君と僕のタイムラプス

【答え合わせ】

 夢を見た。あの日の夢を。
 これは、走馬灯だろうか。
 ひとつひとつコマ送りのように、鮮明に記憶が蘇る。
「ねぇ直人くんは未来と過去どっちに行きたい?」
 十七歳の秋。
 僕が一番信頼している幼馴染の大翔。
 僕が初めて恋をした女の子の美羽。
 時計の針は動いているのに、時が止まったかのような。三人だけの空間。
「うーん。……二人はどうなの?」
 繰り返すような歴史。
 同じような言葉を僕は紡ぐ。
 懐かしいのに、どこか最近のことに感じる。
「俺は過去だな。赤点取る前に戻ってテスト勉強する」
 ……大翔。本当は違うよね。
 本当は過去に戻って、美羽とやり直したい。
 僕と美羽が出会わなければ、美羽は大翔を選ぶ。
 だから、過去を選んだんだよね。
「そう思うなら今から勉強すれば?」
「……美羽、正論言うなよ」
 美羽と同じ笑顔で笑う大翔。
 僕は、そんな大翔がいつだって眩しかったよ。
「じゃあ、美羽は?」
「私は未来。好きな人と結婚して、子供と幸せな家庭を築くのが夢だから!」
「アホみたいな夢だな」
「失礼! 素敵な夢の間違いでしょ」
 ううん。美羽の夢は叶うよ。
 大翔のお嫁さんになる。子供もいて、幸せな家庭を築く。幸せに暮らす。
 僕が犠牲になれば、全てが叶うんだ。
「「で、直人(くん)はどっち?」」
 いつか見た夢のような現実の答え合わせ。
 十年前に出した僕の答え。
「……僕は、今が一番幸せ。だから、今がいい」
 そう。あの日、僕が出した答えは「今」だ。
 だって、あの時の日々は輝いていた。
 ずっと、あのままでいたかった。
 楽しかった。幸せだった。
 このまま、時が止まって戻ることも、前に進むこともなければいいと思った。
 なんでそんな大事なことを、僕は忘れていたのだろう。

    ***

 気がつけば、真っ白い箱の中。
 頭が、痛い。
 うっすらと目を開けるとそこには眩しい光景が広がっていた。
 ……あれ、死んでない?
 僕は、生きてる?
 心電図モニターが一定のリズムで時を刻む。
「直人くん……?」
 ベッドの傍らには泣き腫らした美羽がいた。
 僕を掴む美羽の手は震えていた。ギュッと美羽の手を繋ぎ返す。
 僕の顔を見た美羽から再び大きな雫が流れ落ちた。
「直人くん! ずっと寝込んでて……もう二度と目、覚ましてくれないかと思ったよ……!」
「美羽……」
 美羽の痛そうな頬のガーゼに触れる。
 顔の傷、残らないかな。
「痛いよ、直人くん」
 ふふ、と美羽は笑う。
 これは、現実? 夢?
「ごめん、美羽」
 ごめん、で済むわけがない。
 でも、今の僕はそれ以上に確認しなければならない。
 僕は間違いなく飛び込んだ。
 死んだ、はず……なのに。これは都合のいい夢だろうか。
「ううん、生きててくれるだけでいいよ。よかった。生きててくれて……!」
 無傷、とはいかないけれど。僕は骨折と擦過傷。それと、脳震盪で倒れたようだ。
 意識を失ったからか、念の為に今日は検査入院。
 問題なければ明日には退院できるらしい。
 美羽は顔の傷と腕に軽い擦過傷。傷は残らずに、治るらしい。
 僕は、犠牲を生むことなく未来を変えられたのだろうか。
 急に怖くなって、指先が震えた。
「あのときの子供は、無事……?」
 恐る恐る美羽に聞く。どうか、お願いだ。
 大丈夫であってほしい。
 美羽の表情から、深刻な状況では無さそうだと察した。
「うん、無事だよ」
 ホッとした。全部、終わったんだ。
 僕は救えたんだ。守れた。大事な人を。
 未来を変えられた。
 それなのに、美羽は浮かない顔をする。
 ヒヤリと嫌な予感がした。
 背筋が凍るような感覚。
「何か、あったの?」
 聞いたら、ダメだと思う。なのに、知らないといけない。
 僕は美羽の言葉を待った。
 そして、美羽がゆっくり口を動かした。
「大翔くんが、……亡くなったの」
 僕は凍りついたかのように身体が動かなかった。
 美羽の言葉が信じられない。
 なんで、大翔が……? そんなの、嘘だ。
 大翔は美羽と結婚して、結ばれて、幸せになる。……なのに。
 目眩、吐気、頭痛。
 心電図モニターのアラームが鳴る。
「直人くんは、意識なかったから覚えてないと思うけど、昨日の事故……実はね、大翔くんが、直人くんを庇って……」
 いや、僕は微かだけど確かに覚えてる。
 誰かが大声で僕の名前を叫んだ。
 それと同時に、あの日のように背中を押されたような気がした。
 あれは、大翔の声だった。
 どうして、僕は……いつもいつも幸せにならなければならない人の人生を奪う。
「うわあああああああああああッ!」
 僕は二度も親友を殺した。
 なにも救えていない。
 大翔はいつでも僕を応援してくれたのに。
 大翔の好きな人を奪うだけじゃない。
 僕は、二度も大翔の命を奪った。
 この時間は、もう、二度と戻らない。
 進んでしまった時間は巻き戻らない。
「直人くん、直人くん……! 私はっ! 直人くんが生きててくれて、よかったよ……!」
 ずっと堪えていたのだろう。
 ついに、美羽も泣き出してしまった。
「ごめん。ごめん、美羽……っ」
 美羽の左手の薬指には輝くシルバーのリング。
 それが、幸せを壊した僕の心をより痛みつけた。
 ……大翔。僕まだ君に聞きたいことが沢山あるよ。
 病室の窓から見える青い晴天が赤色のグラデーションを作り出す。
 その空に一つ瞬く星が見えた。



【真実】

 あのあと、気づいたら美羽は僕の傍らで寝ていた。
 美羽は僕の何倍も疲れているのだろう。
「……と……くん」
 美羽が寝言を呟く。
 僕の名前なのか大翔の名前なのかわからない。
 僕は美羽の涙を拭った。
 そして、起こさないようにそっと美羽の肩に毛布をかけて病室を出た。
 向かう場所は、決めていた。
 僕は点滴を引いて、屋上へ向かう。
 扉が開いてるかは賭けだったけど、思ったより簡単に扉は開いた。
 広がっていたのは、いつしか見た景色に似ていた。
 残照が僕を照らす。
 まだ時期じゃないのに、頭上に満月が登る。
 だいぶ暗くなり始めた空には小さな星たちが散りばめられている。
 まるで時が止まったような不思議な感覚だった。
 僕は視界の奥。テラス席に向かった。

『……来ると思った。久しぶりだね』
 そこにいる少年は先月会って以来。
 身長も顔も少年のまま、彼は歳をとることがなかった。
「僕は、守れなかった。大翔は僕の背中を押して応援してくれた。僕に何度も声をかけてくれた。なのに、僕はずっと自分のことばかりだった。大翔の気持ち、知ってたのに。罰が当たったのかな。美羽を幸せにできるのは、大翔だ。僕が、未来を変えたから……? どうして、どうして僕が生きて、大翔が死ななきゃいけないんだ……!」
 少年は何も言わずに佇んでいる。
 顔色ひとつ変えない。
「僕には生きる資格なんてない。……死ぬべきは僕だった。なんのために時間を戻したんだ! 僕は、何も出来ない! 何も変われてない!」
 それでも、少年は何も言わない。微動だにもしない。
「…………」
 無慈悲に少年は僕を見る。
 その姿に呆れたのか、ため息をついて僕を見た。
『言いたいことはそれだけ?』
 やっと口を開いたと思えば、その言葉に僕はカッとなって少年を睨みつけた。
『はは、そうそう。できるじゃん、その顔だよ』
 空のグラデーションが夜へと誘う。
 星たちが、さっきよりも鮮明に瞬く。
『君は救えたんだよ。一番大事な人は、君のそばにいる。そうでしょう?』
 その言葉に僕は美羽のことを思い浮かべた。
 確かに、僕は美羽を守った。
「それだけじゃ、ダメなんだよ……」
 本来、美羽が結ばれるべきは、僕じゃなくて大翔だから。
「お願いだ、なんでもする。だから、一週間前でいい。もう一度、過去に戻して欲しい」
 真っ直ぐ少年を見つめる。
 僕の覚悟は揺るがない。
 もう一度、時を戻してやり直す。そしたら、今度こそ僕が犠牲になる。
『それはできない』
 解っていた。なのに、僕の希望は打ち砕かれた。
 救えなかった僕が悪い。
 悔しい。大翔を救えない自分が。何も出来ない愚かな自分が。
 時間は巻戻らない。
 それは、嫌という程知っているはずなのに、どうしようもない非力な僕は懲りなく他人に助けを求めてばかりだ。
『仮に戻したとして、君はどうするの?』
「今度こそ、救ってみせる。二人の幸せを壊したりなんてしない!」
 前に僕は美羽と大翔を失った。僕だけが生き残った。
 で、その先はどうする?
 ……未来なんてない。繰り返す絶望の日々。僕には何が出来る?
 これから先、美羽にはあの時と同じ想いをさせてしまう。
 そんなの、絶対にごめんだ。
『二回目の願いは契約違反だ』
「どうにかならないの?」
『結論から言うと、代償さえ払えばできるよ。ただし、代償の価値は高い。願いを叶えた途端、その人の一番大切なものを奪うんだ。価値は人によって違う。でも、君は使わない方がいい。君が一番大切なもの……僕は知ってる』
 僕が必死に守りたかったもの。
 それは、ひとつしかない。
 ……それだけは、ダメだ。
 僕は、どうしたらいいんだ。その答えが見つからない。
『そんな顔しないでよ。君には必要のない話だからさ』
「……なに? どういう意味?」
 少年は無邪気だ。子供のように微笑む。
 悪戯好きな子供の顔。今はその笑顔すら、憎たらしくも思ってしまう。
『君は一つ目の願いすら叶えてないんだよ』
 僕が一度も願いを叶えていない?
「何言ってるの? 僕は、十年前に戻ったよ」
『うん、そうだね。君はたしかに戻ったよ。でも、その願いは君のものじゃない』
 何を言っているのかさっぱりわからない。
 僕には理解ができなかった。
「もう一度、時間を戻せるってこと?」
『結論から言うとそう。だけど、本当に君はそれでいいの?』
「だから、そうしてって言っ……」
『もしも、ここが″本来の在るべき現実″だったとしても?』
 少年はいつしかのような嘘のない瞳で、大人びた顔をした。
 凛々しくて嘘のない、吸い込まれそうなくらい綺麗な瞳。
「……どういう意味?」
『本来あるべき現実に戻っただけ。君が十年前に見てきた世界は″大翔が願った世界″だよ』
 首を傾げる僕に少年は答える。
『まだわからない? 僕がなんで君の前に現れたのか。なんで十年前に戻ったのか。そして、なんで大翔が自殺したのか』
「それは、美羽のお腹の中の子供がいたから……」
『それは、違うよ。大翔は美羽のお腹に子供がいるのは知ってたはずだ。夫の大翔が美羽の体調に気づかないわけがない。これなら、君にでもわかる? 大翔は十年前の秋に、真っ白の手紙の中にいる僕を見つけて契約した。
″直人と自分の人生を入れ替えたい″
それが、大翔の願いだった』
「え……? 入れ、替え……た?」
『おかしいと思わなかった?君は美羽と付き合っていたのに別れた記憶はない。どうやって別れたのか覚えてもいない。そして、気づいたら大翔と美羽が付き合っていた。普通、ショックな出来事って次は同じ過ちを繰り返さないために記憶していると思うんだよ。でも、直人は全く覚えていない』
 ゆっくり星々が交互に瞬く。
 満月に月暈がかかる。虹色のリングは僕と少年をスポットライトのように照らした。
『もう気づいてるでしょ? あの日、君が十年前に戻ることは必然だったんだ。契約書を交わさなくても、君は十年前というピンポイントの過去に戻った。それは、大翔の願いだったからだ。
あの日、美羽が死んだ日。霊安室で君と別れたあと、ここで大翔は僕に言ったよ。
「俺が美羽と直人の未来を奪った」って。かなり思い詰めてた。後悔してた。
契約は一度しかできない。二回目は、契約違反だ。代償が生じる。
大翔の代償は魂を捧げること。即ち「死」を意味する。でも、ただ死ぬだけじゃないよ。
この世に生命が生まれることから生きた記憶すべて、死んでから綺麗さっぱり存在ごと消える。
誰からも思い出して貰えず、無の世界でずーっと孤独ってことだよ。そんなの、しんどいだけだからね。僕だってするつもりはなかった。でも、大翔は何度も僕に頼んできた。後悔しないか聞いたら、迷いなんてなかったよ。大翔は本当にしつこい。あんなしつこい人間、初めて見たよ。だから僕も折れたんだ。
 僕は代償を引き換えに二度目の契約をした。くっだらない願いなら僕がその人生ごとめちゃくちゃにしてやろうと思ったよ。でも、その願いは……
「″元の世界に戻して欲しい″」だったよ。
これは、大翔が選んでしたことだ。迷うことなく、彼自身が犠牲になる覚悟を決めてたよ。大丈夫。そしたら、一回目の願いは上書きされる。文字通り、もうすぐ命を懸けて戻した大翔の願いが叶う。君の記憶からも大翔の存在は綺麗さっぱり消えるよ』
 大翔は、どんな思いで僕を見ていたのだろう。
 ずっと苦しんでいたのだろうか。
 十年、僕だって辛くて苦しかった。
 それを大翔は僕の倍の時間……二十年、この気持ちを一人で抱え込んで生きてきた。
『そして、もうひとつ。君が願ったのは大翔の願い。君が使うべき契約書は僕が持ってる。僕は大翔に「直人の願いを叶えて欲しい」って頼まれて、君に会いに来た。これは願いじゃなくて、頼みだったよ。直人が酷い人間だったら叶えるつもりなんて無かったけど、君は大翔と同じで、誰かを救うために自分が犠牲になる覚悟を持っていた。だから僕は君の願いを叶えるよ。
この有効期限は僕が大翔と契約した時間まで。今日の満月の夜明けまでだ。この契約が終わったら、僕も元の世界に戻る。君の記憶から、いなくなる。君が願うならまた時を戻せるよ。さあ、決めて。直人。
もしも、ひとつだけ。願い事がなんでも叶うとしたら君は何を願う?』
 いつの間にか赤色の空が消えていた。
 僕と少年の頭上には、鮮やかな紫色の空。
 そして、散りばめられた宝石のような無数の星々が煌めく。
「僕は……」
 その瞬間、ひとつだけ流れ星が落ちた。
 そんな気がした。 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
  
【僕の願い】

 あの日から、僕にとっては二度目の霊安室だった。
「大翔……」
 目の前の大翔の遺体を見て息が詰まる。
 エンゼルケアというのだろうか。
 大翔の顔は綺麗に清拭されていた後だった。それでもガーゼに収まらないくらい腫れ上がったおでこの傷は、見ていて痛々しかった。
『もう一度言う。今度こそは直人。君の契約だよ』
 どこかで聞いたことのある契約前の注意事項を説明される。
 ずいぶん昔のことのはずなのに、つい最近聞いたような言葉だった。
 僕は契約書に震えながらも願い事を書いた。
『時間が来るまで、あともう少し。君の記憶からも大翔は消える。君は苦しまなくて済むんだよ。……本当に、その願いでいいの?』
 少年の問いに僕は静かに頷いて、血印を押す。
「うん。僕は、僕の願いは変わらないよ。僕は……″大翔と話がしたい″」
 目を閉じて、大翔と話せることを心から信じる。
 すると、天から大翔の声が聞こえてきた。
『直人、そんな辛気臭ぇ顔すんなよ』
 徐々に大翔の幻影が見える。
「大翔!」
 幽霊みたいに透けていて、白い陽炎のようにゆらゆら揺れて大翔らしきシルエットが見える。
『はは、ひでぇ顔。美羽の前でそんな顔すんなよ?』
「ごめん、僕……」
『だから、謝んなって。俺、直人の人生奪ってズルしてるからさ。だから、なんも言えないって言うか、当然のことしただけっていうか。
これは、俺の罪償いなんだよ。こうやって、償えたから俺は後悔してない。……というか、むしろ奪ってごめん。お前にばっかりしんどい思いさせてごめんな。元に戻っただけ。だから、お前は何も気にすんな』
 僕は首を横に振った。
『契約してからの十年は俺にとって苦しい十年だった。病院の屋上で直人を見るの、しんどかった。俺は結局、自分の幸せしか見てなかったんだ。最低な人間だ。美羽が、ずっと直人のこと好きなの知ってた。俺が入り込む隙間なんてないことも。
……前に披露宴来てくれた時あったろ。お前のスピーチ聞いた時にはビックリしたわ。僕も美羽が好きでしたとか初恋でしたとか、本当に今更だなって思ったけど、最後は俺たちの幸せ願ってくれたよな。俺、そんなに心広くないからさ。心から俺たちの幸せ願える余裕のある直人が羨ましかった。
美羽も謝りながら嬉しいって泣き出すし。それ見て……俺、本当はすごく苦しかった。
お前、スピーチ終わってすぐ逃げ出したろ。あのあと、美羽が俺に何も言わずに追いかけたんだよ。俺には何も出来なかったよ、一生を誓う約束したのにな。結局、俺は美羽の心に一ミリも居なかった』
「美羽はちゃんと大翔のこと好きだったよ。僕は振られたんだ。じゃなきゃ二度も結婚なんてしない。美羽に必要なのは大翔だ。僕じゃない!」
『直人、違うんだ。俺は最初の契約の時も今回も、美羽に一度も好きって言って貰ったことがない。美羽はずっと「直人くんに会いたい」「直人くんが好き」って言ってたよ。俺は何度も何度も振られた。それなのに、俺は美羽に無理を言ったんだ。たくさん傷つけて、酷いことをした。最低な人間だ。二番目でも良かった。俺には美羽を振り向かせる自信があった。幸せにできると思ったよ。でも、美羽は直人以外見てなかった。
俺、直人が美羽と別れた時、ムカついたけど心のどこかで安心した。だから、今度こそ美羽は俺が幸せにしようと思った。美羽も、俺を選んでくれると思った。でも結局、美羽は俺なんて見てなかった。
俺は居なくなるくせに自分の幸せを選ぼうとしたんだ。そんな最低な奴、罰が当たって当然だよな』
「大翔……」
『直人。お前はすごいよ。二回も迷いなく飛び込んだ。そして、救ったんだ。好きな人を守れたんだよ。
正直言うと、俺は飛び込んだとき、すごく怖かった。命かけてビビらずに飛び込んだお前はかっこいいよ。誰にでも出来ることじゃない』
「そんなことない! 結局、僕は二回とも生きてしまった……僕は何も守れてないッ!」
『……なあ、直人。美羽がさ、なんで飛び込んだかわかるか?』
「そんなの、わかんないよ」
『俺、美羽に聞いたことあるんだよ。もし交通事故で子供が跳ねられそうなら美羽はどうする?って。そしたら、美羽は迷いなく助けるって一択だったよ。「自分が死ぬとしても?」って聞いたら、美羽のやつ……笑いながら言うんだよ。「直人くんならそうすると思うから。もし、直人くんが飛び込んだ時は私が助けるよ」って。あいつ、こうなることなんて何も知らないはずなのにな』
 だんだん、大翔の声が弱くなる。
 もうすぐ会えなくなる時間が近づいてるってわかる。
『お前といる美羽は、悔しいくらい……どんな瞬間よりも嬉しそうで、俺の一番好きな顔で笑うんだ。……もう時間が無い。美羽が直人しか見てないってこと、俺はもう痛いくらい知ってる。だから、美羽を頼む。美羽の夢を叶えられるのはお前だけだ。お前にしかできない』
「でも、大翔……僕は!」
 遠ざかっていく。
 大翔の声が、どんどん遠くなる。
『俺、美羽のことが大好きだよ。でも、同じくらい直人のことも大事なんだ。
だから、お前にならいい。……美羽のこと幸せにしてやってくれ』
″未来と過去、どっちに行きたい?″
 あの日、大翔は「過去」を選んだ。
 それは美羽と僕の仲を割くためじゃない。
 過去をやり直すためなんかじゃない。
 大翔だけが幸せになるためなんかじゃない。
 僕と美羽のことを誰よりも知ってて、誰よりも応援してくれたのは大翔だ。
 そんな大翔が過去を選んだのは、きっと。
″未来に大翔がいないから″
 だから、もう一度、過去に戻ったんだ。
 なのに、なのに僕は……!
 僕はずっと、なにも大翔に恩返しできない。
 そのまま、二度と会えない。
「嫌、だ……」
 この世から消えることを大翔が許さない。
 僕は美羽を置いていけない。
『行けよ、直人が戻ってこなくても俺はここにいるから』
 嫌だ、嫌だよ。僕には、まだ君が必要だよ。
 いつだって、僕を導いてくれる。
 君は僕のヒーローだった。

 中学二年の頃。
 僕の見た目が地味だからと派手なクラスメイトから、バカにされていた。
 最初は僕も笑って過ごしていた。
 それが、日に日に暴言に変わった。
 僕はやめてくれと言った。でも、やめてなんてくれない。
 わかってる。彼らはただ面白がって言ってることくらい。
 でも、僕にだって限界があるんだよ。
 何もかもどうでも良くなって、苦笑いしてやり過ごして、僕はもう諦めていた。
 あともう少し遅かったら僕の心の糸が切れていたかもしれない。
 そんな僕を助けてくれたのが、大翔だった。
 誰も傷つけることなく僕を守ってくれた。
 眩しかった。憧れだった。
 僕にとって大翔は誰よりもカッコイイヒーローだ。それは昔も、今も。

『大丈夫。お前にならできるよ』
 大翔はいつでも、背中を押してくれる。
 なのに僕は、まだ君になにも恩返しできてない。
 君からもらってばかりでなにも返せてない。
「僕には、無理だ」
 もう完全に大翔の声が聞こえなくなった。
 しんとした霊安室は不気味だった。
 ねえ、お願いだ。起きて、大翔。
「僕は美羽を傷つけたんだ。……君が思っている以上に酷いことを言ったよ」
 届かないとわかってる。
 わかってても、僕はここを離れることはできなかった。
「今更……僕が、美羽の隣にいる資格なんて、ないよ……」
 大翔と話してから、どれくらいの時間が過ぎただろう。
 泣いて、泣いて、泣き疲れた。
『行かないの?』
 静寂を切り裂くように少年の声が聞こえた。
 僕の後ろにいる。
『どれだけ泣いても戻ってこないよ』
 彼からの現実的な言葉が僕の心に棘のように刺さる。
 わかってる。頭ではわかってる。
 でも、それでも大翔が起きていつもみたいに挨拶してくれるんじゃないかって希望を持ってしまうんだ。
 そうならいいと願ってしまう。
「……怖いんだよ。僕なんかがまた、美羽のそばに居てもいいのかって」
『はあ、いい加減にしてくんない?』
 ため息混じりに少年は呆れていた。
「じゃあ、どうすればいいんだ!」
 僕はいつだって答えを求める。
『簡単だよ』
 僕の心なんてお構い無しに冷静に少年が話を続ける。
『大翔の言葉を信じて、今を生きればいい』
 少年は大翔に似ていて、真っ直ぐだった。
『美羽はずっと直人を見てたよ』
「でも、僕は……美羽を一度見捨てた」
『人は、過去に囚われてばかりじゃ進めない。直人が戻ってきたのは″やり直す″ためでしょ?』
 吸い込まれそうな嘘のない瞳。
 ああ、だからか。
 だから、大翔に似ていると思ったのか。
 君だったんだね。ずっと僕のそばにいてくれたんだね。
『″今″をちゃんと選べ。そうすれば、美羽も救われる』
「……ありがとう」
『わかったなら、もういいよ。君との契約は終わり。僕もそろそろ行かないと。僕が消えれば、すぐに君の記憶から僕も消える』
 少年は遠くを見つめた。
 その目線の先に見ていたのは、きっと……未来だ。
「ねえ、最後にひとつ教えてくれない?」
『なに?』
「ずっと聞きたかったんだよね、君の名前」
 無慈悲だった少年は一度、目を見開いて驚いた顔をした。
『……ない』
 答えを待っていたのに、思わぬ回答がきて、僕は呆気にとられた。
『だから、名前なんて無いんだって』
「え? ないの?」
『うん』
 不思議な少年と思った彼はどこか寂しそうだった。
「そしたら、僕がつけてあげるよ」
『直人が? ……ふふ、それは面白いね。ありがとう。でも、今は時間が無いから今度会った時にゆっくり聞かせてよ』
 ゆっくりと少年の身体が透ける。
「また、会えるの……?」
『どうだろうね』
 微笑む君は悪戯な子供の顔でも大人な顔でもない。人間らしい顔をしていた。
 君に出会ってから、色んなことがあった。
 不思議体験といえば、そうだろう。
 僕は少年の姿を目に焼き付ける。
「″また君に出会えますように″」
 僕は願い続けた。
 君のこと、大翔のこと。
『あはは。なにそれ』
「……僕の、未来への願い事」
 少年が微笑む。
 その顔は、やっぱり大翔に似ていた。
『うん。きっと会えるよ、楽しみにしてる』
 ゆっくり目を閉じて、彼を信じた。
 心の中で、願い事を強く唱える。
 大翔が僕に″未来″をくれた。
 たとえ、記憶が消えたとしても。
 この先もずっと、ずっと。永遠に。
 僕は絶対に忘れない。
 再び僕が目を開けた時には、少年の姿はなかった。



















【名前】

 気づいたら僕は一人で霊安室にいた。
 普段の僕なら気味悪いと思うかもしれないけど、不思議と心は温かかった。
 外から誰かが泣いてるような雨音が聞こえた。
「……会いに行かなきゃ」
 僕はその足で病室に戻った。
 事故にあったことを美羽は相当心配してくれたからか、泣きながら僕に抱きついた。
「直人くん……」
 温かい。聞こえる胸の鼓動。
「美羽、聞いてほしい」
 緊張する。許してもらえるなんて思ってない。
「僕は、美羽に酷いことをした。取り返しのつかない言葉を言った」
 その事実は、変えられないこと。
 でも、今言わなければもう二度と戻れないと思った。
「うん、知ってるよ。私を守ろうとしてくれたんだよね」
 美羽が笑う。
 僕の言いたいことを全て見透かして受け入れてくれる優しい瞳だ。
「僕は……ずっとずっと」
 震える声。心臓が飛び出しそうで、逃げ出したくなる。
 振られたら、拒絶されたら、そう思うと怖い。僕は今まで美羽にどれだけ傷つけてきたんだろう。
『大丈夫、お前にならできるよ』
 ふと、雨音が優しく僕の心に降り注ぐ。
 どこからか誰かに背中を押された気がした。
 その瞬間、すごく喉が、心が、軽くなった気がした。
 美羽を真っ直ぐみる。
 優しい笑顔、その笑顔につられて僕も微笑んだ。
「僕は、美羽のことが好きだ」
 喉に突っかかったものが取れたみたいに、僕の言葉は美羽に届いた。
 だって、ほら。
「遅いよ……馬鹿」
 美羽の頬に涙が伝う。
 それはすごく綺麗な涙だった。
 雨が降っていた。細かい粒が、静かに地面を叩く。
 近くて遠い距離。鼓動の音だけが、やけにうるさく感じる。
「結婚って、誰かに守ってもらうためにするものだと思ってた」
 ぽつりと、美羽が言った。
「でも違った。自分の弱さも、強さも、過去も未来も。全部を受け入れて、前に進むためにするんだって、直人くんと出会って思ったの」
 どこか遠くを眺めながら、彼女の声は風に溶けていく。
「私は強くなんかない。今でも、何かあるたびに不安になるし、逃げたくなる。でも……それでも進もうと思えたのは、直人くんとなら大丈夫だって、心から思えたからだよ」
 僕は、美羽の手をそっと握った。
 指先が少し冷えていた。それでも、その手には確かな温もりがあった。
「……美羽」
 声に出すだけで、心が震えた。
 彼女がこちらを向く。睫毛の先に光る雨粒が、涙にも見えた。
「僕は、本当はずっと怖かった。誰かを好きになることも、また失うことも……でも、美羽を好きになったとき、それでもいいって思えた」
 雨音がすべてを包み込む中、僕は絞り出すように言葉を続けた。
「僕、美羽がいない未来なんて考えられない。……だから」
 言葉が詰まる。けれど、視線は逸らさなかった。
「僕と結婚してください。僕とこの先もずっと生きていてほしい」
 一瞬、時が止まったようだった。
 美羽の目が見開かれ、すぐに潤む。唇が震えて、声にならないまま何度も瞬いた。
「うん……うん、……っ、直人くんがいい……直人くん以外、考えられないよ……! こちらこそよろしくお願いします……っ!」
 その一言にすべてが報われた気がした。
 雨は止んでいなかったけれど、僕の心には、確かに光が差していた。
「私ね、十年前に直人くんに出会って恋をして、すごく幸せだったの」
 美羽が優しい声でゆっくりと語る。
 静まり返った病室に雨音が響く。
「生きるのってしんどい。でも、生きててよかった。そう思えたのは直人くんのお陰だよ。私、直人くんがいるから、今ここにいるんだよ」
 美羽と目が合う。
 僕の大好きな真っ直ぐな眼差し。
 強くて、明るい、僕を照らす未来の瞳。
「努力するの苦手だったけど、直人くんが応援してくれたから頑張れた。それで、保育士になったの。何度も挫けそうになったけど、直人くんのお陰で少しだけ強くなれたの」
 美羽の優しい温かい気持ちが伝わる。
 降り注ぐ雨のように、僕の心を潤して、満たす。
「直人くんと別れてから、たくさん楽しいこともあったし、同じくらい辛いこともあったよ。でもね、直人くんのこと好きって気持ちは変わってない」
 真っ直ぐな瞳が僕だけを見る。
「直人くんが困って笑う顔も、振られた時の声も、優しい言葉も、全部全部今でも覚えてる。どうしても、忘れられないの」
 美羽の言葉を聞いて、胸が張り裂けそうなくらい苦しかった。
 ごめん、僕は沢山美羽を傷つけた。
 謝りたいのに僕は嗚咽で言葉が出なかった。
「直人くんに抱きしめられた腕が好き。ずっと直人くんの面影を探してた。同じものを求めたけど、直人くんと同じ人なんて今まで誰一人いなかった」
 雨音は乾いた僕の心を溢れるほどに満たしていく。
 きっと、止むことを忘れたんだ。
 雨音に乗せて、美羽は言葉を続けた。
「ずっと会いたかった」
 美羽が微笑む。今にも泣きそうな笑顔。僕に向けられた愛のこもった笑顔。
 僕の誰よりも愛しい人。
「二番目でもいいなんて、嘘だよ。私だけ見て欲しい。そのためなら何度、傷ついてもいい。ずっと直人くんと一緒にいたいの。それくらい私は直人くんが好きだよ」
 どうして僕は美羽の真っ直ぐな気持ちから逃げてきたのだろう。
 美羽には嘘ひとつない。
 僕の大好きな瞳。
 その瞳の中にいるのは、僕だけだった。
「大好き……直人くん、大好きだよ。ずっと側にいて。お願い、私を一人にしないで」
 強く強く美羽が僕を抱きしめた。
 その腕からどこにもいかないで、と伝わってくる。
 僕も包むように優しく美羽を抱きしめた。
「うん。たくさん傷つけて、ごめんね。ずっと離さないよ。この先も一緒にいよう。今度こそ、約束するよ」
 そして、そっと溢れた気持ちを伝えるために美羽にキスを落とした。
 その瞬間、僕の止まった時計の針は、ゆっくりと……確実に動き出した。

    ***

 あれから半年後。時は巡って、春。
 日々はあっという間で校門の前に並ぶ桜が、もう淡く咲き始めている。
「はい。今日はこれで終わりです」
 晴れて担任という肩書きを貰い、教師の仕事にも慣れてきた。
 今までなにかに囚われて、自分のやりたいことを言えなかった。
 じゃあ僕に何ができるのかって、ずっと自分に問い続けた。
 特別優秀なわけでもない。誰かを救える技術を持ってるわけではない。
 でも、大事なことを伝えるために僕はここにいる。
″誰かの未来を守る″
 それが今の僕がしたいこと。
 自分のことでいっぱいいっぱいで周りなんて見えてなかったあの頃の僕には、考えられなかった景色だ。
 今でも夜にふと思い出すことがある。
 夢物語だったような、誰かの人生を生きていたような。でも、温かくて僕はちゃんと今ここにいると言える。
 僕はようやく、前に進めた気がする。
「みんな、気をつけて帰るように」
「先生、さようなら」
 挨拶できる今日がある。誰かに会うことが出来る。
「さようなら」
 その日々がどれだけ幸せなのか、僕は知ってしまったから。
 満月もいずれ、満ち欠け新月になる。
 繰り返す日々。その中で見つける宝物。
 僕は今日を生きている。
 今、目の前にある未来のために、僕はここにいる。
 子供たちを見送りながら、手を振っているとポケットに入れていた携帯が震えた。
 ……美羽だ。
 僕は胸の奥がギュッとして、ドキドキしながら携帯を見る。
 その文章を目でなぞり、僕は教室を飛び出した。
 行かなきゃ! 早く!
 僕は足早に退勤し、美羽の元に向かった。

 ***

 さっきまで雨が降っていたのだろうか。
 アスファルトが湿って、花たちが歌う。
 空にかかる虹のアーチを踊るようにスキップして超える。
 まるで、世界が喜んでるみたいだ。
 すると突然、僕の幸せな世界を壊すように甲高いクラクションが鳴る。その瞬間、僕の世界がゆっくり動く感覚。
 耳を塞ぎたくなるほど響く、心の底から危険を知らせる音。
 この音の先に何が起こるのか僕は知ってる。
 すぐ隣の道路に乗用車が勢いよく小さな女の子に突っ込もうとしている。
 迷ってる暇なんてなかった。
 考えるよりも先に僕の足は動いた。
 今、なにかしなければ後悔すると思ったから。
「危ない……ッ!」
 ヘッドライトの光が瞳を灼く。耳の奥で心臓が爆音で鳴る。
 肺に吸い込む空気がやけに冷たい。
 ダメだ……! 間に合わない!
 そう思った時、一瞬、映像のように脳裏に光景が過ぎる。
『諦めるな、直人!』
 どこからともなく聞こえたその声に、背中を押された感覚が走る。
 瞬間、身体がふわりと軽くなった気がした。
 僕は力いっぱい踏み込み、向かいの歩道に飛び込んだ。
 キキィィィィィ!!
 耳の奥まで残るくらい、ブレーキ音が後方で響く。
 僕の心臓はバクバクと音を立てる。
 なぜだろう。誰かが守ってくれたみたいな、不思議な感覚。
 知っているのに、知らない。
 でも、またどこかで会えるような気がする。
「うわああああああああん、ごめんなさい……っ」
 抱えた子供が泣きながらパニックになってる。僕は優しく頭を撫でた。
 いつしか迷子になって泣いている美羽にしたみたいだ。
「もう大丈夫だよ、怪我は無い?」
「……うん」
「そっか、よかった」
 遠くから母親が彼女の名前を呼んで駆け寄り、抱きしめた。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます」
 誰かにとって、大事な人。
 僕は救えることを誇りに思う。
「……ありがとう」
 母親の袖に捕まりながら小さい声で僕にお礼を言った。
「怪我がなくてよかった、気をつけてね」
 僕は手を振ると女の子は照れながら手を振った。
 その笑顔に僕の方が救われた。
 去っていく姿を見送り、僕も手を振り返した。
 ……守れて、よかった。
 さて、僕も行かなきゃ。
 そう思って歩き出した時、右足に違和感を覚えた。
 初めて体験するはずなのに、どこか知ってるようなデジャブを感じる。
 ……痛い。
 ズキンズキンと痛みを増していく。
 早く、行かなきゃいけないのに。
「お兄さん、足痛いの?」
 去っていったと思った女の子が足早に戻ってきて、僕の顔色を窺う。
 どこか、美羽が見せたような無邪気な瞳。
「あー、うん。でも大丈夫だよ」
 幼い女の子に気を使わせてしまった。
 僕は精一杯、笑ってみせる。
「痛いのは、我慢したらダメだよ。あとからどんどん痛くなるから。待ってて。私のパパね、お医者さんなの」
 そう言って連れてきてくれたのは大柄の男性で、すぐに診てもらった。
「ごめんね、ちょっと触るよ……これは多分、骨折だね。今は痛みは無いかもしれないけどこれから腫れて来ると思う。車でうちの病院まで運ぼう。ちょっと待っててね」
 手際よく判断するその男性を見ていると、どこか懐かしい雰囲気で心が温かくなる。
「……ありがとうございます」
 僕はいつも誰かに助けられてばかりで、助けられているからこそ生きていると実感した。

 ***

「おぎゃあ、おぎゃあ!」
 僕の診察が終わったあと、松葉杖をついて産婦人科のある病棟へと向かった。
 病院の窓から見える満開の桜が舞う。
 今日は特別な記念日。
 未来の新しい命が産まれた。
「元気な男の子ですよ」
 助産師さんから取り上げられた小さな生命は、ここにいるよと訴えるように一生懸命泣いていた。
「可愛いねぇ」
「うん、可愛い」
 僕と妻の美羽。僕たちは一生を誓った。
 あの日のような晴天が僕たちを祝福する。
 小鳥たちは歌い、周囲の花たちも朝を告げるように開花する。
「それと、直人くん。私、 直人くんが事故にあったって聞いて怖かったんだから」
「ごめんごめん。でもほら、僕は無事だからさ」
「生きててくれてよかったよ。そのままいなくなってたらって思うと今でも怖い。……でも、誰かを助けるなんて直人くんらしいなって思ったの。いつも自分以外の誰かのために頑張る人だから」
「…………」
「直人くんが周りの人を助けるところも大好きなの。だからね、私が直人くんのこと大事にする。直人くんが危険なことしたら私が守るからね」
 周りには人がいて、物音もするのに、全てが雑音のように聞こえてる。
「ありがとう、美羽。でも、それは僕の役目だ。僕は命をかけてでも美羽を守りたい」
「それなら先に直人くんが死んだら、一生恨むからね」
 なのに、まるで世界が僕たちしかいないかのような、そんな不思議な空間に陥った感覚。
 懐かしいような、ずっと続いて欲しい。
 そう思うような幸せな世界。
「あ……見て、てんとう虫!」
 窓の外にてんとう虫が留まる。
 僕はなんだか胸がぎゅっと締め付けられるような懐かしい気持ちになる。
「てんとう虫ってね、幸せを運んでくれるんだって」
 優しい笑顔で美羽が微笑む。
「なんだか、私たちを見守ってくれてる気がするね」
 美羽がふと笑う。
 その横顔を、僕はそっと見つめた。
「ねえ、直人くん」
 振り向いた美羽と僕の目が合う。
 優しく僕に美羽が笑いかける。
「私、今が一番幸せ」
 美羽が新しい命を抱えて笑う。
 僕の大好きな、愛しい笑顔。
 僕はもう一人じゃないから。
 美羽も、君も。守ってみせるよ。
「僕も、今が一番幸せだよ」
 僕たちが出会った日のように木々から木漏れ日が差した。
 そこから、虹の波紋が乱反射する。
「この子の名前、決めてたりする?」
 美羽が僕に問いかける。
 ざぁっと、外で桜吹雪が舞った。
 室内だから外の風なんて届かないはずなのに、僕の背中に暖かい風が当たる。
 それがなんだか背中を押されてるようで心地よかった。
『美羽のこと幸せにしてくれて、ありがとな』
 どこからともなく、懐かしい声が聞こえた。
 ……うん。僕、君のおかげで幸せだよ。
 君が守ってくれたから、僕たちの今日がある。
 産まれてきてくれて、ありがとう。
 また会えて嬉しいよ。
(ひろ)
 僕と美羽を繋いでくれた。
 そして、君には大きい世界に羽ばたいて欲しい。
 いつだって、僕と美羽の明日を守ってくれる。君はヒーローだから。
 もしかしたら、昔見た僕の夢だったかもしれない。
 でも、夢でもいいよ。
 僕はまた君に出逢えた。
『また君に出会えますように』
 僕は、願い続けたよ。
 ずっと、会いたかったよ。
『うん。きっと会えるよ、楽しみにしてる』
 やっと、会えたね。
「産まれてきてくれて、ありがとう」
 これ以上に喜ばしい日は、きっと他にない。

 名前は誰もが最初に贈られるプレゼント。
 僕は君から貰った贈り物を恩返ししていくよ。

 僕は今日というこの日をカメラロールに収めた。
 これからは家族三人で、カメラロールの続きをアルバムに収めていく。

 この穏やかな日常は、これから特別な毎日になるだろう。

 明日があること。
 それは当たり前じゃない。
 だから、僕は後悔のない毎日を生きてゆく。
 君がくれた今日に後悔を残さないように。

 どんなことがあっても、僕らは、もっと遠くまで行くよ。

 この先も、ずっとずっと。
 「過去」でも「未来」でもない。

 僕は「今」を生きることを選び続ける。