桜が散り、新緑の季節がやってきた。
奏さんと出会ってから一年が過ぎた。三年生に進学した僕は実習が忙しくなり、カフェのバイトは週に一度行けるのがやっとになった。今では僕の代わりに奏さんが働いてくれるようになっている。
カフェに行かないかわりに、平日は深夜まで営業しているスポーツセンターで泳ぐ練習をするようになった。泳ぐというか、まずは水に浸かる練習からかな。
家で水泳パンツを漁っていると、母が目を丸くして声をかけてきた。
「悠朔、泳ぐつもり?」
「そう、そろそろ克服しないとなって思って。ねぇ、水泳帽どこにしまい込んだっけ?」
クローゼットに首を突っ込んだまま、背後にいるであろう母に尋ねても返事がない。代わりにすすり泣く声が聞こえてきたので、僕はぎょっとして振り返った。母さんは泣いていた。
「あんたも成長したんだねぇ」
「まだ克服したわけじゃない、大袈裟だなぁ」
少し照れがあった。母の涙など、あの日以来見たことがなかったから。僕は、自分がどれほど母親に心配をかけていたのか気が付いた。母は、ずっと僕のことを案じていたのかもしれない。
ともすれば消えようとする危うい命の灯を、どうしたら守れるのか悩んでいたのかもしれない。
悪いことをしたと、この時初めて思った。
高校時代に授業のために買ったまま一度も穿いていない水泳パンツは結局見つからずに新しいものを新調した。捨ててしまったのかもしれない。
深夜のプールにはほとんど人がいなかった。僕は浅い多目的プールに恐る恐る浸かる。ひんやりとした水の感触が足にまとわりつく。
ぞわりと背筋を何かが駆け上っていく。僕はぐっと拳を握りしめた。次第に体が水に慣れていく。大丈夫だ。次は、水に顔をつける。
これがなかなかできない。一週間同じようなことを繰り返して、やっと潜ることが出来たときには一人でガッツポーズをした。傍から見たらおかしなやつだけど、夜遅くにプールに来る人も居らず、監視員の人ですら僕には関心がなさそうだった。
泳ぐ練習を始めて一月が過ぎた。
僕は競泳用のスタート台に立ち、深呼吸をする。親しんだ塩素の匂いは、心地よささえ感じた。大丈夫だ、泳げる。
頭の中で、小学生時代に参加していた大会の音声が流れる。審判の声、ホイッスルの音。
僕は水に飛び込んだ。途端、視界が真っ暗になる。酸素を奪われた記憶が一瞬頭をかけめぐり、口の中にするはずのない潮の味が充満してくる。息つぎの仕方がわからなくなった。このままだと溺れる。
僕は泳ぐことを諦め、底に足をつく。ゆらゆらとした水の感覚は消え、しっかりとした足元の感覚に安堵を覚えた。香ってくるのは、潮の香りではなく、消毒された水の匂い。ここは海ではない。そう思うのに体の震えが止らなかった。
駄目だ、まだ泳ぐことができない。僕はまだ、水が怖いままだ。
仕方なく競泳用のプール方上がり、浅い多目的プールに移る。情けなかった。
恐怖は僕の心に染みついて、完全には消えていない。でも、毎日毎日、僕は学校の終わりにプールに向かうようになった。一日も早く、昔のように泳げるようになりたかった。奏さんに会うたびに、その思いは強くなるばかりだった。
「奏ちゃんがいたほうがお客さんが喜ぶんだよね」
一週間ぶりにアザミに顔を出すと、亜弓さんは冗談にもならないことをいう。本当のことだから仕方がない。現に、奏さんがカウンターの内側に顔を見せるようになってから客の数が増えているようだ。
「このまま二人でうちに就職しちゃったらいいなって思う~。あ、でも奏ちゃんは品種改良とかの研究したいっていってたっけ」
「すみません、ここも楽しいけど、やっぱり植物に携わりたいなって思います」
奏さんがぺこりと申し訳なさそうに頭を下げるので、亜弓さんは慌てて首を横に振った。
「いいのいいの! 変なこといっちゃってごめん! 朔ちゃんも、うちのこととか気にしないで」
「え、でも薬局は……」
「もしかしたら柊也君が継いでくれるかもしれないから」
ふふっと肩を竦めて見せる亜弓さんに、僕と奏さんは「え!」と大声を上げる。
「ご結婚されるんですか!」
「そのつもり。柊也君が折れてくれた。お父さんも隠してるけどめっちゃ嬉しそうにしててさ、我が親ながら本当単純だよね」
嬉しそうにそういってから、亜弓さんはピンと人差し指を立てる。
「あぁ、でもこれはまだ内緒。柊也君の気が変わっちゃうかもしれないし、別れちゃうかもしれないし……」
「そんな縁起でもないこといわないでくださいよ~」
このまま、亜弓さんと二階堂先生が結婚することになれば、これほど嬉しいことはない。二階堂先生が身内になるって変な気分がした。くすぐったい。
「二階堂先生と伯父さんがこの狭い薬局にいるとかカオスですよね」
「爆発しそうだよね、ビックバンが起きて新しいものが生まれるんじゃない?」
亜弓さんはそんな楽観的なことをいうけど、正直にいうと、僕はそこでは働きたくないなと思った。二人のことは嫌いじゃないけど、二人の間に挟まれて仕事をするなんてごめんだ。
「だからさ、朔ちゃんは好きなことするんだよ~」
結局いいたかったのはそれなのだろう。亜弓さんは満足そうな顔をして僕を見る。
僕のやりたいことって何だろう。将来のことはまだ描けていない。今までは、明日を生きることも考えずにここまで流されてきたのだ。生きることもままならない僕は、未来のことなんか考えられない。
当面の目標は泳げるようになること。そして、奏さんへ想いを伝えることだ。
カフェアザミからの帰り際、奏さんは突然立ち止まった。「どうしたの?」と振り返ると、奏さんが真っ赤な顔をしている。
「あ、あの、朔さん、私、朔さんに伝えたいことがあります」
「伝えたいこと?」
「はい」
その表情を見て、鈍い僕にも奏さんが何をいおうとしているのか、なんとなくわかった。僕はかぁっと顔が熱くなるのを感じる、そして、その熱を一瞬で冷ます。
「私……」
「待ってくれ」
僕は奏さんの言葉を止めた。
「朔さん……?」
「僕のうぬぼれじゃなかったら、僕も君とおなじことを君にいいたいとずっと思ってる。でも、神様に決意表明したから、もう少し待ってくれないかな」
「決意表明……ですか?」
奏さんは首をかしげる。
「今、トラウマを克服しているところなんだ。もう少したら、僕は君に伝えられるから。だから待ってほしい。僕の我がままだけど」
こういってしまったら、「君が好きだ」と伝えてしまっているようなものなのだけれど、この際仕方がない。
すると奏でさんは嬉しそうにはにかんだ。
「私、いつまでも待っています」
だけど、その笑顔の中にも、悲しみの色が滲んで見える。奏さん、君は何を隠しているんだろう。僕は少しだけ、ほんの少しだけ、その答えを知るのが怖い。どうして、そんな風に感じるのかわからないけれど。
奏さんと出会ってから一年が過ぎた。三年生に進学した僕は実習が忙しくなり、カフェのバイトは週に一度行けるのがやっとになった。今では僕の代わりに奏さんが働いてくれるようになっている。
カフェに行かないかわりに、平日は深夜まで営業しているスポーツセンターで泳ぐ練習をするようになった。泳ぐというか、まずは水に浸かる練習からかな。
家で水泳パンツを漁っていると、母が目を丸くして声をかけてきた。
「悠朔、泳ぐつもり?」
「そう、そろそろ克服しないとなって思って。ねぇ、水泳帽どこにしまい込んだっけ?」
クローゼットに首を突っ込んだまま、背後にいるであろう母に尋ねても返事がない。代わりにすすり泣く声が聞こえてきたので、僕はぎょっとして振り返った。母さんは泣いていた。
「あんたも成長したんだねぇ」
「まだ克服したわけじゃない、大袈裟だなぁ」
少し照れがあった。母の涙など、あの日以来見たことがなかったから。僕は、自分がどれほど母親に心配をかけていたのか気が付いた。母は、ずっと僕のことを案じていたのかもしれない。
ともすれば消えようとする危うい命の灯を、どうしたら守れるのか悩んでいたのかもしれない。
悪いことをしたと、この時初めて思った。
高校時代に授業のために買ったまま一度も穿いていない水泳パンツは結局見つからずに新しいものを新調した。捨ててしまったのかもしれない。
深夜のプールにはほとんど人がいなかった。僕は浅い多目的プールに恐る恐る浸かる。ひんやりとした水の感触が足にまとわりつく。
ぞわりと背筋を何かが駆け上っていく。僕はぐっと拳を握りしめた。次第に体が水に慣れていく。大丈夫だ。次は、水に顔をつける。
これがなかなかできない。一週間同じようなことを繰り返して、やっと潜ることが出来たときには一人でガッツポーズをした。傍から見たらおかしなやつだけど、夜遅くにプールに来る人も居らず、監視員の人ですら僕には関心がなさそうだった。
泳ぐ練習を始めて一月が過ぎた。
僕は競泳用のスタート台に立ち、深呼吸をする。親しんだ塩素の匂いは、心地よささえ感じた。大丈夫だ、泳げる。
頭の中で、小学生時代に参加していた大会の音声が流れる。審判の声、ホイッスルの音。
僕は水に飛び込んだ。途端、視界が真っ暗になる。酸素を奪われた記憶が一瞬頭をかけめぐり、口の中にするはずのない潮の味が充満してくる。息つぎの仕方がわからなくなった。このままだと溺れる。
僕は泳ぐことを諦め、底に足をつく。ゆらゆらとした水の感覚は消え、しっかりとした足元の感覚に安堵を覚えた。香ってくるのは、潮の香りではなく、消毒された水の匂い。ここは海ではない。そう思うのに体の震えが止らなかった。
駄目だ、まだ泳ぐことができない。僕はまだ、水が怖いままだ。
仕方なく競泳用のプール方上がり、浅い多目的プールに移る。情けなかった。
恐怖は僕の心に染みついて、完全には消えていない。でも、毎日毎日、僕は学校の終わりにプールに向かうようになった。一日も早く、昔のように泳げるようになりたかった。奏さんに会うたびに、その思いは強くなるばかりだった。
「奏ちゃんがいたほうがお客さんが喜ぶんだよね」
一週間ぶりにアザミに顔を出すと、亜弓さんは冗談にもならないことをいう。本当のことだから仕方がない。現に、奏さんがカウンターの内側に顔を見せるようになってから客の数が増えているようだ。
「このまま二人でうちに就職しちゃったらいいなって思う~。あ、でも奏ちゃんは品種改良とかの研究したいっていってたっけ」
「すみません、ここも楽しいけど、やっぱり植物に携わりたいなって思います」
奏さんがぺこりと申し訳なさそうに頭を下げるので、亜弓さんは慌てて首を横に振った。
「いいのいいの! 変なこといっちゃってごめん! 朔ちゃんも、うちのこととか気にしないで」
「え、でも薬局は……」
「もしかしたら柊也君が継いでくれるかもしれないから」
ふふっと肩を竦めて見せる亜弓さんに、僕と奏さんは「え!」と大声を上げる。
「ご結婚されるんですか!」
「そのつもり。柊也君が折れてくれた。お父さんも隠してるけどめっちゃ嬉しそうにしててさ、我が親ながら本当単純だよね」
嬉しそうにそういってから、亜弓さんはピンと人差し指を立てる。
「あぁ、でもこれはまだ内緒。柊也君の気が変わっちゃうかもしれないし、別れちゃうかもしれないし……」
「そんな縁起でもないこといわないでくださいよ~」
このまま、亜弓さんと二階堂先生が結婚することになれば、これほど嬉しいことはない。二階堂先生が身内になるって変な気分がした。くすぐったい。
「二階堂先生と伯父さんがこの狭い薬局にいるとかカオスですよね」
「爆発しそうだよね、ビックバンが起きて新しいものが生まれるんじゃない?」
亜弓さんはそんな楽観的なことをいうけど、正直にいうと、僕はそこでは働きたくないなと思った。二人のことは嫌いじゃないけど、二人の間に挟まれて仕事をするなんてごめんだ。
「だからさ、朔ちゃんは好きなことするんだよ~」
結局いいたかったのはそれなのだろう。亜弓さんは満足そうな顔をして僕を見る。
僕のやりたいことって何だろう。将来のことはまだ描けていない。今までは、明日を生きることも考えずにここまで流されてきたのだ。生きることもままならない僕は、未来のことなんか考えられない。
当面の目標は泳げるようになること。そして、奏さんへ想いを伝えることだ。
カフェアザミからの帰り際、奏さんは突然立ち止まった。「どうしたの?」と振り返ると、奏さんが真っ赤な顔をしている。
「あ、あの、朔さん、私、朔さんに伝えたいことがあります」
「伝えたいこと?」
「はい」
その表情を見て、鈍い僕にも奏さんが何をいおうとしているのか、なんとなくわかった。僕はかぁっと顔が熱くなるのを感じる、そして、その熱を一瞬で冷ます。
「私……」
「待ってくれ」
僕は奏さんの言葉を止めた。
「朔さん……?」
「僕のうぬぼれじゃなかったら、僕も君とおなじことを君にいいたいとずっと思ってる。でも、神様に決意表明したから、もう少し待ってくれないかな」
「決意表明……ですか?」
奏さんは首をかしげる。
「今、トラウマを克服しているところなんだ。もう少したら、僕は君に伝えられるから。だから待ってほしい。僕の我がままだけど」
こういってしまったら、「君が好きだ」と伝えてしまっているようなものなのだけれど、この際仕方がない。
すると奏でさんは嬉しそうにはにかんだ。
「私、いつまでも待っています」
だけど、その笑顔の中にも、悲しみの色が滲んで見える。奏さん、君は何を隠しているんだろう。僕は少しだけ、ほんの少しだけ、その答えを知るのが怖い。どうして、そんな風に感じるのかわからないけれど。



