「奏、海ってぇのはな、あらゆる命の母さんなんだ。命を生み落とすだろ、だから、(うみ)っていうんだ。海は、母さんなんだよ。父さんは海が好きだ」

 お母さんが死んだ日、お父さんは荒れる海を見ながらそんなことをつぶやいた。私を抱き上げるお父さんの顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。

 私はまだ三つくらいで、お父さんの言葉の意味はよくわからなかったけど、なぜか、あぁ、母さんは海になったんだなと、そんなことを思った気がする。

 私の生まれた町は北の大地の東端で、観光産業と漁業で成り立っていた。

 父は漁師だった。仏壇に置いてある優しい顔をした女の人が母だということは知っていたけれど、母との記憶はほとんどなかった。

 母は私が生まれてすぐに乳がんが見つかって、ずっと遠い場所にある病院にいたから。闘病生活は短く、あっという間に亡くなってしまった。

 お父さんやお兄ちゃんみたいに、顔をぐちゃぐちゃにして泣くくらいに寂しいと思うような記憶は、私にはなかった。

 それが、余計に寂しいことだと思うようになったのは、もっともっと大きくなってからのことで、幼い私には、寂しいと感じるだけの思い出がなかった。

 お父さんと兄ちゃんとおばあちゃんとおじいちゃんと飼い犬のレオと。うちの中はいつも笑顔が絶えずにぎやかだったから。
 おじいちゃんもおばあちゃんも、私を猫っ可愛がりしてくれたから、寂しいなんて思う気持ちはなかった。

 それでも時々心の中に、ぽっかりと穴が開いているような気がした。そんな時は家から少し離れた港に行って海の音を聞くのだ。海になった母さんの声が、聞こえるような気がしたから。

 海の音は、私の心を優しくなでてくれる。私は、海が大好きだった。

 そうやって何時間も海を眺めていることが時々あった。あんまり遅くまで海にいると、お兄ちゃんが私を迎えに来る。

「またここにいたのか」
「だって好きなんだもん」
「確かになぁ、いいよなぁこの景色」

 迎えに来たお兄ちゃんはいつもそういって私の隣に座った。九つも年が離れているから、幼い私にとってお兄ちゃんはもう一人のお父さんみたいだった。

「奏、おまえになにかあったら、兄ちゃんがすぐにかけつけてやるからな」
「うっそ、そんなこといって、お兄ちゃん今は(しゅう)ちゃんと遊んでるから無理とかいうんでしょ」
「そんときは二人できてやるから」
「ほんとかなぁ」

 私の心にぽっかりと空いた穴を埋めるようにお兄ちゃんは笑う。

 そのまま二人並んで夕日が沈んでいくのを見ることも珍しいことじゃなくて、心配したおばあちゃんが探しに来て二人で怒られたりした。

「あーんまりにも遅いから、海に落っこちたかと思って心配したわ」
「そんなことがあったらちゃんと大騒ぎになるだろ? で、誰か助けてくれるから。そもそも俺は泳げるから奏が落ちたって助けてに行けるし」
「馬鹿いうんじゃないよ、そういう時はすぐに消防に来てもらいな」

 おばあちゃんとお兄ちゃんはそういっていい合っていたけれど、私にとって海は恐ろしいものではなくて、優しいものだった。だって、お父さんが海は母さんだっていってたから。

 そう、海は優しいものだった。

 だけど、本当の海は優しいだけじゃない。時々私たちに牙を向く。

 漁師のお父さんもおじいちゃんも、そのことをよく知っていた。

「俺たちは海から色々な恵みをもらって生きてるから、海の機嫌を損ねないようにないとなぁ」

 お父さんは豪快な性格で、私の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜるように撫でる。私は髪に毛が絡まるのが嫌で、その雑な撫で方が気に食わなかった。
 気に食わないけれど、私はそんなちょっと豪快で優しいお父さんのことが大好きだった。

 おじいちゃんもお父さんも、海をとても大切にしていた。

 それなのに。

 海は、お父さんとおじいちゃんを奪っていった。

 ある日、おじいちゃんと一緒に漁に出かけたお父さんは、冷たくなって帰ってきた。

 船が転覆して海に投げ出されたそうだ。消防や警察や、漁業組合の人たちなんかが必死に探してくれたけど、結局おじいちゃんは見つからないまま。

 私の家から、二つの大きな灯が消えた。

「父さんは海が好きだったから、海で死んだのは本望だ」

 お兄ちゃんがそんな馬鹿みたいなことをいって私をなだめようとしたから、私はお兄ちゃんと思いっきり叩いた。何度も何度も。手が痛くなるまで。

「海は優しいはずなのに! 父さんの嘘つき嘘つき嘘つき! 私は海なんか大っ嫌い、大っ嫌い、大っ嫌い!」

 何度も何度も、私はお兄ちゃんの広い胸を叩いた。お兄ちゃんはただただ私の気が済むまで叩かせてくれた。

 お兄ちゃんだって、たまらなく悲しかったはずなのに。

「そんなこというな。海のこと嫌いになるな。奏、おまえのことは兄ちゃんが守ってやるから、何にも心配すんな」

 お兄ちゃんはそういって私の頭をなでる。父さんよりも、ずっと優しい手つきで。

 家の大黒柱はお兄ちゃんになった。 親友の柊ちゃんが東京の大学に進学する一方で、お兄ちゃんは高校を卒業してすぐに観光組合の事務仕事に就いた。漁師になることを、私が猛反対したから。

 もう誰も海には渡さないために。

 お兄ちゃんが就職した頃、おばあちゃんは風邪をこじらせて亡くなった。寒い寒い冬だったから、おばあちゃんが寒くないように、私は棺の中にたくさんの洋服を入れて見送った。
 おばあちゃんに懐いていたレオは、おばあちゃんがいなくなってから少しおかしくなった。
 玄関でずっと誰かを待っているのだ。誰かなんてわかってる。おばあちゃんのことだ。私が呼んでも、お兄ちゃんが呼んでも家の中に入らない。無理に連れて行こうとすると噛みつかれた。

 レオはそのままやせ細って眠るように死んでしまった。あっという間に。
 
 私たちはついに兄妹二人ぼっちになってしまった。寂しかったけれど、たまらなく寂しかったけれど、私にはお兄ちゃんがいたから耐えることができた。お兄ちゃんが、いつも優しく笑ってくれたから。

「奏、おまえのことは、兄ちゃんが守ってやるからな」

 そういって、お父さんよりも優しく頭を撫でてくれるお兄ちゃんを、支えられるような人になりたと思った。

「兄ちゃんのことは私が守ってあげるよ」

 私がそういうと、お兄ちゃんは破顔して。

「頼もしいなぁ」

 ってまた頭を撫でてくれる。優しいお兄ちゃんが、大好きだった。

 それなのに、それなのに……! 海はまた私から大事な人を奪った。

 その日、お兄ちゃんはお休みのはずだったのに、観光組合の方から呼び出しがあって出かけて行った。
 なんでも遊覧船を動かすための人出が足りないのだそうだ。観光シーズンでいつも以上に頻繁に船を出さないといけないみたい。猫の手も借りたいくらいなんだって。手伝えないかって相談に快く返事をして、お兄ちゃんは家を出た。

 ここ数日で、稀に見るほどの快晴だった。

「行ってきまーす」

 お兄ちゃんはいつものように家を出て行った。私もいつものように見送った。あれが最期になるなんて、思わなかったから。

「お兄ちゃん船には乗らないでよ!」
「心配すんな、(おか)での仕事にしてもらうから」

 そういっていたのに、そう約束していたのに。お兄ちゃんは帰ってこなかった。

 お兄ちゃんは嘘つきだ。

 引き揚げられた船の中からお兄ちゃんは見つかった。きちんと救命胴衣を着けていたけど、それは命を守る役目を果たしてはくれなかった。

 周りの人の話から、船内に取り残された人がいないか最後まで見回りに行っていたと聞いた。そして、男の子を助けたことも。その際、その子に自分の胴衣を渡したことも。

 お兄ちゃんは、その後、船の中に新しいものを取りに行って別のものを身に着けたのだろう。

 誰のせいでもない。なんのせいでもない。強いていうなら波のせい、風のせい。自然の前に、人はあまり無力だ。そんなことはわかってる。

 だけど、そんなものに当たりちらしところで甲斐などなくて……

 私は、全てを忘れることにした。悲しみから、自分を守るために。

 誰かを、恨まないために。


 鎌倉からタクシーに乗り込み大学までもどってきた。二階堂先生と亜弓さんに朔さんを託した私は一人になりたくて温室に来ていた。丸いドーム状の天井を見上げる。

「私、なんてことをいってしまったんだろう……!」

 お兄ちゃんが助けたあの子が、朔さんだったなんて、考えもしなかった。

 知っていたのに、気がついていたのに、朔さんも、死にたがっていること。
 その理由を知ろうともせずに、私は自分のことばかり。

 一緒にいたら、生きていてくれるような気がしたのに、私も、生きていけるような気がしたのに。寄り添うコンパニオンプランツのように。

 それを私が壊した。

 お兄ちゃんは確かに朔さんを助けた。でもお兄ちゃんが死んだことに朔さんはなにも関係ないのに。

 朔さん(あの子)が、代わりに死んでいたらって。

 なんて残酷な言葉だろう。そんなことを思った自分が、言葉にした自分が赦せない。まるで悪魔みたいだ。
 こうなるから私はお兄ちゃんの死を忘れることにしたのに。私は、本当にどうしようもない人間だ。生きている価値なんてない。お兄ちゃんのかわりに、朔さんのかわりに、死ねばよかったのは私だ。

「どうしてそれを、今更思い出してしまったんだろう。朔さんにいってしまったんだろう……私、最低だ……」

 ねぇお兄ちゃん、どうしよう、どうしよう。取り返しのつかないことをいってしまった、思ってしまった。
 大切なひとを傷つけた。最低の方法で。知らなかったじゃ、許されない。

 私、どうしたらいいんだろう。

 雨の音からは、いつもお兄ちゃんの気配がしていたのに。今はそれがわからない。

 私が、お兄ちゃんの死を忘れようとしたから罰が当たったのかな。

 私が、逃げてしまったから。

「私、どうしたらいいんだろう、お兄ちゃん……」

 外は雨が降っているのに、温室の中は雨が降らない。ガラス張りの天井に当たった雨が流れ落ちていく。

 ポロポロ、ポロポロ、雨が降る。

 私なんか、消えてなくなればいいのに。いつも思っていた、私も、死んでしまいたいって。

「奏さん!」

 突然、私の体に衝撃が起こる。優しい腕が、私を包む。まるで、あの雨の日のように。
 
 朔さん……。

 振り返ることが出来ない。もう、合わせる顔がない。声も出ない。出るのは嗚咽と、雨のような涙。

「奏さん、ごめん。君から逃げてしまった。僕は、君からお兄さんを奪ってしまったのに。きちんと謝りもしないで、罪を、償うこともしないでのうのうと生きていた」
「ちがっ」

 違うの、違うの朔さん、あなたは何も悪くないの。私は、あなたが生きていることがこんなにも嬉しいの。

「朔さん…………」

 ぐちゃぐちゃの顔のまま、私は朔さんの腕を振りほどいて振り返った。

「ごめんなさい、私、朔さんにひどいことを! 朔さんはなにも悪くないのに……朔さんが生きていてくれて、そばにいてくれて、こんなに嬉しいのに! 本当にごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……! 私、最低だ……」

 堰を切ったように言葉が零れ落ちる。謝る以外に、どうしたらよいのかわからなかった。口にしてしまった言葉を、なかったことにするにはどうしたらいいんだろう。

「もしも朔さんが死んでしまったら、私……」

 もう、それこそ生きていけない。もう、忘れることで逃げられる年齢じゃない。あのときは、もっともっと子供だったから。

 その場に崩れ落ちる私を、朔さんがしっかりと抱き止めてくれる。

「僕も、逃げていたんだ。助かった命を精一杯生きることから。怖かったんだ、僕が大切な命を奪ってしまったことで傷つく人がいることがわかっていたのに。僕はそれを知るのが怖かった」
「兄の死は、朔さんのせいじゃありません! むしろ兄は、あなたが死んで兄が生き残った方が苦しんだと思います。私、朔さんが死にたがっていることに気がついていました。あなたが、生きていてよかった、私はあなたが生きていることがたまらなく嬉しいの……!」

 そう必死に訴えると、朔さんは悲しそうに微笑んだ。

「ありがとう、奏さん」

 朔さんはずっと苦しんできたはずだ。朔さんは、優しい人だから。それなのに私は。

「朔さん、私は……」

 朔さんが私の頬を撫でる。流れ落ちる涙を拭ってくれる。

 外で、雨が降る。ザァザァとガラスを叩く音がする。どこからかお兄ちゃんの、声がする。

 奏、おまえにしか、できないことがあるだろう? 

 なに、わからないよお兄ちゃん!

 おまえにしか、救えない人がいるだろう? 勇気を出すんだ、奏。

 雨の音とともに、お兄ちゃんの、優しい声がした。

 そうか、お兄ちゃんは雨になったのだ。ずっと私を見守ってくれていたのだろう。雨になって

「奏さん、僕と出会ってくれてありがとう」

 私の涙を。朔さんは優しく拭ってくれた。

「誰かが死ねばいいとか、不幸になればいいとか。そんな綺麗じゃない感情を、少なからずみんな持っていると思うんだ。みんながみんな聖人君子はわけじゃない。大丈夫、僕は死なない」
「朔さん……」
「奏さん、君は何も悪くない。そして、僕も罪を感じることをやめる。だって、僕の命は、君のお兄さんが救ってくれたものだから」

 私は朔さんの腕の中でたくさんたくさん泣いた。お父さんが死んだ時と、お兄ちゃんが死んだ時を全部まとめてしまったくらいの涙があふれ出る。

「朔さんも、朔さんもなにも悪くない」

 そう、必死に言葉にする。どうか、朔さんに私の心が見えますように。

「奏さん、君が生きていてくれてよかった」

 何度も何度も考えた、どうして、海は私だけ連れて行かなかったんだろうって。どうして、連れて行ってくれなかったんだろうって。いつも、不安になって死にたくなっていた。
 だけどもう、そんな不安はない。

「朔さんが、生きていてくれてよかった。お兄ちゃんが助けたのが朔さんで本当によかった……」

 今ならわかる。私は、朔さんと生きるために生きている。朔さんの、コンパニオンプランツになるために。

「君も僕も、互いに互いじゃないとだめだと思うんだ。僕を赦せるのは君だけだし、君を守るのは僕だって思ってる。だから奏さん、一緒に生きて行こうか」

 植物園は箱庭みたいだ。他には誰もいない。私たちだけの切り取られた世界(箱庭)に、優しい言葉の雨が降る。

 やっと見つかったなって、お兄ちゃんの声がする。

       ――奏、幸せになれよ――