その夜、僕たちの住む町には大雨が降った。

  次の休み、僕は奏さんを鎌倉に呼び出した。呼び出したというのは少々語弊があるかもしれない。一緒でかけたいと提案したのは僕で、場所を指定したのは奏さんだった。
 告白するなら、彼女が一番好きな場所でと思ったから。

 てっきり『植物園で』といわれるだろうと思っていた僕は、思いもよらない返答に驚いた。

 天気はあいにくの雨だったけれど、すでに梅雨入りしてしまったのだから仕方がない。雨の日はもう憂鬱ではないのだから、雨が降っていようがいまいが、僕にはあまり関係がなくなっていた。「あじさいが綺麗なお寺があるから行ってみたら」なんて嬉しそうにいう母を玄関に押し込んで、僕は鎌倉を目指した。

 東京で生まれ育ったというのに、僕は鎌倉に行ったことがなかった。海の近くは無意識のうちに避けてきたのかもしれない。

 藤沢駅では奏さんが待っていた。落ち着いた色味のワンピースを着ている。薄手のトレンチコートみたいな形だ。雰囲気もなんだか少し違う。いつもよりも少し大人びて見えた。
 何か覚悟を決めたような、そんな雰囲気があった。

「朔さん、おはようございます」
「待たせてごめん」
「いえ、早く来たです。じっとしていられなくて」

 「行きましょう」と歩き出した奏さんと一緒に江ノ電に乗り、海沿いの道を走る。僕は電車に乗っている間にちらりと窓の外に広がる景色を見た。パニックになったらどうしようと、わずかな不安はあったが大丈夫そうだ。これも、訓練のたまものかもしれない。

 奏さんは七里ヶ浜の駅で降りた。見渡す限りの凪いだ海。地平線の先には何も見えない。どんよりとした雲のかかる海は、いつかの海に似ていた。

 僕はひゅぅと小さく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。何度か繰り返すと、耳の奥で鳴っていた鼓動が収まってくる。

「植物園にしようと思っていたんです。でも、私、朔さんと一緒に海に来たくなって……というか、来なければいけなかったんです」

 そういった奏さんは、はやりどことなく雰囲気が違って見えた。今までの無邪気な雰囲気が少し落ち着いて、少し大人びたように見える。それは、服装だけのせいじゃない。纏う空気の色が違う。

「来なくちゃいけなかった?」

 素直に思ったことをいうと、奏さんは悲しそうな表情になった。

「私、海が怖くて。小さい頃は好きだったんですけど。海は私の母代わりというか……」

 僕も同じだ。僕も海が怖い。

「でも、海はお母さんなんかじゃなかった。海は、私から色々なものを奪っていきました。私、朔さんに嘘をついていたんです」
「嘘――?」

 湿った砂浜の砂を踏みながら、奏さんは感情のこもらない声でそういった。

「私、大切なことを忘れたふりをしていたんです。悲しみから、逃げるために。それを、やっと思い出しました」
「忘れた……ふりを、していた?」

 オウム返しする僕に、奏さんは「はい」と頷いた。灰色によどむ海をじっと見つめていた奏さんは、僕を向き直る。

「本当はずっと隠したままの自分でいるもりでした。でも、それじゃダメだって、雨の声がするから」

 雨の落ちる暗い海に視線を向けていた奏さんは、僕を見た。

「向き合うことにしたんです。朔さんには、本当の私を知っていてもらわなくてはいけないって。雨の音が、私にそういってくるんです。偽った私のまま朔さんを好きになる資格も、好きになってもらう資格もないって。私もそう思います。だから、私の嘘を、隠し事を、聞いてくれますか?」

 僕は頷くしかなかった。奏さんの纏う空気は、今までのような柔らかなものではなく、どこか悲しみを孕んでいたけれど、僕はそんな奏さんのことを、とても綺麗だと思った。

 大丈夫、奏さんが僕にどんな隠し事をしていたとしても、僕の気持ちは少しも変わらない。

 僕は、君のことが好きだ。

 この時の僕は、なにもかもうまくいく気がしていた。そんな僕の楽観視を、神様は赦してはくれない。

 奏さんの紡ぐ言葉が、雨と一緒に落ちてくる。傘にう弾かれた雨粒が不協和な音を立てる。

「朔さん、私は北海道目梨(めなし)郡羅臼町というところで生まれました。母が亡くなり、父が亡くなり、兄が亡くなった後、私は東京に住んでいる母方の叔母、美沙さんご夫婦の養子に入りました」
「叔母さんから聞いたよ、北海道に住んでたって。でも、お兄さんは遠くに住んでるって……遠くって、北海道のことなんだろう? お兄さんは今も……」

 以前そういっていたはずだ。僕の言葉に、奏さんは長い睫毛を伏せる。

「はい、それが、嘘なんです。親代わりだった兄の死が耐えられなくて。幼い私は兄が死んだことを忘れることしたのです。兄は生きていると思い込むことで、私は自分の心のバランスを取っていました。意識的に思い出さないように、思い出さないように、必死で生きている兄の像を作り上げました。むこうに帰ったら兄がいると。そうしないと、私も兄たちと同じところに行きたくなってしまうから」
「……」

 それが、奏さんのついた嘘。

「それは必要な嘘だ。生きるためには、嘘だって必要だ」
「でも、そうやって生きている私自身は偽物です。兄がいると思い込んでいたうちの私と、死んだと知っている私では別物なんです。私、時々無性に死にたくなってしまって、朔さんと初めて会った時も、滑って階段から落ちたわけじゃないんです」

 奏さんは視線を落とした。大きな瞳がゆらゆら揺れる、不安に揺れている。僕と同じだ、奏さんも、生きることに怯えている。

「そんなことが、問題になるわけないよ。これから、新しい君のことを知っていく。そうしたら僕はもっと、君のことを好きになる。間違いなく、僕は君を好きになる。どんな君でも」

「だめなの!」

 奏さんは大きな声を出した。傘の下に隠れたまま、ぶんぶんと首を振る。長い髪が、激しく揺れた。

「私、最低なの。ずっと呪っていたんです。兄を奪ったあの日のことを、気を抜けば黒い感情が渦巻くんです。あの日、兄じゃなくて、他の人があの子を助けていたらって。兄が助けたあの子がいなければって。兄がその子に気が付かなければって……。あの子が、代わりに死んでいたらって。そうしたら今頃、兄は私の傍で生きていてくれるのにって。そう思ってしまう自分が、心底赦せなくて……!」

 ぽとり、と黒い雨が降る。色々な点が、線でつながっていく。

「奏さん……」

 君はもしかして。

「そうやって、誰かを呪う私が、本当に嫌で、死にたくなって。それでも、どうしても思ってしまう。あの時、兄が生きていてくれたら。兄じゃなくて、あの子が死んでいたらって。そうしたら、どんなに良かったかって……思ってしまう自分が、許せなくて……」

 砂の上に崩れ落ちそうになる奏さんを、僕は支える。雨の音が聞こえる。波の音が僕を責める。

 奏さん、君は。

「奏さん、水無瀬(・・・)さんっていう人を知ってる?」

 自分の声が、驚くほど震えているのがわかった。どうか首を横に振ってくれ、どうか……。

 世界が時間を止めてしまったのかもしれない。奏さんの口元が、ゆっくりと動く。

「水無瀬は、私が天野になる前の苗字です」

 視界が、一気に真っ黒になった。海の中にのまれていく。息ができない、苦しい。

 波にのまれる感覚が戻ってくる。