天野さんのことを「奏さん」と呼ぶようになったのは、夏休みが明ける頃だった。空梅雨といわれた短い梅雨も明け、雨の日が格段に減るにつれて、僕のなかに巣食っている『死にたい衝動』も鳴りを潜めていた。
「連絡先を交換してもらってもいいですか?」
そういってくれたのは奏さんの方からだった。
「亜弓さんと連絡先の交換をしていただいたのですけれど、朔さんとはまだ交換していないことを指摘されまして……私の方からいってもいいものか悩んでいたら、朔さんからはいい出しにくいと思うとアドバイスいただいて」
亜弓さんという人は本当に……お節介だ。
「亜弓さんのいうとおりだ。連絡先を知りたいなって思っていたけれど、失礼になるかなと思って遠慮していた」
「私もです。なんだか似てますよね、私たち」
奏さんはそういってふわりと笑った。奏さんと出会ってから、僕は確実に水への恐怖を忘れてきている。なぜだろう、奏さんと一緒にいると、浮きがついたように心が軽くなる。
それが良いことなのか悪いことなのかと問われたらやはり僕的には良いことだった。寒い冬も湯船に浸かるとこができるだろうし、いつかは昔のように泳ぐことができるかもしれない。
だけど、誰にも咎められることのないまま、罪の意識から解放されてもいいのだろうかと、問いかける自分も少なからずいる。
初めて僕のバイト先であるカフェ「アザミ」に来てから、奏さんは毎日のようにカフェに通い、亜弓さんとは姉妹のように仲良くなっていた。最近では一緒に小物作りをしているようで、奏さんも自分で作ったらしいアクセサリーをつけていた。
そういえば、カフェでも亜弓さんの手作りアクセサリーや小物の販売をしている。興味がないので今まで目に入らなかったが、売れ行きはそれなりに好調なようだ。
「ねぇ朔さん、亜弓さんの好きな人の話、聞いたことがありますか?」
いつもの土曜日、僕が温室に行くと、開口一番にそんなことをいってきた。今日も奏さんの耳には可愛らしい羽の形をした金色のイヤリングが揺れている。僕のいない間に、女子同士の話に花を咲かせたのだろう。僕は亜弓さんの恋愛の話など聞いたことがなかった。
「聞いたことないよ」
答えると、奏さんはがっかりしたように肩を落とした。
「どうかしたの?」
「いえ、一昨日亜弓さんと一緒にアクセサリーを作っていたんですよ。ネクタイピンだったのでプレゼントですか? って聞いたんです。そうしたら亜弓さん、なんていったと思いますか?」
見当もつかない。亜弓さんは僕の恋愛事情の心配はすれど、自分のことは何一つ話そうとしないのだ。
「これは違うわ、友達からの頼まれもの。っていったんですよ」
「あはは、亜弓さんらしいや」
「もう、朔さん。真剣に聞いてください」
「聞いてるよ」
奏さんはコホンとわざとらしく咳払いをした。どこかアニメーションで見たことがあるようなその仕草に、思わず笑みが漏れる。
「それで私、亜弓さんに、恋人はいないんですかって聞いたんですよ」
「奏さん、結構ストレートに聞くね」
「朔さん、オブラートに包んだ言葉を投げていても親しくはなれませんよ」
奏さんは瞳が大きなタレ目で、おっとりとした雰囲気のわりに、物事をはっきりという。僕にはそんなところが好ましかった。
「なるほど、一理あるなぁ」
「兄の受け売りなんですけどね」
「奏さん、お兄さんいるの?」
初めて知った。そういえば奏さんの家族の話は聞いたことがない。
「はい、兄が一人地元に残っているんです。母は私が幼い頃に乳がんで亡くなって、漁師だった父も事故で亡くなりました。私は兄に育ててもらったようなものです。東京に来てからは叔母さん夫婦のお世話になっているんですよ。叔母さん夫婦には子供がいないのですごく甘やかされています」
奏さんは穏やかな笑顔を浮かべながら教えてくれる。彼女の境遇を、自分のものと比べるのはおかしいとわかっている。でも、両親を早くに失った奏さんに比べて、僕の抱える悲しみは実に自己中心的なものに感じられた。
奏さんが抱える悲しみは、僕が抱えているものとは違って気高い。彼女は、抱えている悲しみを乗り越えるために、たくさんの努力をしたのだろう。
僕が悲しみを乗り越えいいはずがない。僕が壊してしまった家族のこと。そして、僕のせいで死んでしまったあの人のこと。僕は永遠に抱えて生きなければいけない。仮に、生きていくならば。
「そうそう、それで、亜弓さんのことなんですけど」
奏さんは急に話を巻き戻した。そうだった、話の発端は亜弓さんの好きな人についてだったなと僕は思い出す。
「亜弓さん、なんて答えたの?」
答えはわかっている。亜弓さんには付き合っている恋人などいない。
「恋人はいないよって」
「やっぱり。亜弓さん、男っ気ないんだよ」
僕の言葉に奏さんは何か含みを持つ笑みを見せた。
「でも、好きな人はいるよっていってました。でももう諦めたんだって」
「え? 本当?」
それは初耳だ。奏さんはぎゅっと両手で握りこぶしを作る。なんだか、嫌な予感がする。
「朔さん、私と一緒に亜弓さんの好きな人を探してください」
「え? それってお節介だよ。亜弓さんはもう諦めたっていってるんだろう? 無闇に詮索するものじゃないよ」
「本当に諦めていたらまだ好きだなんていいませんよ。矛盾しています。諦めきれてないんですよ」
「でもそれは亜弓さんの問題で、僕たちが介入するところじゃないだろう? 亜弓さんにとっても迷惑だよ」
前のめりな奏さんに対して、僕は乗り気ではない。人の恋路に介入するなんて、大罪のような気がした。もしかしたら、亜弓さんは道徳的に間違った恋愛をしているのかもしれないし、なんて想像して僕はぶんと頭を振る。亜弓さんに限ってそれはない。絶対に。
「そうでしょうか……?」
亜弓さんに迷惑、というフレーズが奏さんに心に響いたのだろう。僕は彼女の中に芽生えたお節介の炎を消すことに成功したようだ。それから話題は僕が今扱っているサラシナショウマの話に移った。
楽しい時間があっという間に過ぎてしまうという感覚を、僕は奏さんに出会ってから思い出した。僕とこんなにも会話が続く人は、他にはいないかもしれない。
気が付けばもうバイトに行く時間だ。奏さんも一緒に来るというので、僕たちは一緒に正門を出て桜並木の作る木陰の下を通る。
突然、ガサリと音がして、大学の敷地内から茶色い塊が飛び出してきた。子猫だ。人に慣れているのか、僕達の方に寄ってくる。首輪はない、野良猫だ。
「ごめんな、食べ物は持ってないんだ」
僕はしゃがみ込んで子猫に話しかける。猫は僕の言葉を意に介した様子はない。小さな体を僕の足に擦り付けてくると、「にゃぁ」と甲高い声で鳴いた。
僕は「ごめんなぁ」といって子猫を撫でてやる。
「……めっちゃめんこい」
斜め上から小さな声が降ってきた。奏さんの声だ。「めんこい」とはたしか東北の方の方言だろうか、「可愛い」という意味だった気がする。耳慣れないイントネーションだった。
「朔さん、動物お好きなんですね」
「うん、結構好き。犬も好きだけど猫の方が好きかな。奏さんは?」
見上げると、奏さんは肩を竦めた。
「可愛いなって思うんですけれど、怖くて触れないんです。昔、近所の犬に噛まれて……」
「なるほど、それはトラウマだ」
「触れるようになりたいなって思っています。撫でたいなって」
「手始めに撫でさせてもらう? 懐っこい子だよ」
「い、いえ! 今はまだ大丈夫です。遠くから愛でます」
僕が撫でると茶虎の猫はごろごろと喉を鳴らした。
「よく人に慣れてる。誰か餌でもあげてるのかもしれないね。誰か飼える人がいたらいいけど、うちは母さんはアレルギーで飼えないし、亜弓さんの家も伯父さんが動物嫌いだし……」
そこで僕は適任を思い出した。始めは嫌な顔をされそうだが、猫好きの知り合いとかがいるかもしれない。
「月曜日に二階堂先生に話してみようかな」
「二階堂先生って薬学部の先生ですか?」
「うん、時乃研の助教。今年から東洋医学研究部の顧問になっていて、僕の研究を見てくれている先生なんだ。確か黒猫を飼っていたはず。机の上にもこっそり猫の写真とか置いてるし、きっと猫好きだから」
二階堂先生は猫好きだなんて意外だけれど。なんだかんだいって面倒見もよいし、家では溺愛していそうだ。先生が猫を戯れている姿を想像して思わず笑みが漏れる。
「あ、何笑ってるんですか?」
「二階堂先生が子猫と遊んでいる姿を想像したら面白かったんだ。ちょっと強面だから」
「ふふ、先生、今頃くしゃみしてますね」
「連絡先を交換してもらってもいいですか?」
そういってくれたのは奏さんの方からだった。
「亜弓さんと連絡先の交換をしていただいたのですけれど、朔さんとはまだ交換していないことを指摘されまして……私の方からいってもいいものか悩んでいたら、朔さんからはいい出しにくいと思うとアドバイスいただいて」
亜弓さんという人は本当に……お節介だ。
「亜弓さんのいうとおりだ。連絡先を知りたいなって思っていたけれど、失礼になるかなと思って遠慮していた」
「私もです。なんだか似てますよね、私たち」
奏さんはそういってふわりと笑った。奏さんと出会ってから、僕は確実に水への恐怖を忘れてきている。なぜだろう、奏さんと一緒にいると、浮きがついたように心が軽くなる。
それが良いことなのか悪いことなのかと問われたらやはり僕的には良いことだった。寒い冬も湯船に浸かるとこができるだろうし、いつかは昔のように泳ぐことができるかもしれない。
だけど、誰にも咎められることのないまま、罪の意識から解放されてもいいのだろうかと、問いかける自分も少なからずいる。
初めて僕のバイト先であるカフェ「アザミ」に来てから、奏さんは毎日のようにカフェに通い、亜弓さんとは姉妹のように仲良くなっていた。最近では一緒に小物作りをしているようで、奏さんも自分で作ったらしいアクセサリーをつけていた。
そういえば、カフェでも亜弓さんの手作りアクセサリーや小物の販売をしている。興味がないので今まで目に入らなかったが、売れ行きはそれなりに好調なようだ。
「ねぇ朔さん、亜弓さんの好きな人の話、聞いたことがありますか?」
いつもの土曜日、僕が温室に行くと、開口一番にそんなことをいってきた。今日も奏さんの耳には可愛らしい羽の形をした金色のイヤリングが揺れている。僕のいない間に、女子同士の話に花を咲かせたのだろう。僕は亜弓さんの恋愛の話など聞いたことがなかった。
「聞いたことないよ」
答えると、奏さんはがっかりしたように肩を落とした。
「どうかしたの?」
「いえ、一昨日亜弓さんと一緒にアクセサリーを作っていたんですよ。ネクタイピンだったのでプレゼントですか? って聞いたんです。そうしたら亜弓さん、なんていったと思いますか?」
見当もつかない。亜弓さんは僕の恋愛事情の心配はすれど、自分のことは何一つ話そうとしないのだ。
「これは違うわ、友達からの頼まれもの。っていったんですよ」
「あはは、亜弓さんらしいや」
「もう、朔さん。真剣に聞いてください」
「聞いてるよ」
奏さんはコホンとわざとらしく咳払いをした。どこかアニメーションで見たことがあるようなその仕草に、思わず笑みが漏れる。
「それで私、亜弓さんに、恋人はいないんですかって聞いたんですよ」
「奏さん、結構ストレートに聞くね」
「朔さん、オブラートに包んだ言葉を投げていても親しくはなれませんよ」
奏さんは瞳が大きなタレ目で、おっとりとした雰囲気のわりに、物事をはっきりという。僕にはそんなところが好ましかった。
「なるほど、一理あるなぁ」
「兄の受け売りなんですけどね」
「奏さん、お兄さんいるの?」
初めて知った。そういえば奏さんの家族の話は聞いたことがない。
「はい、兄が一人地元に残っているんです。母は私が幼い頃に乳がんで亡くなって、漁師だった父も事故で亡くなりました。私は兄に育ててもらったようなものです。東京に来てからは叔母さん夫婦のお世話になっているんですよ。叔母さん夫婦には子供がいないのですごく甘やかされています」
奏さんは穏やかな笑顔を浮かべながら教えてくれる。彼女の境遇を、自分のものと比べるのはおかしいとわかっている。でも、両親を早くに失った奏さんに比べて、僕の抱える悲しみは実に自己中心的なものに感じられた。
奏さんが抱える悲しみは、僕が抱えているものとは違って気高い。彼女は、抱えている悲しみを乗り越えるために、たくさんの努力をしたのだろう。
僕が悲しみを乗り越えいいはずがない。僕が壊してしまった家族のこと。そして、僕のせいで死んでしまったあの人のこと。僕は永遠に抱えて生きなければいけない。仮に、生きていくならば。
「そうそう、それで、亜弓さんのことなんですけど」
奏さんは急に話を巻き戻した。そうだった、話の発端は亜弓さんの好きな人についてだったなと僕は思い出す。
「亜弓さん、なんて答えたの?」
答えはわかっている。亜弓さんには付き合っている恋人などいない。
「恋人はいないよって」
「やっぱり。亜弓さん、男っ気ないんだよ」
僕の言葉に奏さんは何か含みを持つ笑みを見せた。
「でも、好きな人はいるよっていってました。でももう諦めたんだって」
「え? 本当?」
それは初耳だ。奏さんはぎゅっと両手で握りこぶしを作る。なんだか、嫌な予感がする。
「朔さん、私と一緒に亜弓さんの好きな人を探してください」
「え? それってお節介だよ。亜弓さんはもう諦めたっていってるんだろう? 無闇に詮索するものじゃないよ」
「本当に諦めていたらまだ好きだなんていいませんよ。矛盾しています。諦めきれてないんですよ」
「でもそれは亜弓さんの問題で、僕たちが介入するところじゃないだろう? 亜弓さんにとっても迷惑だよ」
前のめりな奏さんに対して、僕は乗り気ではない。人の恋路に介入するなんて、大罪のような気がした。もしかしたら、亜弓さんは道徳的に間違った恋愛をしているのかもしれないし、なんて想像して僕はぶんと頭を振る。亜弓さんに限ってそれはない。絶対に。
「そうでしょうか……?」
亜弓さんに迷惑、というフレーズが奏さんに心に響いたのだろう。僕は彼女の中に芽生えたお節介の炎を消すことに成功したようだ。それから話題は僕が今扱っているサラシナショウマの話に移った。
楽しい時間があっという間に過ぎてしまうという感覚を、僕は奏さんに出会ってから思い出した。僕とこんなにも会話が続く人は、他にはいないかもしれない。
気が付けばもうバイトに行く時間だ。奏さんも一緒に来るというので、僕たちは一緒に正門を出て桜並木の作る木陰の下を通る。
突然、ガサリと音がして、大学の敷地内から茶色い塊が飛び出してきた。子猫だ。人に慣れているのか、僕達の方に寄ってくる。首輪はない、野良猫だ。
「ごめんな、食べ物は持ってないんだ」
僕はしゃがみ込んで子猫に話しかける。猫は僕の言葉を意に介した様子はない。小さな体を僕の足に擦り付けてくると、「にゃぁ」と甲高い声で鳴いた。
僕は「ごめんなぁ」といって子猫を撫でてやる。
「……めっちゃめんこい」
斜め上から小さな声が降ってきた。奏さんの声だ。「めんこい」とはたしか東北の方の方言だろうか、「可愛い」という意味だった気がする。耳慣れないイントネーションだった。
「朔さん、動物お好きなんですね」
「うん、結構好き。犬も好きだけど猫の方が好きかな。奏さんは?」
見上げると、奏さんは肩を竦めた。
「可愛いなって思うんですけれど、怖くて触れないんです。昔、近所の犬に噛まれて……」
「なるほど、それはトラウマだ」
「触れるようになりたいなって思っています。撫でたいなって」
「手始めに撫でさせてもらう? 懐っこい子だよ」
「い、いえ! 今はまだ大丈夫です。遠くから愛でます」
僕が撫でると茶虎の猫はごろごろと喉を鳴らした。
「よく人に慣れてる。誰か餌でもあげてるのかもしれないね。誰か飼える人がいたらいいけど、うちは母さんはアレルギーで飼えないし、亜弓さんの家も伯父さんが動物嫌いだし……」
そこで僕は適任を思い出した。始めは嫌な顔をされそうだが、猫好きの知り合いとかがいるかもしれない。
「月曜日に二階堂先生に話してみようかな」
「二階堂先生って薬学部の先生ですか?」
「うん、時乃研の助教。今年から東洋医学研究部の顧問になっていて、僕の研究を見てくれている先生なんだ。確か黒猫を飼っていたはず。机の上にもこっそり猫の写真とか置いてるし、きっと猫好きだから」
二階堂先生は猫好きだなんて意外だけれど。なんだかんだいって面倒見もよいし、家では溺愛していそうだ。先生が猫を戯れている姿を想像して思わず笑みが漏れる。
「あ、何笑ってるんですか?」
「二階堂先生が子猫と遊んでいる姿を想像したら面白かったんだ。ちょっと強面だから」
「ふふ、先生、今頃くしゃみしてますね」



