さて、捜査を始めることになったとはいっても、僕は何をしたらいいのかわからず困惑していた。
ただただ二階堂先生と研究をしていても、ロクな情報など得られない。奏さんになんていおうか。毎週楽しみにしていた土曜日が憂鬱になる日が来るとは思わなかった。
今日はクリーンベンチ内で無菌的な作業をしなくてはいけない。クリーンベンチとは無菌的な作業を行う装置で、机のような台を天井とガラスの壁で囲ったものである。作業中は、ベンチ内を陽圧に保ち、外から細菌やゴミが入らないようになっている大きな装置だ。僕はため息を吐く。マスクから漏れた息がガラスを白く曇らせた。
「おい、何でかいため息ついてんだよ」
向かい合っていた先生がガラス越しに声をかけてきた。先生が向かいに居ることに気が付いていなかった僕は盛大に驚く。薬液の入っていた試験管をクリーンベンチ内に落としてしまった。
「おい、何やってんだよ。集中できないならやめろ。今日はもう帰れ」
「すみません」
僕はこぼれてしまった薬液をふき取り、アルコールで消毒する。視線を上げると、先生がいつもと違う格好をしていることに気が付いた。白衣の下はいつものようによれたTシャツではなく、ワイシャツだった。ネクタイまで締めてある。
「先生、今日何かあるんですか?」
「あ? なんでだよ」
「ほら、ネクタイなんて締めているので何かあるのかと思って」
先生は面倒くさそうに「あぁ」と会得したような声を出した。
「大学時代の仲間方飲み会やるから来いっていわれたんだ。まともな格好して来いっていうから他に思いつかなかった」
「それ、コンパじゃないですか?」
「大学生じゃあるまいし、三十二にまでなってないだろ」
「そんなことないと思いますけど……」
そうか、先生は三十二歳だったなと思い出す。そういえば亜弓さんも今年で三十二歳になったはずだけど、こんな共通点では奏さんは納得しないだろうなと苦笑いした。同い年で、同じ大学。とはいえ、学部が違えば接点はない。部活やサークルが同じ……と考えが及んだが、園芸部に所属する二階堂先生は想像が出来なかった。
「先生、園芸部のOBじゃないですよね?」
「違ぇよ。生薬部」
「あはは、柄じゃないですね」
途端に先生は不機嫌そうな顔をした。いや、もとから機嫌のいい時なんかないんだけど。なんとなく、空気がピンと張りつめたような気がする。
どうにか話題をずらそうと、視線を泳がせると先生が付けているネクタイピンが目に入る。学会の時と同じものだ。ギザギザとした葉のような形の細工が付いている。再び既視感を感じた。この形を、どこかで……
「先生、そのタイピン、ヒイラギの葉に似てますね」
思い出した。亜弓さんが大切に育っているヒイラギの葉にそっくりだ。
「あぁ、これな。たしかそんなこといってたっけな。ほら、俺の名前が柊也だからって」
僕は学会のスライドで見た先生の名前を思い出す。先生の名前は「柊也」と書いたはずだ。この「柊」の字が、ヒイラギのことを指すのだと気にかけていなかった。先生も亜弓さんもこの学校の学生だった。
いやいや、まさかな。僕は自分の突飛な考えを一蹴しかける。でも、ここ一つ聞いてみてもいいのではないだろうか。奏さんもいっていたではないか、違えば違ったでいいと。これは、実験の段階だ。何度でも失敗していい。
「先生、僕の従姉のことを知ってますか?」
「おまえの従姉?」
「はい、浅海亜弓といいます。先生と同い年でうちの学校のOGだから、知ってるのかなって思って」
先生はクリーンベンチの中に視線を落した。右手で持っているマイクロピペットで、九十六穴ウェルプレートの穴一つ一つに丁寧に薬液を注いでいく。流れるようなその無駄のない動作に、僕は見入った。
「知ってるよ。学部違うけど」
あっさりと接点を見つけてしまった。僕の頭の中で小さくファンファーレが鳴る。良かった、奏さんも喜ぶ。奏さんは喜ぶかもしれないけど、亜弓さんは喜ぶかな。
「あの、僕のバイト先にいつか来てください。亜弓さんが経営しているカフェで働いているんです。隣が伯父さんの薬局になっていて……亜弓さんも、懐かしく思うだろうし」
遠慮がちに誘うと、向かいに座る二階堂先生は浮かない顔をしていた。
「おまえが何考えてるのか知らないけど、俺は行けないよ。悪いな」
先生は、そう吐き出すようにいったきり黙ってしまう。黙々と自分の作業を終え、クリーンベンチを後にした。
残された僕は自分の手元を見つめながら、奏さんの予想が正しかったのではないかと思い始める。
二階堂先生は学部の違う亜弓さんのことを知っていた。何関係があったはずだ。でも、それを暴くべきではない。先生は亜弓さんの名前を聞いて表情を曇らせた。カフェにも来てくれそうにない。はやり、僕たちが介入すべきではないのだろう。
もしかしたら今夜、二階堂先生は素敵な女性に出会うことになるかもしれない。そうなれば、亜弓さんの話なんて無用だ。むしろ出さない方が良いくらいかもしれない。
奏さんにきちんと話をしよう。これはたぶん、面白半分に首を突っ込むものじゃない。いや、面白半分に首を突っ込んでいたのは僕だけで、奏さんは真剣なんだろうけれど。
とにかく、僕たち手には負えない問題のような気がした。
研究を終えてバイト先に向かうと、亜弓さんがヒイラギの鉢植えをぼんやりと眺めていた。園芸部時代に温室で育てていたというヒイラギは、今年も白い花を咲かせるのだろう。
突然、ヒイラギの鉢植えに大きな意味があるような気がしてきた。亜弓さんは、どうしてあのヒイラギを大切にしているのだろう。いや、考えすぎだ。
「朔ちゃんお疲れ様」
僕を見つけて、亜弓さんはにっこりと微笑んだ。
「今年も咲きそうだね」
「うん、可愛いよね、ヒイラギの花って。ほら、セイヨウヒイラギの赤い実の方が有名でこっちの黒い実はマイナーだけどさ」
「そっか、なんか違和感があるなって思ってた。クリスマスに花屋で見かけるヒイラギって赤い実がついてるけど、あれって種類が違うのか」
僕の答えがおかしかったのか、亜弓さんはくすくすと笑い声を漏らした。その表情がどこか寂しそうだと感じるのは、僕だけだろうか。
「朔ちゃんも同じこというんだね」
「同じこと?」
「そう。なんか学生の時のこと思い出しちゃったな」
懐かしそうにヒイラギの葉を見つめる亜弓さんに、僕は聞かずにはいられなかった。あれだけ介入しない方が良いと思っているのに、亜弓さんの顔を見ていると、何かしないといけない気になってくる。僕の憶測かもしれないけれど、失敗する価値のあるものなら、僕は何度だって失敗する。
「ねぇ、亜弓さん。二階堂先生にヒイラギの形のネクタイピンあげたことある?」
亜弓さんは一瞬瞳を大きく見開いてから、懐かしそうに笑った。泣きそうな顔で。
「柊也君、まだ持ってるんだ。あれ」
消えそうな声でつぶやく。独り言のつもりなのだろう。
やっぱり亜弓さんも先生のことを知っていた。友達だったのかもしれない。いや、もしかしたらもっと親しい仲だったのかもしれない。手作りの贈り物を贈るような、名前で呼び合うような、親しい間柄。
僕は店内を見回る。お客さんは二組、おばあちゃんたちが楽しそうに話しに耽っている。
「やっぱり、知り合いだったのか。奏さんと気にしてたと言うか……」
「嫌だなぁ、二人ともお節介なんだから。柊也君とはなんでもないよ」
おかしそうに笑う亜弓さんの表情に、僕は陰を見つける。笑顔の中に、悲しい気持ちが隠れているように見えた。
「亜弓さん、先生と付き合ってたんじゃない?」
否定して欲しいという気持ちがあった。奏さんの予想を覆して欲しい。そうしたら、僕たちは何も気に病む必要がない。
「朔ちゃん、奏ちゃんの影響でストレートに物を聞くようになってきたね」
「そうなの?」
「惹かれ合うもの同士、似ちゃうのかなぁ」
なんて独り言をつぶやいた亜弓さんは、悲しい顔で笑った。
「昔ね、学生の時」
心の中で、やっぱりそうかと納得する自分がいた。中身のわからない箱の中を開けた後のような気持になる。そして、後悔する、これは、開けてはいけない箱だったのかもしれない。でも、もう元には戻せない。開けてしまったものは、きちんと責任を取らなくてはいけない。たとえ、どんな未来が待っていても。
「喧嘩したの? 先生と」
「喧嘩になるのかなぁ。でも、こればっかりはどうしようもないんだよね。二人だけの問題じゃないから」
「亜弓さん、まだ二階堂先生のこと好きなんじゃないの?」
二階堂先生がどう思っているのかはわからない。でも、亜弓さんが贈ったネクタイピンをまだ持っているということは、亜弓さんのことが嫌いになったさけではないと、捉えるのは早計だろうか?
それに、二階堂先生はこういったじゃないか。「行かない」ではなくて、「行けない」と。
先生自身は、会いたい気持ちがあるのかもしれない。でも、自分からは会うことが出来ない理由がある。
こうやって深く考えてしまうのは、考察するくせがついているからだろうか。ありとあらゆる可能性を考えて、潰していく。結果を求めて何度でも何度でも。
「朔ちゃん、いうようになったね。恋の力って恐ろしいねぇ、奏ちゃんに感化された?」
亜弓さんは答えをはぐらかそうとしてくる。否定しないってことは、そうだってことだろう?
「ごめん亜弓さん。僕、奥で片づけしてくる」
カウンターの中に入っていく僕の背中ごしに、声が聞こえた。
「朔ちゃん、ありがとうね」
「勝手に踏み荒らそうとしてごめん」
「ううん、吹振っ切らなきゃいけないの。もう三十過ぎたし、いい加減前を見て行かなきゃいけないのよ、私も」
亜弓さんの声は明るいのに言葉は泣いているように聞こえた。亜弓さんが新しい恋をしない理由は、過去の恋と決別できていないからだ。二階堂先生も、同じようなことを思っているのではないかという気がした。亜弓さんと同じように、決別できていないのだろう。大切な気持ちに。
僕自身、やらはければいけないことはたくさんある。実習も増えるし、試験科目も増える。奨学金の申請もしないといけない。試験に受かるといいんだけど。
奏さん、僕はこれ以上亜弓さんたちのことを考えている余裕はないかもしれないよ。
ただただ二階堂先生と研究をしていても、ロクな情報など得られない。奏さんになんていおうか。毎週楽しみにしていた土曜日が憂鬱になる日が来るとは思わなかった。
今日はクリーンベンチ内で無菌的な作業をしなくてはいけない。クリーンベンチとは無菌的な作業を行う装置で、机のような台を天井とガラスの壁で囲ったものである。作業中は、ベンチ内を陽圧に保ち、外から細菌やゴミが入らないようになっている大きな装置だ。僕はため息を吐く。マスクから漏れた息がガラスを白く曇らせた。
「おい、何でかいため息ついてんだよ」
向かい合っていた先生がガラス越しに声をかけてきた。先生が向かいに居ることに気が付いていなかった僕は盛大に驚く。薬液の入っていた試験管をクリーンベンチ内に落としてしまった。
「おい、何やってんだよ。集中できないならやめろ。今日はもう帰れ」
「すみません」
僕はこぼれてしまった薬液をふき取り、アルコールで消毒する。視線を上げると、先生がいつもと違う格好をしていることに気が付いた。白衣の下はいつものようによれたTシャツではなく、ワイシャツだった。ネクタイまで締めてある。
「先生、今日何かあるんですか?」
「あ? なんでだよ」
「ほら、ネクタイなんて締めているので何かあるのかと思って」
先生は面倒くさそうに「あぁ」と会得したような声を出した。
「大学時代の仲間方飲み会やるから来いっていわれたんだ。まともな格好して来いっていうから他に思いつかなかった」
「それ、コンパじゃないですか?」
「大学生じゃあるまいし、三十二にまでなってないだろ」
「そんなことないと思いますけど……」
そうか、先生は三十二歳だったなと思い出す。そういえば亜弓さんも今年で三十二歳になったはずだけど、こんな共通点では奏さんは納得しないだろうなと苦笑いした。同い年で、同じ大学。とはいえ、学部が違えば接点はない。部活やサークルが同じ……と考えが及んだが、園芸部に所属する二階堂先生は想像が出来なかった。
「先生、園芸部のOBじゃないですよね?」
「違ぇよ。生薬部」
「あはは、柄じゃないですね」
途端に先生は不機嫌そうな顔をした。いや、もとから機嫌のいい時なんかないんだけど。なんとなく、空気がピンと張りつめたような気がする。
どうにか話題をずらそうと、視線を泳がせると先生が付けているネクタイピンが目に入る。学会の時と同じものだ。ギザギザとした葉のような形の細工が付いている。再び既視感を感じた。この形を、どこかで……
「先生、そのタイピン、ヒイラギの葉に似てますね」
思い出した。亜弓さんが大切に育っているヒイラギの葉にそっくりだ。
「あぁ、これな。たしかそんなこといってたっけな。ほら、俺の名前が柊也だからって」
僕は学会のスライドで見た先生の名前を思い出す。先生の名前は「柊也」と書いたはずだ。この「柊」の字が、ヒイラギのことを指すのだと気にかけていなかった。先生も亜弓さんもこの学校の学生だった。
いやいや、まさかな。僕は自分の突飛な考えを一蹴しかける。でも、ここ一つ聞いてみてもいいのではないだろうか。奏さんもいっていたではないか、違えば違ったでいいと。これは、実験の段階だ。何度でも失敗していい。
「先生、僕の従姉のことを知ってますか?」
「おまえの従姉?」
「はい、浅海亜弓といいます。先生と同い年でうちの学校のOGだから、知ってるのかなって思って」
先生はクリーンベンチの中に視線を落した。右手で持っているマイクロピペットで、九十六穴ウェルプレートの穴一つ一つに丁寧に薬液を注いでいく。流れるようなその無駄のない動作に、僕は見入った。
「知ってるよ。学部違うけど」
あっさりと接点を見つけてしまった。僕の頭の中で小さくファンファーレが鳴る。良かった、奏さんも喜ぶ。奏さんは喜ぶかもしれないけど、亜弓さんは喜ぶかな。
「あの、僕のバイト先にいつか来てください。亜弓さんが経営しているカフェで働いているんです。隣が伯父さんの薬局になっていて……亜弓さんも、懐かしく思うだろうし」
遠慮がちに誘うと、向かいに座る二階堂先生は浮かない顔をしていた。
「おまえが何考えてるのか知らないけど、俺は行けないよ。悪いな」
先生は、そう吐き出すようにいったきり黙ってしまう。黙々と自分の作業を終え、クリーンベンチを後にした。
残された僕は自分の手元を見つめながら、奏さんの予想が正しかったのではないかと思い始める。
二階堂先生は学部の違う亜弓さんのことを知っていた。何関係があったはずだ。でも、それを暴くべきではない。先生は亜弓さんの名前を聞いて表情を曇らせた。カフェにも来てくれそうにない。はやり、僕たちが介入すべきではないのだろう。
もしかしたら今夜、二階堂先生は素敵な女性に出会うことになるかもしれない。そうなれば、亜弓さんの話なんて無用だ。むしろ出さない方が良いくらいかもしれない。
奏さんにきちんと話をしよう。これはたぶん、面白半分に首を突っ込むものじゃない。いや、面白半分に首を突っ込んでいたのは僕だけで、奏さんは真剣なんだろうけれど。
とにかく、僕たち手には負えない問題のような気がした。
研究を終えてバイト先に向かうと、亜弓さんがヒイラギの鉢植えをぼんやりと眺めていた。園芸部時代に温室で育てていたというヒイラギは、今年も白い花を咲かせるのだろう。
突然、ヒイラギの鉢植えに大きな意味があるような気がしてきた。亜弓さんは、どうしてあのヒイラギを大切にしているのだろう。いや、考えすぎだ。
「朔ちゃんお疲れ様」
僕を見つけて、亜弓さんはにっこりと微笑んだ。
「今年も咲きそうだね」
「うん、可愛いよね、ヒイラギの花って。ほら、セイヨウヒイラギの赤い実の方が有名でこっちの黒い実はマイナーだけどさ」
「そっか、なんか違和感があるなって思ってた。クリスマスに花屋で見かけるヒイラギって赤い実がついてるけど、あれって種類が違うのか」
僕の答えがおかしかったのか、亜弓さんはくすくすと笑い声を漏らした。その表情がどこか寂しそうだと感じるのは、僕だけだろうか。
「朔ちゃんも同じこというんだね」
「同じこと?」
「そう。なんか学生の時のこと思い出しちゃったな」
懐かしそうにヒイラギの葉を見つめる亜弓さんに、僕は聞かずにはいられなかった。あれだけ介入しない方が良いと思っているのに、亜弓さんの顔を見ていると、何かしないといけない気になってくる。僕の憶測かもしれないけれど、失敗する価値のあるものなら、僕は何度だって失敗する。
「ねぇ、亜弓さん。二階堂先生にヒイラギの形のネクタイピンあげたことある?」
亜弓さんは一瞬瞳を大きく見開いてから、懐かしそうに笑った。泣きそうな顔で。
「柊也君、まだ持ってるんだ。あれ」
消えそうな声でつぶやく。独り言のつもりなのだろう。
やっぱり亜弓さんも先生のことを知っていた。友達だったのかもしれない。いや、もしかしたらもっと親しい仲だったのかもしれない。手作りの贈り物を贈るような、名前で呼び合うような、親しい間柄。
僕は店内を見回る。お客さんは二組、おばあちゃんたちが楽しそうに話しに耽っている。
「やっぱり、知り合いだったのか。奏さんと気にしてたと言うか……」
「嫌だなぁ、二人ともお節介なんだから。柊也君とはなんでもないよ」
おかしそうに笑う亜弓さんの表情に、僕は陰を見つける。笑顔の中に、悲しい気持ちが隠れているように見えた。
「亜弓さん、先生と付き合ってたんじゃない?」
否定して欲しいという気持ちがあった。奏さんの予想を覆して欲しい。そうしたら、僕たちは何も気に病む必要がない。
「朔ちゃん、奏ちゃんの影響でストレートに物を聞くようになってきたね」
「そうなの?」
「惹かれ合うもの同士、似ちゃうのかなぁ」
なんて独り言をつぶやいた亜弓さんは、悲しい顔で笑った。
「昔ね、学生の時」
心の中で、やっぱりそうかと納得する自分がいた。中身のわからない箱の中を開けた後のような気持になる。そして、後悔する、これは、開けてはいけない箱だったのかもしれない。でも、もう元には戻せない。開けてしまったものは、きちんと責任を取らなくてはいけない。たとえ、どんな未来が待っていても。
「喧嘩したの? 先生と」
「喧嘩になるのかなぁ。でも、こればっかりはどうしようもないんだよね。二人だけの問題じゃないから」
「亜弓さん、まだ二階堂先生のこと好きなんじゃないの?」
二階堂先生がどう思っているのかはわからない。でも、亜弓さんが贈ったネクタイピンをまだ持っているということは、亜弓さんのことが嫌いになったさけではないと、捉えるのは早計だろうか?
それに、二階堂先生はこういったじゃないか。「行かない」ではなくて、「行けない」と。
先生自身は、会いたい気持ちがあるのかもしれない。でも、自分からは会うことが出来ない理由がある。
こうやって深く考えてしまうのは、考察するくせがついているからだろうか。ありとあらゆる可能性を考えて、潰していく。結果を求めて何度でも何度でも。
「朔ちゃん、いうようになったね。恋の力って恐ろしいねぇ、奏ちゃんに感化された?」
亜弓さんは答えをはぐらかそうとしてくる。否定しないってことは、そうだってことだろう?
「ごめん亜弓さん。僕、奥で片づけしてくる」
カウンターの中に入っていく僕の背中ごしに、声が聞こえた。
「朔ちゃん、ありがとうね」
「勝手に踏み荒らそうとしてごめん」
「ううん、吹振っ切らなきゃいけないの。もう三十過ぎたし、いい加減前を見て行かなきゃいけないのよ、私も」
亜弓さんの声は明るいのに言葉は泣いているように聞こえた。亜弓さんが新しい恋をしない理由は、過去の恋と決別できていないからだ。二階堂先生も、同じようなことを思っているのではないかという気がした。亜弓さんと同じように、決別できていないのだろう。大切な気持ちに。
僕自身、やらはければいけないことはたくさんある。実習も増えるし、試験科目も増える。奨学金の申請もしないといけない。試験に受かるといいんだけど。
奏さん、僕はこれ以上亜弓さんたちのことを考えている余裕はないかもしれないよ。



