土曜日、僕は午前中の研究を終えると、植物園に向かうため研究室を後にした。
研究棟を出て、講義棟を足早に駆けていると、友人の姿が視界に入る。クラスメイトの大地だ。僕が会話をする数少ない友人である。高校から友人で、大学では一番気心の知れたやつかもしれない。向こうもこちらに気が付いて「よう」と手を上げる。
「あれ、朔、急ぎ? 今日はバイトまで時間あるだろ?」
僕が急いでいることに気が付いたのだろう。大地は不思議そうに首をかしげる。
「暇な奴らとクラスの女の子誘ってカラオケ行こうって話してるんだけど、おまえは無理そうだな、残念」
「悪いな、ちょっと行くところがあるし、そもそもカラオケはパスだな」
「そっか、おまえ歌わない人だったな」
「歌えない人、音痴だから。またな」
「おまえを連れて来たら女の子たちに英雄扱いしてもらえたのになぁ。実に残念だ」
「なんだよそれは」
大地との会話を手短に終え、僕は植物園へ向かった。僕の通う薬学部の研究棟から植物園は比較的近くにある。講義棟を越え、濁ったひょうたん池を過ぎるともうすぐだ。植物園の入り口が見えてくる。
僕は植物園の手前にある薬草園までしか足を踏み入れたことがない。温室に入るのは初めてだ。今まで入ってみようとも思わなかった。そもそも、東洋医学研究部に入って二階堂先生に出会わなければ植物園に来ることだってなかったかもしれない。そう考えると、実に不思議な出会いだなと思う。
僕は天野さんとの出会いに、何か運命じみたものを見つけた気がして頭を振った。冷静になれよ、これは偶然が生んだ産物だ。運命など、あるはずがない。神様などいるものか。
もしもそんなものが存在しているのなら、あの時、僕たちは、二人とも助かっていた。きっと。
ガラス戸を押して温室の中に入る。外と世界を隔てる二つの扉を通り抜けると、亜熱帯のような湿度を感じた。梅雨のような陰鬱な感じがしないのは、ガラス張りの天井からふりそそぐ光のおかげだろう。生い茂る青々とした植物たちも眩しいほどだ。中には鮮やかな花をつけている物や、実をつけている物もある。まるで大きな箱庭だ。美しい光景に、僕は思わずため息を漏らした。
ひとしきり感動してから、僕はきょろきょろと辺りを見回した。天野さんはまだ来ていないらしい。しばらく草木を見ながら天野さんが来るのを待っていた僕は、だんだんと不安になってきた。
もしかしたら、土曜日に植物園で会う約束をしたと思っているのは僕だけで、天野さんにはこれっぽっちもそんなつもりはなかったかもしれない。
そう不安に思っていると、「アザミさん」と正確な発音で名前を呼ばれた。この声を、僕はもちろん知っている。
「来てくれたんですね!」
花がほころぶような笑顔を見せる彼女に、僕の顔も自然とほころぶ。良かった。頭を過るのはそんな安堵だ。彼女の「また会えたらいいですね」は単なる社交辞令ではなかったと思える。
息が上がっている。もしかしたら、急いで来てくれたのかもしれない。そう思うと、なんだか両手で包んだように心が温かくなる。
天野さんは長い髪の毛をポニーテールに結い上げていた。スカートではなく紺色のスキニーパンツに黄色のカットソーを着ている。以前会ったときとは雰囲気が違って一瞬戸惑うが、彼女の纏う柔らかな空気は変わらない。
「天野さんは水遣りに?」
「はい、この区画が園芸部の借りている場所なんです」
天野さんに案内してもらいながら、温室の中を歩く。園芸部の持っている区画は二メートル四方ほどの広さだった。地植えの植物のほかに、鉢植えの物も幾つかある。鉢植えには名前が書かれたプレートが巻き付けてあった。
「これは?」
僕が指さすと、天野さんは説明をくれる。
「それは個人が育てている鉢植えです。各々好きな植物を植えたり、買ってきたりして育てているんですよ。私のはこれです」
天野さんは小ぶりの鉢植えを指差した。小さな芽が生えている。
「何の植物かな?」
「ひまわりです。これはヴィンセントネーブルという種類で、丸っこくて可愛らしい花が咲くんです」
天野さんはそれからひまわりの種類について話し始めた。背の高いもの、切り花用の小さなもの。種部分の小さい物、色の豊富さなど。僕はひまわりにそんなにたくさんの種類があったことなど知らないので驚くばかりだった。
「サンリッチ種の花はブーケやアレンジメントに使われます」と語り始めたところで、天野さんははっとした表情になる。それから申し訳なさそうな顔で僕を見た。
「すみません、つまらなかったですよね」
そんなはずはない。とても興味深く話を聞いていた僕は首を横に振る。もしかしたら、以前僕の話を聞いてくれた天野さんも、同じような気持ちだったのかもしれない。
「とても面白かった。僕は花に疎くて、ひまわりにそんなに種類があるなんて知らなかったから。とても興味深くて面白かったよ」
僕の言葉に、彼女は笑顔を咲かせる。
「良かった。園芸部でもクラスでもちょっと浮いてるんです私」
「天野さんが?」
信じられない。とても社交的に見えるし、何より人を引き付ける雰囲気を持ち人だと思った。まるで蝶を寄せる花のようだと思う。
「たぶん群がるのが苦手だからだと思うんですよ。誰かとお話をするのは好きなんですけれど、すごく人を選ぶんです。迂闊に誰かと一緒にいると疲れちゃって……。だから特定の友達もいませんし、休日も一人でいることが多いです」
「ちょっとわかる気がする。僕も群がるのは苦手だから、クラスの中でも浮いている気がする」
かつてはそんなこと思いもしない子供だったが、今は違う。あの日から、僕はただの善良な人間ではなくなってしまったのだから。
「そんな雰囲気があります。アザミさんは一人を好みそう。なんだか似てますね、私たち」
「似てるかな?」僕の顔にはそう書いてあったのだろう。天野さんはくすくすと笑った。よく笑う人だ悲しみや後悔とは無縁のように見えた。僕とは、全然似ていない。
「植物みたいだと思いませんか?」
「植物?」
天野さんの言葉の意味が分からず、僕はオウム返しになる。
「はい、植物も、群れては生きていけないんです。栄養を奪い合ってしまうでしょう? だから、間引いたり、植えるときに初めから離したりして、一つ一つ適度な距離感を保つんです。その距離感は植物によっても違ってきます」
なるほど、と思った。面白いものの例えだけれど、的を得ているような気がする。
僕は、間引かれずに残ってしまったのだ。あのとき、間引かれるのは僕だったかもしれないのに。
「でも、中には一緒に植えた方がメリットのある植物もあるんですよ」
「へぇ、そんな協力的な植物があるの?」
「はい、コンパニオンプランツっていうんです。トウモロコシとマメ科の植物とか、夕顔と長ネギとか、レタスとアブラナ科の植物とか。一緒に植えると成長を促進したり、香りや風味をよくしたり、害虫を駆除したりできます」
「へぇ……知らなかった」
思わず感嘆が漏れる。天野さんは植物にとても詳しかった。他にも水や肥料のやりかたなどの知識も豊富だ。
「私、アザミさんと私はコンパニオンプランツなんじゃないかって思うんですよ」
「僕と、君が?」
「はい、きっと一緒にいたら互いにいいことがある……なんて、私のうぬぼれでしょうか?」
嬉しそうに話し始めた天野さんは、うかがうような目で僕を見る。コンパニオンプランツか。
「そうなれたらいいな」
ぽつりとこぼしたら、天野さんは嬉しそうに笑った。
誰かのコンパニオンプランツになれたら、僕も生きていてもいいのたど、思えるようになるかもしれない。それが天野さんであるなら、こんなに嬉しいことはないと思う。
それから一時間ほど話をして、僕と天野さんは一緒に正門をくぐり、途中で別れた。彼女は駅へ、僕はバイト先へ向かう。
「アルバイト先は近いんですか?」
「そこに内科の病院があるだろう? そこの門前薬局が僕のバイト先」
天野さんは病院のことを知らなかった。当然薬局のことも、その隣のカフェのことも知らない。カフェの話をすると、目を輝かせた。
「素敵なカフェですね」
「僕も気に入ってる。亜弓さんの淹れたコーヒーも美味しいし」
「あ、あの、今度行ってもいいですか?」
「いいよ、いつでも」
研究棟を出て、講義棟を足早に駆けていると、友人の姿が視界に入る。クラスメイトの大地だ。僕が会話をする数少ない友人である。高校から友人で、大学では一番気心の知れたやつかもしれない。向こうもこちらに気が付いて「よう」と手を上げる。
「あれ、朔、急ぎ? 今日はバイトまで時間あるだろ?」
僕が急いでいることに気が付いたのだろう。大地は不思議そうに首をかしげる。
「暇な奴らとクラスの女の子誘ってカラオケ行こうって話してるんだけど、おまえは無理そうだな、残念」
「悪いな、ちょっと行くところがあるし、そもそもカラオケはパスだな」
「そっか、おまえ歌わない人だったな」
「歌えない人、音痴だから。またな」
「おまえを連れて来たら女の子たちに英雄扱いしてもらえたのになぁ。実に残念だ」
「なんだよそれは」
大地との会話を手短に終え、僕は植物園へ向かった。僕の通う薬学部の研究棟から植物園は比較的近くにある。講義棟を越え、濁ったひょうたん池を過ぎるともうすぐだ。植物園の入り口が見えてくる。
僕は植物園の手前にある薬草園までしか足を踏み入れたことがない。温室に入るのは初めてだ。今まで入ってみようとも思わなかった。そもそも、東洋医学研究部に入って二階堂先生に出会わなければ植物園に来ることだってなかったかもしれない。そう考えると、実に不思議な出会いだなと思う。
僕は天野さんとの出会いに、何か運命じみたものを見つけた気がして頭を振った。冷静になれよ、これは偶然が生んだ産物だ。運命など、あるはずがない。神様などいるものか。
もしもそんなものが存在しているのなら、あの時、僕たちは、二人とも助かっていた。きっと。
ガラス戸を押して温室の中に入る。外と世界を隔てる二つの扉を通り抜けると、亜熱帯のような湿度を感じた。梅雨のような陰鬱な感じがしないのは、ガラス張りの天井からふりそそぐ光のおかげだろう。生い茂る青々とした植物たちも眩しいほどだ。中には鮮やかな花をつけている物や、実をつけている物もある。まるで大きな箱庭だ。美しい光景に、僕は思わずため息を漏らした。
ひとしきり感動してから、僕はきょろきょろと辺りを見回した。天野さんはまだ来ていないらしい。しばらく草木を見ながら天野さんが来るのを待っていた僕は、だんだんと不安になってきた。
もしかしたら、土曜日に植物園で会う約束をしたと思っているのは僕だけで、天野さんにはこれっぽっちもそんなつもりはなかったかもしれない。
そう不安に思っていると、「アザミさん」と正確な発音で名前を呼ばれた。この声を、僕はもちろん知っている。
「来てくれたんですね!」
花がほころぶような笑顔を見せる彼女に、僕の顔も自然とほころぶ。良かった。頭を過るのはそんな安堵だ。彼女の「また会えたらいいですね」は単なる社交辞令ではなかったと思える。
息が上がっている。もしかしたら、急いで来てくれたのかもしれない。そう思うと、なんだか両手で包んだように心が温かくなる。
天野さんは長い髪の毛をポニーテールに結い上げていた。スカートではなく紺色のスキニーパンツに黄色のカットソーを着ている。以前会ったときとは雰囲気が違って一瞬戸惑うが、彼女の纏う柔らかな空気は変わらない。
「天野さんは水遣りに?」
「はい、この区画が園芸部の借りている場所なんです」
天野さんに案内してもらいながら、温室の中を歩く。園芸部の持っている区画は二メートル四方ほどの広さだった。地植えの植物のほかに、鉢植えの物も幾つかある。鉢植えには名前が書かれたプレートが巻き付けてあった。
「これは?」
僕が指さすと、天野さんは説明をくれる。
「それは個人が育てている鉢植えです。各々好きな植物を植えたり、買ってきたりして育てているんですよ。私のはこれです」
天野さんは小ぶりの鉢植えを指差した。小さな芽が生えている。
「何の植物かな?」
「ひまわりです。これはヴィンセントネーブルという種類で、丸っこくて可愛らしい花が咲くんです」
天野さんはそれからひまわりの種類について話し始めた。背の高いもの、切り花用の小さなもの。種部分の小さい物、色の豊富さなど。僕はひまわりにそんなにたくさんの種類があったことなど知らないので驚くばかりだった。
「サンリッチ種の花はブーケやアレンジメントに使われます」と語り始めたところで、天野さんははっとした表情になる。それから申し訳なさそうな顔で僕を見た。
「すみません、つまらなかったですよね」
そんなはずはない。とても興味深く話を聞いていた僕は首を横に振る。もしかしたら、以前僕の話を聞いてくれた天野さんも、同じような気持ちだったのかもしれない。
「とても面白かった。僕は花に疎くて、ひまわりにそんなに種類があるなんて知らなかったから。とても興味深くて面白かったよ」
僕の言葉に、彼女は笑顔を咲かせる。
「良かった。園芸部でもクラスでもちょっと浮いてるんです私」
「天野さんが?」
信じられない。とても社交的に見えるし、何より人を引き付ける雰囲気を持ち人だと思った。まるで蝶を寄せる花のようだと思う。
「たぶん群がるのが苦手だからだと思うんですよ。誰かとお話をするのは好きなんですけれど、すごく人を選ぶんです。迂闊に誰かと一緒にいると疲れちゃって……。だから特定の友達もいませんし、休日も一人でいることが多いです」
「ちょっとわかる気がする。僕も群がるのは苦手だから、クラスの中でも浮いている気がする」
かつてはそんなこと思いもしない子供だったが、今は違う。あの日から、僕はただの善良な人間ではなくなってしまったのだから。
「そんな雰囲気があります。アザミさんは一人を好みそう。なんだか似てますね、私たち」
「似てるかな?」僕の顔にはそう書いてあったのだろう。天野さんはくすくすと笑った。よく笑う人だ悲しみや後悔とは無縁のように見えた。僕とは、全然似ていない。
「植物みたいだと思いませんか?」
「植物?」
天野さんの言葉の意味が分からず、僕はオウム返しになる。
「はい、植物も、群れては生きていけないんです。栄養を奪い合ってしまうでしょう? だから、間引いたり、植えるときに初めから離したりして、一つ一つ適度な距離感を保つんです。その距離感は植物によっても違ってきます」
なるほど、と思った。面白いものの例えだけれど、的を得ているような気がする。
僕は、間引かれずに残ってしまったのだ。あのとき、間引かれるのは僕だったかもしれないのに。
「でも、中には一緒に植えた方がメリットのある植物もあるんですよ」
「へぇ、そんな協力的な植物があるの?」
「はい、コンパニオンプランツっていうんです。トウモロコシとマメ科の植物とか、夕顔と長ネギとか、レタスとアブラナ科の植物とか。一緒に植えると成長を促進したり、香りや風味をよくしたり、害虫を駆除したりできます」
「へぇ……知らなかった」
思わず感嘆が漏れる。天野さんは植物にとても詳しかった。他にも水や肥料のやりかたなどの知識も豊富だ。
「私、アザミさんと私はコンパニオンプランツなんじゃないかって思うんですよ」
「僕と、君が?」
「はい、きっと一緒にいたら互いにいいことがある……なんて、私のうぬぼれでしょうか?」
嬉しそうに話し始めた天野さんは、うかがうような目で僕を見る。コンパニオンプランツか。
「そうなれたらいいな」
ぽつりとこぼしたら、天野さんは嬉しそうに笑った。
誰かのコンパニオンプランツになれたら、僕も生きていてもいいのたど、思えるようになるかもしれない。それが天野さんであるなら、こんなに嬉しいことはないと思う。
それから一時間ほど話をして、僕と天野さんは一緒に正門をくぐり、途中で別れた。彼女は駅へ、僕はバイト先へ向かう。
「アルバイト先は近いんですか?」
「そこに内科の病院があるだろう? そこの門前薬局が僕のバイト先」
天野さんは病院のことを知らなかった。当然薬局のことも、その隣のカフェのことも知らない。カフェの話をすると、目を輝かせた。
「素敵なカフェですね」
「僕も気に入ってる。亜弓さんの淹れたコーヒーも美味しいし」
「あ、あの、今度行ってもいいですか?」
「いいよ、いつでも」



