あの雨の日、奏さんはお兄さんの声を聞いたといっていた。僕にも聞こえた。

 奏を頼むよ。君にしか、出来ないことだから。

 確かに聞こえた。

 ずっと、雨の音が何かを訴えているように感じていた。
 それはきっと、この世に残った水無瀬さんの心だったのだと思う。奏さんと僕が出会ったことで、その声は大きくなった。

 彼は、僕や奏さんのことが心配で、心を残していったのだろう。僕たちが、きちんと乗り越えられるよう、手助けするために。

 過去に耳を塞いでいた僕には、届かなかったのだろう。優しい声がやっと聞こえた。

「悠朔、あの人を駅まで迎えにいってよ」
「自分で行ったらいいだろ。僕はこれから予定があるし」
「嫌よ、楽しみにしてたって思われたら嫌じゃない」

 そういって不機嫌な声を出す母さんに僕は苦笑いをした。

 父さんが、日本に戻ってくることになった。しばらくは日本(こっち)に勤務することになるらしい。仕方なく僕は支度をして家を出る。

「ねぇ悠朔」

 家を出る直前、母さんが僕を呼び止めた。

「なに?」
「母さんね、一度離婚したとこは後悔してないよ。一度投げつけてやりたかったのよ、離婚届け」

 それは、母さんなりに僕を擁護してくれているのだと思った。あんたは悪くないわよって。

「あのボンクラにいいたいこと色々いえて良かったわ。こんなこというのも変だけど、あんたのおかげよ」
「なんかそれも微妙だな」

 母さんは本当に不器用だ。素直じゃない。

「じゃぁ、行ってくるから」

 これから奏さんと出かける予定を入れているので、さっさと家に連れてきてしまおう。僕は邪魔なはずだ。母さんだって、父さんと二人で話したいことが色々あるだろうから。

 喧嘩にならなきゃいいけど。そう思いいたって僕は肩をすくめた。

 最寄り駅に着くと、大きなスーツケースを引いた父さんが近くの喫茶店で電子書籍を読んでいる。十年近く経つのに、父さんは記憶の中の姿とほとんどかわらない。僕は向かいの席に腰かけた。

「久しぶり」
「あぁ、大きくなったな。一瞬誰かわからなかった」
「十年ちかく経てばさすがに成長するだろ。父さんは変わんないな」
「母さんは?」
「家、楽しみにしてるのがばれたら嫌だから迎えに行かないっていってた」
「それをおまえがばらしたら駄目だろう?」

 父さんはそういって柔らかく笑う。この人、なんで母さんと結婚したんだろうか。全然キャラクターが違うので戸惑う。

「父さんのせいで猫を飼いそびれたよ」

 唐突にそんなことをいってみたけれど、父さんは驚くでもなく「あぁ」と声を漏らした。

「それは母さんが猫アレルギーだからだろう?」
「父さんのせいで猫アレルギーにならざるを得なかったんだろ」

 父さんは僕の遠回しな嫌味には気が付いていないみたいだ。そうか、この人はこういう人なのか。

「俺も猫が飼いたかったけど、まぁ俺は基本的に家にはいないし。母さんが世話することになるんだから、母さんが嫌なら仕方ないよな」
「父さんが可愛い後輩から頼まれたっていわなかったら、母さんは猫アレルギーにはならなかったよ。あれ、嫉妬だから」

 そこまで解説してやると、父さんはようやく驚いたような顔になる。なるほど、鈍感なんだ。母さんの嫉妬も無駄だな。
 僕はおかしくなってふっと笑いをもらした。

「悠朔、おまえに謝らなきゃいけないな。あの日、すぐに帰らなかったことをさ」
「仕方ないよ。父さん合理主義だもんな。慌てて帰ってきても、病室で僕を見つめることしかできないんだから帰って来たって仕方ないよな。でも、僕には何も出来なくても、母さんのことは支えてあげられたんじゃないかなって思うよ。謝るなら母さんにしてあげてよ」
「そう、だよな……」

 あの事故のとき、僕が目を覚まさない数日間の不安がる母さんを支えてあげられたのは、父さんしかいなかったはすだ。

「おまえのいうとおりだ。仕事が落ち着いて戻ってきたらさ、家族をなんだと思っているのかって散々母さんに罵られて、離婚届を突き付けられた。俺の判まですでに押してあったからちょっと笑ってしまった。俺には選択肢がないって思って」
「笑うところじゃないだろ。母さん、破ってほしかったんだよ、離婚届(それ)
「そうだな」
 
 父さんは視線を落とす。コーヒーカップから、静かに湯気が立ち上っていた。

「結婚届を書いて持ってきたんだけど、見せたらなんていうかな?」
「破られるんじゃない」
「そうか……困ったな、どうしたらいいだろうか?」

 真剣に悩む父さんの顔がおかしくて、僕は笑う。ちょっと抜けていて、ズレているのだ、僕の父親は。

「僕は浅海っていう名字が気に入ってるんだけどなぁ」
「おい、味方になってくれよ」
「いいよ、鈴木も気に入ってるから」

 まぁ、僕が何もしなくたって、大丈夫だろうとは思う。もう、いい大人なんだから。

「悠朔」

 父さんは真剣な顔で僕を見た。全然変わらないように見えたけど、少し目じりにしわが増えたかな。父さんも、九年の間に色々あったのかもしれない。

「母さんをありがとうな」
「何もしてないけど」
「学費を払ってやりたいんだけど」
「生憎今は奨学金が出てるんだ。よりが戻ったら頼るよ。さぁ、こんなところで長居もなんだから、さっさと家に帰ろう。僕はこのあと予定もあるし」
「おや、彼女かい?」
「さぁな」

 子供のころ見上げていた父さんは、今では同じくらいの背丈になった。そうか、僕は父さん似だったか。

「ねぇ、父さん。どうして母さんと結婚したの? 全然性格が合わなそうじゃない? っていうか合ってなくない?」

 一緒に歩きながら、僕は思い出したように父さんに尋ねる。父さんは不思議そうな顔をした。

「好きだからに決まってるだろう」
 
 「なるほど」って、納得してしまった。あまりに簡単すぎる答えに、僕は笑う。

 父さんの気持ちは今も変わらないのだろう。僕は、近いうちに鈴木に戻るかもしれない。

 家に帰ると不機嫌さをむき出しにした母さんに父さんを押し付けて、僕は奏さんのもとに向かう。

 今日はこれから海へ行くのだ。海の声を、聞くために。


 急いで電車を乗り継いで七里ヶ浜につくと、奏さんは砂浜に立って海を見ていた。
 僕は駆け寄って隣に立つ。

「遅くなってごめん」
「いいえ! 呼び出してしまってごめんなさい。一緒に海が見たくて。晴れた日の海は綺麗ですね」
「晴れてるから水面がキラキラして見える。まぁ海自体は汚いけど」
「そうですねぇ。ねぇ朔さん、いつか、私の生まれた海を見てください」
「もちろん、蒼佑さんのお墓参りにも行きたい」
「ありがとうございます! お兄ちゃん、喜びます」

 蒼佑さんに僕は誓いたい。懸命に生きることを。奏さんを、生涯をかけて大切にすることを。あなたが助けてくれた命のすべてをかけて、奏さんを、幸せにすると。

「朔さん、私、あなたのことが好きです」

 波の音にのって、奏さんの声が耳に届く。

 僕たちだからこそ、ともに生きていける。色々な悲しみを、乗り越えて。互いに互いを支え合って。
 寄り添うコンパニオンプランツのように。

 互いに互いでなくては駄目だ。僕でなくては、奏さんでなくては、意味がない。

 晴れているのに、パラパラと雨が降り始めた。雨粒は光を反射して、宝石のように輝く。まるで、世界を祝福するように。

 もう、雨の声は聞こえない。

 僕は言葉を紡ぐ。奏さんに、渡したい気持ちを音にのせて、

「僕も、君のことが好きです」

 波の音は、雨の音に似ている。僕たちを優しく包むように、優しい音がする。