そうはいったけれど、日取りは決めなかった。僕はポケットの中のスマホを触りながら、どのタイミングで連絡先の交換をしようか迷っていた。連絡先を知っていた方が便利なことが多いだろうと思うが、自分から提案するのは、なんだか気が引けてしまう。迷惑になるかもしれない。
結局僕はそのままスマホから手を放した。
それから、毎週土曜日一時間だけ、僕は温室で過ごすようになった。もちろん一人ではない、天野さんと一緒だ。彼女に出会ってから、曇天続きの僕の心の中には太陽が差し込むようになっていた。立ち込めていた雨雲が影を潜めている。そんな僕の心と同調するように、今年の六月はほとんど雨が降らず空梅雨だった。
「あの、お店に行ってもいいですか?」
天野さんがそう尋ねてくれたのは、温室で会うようになって二月ほどが経った八月の初めだ。
大学は七月の中頃から長い夏休みに入っているけれど、僕は部活のために毎日学校に来ていた。彼女も園芸部の水遣りで時々学校に来るようだ。聞けば彼女は農学部の学生だった。
いすれは僕も彼女もどこかの研究室に所属し、夏休みも研究をするようになるのだろう。自由な時間はどんどん減ってしまう。
夏休みに入っても、会うのは土曜日の午後、温室でということは変わりなかった。今日は白いロングスカートを穿いている。紺色のTシャツから伸びた腕は、わずかに日に焼けていた。蒸し暑いからだろう、長い髪の毛戸頭の上でお団子にまとめている。白いうなじがむき出しになっていて僕はドキリとした。
「うん、いいよ」
「嬉しいです! 実はアザミさんから聞いて、見に行ったことがあるんですよ。素敵なお店だなとは思ったのですが、一人で入ることに気が引けてしまって……」
「そうなんだ、いつでもおいでよ。亜弓さんにも話しておくし」
僕の答えに、天野さんは不服そうな顔になる。何か問題があっただろうかと自分の発言を頭の中で検めていると彼女は両手で握りこぶしを作った。
「アザミさんがいる時に行ってはいけませんか?」
「え?」
「つまり、一緒に行きたいのです」
天野さんの言葉を聞いて、僕は急に恥ずかしくなった。「だからおまえはモテないのだ」と大地の声が聞こえてきそうだ。
僕は一瞬亜弓さんに冷やかされそうだなと思ったが、恥ずかしい気持ちよりも嬉しい気持ちの方が優った。
「僕、今日もこのあとバイトなんだけど、天野さんは予定がある?」
天野さんは顔をほころばせる。辺りの気温がわずかに上昇したような気がする。
「はい、空いています」
亜弓さんが喜びそうだ。そう口に出そうとして、僕は思いとどまる。自分の感情を人に代弁してもらうのは狡い気がした。
「僕も君が来てくれると嬉しい」
天野さんは破顔した。わずかに頬が赤らんでいるように見えるのは光の加減だろうか。僕は自分の顔が少し熱を持っているように感じた。
「亜弓さんは楽しい人だから、きっと楽しい時間を過ごせると思うよ」
恥ずかしさを紛らわせるために、結局僕は亜弓さんのことを引き合いに出した。天野さんは弾むような足取りで僕の横を歩く。
店内には観葉植物があるとか、人気メニューはミルクにこだわったカフェラテなんだとか。そんな話をしながら亜弓さんのカフェを目指す。
正門から続く桜並木は青々と葉を称え、強い日差しを遮り心地よい影を作っていた。
「いらっしゃい! あぁ朔ちゃん。今日は早いねぇ。あら――」
僕の後ろについて入ってきた天野さんを見つけた亜弓さんは、目を丸くしてにっこりと嬉しそうな顔になる。
「朔ちゃんが女の子を連れてくるなんて、初めてね」
亜弓さんの言葉に、僕は思わず店内をくるりと見回した。お客さんはおじいちゃんおばあちゃんばかり、自分たちの話に夢中になっていて僕たちを気に留める人はいない。ほっと胸をなでおろした。
「初めまして、天野といいます」
亜弓さんのいるカウンターまで来ると、天野さんはペコリとお辞儀をした。
「いらっしゃい、朔ちゃんのお友達でしょう? ご馳走するわ」
「そんな、いけません。私が行きたいといって連れてきてもらったんです、きちんと払わせてください」
亜弓さんが茶化さないことに安堵した僕は、天野さんに助け舟を出す。
「今日はご馳走になりなよ。気に入ったら次からは注文して」
天野さんは申し訳なさそうな目で僕を見つめてくる。
「なら今日は朔ちゃんの奢りにしよう、バイト代から引いておく」
亜弓さんが笑いながらそういってくるので僕は肩を竦めた。
「そういうことだから遠慮なく高い物頼んで」
僕と亜弓さんの会話が面白かったのだろうか、天野さんはふふっと笑みを漏らす。
「お言葉に甘えます」
天野さんをカウンターに残して、僕は奥で着替えることにした。白いシャツに黒いパンツ、黒いカフェエプロンを身に着ける。着替え終わるとワックスで髪の毛を整え、カウンターに戻った。天野さんが僕を見つけて驚いたような表情になる。
「なんだか雰囲気が違いますね」
「髪型かな? 変? 一応飲食店だから……」
「一応は余計よ」
亜弓さんの不機嫌そうな声に、天野さんはふふっと笑ってから「素敵です」といってくれる。僕は顔が熱くなるのを感じた。
「朔ちゃん目当てでくるお客さんとかもいるのよ~」
「あぁわかります。アザミさんモテそう」
「おばあちゃんにね」
「え、まさかのマダムキラー」
僕を置いてけぼりにして、二人の会話は転がる。
「亜弓さんも園芸部だったって聞いていたところなんです」
温かな湯気の立つマグカップを両手で包みながら、天野さんは嬉しそうに教えてくれた。僕は亜弓さんが僕と同じ大学の卒業生であることは知っていたけれど、園芸部だっただなんて初耳だった。
「そうなの? 知らなかった」
「当然よ、話したことないもの」
いわれてみたら、不思議ではない。亜弓さんは植物が好きだ。それも花よりも緑を好むタイプ。店に置かれた観葉植物のどれもを、亜弓さんは大切にしている。中でも大切にしているのはヒイラギの鉢植え。
店にある植物は、どれもお店を作った時にそろえたものだけれど、このヒイラギだけは亜弓さんの私物だ。とても大事な物らしい。
「植物の呼吸を感じられるような素敵なお店ですね」
園芸部という共通点もあり、亜弓さんと天野さんはものの数分で打ち解けてしまった。まるで昔から知っている間柄だったかのように、和やかに話している。
「ありがとう、けっこうこだわったの。私は薬剤師免許を持ってないから家の仕事は継げないけど、カフェの方ならできるし。少しでもお客さんに寛いでもらえたら嬉しいんだよね」
「アザミさんは薬学部ですよね? 将来ここの薬局を継ぐのはアザミさんですか?」
そういうことになるのかな。僕は亜弓さんを見る。伯父さんからそんな話をされたことはまだない。
「うーん、お父さんはそうなったらいいなって思ってると思うけど……」
「逸人さんは?」
逸人さんというのは、亜弓さんの五つ年上のお兄さんだ。つまり、僕のもう一人の従兄である。大学は僕と同じではないけれど、確かどこかの薬学部を卒業して、今は病院に勤めているはずだ。亜弓さんは、天井を見上げて「あぁ」とため息交じりに漏らす。
「お兄ちゃんはダメだわ。病院薬剤師の仕事を天職だと思っててるから薬局を継ぐ気ゼロ。昔お父さんと大喧嘩してたもんね、今でもお父さんとお兄ちゃんは絶縁状態なの」
そういうことか。近くに住んでいる逸人さんがちらりとも顔を見せない理由がやっとわかった。
「お兄ちゃんと喧嘩したものだから私を薬剤師と結婚させて跡を継がせるってうるさい時期もあってさ、まいっちゃうよねホント」
それならば、余計に僕が継ぐのが自然な気がしてしまう。
薬学部への進学は、自分で決めたつもりだったが、伯父さんが薬剤師であることが、僕の頭の片隅にもあったような気がする。僕の考えを読みとったかのように、亜弓さんはひらひらと手を振った。
「気にしないでよ朔ちゃん、朔ちゃんもやりたいことやったらいいのよ。お父さんや私のことは気にしないで」
気にしないでといわれても、聞いてしまったからには気になっていまう性分なのだ。僕は曖昧に相槌を打った。
就職は伯父さんの薬局にしようと漠然と思っていたが、そんな責任が生じてくるなど考えもしなかった。
将来のことを考えずにここまで来てしまった。生きることに不安定な僕も、少し身の振り方を考えなければいけないかもしれない。
僕はコーヒーと一緒にそんな苦い思いを飲み込んだ。
結局僕はそのままスマホから手を放した。
それから、毎週土曜日一時間だけ、僕は温室で過ごすようになった。もちろん一人ではない、天野さんと一緒だ。彼女に出会ってから、曇天続きの僕の心の中には太陽が差し込むようになっていた。立ち込めていた雨雲が影を潜めている。そんな僕の心と同調するように、今年の六月はほとんど雨が降らず空梅雨だった。
「あの、お店に行ってもいいですか?」
天野さんがそう尋ねてくれたのは、温室で会うようになって二月ほどが経った八月の初めだ。
大学は七月の中頃から長い夏休みに入っているけれど、僕は部活のために毎日学校に来ていた。彼女も園芸部の水遣りで時々学校に来るようだ。聞けば彼女は農学部の学生だった。
いすれは僕も彼女もどこかの研究室に所属し、夏休みも研究をするようになるのだろう。自由な時間はどんどん減ってしまう。
夏休みに入っても、会うのは土曜日の午後、温室でということは変わりなかった。今日は白いロングスカートを穿いている。紺色のTシャツから伸びた腕は、わずかに日に焼けていた。蒸し暑いからだろう、長い髪の毛戸頭の上でお団子にまとめている。白いうなじがむき出しになっていて僕はドキリとした。
「うん、いいよ」
「嬉しいです! 実はアザミさんから聞いて、見に行ったことがあるんですよ。素敵なお店だなとは思ったのですが、一人で入ることに気が引けてしまって……」
「そうなんだ、いつでもおいでよ。亜弓さんにも話しておくし」
僕の答えに、天野さんは不服そうな顔になる。何か問題があっただろうかと自分の発言を頭の中で検めていると彼女は両手で握りこぶしを作った。
「アザミさんがいる時に行ってはいけませんか?」
「え?」
「つまり、一緒に行きたいのです」
天野さんの言葉を聞いて、僕は急に恥ずかしくなった。「だからおまえはモテないのだ」と大地の声が聞こえてきそうだ。
僕は一瞬亜弓さんに冷やかされそうだなと思ったが、恥ずかしい気持ちよりも嬉しい気持ちの方が優った。
「僕、今日もこのあとバイトなんだけど、天野さんは予定がある?」
天野さんは顔をほころばせる。辺りの気温がわずかに上昇したような気がする。
「はい、空いています」
亜弓さんが喜びそうだ。そう口に出そうとして、僕は思いとどまる。自分の感情を人に代弁してもらうのは狡い気がした。
「僕も君が来てくれると嬉しい」
天野さんは破顔した。わずかに頬が赤らんでいるように見えるのは光の加減だろうか。僕は自分の顔が少し熱を持っているように感じた。
「亜弓さんは楽しい人だから、きっと楽しい時間を過ごせると思うよ」
恥ずかしさを紛らわせるために、結局僕は亜弓さんのことを引き合いに出した。天野さんは弾むような足取りで僕の横を歩く。
店内には観葉植物があるとか、人気メニューはミルクにこだわったカフェラテなんだとか。そんな話をしながら亜弓さんのカフェを目指す。
正門から続く桜並木は青々と葉を称え、強い日差しを遮り心地よい影を作っていた。
「いらっしゃい! あぁ朔ちゃん。今日は早いねぇ。あら――」
僕の後ろについて入ってきた天野さんを見つけた亜弓さんは、目を丸くしてにっこりと嬉しそうな顔になる。
「朔ちゃんが女の子を連れてくるなんて、初めてね」
亜弓さんの言葉に、僕は思わず店内をくるりと見回した。お客さんはおじいちゃんおばあちゃんばかり、自分たちの話に夢中になっていて僕たちを気に留める人はいない。ほっと胸をなでおろした。
「初めまして、天野といいます」
亜弓さんのいるカウンターまで来ると、天野さんはペコリとお辞儀をした。
「いらっしゃい、朔ちゃんのお友達でしょう? ご馳走するわ」
「そんな、いけません。私が行きたいといって連れてきてもらったんです、きちんと払わせてください」
亜弓さんが茶化さないことに安堵した僕は、天野さんに助け舟を出す。
「今日はご馳走になりなよ。気に入ったら次からは注文して」
天野さんは申し訳なさそうな目で僕を見つめてくる。
「なら今日は朔ちゃんの奢りにしよう、バイト代から引いておく」
亜弓さんが笑いながらそういってくるので僕は肩を竦めた。
「そういうことだから遠慮なく高い物頼んで」
僕と亜弓さんの会話が面白かったのだろうか、天野さんはふふっと笑みを漏らす。
「お言葉に甘えます」
天野さんをカウンターに残して、僕は奥で着替えることにした。白いシャツに黒いパンツ、黒いカフェエプロンを身に着ける。着替え終わるとワックスで髪の毛を整え、カウンターに戻った。天野さんが僕を見つけて驚いたような表情になる。
「なんだか雰囲気が違いますね」
「髪型かな? 変? 一応飲食店だから……」
「一応は余計よ」
亜弓さんの不機嫌そうな声に、天野さんはふふっと笑ってから「素敵です」といってくれる。僕は顔が熱くなるのを感じた。
「朔ちゃん目当てでくるお客さんとかもいるのよ~」
「あぁわかります。アザミさんモテそう」
「おばあちゃんにね」
「え、まさかのマダムキラー」
僕を置いてけぼりにして、二人の会話は転がる。
「亜弓さんも園芸部だったって聞いていたところなんです」
温かな湯気の立つマグカップを両手で包みながら、天野さんは嬉しそうに教えてくれた。僕は亜弓さんが僕と同じ大学の卒業生であることは知っていたけれど、園芸部だっただなんて初耳だった。
「そうなの? 知らなかった」
「当然よ、話したことないもの」
いわれてみたら、不思議ではない。亜弓さんは植物が好きだ。それも花よりも緑を好むタイプ。店に置かれた観葉植物のどれもを、亜弓さんは大切にしている。中でも大切にしているのはヒイラギの鉢植え。
店にある植物は、どれもお店を作った時にそろえたものだけれど、このヒイラギだけは亜弓さんの私物だ。とても大事な物らしい。
「植物の呼吸を感じられるような素敵なお店ですね」
園芸部という共通点もあり、亜弓さんと天野さんはものの数分で打ち解けてしまった。まるで昔から知っている間柄だったかのように、和やかに話している。
「ありがとう、けっこうこだわったの。私は薬剤師免許を持ってないから家の仕事は継げないけど、カフェの方ならできるし。少しでもお客さんに寛いでもらえたら嬉しいんだよね」
「アザミさんは薬学部ですよね? 将来ここの薬局を継ぐのはアザミさんですか?」
そういうことになるのかな。僕は亜弓さんを見る。伯父さんからそんな話をされたことはまだない。
「うーん、お父さんはそうなったらいいなって思ってると思うけど……」
「逸人さんは?」
逸人さんというのは、亜弓さんの五つ年上のお兄さんだ。つまり、僕のもう一人の従兄である。大学は僕と同じではないけれど、確かどこかの薬学部を卒業して、今は病院に勤めているはずだ。亜弓さんは、天井を見上げて「あぁ」とため息交じりに漏らす。
「お兄ちゃんはダメだわ。病院薬剤師の仕事を天職だと思っててるから薬局を継ぐ気ゼロ。昔お父さんと大喧嘩してたもんね、今でもお父さんとお兄ちゃんは絶縁状態なの」
そういうことか。近くに住んでいる逸人さんがちらりとも顔を見せない理由がやっとわかった。
「お兄ちゃんと喧嘩したものだから私を薬剤師と結婚させて跡を継がせるってうるさい時期もあってさ、まいっちゃうよねホント」
それならば、余計に僕が継ぐのが自然な気がしてしまう。
薬学部への進学は、自分で決めたつもりだったが、伯父さんが薬剤師であることが、僕の頭の片隅にもあったような気がする。僕の考えを読みとったかのように、亜弓さんはひらひらと手を振った。
「気にしないでよ朔ちゃん、朔ちゃんもやりたいことやったらいいのよ。お父さんや私のことは気にしないで」
気にしないでといわれても、聞いてしまったからには気になっていまう性分なのだ。僕は曖昧に相槌を打った。
就職は伯父さんの薬局にしようと漠然と思っていたが、そんな責任が生じてくるなど考えもしなかった。
将来のことを考えずにここまで来てしまった。生きることに不安定な僕も、少し身の振り方を考えなければいけないかもしれない。
僕はコーヒーと一緒にそんな苦い思いを飲み込んだ。



