天野さんと再会したのは、僕がそんな非科学的なことを本気で考え始めた頃のことだ。それは授業のない土曜日だった。天野さんは残念な僕の生み出した幻ではなかったらしい。僕は彼女に再会したことを素直に嬉しく思った。
もしかしたら、心のどこかでまだ会えたらいいと、願っていたのかもしれない。
「アザミさん」
植物園に行くために広いキャンバスを歩いていると背中からほわんとした陽光のような声がした。
「アザミさん」と正確な発音で名前を呼ばれたので、僕は咄嗟に自分のことだとは気が付かなかった。
反応するのに数秒遅れる。僕は自分の名字にあまり慣れ親しんでいなかった。僕の名字は両親が離婚したことにより、「鈴木」という聞き取りやすく、変換しやすい優秀な名前から「アザミ」という少し変わった名前になった。
漢字表記は「浅海」だ。だからだろう。みんなはためらいもなく僕のことを「アサミ」と呼ぶ。「アザミ」と名乗ったところで、漢字を見てしまえば、濁点が消えた状態でインプットされるのだろう。中学は小学校から同じやつが多くて、そのまま「鈴木」と呼ばれたし。高校では何度訂正しても「アサミ」と呼ばれた。再々訂正するのも次第に面倒になる。
大学でも高校と同じ現象が起きているので、この学校において僕のことを「アザミ」と呼ぶ人は一人しかいない。いや、天野さんを入れたら二人になるか。どちらにせよ稀有なことに変わりはない。
「この先は植物園しかありませんよ? アザミさんもそこへ?」
僕は頷く。「アザミさんも」と聞いてくるということは、彼女も行く先は同じなのだろう。いや、問うまでもない。この先には彼女がいった通り植物園しかない。
「僕は東洋医学研究部に所属しているから、研究材料を取りに――」
「顧問の先生、時乃先生じゃありませんか? 私、園芸部に所属しているんです、顧問が時乃先生なんですよ!」
「確かに、去年の顧問は時乃先生だったけど――」
今年からは二階堂という助教の先生に代わっていた。とはいえ、思わぬ共通点が見つかって、僕は酷く驚く。目を丸くする僕とは違って、天野さんはにこにこと柔らかい笑顔を見せた。
思わず、僕との些細な共通点を喜んでいるように見えてしまう。そんなはずはないだろうと、僕は風船のように浮かび上がった期待にぷすりと針を刺した。
「今日は私が水遣りの当番なんです」
「水遣りって、スプリンクラーがあるよね?」
僕は植物園中に敷かれたパイプを思い出す。無数の穴が開いていて、時間がくれば勝手に水遣りをしてくれるはずだ。現に僕は植物を採取には行くが水遣りなど一度もしたことがない。
「地植えの植物はスプリンクラーがきちんと水をあげてくれるんですけれど、鉢植えなんかは自分たちでやらないといけなくて。二週間に一回くらい当番日があるんですよ。アザミさんもよく植物園に行かれるんですか?」
「去年は全然だけど、今年の四月に入ってからは結構足を運んでるかもなぁ。といってもまだ一月だけど、植物園、結構気にってるから」
そう答えると天野さんはにっこりと微笑んだ。
「今まで会わなかったのが不思議ですね。あ、でもお知り合いになったのがつい最近ですから気が付かなくて当たり前ですよね」
自分の考えが面白かったのか、天野さんはコロコロと軽快に笑った。
そのまま「では失礼します」とはならずに、天野さんは僕の横を歩いていく。クラスの女の子とは五分と話が続かない口下手な僕だ。
僕を知る学部生が見たらさぞ驚く光景だろう。明日には空から槍が降ってくるのだと騒ぎ立てて、ホームセンターや自転車屋からヘルメットが姿を消すかもしれない。
中学生に上がってから、すっかり大人しい性格になった僕は、高校を半分死んだような状態日々を過ごし、大学でも友達らしい友達が思い浮かばない。話をするクラスメイトもそう多くはなかった。強いていうなら同じ高校から進学した大地くらいなものだ。
部活の方はどうかといえば、先輩たちに無理矢理入れられた東洋医学研究部は人気がなく、わずかにいる部員も名ばかりの幽霊部員ばかりだった。真面目に活動しているのは僕くらいのものだろう。つまり、部活でもぼっちというわけだ。まぁ、その方が快適なのだけれど。
大学敷地内の東側にある植物園は広大で、ガラス張りの温室もありそこそこ立派だ。季節ごとに花が咲き、見ごたえがある。一般開放もされているので、時折近くに住んでいる人が散歩している姿を見ることもあった。
「アザミさんは植物が好きなんですか?」
天野さんがキラキラとした瞳で聞いてくるものだから僕は戸惑った。僕が東洋薬学を研究する部活に入ったのは、一年生の時に四年生の先輩に勧誘で捕まったからだ。けっして薬草や漢方に興味があったからではない。彼女の期待を裏切るのは正直、心が痛んだが、他に上手い言い訳も思いつかない。
「いや、先輩たちに無理矢理入れられたんだ。断り切れなくて……」
「あぁ、そういうことでしたか」
天野さんはがっかりした素振りは見せない。僕の答えがおかしかったのか、楽しそうにコロコロと笑った。
「でも――」
僕は会話を続ける。東洋医学は、学べば学ぶほど奥が深く面白い学問だ。
「勉強してみると楽しいなと思う。薬理作用を持つ植物も綺麗なものが多いし、西洋医学に出てくる医薬品も植物から発見されたものもあるから。未病といって病気と診断される前の状態を指し示す言葉があるんだけど、東洋医学ではこの未病の状態からのケアが大切だっていう話があって――」
いったい何の話をしているのだ僕は。思っていることを上手く言葉にできない。その上、頭の中には藁のように頼りない知識しか浮かばなかった。
「そうなんですね、知りませんでした。どんなものがあるのですか?」
思いの外、僕の言葉に天野さんは興味を持ってくれた。僕もついつい学んだばかりの知識を披露する。去年までは試験のためだけに勉強していたので、知識らしい知識は全く身につかなかった。しっかりと身についてきたのは、最近二階堂先生の下について興味を持って調べるようになってからだ。
天野さんはとても聞き上手だった。僕のつまらない話に「そうなんですね」「すごいですね」と丁寧に相槌を打ってくれる。だから僕もすっかり気分が良くなって、ついつい色々と話してしまう。そうやって話しをしていると、あっという間に植物園に辿り着いた。
「すごく面白かったです! また聞かせてください」
お世辞ではないかと思うほど嬉しい言葉をくれる。こんなに誰かと会話をしたのはいつぶりだろう――もともとオタク気質であったことをすっかり忘れていた。
僕は自分一人が楽しく話してしまったのではないかと反省したが、彼女は本当に楽しかったのだというようににっこりと笑った。
「私、これから園芸部が借りている区画に行くのですが、アザミさんは薬草園の方ですか?」
「そうです」
「そうしたらここでお別れです。私は温室に行かないといけないので……」
天野さんはあまりにあっさりと別れを告げてきた。やはり楽しくなかったのかもしれない。僕がそう思っていると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「私、毎週土曜日は講義がなくてお休みなんです。午後には温室に来ていますから。あ、あと二週間に一度水やりに決ます。アザミさん、また会えたら嬉しいです。色々と教えてください」
白い手を蝶のようにひらひらと振って、天野さんは温室の方へ駆けていく。薬草園があるのは植物園の入り口付近。一方温室は一番奥にあった。少し視線を上げると、ガラス張りの建物が見える。二階部分のガラスはプラネタリウムのように丸みを帯びた天井になっていた。
「毎週土曜日か……」
僕はぽつりとつぶやいた。土曜日は午前中研究に来ることになっていた。といっても自主的にだけど。
午後からはバイトが入っているけれど、一時間くらいなら余裕がある。
あれは、約束したことになるのだろうか。僕は珍しく前向きな気持ちになって、今度の土曜日、植物園に来てみようと思った。
もしかしたら、心のどこかでまだ会えたらいいと、願っていたのかもしれない。
「アザミさん」
植物園に行くために広いキャンバスを歩いていると背中からほわんとした陽光のような声がした。
「アザミさん」と正確な発音で名前を呼ばれたので、僕は咄嗟に自分のことだとは気が付かなかった。
反応するのに数秒遅れる。僕は自分の名字にあまり慣れ親しんでいなかった。僕の名字は両親が離婚したことにより、「鈴木」という聞き取りやすく、変換しやすい優秀な名前から「アザミ」という少し変わった名前になった。
漢字表記は「浅海」だ。だからだろう。みんなはためらいもなく僕のことを「アサミ」と呼ぶ。「アザミ」と名乗ったところで、漢字を見てしまえば、濁点が消えた状態でインプットされるのだろう。中学は小学校から同じやつが多くて、そのまま「鈴木」と呼ばれたし。高校では何度訂正しても「アサミ」と呼ばれた。再々訂正するのも次第に面倒になる。
大学でも高校と同じ現象が起きているので、この学校において僕のことを「アザミ」と呼ぶ人は一人しかいない。いや、天野さんを入れたら二人になるか。どちらにせよ稀有なことに変わりはない。
「この先は植物園しかありませんよ? アザミさんもそこへ?」
僕は頷く。「アザミさんも」と聞いてくるということは、彼女も行く先は同じなのだろう。いや、問うまでもない。この先には彼女がいった通り植物園しかない。
「僕は東洋医学研究部に所属しているから、研究材料を取りに――」
「顧問の先生、時乃先生じゃありませんか? 私、園芸部に所属しているんです、顧問が時乃先生なんですよ!」
「確かに、去年の顧問は時乃先生だったけど――」
今年からは二階堂という助教の先生に代わっていた。とはいえ、思わぬ共通点が見つかって、僕は酷く驚く。目を丸くする僕とは違って、天野さんはにこにこと柔らかい笑顔を見せた。
思わず、僕との些細な共通点を喜んでいるように見えてしまう。そんなはずはないだろうと、僕は風船のように浮かび上がった期待にぷすりと針を刺した。
「今日は私が水遣りの当番なんです」
「水遣りって、スプリンクラーがあるよね?」
僕は植物園中に敷かれたパイプを思い出す。無数の穴が開いていて、時間がくれば勝手に水遣りをしてくれるはずだ。現に僕は植物を採取には行くが水遣りなど一度もしたことがない。
「地植えの植物はスプリンクラーがきちんと水をあげてくれるんですけれど、鉢植えなんかは自分たちでやらないといけなくて。二週間に一回くらい当番日があるんですよ。アザミさんもよく植物園に行かれるんですか?」
「去年は全然だけど、今年の四月に入ってからは結構足を運んでるかもなぁ。といってもまだ一月だけど、植物園、結構気にってるから」
そう答えると天野さんはにっこりと微笑んだ。
「今まで会わなかったのが不思議ですね。あ、でもお知り合いになったのがつい最近ですから気が付かなくて当たり前ですよね」
自分の考えが面白かったのか、天野さんはコロコロと軽快に笑った。
そのまま「では失礼します」とはならずに、天野さんは僕の横を歩いていく。クラスの女の子とは五分と話が続かない口下手な僕だ。
僕を知る学部生が見たらさぞ驚く光景だろう。明日には空から槍が降ってくるのだと騒ぎ立てて、ホームセンターや自転車屋からヘルメットが姿を消すかもしれない。
中学生に上がってから、すっかり大人しい性格になった僕は、高校を半分死んだような状態日々を過ごし、大学でも友達らしい友達が思い浮かばない。話をするクラスメイトもそう多くはなかった。強いていうなら同じ高校から進学した大地くらいなものだ。
部活の方はどうかといえば、先輩たちに無理矢理入れられた東洋医学研究部は人気がなく、わずかにいる部員も名ばかりの幽霊部員ばかりだった。真面目に活動しているのは僕くらいのものだろう。つまり、部活でもぼっちというわけだ。まぁ、その方が快適なのだけれど。
大学敷地内の東側にある植物園は広大で、ガラス張りの温室もありそこそこ立派だ。季節ごとに花が咲き、見ごたえがある。一般開放もされているので、時折近くに住んでいる人が散歩している姿を見ることもあった。
「アザミさんは植物が好きなんですか?」
天野さんがキラキラとした瞳で聞いてくるものだから僕は戸惑った。僕が東洋薬学を研究する部活に入ったのは、一年生の時に四年生の先輩に勧誘で捕まったからだ。けっして薬草や漢方に興味があったからではない。彼女の期待を裏切るのは正直、心が痛んだが、他に上手い言い訳も思いつかない。
「いや、先輩たちに無理矢理入れられたんだ。断り切れなくて……」
「あぁ、そういうことでしたか」
天野さんはがっかりした素振りは見せない。僕の答えがおかしかったのか、楽しそうにコロコロと笑った。
「でも――」
僕は会話を続ける。東洋医学は、学べば学ぶほど奥が深く面白い学問だ。
「勉強してみると楽しいなと思う。薬理作用を持つ植物も綺麗なものが多いし、西洋医学に出てくる医薬品も植物から発見されたものもあるから。未病といって病気と診断される前の状態を指し示す言葉があるんだけど、東洋医学ではこの未病の状態からのケアが大切だっていう話があって――」
いったい何の話をしているのだ僕は。思っていることを上手く言葉にできない。その上、頭の中には藁のように頼りない知識しか浮かばなかった。
「そうなんですね、知りませんでした。どんなものがあるのですか?」
思いの外、僕の言葉に天野さんは興味を持ってくれた。僕もついつい学んだばかりの知識を披露する。去年までは試験のためだけに勉強していたので、知識らしい知識は全く身につかなかった。しっかりと身についてきたのは、最近二階堂先生の下について興味を持って調べるようになってからだ。
天野さんはとても聞き上手だった。僕のつまらない話に「そうなんですね」「すごいですね」と丁寧に相槌を打ってくれる。だから僕もすっかり気分が良くなって、ついつい色々と話してしまう。そうやって話しをしていると、あっという間に植物園に辿り着いた。
「すごく面白かったです! また聞かせてください」
お世辞ではないかと思うほど嬉しい言葉をくれる。こんなに誰かと会話をしたのはいつぶりだろう――もともとオタク気質であったことをすっかり忘れていた。
僕は自分一人が楽しく話してしまったのではないかと反省したが、彼女は本当に楽しかったのだというようににっこりと笑った。
「私、これから園芸部が借りている区画に行くのですが、アザミさんは薬草園の方ですか?」
「そうです」
「そうしたらここでお別れです。私は温室に行かないといけないので……」
天野さんはあまりにあっさりと別れを告げてきた。やはり楽しくなかったのかもしれない。僕がそう思っていると、彼女はにっこりと微笑んだ。
「私、毎週土曜日は講義がなくてお休みなんです。午後には温室に来ていますから。あ、あと二週間に一度水やりに決ます。アザミさん、また会えたら嬉しいです。色々と教えてください」
白い手を蝶のようにひらひらと振って、天野さんは温室の方へ駆けていく。薬草園があるのは植物園の入り口付近。一方温室は一番奥にあった。少し視線を上げると、ガラス張りの建物が見える。二階部分のガラスはプラネタリウムのように丸みを帯びた天井になっていた。
「毎週土曜日か……」
僕はぽつりとつぶやいた。土曜日は午前中研究に来ることになっていた。といっても自主的にだけど。
午後からはバイトが入っているけれど、一時間くらいなら余裕がある。
あれは、約束したことになるのだろうか。僕は珍しく前向きな気持ちになって、今度の土曜日、植物園に来てみようと思った。



