年末、こたつの中で漫画を読み、時折テレビを見るというだらけた生活をしていた僕は、新年の風を思い切り胸に吸い込むために深呼吸した。
体の中に冷たい空気が入り、だらけた自分が浄化されたかのような気分になる。普通に生きているという感覚が新鮮だった。明日も明後日も、僕は生きていていいのかもしれない。
昨年クリスマスパーティーの帰り、僕と奏さんは一緒に初詣に行く約束をした。
そういえば、カフェアザミ以外で学校の外で奏さんと会うのは初めてだ。どんな格好をしていったらよいのか迷う。
どうせ学校ではよれよれのTシャツやワイシャツで会っているのだから、いつもとかわり映えのない私服でいいではないか。でも、当の僕は何かシャレた服を着なければいけないという強迫観念に駆られていた。
こんなことなら、母が行っていた年末のバーゲンというものに、自分も行っておくのだったと後悔する。いや、買いに出かけたところでセンスのいいものなど買えるはずもないが。洋服に無頓着な僕は、自分でもびっくりするほどロクな服を持っていなかった。
仕方なく真新しいニットに色褪せのないジーンズを穿いて、コートを羽織る。コートを羽織ってしまえば、中の服など見えないことにコートを着てから気が付いた。
一緒に店に入り、食事やコーヒーでも飲まない限り上着を脱ぐことはないだろう。なんて間抜けなのだろうかと苦笑いを漏らした。
除夜の鐘響く厳かな夜から一変、町は賑わっていた。道行く人はどこか浮足立ち、ついでに財布の紐も緩そうだった。
僕は奏さんと約束している神社へ向かう。大学近くの神社に詣でるつもりでいた。そのあとに亜弓さんのカフェに寄ることができたらいいなと思い、祝日は休みであることを思い出して少し落胆した。
亜弓さんも、二海堂先生と一緒に初詣に行っているかもしれない。
一体何があったというのか、亜弓さんと二階堂先生はよりを戻したらしい。二人が良い雰囲気になったことで、僕にも変化が表れていた。奏さんのことだ。僕は、自分が奏さんのことを意識していると認めるようになった。服装なんかを気にするようになったのがいい例だ。
僕は生きたいと思い始めている。もう少し、奏さんと一緒にいたくて。奏さんは、僕が生きるための希望だ。
神社の入り口に奏さんの姿がないことに僕は安堵した。女の子を待たせたくないというわずかなプライドがあったから。僕は白い息を吐きながら行き交う人の中に奏さんの姿を探す。
突然、ドンっと体に衝撃が走り、僕は一瞬よろめいた。誰かがぶつかってきたのだと頭が認識する前に、僕の目の前で臙脂色の着物を着た女の子の笑顔が見えた。
「明けましておめでとうございます、朔さん」
「ビックリした……明けまして、おめでとう」
着物を着た奏さんは新年の空気そのもののように華やかだった。僕の心臓は力を加えたばかりの振り子のように確実に拍動を早める。
「良かった! 大成功です。朔さんを驚かせたくて、隠れていたんですよ」
「すごく驚いたし、奏さんの着物姿にも驚いた」
「あ……やっぱり似合いませんか?」
不安そうな顔をする奏さんに僕は首を横に振る。
「そんなことない、とっても似合っている。素敵だ」
そういうと奏さんは喜ぶどころか俯いてしまった。
「ごめん、気を悪くしたの? 君はとても素敵だ。本当にそう思う」
「朔さんは無自覚だから困ります」
プンと怒ったような顔になったかと思うと、奏さんは破顔する。
「なんでもないですよ。朔さんと初詣に行くって言ったら叔母さんが嬉々として着つけてくれたんです。私は黄色の着物が良かったのに、そんな子供っぽい格好じゃだめだって言うんですよ。臙脂だなんて渋いでしょう?」
「黄色も似合うと思うけど、臙脂も似合うよ」
落ち着いた臙脂色の着物には、美しい牡丹の花の刺繍が施してあってとても華やかに見えた。織り込まれた金糸が角度によって太陽の光を反射している。叔母さんの着物なのか、確かにデザインは渋いような気もするが、奏さんは実に綺麗に着こなしていた。だから僕はそう本心を口にする。それなのに、奏さんは眉をひそめた。
「朔さん、そういうことをみんなにいってるんじゃないでしょうね」
「いわないよ。そもそも僕には着物を着るようなシャレた友達はいない」
僕は必死に弁解しているというのに、奏さんはどこかおかしそうに笑った。僕はようやく奏さんにからかわれていることに気が付く。
「もう、僕をからかわないでくれ、上手くかわせないんだ」
「必死になってくれる朔さんを見たいんですよ」
そういってまたおかしそうに笑う。きまり悪さから、僕は少し不機嫌になった。ふいと横を向いて口をつむいでいると、奏さんが急に僕の腕にしがみつく。見ると、慣れない草履で転びそうになったらしい。僕は懐かしくなって笑った。
「初めて会った時も君はころびかけていたね」
「あれは……。すみません、私、足元がおぼつかないみたいです。鈍くさいし、運動神経に問題があるのだと思います」
「別に悪いことじゃない」
そんな君のおかげで、僕は君に出会えた。僕は心からこの出会いに感謝していた。
「あの時は雨の音が聞きたいって、不思議な人だと思った」
奏さんは空を見上げ、思い出したかのように笑う。
「そうですね、雨の音……あんまり好きじゃかったんですけど。なんででしょうか、朔さんに会ってから、とても優しい音が聞こえるんです。囁くような、それでいて泣きそうな声に聞こえます」
「僕にもそう聞こえる」
驚いた。奏さんにも、僕と同じように聞こえていたなんて。奏さんの方も驚いたように目を丸くしている。
「私たち、似ていますね」
「そうかな」
「はい。私、朔さんとは物の感じ方が似ているなって思うんです。不思議なんですよ、出会ってから一年も経っていないのに、ずっと一緒にいたような安心感があります」
「そうかな」
似ているかどうかはわからない。けれど、僕の方も奏さんと一緒にいると居心地が良かった。このまま、ずっと一緒にいることが出来たらいいと思う。
「ラッテは元気にしている?」
「はい! 私の膝の上で眠ってくれるようになりました。とっても可愛いですよ。私もラッテのおかげで、動物に触ることに少しずつ慣れることが出来ています。苦手を克服しましたよ。今度会いに来てください」
奏さんのもとで、ラッテは可愛がられているようだ。もう僕のことなどすっかり忘れてしまったかもしれない。そう思うと、少し寂しい気持ちになる。飼いたかったなと思う気持ちがないわけではない。もらい先が奏さんの家だったことが、せめてもの救いだ。
「じゃぁ、後期試験が終わったら会いに行こうかな」
「試験はいつでしたっけ? うちの学部と一緒ですか?」
「たぶん。休み明けすぐだから」
「あ、多分一緒です! 終わったらまた植物園でも会えますか? 図書館では話ができないから……」
僕は頷く。その日が待ち遠しかった。奏さんも嬉しそうに微笑んだ。
奏さんの手が寒さで赤く染まっているように見えたから、徐にその手を握る。握ったあとで、転ばないようにとか、はぐれないように、と色々理由を用意したのだけれど、奏さんは嫌がる様子を見せずに、僕の手を握り返した。小さな手は、冷えた空気のせいで氷のように冷たい。
「冷えてる? 着物は寒いかな」
「大丈夫ですよ」
コートを着ていない奏さんは寒いのではないだろうか。ようやくそんな考えが浮かんで尋ねてみたけれど、奏さんはにっこりと微笑みながら首を横に振った。
「朔さんが手をつないでくれるから温かいですよ」
なんて返してくるものだから、僕は面食らって顔を反らせる。赤くなっているであろう顔を見られるのが恥ずかしかった。
僕たちは人々で賑わう狭い神社の通りを進み、本殿でお参りをしていく。さて、後期試験の行く末でも願おうかなと思案していると、奏さんが話しかけてくる。
「私、初詣には今年の決意表明と、昨年の出来事の感謝をしに来るんです」
「え、お願いじゃなくて?」
奏さんは「はい」と頷いた。
「神頼みなんてしたって仕方がないって、子供のころお父さんがいっていました。神様にはありがとうございましたをいいに行くんだって」
「へぇ」と僕は感嘆の言葉を漏らす。とても良いことだと思った。確かに神頼みなどしてみたところで神様も困るだけだろう。
実際に何かを成さなければいけないのは自分自身だ。運命を神様にゆだねては叶えられる夢も叶わない気がした。
「じゃぁ僕もそうしようかな」
「どんな決意をするんですか?」
「お礼の方かな?」
「何かいいことがありましたか?」
「それは内緒だよ」
奏さんにいえるわけがない。僕は列に並ぶ間、神様に告げる言葉を考える。
周りに合わせて賽銭箱にお金を放り込み、両手を合わせた。無難に単位取得でも神頼みしようと思っていた僕は、心の中で感謝を述べる。
奏さんと出会わせてくれて、ありがとうございました。
それからもう一つ。僕はすうと息を吸う。
神様、僕は、これからも生きていきたいです。
決意を告げる。体の中にすっと芯が通ったような気がした。
この奏さんへ思いが何であるのかをはっきりさせたい。そう思うに至ったのは、やはり昨年末によりを戻した亜弓さんと二階堂先生の影響が大きい。
僕は勝手に二階堂先生に背中を押されたような気分になっていた。だけど、簡単に断定もしたくない。だから、なにか自分に課題を課したかった。もう一度昔のように泳げるようになったら、僕は自分に資格を与えてやろう。生きていく資格を、奏さんに思いを伝える資格を。
シャワーは問題ない。湯船にも入ることはできる。あとは顔をつけることだ。息のできない状況で、パニックを起こさないこと。そうすれば、きっと昔のように泳ぐことだってできるはずだ。
そう思ったところで僕はわずかな息苦しさを感じた。水が体に絡みつく感覚が戻ってくる。息を吸っても吸っても酸素が肺に入ってこない。顔に当たる冷たい風が、襲い掛かってくる水のように感じた。体中に警告するように心臓がうるさく音を立てる。
「朔さん、大丈夫ですか!」
僕はひゅうと息を吸った。大丈夫、ここは地上だ。海の中ではない。
「朔さん、どこかで休みましょうか?」
奏さんは心配そうな顔で僕の背中をさすってくれている。僕は荒い息をなんとか整えた。
「ごめん、ちょっと人ごみに酔っちゃったみたいだ。普段出歩かないから。もう大丈夫」
「そうですか? それならいいんですけれど……」
地面を見る。地に足が付く感覚が僕を安心させてくれる。大きく深呼吸をした。
危険を知らせるサイレンのように激しく脈を打っていた心臓が、次第にゆっくりと落ち着きを取り戻し始める。
「カフェアザミはお休みでしたね」
「え? あぁ、うん。お休みだよ」
話題がころっと変わる。僕の呼吸はもう落ち着きを取り戻していた。
「いえ、お休みするならアザミがいいなぁって思ったんです。あ、アザミなんていうとまるで朔さんのことを呼びすてしているみたいですね」
「あはは、そんなことないよ。僕のことをアザミなんて呼ぶのは二階堂先生くらいだし。呼ばれてもあんまりピンと来ないというか……」
「そうなんですか?」
「うん、僕の名前は「浅い海」って書くから、みんな僕のことを「あさみ」って呼ぶんだ」
奏さんは酷く驚いたような顔になる。
「知りませんでした。そういえばどうやって書くんだろうって思ってことはあったのに、慣れすぎてしまって忘れていました。もう覚えましたよ」
奏さんは頭の中に書き込むよう、にうんうんと頷く。その仕草がとても可愛いと思った。
気の利いた店が開いていたら良かったのだけれど、正月はどこも休みで、ファミレスくらいしか開いてなかった。それでも奏さんは嬉しそうにメニューを見る。
「ファミリーレストランってあんまり入ったころがないんですよ。ちょっとワクワクしますね。どれも美味しそうです」
僕がファミレスに入ったのはいつが最後だろう。大学での集まりといえば居酒屋になってしまったし、高校生時代も行った覚えがない。
そうだ、最後に行ったのはまだ母と父が離婚するずっと前のこと。僕が中学生くらいのことだ。当時中国に赴任していた父が休暇で日本に帰ってきて、三人でテーマパークに出かけた。
今思うと、母はその日をとても楽しみにしていたのだと思う。父の帰りを、心待ちにしていたのかもしれない。テーマパークの帰りに立ち寄ったのが家の近くにあったファミレスだ。ここと同じ系列の店だったはず。
母は、父のことが好きだった。それは間違いない。でも二人は離婚した。引き金を引いたのは僕だ。頭の中にしとしと、しとしと雨の音が響いてくる。
「朔さん? 何を食べますか?」
奏さんが僕の顔を覗き込む。大きな瞳に、僕の姿が写っている。
「オムライスにしよかな」
「いいですね! 私はナポリタンが食べたいんですけど……赤いソースが散るのが気になります」
奏さんは眉をひそめて困ったような顔になる。コロコロと変わるその表情がとても素敵だと思った。
「じゃあ、今日は諦めて、今度私服の時に食べに来よう」
「え?」
メニューから顔を上げる奏さんは、わずかに顔を赤らめた。デートの誘いに聞こえたのだろうか。僕は慌てて視線を落とす。
「あ、いや、ごめん。嫌ならいいんだ」
「嫌だなんて! 誘ってもらえて嬉しいです。今度はソースが飛んでも気にならない服を着てきます。今日は食べ過ぎて苦しくならないようにグラタンにしようかな」
ふふっと嬉しそうに笑ってから、奏さんはそういってお店の人を呼んだ。
運ばれてきた湯気の立つ料理に手を付けながら、僕は奏さんの話に耳を傾けた。
「昔、お父さんにひまわり畑に連れて行ってもらったことがあるんですよ」
「そうなんだ、君はひまわりが好きだから」
「いいえ、逆です。それでひまわりが好きになったんですよ。あの旅行が、すごく嬉しかったんだと思います」
ひまわりのような眩しい笑顔を見せる奏さんに、僕も目を細める。
「お父さんのこと、好きなんだね」
奏さんにそういいながら、僕はどうだろうと考えていた。答えは決まっている。僕は父のことをあまり知らない。父さんはほとんど家にいなかったから、一緒に過ごした時間は、あまりに少ない。
でも、嫌な人じゃなかったと思う。ちょっと、不思議な人だったような気がするけれど、嫌いではなかった。
「私、母を早くに亡くして、母の記憶がありません。母は自由な人だったと叔母さんから聞きました。父は――」
奏さんの言葉に、僕はスプーンを持つ手を止める。いつもは陽光のように明るい色を持つ奏さん声から、雨の匂いがした。奏さんの心に、雨が降っているかのように。
「父は漁師で、私が小学三年生のころに転覆事故で亡くなりました。海が好きな人でしたので……海で亡くなったのは、本望だったのだと、兄はいっていましたけれど……」
いい終えると、奏さんの声から雨の香りが消えた。笑顔を見せて、グラタンを美味しそうに食べる。僕は、なんといったららよいのか言葉が見つからなかった。
「父が死んだときはとても悲しかったのですけれど、兄が私を可愛がってくれましたから、寂しい思いも忘れることが出来ました。兄は、私の自慢なんです」
嬉しそうに笑う奏さんの声からは、再び陽光のような香りがした。奏さんにとって、地元に残っているお兄さんは大切な家族なのだろうと、僕の心も温かくなる。
「いつか、会ってみたいなぁ」
思わずそういってしまってから、失礼なことだったかもしれないと僕はわずかに後悔した。でも、奏さんは嬉しそうに微笑む。
「そうですね、私も会いたいです」
そういった奏さんは突然席を立つ。
「あ、あの、すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます。帯が苦しくて」
「うん、わかった」
十分ほどして戻ってきた奏さんの瞳が、わずかにうるんでいるように見えたけれど、何かあったのだろうか。椅子にすとんと腰を掛けた奏さんは、何事もなかったかのように笑顔で話しかけてくる。
「そうだ、今度のお休みにうちに来てください!」
「え、僕が?」
「あたりまえじゃないですか。叔母も会いたがっていますし、ラッテも会いたがっていると思います」
「あいつ、僕のことなんか、覚えてるかなぁ」
「覚えてますよ」
嬉しそうに笑う奏さん。その表情に、この時の僕はただただ嬉しい気持ちで満ちていた。愚かな僕は、雨の囁く声にも、彼女から香ってくる悲しい香りにも、気が付かずに。
体の中に冷たい空気が入り、だらけた自分が浄化されたかのような気分になる。普通に生きているという感覚が新鮮だった。明日も明後日も、僕は生きていていいのかもしれない。
昨年クリスマスパーティーの帰り、僕と奏さんは一緒に初詣に行く約束をした。
そういえば、カフェアザミ以外で学校の外で奏さんと会うのは初めてだ。どんな格好をしていったらよいのか迷う。
どうせ学校ではよれよれのTシャツやワイシャツで会っているのだから、いつもとかわり映えのない私服でいいではないか。でも、当の僕は何かシャレた服を着なければいけないという強迫観念に駆られていた。
こんなことなら、母が行っていた年末のバーゲンというものに、自分も行っておくのだったと後悔する。いや、買いに出かけたところでセンスのいいものなど買えるはずもないが。洋服に無頓着な僕は、自分でもびっくりするほどロクな服を持っていなかった。
仕方なく真新しいニットに色褪せのないジーンズを穿いて、コートを羽織る。コートを羽織ってしまえば、中の服など見えないことにコートを着てから気が付いた。
一緒に店に入り、食事やコーヒーでも飲まない限り上着を脱ぐことはないだろう。なんて間抜けなのだろうかと苦笑いを漏らした。
除夜の鐘響く厳かな夜から一変、町は賑わっていた。道行く人はどこか浮足立ち、ついでに財布の紐も緩そうだった。
僕は奏さんと約束している神社へ向かう。大学近くの神社に詣でるつもりでいた。そのあとに亜弓さんのカフェに寄ることができたらいいなと思い、祝日は休みであることを思い出して少し落胆した。
亜弓さんも、二海堂先生と一緒に初詣に行っているかもしれない。
一体何があったというのか、亜弓さんと二階堂先生はよりを戻したらしい。二人が良い雰囲気になったことで、僕にも変化が表れていた。奏さんのことだ。僕は、自分が奏さんのことを意識していると認めるようになった。服装なんかを気にするようになったのがいい例だ。
僕は生きたいと思い始めている。もう少し、奏さんと一緒にいたくて。奏さんは、僕が生きるための希望だ。
神社の入り口に奏さんの姿がないことに僕は安堵した。女の子を待たせたくないというわずかなプライドがあったから。僕は白い息を吐きながら行き交う人の中に奏さんの姿を探す。
突然、ドンっと体に衝撃が走り、僕は一瞬よろめいた。誰かがぶつかってきたのだと頭が認識する前に、僕の目の前で臙脂色の着物を着た女の子の笑顔が見えた。
「明けましておめでとうございます、朔さん」
「ビックリした……明けまして、おめでとう」
着物を着た奏さんは新年の空気そのもののように華やかだった。僕の心臓は力を加えたばかりの振り子のように確実に拍動を早める。
「良かった! 大成功です。朔さんを驚かせたくて、隠れていたんですよ」
「すごく驚いたし、奏さんの着物姿にも驚いた」
「あ……やっぱり似合いませんか?」
不安そうな顔をする奏さんに僕は首を横に振る。
「そんなことない、とっても似合っている。素敵だ」
そういうと奏さんは喜ぶどころか俯いてしまった。
「ごめん、気を悪くしたの? 君はとても素敵だ。本当にそう思う」
「朔さんは無自覚だから困ります」
プンと怒ったような顔になったかと思うと、奏さんは破顔する。
「なんでもないですよ。朔さんと初詣に行くって言ったら叔母さんが嬉々として着つけてくれたんです。私は黄色の着物が良かったのに、そんな子供っぽい格好じゃだめだって言うんですよ。臙脂だなんて渋いでしょう?」
「黄色も似合うと思うけど、臙脂も似合うよ」
落ち着いた臙脂色の着物には、美しい牡丹の花の刺繍が施してあってとても華やかに見えた。織り込まれた金糸が角度によって太陽の光を反射している。叔母さんの着物なのか、確かにデザインは渋いような気もするが、奏さんは実に綺麗に着こなしていた。だから僕はそう本心を口にする。それなのに、奏さんは眉をひそめた。
「朔さん、そういうことをみんなにいってるんじゃないでしょうね」
「いわないよ。そもそも僕には着物を着るようなシャレた友達はいない」
僕は必死に弁解しているというのに、奏さんはどこかおかしそうに笑った。僕はようやく奏さんにからかわれていることに気が付く。
「もう、僕をからかわないでくれ、上手くかわせないんだ」
「必死になってくれる朔さんを見たいんですよ」
そういってまたおかしそうに笑う。きまり悪さから、僕は少し不機嫌になった。ふいと横を向いて口をつむいでいると、奏さんが急に僕の腕にしがみつく。見ると、慣れない草履で転びそうになったらしい。僕は懐かしくなって笑った。
「初めて会った時も君はころびかけていたね」
「あれは……。すみません、私、足元がおぼつかないみたいです。鈍くさいし、運動神経に問題があるのだと思います」
「別に悪いことじゃない」
そんな君のおかげで、僕は君に出会えた。僕は心からこの出会いに感謝していた。
「あの時は雨の音が聞きたいって、不思議な人だと思った」
奏さんは空を見上げ、思い出したかのように笑う。
「そうですね、雨の音……あんまり好きじゃかったんですけど。なんででしょうか、朔さんに会ってから、とても優しい音が聞こえるんです。囁くような、それでいて泣きそうな声に聞こえます」
「僕にもそう聞こえる」
驚いた。奏さんにも、僕と同じように聞こえていたなんて。奏さんの方も驚いたように目を丸くしている。
「私たち、似ていますね」
「そうかな」
「はい。私、朔さんとは物の感じ方が似ているなって思うんです。不思議なんですよ、出会ってから一年も経っていないのに、ずっと一緒にいたような安心感があります」
「そうかな」
似ているかどうかはわからない。けれど、僕の方も奏さんと一緒にいると居心地が良かった。このまま、ずっと一緒にいることが出来たらいいと思う。
「ラッテは元気にしている?」
「はい! 私の膝の上で眠ってくれるようになりました。とっても可愛いですよ。私もラッテのおかげで、動物に触ることに少しずつ慣れることが出来ています。苦手を克服しましたよ。今度会いに来てください」
奏さんのもとで、ラッテは可愛がられているようだ。もう僕のことなどすっかり忘れてしまったかもしれない。そう思うと、少し寂しい気持ちになる。飼いたかったなと思う気持ちがないわけではない。もらい先が奏さんの家だったことが、せめてもの救いだ。
「じゃぁ、後期試験が終わったら会いに行こうかな」
「試験はいつでしたっけ? うちの学部と一緒ですか?」
「たぶん。休み明けすぐだから」
「あ、多分一緒です! 終わったらまた植物園でも会えますか? 図書館では話ができないから……」
僕は頷く。その日が待ち遠しかった。奏さんも嬉しそうに微笑んだ。
奏さんの手が寒さで赤く染まっているように見えたから、徐にその手を握る。握ったあとで、転ばないようにとか、はぐれないように、と色々理由を用意したのだけれど、奏さんは嫌がる様子を見せずに、僕の手を握り返した。小さな手は、冷えた空気のせいで氷のように冷たい。
「冷えてる? 着物は寒いかな」
「大丈夫ですよ」
コートを着ていない奏さんは寒いのではないだろうか。ようやくそんな考えが浮かんで尋ねてみたけれど、奏さんはにっこりと微笑みながら首を横に振った。
「朔さんが手をつないでくれるから温かいですよ」
なんて返してくるものだから、僕は面食らって顔を反らせる。赤くなっているであろう顔を見られるのが恥ずかしかった。
僕たちは人々で賑わう狭い神社の通りを進み、本殿でお参りをしていく。さて、後期試験の行く末でも願おうかなと思案していると、奏さんが話しかけてくる。
「私、初詣には今年の決意表明と、昨年の出来事の感謝をしに来るんです」
「え、お願いじゃなくて?」
奏さんは「はい」と頷いた。
「神頼みなんてしたって仕方がないって、子供のころお父さんがいっていました。神様にはありがとうございましたをいいに行くんだって」
「へぇ」と僕は感嘆の言葉を漏らす。とても良いことだと思った。確かに神頼みなどしてみたところで神様も困るだけだろう。
実際に何かを成さなければいけないのは自分自身だ。運命を神様にゆだねては叶えられる夢も叶わない気がした。
「じゃぁ僕もそうしようかな」
「どんな決意をするんですか?」
「お礼の方かな?」
「何かいいことがありましたか?」
「それは内緒だよ」
奏さんにいえるわけがない。僕は列に並ぶ間、神様に告げる言葉を考える。
周りに合わせて賽銭箱にお金を放り込み、両手を合わせた。無難に単位取得でも神頼みしようと思っていた僕は、心の中で感謝を述べる。
奏さんと出会わせてくれて、ありがとうございました。
それからもう一つ。僕はすうと息を吸う。
神様、僕は、これからも生きていきたいです。
決意を告げる。体の中にすっと芯が通ったような気がした。
この奏さんへ思いが何であるのかをはっきりさせたい。そう思うに至ったのは、やはり昨年末によりを戻した亜弓さんと二階堂先生の影響が大きい。
僕は勝手に二階堂先生に背中を押されたような気分になっていた。だけど、簡単に断定もしたくない。だから、なにか自分に課題を課したかった。もう一度昔のように泳げるようになったら、僕は自分に資格を与えてやろう。生きていく資格を、奏さんに思いを伝える資格を。
シャワーは問題ない。湯船にも入ることはできる。あとは顔をつけることだ。息のできない状況で、パニックを起こさないこと。そうすれば、きっと昔のように泳ぐことだってできるはずだ。
そう思ったところで僕はわずかな息苦しさを感じた。水が体に絡みつく感覚が戻ってくる。息を吸っても吸っても酸素が肺に入ってこない。顔に当たる冷たい風が、襲い掛かってくる水のように感じた。体中に警告するように心臓がうるさく音を立てる。
「朔さん、大丈夫ですか!」
僕はひゅうと息を吸った。大丈夫、ここは地上だ。海の中ではない。
「朔さん、どこかで休みましょうか?」
奏さんは心配そうな顔で僕の背中をさすってくれている。僕は荒い息をなんとか整えた。
「ごめん、ちょっと人ごみに酔っちゃったみたいだ。普段出歩かないから。もう大丈夫」
「そうですか? それならいいんですけれど……」
地面を見る。地に足が付く感覚が僕を安心させてくれる。大きく深呼吸をした。
危険を知らせるサイレンのように激しく脈を打っていた心臓が、次第にゆっくりと落ち着きを取り戻し始める。
「カフェアザミはお休みでしたね」
「え? あぁ、うん。お休みだよ」
話題がころっと変わる。僕の呼吸はもう落ち着きを取り戻していた。
「いえ、お休みするならアザミがいいなぁって思ったんです。あ、アザミなんていうとまるで朔さんのことを呼びすてしているみたいですね」
「あはは、そんなことないよ。僕のことをアザミなんて呼ぶのは二階堂先生くらいだし。呼ばれてもあんまりピンと来ないというか……」
「そうなんですか?」
「うん、僕の名前は「浅い海」って書くから、みんな僕のことを「あさみ」って呼ぶんだ」
奏さんは酷く驚いたような顔になる。
「知りませんでした。そういえばどうやって書くんだろうって思ってことはあったのに、慣れすぎてしまって忘れていました。もう覚えましたよ」
奏さんは頭の中に書き込むよう、にうんうんと頷く。その仕草がとても可愛いと思った。
気の利いた店が開いていたら良かったのだけれど、正月はどこも休みで、ファミレスくらいしか開いてなかった。それでも奏さんは嬉しそうにメニューを見る。
「ファミリーレストランってあんまり入ったころがないんですよ。ちょっとワクワクしますね。どれも美味しそうです」
僕がファミレスに入ったのはいつが最後だろう。大学での集まりといえば居酒屋になってしまったし、高校生時代も行った覚えがない。
そうだ、最後に行ったのはまだ母と父が離婚するずっと前のこと。僕が中学生くらいのことだ。当時中国に赴任していた父が休暇で日本に帰ってきて、三人でテーマパークに出かけた。
今思うと、母はその日をとても楽しみにしていたのだと思う。父の帰りを、心待ちにしていたのかもしれない。テーマパークの帰りに立ち寄ったのが家の近くにあったファミレスだ。ここと同じ系列の店だったはず。
母は、父のことが好きだった。それは間違いない。でも二人は離婚した。引き金を引いたのは僕だ。頭の中にしとしと、しとしと雨の音が響いてくる。
「朔さん? 何を食べますか?」
奏さんが僕の顔を覗き込む。大きな瞳に、僕の姿が写っている。
「オムライスにしよかな」
「いいですね! 私はナポリタンが食べたいんですけど……赤いソースが散るのが気になります」
奏さんは眉をひそめて困ったような顔になる。コロコロと変わるその表情がとても素敵だと思った。
「じゃあ、今日は諦めて、今度私服の時に食べに来よう」
「え?」
メニューから顔を上げる奏さんは、わずかに顔を赤らめた。デートの誘いに聞こえたのだろうか。僕は慌てて視線を落とす。
「あ、いや、ごめん。嫌ならいいんだ」
「嫌だなんて! 誘ってもらえて嬉しいです。今度はソースが飛んでも気にならない服を着てきます。今日は食べ過ぎて苦しくならないようにグラタンにしようかな」
ふふっと嬉しそうに笑ってから、奏さんはそういってお店の人を呼んだ。
運ばれてきた湯気の立つ料理に手を付けながら、僕は奏さんの話に耳を傾けた。
「昔、お父さんにひまわり畑に連れて行ってもらったことがあるんですよ」
「そうなんだ、君はひまわりが好きだから」
「いいえ、逆です。それでひまわりが好きになったんですよ。あの旅行が、すごく嬉しかったんだと思います」
ひまわりのような眩しい笑顔を見せる奏さんに、僕も目を細める。
「お父さんのこと、好きなんだね」
奏さんにそういいながら、僕はどうだろうと考えていた。答えは決まっている。僕は父のことをあまり知らない。父さんはほとんど家にいなかったから、一緒に過ごした時間は、あまりに少ない。
でも、嫌な人じゃなかったと思う。ちょっと、不思議な人だったような気がするけれど、嫌いではなかった。
「私、母を早くに亡くして、母の記憶がありません。母は自由な人だったと叔母さんから聞きました。父は――」
奏さんの言葉に、僕はスプーンを持つ手を止める。いつもは陽光のように明るい色を持つ奏さん声から、雨の匂いがした。奏さんの心に、雨が降っているかのように。
「父は漁師で、私が小学三年生のころに転覆事故で亡くなりました。海が好きな人でしたので……海で亡くなったのは、本望だったのだと、兄はいっていましたけれど……」
いい終えると、奏さんの声から雨の香りが消えた。笑顔を見せて、グラタンを美味しそうに食べる。僕は、なんといったららよいのか言葉が見つからなかった。
「父が死んだときはとても悲しかったのですけれど、兄が私を可愛がってくれましたから、寂しい思いも忘れることが出来ました。兄は、私の自慢なんです」
嬉しそうに笑う奏さんの声からは、再び陽光のような香りがした。奏さんにとって、地元に残っているお兄さんは大切な家族なのだろうと、僕の心も温かくなる。
「いつか、会ってみたいなぁ」
思わずそういってしまってから、失礼なことだったかもしれないと僕はわずかに後悔した。でも、奏さんは嬉しそうに微笑む。
「そうですね、私も会いたいです」
そういった奏さんは突然席を立つ。
「あ、あの、すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます。帯が苦しくて」
「うん、わかった」
十分ほどして戻ってきた奏さんの瞳が、わずかにうるんでいるように見えたけれど、何かあったのだろうか。椅子にすとんと腰を掛けた奏さんは、何事もなかったかのように笑顔で話しかけてくる。
「そうだ、今度のお休みにうちに来てください!」
「え、僕が?」
「あたりまえじゃないですか。叔母も会いたがっていますし、ラッテも会いたがっていると思います」
「あいつ、僕のことなんか、覚えてるかなぁ」
「覚えてますよ」
嬉しそうに笑う奏さん。その表情に、この時の僕はただただ嬉しい気持ちで満ちていた。愚かな僕は、雨の囁く声にも、彼女から香ってくる悲しい香りにも、気が付かずに。



