月曜日の午後、研究室に着いた僕は二階堂先生の顔を見るなり猫の話を切り出した。
「先生、猫が好きですよね」
「なんだよいきなり」
「大学内に子猫が住み着いています」
二階堂先生は盛大にため息を吐いた。
「おまえさ、俺が世界中の野良猫を飼うとでも思ってんのかよ。見つけたならおまえがなんとかしろ。すぐに人に頼るな」
ガッカリしたけれど、先生の答えはもっともだ。僕は先生なら飼ってくれるかもしれないという考えに甘えていた。自分で飼い主を探してみるという手順を飛ばしている。
「すみません。軽率でした」
「悪いな、俺んとこも一匹いて、相性とかもあるしな」
先生はいつもいっているではないか。手間を惜しむなと。きっと、それは研究においても、生きていくうえでも同じなのだろう。
「ちょっと自分で動きます」
「おまえって、本当にお人よしだよな」
「え?」
「ほうっておけばいいだろ。野良猫なんか。おまえは飼えないんだろう?」
「母がアレルギーで……」
「最期まで責任取れないなら放っておけ。首突っ込むな」
二階堂先生の言い分ももっともなのかもしれない。でも僕は、このまま見て見ぬふりをしたくはなかった。
研究を終えてバイト先に向かおうとすると、あの茶虎の猫が現れた。すっかり僕の顔を覚えてしまったのか、単に人に慣れているのか「にゃぁ」と子猫特有のか細い声で鳴きながら僕の足にすり寄ってくる。
「ごめんなぁ、うちじゃぁ飼えないんだ。でも必ずおまえのお家を探してやるから、もう少し待ってくれよ」
少し撫でてやってから、僕はバイト先へ急ぐ。背中に注がれる小さな視線が気になったが、僕が少し離れたのを見ると、キャンパス内の茂みに飛び込んで、子猫は見えなくなった。
「猫の里親かぁ」
トーストにはちみつをたっぷり塗り終えてから亜弓さんは手を止めて思案するような表情になった。
「大学の敷地内に住み着いてるんじゃないかと思うんだ。ここに里親募集の張り紙とか貼ってもいいかな?」
「うん、いいよ。私作ってあげるよ、朔ちゃん絵も字も下手くそだもんね」
ありがたい申し出だけど、一言二言余計だ。
「出来たら貼っておくよ。朔ちゃんも猫好きだねぇお互い飼えないのが切ないね」
亜弓さんはいたずらっぽく笑って肩を竦めた。ふと、奏さんの話していたことが頭に浮かぶ。亜弓さんの好きな人って、どんな人だろう。少し気になる。
じっと亜弓さんを見つめていると、ぱちっと目が合った。
「なぁに、人の顔見つめたりして。私に惚れちゃった?」
「僕、亜弓さんのこと好きだよ。従姉として。だから幸せになってもらいたいんだけど」
「なによ、十分幸せなんだけど。朔ちゃんは今の幸せを逃がさないようにもう少し頑張りなさいよ」
亜弓さんは少し意地悪な顔をしてそんなことをいう。なにを頑張ったらよいのか見当がつかず、僕は首を傾げた。亜弓さんは呆れたような表情になる。
「朔ちゃんって、賢いのに、頭の中はお子様なんだよね。そういうの悪くないよ」
「それ、褒めてないよね」
「褒めてるよ」
亜弓さんはこうやってすぐに自分の話から僕の話に変えてしまう。奏さんのように上手く話を聞けそうにない。亜弓さんは僕よりもずっと大人だ。僕や奏さんのお節介はきっと必要ない。
恋をして、結婚して、それが正しいとは限らない。僕の両親のように、一度は永遠を誓いながらも袂を分かつこともある。母は疲れて見えても、今の方が活き活きとしているように見える。人によって、正解の形は異なるのだろう。
バイト帰り、僕はドラッグストアに立ち寄った。飼えないくせにエサを与えるのはどうかと思う。保健所に連れて行くのが最良なのだろう。でも。
僕は衝動に負けてキャットフードを買って帰った。
キッチンで食事の支度をしている母の背中からは鼻歌が聞こえた。どうやら機嫌が良いらしい。僕は意を決して頼みごとをする。
「母さん、猫が飼いたいんだけど」
母はくるりと僕を振り返り、眉をひそめた。これは駄目だ。駄目な時の反応だ。でも、もう後には引けない。
「猫?」
「そう、子猫。学校の敷地内に住み着いてる野良猫を飼いたいんだ。その……里親が見つかるまで」
「里親って……いつまでかかるの? 私は家にいないし、あんたも学校があるし……それに私猫……」
「わかってる。母さんが猫アレルギーなのを忘れたわけじゃない。でも、放っておきたくなくて……頼むよ、僕の部屋で飼うから。学校とバイト以外は家いいて面倒みる。ワクチンとか僕のバイト代で受けさせるから……」
あとはなんだ、虚勢費用や避妊費用はいくらかかるんだろう。僕のバイト代で足りるだろうか。そもそもあの茶虎は雄だろうか、雌だろうか。そう色々なことが文字となって頭の中を回る。
母さんの了解を得るには、どうしたらいいだろう。
答えのない問題を解いているみたいだ。僕が言葉に詰まっていると、母さんは小さくため息をついてから表情を緩ませる。
「いいわよ」
「え?」
肯定の意をなかなか読み取れないでいると、母さんはおかしそうに笑った。
「少しの間なら飼っていいよっていってるの」
「本当!」
「そのかわり、頑張って良い里親探しなさいよ」
「ありがとう母さん、母さん猫アレルギーだし、支障が出ないようにするから」
そう言うと、母さんは驚いたように目を丸くする。
「私、猫アレルギーなんかじゃないわよ」
「え! でも、父さんが猫を飼いたいっていったときに嫌だって、アレルギーだからって……」
僕の言葉に、母さんは「あぁ」と思い出したかのように笑う。
「あれね、あのときは猫を飼いたくなかっただけ。あんたがまだ幼稚園くらいの時だっけ? 懐かしい、よく覚えてるわね」
僕が年長の時、父さんの会社の後輩から子猫を譲り受ける話があった。母さんは自分はアレルギーがあるといって飼えなくて、僕はとても残念な気持ちになった。僕は飼いたかったのだから。
「私もバカだったのよ。お父さん、その猫をくれようとしていた後輩職員のことをすごく可愛がっててね、それは当然後輩としてなんだけど、私、それが気に入らなかったんだと思うの」
「それって女性?」
「そうよ、浮気でもしてるんじゃないかって疑っちゃったわ。違うんだけどね。だから少し意地悪したの」
いたずらっぽく笑う母さんの顔が、なんだか幼い子供のように見えた。僕は呆れて物もいえない。
「母さんさ」
本当は、父さんのことがすごく好きなんじゃないの?
「なに?」
「いや、なんでもない。ありがとう、すごく助かる」
僕は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。ここで母さんの機嫌を損ねるわけにはいかない。
もしも母さんが今でも父さんのことが好きなのだとしたら、離婚したのはやはり僕のせいだ。僕が、二人の仲を裂いたから。
僕は心の中にポトリと鉛の粒が落ちてきたような気分になる。重みでわずかに沈む心を必死に持ち上げる。
「あんたが何かお願い事してきたら、なんでも聞いてやろうって思ってたのよ。それが猫とはね」
母さんはふふっと少しだけ寂しそうに笑った。
翌日、授業を終え、研究室に駆け込んだ僕は二階堂先生に報告する。
「先生、しばらくの間、うちで猫を飼えることになりました」
紙やファイルがぐちゃぐちゃに積まれた机の上でパソコンを叩いていた先生は顔を上げる。
「へぇ、おまえ面倒みるの」
「里親が見つかるまでなんですけど。ずっと飼えるわけではないので、早く里親を見つけないと」
「家にいたら手放せなくなるぞ。里親にやるんならあんまり可愛がりすぎるな、情が移ると別れが辛くなる」
「先生、娘を嫁にやるとき機嫌を悪くするタイプですね」
「俺、娘もいないし、結婚もしてない」
「いつか結婚したら教えてくださいよ。お祝いしたいし」
「いや、そんな日永遠に来ねぇし」
亜弓さんもそうだけど、先生も女っ気というものがない。この汚らしい風貌がいけないのだろうかとも思うが、意外とこの汚らしい風貌が一部の女生徒に受けているらしいと大地がいっていた。
面倒見もいいし、モテないことはないんだろうけど、先生にその気がないのかもしれない。
「そういやおまえ、十月に学会があるけどついてくるか?」
話題が急に真面目なものにかわって僕は一瞬反応に遅れる。学会というのは二階堂先生や院生の先輩たちが書いた論文を発表するような場のことだ。現場で働く薬剤師の先生方も多く参加されている。
「え、いいんですか? 学部生なのに?」
「ちゃんとスーツ着て来いよ」
僕は入学式の時に着て以来、押し入れにしまい込んでいるスーツの存在を思い出す。クリーニングに出しておこう。
バイト先に行く前に茶虎に出会った。僕を見つけて「にゃぁ」と可愛らしい声で鳴く。
「おまえのこと、しばらく家においてやれそうなんだ。帰りに迎えに来るからもう少し待っていてくれよ」
茶虎は僕の言葉がわかったのか、「にゃぁ」と高い声で鳴く。茶虎と別れてカフェ「アザミ」に行くと、涼しい空気が僕を包んだ。からりと乾いた店内に入ってようやく、外の蒸し暑さを思い出す。
店の中には奏さんがいた。大きめのグラスを小さな両手で包むように持っている。
グラスの中ではミルク色に染まったカフェオレの中で氷が泳いでいる。奏さんは僕を見てパッと表情を明るくした。
「朔さん、お邪魔しています」
奏さんの小さな頭の上には、髪の毛を緩くまとめたお団子が乗っている。ほっそりとしたうなじが見えて、僕は少しだけどきりとした。黄色のTシャツにデニムのハーフパンツ。今日の奏さんは少しボーイッシュに見える。
「朔ちゃん、猫ちゃんのポスターできたよ。奏ちゃんが手伝ってくれたの」
カウンターの奥から顔を出した亜弓さんは、A4のコピー用紙を持っていた。可愛らしい茶虎の猫のイラストと、里親募集の文字がわかりやすく書いてある。
「すごい! これ、奏さんが書いてくれたの?」
「私、絵を描くのが好きみたいです」
奏さんははにかんだ。僕は自宅で茶虎を預かることができるようになったと報告する。亜弓さんも奏さんも一緒に喜んでくれた。
「朔ちゃん、それなら今日はもうバイトなんかしなくていいから、早く必要なもの飼って連れ帰ってやりなよ。ほら、トイレの砂とか色々必要でしょう?」
「それはありがたいけど……」
「大丈夫大丈夫お客さんもそんなに来ないの知ってるでしょう? 奏ちゃんも一緒に行ってあげてよ」
そういって、僕と奏さんは亜弓さんにお店を追い出されてしまった。
「亜弓さんって素敵ですよね」
ドラッグストアに行く途中、奏さんは亜弓さんのことを褒めちぎった。身内が褒められるのはなんだか気恥ずかしい。
奏さんの耳では、雫の形をした青いイヤリングが揺れている。亜弓さんと一緒に作ったものかもしれない。青い雫は白くて小さな耳によく似合っていた。
「私も亜弓さんみたいに素敵な女の人になりたいです」
「君は十分素敵だと思うけど」
思わず本音が出た。気持ち悪がられるかもしれない。不安になって隣を見ると、奏さんは不機嫌そうな顔をしていた。しまった……やってしまった。
「からかわないでください」
奏さんは怒ったような声を出した。「からかってないよ」といおうとして、横を向くと、奏さんの頬が赤く染まっているのが見える。
僕は言葉を飲み込んだ。これは、恥ずかしがっているのかもしれない。嫌がってるわけじゃないん気がする。
ここできちんと「君は君のままで素敵だ」といえないから僕は駄目なのだと大地にいわれそうだ。そんなこと、いえるやついるのか?
「十月に学会があるんだよ。二階堂先生に参加してもいいっていわれてさ。スーツをクリーニングに出さなきゃいけないなって思ってるんだ」
気恥ずかしくなった僕は沈黙を破るために不自然に話題を変えた。奏さんもほっとしたように言葉を紡ぐ。
「学会! 格好いいですね、分野は東洋医学ですか?」
「二階堂先生は植物からの抽出成分の研究結果とかを論文にするんじゃないかな? 学会自体は大きな学術大会だからいろんな分野の論文が出ると思う」
僕はまだ学会というものに行ったことがないから詳細は雰囲気は分からない。
会場は横浜みなとみらいのパシフィコである。大きな学会であることは違いない。
「わぁ、なんだか難しそうですね……」
「奏さんも四年生になって研究室に配属になったら研究するようになるよ。農学部の研究も面白そうだ」
「私、花の品種改良をしたいなと思うんです」
「奏さんは花が好きだもんね、おかげで僕も色々と覚えたよ」
毎週土曜日、一時間ほど温室にいる間に奏さんからいろいろな花について教わった。
「朔さんが好きな花、私、知っていますよ」
奏さんが弾むような声で言う。僕は首を傾げた。自分でもどんな花が好きなのか思い浮かばない。
「朔さんは、ネモフィラが好きでしょう? あと紫陽花とか、小さな青い花が好きなのだと思います」
ネモフィラ……言われて園芸部のプランターに植えられていた青い花を思い出す。確かに、色も姿も好みだと思った。
「確かに好きかも」
「でしょう!」
奏さんは両手を叩いて喜ぶ。無邪気なその表情に、僕の胸は早鐘を打つ。僕は、奏さんと話すたびに感じていたこの感情の名前が、わかったような気がした。僕は奏さんのことが――
「朔さん! いましたよラッテ!」
「ラッテ?」
奏さんが指を差した茂みには、小さな尻尾が揺れている。茶虎だ。僕たちの姿を見つけた茶虎は軽やかな足取りで駆けてきた。
「ラッテってこいつのことかい?」
僕は茶虎を撫でながら尋ねる。
「はい、カフェラテを飲みながらポスターを書いていたんです。色合いがカフェラテだなって思って勝手に名前を付けてしまいました。あ、でもラッテってミルクってことですよね? この子は白じゃないからおかしいでしょうか?」
「いいや、可愛いと思う。決まり、おまえの名前はラッテだ」
僕はラッテと命名した子猫を抱き上げる。ラッテは「にゃぁ」と相変わらず高い声で鳴いた。
「先生、猫が好きですよね」
「なんだよいきなり」
「大学内に子猫が住み着いています」
二階堂先生は盛大にため息を吐いた。
「おまえさ、俺が世界中の野良猫を飼うとでも思ってんのかよ。見つけたならおまえがなんとかしろ。すぐに人に頼るな」
ガッカリしたけれど、先生の答えはもっともだ。僕は先生なら飼ってくれるかもしれないという考えに甘えていた。自分で飼い主を探してみるという手順を飛ばしている。
「すみません。軽率でした」
「悪いな、俺んとこも一匹いて、相性とかもあるしな」
先生はいつもいっているではないか。手間を惜しむなと。きっと、それは研究においても、生きていくうえでも同じなのだろう。
「ちょっと自分で動きます」
「おまえって、本当にお人よしだよな」
「え?」
「ほうっておけばいいだろ。野良猫なんか。おまえは飼えないんだろう?」
「母がアレルギーで……」
「最期まで責任取れないなら放っておけ。首突っ込むな」
二階堂先生の言い分ももっともなのかもしれない。でも僕は、このまま見て見ぬふりをしたくはなかった。
研究を終えてバイト先に向かおうとすると、あの茶虎の猫が現れた。すっかり僕の顔を覚えてしまったのか、単に人に慣れているのか「にゃぁ」と子猫特有のか細い声で鳴きながら僕の足にすり寄ってくる。
「ごめんなぁ、うちじゃぁ飼えないんだ。でも必ずおまえのお家を探してやるから、もう少し待ってくれよ」
少し撫でてやってから、僕はバイト先へ急ぐ。背中に注がれる小さな視線が気になったが、僕が少し離れたのを見ると、キャンパス内の茂みに飛び込んで、子猫は見えなくなった。
「猫の里親かぁ」
トーストにはちみつをたっぷり塗り終えてから亜弓さんは手を止めて思案するような表情になった。
「大学の敷地内に住み着いてるんじゃないかと思うんだ。ここに里親募集の張り紙とか貼ってもいいかな?」
「うん、いいよ。私作ってあげるよ、朔ちゃん絵も字も下手くそだもんね」
ありがたい申し出だけど、一言二言余計だ。
「出来たら貼っておくよ。朔ちゃんも猫好きだねぇお互い飼えないのが切ないね」
亜弓さんはいたずらっぽく笑って肩を竦めた。ふと、奏さんの話していたことが頭に浮かぶ。亜弓さんの好きな人って、どんな人だろう。少し気になる。
じっと亜弓さんを見つめていると、ぱちっと目が合った。
「なぁに、人の顔見つめたりして。私に惚れちゃった?」
「僕、亜弓さんのこと好きだよ。従姉として。だから幸せになってもらいたいんだけど」
「なによ、十分幸せなんだけど。朔ちゃんは今の幸せを逃がさないようにもう少し頑張りなさいよ」
亜弓さんは少し意地悪な顔をしてそんなことをいう。なにを頑張ったらよいのか見当がつかず、僕は首を傾げた。亜弓さんは呆れたような表情になる。
「朔ちゃんって、賢いのに、頭の中はお子様なんだよね。そういうの悪くないよ」
「それ、褒めてないよね」
「褒めてるよ」
亜弓さんはこうやってすぐに自分の話から僕の話に変えてしまう。奏さんのように上手く話を聞けそうにない。亜弓さんは僕よりもずっと大人だ。僕や奏さんのお節介はきっと必要ない。
恋をして、結婚して、それが正しいとは限らない。僕の両親のように、一度は永遠を誓いながらも袂を分かつこともある。母は疲れて見えても、今の方が活き活きとしているように見える。人によって、正解の形は異なるのだろう。
バイト帰り、僕はドラッグストアに立ち寄った。飼えないくせにエサを与えるのはどうかと思う。保健所に連れて行くのが最良なのだろう。でも。
僕は衝動に負けてキャットフードを買って帰った。
キッチンで食事の支度をしている母の背中からは鼻歌が聞こえた。どうやら機嫌が良いらしい。僕は意を決して頼みごとをする。
「母さん、猫が飼いたいんだけど」
母はくるりと僕を振り返り、眉をひそめた。これは駄目だ。駄目な時の反応だ。でも、もう後には引けない。
「猫?」
「そう、子猫。学校の敷地内に住み着いてる野良猫を飼いたいんだ。その……里親が見つかるまで」
「里親って……いつまでかかるの? 私は家にいないし、あんたも学校があるし……それに私猫……」
「わかってる。母さんが猫アレルギーなのを忘れたわけじゃない。でも、放っておきたくなくて……頼むよ、僕の部屋で飼うから。学校とバイト以外は家いいて面倒みる。ワクチンとか僕のバイト代で受けさせるから……」
あとはなんだ、虚勢費用や避妊費用はいくらかかるんだろう。僕のバイト代で足りるだろうか。そもそもあの茶虎は雄だろうか、雌だろうか。そう色々なことが文字となって頭の中を回る。
母さんの了解を得るには、どうしたらいいだろう。
答えのない問題を解いているみたいだ。僕が言葉に詰まっていると、母さんは小さくため息をついてから表情を緩ませる。
「いいわよ」
「え?」
肯定の意をなかなか読み取れないでいると、母さんはおかしそうに笑った。
「少しの間なら飼っていいよっていってるの」
「本当!」
「そのかわり、頑張って良い里親探しなさいよ」
「ありがとう母さん、母さん猫アレルギーだし、支障が出ないようにするから」
そう言うと、母さんは驚いたように目を丸くする。
「私、猫アレルギーなんかじゃないわよ」
「え! でも、父さんが猫を飼いたいっていったときに嫌だって、アレルギーだからって……」
僕の言葉に、母さんは「あぁ」と思い出したかのように笑う。
「あれね、あのときは猫を飼いたくなかっただけ。あんたがまだ幼稚園くらいの時だっけ? 懐かしい、よく覚えてるわね」
僕が年長の時、父さんの会社の後輩から子猫を譲り受ける話があった。母さんは自分はアレルギーがあるといって飼えなくて、僕はとても残念な気持ちになった。僕は飼いたかったのだから。
「私もバカだったのよ。お父さん、その猫をくれようとしていた後輩職員のことをすごく可愛がっててね、それは当然後輩としてなんだけど、私、それが気に入らなかったんだと思うの」
「それって女性?」
「そうよ、浮気でもしてるんじゃないかって疑っちゃったわ。違うんだけどね。だから少し意地悪したの」
いたずらっぽく笑う母さんの顔が、なんだか幼い子供のように見えた。僕は呆れて物もいえない。
「母さんさ」
本当は、父さんのことがすごく好きなんじゃないの?
「なに?」
「いや、なんでもない。ありがとう、すごく助かる」
僕は、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。ここで母さんの機嫌を損ねるわけにはいかない。
もしも母さんが今でも父さんのことが好きなのだとしたら、離婚したのはやはり僕のせいだ。僕が、二人の仲を裂いたから。
僕は心の中にポトリと鉛の粒が落ちてきたような気分になる。重みでわずかに沈む心を必死に持ち上げる。
「あんたが何かお願い事してきたら、なんでも聞いてやろうって思ってたのよ。それが猫とはね」
母さんはふふっと少しだけ寂しそうに笑った。
翌日、授業を終え、研究室に駆け込んだ僕は二階堂先生に報告する。
「先生、しばらくの間、うちで猫を飼えることになりました」
紙やファイルがぐちゃぐちゃに積まれた机の上でパソコンを叩いていた先生は顔を上げる。
「へぇ、おまえ面倒みるの」
「里親が見つかるまでなんですけど。ずっと飼えるわけではないので、早く里親を見つけないと」
「家にいたら手放せなくなるぞ。里親にやるんならあんまり可愛がりすぎるな、情が移ると別れが辛くなる」
「先生、娘を嫁にやるとき機嫌を悪くするタイプですね」
「俺、娘もいないし、結婚もしてない」
「いつか結婚したら教えてくださいよ。お祝いしたいし」
「いや、そんな日永遠に来ねぇし」
亜弓さんもそうだけど、先生も女っ気というものがない。この汚らしい風貌がいけないのだろうかとも思うが、意外とこの汚らしい風貌が一部の女生徒に受けているらしいと大地がいっていた。
面倒見もいいし、モテないことはないんだろうけど、先生にその気がないのかもしれない。
「そういやおまえ、十月に学会があるけどついてくるか?」
話題が急に真面目なものにかわって僕は一瞬反応に遅れる。学会というのは二階堂先生や院生の先輩たちが書いた論文を発表するような場のことだ。現場で働く薬剤師の先生方も多く参加されている。
「え、いいんですか? 学部生なのに?」
「ちゃんとスーツ着て来いよ」
僕は入学式の時に着て以来、押し入れにしまい込んでいるスーツの存在を思い出す。クリーニングに出しておこう。
バイト先に行く前に茶虎に出会った。僕を見つけて「にゃぁ」と可愛らしい声で鳴く。
「おまえのこと、しばらく家においてやれそうなんだ。帰りに迎えに来るからもう少し待っていてくれよ」
茶虎は僕の言葉がわかったのか、「にゃぁ」と高い声で鳴く。茶虎と別れてカフェ「アザミ」に行くと、涼しい空気が僕を包んだ。からりと乾いた店内に入ってようやく、外の蒸し暑さを思い出す。
店の中には奏さんがいた。大きめのグラスを小さな両手で包むように持っている。
グラスの中ではミルク色に染まったカフェオレの中で氷が泳いでいる。奏さんは僕を見てパッと表情を明るくした。
「朔さん、お邪魔しています」
奏さんの小さな頭の上には、髪の毛を緩くまとめたお団子が乗っている。ほっそりとしたうなじが見えて、僕は少しだけどきりとした。黄色のTシャツにデニムのハーフパンツ。今日の奏さんは少しボーイッシュに見える。
「朔ちゃん、猫ちゃんのポスターできたよ。奏ちゃんが手伝ってくれたの」
カウンターの奥から顔を出した亜弓さんは、A4のコピー用紙を持っていた。可愛らしい茶虎の猫のイラストと、里親募集の文字がわかりやすく書いてある。
「すごい! これ、奏さんが書いてくれたの?」
「私、絵を描くのが好きみたいです」
奏さんははにかんだ。僕は自宅で茶虎を預かることができるようになったと報告する。亜弓さんも奏さんも一緒に喜んでくれた。
「朔ちゃん、それなら今日はもうバイトなんかしなくていいから、早く必要なもの飼って連れ帰ってやりなよ。ほら、トイレの砂とか色々必要でしょう?」
「それはありがたいけど……」
「大丈夫大丈夫お客さんもそんなに来ないの知ってるでしょう? 奏ちゃんも一緒に行ってあげてよ」
そういって、僕と奏さんは亜弓さんにお店を追い出されてしまった。
「亜弓さんって素敵ですよね」
ドラッグストアに行く途中、奏さんは亜弓さんのことを褒めちぎった。身内が褒められるのはなんだか気恥ずかしい。
奏さんの耳では、雫の形をした青いイヤリングが揺れている。亜弓さんと一緒に作ったものかもしれない。青い雫は白くて小さな耳によく似合っていた。
「私も亜弓さんみたいに素敵な女の人になりたいです」
「君は十分素敵だと思うけど」
思わず本音が出た。気持ち悪がられるかもしれない。不安になって隣を見ると、奏さんは不機嫌そうな顔をしていた。しまった……やってしまった。
「からかわないでください」
奏さんは怒ったような声を出した。「からかってないよ」といおうとして、横を向くと、奏さんの頬が赤く染まっているのが見える。
僕は言葉を飲み込んだ。これは、恥ずかしがっているのかもしれない。嫌がってるわけじゃないん気がする。
ここできちんと「君は君のままで素敵だ」といえないから僕は駄目なのだと大地にいわれそうだ。そんなこと、いえるやついるのか?
「十月に学会があるんだよ。二階堂先生に参加してもいいっていわれてさ。スーツをクリーニングに出さなきゃいけないなって思ってるんだ」
気恥ずかしくなった僕は沈黙を破るために不自然に話題を変えた。奏さんもほっとしたように言葉を紡ぐ。
「学会! 格好いいですね、分野は東洋医学ですか?」
「二階堂先生は植物からの抽出成分の研究結果とかを論文にするんじゃないかな? 学会自体は大きな学術大会だからいろんな分野の論文が出ると思う」
僕はまだ学会というものに行ったことがないから詳細は雰囲気は分からない。
会場は横浜みなとみらいのパシフィコである。大きな学会であることは違いない。
「わぁ、なんだか難しそうですね……」
「奏さんも四年生になって研究室に配属になったら研究するようになるよ。農学部の研究も面白そうだ」
「私、花の品種改良をしたいなと思うんです」
「奏さんは花が好きだもんね、おかげで僕も色々と覚えたよ」
毎週土曜日、一時間ほど温室にいる間に奏さんからいろいろな花について教わった。
「朔さんが好きな花、私、知っていますよ」
奏さんが弾むような声で言う。僕は首を傾げた。自分でもどんな花が好きなのか思い浮かばない。
「朔さんは、ネモフィラが好きでしょう? あと紫陽花とか、小さな青い花が好きなのだと思います」
ネモフィラ……言われて園芸部のプランターに植えられていた青い花を思い出す。確かに、色も姿も好みだと思った。
「確かに好きかも」
「でしょう!」
奏さんは両手を叩いて喜ぶ。無邪気なその表情に、僕の胸は早鐘を打つ。僕は、奏さんと話すたびに感じていたこの感情の名前が、わかったような気がした。僕は奏さんのことが――
「朔さん! いましたよラッテ!」
「ラッテ?」
奏さんが指を差した茂みには、小さな尻尾が揺れている。茶虎だ。僕たちの姿を見つけた茶虎は軽やかな足取りで駆けてきた。
「ラッテってこいつのことかい?」
僕は茶虎を撫でながら尋ねる。
「はい、カフェラテを飲みながらポスターを書いていたんです。色合いがカフェラテだなって思って勝手に名前を付けてしまいました。あ、でもラッテってミルクってことですよね? この子は白じゃないからおかしいでしょうか?」
「いいや、可愛いと思う。決まり、おまえの名前はラッテだ」
僕はラッテと命名した子猫を抱き上げる。ラッテは「にゃぁ」と相変わらず高い声で鳴いた。



