その日は全国的に大雨で、僕の住む町でも、遥か北の地でも、冷たい雨が降ったという。

 世界中が、泣いているような気がした。まるで、僕を責めるように。

 忘れるな、おまえは、人殺しなんだ、って。

 しとしとと、誰かが泣いているような雨の音が聞こえる。雨の降る日は苦手だ。嘆くようなその音を聞くと、僕はいつだって死にたくなる。

 世界から酸素を奪われたような息苦しさを感じて僕は目を覚ました。嫌な夢を見ていたのだろう。空調をきかせていたというのに酷い汗をかいている。口の中に塩気を感じたのは夢の世界の名残ではなく、汗が原因のようだ。窓の外では花を散らす雨が降っている。しとしと、しとしとと、ゆっくりと首を絞めるような穏やかさをもって、雨が世界に降り注ぐ。

 月曜日に降る雨ほど憂鬱なものを僕は他に思い浮かべることができない。

 いいようのない気まり悪さがあった。天気など、自分の力ではどうにもできないのだからと割り切るしかないのだけれど。

 ベッドから這い出して下の階に降りると、母が昨年亡くなった祖母の仏壇に供え物をしている。その小さな背を一瞥してから、僕は体にこびりついた汗を剥がすために風呂場に入る。

 深呼吸をしてから蛇口をひねると、寝起きの体を起こすような熱い湯が飛び出してきた。浴びるのが湯ならばそう構えることもないはずなのに、まとわりつくような水の感触に、背筋を冷たいものが走る。僕はまだ、水へ恐怖を拭い去ることができない。

 僕の体は襲い掛かってくるような水の冷たさを鮮明に覚えている。あれから八年も経ったというのに。

 時計を気にしつつ身支度を済ませ、家を出たのは七時を少し回っていた。

 急がなければ電車に間に合わなくなる。僕は勤勉に雨粒を落す曇天を見上げてから大きなため息を吐いた。バサリと翼を広げるように傘を開くと、放たれた矢のように駆けていく。

 駅構内はいつも以上に混んでいた。生憎の天気で公共交通機関を使うことを余儀なくされる人が増えるからだろう。雨の日特有の湿気に満ちた臭いが鼻をつく。苦手な匂いだ。
 僕は意を決して人の流れにのり、階段を駆け下りる。

 規則正しい足取りで階段を降り、最後の一段に足を置いた時のことだ。小さな悲鳴の後、僕の視界の端に、異様な速さで落下していく影が映る。次の瞬間、どんっと鈍い衝撃が僕を襲った。誰かが階段を踏み外したのだと脳が認識したときには、僕は反射的にその人を抱きとめていた。

 頭の中に、ザザっと波の引くような音が響く。

「あ、ありがとうございます」

 腕の中にすっぽりと納まっていたその人が僕の顔を見上げてくる。僕とそう年の変わらない女の子だった。艶やかな長い髪が構内の白い光を反射している。

「大丈夫でしたか?」
「はい、あなたのおかげで」

 僕は女の子がにこりと微笑んだことに安堵した。どうやら怪我はしていないらしい。

「反射的に体が動いただけです。ちゃんと支えられて良かった」
「雨なのでレインブーツを履いてきたのですが、濡れない代わりに滑りやすくて……」

 女の子は恥ずかしそうに視線を落とした。僕もつられて下を見る。紺色のワンピースからすらりと伸びた足には、ミントブルーの爽やかなレインブーツを履いていた。ビニール素材のブーツは濡れた構内では滑りやすそうに見えた。

「助かりました、本当にありがとうございました。あなたは怪我などしませんでしたか?」

 僕が「大丈夫」と頷くと、彼女は「良かった」と微笑んだ。

 恥ずかしさからか、わずかに頬を赤く染めた彼女は笑顔を見せる。それからぺこりと会釈をして歩き去った。

 背中から舌打ちが聞こえた。その耳障りな音で、往来の邪魔になっていることにようやく気が付いた僕は僅かに駆け足になる。

 ヘッドライトのまぶしい光で雨粒を照らしながらやってきた電車は案の定満員だった。その密度を更に上げるように、ホームに並んでいた人々は紙縒りのように細くした体を捻じ込んでいく。

 その光景に嫌気がさした僕は、はじき出されたビー玉のようにすっと列を外れた。その瞬間、一限目はサボろうと決断する。

 電車が走り去った後、僕は空っぽになった線路を見つめた。十分後、快速電車がここを通る。その時にここに飛び降りたら――

 もう、何度そんな葛藤と戦ったことだろうか。意気地のない僕は、まだ白線を越えられない。

 一歩足を踏み出して線を超える。一歩、また一歩。あと、一歩のところで呼吸をして視線をホームに戻した。誰か、僕を見張る人がいないか探すために。

 閑散としたホームには僕の他にもう一人取り残された人がいた。先ほど僕が抱きとめた女の子だと気が付いて、僕は思わず白線の内側に戻る。彼女の笑顔が、頭をよぎったから。

 二番ホームに来る電車は行き先が一つしかない。彼女も僕と同じように、あの車内の人口密度に嫌気がさしたのだろう。彼女は僕に気が付く様子はなく、屋根のつなぎ目から滝のように落ちる水をじっと見つめていた。

 その音の激しさを聞いて、僕が駅にたどり着いた時よりも雨足が速まっていることに初めて気が付いた。

 僕が不躾に彼女をじっと見つめてると、はっとこちらを振り向いた。思わず目が合ってしまう。
 もしかしたら、僕の視線に気がついたのかもしれない。
 僕は急に恥ずかしくなり、咄嗟に視線を反らせた。自分でもあまりに不自然な行動だと思うが仕方がない。
 気を悪くしていたらどうしようと後から不安になる。
 
「先ほどはありがとうございました。あの、乗らなかったんですか?」

 彼女は僕を見つけるとためらいもなく声をかけてきた。その声音を聞いて、僕は安堵した。気分を害した様子はない。

「はい、あまりにひどい混みようだったから乗る気が失せてしまって」
「私もです。眩暈がしそうでした。それに――」

 言葉を切って彼女は視線を上げる。むき出しになった線路の上は、細長く切り取られた灰色の空が顔を覗かせていた。

「雨の音を聞きたくて」
「雨?」

 あまりに突飛なことを言いだすので僕は思わずオウム返しになる。

「君は雨の音が好きなの?」
「いいえ、そういうわけではないのだけど……。むしろ雨の音は苦手なのです。聞いていると心が落ち着かなくて。でも、なぜか突然、何か大切なものが降ってくるような気がして……。おかしいですよね、いつもはこんなこと思いませんよ。こんなことは今日が初めてです」

 僕は何と答えたらいいかわからずに、「そうですか」と曖昧に相槌を打った。電光掲示板に映し出された発車時刻は二十分先だ。次の電車を待つ間、僕と彼女は色の褪せたベンチに腰かけて、ぽつりぽつりと降り始めの雨ような会話をする。彼女はいつも一本早い電車に乗っているらしい。今日は乗り換えがうまくいかなかったのだと教えてくれた。

「もしかして同じ大学ですか?」

 彼女がそう弾むような声を出したのは、ちょうど僕が一限目に組み込まれている口うるさい教授の授業をサボるつもりだという言葉を発した時だ。僕が大学名を述べると彼女の目は一層輝きを増したような気さえした。

「その先生、知っていますよ! サークルの友達から聞いて耳を疑いました。今時、出席用紙を配って回収するなんて、年号を二つくらい遡った気分になりますよね。何のためのICチップ付きの生徒証なんだって思いませんか? 生まれる前の世界に迷い込んでしまったのではないかと錯覚を起こしそうです」
「出席だけじゃなくて提出するレポートまで手書きなんだよ。僕は字が汚いから、この前は再提出を食らって大変な目に遭ったよ、思い出しただけで寒気がする」

 僕は本当に寒気がして、ぶるると体を震わせた。いつも隣に座っている大地が気を利かせて僕の分の出席用紙も書いておいてくれないかと思ったけれど、この天気だったら大地のやつもサボっているような気がした。

いくらか言葉のキャッチボールをしているうちに、彼女が僕と同じ大学の一つ下の学年ということがわかった。学部は農学部だそうだ。僕の所属する薬学部とは校舎が異なる。

「私、天野奏(あまのかなで)といいます」

 天野奏さん。彼女の履くミントブルーのレインブーツのように爽やかな名前だ。僕もつい数年前から名乗りだした二つ目の名前を名乗る。

「僕は浅海(あざみ)|です。薬学部の二年生」
「薬学部ですかぁ、すごい! どんなことをやるんですか?」
「大したことないよ。まだ基礎しかやらないし。あ、でも部活の方はちょっと楽しいかもしれません」

 話していると、あっという間に次の電車が来る。ホームに流れ込んできた電車は少し空いていた。僕と天野さんは冷たい空気の噴き出す車両に揺られる。窓の外の景色が川のように流れ過ぎていく。

 駅から大学までは徒歩で十五分ほど、桜並木を抜けると、広いキャンバスに続く石造りの正門が見えてくる。門くぐると、天野さんは「では」と軽く会釈をして僕の向かう校舎とは反対方向に歩いて行った。学年も学部も違えば学校が違うようなものだ。サークルが同じだとか、そういう横の糸が通っていないと知るわけがない。

 わざわざ一本早く乗るような甲斐性は僕にはない。僕には凪いだ海のようになにもない日々が戻ってきた。広いキャンパスだから、天野さんのことはちらりとも見かけない。あの出会いは白昼夢だったのかもしれないと、彼女のことは記憶の彼方に片づけられてしまった。