたくなかった領域に、土足で踏み込まれたような感覚。不快感と、それとは正反対の、ほんの少しの安堵感が入り混じった、奇妙な感情が渦巻いていた。


 神谷との遭遇は僕の心に小さな、しかし確かなさざ波を立てた。
 そして、その波紋は陽菜との関係にも影響を及ぼし始める。

 翌日の昼休み。
 陽菜がいつものように友達と弁当を食べているのを横目に、僕は文庫本を開いていた。すると、陽菜たちのグループから神谷 蓮の名前が聞こえてきた。

 「神谷くんて、ミステリアスでかっこよくない?」
 「わかるー。でも、なんか喋りかけづらいオーラあるよね」
 「陽菜は蒼井くんと席が隣だから、神谷くんとも喋ったりするの?」

 陽菜の友達が、何気なくそう尋ねた。
 陽菜は、一瞬だけ僕の方に視線を向け、すぐに友人たちの方へ向き直った。

 「ううん、全然。神谷くんは……そうだな、朔と似てるかも。本を読んでることが多くて、あんまり喋らない感じ」
 「ああ、なるほどね。二人とも文学少年って感じだ」

 その会話が、僕の耳には棘のように突き刺さった。
 僕と、神谷が、同じ?
 冗談じゃない。彼は、自分の才能や思考を、他者に評価されることを恐れていない。むしろ、その切れ味を静かに誇っているようにさえ見える。
 僕のように自分の内面を隠すために、反吐が出るほどの嘘を並べている人間とはまったく違う。

 なのに、君の目には僕たちは同じように映るのか。

 その日の午後、授業中に消しゴムを落とした陽菜が、僕に「ごめん、拾ってくれない?」と小さな声で頼んできた。僕は黙ってそれを拾い、彼女の机に置く。
 「ありがとう」と微笑む彼女に、僕は何も答えられなかった。
 心の中に黒いインクが一滴、落ちたような気がした。嫉妬だろうか。神谷に対するものでもない。陽菜に対するものでもない。
 おそらくは彼女にさえ、本当の自分を理解してもらえないという、絶望的な孤独感からくるものだった。


 家に帰ると、僕は逃げるように黒いノートを開いた。
 ペン先が紙の上を激しく滑る。

 『少年は自分とよく似た、もう一人の少年に出会う。だが、彼らは似て非なる存在だった。もう一人の少年は、自らの影を武器にすることができる。一方、主人公の少年は、その影にただ喰われ続けているだけだった』
 『少女は、二人の少年の違いに気づかない。彼女の純粋な瞳には、どちらも同じ「陽」にしか見えないのだ。その無邪気さが、主人公の少年をより深い孤独へと突き落とす』

 書けば書くほど、胸が苦しくなる。
 陽菜との思い出は、美しいままのはずだった。中学までの僕は、もっとうまくやれていた。もっと自然に、君の隣で笑えていたはずだ。
 いつからだろう。こんなにも、反吐みたいな嘘を並べるようになったのは。

 ああそうか。
 僕が、君と同じ世界にいることを望んでしまったからだ。
 君の光に焦がれて、身の程もわきまえずに、手を伸ばしてしまったからだ。

 その罰として僕は嘘をつき続ける。
 君が僕を嗤い、目の前から消えるその日まで。
 いや、違う。
 君はきっと、僕を嗤ったりしない。君はただ、何も知らずに、僕の前から去っていく。あるいは、僕が君の前から消える。

 その日のことを想像すると、息が詰まりそうだった。
 僕はペンを置き、窓の外を見た。夜の闇が街を静かに飲み込んでいく。その闇が今の僕には、ひどく心地よかった。


 夏が来た。
 アスファルトを焼く陽射し、鳴り止まない蝉の声、そして日に日に濃くなっていく木々の緑。世界が色彩と熱量を増していく中で、僕だけがモノクロの映画の中にいるような、そんな感覚があった。

 高校最初の夏休みを目前にしたある日、教室は浮ついた空気に満ちていた。話題は夏祭りの計画や、部活の合宿、旅行の予定。誰もがこれから始まる特別な季節に胸を躍らせている。

 「ねえ、朔」
 隣の席から陽菜が声をかけてきた。彼女の声は、夏の光みたいに明るい。
 「夏休み、何か予定あるの?」
 「……別に。家で本でも読んでる」
 いつもの模範解答。僕は顔を上げずに、開いていた文庫本に視線を落としたまま答えた。

 「そっか。あのね、もしよかったらなんだけど……」
 陽菜が少しだけ言い淀む。僕は思わず、本のページから顔を上げた。彼女は少し頬を赤らめながら、続けた。
 「夏祭り。一緒に行かない?」

 時が止まったような気がした。
 心臓が大きく、ゆっくりと脈打つ。
 行きたい。喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。
 夏祭り。君と二人で。それは、僕が密かに夢見ていた光景そのものだった。人混みの中、君の隣を歩き、夜空に咲く大輪の花火を見上げる。それは僕が書く小説の中だけの、許された幻想のはずだった。

 だが、現実の僕はその誘いに頷くことができない。
 君と二人で出かければ、きっと僕はもっと多くの嘘をつかなければならなくなる。楽しいフリをして、平気なフリをして、君に相応しい人間であるかのように振る舞わなければならない。その嘘の重さに、僕は耐えられないだろう。

 そして何より、僕が恐れたのは、君との楽しい思い出がまた一つ増えてしまうことだった。
 思い出はいつか僕を罰する。アルバムを捨てた時のように、僕はまた何かを捨てなければならなくなるかもしれない。

 「……悪い。その日は、ちょっと用事があって」
 声が震えなかっただろうか。
 僕は自分の声がやけに遠く聞こえるのを感じていた。反吐が出るほどの嘘。また一つ、それが僕の中から吐き出された。

 「そっか……」
 陽菜の顔に、分かりやすい落胆の色が浮かぶ。その表情が鋭いナイフのように僕の心を抉った。傷つけている。僕が一番傷つけたくないはずの君を、この手で傷つけている。
 「……うん。分かった。ごめんね、急に誘ったりして」
 彼女はそう言って、無理に笑顔を作った。その笑顔が、僕にはひどく痛々しく見えた。


 陽菜を断ってしまった罪悪感は、鉛のように重く僕の心に沈殿した。
 その日の放課後、僕は逃げるように図書室へ向かった。静寂と古い紙の匂いだけが、今の僕を慰めてくれる唯一のものだったからだ。

 書架の間を漫然と歩いていると、ふと見覚えのある背中が目に入った。
 神谷 蓮だった。彼は閲覧用の長机に座り、洋書のペーパーバックを静かに読んでいた。まるで、彼だけが世界の騒がしさから切り離されているかのように。

 僕に気づくと、彼は読んでいた本から顔を上げた。
 「蒼井か。珍しいな、君がここにいるなんて」
 「……別に。時々、来る」
 僕は素っ気なく答え、彼の向かいの席に静かに腰を下ろした。

 しばらく沈黙が続いた。ページをめくる音だけが、僕たちの間に響く。
 その沈黙を破ったのは神谷だった。
 「……君は、どうして書くんだ?」
 それはあまりに唐突で、核心を突きすぎた質問だった。
 僕は驚いて顔を上げた。神谷は、僕の目を真っ直ぐに見つめていた。その瞳はすべてを見透かしているように、どこまでも澄んでいた。

 「……別に、理由なんて」
 「嘘だな」
 神谷はきっぱりと言い切った。
 「君の文章には、強い動機がある。何かから逃げるためか、あるいは、何かを繋ぎ止めるためか。君の書くものは、祈りか、呪詛だ。そんな気がする」

 僕は言葉を失った。
 この男は、僕という人間を僕以上に理解しているのかもしれない。
 反論しようと口を開きかけたが、言葉にならなかった。

 神谷はふっと息を吐くと、読んでいた本を閉じた。
 「まあいい。言いたくないなら、無理には聞かない。だが、一つだけ言っておく」
 彼は立ち上がり、僕の横を通り過ぎる。
 「嘘で塗り固めた世界は、いつか必ず綻びる。その時、君が本当に守りたかったものまで失うことになるぞ」

 その言葉は、予言のように僕の心に突き刺さった。
 一人残された図書室で、僕は窓の外を見た。空はどこまでも青く澄んだ、群青色に染まっていた。
 夏も、この空も、僕には必要ない。
 そう思っていたはずなのに、その日の空の青さはなぜかひどく、目に染みた。


 家に帰っても、神谷の言葉が頭から離れなかった。
 『嘘で塗り固めた世界は、いつか必ず綻びる』
 分かっている。そんなことは、僕が一番よく分かっている。

 僕は黒いノートを開いた。
 しかし一行も書くことができなかった。ペン先が震える。
 今日、僕が陽菜についた嘘。それは今までついてきたどんな嘘よりも、重く、苦い味がした。
 彼女の悲しそうな笑顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。

 僕は本当にこのままでいいのだろうか。
 嘘を重ね、自分を偽り、大切な人を傷つけてまで守ろうとしているこの「世界」とは、一体何なのだろう。それは守る価値のあるものなのだろうか。

 答えは出なかった。
 ただ、僕の心の中で今まで固く閉ざされていた何かが、ほんの少しだけ軋む音がした。
 それは長い、長い物語が新たな展開を迎えようとしている、小さな兆しだったのかもしれない。