夜、家に帰ると、ネクタイを引っ張り出してきてタイピンを付けてみた。羽の付いたピンは個性的だけど派手ではなく、僕の好みにも合っている。何より奏さんが僕のために作ってくれたという事実が嬉しかった。
初めての学会に緊張する気持ちの方が強いけれど、楽しみな気持ちもある。そもそも先生について見に行くだけなのだ、僕が緊張する必要はない。僕はネクタイピンを大切に机の中にしまった。
長い長い夏休みが終わって久しぶりに講義棟の教室に入ると、大地が机の上で伸びていた。僕は隣に腰かけ、骨が抜けたように突っ伏している大地に声をかける。
「おはよ、久しぶり」
「おー悠朔じゃねぇか。おはよ」
「久しぶりの早起きで疲れてんだろ?」
目の下にクマが出来ている。大地のことだ、徹夜でゲームでもしていたのだろう。
「そういえばさ、おまえ最近彼女ができただろ」
机に突っ伏していた大地は水を得た魚のような目で僕を見る。
「できてない」
「嘘つけ、学校終わってから女の子と一緒に帰ってるの見たぞ。あえて声を掛けなかったんだ、感謝しろよ」
どうやら奏さんと二人でカフェアザミに行っているところを見られたのだろう。
「バイト先まで一緒に行っただけだ、彼女とかじゃない」
「なんだ、つまんねぇ。バイト先一緒? おまえまだあそこでバイトしてんの?」
「そ、伯父さんの薬局の隣のカフェ」
「あれな! ばあちゃんたちの憩いの場! 一年の時にクラスのやつらと行っておまえの伯父さんにこっぴどく叱られたんだよなぁ」
「男五人で騒いだからだ」
一年生の春、大地を含むクラスメイトが五人連れ立ってカフェに来てくれたことがある。亜弓さんも交えて盛り上がって話していたら、薬局から伯父さんが飛んできて怒鳴られた。
「静かにしろ! ってね。おっかなかったー。あれ以来行きにくくなっちゃってさ。美人のお姉さん元気?」
「亜弓さん? 元気元気、また来いよ」
「亜弓さんまだ結婚してないの?」
「なんでおまえが気にするんだよ」
「万年彼女募集中なんです。美人のお姉様大歓迎です」
大地がそういい終えたところでチャイムが鳴った。白髪の教授が教壇に立って呪文を唱えるような抑揚でしゃべり始める。隣の席からはすぐに鼾が聞こえてきた。
十月に入ると暑さがわずかに遠のき、吹き抜ける風からは秋の匂いがしてきた。半袖で過ごすのが当たり前だったのがつい先日までのこと。
今日は長袖のスーツに身を包んでも暑さを感じないほどに涼しい。過ごしやすい季節になったものだ。
「ごめんなラッテ、今日は遊んでやれないんだ」
僕は足元にまとわりつくラッテに謝る。洗面所の鏡に向かってネクタイを結ぶと、奏さんからもらったネクタイピンを付けた。スーツに着られている感はまだまだ否めないが、入学式の時よりもだいぶ様になったような気がする。年を取ってしまったということだろうか。いやいや、一年半しか経ってないから。
ラッテの引き取り先はまだ決まっていなかった。どうにか母さんを説得して、この家で飼えるように出来ないだろうかと考え始めている。僕も、もうラッテに会うことが出来ないとなると寂しくてたまらなかった。別れは辛すぎる。二階堂先生の言葉が身にしみた。
「行ってきます!」
履きなれない革靴に足を差し込み、僕は家を出た。秋晴れの空だ。鰯が群れを成すように浮かぶ雲が遥か高くに見える。
みなとみらいにあるパシフィコ横浜までは地下鉄と電車と乗り継ぎ、結局二時間近くかかった。家を早めに出てよかった。会場の前では、スーツを着た二階堂先生が立っていた。いつもの無精ひげはきちんと剃られ、ぼさぼさの髪の毛もちゃんと整えられている。なにより汚らしい白衣ではなく、パリッとしたスーツに身を包んでいるので一瞬誰だか分らなかった。思った通り、先生はきちんと小綺麗にしたら格好良かった。
「遅れずに来たな」
「電車混んでました。休みの日だから舐めていましたよ」
「行くぞ」
先生の付けている藍色のネクタイの上で、金色のネクタイピンが光った。なんだか変わった形をしている。
「先生それおしゃれですね」
奏さんにタイピンをプレゼントされたこともあり、僕は先生が身に着けているネクタイピンも気になった。
「あ? それって、これのことか?」
先生は視線を下げて自分のネクタイを見る。一瞬、表情が陰ったように見えた。
「どこで買ったんですか?」
「これは貰い物だ」
葉っぱのような形をしている。このギザギザの葉は何という植物だったか……どこかで見たことがあるような気がする。どこだったっけ。
「ほら、行くぞ。知り合いに会ったら紹介してやるからしゃんとしてろ」
僕は颯爽と会場の中に入っていく先生の後ろを慌てて追いかけた。
先生について研究成果のスライド発表やポスター発表を見ていると、胸の奥がざわざわとしてきた。このまま学部生で卒業したくないという意思が心の奥底で固まってくる。
「先生は学部生の時に就職とか考えませんでしたか?」
休憩時間、僕は隣の席で配布されたお弁当を食べる先生に尋ねる。
「考えたよ。一瞬だけ。でも俺は研究がしたかったから。就職するにしても製薬会社の研究部門しかないって思ってた」
「研究、好きなんですね」
普段の適当さからは考えられないほど、先生は研究熱心だ。ひたむきに自分の研究にのめり込む姿を尊敬している。でも、先生は僕の問いかけに首を捻った。
「好きっていうのとは違うかもな。俺のなかにはさ、強迫観念みたいなものがあるんだよ。っておい、笑うなよ」
「笑ってませんよ。でも、先生が何かに追われてるなんて意外です」
僕は弁当の中で一番豪華なおかずであるチキンカツを頬張った。
「でもまぁ、時乃先生に研究室に入って、俺のやりたいことは間違ってないかもって思ったから研究してこられたっていうのもあるかもな」
「そういえば先輩でしたね、二階堂先輩」
「気持ちの悪い呼び方すんな」
いや、割としっくりくるけどな。
「先生、博士号はどこで取ったんですか?」
「博士からつい最近まで中国の大学に行ってた。時乃先生の友達の教授んとこで世話になって博士号もそっちでとってさ、先生に呼ばれて急遽こっちに戻って来たんだよな」
「知りませんでした」
「いってねぇからな」
先生も僕と同じようにこの学校で学部生をやっていたことがある。そう思ったら、より親近感がわいた。
初めての学会に緊張する気持ちの方が強いけれど、楽しみな気持ちもある。そもそも先生について見に行くだけなのだ、僕が緊張する必要はない。僕はネクタイピンを大切に机の中にしまった。
長い長い夏休みが終わって久しぶりに講義棟の教室に入ると、大地が机の上で伸びていた。僕は隣に腰かけ、骨が抜けたように突っ伏している大地に声をかける。
「おはよ、久しぶり」
「おー悠朔じゃねぇか。おはよ」
「久しぶりの早起きで疲れてんだろ?」
目の下にクマが出来ている。大地のことだ、徹夜でゲームでもしていたのだろう。
「そういえばさ、おまえ最近彼女ができただろ」
机に突っ伏していた大地は水を得た魚のような目で僕を見る。
「できてない」
「嘘つけ、学校終わってから女の子と一緒に帰ってるの見たぞ。あえて声を掛けなかったんだ、感謝しろよ」
どうやら奏さんと二人でカフェアザミに行っているところを見られたのだろう。
「バイト先まで一緒に行っただけだ、彼女とかじゃない」
「なんだ、つまんねぇ。バイト先一緒? おまえまだあそこでバイトしてんの?」
「そ、伯父さんの薬局の隣のカフェ」
「あれな! ばあちゃんたちの憩いの場! 一年の時にクラスのやつらと行っておまえの伯父さんにこっぴどく叱られたんだよなぁ」
「男五人で騒いだからだ」
一年生の春、大地を含むクラスメイトが五人連れ立ってカフェに来てくれたことがある。亜弓さんも交えて盛り上がって話していたら、薬局から伯父さんが飛んできて怒鳴られた。
「静かにしろ! ってね。おっかなかったー。あれ以来行きにくくなっちゃってさ。美人のお姉さん元気?」
「亜弓さん? 元気元気、また来いよ」
「亜弓さんまだ結婚してないの?」
「なんでおまえが気にするんだよ」
「万年彼女募集中なんです。美人のお姉様大歓迎です」
大地がそういい終えたところでチャイムが鳴った。白髪の教授が教壇に立って呪文を唱えるような抑揚でしゃべり始める。隣の席からはすぐに鼾が聞こえてきた。
十月に入ると暑さがわずかに遠のき、吹き抜ける風からは秋の匂いがしてきた。半袖で過ごすのが当たり前だったのがつい先日までのこと。
今日は長袖のスーツに身を包んでも暑さを感じないほどに涼しい。過ごしやすい季節になったものだ。
「ごめんなラッテ、今日は遊んでやれないんだ」
僕は足元にまとわりつくラッテに謝る。洗面所の鏡に向かってネクタイを結ぶと、奏さんからもらったネクタイピンを付けた。スーツに着られている感はまだまだ否めないが、入学式の時よりもだいぶ様になったような気がする。年を取ってしまったということだろうか。いやいや、一年半しか経ってないから。
ラッテの引き取り先はまだ決まっていなかった。どうにか母さんを説得して、この家で飼えるように出来ないだろうかと考え始めている。僕も、もうラッテに会うことが出来ないとなると寂しくてたまらなかった。別れは辛すぎる。二階堂先生の言葉が身にしみた。
「行ってきます!」
履きなれない革靴に足を差し込み、僕は家を出た。秋晴れの空だ。鰯が群れを成すように浮かぶ雲が遥か高くに見える。
みなとみらいにあるパシフィコ横浜までは地下鉄と電車と乗り継ぎ、結局二時間近くかかった。家を早めに出てよかった。会場の前では、スーツを着た二階堂先生が立っていた。いつもの無精ひげはきちんと剃られ、ぼさぼさの髪の毛もちゃんと整えられている。なにより汚らしい白衣ではなく、パリッとしたスーツに身を包んでいるので一瞬誰だか分らなかった。思った通り、先生はきちんと小綺麗にしたら格好良かった。
「遅れずに来たな」
「電車混んでました。休みの日だから舐めていましたよ」
「行くぞ」
先生の付けている藍色のネクタイの上で、金色のネクタイピンが光った。なんだか変わった形をしている。
「先生それおしゃれですね」
奏さんにタイピンをプレゼントされたこともあり、僕は先生が身に着けているネクタイピンも気になった。
「あ? それって、これのことか?」
先生は視線を下げて自分のネクタイを見る。一瞬、表情が陰ったように見えた。
「どこで買ったんですか?」
「これは貰い物だ」
葉っぱのような形をしている。このギザギザの葉は何という植物だったか……どこかで見たことがあるような気がする。どこだったっけ。
「ほら、行くぞ。知り合いに会ったら紹介してやるからしゃんとしてろ」
僕は颯爽と会場の中に入っていく先生の後ろを慌てて追いかけた。
先生について研究成果のスライド発表やポスター発表を見ていると、胸の奥がざわざわとしてきた。このまま学部生で卒業したくないという意思が心の奥底で固まってくる。
「先生は学部生の時に就職とか考えませんでしたか?」
休憩時間、僕は隣の席で配布されたお弁当を食べる先生に尋ねる。
「考えたよ。一瞬だけ。でも俺は研究がしたかったから。就職するにしても製薬会社の研究部門しかないって思ってた」
「研究、好きなんですね」
普段の適当さからは考えられないほど、先生は研究熱心だ。ひたむきに自分の研究にのめり込む姿を尊敬している。でも、先生は僕の問いかけに首を捻った。
「好きっていうのとは違うかもな。俺のなかにはさ、強迫観念みたいなものがあるんだよ。っておい、笑うなよ」
「笑ってませんよ。でも、先生が何かに追われてるなんて意外です」
僕は弁当の中で一番豪華なおかずであるチキンカツを頬張った。
「でもまぁ、時乃先生に研究室に入って、俺のやりたいことは間違ってないかもって思ったから研究してこられたっていうのもあるかもな」
「そういえば先輩でしたね、二階堂先輩」
「気持ちの悪い呼び方すんな」
いや、割としっくりくるけどな。
「先生、博士号はどこで取ったんですか?」
「博士からつい最近まで中国の大学に行ってた。時乃先生の友達の教授んとこで世話になって博士号もそっちでとってさ、先生に呼ばれて急遽こっちに戻って来たんだよな」
「知りませんでした」
「いってねぇからな」
先生も僕と同じようにこの学校で学部生をやっていたことがある。そう思ったら、より親近感がわいた。



