奏さんが血相を変えて僕の肩を叩いたのは、ラッテを引き取ってもらってから一週間ほどが経った土曜日だった。いつものように図書館で勉強をしていると、奏さんがとんとんと忙しく肩を叩き小声で僕に囁いてきた。
「少し話せませんか?」
僕は頷いて席を立つ。奏さんはいつも休憩する自販機コーナーではなく、ひょうたん池の方まで僕を引っ張って行った。どうやら、人に聞かれたくない話らしい。
凹凸のある池が見えて来たところで奏さんは立ち止まり、トーンを落として話し始める。
「朔さん、亜弓さんがお見合いする予定だって知っていましたか?」
わずかに責めるような口調に聞こえた。知っていたのならどうして止めないのかとでもいいたそうだ。僕は当然知らない、寝耳に水だ。
「知らなかった。亜弓さん、そんなこと一言もいってなかったよ」
僕の答えに、今度は考え込むような顔になる。ころころと転がるように変化していくその表情は、見ていて本当に飽きない。
「朔さんには内緒なのでしょうか……」
「奏さんは亜弓さんから聞いたの?」
「はい、十一月第二週目の日曜日に予定していたアクセサリー作りを中止にしてもいいかって聞かれたんです。理由を尋ねたらお見合いのようなことがあるからっていっていましたよ。朔さん、ピンチですよ!」
「ピンチ?」
僕は首をかしげる。お見合いをしたからすぐに結婚とはならないだろう。そう焦るものではないと思う。
「亜弓さん、結婚するつもりだと思います」
「そんな、まだ会ってもいないのに」
奏さんのあまりに飛躍した発想に僕は驚く。
「私の勘です。とにかく、朔さんは早く二階堂先生のお尻に火をつけてください」
「そういったってどうしたらいいっていうんだよ」
二階堂先生のお尻は簡単に燃えそうにはない。
「簡単ですよ、事実をいえばいいんですよ」
「亜弓さんがお見合いするって?」
「そうです。結婚を考えてるってそれとなく織り交ぜてください」
「難易度高いなぁ。それでも二階堂先生は何もしないかもしれない」
「それならそれまでです」
きっぱりといい切る奏さんに、僕は思わずきょとんとした。あんなに熱心に二人のよりを戻そうとしていた割にはあっさりとしている。
「こういうことは本人の意思と行動力が大事なんです。二階堂先生が亜弓さんのお見合い話を聞いても何も行動しないのなら、もう二人は終わりです。私は二階堂先生を見損ないます」
奏さんの口調がおかしくて僕は笑いを漏らしてから了承した。
それから僕はラッテの様子を聞きながら図書館に戻った。写真もいくつか見せてもらったがどれも幸せそうな様子で写っている。どうやら叔母さんご夫婦にも可愛がってもらっているようだ。良かった。
「そうだ! 私、昨日ラッテの顎を撫でることが出来たんですよ! ゴロゴロと小さな声がして可愛かったです」
そういって嬉しそうに手を叩く奏さんのことを、僕は可愛いなと思った。
翌日、僕は早速二階堂先生に亜弓さんの話をするタイミングを探した。だけど、残念なことに先生は研究室を空けていてなかなか戻ってこない。
もやもやとした気持ちで作業をしていたので、使う薬液の濃度を間違えてしまった。先週からやっていた作業の全てが台無しだ。僕は思わずため息を吐く。どっと疲れが出たような気がした。こんな気がかりなど、早く消してしまいたい。そう思いながら片づけをしていると、先生が研究室に戻って来た。片づけをしている僕を見てニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。
「なんだよおまえ、失敗したのかよ」
「またやり直します」
「どうせ変なこと考えながら作業してたんだろ。女のこととか。作業中は無心になれよ」
先生が笑いながらそんな小言をいうものだから僕は思わず不機嫌になる。本を正せば先生のせいではないかと責任転嫁をしたくなった。
「亜弓さん、今度お見合いするそうですよ」
何の前触れもなく、僕はそう切り出した。先生は豆鉄砲でもくらったような顔になる。それからため息を吐いた。
「だからどうした。俺はもう降りたんだ」
「後悔しないようにしてください」
「偉そうなこというな、ガキのくせに」
先生はぷいとそっぽを向いた。子供っぽい仕草は先生から年齢を奪う。なんだか反抗期の子供みたいだ。
なんだか可笑しいなと僕がにやついていたせいだろう。先生はギロリと僕を睨んでくる。僕は慌てて研究をやり直すための準備に取り掛かった。とにかく、これで奏さんとの約束は果たせたといっていいだろう。
後は、二階堂先生次第だ。僕は亜弓さんの幸せを望んでいる。今度するというお見合いが、亜弓さんの幸せに繋がるとは思えなかった。
あの夜の、亜弓さんの寝言を思い出す。亜弓さんは、先生のことを呼んでいた。
そんなの駄目だ。二人はきちんと向き合うべきだと思う。きっと、亜弓さんの諦めが生んだ道だからそう感じるのだ。
二人がよりを戻す道のりには、大きな障害がいくつも横たわっているのかもしれない。それでも、乗り越えてほしいなと思ってしまうのは、僕の我がままだろうか。人生はそう思い通りにいかないものなのかもしれない。
もしも僕の思い通りに世界が動いてくれるのなら、きっと、あの人は無事なはずだった。今も――そのことは僕の心のほとんどを支配している。
日曜日、僕は奏さんと一緒にカフェアザミに来ていた。勉強ばかりで少し息抜きがしたくなったところで奏さんが誘ってくれたのだ。僕がお店に顔を出すと、亜弓さんは「さてはサボりに来たな」と瞳を三日月形に曲げた。
「試験勉強順調そうだね」
棒の前にブラックコーヒーを奏さんの前にカフェラテを置いた亜弓さんは楽しそうに笑う。
「たまには息抜きに来ないと。バイト休んでごめん。まぁ普段からそんなに役に立ってないけど」
「そんなことないわ、話し相手になってくれる人が居ないと仕事もはかどらないのよ。奏ちゃんが時々来てくれるからいいけど。忙しいと手伝ってくれるのよ、このまま雇っちゃおうかな」
「そうしたら僕は隣の薬局に追い出されるのかな」
「きちんと国試も受かりなさいよ」
「そんなのずっと先の話じゃないか」
「あら、油断大敵よ。まぁ、今はまだ後期試験か」
僕はぎくりとした。奨学生の試験が終われば今度は学期末試験がやってくる。勉強のために大地たちと必死でかき集めた過去問の厚みを見ただけで、僕は嫌気がさしていた。
「単位取れるかな……」
「ちゃんと勉強したら取れるんじゃない?」
亜弓さんはそんな当たり前にことをいう。僕はあははと笑うしかない。
「そいういえば奏ちゃんの勉強はすすんでる? アロマ検定用の香りのサンプ
ル見つけたからあげようと思ってるの」
「本当ですか!」
奏さんは目を輝かせた。奏さんの方も勉強も順調なようだ。僕にはアロマ検定なるものの見当がつかないのでいったいどんな勉強をしているのかわからない。香りのサンプルというのだから匂いをかぎ分けたりするのだろうな――自分のことが落ち着いたら聞いてみよう。
奏さんのことだ、僕が何か尋ねると、嬉しそうに教えてくれるんだ。花のような笑顔で。
大学内に並木を作っている銀杏の葉が散り始めると、僕は自分の勉強で手いっぱいになり、亜弓さんの色恋沙汰どころではなくなった。二人の動向は奏さんが気にかけてくれている。時折二階堂先生を見ては、亜弓さんのお見合いはどうなっただろうかと頭の端で考えた。
そんなに具合に、ありったけの時間と精神力をかけたというのに、(いや、だからというべきか)奨学生試験はあっという間に終わり、結果が出た。
結果としてあっさりと奨学金への切符を手に入れた僕は、拍子抜けしてしまったくらいだ。試験の出来以上に、僕の家庭の事情が審査に強かったのだろうと思う。
次は後期試験の勉強に移らないといけないと思うと頭が麻痺してしまう。しばらくは何も考えずにぼんやりしていたい。
亜弓さんと奏さんが奨学生合格のお祝いをしてくれるというので、アザミに自作のお菓子を持ち寄ってたわいない話をしたり、久しぶりにゆったりとした時間を過ごした。
あまりに充実した時間ばかりが流れるので僕の心は晴れやかだった。もう何日も何日も死にたくなる衝動は抑えられている。
今なら、お墓参りに行けるかもしれない。いつか行かないといけないと思っていたところだ。次の休みにでも、行ってみようかな、あの海がある北海道へ。
罪の意識に、やっと折り合いをつけることが出来るかもしれない。君は助かってよかった、と周りのみんながかけてくれた言葉を受け入れてもいいと思える。
あまりに心地よい日々に、僕はそう、勘違いしていた。



