翌朝、起きると雨の匂いがした。春は雨が多い。囁くようにすら聞こえる雨の音に、僕は思わず耳を塞ぐ。プールに入れるようになっても、雨の音だけは余計に大きく聞こえるようになった。

 水が苦手なのは、溺れた記憶があるからだ。それは海のせい。
 雨が苦手だったのは、あの日(・・・)が、雨だったからだ。

 雨を嫌だと感じる度に、僕は奏さんに会った日のことを思い出すようになった。感情を塗り替えるように、黒く染まった心の上に、綺麗な色を塗る。出会った日、奏さんが履いていた、レインブーツのような爽やかな青色を。

 次第に雨は嫌なものではなくなった。

 あの日の出会いは、僕を変えた。とても、良い方に。

 奏さんに思いを寄せるようになってから、雨の音が優しい音に聞こえるようになった。そして僕に、優しくささやきかけているような。

 いや、そんな気がしているだけなのだけれど。雨の音は次第に大きく聞こえるようになった。嫌なものではないのに、優しい音色なのに、まるで僕を突き動かすような音がする。

 なぜだか、雨粒の一つ一つが確かな意思を持って僕に語り掛けてくるような気がするのだ。何かを。

 それがなにか、わからない。

 梅雨を前に、僕はついに泳げるようになった。

 競技用プールの飛び込み台に立つ。頭の中に響くホイッスルの音と共に、僕は水の中に飛び込んだ。

 体に絡みついてくる水を腕で大きくかき、足を動かして水流をつくる。
あの日、僕に襲い掛かってきた水を味方につけて、僕は五十メートルのところでターンをした。水の中に深く潜り、壁を思い切り蹴る。

 そのまま二百メートルを泳ぎ、僕は水の中から出た。少しも恐れを感じなかった。かつて、魚のように泳いでいた時の感覚が完全に戻ってきた。

「よっし」

 僕は小さくガッツポーズをする。これでやっと、奏さんへの想いに名前を付けることができる。僕は生きていられる。

「そろそろ降りそうだな」

 研究室の窓から外を見ながら、二階堂先生がため息交じりに呟いた。先生の声とともに、コーヒーの香りが漂ってくる。

「そういえば、おまえ、なんかガタイ良くなった?」

 首をかしげる二階堂先生に、僕は顔を上げて「そうですか?」と疑問符を投げかける。思い当たるとすれば泳ぎ始めたからだろう。少し、筋肉が付いたかもしれない。

「おまえ、あの農学部の生徒と付き合ってるんだろ?」

 奏さんのことだ、僕は慌てて首を振る。

「違います。まだ……」

 上からあからさまなため息が降ってきた。

「なんだよ、まだかよ……だっせー」
「先生にいわれたくないです」
「まぁなんにせよちょと安心したよ。おまえ、危なっかしかったからな」
「危なっかしい?」

 先生は頷く代わりにコーヒーを飲んだ。

「たまにいるんだよ。おまえみたいに消えちまいそうなやつがさ。たしかにそこにいたはずなのに、突然ふらっといなくなっちまいそうっていうか」
「僕はいなくなりません」
「それ聞いたら安心する。あ、俺がじゃなくて亜弓がな」

 雨の音が、僕の心に響く。しとしと、しとしと。
 雨なんか、降ってないだろ? なんだよ、この音は……

「なぁ、好きなら大事にしてやれよ」

 二階堂先生の言葉が僕に降り注ぐ。なんだか、とても説得力があった。

 先生は亜弓さんを大事にしようとしている。一度は放してしまった手を、必死に掴んで、二度と放さないように。

「奏さんに告白します、泳げるようになったから」
「おまえ、カナヅチだったの?」
「いや、昔は泳げたんですけど……今はちょっとメンタルの問題があって泳げなくてて。でも、克服出来たから、少し、自分に自信が持てました」

 言葉にしてから後悔した。先生に笑われるような気がしたから。でも、先生はた窓の外を見つめて、笑う気配はない。

 雨の、音がする。

「あのさ、おまえ、鈴木って苗字だったのか?」
「はい、父と母が離婚するまでは。どうしたんですか、突然」
「下の名前、ゆうさく(・・・・)っていうんだったな?」
「そうですけど」
「おまえ、もしかして……」
「え?」

 先生は、カップを口に運び、言葉を流し込むようにコーヒーを飲んだ。

「なんてな。そんなことねぇよなぁ。悪いな、こっちの話だ」

 にっと、先生は何かをかみつぶすように笑った。僕は何も知らなかった。先生がかみつぶした言葉の正体を。先生が、何者であるのかを。何を、知っているのかを。僕は、なにも。