「朔ちゃんなにかいいことあった?」

 バイト先の店長である亜弓さんがコーヒーの湯気をくゆらせながら尋ねてきた。この明るく優しい亜弓さんは、信じられないことに僕の従姉だ。

 亜弓さんは僕の伯父が経営している薬局に併設されているカフェを切り盛りしている。木材を基調とした山小屋風のカフェには、至る所に観葉植物が置かれていて、僕にとっても居心地の良い空間だった。亜弓さんは花よりも緑の葉を茂らせる植物の方が好みらしい。中でも大事にしているのが、カウンターの近くに置いてあるヒイラギの鉢植えだった。

 いつもは薬をもらい終えたお客さんで賑わっている店内が今日は閑散としている。近くの医院が臨時休業なのだそうだ。おかげでのんびりと美味しいコーヒーを飲むことができる。

 僕が薬学部に進学したと聞いて、薬局を経営する伯父さんがバイトをしないかと声をかけてくれたのだ。僕は薬局の仕事を学びながら、主に隣のカフェで働いている。なんでも、僕がいるとおばあちゃんたちが薬局からカフェのほうに流れてくるらしい。

「別に、なにもないよ」

 そう答えながらも、僕は天野さんのことを考えていた。最近の僕が体験した嬉しいことといえば、天野さんと出会ったことくらいだ。

「ふぅん、なんだ。てっきり好きな女の子でもできたのかと思っちゃった」

 亜弓さんは中途半端に鋭い。僕は「違うよ」と否定したけれど、亜弓さんは「お見通しよ」とでもいいたそうな顔で僕を見てくる。そんなことをいわれても否定するしかない。

 雨が降るだけで死にたくなるような僕には、誰かを好きになる資格なんかない。

「まぁなんにせよ朔ちゃんが楽しそうなのはいいことだよね。叔母さんが離婚してずっとふさぎ込んでたじゃない?」
「別に離婚に反対してないよ」

 亜弓さんは僕が生きることへ後ろめたさを感じていることに気が付いているんだと思う。ことあるごとに僕の心配をするのは、そのせいだ。

 僕は両親の離婚に反対ではなかった。あのまま一緒に生活をしていたら、いつか壊れてしまうのは目に見えていたから。
 論理的で冷静なの父と直情的な母の性格が合わないことは、幼い僕にだってわかっていたことだ。

 ただ、両親が離婚するための引き金を、僕が引いてしまった。その事実が辛かった。そもそも、僕という存在が居なければ、二人はもっと早い段階で離婚し、別の人生を歩むことができたのではないかとも思ってしまう。

 亜弓さんは温かな湯気の立つマグカップを僕の前に置いた。お客がいないときは、時々こうやってコーヒーを淹れてくれる。僕は亜弓さんの淹れるコーヒーが大好きだった。自分で淹れるとちょっとな苦くなる。どうして淹れる人によって味が変わるのだろう。

「朔ちゃんは若いんだから自由な恋愛をしたらいいのよ。なんでも相談して。何があっても、私は朔ちゃんの味方だから」
「若いって……僕はもう今年で二十歳だよ」

 亜弓さんの話はまだその話題で足踏みをしていたらしい。僕は肩を竦めた。

「何いってるのよ! 二十歳なんてまだまだ子供よ! それに、学生と社会人じゃぁ天と地ほどの差があるの。結婚なんか考えなきゃいけなくなったらもう家同士の話でしょう? 本人たちの意思じゃぁどうにもならないこともあるけど、逆境って燃えるでしょう?」

 亜弓さんがどんどん話を大きくしようとするので僕はため息を吐いた。

「何をいってるんだよ。僕にはドラマティックな恋愛はできないと思うよ」
「駆け落ちしちゃうとか」
「それ、僕の柄じゃないでしょ?」
「柄じゃないね」

 僕と亜弓さんを顔を見合わせて笑った。カランカランと鐘を鳴らして扉が開く。お客が来たので僕と亜弓さんの話はそれ以上続かなかった。

 僕は食器の片付けをしながら、お節介を焼きたがる亜弓さんのことを考える。僕の記憶が正しければ、亜弓さんは今年で三十二歳のはすだ。結婚したい相手のひとりやふたりいないのだろうか。従弟の僕から見たって、亜弓さんは美人だ。
 毎日学校が終わってから店を閉めるまで亜弓さんと一緒にいるけれど、浮いた話一つ聞かない。お客さんなんかにいい寄られている姿を見ないこともないけど、見ているこちらが気持ちがいいほど見事に一蹴している。

 結婚するつもり、ないのかな。なんて、僕の方がお節介だ。僕はふぅと小さく息を吐いてから、丸みを帯びたコーヒーカップを棚に収める。

「さぁ、そろそろ閉店の時間だわ」

 亜弓さんの声で時計を見ると、十九時を迎えていた。

「今日は叔母さん早いの?」
「母さん残業だっていってたかな。会議があるとか。久しぶりに僕が食事当番なんだ」
「あら、じゃぁ頑張って作らないとね」

 亜弓さんの好意で後片付けを途中で免除された僕は、いつもよりも早く家に着いた。母の自宅である古い二階建ての家屋は、母と二人で暮らすには広過ぎる。祖母が亡くなってからは特に広く感じる。

 家賃がかからないから有難いと母はいっていた。父からの養育費などをぴしゃりと断ったのは、母の意地なのだろう。
 僕に進学せずに働けといわなかったのも母の意地だ。母は、その性格で損をしていると思う。もっと、肩の力を抜けばいいのに。そうしたら僕は、もっと自由に命を手放せるのに。

 化粧品の販売員だった母は、父との結婚を機に専業主婦になった。仕事は好きだけど、不器用だから仕事と家庭の両立はできないと思う、そう笑いながら話していたっけ。

 離婚してから再びフルタイムでの仕事を始めた母は、「本当は働きたかったのかもしれない」と話していた。確かに働く母は活き活きとしているように見えた。

 でも僕には、僕を安心させるための詭弁なのではないかと思える時もある。

 時々、母の背中が小さく見えてしまうのは、何か不安を抱えているからではないかと、勘ぐってしまうのだ。

「ただいま」と母の声がしたのは、僕がちょうど夕食のパスタを炒め終わったところだった。

「良い匂いがするね」
「先にご飯? 風呂?」
「もちろんご飯。待たせてごめんね」

 母は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスに注ぐと一気に飲み干す。

「会議、大変だったね」
「本当、眠気と戦うのが大変だった。もうへとへと、途中何度船を漕ぎそうになったことか」
「そっちかよ」
「あ、悠朔(ゆうさく)は何かいいことでもあった?」

 母にまで尋ねられて僕は思わずはにかんだ。顔に出やすいタイプだったろうかと自分のことを(かんが)みる。子供のころはたしかにそうだったけど。

「別に」
「なぁんだ、てっきり良いことがあったのかと思った」

 母は亜弓さんと同じような口調でそういってから、僕が作ったアラビアータを口に運ぶ。

「うん、美味しい」

 その言葉と表情が僕の心をくすぐる。誰かが喜んでくれるということは、なかなか気持ちがいいものだと思う。こういう時、僕の罪悪感はちょっと薄まる。

 食事を終えてから、僕は深呼吸をしてシャワーを浴びる。不思議と、いつもよりも水の音が怖くないように感じた。