次の休日、奏さんと約束した通り僕は奏さんがお世話になっている家にお邪魔させてもらうことになった。神奈川県藤沢市にあるという奏さんの親戚のお家までは、僕の家からも大学からも一時間以上かかる。
駅からかなり歩かなければいけない。帰りが遅い日は大変だろうと心配になる。
「学校から家まで帰るの大変だね」
「いえ、毎日駅まで叔母が迎えに来てくれるんです。遅いときは叔父が迎えに来てくれます。歩いて帰れるっていってるんですけれど、私、信用がなくて」
「大切にされてるんだよ」
「はい、本当に」
奏さんははにかむ。でも。
僕は奏さんと過ごすうちに気が付いたことがある。奏さんは、いつもどこか寂しそうなのだ。笑っている時も、嬉しそうにしている時も、いつも、その底には悲しみが染みついている。ひまわりみたいに笑う時だって、瞳の奥底には、悲しみが潜んでいるような気がする。
君にそんな顔をさせるものは、いったいなんなんだろう。
藤沢にある家は庭のある立派な一軒家で、僕の住んでいるせせこましい家とは全然違っていた。
「すごいな、大豪邸だね」
「はい、私の実家とはあまりに違うので、初めて来たときは驚きました。どうぞ」
奏さんが開けてくれる扉を、「お邪魔します」とくぐると叔母さんらしき女の人が笑顔で迎えてくれる。
「いらっしゃい! 待っていたのよ!」
「お邪魔します。奏さんと同じ大学の浅海と申します。この度は猫を引き取ってくださって本当にありがとうございました」
「朔さんでしょう? 奏が毎日のようにあなたの話をしてるのよ」
「ちょっと美沙さん、それは内緒の話!」
顔を赤らめて怒る奏さんに、叔母さんは悪びれた様子もなく「そうだったかしら」と笑った。仲がよさそうだ。叔母さんは奏さんによく似ていた、お母さんの妹さんってことかな。
リビングに入ると「にゃぁ」といって小さな毛玉が飛びついてくる。
「ラッテ、元気にしてたか? いいお家にもらわれて良かったなぁ」
数か月ぶりに会うラッテは少し体が大きくなって、丸みを帯びた気がした。抱き上げるとその重さの違いがよくわかる。
「やっぱり朔さんに一番懐いてますね」
「そんなことないさ、ここで可愛がってもらえてるから幸せそうだよ。本当に良かった」
ラッテの幸せそうな姿を見て、僕はとても嬉しくなった。きちんとした里親にもらってもらえて本当に良かった。
「奏、人見知りするからなかなか友達なんかできなくて、でもあなたのことは出会った日から教えてくれたんですよ。親切な人が助けてくれたんだって」
「もう、あんまり恥ずかしいこといわないでよ美沙さん!」
「あらいいじゃない」
「奏さんが人見知りだなんて気が付きませんでした。僕の従姉とも仲良くしてくれるんです。僕も割と人見知りで友人も少ないですし」
共通の話題もないし、会話が続かないものだからクラスの女の子なんかはついに僕と挨拶以上の言葉を交わさなくなった。話すのは最低限、実習のときくらいだな。
「あらあら似た者同士ということかしらね。そうだ奏、お菓子買ってくるの忘れちゃったの。買ってきてくれる? あのロールケーキ!」
「えぇ、美沙さんが買ってきてよ。っていうか、そういうのは最初から用意しといてよ~」
「駄目よ! 健全な男女を一つ屋根の下に置けるものですか」
「美沙さんの過保護! ラッテもいるのに~」
話が一段落すると、叔母さんに頼まれて、追い出されるように奏さんがリビングから出ていく。
パタンと玄関が閉じてから、奏さんの叔母さんは僕の向かいの席に座り直した。
「朔さん、奏と仲良くしてくれててありがとう」
「いえ、仲良くしていただいているのは僕の方といいますか……」
「あの子、最近明るくなったのよ、大学もすごく楽しそう」
あたらめてお礼をいわれるようなことではない。むしろ感謝しているのは僕の方だ。奏さんに出会ってから、僕は水への恐怖を無くしつつある。
「朔さん、あの子のこと、よく見ていてあげて」
「は、はい」
「海とか、川とか。そういうものを見ると時々飛び込みそうになるの。高いところからも。高校生の時とか、本当に危ない時があって、過保護って嫌がられるけど駅まで迎えに行かないわけにいかなくて。一人で死のうとしてるのかもしれないって思ってしまって……極力一人にしたくないというか……ごめんなさい、こんな話をして」
「そう、なんですか?」
そんな風には少しも思えない。僕と一緒にいるときの奏さんはいつも……そうだ、どこか寂しそうなのだ。奏さんからは、悲しみがにじんで見える。
「わかりました。僕が一緒にいられるときは、僕が注意します」
なるほど、この話をするために奏さんを追い出したのか。すごく、大切にされてるんだな。奏さん。
「ありがとう。奏、あなたと出会ってから元気なのよ。ラッテのおかげで家でも楽しそうにしているし、本当にありがとう」
「いえ、僕も奏さんと一緒にいるのが楽しいので、僕の方が感謝しています」
「あの子、姉さんに似てるのかも。あの人も突飛でもない行動に出る人だったから。北海道に旅行した時にね、向こうの人に惚れ込んじゃって結婚するって家を出ていくくらい」
「え……」
叔母さんの言葉に、僕は思わず聞き返した。
「北海道? 東北じゃなくて?」
「えぇ、便利が悪くてね。なかなか会いに行けなかったのよ」
「あ、あの、奏さん可愛いっていうのを『めんこい』っていうんです」
「あぁ、向こうの方言よ。ほら、移住してきた人が多いから」
「そう、なんですか」
そう声を絞り出すのがやっとだった。北海道と聞いただけで動悸がする。冷汗が体の体温をどんどん奪っていく。
僕は静かに深い呼吸を繰り返す。僕の様子を心配したのか、足元をうろついていたラッテが膝の上に飛び乗ってきた。その温かさに、少しずつ鼓動が収まってくる。
「ただいまー!」
奏さんの声がしたので、叔母さんは立ち上がった。
僕の目の前には紅茶と可愛らしいロールケーキが置かれた。話の内容は主に学校の話。奏さんの履修内容や僕の部活のことへと話が転がり、ケーキを食べ終わると、ラッテと遊んですごした。時間はあっという間に過ぎてしまった。
「ラッテ、朔さんのことを覚えていたでしょう?」
「うん、意外だった。可愛かったなぁ。奏さんの家にもらってもらえてよかった。ラッテは幸せだ」
駅まで送ってくれるという言葉に甘えて、僕は奏さんと並んで歩く。隣にいる奏さんは嬉しそうだった。
「叔母も朔さんに会いたがっていたので、来てくださってありがとうございました!」
「いやいや、いろいろご馳走になっちゃって、こちらこそありがとう」
奏さんは駅の改札で僕を見送ってくれた。
「また学校で!」
「うん、ラッテをよろしく」
「はい!」
笑顔で手を振る奏さん。こんなふうに明るく振舞う奏さんにも、抱えるものがあるのだ。僕は、その荷を抱える手伝いができるだろうか。いや、手伝いたい。僕は、奏さんのために生きたい。
そのためには僕自身が自分の荷物を片手で持てるようにならなければいけない。奏さんの荷物を請け負う、片手を空けるために。
もう僕は、白線の外側に足を踏み出したりしない。
水に浸かれるようになりたい。泳げるようになりたい。トラウマを、乗り越えて、僕は生きていきたい。
駅からかなり歩かなければいけない。帰りが遅い日は大変だろうと心配になる。
「学校から家まで帰るの大変だね」
「いえ、毎日駅まで叔母が迎えに来てくれるんです。遅いときは叔父が迎えに来てくれます。歩いて帰れるっていってるんですけれど、私、信用がなくて」
「大切にされてるんだよ」
「はい、本当に」
奏さんははにかむ。でも。
僕は奏さんと過ごすうちに気が付いたことがある。奏さんは、いつもどこか寂しそうなのだ。笑っている時も、嬉しそうにしている時も、いつも、その底には悲しみが染みついている。ひまわりみたいに笑う時だって、瞳の奥底には、悲しみが潜んでいるような気がする。
君にそんな顔をさせるものは、いったいなんなんだろう。
藤沢にある家は庭のある立派な一軒家で、僕の住んでいるせせこましい家とは全然違っていた。
「すごいな、大豪邸だね」
「はい、私の実家とはあまりに違うので、初めて来たときは驚きました。どうぞ」
奏さんが開けてくれる扉を、「お邪魔します」とくぐると叔母さんらしき女の人が笑顔で迎えてくれる。
「いらっしゃい! 待っていたのよ!」
「お邪魔します。奏さんと同じ大学の浅海と申します。この度は猫を引き取ってくださって本当にありがとうございました」
「朔さんでしょう? 奏が毎日のようにあなたの話をしてるのよ」
「ちょっと美沙さん、それは内緒の話!」
顔を赤らめて怒る奏さんに、叔母さんは悪びれた様子もなく「そうだったかしら」と笑った。仲がよさそうだ。叔母さんは奏さんによく似ていた、お母さんの妹さんってことかな。
リビングに入ると「にゃぁ」といって小さな毛玉が飛びついてくる。
「ラッテ、元気にしてたか? いいお家にもらわれて良かったなぁ」
数か月ぶりに会うラッテは少し体が大きくなって、丸みを帯びた気がした。抱き上げるとその重さの違いがよくわかる。
「やっぱり朔さんに一番懐いてますね」
「そんなことないさ、ここで可愛がってもらえてるから幸せそうだよ。本当に良かった」
ラッテの幸せそうな姿を見て、僕はとても嬉しくなった。きちんとした里親にもらってもらえて本当に良かった。
「奏、人見知りするからなかなか友達なんかできなくて、でもあなたのことは出会った日から教えてくれたんですよ。親切な人が助けてくれたんだって」
「もう、あんまり恥ずかしいこといわないでよ美沙さん!」
「あらいいじゃない」
「奏さんが人見知りだなんて気が付きませんでした。僕の従姉とも仲良くしてくれるんです。僕も割と人見知りで友人も少ないですし」
共通の話題もないし、会話が続かないものだからクラスの女の子なんかはついに僕と挨拶以上の言葉を交わさなくなった。話すのは最低限、実習のときくらいだな。
「あらあら似た者同士ということかしらね。そうだ奏、お菓子買ってくるの忘れちゃったの。買ってきてくれる? あのロールケーキ!」
「えぇ、美沙さんが買ってきてよ。っていうか、そういうのは最初から用意しといてよ~」
「駄目よ! 健全な男女を一つ屋根の下に置けるものですか」
「美沙さんの過保護! ラッテもいるのに~」
話が一段落すると、叔母さんに頼まれて、追い出されるように奏さんがリビングから出ていく。
パタンと玄関が閉じてから、奏さんの叔母さんは僕の向かいの席に座り直した。
「朔さん、奏と仲良くしてくれててありがとう」
「いえ、仲良くしていただいているのは僕の方といいますか……」
「あの子、最近明るくなったのよ、大学もすごく楽しそう」
あたらめてお礼をいわれるようなことではない。むしろ感謝しているのは僕の方だ。奏さんに出会ってから、僕は水への恐怖を無くしつつある。
「朔さん、あの子のこと、よく見ていてあげて」
「は、はい」
「海とか、川とか。そういうものを見ると時々飛び込みそうになるの。高いところからも。高校生の時とか、本当に危ない時があって、過保護って嫌がられるけど駅まで迎えに行かないわけにいかなくて。一人で死のうとしてるのかもしれないって思ってしまって……極力一人にしたくないというか……ごめんなさい、こんな話をして」
「そう、なんですか?」
そんな風には少しも思えない。僕と一緒にいるときの奏さんはいつも……そうだ、どこか寂しそうなのだ。奏さんからは、悲しみがにじんで見える。
「わかりました。僕が一緒にいられるときは、僕が注意します」
なるほど、この話をするために奏さんを追い出したのか。すごく、大切にされてるんだな。奏さん。
「ありがとう。奏、あなたと出会ってから元気なのよ。ラッテのおかげで家でも楽しそうにしているし、本当にありがとう」
「いえ、僕も奏さんと一緒にいるのが楽しいので、僕の方が感謝しています」
「あの子、姉さんに似てるのかも。あの人も突飛でもない行動に出る人だったから。北海道に旅行した時にね、向こうの人に惚れ込んじゃって結婚するって家を出ていくくらい」
「え……」
叔母さんの言葉に、僕は思わず聞き返した。
「北海道? 東北じゃなくて?」
「えぇ、便利が悪くてね。なかなか会いに行けなかったのよ」
「あ、あの、奏さん可愛いっていうのを『めんこい』っていうんです」
「あぁ、向こうの方言よ。ほら、移住してきた人が多いから」
「そう、なんですか」
そう声を絞り出すのがやっとだった。北海道と聞いただけで動悸がする。冷汗が体の体温をどんどん奪っていく。
僕は静かに深い呼吸を繰り返す。僕の様子を心配したのか、足元をうろついていたラッテが膝の上に飛び乗ってきた。その温かさに、少しずつ鼓動が収まってくる。
「ただいまー!」
奏さんの声がしたので、叔母さんは立ち上がった。
僕の目の前には紅茶と可愛らしいロールケーキが置かれた。話の内容は主に学校の話。奏さんの履修内容や僕の部活のことへと話が転がり、ケーキを食べ終わると、ラッテと遊んですごした。時間はあっという間に過ぎてしまった。
「ラッテ、朔さんのことを覚えていたでしょう?」
「うん、意外だった。可愛かったなぁ。奏さんの家にもらってもらえてよかった。ラッテは幸せだ」
駅まで送ってくれるという言葉に甘えて、僕は奏さんと並んで歩く。隣にいる奏さんは嬉しそうだった。
「叔母も朔さんに会いたがっていたので、来てくださってありがとうございました!」
「いやいや、いろいろご馳走になっちゃって、こちらこそありがとう」
奏さんは駅の改札で僕を見送ってくれた。
「また学校で!」
「うん、ラッテをよろしく」
「はい!」
笑顔で手を振る奏さん。こんなふうに明るく振舞う奏さんにも、抱えるものがあるのだ。僕は、その荷を抱える手伝いができるだろうか。いや、手伝いたい。僕は、奏さんのために生きたい。
そのためには僕自身が自分の荷物を片手で持てるようにならなければいけない。奏さんの荷物を請け負う、片手を空けるために。
もう僕は、白線の外側に足を踏み出したりしない。
水に浸かれるようになりたい。泳げるようになりたい。トラウマを、乗り越えて、僕は生きていきたい。



