十月は穏やかな天気が続いた。少しずつ吹き抜ける風に冷たさが混ざり、夏の間強い日差しを遮ってくれていた桜並木が少しずつ紅葉し始めてきた。
僕の心にも、凪いだような日々が流れている。
奨学金試験に向けて本腰を入れた僕は、亜弓さんにお願いして試験が終わるまでバイトを休ませてもらうことにした。研究も早めに切り上げると、図書館の窓際に陣取った。
アーチ状に湾曲したガラス窓からは、正門から伸びた一本道が一望できる。図書館から見える左右対称に作られた並木道の景色を僕は気に入っていた。
机の上に分厚い過去問の束を広げると、時間を計測しながら解き始めることにした。僕はスマホに時計を表示し、長針が数時とピッタリと重なり合ったところから問題にとりかかった。
隣に人の気配を感じたのは、調度六十分を計り終えた時だ。緊張が解かれるとともに、僕の視野はぐっと広がる。顔を上げると、奏さんがノートに何か書き込んでいるところだった。僕は小声で話しかける。
「気が付かなくてごめん」
すると奏さんはにっこりと微笑んでから首を横に振った。
「気にせず続けてください。休憩するときに声をかけてくださいね」
そう小声で言ってくれるので、僕は頷く。静かな図書館では、どんなに小さな話し声でも響く。僕たちはそれきり会話を止め、各々の作業に没頭した。
正面の窓から差し込む西日のまぶしさで僕は目を細めた。顔を上げるとオレンジ色に揺れる太陽が視線と同じ位置にある。掛け時計の針は五時を差している。
「お疲れ様です」
僕の集中力が切れたことを察した奏さんが小声で労いの言葉をかけてくれる。
「少し外に行こうと思うんだ。奏さんも来る?」
奏さんはこくんと頷いた。僕たちは図書館の並びにある自販機コーナーで飲み物を買うと、廊下の窓際に設けられている長椅子に腰かける。ステンレスの足に籐で織られた長椅子はなかなシャレた作りだった。
「明日からも毎日図書館ですか?」
冷たいココアを飲みながら奏さんは尋ねてくる。小さな缶でも大きなマグカップでも、両手で包むように持つのが癖なのだろう。奏さんは小さなスチール缶を両手で持ちながら飲んだ。甘い物が苦手な僕はホットのブラックコーヒーを買う。缶が熱くてまだ開けることが出来ない。冷たい珈琲を買えば良かったと後悔した。
「うん、そのつもり」
「ときどき、今日みたいに隣で勉強をしてもいいですか?」
嬉しい申し出に、僕は即座に頷く。それから何の勉強をしているのだろうかと疑問が沸いてきた。
「奏さんはどんな勉強をしているの?」
「私はこれです」
奏さんは教材を取り出して見せてくれる。表紙にはカラーコーディネーターと書かれていた。
「カラーコーディネーター?」
農学部の履修内容にはそんなものがあるのかと、僕は驚く。だが、奏さんの話によると、どうやら趣味の範疇らしい。
「はい、亜弓さんに憧れて私も資格を取ってみようと思いました。後はアロマテラピストの資格も取ろうかなって思っています」
「亜弓さん、そんな資格持っているの?」
「あれ、ご存じありませんでしたか? どきどきカフェで講習会のようなものをやっているって聞いたことがあります」
それは知っている。夕方バイトに行くと、ぞろぞろと若い女の人たちが帰るところに遭遇することがあったから。亜弓さんに尋ねると、みんなでお茶をしながら勉強会をしていたのだといっていたけれど、内容までは気にしたことがなかった。
「亜弓さんがそんな資格を持っていたなんて知らなかったよ」
「センスもいいですし、女性としてとても憧れます。二階堂先生が好きになったのも頷けますね。二階堂先生うちの学部でも密かに人気なんですよ。背も高いですし、ちょっと悪そうっていうか、影を背負った感じが良いらしいです。私にはちょっとわかりませんけれど。まぁ校内で若い先生はそれだけで目立ちますから」
「へぇ、そんな話も知らなかった」
先生は全く興味を示しそうにないなと思った。先生の心の中にいるのは、やっぱり亜弓さんじゃないかな――そう思うと、今更ながら何かしてあげたい気もしてくる。
だっても僕は二人の気持ちを何も聞いたわけじゃない。奏さんがいうように、引っ掻き回さないと、なにも反応は起きないかもしれない。
僕は名残惜しそうにする子猫に別れを告げ、奏さんと一緒にバイト先へ急いだ。
「そういえば、ラッテのもらい先は見つかりましたか?」
急に話題が変わって僕は渦潮のようにぐるぐると渦巻いていた思考を止めた。奏さんは、本当に頭の回転が速いのだと思う。
ラッテのもらい先については、二階堂先生と亜弓さんのこと以上に僕の頭を悩ませている案件だった。
本当なら自分で飼いたい。だが、実家で世話になっている以上母のいうことは絶対だった。一度決めたことを覆せないのは母の長所というべきか、短所というべきか。少なくとも、その頑固さのせいで無駄にしんどい思いをしている部分もあると思う。
「それが、まだ決まってないんだ。本当は自分で飼いたいんだけど、一人暮らし出来るようになるまでは難しくて……」
そう答えると、僕の重たい口調とは違って奏さんは明るい声音で話し始める。
「良かった、ラッテを引き取りたいなと思ったんです」
意表を突かれた僕は思わず「え?」裏返ったような声を出してしまう。奏さんは子供の頃のトラウマで動物に触れられないといってはいなかっただろうか。そんな彼女が猫を家に置くことなど、できるのだろうか。
「猫を飼いたいって叔母夫婦にいったらずいぶん喜ばれてしまいました。なんだか私が頼みごとをしてきたのが嬉しかったようで。叔母夫婦も以前猫と犬を飼っていたことがあるそうです。大歓迎だといっていました。ラッテの写真を見せるとそれはそれは喜んでくれまして」
そうか、それは安心だと思う一方で、奏さん自身は大丈夫なのだろうかと不安も残る。
「だけど、奏さんは動物が苦手だって……ほら、好きだけど触れないっていっていただろう?」
「はい。苦手なことを克服してみようかと思ったんです。ラッテに触れるようになったらもっと人生が楽しくなる気がします。私が飼えば、朔さんだっていつでも会うことが出来ますし」
いやいや、奏さんの家に易々上がるわけにはいかない。でも、亜弓さんと一緒なら行ってもいいだろうか。僕としては奏さんに引き取ってもらえたら安心できる。願ってもない申し出だ。
「お願いできるかな?」
「もちろんです。近いうちに引き取りに行かせてください。日曜日に行ってもいいですか?」
「母親が家にいるけれど、それでも良かったら」
「もちろんです」
むしろ僕一人だけの家に奏さんを上げるわけにはいかない気がした。
あと数日でラッテと別れなくてはいけないと思うと、日常にぽっかりと穴が開いてしまったような気持になる。奏さんに引き取ってもらえるなら、考え得る最良の結果だ。寂しいと思うのは僕の我がままというものだ。
もう帰る時間だという奏さんを正門まで見送った僕は、一人机に戻って勉強を再開した。ラッテのもらい先という今の時点で最大の懸案事項が解決し、驚くほど集中することができた。試験期間ではないので、遅くまで残る生徒はほとんどいない。閉館時間まで居座った僕は、見知らぬ学生数人とともに図書館を後にした。
僕の心にも、凪いだような日々が流れている。
奨学金試験に向けて本腰を入れた僕は、亜弓さんにお願いして試験が終わるまでバイトを休ませてもらうことにした。研究も早めに切り上げると、図書館の窓際に陣取った。
アーチ状に湾曲したガラス窓からは、正門から伸びた一本道が一望できる。図書館から見える左右対称に作られた並木道の景色を僕は気に入っていた。
机の上に分厚い過去問の束を広げると、時間を計測しながら解き始めることにした。僕はスマホに時計を表示し、長針が数時とピッタリと重なり合ったところから問題にとりかかった。
隣に人の気配を感じたのは、調度六十分を計り終えた時だ。緊張が解かれるとともに、僕の視野はぐっと広がる。顔を上げると、奏さんがノートに何か書き込んでいるところだった。僕は小声で話しかける。
「気が付かなくてごめん」
すると奏さんはにっこりと微笑んでから首を横に振った。
「気にせず続けてください。休憩するときに声をかけてくださいね」
そう小声で言ってくれるので、僕は頷く。静かな図書館では、どんなに小さな話し声でも響く。僕たちはそれきり会話を止め、各々の作業に没頭した。
正面の窓から差し込む西日のまぶしさで僕は目を細めた。顔を上げるとオレンジ色に揺れる太陽が視線と同じ位置にある。掛け時計の針は五時を差している。
「お疲れ様です」
僕の集中力が切れたことを察した奏さんが小声で労いの言葉をかけてくれる。
「少し外に行こうと思うんだ。奏さんも来る?」
奏さんはこくんと頷いた。僕たちは図書館の並びにある自販機コーナーで飲み物を買うと、廊下の窓際に設けられている長椅子に腰かける。ステンレスの足に籐で織られた長椅子はなかなシャレた作りだった。
「明日からも毎日図書館ですか?」
冷たいココアを飲みながら奏さんは尋ねてくる。小さな缶でも大きなマグカップでも、両手で包むように持つのが癖なのだろう。奏さんは小さなスチール缶を両手で持ちながら飲んだ。甘い物が苦手な僕はホットのブラックコーヒーを買う。缶が熱くてまだ開けることが出来ない。冷たい珈琲を買えば良かったと後悔した。
「うん、そのつもり」
「ときどき、今日みたいに隣で勉強をしてもいいですか?」
嬉しい申し出に、僕は即座に頷く。それから何の勉強をしているのだろうかと疑問が沸いてきた。
「奏さんはどんな勉強をしているの?」
「私はこれです」
奏さんは教材を取り出して見せてくれる。表紙にはカラーコーディネーターと書かれていた。
「カラーコーディネーター?」
農学部の履修内容にはそんなものがあるのかと、僕は驚く。だが、奏さんの話によると、どうやら趣味の範疇らしい。
「はい、亜弓さんに憧れて私も資格を取ってみようと思いました。後はアロマテラピストの資格も取ろうかなって思っています」
「亜弓さん、そんな資格持っているの?」
「あれ、ご存じありませんでしたか? どきどきカフェで講習会のようなものをやっているって聞いたことがあります」
それは知っている。夕方バイトに行くと、ぞろぞろと若い女の人たちが帰るところに遭遇することがあったから。亜弓さんに尋ねると、みんなでお茶をしながら勉強会をしていたのだといっていたけれど、内容までは気にしたことがなかった。
「亜弓さんがそんな資格を持っていたなんて知らなかったよ」
「センスもいいですし、女性としてとても憧れます。二階堂先生が好きになったのも頷けますね。二階堂先生うちの学部でも密かに人気なんですよ。背も高いですし、ちょっと悪そうっていうか、影を背負った感じが良いらしいです。私にはちょっとわかりませんけれど。まぁ校内で若い先生はそれだけで目立ちますから」
「へぇ、そんな話も知らなかった」
先生は全く興味を示しそうにないなと思った。先生の心の中にいるのは、やっぱり亜弓さんじゃないかな――そう思うと、今更ながら何かしてあげたい気もしてくる。
だっても僕は二人の気持ちを何も聞いたわけじゃない。奏さんがいうように、引っ掻き回さないと、なにも反応は起きないかもしれない。
僕は名残惜しそうにする子猫に別れを告げ、奏さんと一緒にバイト先へ急いだ。
「そういえば、ラッテのもらい先は見つかりましたか?」
急に話題が変わって僕は渦潮のようにぐるぐると渦巻いていた思考を止めた。奏さんは、本当に頭の回転が速いのだと思う。
ラッテのもらい先については、二階堂先生と亜弓さんのこと以上に僕の頭を悩ませている案件だった。
本当なら自分で飼いたい。だが、実家で世話になっている以上母のいうことは絶対だった。一度決めたことを覆せないのは母の長所というべきか、短所というべきか。少なくとも、その頑固さのせいで無駄にしんどい思いをしている部分もあると思う。
「それが、まだ決まってないんだ。本当は自分で飼いたいんだけど、一人暮らし出来るようになるまでは難しくて……」
そう答えると、僕の重たい口調とは違って奏さんは明るい声音で話し始める。
「良かった、ラッテを引き取りたいなと思ったんです」
意表を突かれた僕は思わず「え?」裏返ったような声を出してしまう。奏さんは子供の頃のトラウマで動物に触れられないといってはいなかっただろうか。そんな彼女が猫を家に置くことなど、できるのだろうか。
「猫を飼いたいって叔母夫婦にいったらずいぶん喜ばれてしまいました。なんだか私が頼みごとをしてきたのが嬉しかったようで。叔母夫婦も以前猫と犬を飼っていたことがあるそうです。大歓迎だといっていました。ラッテの写真を見せるとそれはそれは喜んでくれまして」
そうか、それは安心だと思う一方で、奏さん自身は大丈夫なのだろうかと不安も残る。
「だけど、奏さんは動物が苦手だって……ほら、好きだけど触れないっていっていただろう?」
「はい。苦手なことを克服してみようかと思ったんです。ラッテに触れるようになったらもっと人生が楽しくなる気がします。私が飼えば、朔さんだっていつでも会うことが出来ますし」
いやいや、奏さんの家に易々上がるわけにはいかない。でも、亜弓さんと一緒なら行ってもいいだろうか。僕としては奏さんに引き取ってもらえたら安心できる。願ってもない申し出だ。
「お願いできるかな?」
「もちろんです。近いうちに引き取りに行かせてください。日曜日に行ってもいいですか?」
「母親が家にいるけれど、それでも良かったら」
「もちろんです」
むしろ僕一人だけの家に奏さんを上げるわけにはいかない気がした。
あと数日でラッテと別れなくてはいけないと思うと、日常にぽっかりと穴が開いてしまったような気持になる。奏さんに引き取ってもらえるなら、考え得る最良の結果だ。寂しいと思うのは僕の我がままというものだ。
もう帰る時間だという奏さんを正門まで見送った僕は、一人机に戻って勉強を再開した。ラッテのもらい先という今の時点で最大の懸案事項が解決し、驚くほど集中することができた。試験期間ではないので、遅くまで残る生徒はほとんどいない。閉館時間まで居座った僕は、見知らぬ学生数人とともに図書館を後にした。



