家に帰ると玄関に見知らぬ靴があった。
こんな時間に来客があるのかと居間に行くと、ソファに寄りかかって亜弓さんが眠っていた。そのそばにラッテが丸くなって眠っている。テーブルの上にはチューハイの缶がのっていた。
「あら、悠朔おかえりなさい。亜弓ちゃん、さっきまで起きていたのよ」
キッチンで洗い物をしている母は手を止めて僕を振り返った。
「ラッテのもらい先が決まったよ。友達が、日曜日に引き取りに来るって」
「あら、決まったのね、良かった。でも寂しくなるわね」
「僕は家で飼いたかったよ」
「駄目よ、初めから里親を見つける話だったじゃない」
「母さんは強情だな」
「途中で曲げたくないのよ」
母だって、ラッテのことを可愛いと思っているはずだ。僕に隠れてじゃれ合っているのを知っている。
「可愛がってもらえるといいわね」
母は亜弓さんの傍らで丸くなっているラッテを撫でた。それについては折り紙付きだと思う。
「亜弓さんと飲んでたの?」
僕は規則正しい寝息を立てている亜弓さんにかけられている毛布を直してやる。
「ラッテに会いに来たのよ。ほら、伯父さん動物嫌いじゃない? 家では飼えないからって。ついでに飲んでたのよ。亜弓ちゃん弱くってすぐに真っ赤になっちゃって」
「母さんに付き合って飲んでたら誰だって酔いつぶれる」
「あんたは大丈夫じゃない」
「俺には母さんの遺伝子入ってるから。とにかく、亜弓さん、客間の布団に運んだ方がいいんじゃない?」
「お布団は押し入れに入っているから、よろしく頼むわね」
僕は居間の隣にある客間に亜布団を敷き、亜弓さんを運ぶ。冷たい布団の上に下ろすと、亜弓さんの眉が微かに動いた。
「待って……」
目が覚めたのではないかと思ったが、起きる様子はない。寝言だ。瞳にうっすらと涙が浮かんでいるように見える。
僕は息をのんだ。奏さんの予想が正しかったのだと確信せざるを得なかった。亜弓さんは、寝言で二階堂先生の名前を呼んだ。
「待って、柊也」って。
翌日、亜弓さんはいつもと変わりなく、昨夜垣間見せた寂しさなど微塵も感じさせなかった。
亜弓さんと母さんと三人で朝ご飯を終えた僕は亜弓さんと一緒に家を出て、大学の最寄り駅までたわいない話をしながら電車に揺られた。
昨夜の寝言は僕の幻聴だったのだろうか。いや、そんなはずはない。もう結果ははっきりしている。亜弓さんは、今でも二階堂先生のことが好きなのだ。
午後、研究室に行くと二階堂先生はいつものように自分の机でコーヒーを飲んでいた。僕が来たのを見ると、研究ノートの指摘を始める。僕は先生と今後の研究方針を話し合った。
方向性が定まると、僕は別の小石を投げる。僕は、触媒になれるだろうか。
「先生、飲み会で彼女出来ました?」
「馬鹿いえ、あんな飲み会で好きな女なんかできるわけねぇだろ。連絡先教えろって絡まれて大変だった、もう二度と行かねぇ」
「先生、どうして亜弓さんと別れちゃったんですか」
唐突な問いに、先生は面食らったように切れ長の目を丸くした。それから小さなため息を吐きだす。
「俺がどうしようもないから振られた」
「でも、亜弓さんは……」
僕は昨夜の寝言のことをいうべきかどうか悩む。亜弓さんは怒るかもしれない。これはお節介だという自覚もある。でも、きっと焼いた方がいいお節介もある。奏さんなら僕と同じようにするはずだ。
「後悔していると思います。先生と別れたこと」
先生は僕から視線を外し、机の上をじっと見つめたまま黙り込んだ。
「先生、もう一度亜弓さんと会ってもらえませんか? こんなに近くにいるんですから」
「だから帰ってくるのは嫌だったんだ」
先生は心の中にため込んだ澱を吐き出すように言葉を落していく。
「俺は亜弓のために研究を止めてはやれなかった」
「亜弓さんが研究を止めてくれっていったんですか?」
腑に落ちない。僕の知っている亜弓さんならそんなことをいうとは到底思えなかった。自分のために、誰かの夢を手折る人じゃない。
「正確には親父さんの方な。薬局を継いで欲しいらしくてさ。継げないなら結婚もできないし、別れようって話になった。っつーか、一方的に俺が逃げた」
僕は虚を突かれたような気分になった。そんな別れ方があるなんて、考えたこともなかった。
「好きなだけじゃぁな、上手くいかないこともある。世の中そんなもんだ」
先生は見たこともないような情けない顔をする。今にも泣きだしそうな表情だと思った。なんだよ、先生もまだ亜弓さんのことが好きなんじゃないか。
結婚するとなると本人同士だけの話ではなくなるのだろう。家同士のつながりができるから。伯父さんにそういわれたなら、亜弓さんは諦めるしかなかったのかもしれない。先生は、亜弓さんよりも研究を取ったということだ。なんだか、小さなとげが刺さったような不快感を覚えた。喉の奥にきっかかって取れない。
日曜日、奏さんは僕の家の最寄り駅まで来てくれた。フリルの付いたブラウスにゆったりとした形のパンツをはいていた。ヒールの付いた靴を履いているので、いつもよりも少し目線が近い。頭にはパンツと同じ色のベレー帽をかぶっていた。秋らしい装いだと思った。
一方の僕はジーンズに長袖のシャツ、寒くなって羽織が加わったのが、せめてもの秋らしさだった。
「ごめんね、こんな場所まで来てもらって」
「いいえ、ラッテに会えるのも、朔さんのお家に行くのもとても楽しみにしていました」
連れ立って歩きながら、僕はかなりドキドキしていた。女の子が来ると知った母の気合の入りようは見ているこちらが恥ずかしくなるほどで、そんな母を見ていると、こちらまで緊張してきてしまった。
「この前、二階堂先生に亜弓さんとどうして別れたのかって聞いたんだ」
「わぁ、本当ですか? 核心をついていきましたね」
「なんだかお節介を焼きたくなってさ」
奏さんは、ふふっと笑った。それから、真剣な表情になる。
「何かわかりましたか?」
「それがね」と切り出した僕の話を聞いて、奏さんは黙り込んでしまった。僕と同じように、何か腑に落ちないものを感じているのだろう。家に着く直前になって、やっと口を開いた。
「なんだか悲しいですね」
僕は頷く。他に何を言ったらいいのか、言葉が見つからなかった。古い木造二階建ての自宅に着くと、僕は奏さんを家の中に招き入れる。
「いらっしゃい」
嬉々として現れた母は、いつもの普段着よりもずっとシャレた格好をしていた。
「ラッテ」
奏さんが名前を呼ぶと、居間を闊歩していたラッテが小走りに駆けてきた。そのまま座り込んだ奏さんのそばにちょこんと座る。撫でられるのを待っているのだ。
「めんこいなぁ」
奏さんは恐る恐る手を伸ばしてみる。ラッテに届きそうなところまで手を伸ばして、さっと引っ込めてしまった。
「ごめんなさい、もう少し慣れたら撫でてあげられるかも」
「ゆっくりで大丈夫だよ、なぁラッテ。こいつ大人しくて、よっぽどのことがない限り強く噛んだりとかしないと思う。あぁ、じゃれて甘噛みとかするけど痛くないから。ラッテ、今日から奏さんがおまえの家族だ」
ラッテは小さく「にゃぁ」と鳴くと、居間の中で遊び始めた。ぴょんとテレビ台の上に飛び乗ると、後ろの方に忘れ去られたかのように置いてあった置物がことりと落ちる。
「こら、ラッテ」
僕が叱るとラッテは僕のもとに寄ってきて足にまとわりついた。奏さんが落ちた置物を拾ってくれる。
「これ、朔さんのですか?」
尋ねられて奏さんが手に持っていイルカの置物を見た僕は、苦い笑いを漏らした。それは、僕が小学生の時に水泳をやっていたときにもらったトロフィーだった。大会は、修学旅行の前のことだ。僕がまだ、水の中を魚のように泳いでいたころの話――
こんなもの、とっくに捨てたと思っていた。
「水泳大会自由形優勝って書いてありますよ! すごいですね! 今も泳いでいるんですか?」
「いや、今は泳いでないんだ。ちょっと故障して泳げなくなって……」
体の故障ではない、心の故障だ。なかなか治らない。僕は忘れることなんかできない。あのまとわりつ水の重さを、呼吸を奪われる恐怖を。僕の代わりに、失われた命の重さを――
「そうなんですね、残念です。朔さんが泳ぐ姿を見てみたかったです」
「見せるほどのものじゃないよ」
過去の栄光だ。今の僕は、まだ風呂の湯にだって満足に浸かることが出来ない。でも、このまま奏さんと日々を過ごしていくことが出来たら、なんとなく僕の心に沁みついたトラウマが消えていくのではないかと感じていた。病にかかった細胞に薬液を落としたときのように、僕の心が回復しつつある。
奏さんは籠に入ったラッテと一緒に帰っていく。僕は寂しい気持ちを押し殺してラッテに声をかけた。
「可愛がってもらえるからな」
「遊びに来てください、叔母夫婦も歓迎してくれます」
「ありがとう。お言葉に甘えて、亜弓さんと一緒にお邪魔するよ」
奏さんのことを僕の彼女ではないかと勘繰っている母がおかしなことをいわないうちに、僕は奏さんとラッテを連れて家を出た。奏さんはラッテの入っている籠を大事そうに抱えて歩いた。
ちょこちょこと歩く彼女の歩幅に合わせながら、僕はゆっくりと足を動かす。奏さんと並んで歩く、ただそれだけで、僕には特別な時間に感じられた。
僕の家の最寄り駅のホームで奏さんとラッテを見送る。ラッテが入っている籠を抱えた奏さんは僕に手を振ってくれた。電車がゆっくりと走り出す。僕は、なんともいえない喪失感を感じた。二階堂先生の言葉を思い出す。
「情が移ると別れがつらくなる」短い期間であったとしても、ラッテは確かに僕の家族だった。別れはつらいものだ。
母さんは、父さんと別れたことを、後悔していないかな。なぜかそんなことを思った。
こんな時間に来客があるのかと居間に行くと、ソファに寄りかかって亜弓さんが眠っていた。そのそばにラッテが丸くなって眠っている。テーブルの上にはチューハイの缶がのっていた。
「あら、悠朔おかえりなさい。亜弓ちゃん、さっきまで起きていたのよ」
キッチンで洗い物をしている母は手を止めて僕を振り返った。
「ラッテのもらい先が決まったよ。友達が、日曜日に引き取りに来るって」
「あら、決まったのね、良かった。でも寂しくなるわね」
「僕は家で飼いたかったよ」
「駄目よ、初めから里親を見つける話だったじゃない」
「母さんは強情だな」
「途中で曲げたくないのよ」
母だって、ラッテのことを可愛いと思っているはずだ。僕に隠れてじゃれ合っているのを知っている。
「可愛がってもらえるといいわね」
母は亜弓さんの傍らで丸くなっているラッテを撫でた。それについては折り紙付きだと思う。
「亜弓さんと飲んでたの?」
僕は規則正しい寝息を立てている亜弓さんにかけられている毛布を直してやる。
「ラッテに会いに来たのよ。ほら、伯父さん動物嫌いじゃない? 家では飼えないからって。ついでに飲んでたのよ。亜弓ちゃん弱くってすぐに真っ赤になっちゃって」
「母さんに付き合って飲んでたら誰だって酔いつぶれる」
「あんたは大丈夫じゃない」
「俺には母さんの遺伝子入ってるから。とにかく、亜弓さん、客間の布団に運んだ方がいいんじゃない?」
「お布団は押し入れに入っているから、よろしく頼むわね」
僕は居間の隣にある客間に亜布団を敷き、亜弓さんを運ぶ。冷たい布団の上に下ろすと、亜弓さんの眉が微かに動いた。
「待って……」
目が覚めたのではないかと思ったが、起きる様子はない。寝言だ。瞳にうっすらと涙が浮かんでいるように見える。
僕は息をのんだ。奏さんの予想が正しかったのだと確信せざるを得なかった。亜弓さんは、寝言で二階堂先生の名前を呼んだ。
「待って、柊也」って。
翌日、亜弓さんはいつもと変わりなく、昨夜垣間見せた寂しさなど微塵も感じさせなかった。
亜弓さんと母さんと三人で朝ご飯を終えた僕は亜弓さんと一緒に家を出て、大学の最寄り駅までたわいない話をしながら電車に揺られた。
昨夜の寝言は僕の幻聴だったのだろうか。いや、そんなはずはない。もう結果ははっきりしている。亜弓さんは、今でも二階堂先生のことが好きなのだ。
午後、研究室に行くと二階堂先生はいつものように自分の机でコーヒーを飲んでいた。僕が来たのを見ると、研究ノートの指摘を始める。僕は先生と今後の研究方針を話し合った。
方向性が定まると、僕は別の小石を投げる。僕は、触媒になれるだろうか。
「先生、飲み会で彼女出来ました?」
「馬鹿いえ、あんな飲み会で好きな女なんかできるわけねぇだろ。連絡先教えろって絡まれて大変だった、もう二度と行かねぇ」
「先生、どうして亜弓さんと別れちゃったんですか」
唐突な問いに、先生は面食らったように切れ長の目を丸くした。それから小さなため息を吐きだす。
「俺がどうしようもないから振られた」
「でも、亜弓さんは……」
僕は昨夜の寝言のことをいうべきかどうか悩む。亜弓さんは怒るかもしれない。これはお節介だという自覚もある。でも、きっと焼いた方がいいお節介もある。奏さんなら僕と同じようにするはずだ。
「後悔していると思います。先生と別れたこと」
先生は僕から視線を外し、机の上をじっと見つめたまま黙り込んだ。
「先生、もう一度亜弓さんと会ってもらえませんか? こんなに近くにいるんですから」
「だから帰ってくるのは嫌だったんだ」
先生は心の中にため込んだ澱を吐き出すように言葉を落していく。
「俺は亜弓のために研究を止めてはやれなかった」
「亜弓さんが研究を止めてくれっていったんですか?」
腑に落ちない。僕の知っている亜弓さんならそんなことをいうとは到底思えなかった。自分のために、誰かの夢を手折る人じゃない。
「正確には親父さんの方な。薬局を継いで欲しいらしくてさ。継げないなら結婚もできないし、別れようって話になった。っつーか、一方的に俺が逃げた」
僕は虚を突かれたような気分になった。そんな別れ方があるなんて、考えたこともなかった。
「好きなだけじゃぁな、上手くいかないこともある。世の中そんなもんだ」
先生は見たこともないような情けない顔をする。今にも泣きだしそうな表情だと思った。なんだよ、先生もまだ亜弓さんのことが好きなんじゃないか。
結婚するとなると本人同士だけの話ではなくなるのだろう。家同士のつながりができるから。伯父さんにそういわれたなら、亜弓さんは諦めるしかなかったのかもしれない。先生は、亜弓さんよりも研究を取ったということだ。なんだか、小さなとげが刺さったような不快感を覚えた。喉の奥にきっかかって取れない。
日曜日、奏さんは僕の家の最寄り駅まで来てくれた。フリルの付いたブラウスにゆったりとした形のパンツをはいていた。ヒールの付いた靴を履いているので、いつもよりも少し目線が近い。頭にはパンツと同じ色のベレー帽をかぶっていた。秋らしい装いだと思った。
一方の僕はジーンズに長袖のシャツ、寒くなって羽織が加わったのが、せめてもの秋らしさだった。
「ごめんね、こんな場所まで来てもらって」
「いいえ、ラッテに会えるのも、朔さんのお家に行くのもとても楽しみにしていました」
連れ立って歩きながら、僕はかなりドキドキしていた。女の子が来ると知った母の気合の入りようは見ているこちらが恥ずかしくなるほどで、そんな母を見ていると、こちらまで緊張してきてしまった。
「この前、二階堂先生に亜弓さんとどうして別れたのかって聞いたんだ」
「わぁ、本当ですか? 核心をついていきましたね」
「なんだかお節介を焼きたくなってさ」
奏さんは、ふふっと笑った。それから、真剣な表情になる。
「何かわかりましたか?」
「それがね」と切り出した僕の話を聞いて、奏さんは黙り込んでしまった。僕と同じように、何か腑に落ちないものを感じているのだろう。家に着く直前になって、やっと口を開いた。
「なんだか悲しいですね」
僕は頷く。他に何を言ったらいいのか、言葉が見つからなかった。古い木造二階建ての自宅に着くと、僕は奏さんを家の中に招き入れる。
「いらっしゃい」
嬉々として現れた母は、いつもの普段着よりもずっとシャレた格好をしていた。
「ラッテ」
奏さんが名前を呼ぶと、居間を闊歩していたラッテが小走りに駆けてきた。そのまま座り込んだ奏さんのそばにちょこんと座る。撫でられるのを待っているのだ。
「めんこいなぁ」
奏さんは恐る恐る手を伸ばしてみる。ラッテに届きそうなところまで手を伸ばして、さっと引っ込めてしまった。
「ごめんなさい、もう少し慣れたら撫でてあげられるかも」
「ゆっくりで大丈夫だよ、なぁラッテ。こいつ大人しくて、よっぽどのことがない限り強く噛んだりとかしないと思う。あぁ、じゃれて甘噛みとかするけど痛くないから。ラッテ、今日から奏さんがおまえの家族だ」
ラッテは小さく「にゃぁ」と鳴くと、居間の中で遊び始めた。ぴょんとテレビ台の上に飛び乗ると、後ろの方に忘れ去られたかのように置いてあった置物がことりと落ちる。
「こら、ラッテ」
僕が叱るとラッテは僕のもとに寄ってきて足にまとわりついた。奏さんが落ちた置物を拾ってくれる。
「これ、朔さんのですか?」
尋ねられて奏さんが手に持っていイルカの置物を見た僕は、苦い笑いを漏らした。それは、僕が小学生の時に水泳をやっていたときにもらったトロフィーだった。大会は、修学旅行の前のことだ。僕がまだ、水の中を魚のように泳いでいたころの話――
こんなもの、とっくに捨てたと思っていた。
「水泳大会自由形優勝って書いてありますよ! すごいですね! 今も泳いでいるんですか?」
「いや、今は泳いでないんだ。ちょっと故障して泳げなくなって……」
体の故障ではない、心の故障だ。なかなか治らない。僕は忘れることなんかできない。あのまとわりつ水の重さを、呼吸を奪われる恐怖を。僕の代わりに、失われた命の重さを――
「そうなんですね、残念です。朔さんが泳ぐ姿を見てみたかったです」
「見せるほどのものじゃないよ」
過去の栄光だ。今の僕は、まだ風呂の湯にだって満足に浸かることが出来ない。でも、このまま奏さんと日々を過ごしていくことが出来たら、なんとなく僕の心に沁みついたトラウマが消えていくのではないかと感じていた。病にかかった細胞に薬液を落としたときのように、僕の心が回復しつつある。
奏さんは籠に入ったラッテと一緒に帰っていく。僕は寂しい気持ちを押し殺してラッテに声をかけた。
「可愛がってもらえるからな」
「遊びに来てください、叔母夫婦も歓迎してくれます」
「ありがとう。お言葉に甘えて、亜弓さんと一緒にお邪魔するよ」
奏さんのことを僕の彼女ではないかと勘繰っている母がおかしなことをいわないうちに、僕は奏さんとラッテを連れて家を出た。奏さんはラッテの入っている籠を大事そうに抱えて歩いた。
ちょこちょこと歩く彼女の歩幅に合わせながら、僕はゆっくりと足を動かす。奏さんと並んで歩く、ただそれだけで、僕には特別な時間に感じられた。
僕の家の最寄り駅のホームで奏さんとラッテを見送る。ラッテが入っている籠を抱えた奏さんは僕に手を振ってくれた。電車がゆっくりと走り出す。僕は、なんともいえない喪失感を感じた。二階堂先生の言葉を思い出す。
「情が移ると別れがつらくなる」短い期間であったとしても、ラッテは確かに僕の家族だった。別れはつらいものだ。
母さんは、父さんと別れたことを、後悔していないかな。なぜかそんなことを思った。



