「なんだよアザミ、にやにやして気持ち悪いな」
部室となっている時乃研の研究室に戻った僕に声をかけてきたのは部活の顧問である二階堂先生だった。僕のことを「アザミ」と呼ぶもう一人の人物である。
「にやにやなんかしてません」
時乃研の助教で、昨年別の大学で博士号を取得。時乃先生のヘッドハンティングによって今年の春からうちの研究室の助教になったらしい。三十歳すぎだという二階堂先生は年齢よりもぐっと若く見える。無精髭さえ生やしていなかったら生徒として教室にいても十分通用する容姿だと思った。髭を剃って、無造作に伸ばした髪の毛をもう少し短くしたら清潔感が出るのになと思う。今の見た目ではガラの悪い浮浪者だ。
「これから成分の抽出か?」
僕が手に持っていたサラシナショウマを見て興味のなさそうな声を出す。生徒の自主性に重きを置いている二階堂先生の指導ぶりを、僕はなかなか気に入っていた。だからこそ他の部員が来ないわけなんだけど。
一から丁寧には教えてくれないが、尋ねたことが的さえ得ていれば丁寧に教えてくれる。口は悪いが悪い人ではない。
この、僕にとって居心地の良い東洋医学研究部に人気がないのは、けっして昨年一年間顧問を務めてくれていた時乃先生のせいではない。一昨年の十二月に急遽退職した准教授のせいだそうだ。悪い先生ではないのだが、とにかく真面目で細かいらしく、部活だからといって研究活動に手を抜くなと口やかましかったことも嫌われる要因の一つだった。
その准教授が他の大学に引き抜かれた。その穴埋めとして急遽二階堂先生が採用になったということらしい。僕たち生徒にとって実に有難い人事異動だった。園芸部の顧問もかけもしていた時乃先生は東洋医学研究部の顧問を二階堂先生に譲り渡したということである。その恩恵に一番に与ったのが、他でもない僕だ。
「細胞の培養中なんです。今日は抽出に時間を割いて、明日投与する予定です」
僕は自分の実験の予定を先生に説明した。
「クロマトは時間がかかるぞ。先輩らが使い残した成分残ってるだろう? あれを使えばいいのによ」
先生は研究室の棚に所狭しと並べられている血色の瓶を指さしながらため息を吐く。
「それを使ったら僕の研究じゃない気がするんです。古いですし……ほら、初めから実験道具が用意されてるなんて、ママゴト感があるじゃないですか?」
「学生の研究なんてそんなもんだろ。おまえも頭硬いな」
二階堂先生の小言は、どこか耳障りがいい。褒められている気さえするのは、僕のおかしな性分だろう。
「すみません」
「褒めてんだ」
わかりにくい。言葉が乱暴なのではじめは苦手なタイプだなと思ったが、今はこの口の悪さにすっかり慣れてしまった。悪い人ではないのだということが分かると、僕の方も少しずつ打ち解けてきた。
先生というよりは面倒見の良すぎる先輩のような感じがする。四年生で配属になる研究室も、二階堂先生がいるところにしようと決めていた。部活も入れたらこれから五年間、先生の指導の下、僕は研究にいそしむことになる。なかなか楽しみだ。
「植物とってきて抽出からやりたがる奴なんて、たぶんおまえくらいだよ」
どこか楽しそうな声だ。先生は僕のオタク気質なところやこだわりの強さを嫌煙したりしない。
「先生もやってるじゃないですか」
「俺は学生じゃねぇから。俺の研究はきちんとしてんの、ママゴトじゃねぇし。俺はオシゴトしてんのよ」
先生も頑固だ。乱暴に見えて、研究においては異常なまでに繊細なのだ。先生自身が、本当はとても繊細なのだと思う。面倒くさい作業も厭わずにやる。先生の研究スタイルは参考になると思っている。
「そういえば、温室の管理って先生がやってましたっけ?」
「温室?」
「植物園のやつです」
「そりゃわかるよ。他に温室なんかないだろうが。あそこな、農学部の蓮見先生が管理者になってるはずだ」
「でも先生も手伝ってますよね?」
「俺は暇だと思われてんだよ。院生のときから手伝わされてる」
先生はため息を吐いた。
「先生、ここの卒業生なんですか?」
「なんだよ、知らなかったのかよ」
知らなかった。別の大学から来たのだから、大学も別だと思っていた。
「修士までここでとったんだ。それから色々あって博士号はほかんとこ。まぁ、嫌じゃないからやるけど」
つまり、好きなのだ。先生のいう嫌いじゃないは好きに等しい。
「先生が植物好きとか正直驚きです」
「うるせぇな」
先生はコーヒーを持って自分の机に引っ込んでしまったので僕は自分の作業に戻ることにする。
自然と作業もはかどり、予定よりも早く成分の抽出が終わった。二階堂先生に意外と手際がいいな、と余計な一言を添えて褒めていただいた。
部室となっている時乃研の研究室に戻った僕に声をかけてきたのは部活の顧問である二階堂先生だった。僕のことを「アザミ」と呼ぶもう一人の人物である。
「にやにやなんかしてません」
時乃研の助教で、昨年別の大学で博士号を取得。時乃先生のヘッドハンティングによって今年の春からうちの研究室の助教になったらしい。三十歳すぎだという二階堂先生は年齢よりもぐっと若く見える。無精髭さえ生やしていなかったら生徒として教室にいても十分通用する容姿だと思った。髭を剃って、無造作に伸ばした髪の毛をもう少し短くしたら清潔感が出るのになと思う。今の見た目ではガラの悪い浮浪者だ。
「これから成分の抽出か?」
僕が手に持っていたサラシナショウマを見て興味のなさそうな声を出す。生徒の自主性に重きを置いている二階堂先生の指導ぶりを、僕はなかなか気に入っていた。だからこそ他の部員が来ないわけなんだけど。
一から丁寧には教えてくれないが、尋ねたことが的さえ得ていれば丁寧に教えてくれる。口は悪いが悪い人ではない。
この、僕にとって居心地の良い東洋医学研究部に人気がないのは、けっして昨年一年間顧問を務めてくれていた時乃先生のせいではない。一昨年の十二月に急遽退職した准教授のせいだそうだ。悪い先生ではないのだが、とにかく真面目で細かいらしく、部活だからといって研究活動に手を抜くなと口やかましかったことも嫌われる要因の一つだった。
その准教授が他の大学に引き抜かれた。その穴埋めとして急遽二階堂先生が採用になったということらしい。僕たち生徒にとって実に有難い人事異動だった。園芸部の顧問もかけもしていた時乃先生は東洋医学研究部の顧問を二階堂先生に譲り渡したということである。その恩恵に一番に与ったのが、他でもない僕だ。
「細胞の培養中なんです。今日は抽出に時間を割いて、明日投与する予定です」
僕は自分の実験の予定を先生に説明した。
「クロマトは時間がかかるぞ。先輩らが使い残した成分残ってるだろう? あれを使えばいいのによ」
先生は研究室の棚に所狭しと並べられている血色の瓶を指さしながらため息を吐く。
「それを使ったら僕の研究じゃない気がするんです。古いですし……ほら、初めから実験道具が用意されてるなんて、ママゴト感があるじゃないですか?」
「学生の研究なんてそんなもんだろ。おまえも頭硬いな」
二階堂先生の小言は、どこか耳障りがいい。褒められている気さえするのは、僕のおかしな性分だろう。
「すみません」
「褒めてんだ」
わかりにくい。言葉が乱暴なのではじめは苦手なタイプだなと思ったが、今はこの口の悪さにすっかり慣れてしまった。悪い人ではないのだということが分かると、僕の方も少しずつ打ち解けてきた。
先生というよりは面倒見の良すぎる先輩のような感じがする。四年生で配属になる研究室も、二階堂先生がいるところにしようと決めていた。部活も入れたらこれから五年間、先生の指導の下、僕は研究にいそしむことになる。なかなか楽しみだ。
「植物とってきて抽出からやりたがる奴なんて、たぶんおまえくらいだよ」
どこか楽しそうな声だ。先生は僕のオタク気質なところやこだわりの強さを嫌煙したりしない。
「先生もやってるじゃないですか」
「俺は学生じゃねぇから。俺の研究はきちんとしてんの、ママゴトじゃねぇし。俺はオシゴトしてんのよ」
先生も頑固だ。乱暴に見えて、研究においては異常なまでに繊細なのだ。先生自身が、本当はとても繊細なのだと思う。面倒くさい作業も厭わずにやる。先生の研究スタイルは参考になると思っている。
「そういえば、温室の管理って先生がやってましたっけ?」
「温室?」
「植物園のやつです」
「そりゃわかるよ。他に温室なんかないだろうが。あそこな、農学部の蓮見先生が管理者になってるはずだ」
「でも先生も手伝ってますよね?」
「俺は暇だと思われてんだよ。院生のときから手伝わされてる」
先生はため息を吐いた。
「先生、ここの卒業生なんですか?」
「なんだよ、知らなかったのかよ」
知らなかった。別の大学から来たのだから、大学も別だと思っていた。
「修士までここでとったんだ。それから色々あって博士号はほかんとこ。まぁ、嫌じゃないからやるけど」
つまり、好きなのだ。先生のいう嫌いじゃないは好きに等しい。
「先生が植物好きとか正直驚きです」
「うるせぇな」
先生はコーヒーを持って自分の机に引っ込んでしまったので僕は自分の作業に戻ることにする。
自然と作業もはかどり、予定よりも早く成分の抽出が終わった。二階堂先生に意外と手際がいいな、と余計な一言を添えて褒めていただいた。



