【タイムリープ】

「ねぇ直人くんは未来と過去どっちに行きたい?」

 最近、どこかで聞いたような聞いていないような。心地いいような懐かしい言葉。
 鼻をくすぐる懐かしいにおい。
 石けんのような、どこか甘い校舎の匂い。
 遠くから、吹奏楽部の練習音が聞こえる。
 目を開けると、眩しいオレンジ色の光が僕の目に飛び込む。そこは見覚えのある教室だった。
 夕日に照らされた窓際。黒板の前に張り出された、今月の当番表。薄いチョークの粉。
 床に落ちたプリント、半分空いたカーテン。
 全部、知ってる。見たことがある。
 ゆっくりと顔を上げると美羽がいた。
 肌に触れる制服の生地も、まるで昨日まで着ていたかのように馴染んでいた。
 だけど、明らかに違った。
 僕の心臓はこれまで感じたことのないほど、早く脈打っていた。
 向かいの席の美羽が笑っている。
 十年前と変わらない、でも……思い出の中よりも、もっと鮮やかに。
 僕たち三人が夕日に照らされた教室の中。
 音はあるのに、空間だけが止まってる。
 そんな、不思議な感覚。
「うーん。……二人はどうなの?」
 同じことを繰り返している気がする。でも、確かめずにはいられなかった。
「俺は過去だな。赤点取る前に戻ってテスト勉強する」
 デジャブってやつだろうか。
 僕はこの会話の続きを知ってる気がする。
「そう思うなら今から勉強すれば?」
「……美羽、正論言うなよ」
 制服姿の大翔を久々に見た。
 僕から見てもカッコいいと思うほど、着崩した制服が似合っていた。
「じゃあ、美羽は?」
「私は未来。好きな人と結婚して、子供と幸せな家庭を築くのが夢だから!」
「アホみたいな夢だな」
「失礼! 素敵な夢の間違いでしょ」
 微笑ましく二人の会話を聞き流す。
 大翔がふざけて、美羽が呆れて、僕が笑う。
 やっぱりそうだ。
 これは、僕が十七歳の頃に見ていた景色。
 美羽と大翔は、ここにいる。
 その当たり前だった時間がどれほど貴重だったのか僕はもう知ってしまっている。
「で、直人(くん)はどっち?」」
 同時にハモる美羽と大翔。
 同じ表情をする二人に、僕の心が一瞬だけ悲鳴をあげた。
「僕は……」
 黙ったまま二人を交互に見つめた。
 大翔、美羽。二人が生きてる。夢じゃない。これは現実。
 もう二度と会えるなんて思ってなかった。
 それだけで、嬉しかった。
 僕の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「ちょっと直人くん?」
「直人、どうした!」
 僕の肩にそっと手を添える大翔と、僕の顔を覗き込んで心配してくれる美羽。
 涙がこぼれたのは、嬉しいからだけじゃない。
 十年前に戻れた。僕の願いは叶った。
 これは、やり直すための「奇跡」なんだ。
 絶対に無駄にはできない。
 大丈夫。
 今度こそ、僕が二人のことを守ってみせるよ。

「……ごめん、二人とも」
 いい歳した二十七歳の大人が、十歳も年下の二人に慰められるなんて恥ずかしい。
「いいって。直人のことだしなんかあったんだろ。無理に話さなくていいから、直人の言いたい時がきたら教えてくれ。……な?」
 大翔は昔からずっと、変わらず優しい。
「うん、ありがとう」
 外見だけじゃなくて、内面も余裕があってカッコいい。
 大翔が人気者っていうのも、誰もが納得する。
「あー、やべ。俺、部活行ってくるわ!」
 時間を確認して慌てて教室を出ようとする大翔。
「あれ。大翔、今日部活ないって言ってなかったっけ?」
「おい美羽、言わせんじゃねえ。赤点取ったからって個人的に顧問に呼ばれたんだよ!」
「あ、納得」
「ああもう、帰宅部はお気楽でいいな!」
 じゃ、またなって大翔はウインクしながら教室を颯爽と去っていった。
 教室には僕と美羽。二人だけになった。
「直人くん、本当に大丈夫?」
「うん。ごめんね、ありがとう」
 夕日は沈み、群青の空が広がる。
 そこに、光る一等星。
「大翔と私ならともかく。直人くんが赤点取るなんて珍しいもんね、そりゃ泣くほど辛いよね」
 いや、違う意味で泣いたんだけど。
 美羽と大翔に会えたのが嬉しくて。なんて伝えても、僕が変人扱いされるだけだ。
 そういうことにしておこう。
「ふふ。いつもの直人くんだ。よかった、大丈夫そうだね」
 中身は二十七歳のいい歳した大人なんだから、僕がしっかりしないと。
 美羽の言葉に頷くと「一緒に帰ろう」と言ってくれた。
 教室を出るとき、美羽が笑顔で振り返った。
「えへへ。正直いうと、私は直人くんと二人で帰れるのすごく嬉しいんだ〜」
 ドキッとした。結婚式の美羽が笑ったあの笑顔と重なった。
 美羽が僕の手を取る。
「えぇ! ちょっと美羽!」
 美羽は僕の手を取ったまま指を絡めた。所謂、恋人繋ぎってやつだ。
 二十七歳になっても、僕は美羽以外と手を繋いだことは無い。
 耐性がなくて緊張してしまう。
「私たち付き合ってから二人で一緒に帰ったこと無かったよね。これが初デートだね」
 キュンと胸の内側がじんわりと温かくなると同時にズキンと心が傷んだ。
 その痛みが僕を現実へと叩きつける。

 目を閉じれば、当時の十七歳の美羽と付き合った日を思い出せる。
 脳裏に焼き付いて、一生忘れられない。忘れることなんてできない。
「直人くんが好きです」
 教室の隅っこ。今日みたいな帰る前だった。
 美羽は機械みたいにカチコチに緊張していて、裏返って震えた声だった。
 僕は何が起きたのか理解できず、思考も身体も固まっていた。
 美羽の手が震えてて、今にも泣きそうだった。その姿を見て、少しだけ冷静になる。
 ……返事、しないと。
 手に汗を握り、美羽を見つめた。
 そしたら美羽は、真っ直ぐ僕を見てくれた。
「私と、付き合ってください」
 精一杯、僕に気持ちを伝えてくれた。
 すごくすごく、嬉しかった。
「ぼ、僕なんかで、よかったら!」
 僕は照れながら、その場で返事した。
 そうして、僕は美羽と付き合った。

 今はきっと美羽と付き合ってから二週間くらい。
 僕がここに戻ってきた意味を考える。
 やり直すのは、美羽を幸せにするためだ。
 僕は美羽と別れて、大翔と美羽の恋を実らせる。
 だから、二人の未来に僕の存在は必要ない。
 僕は美羽の手を解いて離した。
「直人くん……?」
 怒ってもいい。恨んでくれてもいい。
 でも、僕は君たちの前から消える。
 一緒にいたら、ダメなんだ。悲しませたくないから。
 残された側の気持ちが僕にはわかるから。
 そっちの方が辛いよ、苦しいよ。
「ごめん。帰ろっか、送ってくよ」
 この日、僕が美羽の手を握ることはなかった。


















【ダブルデート】

 学校のチャイムが鳴る。この音すらも懐かしい。
 この音色に心地よく耳を傾けるのは、今この学校で僕くらいだろう。
「なぁ、大翔どこいるか知らね?」
 隣にいた男子生徒から話しかけられる。
 名前すら出てこない同級生。
 えっと、田中だっけ。山田だっけ。
 こんな人もいたなぁ……確か、大翔の友達の一人だ。
 当時は笑って話したりしてたけど、連絡先すら知らない。
「ごめん、わからない」
 そう答えても、彼は話を続けた。
「大翔に、このあとの英文の教科書借りようと思ってたのに。いつもどこか行くんだよなぁ」
 あれ、この人同じクラスじゃなかったっけ。
 僕の記憶が薄れてるからかな。
「おい鈴木。大翔なんて″これ″に決まってんだろ」
 ああそうだ、鈴木だ。
 僕の代わりに隣にいたクラスメイトが答える。
「うわ、女かよ」
「大翔のやつ、羨ましいよな!」
「生まれ変わるなら大翔みたいなモテ男になりてぇ、彼女欲しぃ〜」
 男でも羨む存在。大翔になりたい、は僕以外にも思う人は多いだろう。
 話が盛り上がってるところを抜けて、僕は人気の少ないところを目指した。
「あ、君! 廊下は走らない!」
 当時、煩わしいと思っていた教師でさえ、今思えば正論だ。
 先生にだって、また会えるなんて思ってもいなかった。
「あ、はいっ! すみません」
 どのときも、どの瞬間も大人になったからわかる。
 だからこそ、僕は……早く美羽と別れるべきなんだ。
 早い方がいい。頭ではわかってる。
 確実に僕と別れる方法。
 そんなこと考えていたら無意識に屋上にきてた。
「よっ、直人! 遅かったな」
 ああ、そうだった。大翔はいつもここにいた。
「大翔のこと友達が探してたよ」
 僕は大翔の隣に座っておにぎりを袋から開けた。
 大翔は友達が多いのに対して、僕は限りなく少ない。
 この場所を先に見つけたのは、僕だ。
 なのにいつからか、大翔がここに来るようになった。
「あー鈴木だろ。あいつ、いつも教科書忘れてくるんだよな」
「あ、うん。その人」
 僕がおにぎりをひと口かじる。
 その姿を見た大翔が僕を見つめてきた。
「なに?」
 あまりにガン見されるもんだからさすがの僕でも視線に気づく。
「直人って、今年のバレンタインチョコ貰ったのって二個だっけ?」
「ちょっと待って。何の話? 言わせないでよ、毎年ゼロだよ」
「おいおい! 直人の母さんと俺があげた分はしっかりカウントしろよ!」
「母さんはノーカンだし、大翔のは消費に付き合わされただけじゃん」
「うわ、あの中には俺が駄菓子屋で買ったチ◯ルチョコ三つも入ってたのに」
「全然嬉しくないし、フォローになってないよ。……で、本当は何が言いたかったの?」
 大翔が何かを言いたいってことはだいたい察しがつく。
 いつも余計な話から入る時は、何か聞いて欲しい話があるときだ。
「今朝、隣のクラスの女子に告白された」
 大翔はモテる。それは、今に始まったことじゃない。
 そして、大翔はモテることを自慢するような人間じゃない。
 僕の記憶だと告白は全部断っていた。
 その理由は、今ならわかる。
 僕が気づかなかっただけで、大翔はずっと美羽が好きだったから。
「どうするの……?」
 何度脈が打ったのかわからない。その間はほんの数秒だったと思う。
 でも、僕には長い時間に感じた。
 手には汗。秋の風が冷たいからなのか、冷風に煽られて汗が冷える。
「んー、わかんね」
 大翔からは意外な言葉が返ってきた。
 てっきり、美羽が好きだと断言されると思ったのに。
「わ、わかんないって……」
 それじゃ、困る。美羽と大翔は付き合って貰わないといけない。だから、断って欲しい。
 というか、今までこんな相談受けたことあったっけ?
 恋愛経験の少ない僕に聞くだけ無駄な話だ。
「直人は美羽と付き合ってからどう?」
「え?」
 当時、聞かれることなかったから、大翔の方から美羽の話題を出してくるなんて驚いた。
 今日の大翔は察しがいい。
「ふ、普通だよ。なんで?」
 ドクン、ドクンと心臓が強く脈を打った。
「この前から、直人があんまり幸せそうに見えないから」
「…………」
「美羽と別れようとしてる?」
 大翔は周りをよく見てる。察しがいい。
 大翔と美羽が結婚する前だって、何度も何度も僕に「美羽に会わないか?」って声かけてくれた。大翔だけだった。だから、僕もわかってる。
 大翔に嘘が通じないってこと。
「……うん」
 僕は大翔の質問に頷いた。
 遅かれ早かれ、僕と美羽は別れる。
「なんで、とか聞いていい? これ、俺に聞く権利ある?」
 大翔はズルい。あるに決まってる。
 僕と美羽は大翔がいなければ出会わなかった。それだけじゃない。
 今まで大翔にはどれだけ感謝しても感謝しきれないほどの恩がある。
「自信がないんだよ。美羽の隣に立つのは僕じゃない。美羽を幸せにできるのは僕より相応しい人がいるから、……別れようと思ってる」
 嘘は言っていない。これは全部本当のこと。
 僕は未来を知ってるから。
「直人より相応しい人って?」
 あまりにも、残酷な質問。
 目の前の大翔の方が似合うなんて言ったら、大翔はなんて言うのだろうか。
 僕は黙ったまま何も言えなかった。
「あーごめん。いいよ、言わなくて。んー、自信か……確かに直人には自信は足りないな」
 うーんってあれこれ大翔が独り言を呟きながら考えている。
 多分、誰のことなのか察したんだと思う。
 目の前にいる大翔だ、なんて言われたら大翔だって困るだろう。
 僕は必死に美羽と別れる方法を考えた。
 十年前に戻ったのが美羽の告白より前なら確実に断っていた。
 なのに、僕と美羽は交際をした後だった。
 タイミングが悪い。
 選択は見誤ったら駄目だ。僕が身を引いて、大翔が美羽と付き合うようにしなければ。
「あ。直人、お前は一つ勘違いしてるみたいだから言うけど。俺と美羽は友達だよ。美羽も俺もお互いに恋愛感情はない」
 大翔に僕は、どう見えているのだろうか。
 僕なんて、狡くて汚い大人だ。なのに、十七歳の大翔はこんなにも大人びている。
 どんどん自分が惨めになる。
 幸せになるべきなのは、大翔なのに。
「大翔、僕……」
「直人」
 僕の言葉をかき消すように、大翔が被せた。
「美羽のこと幸せにしてやれよ」
 大翔のその目は、僕の考えを透き通すような眼差しだった。
「……ありがとう」
 そんなこというつもりなんてなかったのに、大翔の目は僕を許さなかった。
 気が抜けたのか大翔の顔も笑顔に戻った。
「よーし、じゃあ俺も彼女作るか!」
「それは、ダメだよ。僕は反対」
「あはは! 俺のこと大好きだからって寂しいのか? 女に嫉妬すんなよ〜って、冗談。直人、そんな顔すんなって。ジョークだよ!」
 どこまでが冗談なのかわからない。
 大翔はモテるから、作ろうと思えば直ぐにでも作れると思う。
 男の僕でも羨むくらい……いや、誰が見ても、大翔はカッコよかった。
「もし彼女できたらダブルデートしような」
「やだ。絶対行かない」
「なんでだよ」
 そのあと、大翔は隣のクラスの女の子と付き合った。
 人に興味が無い僕でも名前は知ってるくらい可愛いと有名な女の子だった。
 美男美女のお似合いのカップル。歩くだけで絵になるような二人だった。
 それでも僕は、美羽と大翔の方がお似合いだと思った。
 美羽を幸せにできるのは、大翔だけだから。

    ***

「大翔もついに彼女持ちか〜」
 放課後、ファミレスでパフェを食べながら美羽が呟く。
 学校内はその話題で持ち切りだ。
 僕はコーヒーを飲みながら、美羽との時間を満喫した。
 簡単に相槌を打って、美羽と会話する。
「直人くんってば、聞いてる?」
「……うん、聞いてるよ」
 美羽の優しい声が好き。明るいところが好き。
 楽しそうな美羽を見ていると僕まで嬉しくなる。
 美羽は普段来ない場所に連れ出してくれる。
 僕にとって美羽は、たくさんの楽しいという魔法をかけてくれたと思う。
「美羽」
 パフェを満足そうに食べ終えた美羽に僕は残酷な言葉を紡ぐ。
「別れよう」
 ごめん、大翔。僕には無理だ。
 昼間、大翔から言われた言葉に僕はすぐ頷けなかった。
 僕は未来に居ないから。
 結局、美羽とは別れる。なら早い方がいい。その方が傷口が浅い。
「絶対やだ」
 美羽はキッパリ即答した。
 あっさりいいよ、と言うと思ってたのに。
「あーもう。そんなことだろうと思った! 直人くん、わかりやすすぎ。見てたらわかるよ。ひとつ聞くけど、私のこと嫌いになった訳じゃないんでしょ?」
 真っ直ぐ、僕の大好きな美羽の瞳の中に僕が映る。
「……うん、嫌いじゃないよ」
「それなら、この話はおしまい!」
「いや、待って美羽……あの」
「私には大翔の方がお似合いって言いたいんでしょ?」
 美羽が唇を尖らせた。
 どうやら、なんでもお見通しみたいだ。
「なんで、わかったの?」
 僕は目を丸くした。
 はあ、とため息をついて美羽は教えてくれる。
「直人くん見てればわかるよ。彼氏から他の人を紹介されたら、さすがに怒るよ?」
「……ごめん」
「わかったならいいよ、この話はおしまい」
「…………」
 それじゃ、ダメだ。
 僕はタイミングを見誤ったかもしれない。
 僕は過去に、どうやって別れたんだっけ?
 相当ショックだったから思い出そうとすると頭が痛くなる。
 今は、すごく大事なことなのに。
「それより、大翔から聞いてない?」
「え、何を?」
「ダブルデートだよ。せっかくだし……しよ?」
「あ、え、いや。あの、僕はあんまりそういうのは……」
「あーあ。せっかく新作のワンピース買ったのに無駄になっちゃうの、残念だなぁ。私、直人くん居てくれないと一人で行くことになっちゃうな〜」
「…………」
「一人でカップルに挟まれて、水族館行くのか〜気まずいなぁ。私にも彼氏いるのになぁ……前に直人くんが空飛ぶペンギンを見に行きたいって言ってたから大翔も提案してくれたのに、大翔になんて言おうかなぁ」
 携帯をポチポチ触りながらわざとらしくチラチラと僕を見る美羽。
 僕が友達いないことを美羽はよく知ってるから、一人でどこかに出かけるのに抵抗があることもよく知ってるはず。
 映画館とかなら行ってらっしゃいって言えるんだけどな、よりによって水族館……。
 美羽の立場を考えたら地獄だろうな。
 まぁ僕が美羽の立場なら絶対に行かないって選択肢しかないんだけど。
「……わかった、行くよ」
「え、本当? 本当に、来てくれるの?」
 その一言の裏に隠された不安を、僕は感じ取ってしまった。
「うん」
 今、美羽を覆すのは無理だ。
 まだ時間はある。ゆっくり考えて、別れる方法を探ろう。
 一緒にいれば、きっと僕の嫌なところも見えてくると思う。
 美羽が幻滅してくれたら、別れる理由になる。
「やった! ……あ。ごめんね。あはは、どうしよう」
 美羽の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「え、美羽。どっか痛い?」
「ううん。絶対来てくれないと思ってたから嬉しくて……これは嬉し泣きだから、大丈夫」
 美羽が自分で涙を拭う。
 僕が大翔だったら、美羽のこと抱きしめていたのに。
「よし。大丈夫! 直人くん、いつ空いてる?」
 にっこり、美羽が笑う。
 美羽は明るく振舞っていたけど、本当は僕が居なくなるのを察して、怖がっているんじゃないか。
 ……いや、そんなことはない。これは、未来を知っている僕だけがわかるだけで美羽自身は知らないはずだ。
「あ、えっと……来週の日曜日とか空いてるよ」
「来週の日曜日ね! 大翔にも予定空けててもらお。……あ、大翔も大丈夫だって!」
 ポチポチと携帯を触って、コロコロ表情が変わる美羽を僕は眺めていた。
「楽しみだね、直人くん!」
 美羽の笑顔を見るだけで、僕の心が動く。
「……うん、そうだね」
 僕は美羽の笑顔がこの世界で一番好きだ。

 ***

『ねえ直人、キモイ顔してるよ』
「うわあああああああ!」
 土曜日の夜。僕の自室で夜食のプリンを食べていた時、僕はあの少年に声をかけられた。
『あははははは! やっぱり超面白い! 困り眉でシュンとしながらニヤニヤしてたのに僕みたら飛び上がってる! あははは! なに? 幽霊でも見たって顔しないでよ』
「ご、ごめん。じゃなくて! なんでいるの?」
『満月の夜だけ僕はここに来れるんだよ』
「え、そうなの?」
『願い事を叶えてる間は契約期間だからね。ずっと監視してるんだよ。ただ姿を形にできるのは満月の日だけ……あれ、言ってなかったっけ』
「聞いてないよ!」
『えーごめんごめん。でもよかったね、ちゃんと十年前に戻れたじゃん』
「……うん」
『なに? 不満?』
「戻れるなら、もう少し前ならよかったのに」
 せめて、僕と美羽が付き合う前なら……。
『それは僕に言われても困る。君の記憶を辿って、一番濃い十年前がタイムリープ地点になったんだ。それは僕に左右はできないよ。恨むなら君の記憶を恨むんだね』
「……そっか」
 はあ、とため息を着いた時、扉からコンコンとノックされた。
「直人? 入るわよ〜」
「あ、え、母さん?」
 まずい。
 僕の目の前に少年がいるのに焦った僕は母さんに何から説明すればいいか思考を巡らせた。
 でも、母さんは遠慮なくガチャと扉を開けて部屋に入っては不思議そうに首を傾げた。
 まずいまずいまずい。
「誰かと話してるのかなって思ったんだけど気のせいかしら? 直人の叫び声が聞こえたけど」
 あれ、母さんには見えてない?
 僕が横目で少年を見ると、呑気に母さんの観察をしていた。
「だ、だだだ、大丈夫! ええと、ちょっと友達と電話しながらホラー動画見てて……」
 一生懸命、言い訳を考えた。
 って、何してんの!
 目の前にいるのに母さんは少年に気づいてる素振りはない。
 それをいいことに少年は母さんの頭の上に角を作って遊んでいる。何が面白いのか僕の顔を見て、ケタケタ笑っている。
「あらまぁ、程々にしなさいね。眠れなくなるわよ」
「う、うん! 気をつけるよ!」
 パタンと扉がしまったと同時に床に転げながらケタケタ笑う少年。
『あははははは! もう無理! 直人の顔、あははははは! 面白すぎる!』
 怒ろうかと思ったのにこの態度。
『必死すぎてウケる! 目泳ぎまくってたし、挙動不審すぎる! あははははは!』
「…………」
 もう言葉を失った僕は、呆れてため息も出なかった。
『はー、笑い疲れた。で、直人は何をそんな真剣に考えてたの?』
「美羽と、どう別れたらいいかだよ」
『ふーん。で、明日デートだからニヤニヤしてた、と』
「……そうだよ」
 なんでデートのこと知ってるんだ、っていうのはもう聞かないでおこう。
『僕なら絶対自分のこと振り向かせて大翔になんか渡さないけどなー』
 できることなら僕だって、そうしたいよ。
「僕が大翔ならそうしてるよ」
 でも、どう足掻いても未来なんて変わらない。僕は美羽と一緒には居られない。
 少年は、月明かりのなかでゆっくりと立ち上がった。
 その動きが、なぜか人間のそれとは思えなかった。
 まるで映像をスローで再生したように、滑らかで、空気に逆らっているような動き。
「……君、本当は何者なの?」
 気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
 少年はにこりと笑って答えた。
『人間だったこともあるよ。もう、ずいぶん前だけどね』
「だった……?」
『そう。今は“存在”かな。神でも悪魔でもない。ただ、願いを見届ける者。……そんな感じ?』
 彼の口から発せられる言葉は、不思議と耳の奥に残るようだった。
『契約書を書いた時点で、もう君は選ばれてる。“見えてしまった”時点で、ね』
 僕は息をのんだ。
 でも、この手の震えも、視界の鮮明さも、妙に冷たい夜風も、すべてが「現実」だった。
「……君は、どうしてそんなことをしてるの?」
 僕の問いに、少年はしばらく黙ってから、月を見上げて言った。
『僕は……“遺志”のようなものかも。誰かの“最後の願い”が、僕をここに呼び寄せるんだ。だから僕は、ここにいる。君に会いに来た』
 “誰か”……その意味を、深く考えるのが怖くて、僕は視線をそらした。
『……それに、君みたいな人を見てると、なんだか応援したくなるんだよね』
「応援……?」
『君の罪は消えない。でもね、償うって、そう簡単なことじゃない。時間を戻したところで、選ぶのは君だ。未来も、代償も、自分で選んで、自分で歩く』
 風が吹き、部屋のカーテンがひらりと揺れた。
『契約は、ただの“きっかけ”なんだよ』
 その言葉は、まるで導くようだった。
『願いを叶えるのは、僕じゃない。君自身だよ、直人』
 ゆらゆら揺れるカーテンに流れる風に乗って僕の髪を揺らした。
『大翔みたいになろうとするのは勝手だけど、直人は直人じゃん』
「……うん、でも隣にいるのは大翔であるべきなんだよ」
『ブレないねー、まぁそんなところも直人らしくていいんだけどさ』
「当たり前だよ。僕はそのためにやり直したんだ。これは、僕の使命なんだよ」
『なんのために生きるのかは勝手にすればいいけど、君は本当にそれで幸せなの? 二人を救っても君になんのメリットもないよ』
「メリットとかそんなんじゃないよ。二人が生きてることが、僕にとっての幸せなんだ」
 僕はその二人の幸せを壊した。
 未来を奪った。
 僕が幸せになる資格なんてない。
『ふーん、まあまだ時間もあるしね。僕から言えるのは好きな子を悲しませる人間は最低だよねってくらいかな』
「わかってるよ」
『……いや、君はわかってないよ』
「なに? なんて言ったの?」
『なんでもなーい! あ、そろそろ時間だ。僕、帰るね』
「え、もう?」
『僕がここに居られるのは数分だけ。居られる時間は月によって変わるんだよね』
 言ってないことが多すぎるよ!
『それと、満月の光がないと僕はここにこれないから。雨の日には来られないんだ。雨上がりに満月の光が射せば話は別だけどね』
 大事なことを最初に言って欲しい!
 この契約がだんだん不安になってきた。
『大丈夫、君のそばにいるよ。ずっと見守ってるから』
 すっと消えてく少年を見て、僕は本当に過去に戻ったのだと実感した。
 明日着る洋服を僕の覚悟とともに決めた。







【水族館】

「あ、直人!」
 待ち合わせの時間ピッタリに僕は着いた。
 もう既に集まっている美羽と大翔。二人とも、補講には遅れてくるのに、こういう時には早い。
 大翔は背が高いから、どこにいるのかすぐにわかる。
「ごめん。お待たせ」
「ううん、私も今来たところ」
 美羽はピンク色のワンピースがとても似合っていて綺麗だった。
 それに対して僕はシンプルで地味な格好だ。
 隣に立つと思うと、とてもお似合いとは言えない。
 大翔もシンプルな服装だったけど、雑誌に載ってるような背丈に合う格好は様になっていた。
 どっからどう見ても、美羽の隣に立つなら大翔の方が似合う。
 傍から見て、僕は浮いてるんだろうな。
「聞けよ直人、美羽は一時間前から居たってよ」
「う、うるさい」
 美羽は顔を赤くして、大翔の背中をバシッと叩いた。痛いとか言いながら大翔は笑う。
「大翔だって、綺麗な女の人にナンパされてたじゃん」
「あー昔からよく声かけられるな。ま、俺かっこいいから?」
「ソ、ソウダネ……?」
「おい。そこは突っ込んで欲しかったんだけど! これじゃ俺が痛いヤツじゃねぇか! てか美羽、見てたなら助けろよ!」
「え? やだよ。だって私は直人くんの彼女だもん」
 前から知ってたけど、二人は仲がいい。そして、やっぱりお似合いだ。
「というか大翔の彼女、遅くない?」
 美羽が周りを見渡す。僕と美羽と大翔。他には誰もいない。
「あー。えっと、それが……来ないって」
 気まずそうに大翔が答える。
 これは絶対なんかあるやつだ。
「まあ、そういうことだから俺は帰……」
「「大翔!」」
 僕と美羽で、帰ろうとする大翔を引き止める。
 むしろ僕にとっては好都合だ。
 大翔の彼女が居なければ、あまり気を使わないで済む。
 大翔の彼女に気を使うのが嫌で来たくなかったのも理由の一つだ。でも、来ないのであれば別の目的に変わった。
「ダブルデートって言い出したのって大翔だよね? 僕、本当は行きたくなかったんだけど。言い出したからには、ちゃんと責任取ってよ」
「ねえ今帰ったら、私ここで大翔の馬鹿って泣きながら大声で叫ぶからね? 泣きながら大声で、ね?」
「怖い怖い。二人とも目がマジじゃん。ああもう、わかった! 帰らないから、頼むから、離してくれ!」
 その言葉を聞いて僕は心の中でガッツポーズをした。
 よし、決めた。美羽と大翔を二人にしよう。
 きっと、それがいい。
 チクチクと胸が痛む気持ちとは裏腹に、僕はこの痛みに蓋をした。

    ***

「クラゲって九十五パーセントが水分みたいだよ」
「……うん」
「残りの五パーセントってなんなんだろうね」
「……うーん」
「直人くんはクラゲ好き?」
「…………」
「直人くん、聞いてる?」
「あ、うん。オジサンっていう魚がいるって話?」
「……そんな話してないよ」
「あ、ごめん。ええと、空飛ぶペンギンの話だっけ」
「…………」
 大翔は、一体どこにいったんだろう。
 さっきまで一緒にアザラシを見ていて、子供みたいに大はしゃぎしていたのに。
 飲み物買ってくるとか言ってから十五分も過ぎてる。
 僕たちがクラゲの水槽にいるのは知ってると思うんだけど。
 まさか、迷子?
 いや、方向音痴の美羽じゃあるまいしそれはない。……はず。
「大翔なら、戻って来ないよ」
 僕が周りを気にしていたからだろうか。美羽から思わぬ言葉が返ってきた。
「え、なんで……?」
 それじゃ、だめだ。僕の計画が意味を無くす。
「私が直人くんと二人になりたいって頼んだの」
「だから、なんで……」
 ゆらゆら、ゆらゆら。優雅にクラゲが水槽を舞う。
 その神秘さは、毒があることを忘れそうになるほど綺麗で鮮やかだ。
「私が直人くんと話したかったから、席を外してもらったの」
 真っ直ぐ美羽が僕を見つめる。
 僕の大好きな、優しい真っ直ぐな瞳。だけど、今の僕はその瞳が苦手だ。
「美羽は僕のどこがいいの?」
 僕も美羽を見つめる。目を逸らさずに、美羽は言葉を紡ぐ。
「全部だよ。でも、特に直人くんの選ぶ言葉と優しさが好き。覚えてる? 私が迷子になった時、直人くんの言葉に救われたの」

 ……覚えてる。
 美羽が迷子になった日。あれは、校外学習先の広い公園での自由時間。
 人通りが少ない場所。人が苦手な僕にとってはお気に入りの場所だった。
 僕以外に人のいる気配なんてない。
 そこに来たのは美羽だった。
「え、ちょっと待って。ここどこ!」
 慌ただしくて、うるさい。
 美羽の第一印象なんて良くなかったと思う。
 僕は気づいていたけど、見ないふりをした。
「みんなどこいったの! 嘘でしょ!」
 最初はうるさくて、話しかけたくなくて嫌だったんだけど。
 急に静かになって、座り始めた。
 だからかな。なんだか、ほっとけなかった。
「……大丈夫?」
 勇気を出して僕が声をかけたら、ポロポロと泣いていた。
 僕はぎょっとして挙動不審だったと思う。
「あ。ご、ごめんなさい」
 必死に涙を拭こうとする美羽。
「いや。ご、ごめん。僕の方こそ……突然声掛けて、驚かせたよね」
 声かけるんじゃなかった。やっぱり、やめとけばよかった。
「ううん、そうじゃなくて! 急に一人になったら、大事な人のこと、思い出しちゃって……寂し泣きっていうか……」
「…………」
「あはは、高校生にもなって私恥ずかしいね」
 必死に笑顔を作ろうとする美羽。苦しそうに笑ってた。
 沈黙が重い空気を作る。
 そんな沈黙を気まずそうに破ったのは美羽だった。
「えっと、直人くん……だっけ」
「え? なんで僕の名前知ってるの?」
 僕の学校は同じ学年でも二百人以上いる。
 その中の陰キャの僕の名前を知ってるなんて、あまりに怪しい。
 悪い噂でも立ってるのかな。そんなことを僕は考えていた。
 でも、美羽は違った。
「大翔から幼馴染って聞いてたから」
 ニコニコとさっきまでの苦しそうな顔が嘘みたいな笑顔。
 不覚にもドキッとしてしまった。
「ってか、直人くんは私の名前知らないでしょ」
「えっと、……ごめんなさい」
 美羽の存在は大翔と仲のいい友達、それくらいの認識だった。
 お互いそのくらいの認識だと思ってた。
 だから、僕は名前なんて知らなかった。
「美羽、だよ。覚えて、直人くん!」
 コロコロと美羽の表情が変わる。
 泣いたり、笑ったり、怒ったり。そして、また笑う。
 一緒にいて、もっと色んな顔が見たいと思ってしまった。
「美羽はなんで泣いてたの?」
 話題に困った僕はつい口を滑らせた。
 やばい、と思った時には言っていた。
 でも、聞いてしまったことを引き返せない。
「……その大事な人とやらはどこにいるの?」
 この時僕はてっきり、恋愛か何かで失恋したんだと思ってた。
「そうだね。私の会いたい人、お母さんなんだけど……もう居ないの」
 そこで僕が取り返しのつかない事を言って傷つけたと思った。
 でも、美羽には芯が強かった。
「私、お母さんと喧嘩して酷いこと沢山言っちゃって……その後に亡くなったからすごく後悔してるの。どんなに後悔しても、もう戻ってこないのにね」
 人の事なんてわかんない。
 なんて言えばいいか分からない僕は、ただ話を聞いていることしか出来なかった。
「お母さんに会って謝りたい」
 疲れきった顔。希望のない瞳。覇気のない声。
「私、疲れちゃった。一人になりたくて、逃げてきちゃった。もう生きてる意味もわかんないや」
 美羽は能面のように笑顔を作る。
「……死にたい」
 その本心は生きたいと思ってるようだった。でも、心がここにない。
 だからだと思う。
 美羽はずっとずっと自分を繕ってきたって、なんとなく感じた。
「あはは、ごめんね。こんな重い話。忘れて」
 笑ってるのに笑ってない。また美羽は作り笑いをする。なんだかそれが切なかった。
「それでも生きてる美羽は、偉いよ」
 ゆっくりと穏やかな風が僕の緊張を和らげた。
 その風に乗って、木々が揺れる。木漏れ日から差す光が眩い。
「生きるのって難しいよね。美羽が死にたいなら僕は止めないよ。でもそれって、今決めなきゃいけないことなの?」
 初対面なのに、そんな大事なことを話してしまうほど心が参ってると思った。
 だから、今にも死んでしまいそうな美羽を放っておけなかった。
「もう少し生きてみてから、ゆっくり決めてもいいんじゃない? それで、また辛くなったら……そのときは、僕がまた話、聞くよ」
 美羽は泣いていた。ボロボロになるまで泣いていた。
 心の底から泣いたんだと思う。作っていた美羽の仮面が壊れた。
 僕は泣いている美羽の頭をポンポンと優しく撫でた。
 今思えば、なんで自分でもそんなことができたのかわからない。
 落ち着いた頃、自由時間はもう終わりそうだった。
「ありがとう」
 僕はお礼を言われることなんてなにもしてない。
 なんだか照れくさくて、僕は恥ずかしくなった。
「み、みんなのとこ、戻ろうか。案内するよ」
 手を差し伸べると僕の手を取って美羽は立ち上がる。
「……うん」
 美羽の真っ直ぐな瞳。そして、心からの笑顔。
 きっとこの瞬間、僕は恋に落ちた。
 その日から、僕と美羽は話すようになったんだ。

 ……でも、そんなこと。
「誰にでもできるよ」
 そんな理由に僕じゃなきゃ駄目な理由はない。
 ただ、タイミングが合っただけ。あの時、たまたま僕がいただけだ。
 大翔がいたら、きっと同じことをしていたと思う。
「違うよ。私、直人くんに話す前に同じ話を大翔にだけ話したことあるの。そしたら、そんなこと言うなよって怒られちゃった。人生なんて越えられない壁には当たらない……とかなんとか。今から俺にプロ野球でホームラン打てなんて誰も言わないだろ、って笑ってた。大翔なりに私を元気づけようと一生懸命考えてくれたんだと思う。でも、私の一番欲しい言葉をくれたのは直人くんだったよ。そのお陰で今の私がいる」
 彼女が笑うたび、心が揺れる。
 ゆらゆら。ゆらゆら。浮いて、沈んで。
 呼吸をするように、心臓を動かすように、クラゲが水槽を優雅に舞い踊る。
 クラゲのダンスに合わせて水の光がゆらゆらと波打って揺れる。
「今度は私が幸せにしたいの」
 美羽の、真っ直ぐな気持ちが痛い。
 頭ではわかってる。でも、心が追いつかない。
 美羽の気持ちが嬉しいと思ってしまう僕がいる。
 望んでも、何も手に入らないのに。
「今日だって直人くん、水族館好きって言ってたからもっと笑ってくれると思ったからだよ」
 僕はクラゲの光に目を奪われた振りをした。
 一瞬、水槽の中に星空が浮かんだように見えた。
 水槽に映る僕の顔、そして美羽の横顔。
 僕だけが未来を知っている。その未来に僕はいない。
 青く差し込む光が、水槽越しに僕の頬を照らす。その光は揺れ、まるで僕の心も一緒に揺らしてるかのようだ。
「……美羽、僕は」
 僕が言葉を続けようとしたとき、唇に熱い温もりを感じた。
 驚いた僕は目を見開いて、やっと理解した。
 僕は美羽にキスされた。
 まるで私を見て、と言うように少し強引に美羽は僕に唇を押し付けた。
 静かな水槽の中にいる無数のクラゲが深海の夜空のように煌めく。
「全部含めて、直人くんが好き」
 美羽の顔を見たら、泣きそうだった。
 こんなにも真っ直ぐに気持ちを伝えられて、嬉しくないわけが無い。
 ここにいるのは、もう過去の美羽じゃない。
 気づいたら、僕は美羽を抱きしめていた。
 この腕を離したくなかった。
「きっとこの先も、どんなことがあっても私はずっとずっと直人くんが好きだよ」
 聞こえる、美羽の鼓動。
 生きてる。美羽はここにいる。
 真っ直ぐな美羽の瞳に、吸い込まれそうになる。
 夢みたいだ。ずっとずっと欲しかった。
 大翔じゃない。僕を「好き」と言ってくれた美羽の言葉。
 僕の手に感じる美羽の体温。
 でも、いつか僕はこの幸せを手放す。そのときは必ず来る。
 理解しているはずなのに、僕はこの腕を離せなかった。
 好き。好きだ。
 でも、絶対に言葉には出せない。
 言ってしまったら、戻れなくなる。
 言えない代わりに、美羽を優しく腕の中に閉じ込めた。
 本当は美羽を幻滅させて、僕のことを嫌いになって欲しい。
 でも、そんなことできるはずもなかった。
 今、美羽を突き放したらもう二度と美羽の笑顔を見れなくなる気がした。
 僕は美羽が好きだから。
 十年前も、今も、変わらず。
 ごめん、大翔。
 もう少しだけ夢を見ていてもいいだろうか。
 その方が後悔なく、僕が犠牲になれるから。
 ……今だけでいい。
 僕は、どんな罰でも受けるよ。
 だからどうか、今だけは美羽の傍に居させて。
 僕は美羽と手を繋いで海底トンネルを潜った。




【未来へと進む道】

 あれから半年。
 僕たちは高校生活最後の春を迎えた。
「今から進路希望用紙を配るから、来週までに書いてくるように」
 昨日、担任の先生から配られた用紙。
 この一枚の紙であらかた人生の一歩が変わることを僕はよく知っている。
「若い今が一番大事な時期だ。自分と向き合って書いてこいよ」
 その言葉は大人の僕に深く突き刺さる言葉だった。
 だから、朝早くから教室に来て一人で一枚の紙と向き合った。
 朝の教室は人が少ないから、空気が澄んでて心地いい。
 日差しが反射して波紋状に弧を描く。
 なんとなく、進路や自分の選択を迫られるとここに戻ってきたときの契約書を書いた日のことを思い出す。
「おはよう」
 上から声が降ってきた。
 その声とともに、ゆっくりと僕の視界が波紋から美羽へと変わる。
 透き通った空気と好きな人。外からは春の香りがする。
 昔は長く感じたこの時間すらも今となっては、優雅に流れる僕の贅沢な時間。
「直人くんは、進路決めた?」
 美羽は僕の進路希望と書かれた用紙をチラッと見たのを僕は見逃さなかった。
 かつて、僕はここに「医学部」と書いていた。でも、今の僕は違う。
 医者は僕には向いていない。
 なりたかった理由だって、大翔と同じ道を目指せば美羽が振り向いてくれると思ったからだ。
 目先の利益や名誉に囚われていた僕は本当に大切なものが見えていなかった。
 そんな、不純な理由で医者になれるわけがない。なれたとしても、続くわけがない。
 医学部の面接だって、僕は落ちた。
 試験勉強は対策の仕様がある。筆記ならいくらでも向上することはできるのに、本番に弱い僕は面接が得意ではない。
 ″君、医者に向いてないよ″
 あの日、面接官に言われた言葉は、僕には刺さらなかった。すんなり受け入れた。
 それは、なりたかったからじゃない。
 美羽の隣にいるのに相応しいのを職業かどうかで選んでいたからだ。
 ……大翔みたいに、なりたかった。
 でも、今の僕は、自分が本当に何になりたかったのか知っている。
「僕は国立の教育学部に行くつもり。教師になって、未来に貢献したいんだ」
 僕は十年後、小学校で図書館司書をしていた。正社員じゃなくて非常勤のアルバイトだったけど。
 医学部に落ちて、教師になる夢を諦めていた僕は十年、進路について後悔していた。
 でも、今の僕は以前の憧れで目指すわけじゃない。
 少しでも、僕が生きている間に誰かの助けになりたい。
 大丈夫。今度こそ、僕が守ってみせるよ。
「素敵。直人くん、頭いいもんね」
「あはは、ありがとう」
 とはいえ、ズルしてやり直してると思うとやっぱり少しだけ罪悪感はある。
 ただ、落ちて仕方なく進んでいく進路とは訳が違う。
「美羽はなんて書いたの?」
 美羽の夢なら、どんな些細なことでも叶えてあげたい。
 たとえ、僕が出来ないことであってもできるように精一杯の努力はしたい。
「私、保育士の専門学校行くよ」
「え……保育士?」
 僕は驚いた。そんなの初耳だ。
「あ、もしかしてお嫁さんって言うと思った?」
 ふふ、と美羽が悪戯に微笑んだ。その姿に負けて、悩みながらも僕は静かに頷いた。
「んーそれも夢なんだけど、私は誰かに頼って生かしてもらうつもりなんてないよ」
 まるで、僕の心を見透かすように、その瞳はキラキラと輝く未来ある瞳だった。
「私は私の力で生きたい。私が選んだ人生の責任は私が持ちたいの」
 いつだって美羽は真っ直ぐだ。そして、強い。
 だからこそ、美羽に惹かれたのもある。
「直人くん。お互い頑張ろうね!」
「……うん。そうだね」
 十七歳の美羽は、すごくしっかりしてると思った。
 美羽の未来。心から応援したい。夢を叶えてほしい。
 でも、僕はその先の未来に責任は持てない。
 僕は隠すように進路希望用紙をそっと机の中にしまった。
 そして、周囲が賑やかになる時間に移り変わる。
 「おはよう」と挨拶を交わして教室に生徒が登校する。
 これから、人が多くなってくる頃だと思う。
 部活の話、家族の話、課題の話、友達の話。
 なんだか胸騒ぎがする。
 今日の天気は曇り。低気圧のせいか、僕の頭が締め付けられるように痛かった。
 そして、廊下から聞こえてきた噂話。
「大翔くん、彼女と別れたんだって」
「え、嘘! お似合いだったのに!」
 ……ほら、少しずつ僕の魔法は解け始めてる。

    ***

 お昼を告げるチャイムが鳴り響く。
 この音に懐かしさも感じず、ただただ日常になってしまっていることに気づいた。
 僕は屋上に向かい、勢いよく扉を開けた。
「よ、直人!」
 春とはいえ、まだ冬のような寒さが続く。
 こんな寒い中に外でパンをもりもり頬張る人間、僕の知ってる中では一人しかいない。
「よ、直人! じゃないよ。屋上来てんの大翔だけじゃん。うわ、寒っ」
 あはは、なんて大翔は大笑いする。
 僕は震えながらも大翔の隣に座った。
「大翔っていつもここでご飯食べてるよね」
「うわ、今更? 回りくどくて逆にしんどい」
 僕は知ってる。
 大翔は人気者だから。僕とは違った理由で人が少ないところを好んでいるってことを。
「……別れたよ」
 食べかけのパンを袋の中にしまいかけた大翔は、空を見上げた。
「付き合ったら好きになれると思った」
 大翔は淡々と想いを語る。
 その瞳は、僕が知ってる大翔とは違うものだった。
 どこか切なくて諦めたようにも見える。
「でも、俺にはわかんなかった」
 無慈悲に大翔は答えた。
 その無慈悲さに、どこかで見覚えのあるような不思議な感覚。
 空を見てる大翔は心ここに在らず、そんな感じだ。
「俺から振った。でも、後悔はないよ。……俺には目標ができたから」
 大翔に聞こえてしまうんじゃないかと思うほど僕の心臓が激しく音を立てる。
「目標って……?」
 僕の魔法は今だけの一瞬だ。
 僕が美羽の隣にいられない未来は変わらない。
 だから、僕は魔法が解ける前に美羽から離れる。
 もし、今ここで美羽と言われたら、僕は魔法から覚めてしまうのだろうか。
 僕がどれだけ魔法にかかろうと、結局、大翔には敵わない。
「俺、医学部に行きたいんだよね」
 空に向かって、ハッキリと大翔は言う。
「そんで、色んな人を救いたい」
 大翔は恥ずかしそうに照れながらも夢を言葉にした。
「なあ、直人はどう思う?」
 今まで見た中で数少ない大翔の照れる顔。
 僕の記憶では結婚報告の時と結婚式に見せた顔。あの時と同じ顔をしてた。
「いいと思うよ、向いてると思う」
 というか、僕は未来で大翔が研修医やってたの知ってるし。
「え、直人。マジで言ってる? 俺、家族含めて周りにめちゃくちゃ反対されたんだけど。全科目赤点の方が多いし」
「勉強なんて関係なくない? 大翔ならできるよ」
 だって、僕は知ってるから。
「大翔って実は頭いいよね」
「え……な、何言ってんだよ。そしたら赤点取らないだろ」
 あはは、って大翔が作り笑いする。その作り笑いは今の僕には通じない。
 中学の頃、大翔は目立ってた。
 それは容姿だけじゃない。性格も良くて、スポーツ万能で、成績も良かった。
 本当はずっとわかってた。大翔は僕なんかより、ずっと頭がいいってこと。
 大翔が赤点を取ってたのは補講に美羽がいるから。美羽と一緒にいる時間ができるから。
「本当のこと教えて」
 冷たい風が僕の頬を掠める。
 もう僕は魔法が解ける限界だった。
「大翔は、美羽のことが好き?」
 僕が魔法にかかる時間は充分だった。
 笑ってるような泣いてるような、どこか切ない顔。その瞳は真っ直ぐ僕を見る。
 十七歳とは思えない。大翔は凛として、僕が見とれてしまうほどカッコよかった。
「ごめん、直人。正直に言うよ」
 真っ直ぐ大翔の目が僕をとらえる。
 その瞳に吸い込まれそうになるほど、真っ直ぐで嘘がない。すごく綺麗だった。
「俺は、美羽が好きだよ」
 心臓を鷲掴みされたみたい。
 覚悟はしてたけど、聞きたくなかった。
 できれば、まだ夢を見ていたかった。
 夢から現実に叩きつけられる。
 覚悟はしていたのに、僕の細胞が知りたくなかったと後悔する。
「美羽に対する好きは、特別な感情。俺にとっては大事な存在」
 大翔の美羽に対する気持ちは痛いくらい知っている。
 ずっと、大翔の話を聞いてきたから。
「……ありがとう。うん、僕も美羽と大翔はお似合いだと思うよ」
 ふわりと桜の花びらが散った気がした。
 その風に乗って、僕の魔法が解けてゆく。
「直人、俺のことはいい」
 大翔から静寂を切り裂くように低くて重みのある声が響く。この声を僕はよく知ってる。
「でも、美羽の気持ちは嘘なんかない。人の気持ちを勝手に決めつけんな」
 ドキッとした。
 あの日見せた大翔の怒ってる顔と同じ顔。僕に「生きろ」と言った時と同じだ。
 怒ってる、と思ったけど大翔は必死だった。
 弱々しい声で、それに、と大翔が言葉を続けた。
「美羽は、ずっとお前しか見てないよ」
「え?」
「なんでもない。お前が美羽の隣にいろ」
「え、なんで? 僕が隣に?」
 僕の魔法は気づけば解けていた。でも、重苦しかったのは一瞬だけ。
 大翔の本音を聞く前より聞いたあとの方が僕の心は軽かった。
「当たり前だ。俺と美羽は友達。俺が勝手に美羽を好きなだけだ」
 あの時と逆だ。
 今度は僕が祝福される側。なんて複雑なんだろう。
「好きならちゃんと向き合ってから後悔しろ」
 それはまるで僕が美羽から逃げ出そうとしているのを逃さない大翔の鋭い瞳。
 思わず罪悪感から目を逸らしたくなる。
「直人、美羽のことを頼む。幸せにしてあげてくれ。……俺にはできないから」
「そんなことないよ」
「あー、もう! 違うんだよ! これから俺は忙しくなるし、美羽と付き合ってるのは直人、お前だろ!」
 でも、それ以上に大翔が必死だったから。
 僕はもう少しだけ、夢を見てもいいのだろうか。夢の先に未来はあるのだろうか。
 これは、魔法なんかじゃない。
「失恋くらいさせろ、馬鹿。お前らには幸せになってもらわないと報われないだろ。俺が困る」
 時の流れが、現実を遠ざける。桜吹雪に乗って、春を呼ぶ。
 ごめん、大翔。
 これは、単なる僕の甘えだ。
「ありがとう、大翔」
 だから、もう少しだけ僕に時間をください。
 ……せめて、大翔が社会人になるまでは。


  ***

 季節は秋、もうすぐ僕たちは卒業を迎える。
 放課後の渡り廊下。夕日が斜めから差し込んで、床のタイルに長い影が伸びていた。
 僕が窓辺に立って空を見上げていると、コツンと背後から足音が聞こえる。
「直人くん」
 振り返ると、美羽がいた。
 スカートの裾を揺らして、眩しそうに目を細めていた。
「こんなとこにいたんだ。先生が探してたよ、補講のノートのことで」
「……あ、うん。ありがとう」
 ぎこちなく返す僕を見て、美羽はくすりと笑った。
「なんか、最近の直人くん、やさしいね。ちょっと怖いくらい」
「え……そう?」
「うん、いつもより、なんか……柔らかい。空気っていうか、目つきっていうか」
 そう言って、美羽は僕の顔をじっと見つめる。
 その眼差しに、僕は息を飲んだ。
 ……そんな風に見ないで。
 僕は“未来を知ってる”。
 君がどうなるかを知ってて、それでも今、君の前に立ってる。
「……変わったのかも。少しだけ」
「……そっか」
 美羽はそう言って、両手を背中で組みながら、隣に並んで窓の外を眺めた。
「今日の空、すごくきれいだね。もうすぐ秋も終わりだな〜」
「……美羽は、未来のこと、どう思う?」
 突然の問いかけに、美羽はきょとんとした顔をした。
「未来? どうって?」
「ううん、なんでもない。……ただ、たとえばさ。未来が変えられるとしたら、何を変えたい?」
「えー……難しいなぁ。うーん……変えるっていうより、今をちゃんと大事にしたい、って思うかな」
 美羽は笑いながらそう言った。
「今の一日一日が、未来の自分を作るって言うじゃん? だからさ、今日の私がちゃんと笑ってたら、未来の私はもっと笑っていられると思うの」
 その言葉に、僕は胸が締めつけられた。
 未来の美羽を、僕が殺してしまったんだ。
「……なんでそんな顔してるの?」
「え?」
「すごく、悲しそうな目してる。……直人くんって、時々、ものすごく遠くを見てるような顔、するよね」
「……美羽」
 君の未来を守るために、僕は戻ってきた。
 それを口にすることはできない。
 だから、僕はただ、目をそらした。
「ごめん、ちょっと寝不足かも」
「ふふ。じゃあ、早く帰って寝なよ」
「うん、そうする」
 美羽は踵を返して、足音を立てずに去っていく。
 その背中を、僕はずっと見つめていた。
 ……守らなきゃ。
 この笑顔も、何気ない優しさも、全部。
 この“今”が、永遠になるように。
 君の時間がちゃんと続いていくように、僕が止まってでも。

 ***

「なあ、直人。今からラーメン行かね?」
 その日の放課後、大翔の部活もない水曜日にバッタリ帰りが重なったときだった。
 いつもみたいに大翔が僕をラーメンに誘う。
「……うん、行こう」
 僕が笑って答えると、大翔は少し驚いたような顔をした。
 こんな風に、大翔と二人で飯を食べに行くのは、どれくらいぶりだろう。いや、タイムリープしてからは、まだ初めてか。
 二人で駅前の小さなラーメン屋に入る。醤油の匂いが鼻をつく。壁に貼られた色あせたメニュー表。テーブルに置かれた紅しょうがと胡椒。全部が、懐かしくて、泣きたくなるくらい。
「なあ、直人」
 ラーメンが出てくるのを待ちながら、大翔が僕の顔をじっと見た。
「お前、今日なんか変だぞ。……っつか、最近ずっと変」
「え、そ、そうかな?」
「うん。妙に優しいっていうか、大人っぽいっていうか。なんか達観してるっていうかさ」
「そんなことないよ。ただ、なんとなく……大事にしたいなって、思っただけ」
「なにが?」
「全部」
「……へえ。どうした急に? なんかあった?」
「ないよ。けど、後悔したくないんだ。たとえば、今日みたいな日を雑に過ごして、もう二度と戻れなくなるのが……怖いんだ」
「お前、ほんと変わったな。前はもっと、冷めてたじゃん」
「あはは……かもね」
 でも、それは“変わった”んじゃなくて“知ってしまった”だけなんだ。
 未来で、どうなるか。何を失うか。
「俺さ、昔から思ってたんだよ」
 大翔が箸でメンマを突きながら、ふと目を伏せた。
「お前ってさ、不器用なくせに人のこと気にしすぎなんだよな。だから、すげー空回りしてる」
「……そうかも」
「でも、俺はそんな直人が好きだわ。真面目で、曲がってなくて、ちょっと面倒くさいけど、でも友達になれてよかったって、ずっと思ってる」
 胸の奥が、じわっと熱くなる。思わず箸を止めた。
「……ありがと、大翔」
「なんだよ、急に。らしくねーな」
「うん。でも、言いたかったんだ。ずっと、ありがとう」
 未来で、君に“生きろ”って言わせてしまった僕から。
 今、ここにいる、君に。
「よっしゃ、じゃあ二軒目行くか!」
「それは大丈夫」
 こうやって笑い合えるのも貴重な時間なんだと僕は噛み締めた。

  ***

『へぇ、美羽と向き合うことにしたんだ。よかったじゃん』
 その夜、彼は半年振りに僕の部屋に現れた。
「ぅわッ! いきなり出てこないでよ」
『あははは! 直人って本当に面白いよね』
 少年はあのときのまま。
 姿も声も何も変わっていなかった。
「君がいるってことは今日は満月か……」
『そうだよ、もっと喜んでもいいよ』
「あー、うん。喜んでる喜んでる」
『テキトーすぎ! ……でも、大翔も応援してくれてよかったね。これで罪悪感なく美羽と付き合えるじゃん』
 少しだけ心は軽くなったけど罪悪感は、ある。
『なに、なにか悩んでるの?』
「ずっと考えてるんだ。僕がどうやって美羽と別れたのか。それと、大翔が美羽と付き合ってたはずなのに、その未来を変えてもいいのかって」
『なんだ、そんなことか』
 少年は僕の本棚に目をやった。面白い本がないか、と探している。
「そんなこと? 僕にとっては大事なことだよ」
『直人はね、真面目なんだよ』
「…………」
『結論、直人があの事故で亡くなって美羽と大翔が生きてればいいんでしょ。それなら、そこだけ変えればいいじゃん。それまでは、直人が後悔を残さないために幸せになればいい。そのために、十年前にやり直しにきたんだから』
 完全には否定できない。でも。
「違うよ、そうじゃないんだ。確かに僕は消える。でも、美羽と大翔には未来がある。残された側の気持ちを無視することはできないよ」
 僕がそうだったから。知ってしまったから。
「だから、大事なんだ。今はまだ大翔から美羽を預かっている状態。いつか大翔に渡す日は必ず来る。それまでに、僕が美羽を守るんだよ」
『ふーん。その気持ち、ずっと続くといいね。人間って欲深いからさ。どれだけ意思が固くても、記憶は徐々に薄れていく。今は最近のことに思えた濃い思い出も数年後には忘れるくらい薄くなってるよ』
「僕はそうならないための努力をするよ」
『あはは! 直人ってそういうときだけはいい顔するよね。本当に面白い。いいよ。僕も直人には、まだそのままでいて欲しいし』
「どういう意味?」
『あ、もう時間だ! 僕はまだ当分、そんな脆い人間にはなりたくないなー、んじゃまたね〜』
「あ、ちょっと……!」
 少年がいなくなったと同時に部屋の扉がコンコンとノックされた。
「直人、またホラーゲームやってるの? もう深夜よ。早く寝なさいね」
「ご、ごめん母さん! すぐ寝るよ!」
 僕が、少年の言葉を本当に理解するのはまだまだ先のことだった。




【約束】


「直人と美羽、写真撮ってやるよ。カメラ貸せ」
 あれから、僕たちは高校の卒業式を迎えた。
 僕にとっては二度目の卒業式になる。
 大翔、美羽、そして僕。三人で過ごす学校生活も、今日で終わる。
 長いようであっという間だった僕の一年半。なんだか全てが新鮮に思えた。
「直人くん、一緒に写真撮ってもらおう」
 美羽に引っ張られて、僕と二人の写真を撮る。
 なんだかんだで二人の写真を撮るのは初めてだった。
「うん。いい感じに撮れてる」
 写真を確認して満足そうに笑う美羽。でも、すぐに切なく涙目になっていた。
「あー……なんか、寂しくなっちゃうね」
 僕は国立の教育学部。
 美羽は公立の保育専門学校。
 大翔は有名な名門私立大学の医学部に見事合格した。
 僕たちの進路はそれぞれ、バラバラになる。
「また会いたい時に会えばいいだろ」
 笑顔で大翔が言う。
 会いたい時に会える……今はそうかもしれない。
 でも、これからは会えなくなる。
 会いたい時に二人はいなくなった。
 今だって、一瞬だ。僕はよく知ってる。
 僕は今日この日を忘れないと思う。
「あっちゃ〜悪い。部活の奴ら呼んでるから俺ちょっと行ってくる」
 いつかのように大翔が僕にウインクをして颯爽と去っていく。
 あ、このウインクって僕に「頑張れよ」って意味だったんだ。
「……美羽」
 大翔に言われなくても、僕はちゃんと責任を果たすよ。
 僕は真っ直ぐ美羽の目を見た。
「僕が美羽を守るよ」
 限られた時間の中で僕は美羽を幸せにする。
「だから、美羽は美羽のままでいて」
 僕が美羽を守ると約束する。
「ふふ。なんかプロポーズみたいだね」
 美羽は泣きながら笑った。
「私、ずっと直人くんと一緒にいたいよ」
 嬉しそうに話す美羽。
 真っ直ぐな瞳。僕と重なる。
「でも、私は守られるだけじゃなくて、直人くんに見合うように隣で対等になりたい」
 美羽は真っ直ぐで、その瞳は全て僕の心を見透かしている。
「この先ずっと私と一緒に生きてほしいの」
 美羽の手が震えている。
 美羽に嘘は通じない。僕も美羽に嘘はつきたくなかった。
 もう二度と時間は取り戻せない。僕は何度も葛藤して、答えを出した。
「うん。一緒だよ」
 でもそれは、今の答え。嘘では無いから。
 その言葉で美羽が少し安心したようにみえた。
「今日の直人くん、なんか声のトーンがいつもより低い気がする」
「……そうかな」
 自分でも自覚がなかった。
 思ったより、美羽は僕のことをよく見てる。
「美羽、変な事聞いてもいい?」
「ん? なに?」
 ドクン、ドクンと心臓がうるさい。
 なんだろう、この全身の血が騒ぐ感覚は。
「運命って変えられるのかな」
 僕が言うと美羽はふふ、と笑った。
「何言い出すのかと思ったら。んーそうだなぁ、私なら変えるよ。だって、未来は誰かに決められるものじゃないでしょ?」
 悪戯に美羽は笑う。どこか子供っぽい、だけど凛としてて、瞳の中に迷いがない。
「直人くん、私になにか隠してる?」
「えっ?」
「ふふ、やっぱり?」
「…………」
「私は直人くんが選ぶ未来を信じるよ。だから、悩みがあるなら、半分こしよう。そしたら、背負うものも半分だよ」
 そんなこと言われても、言えない。
 どう説明したらいいかわからない。
「大丈夫、なんもないよ」
 そういうしかない。
 説明して信じて貰えたって、どうにもできない。事実は変わらないから。
 それに、僕は美羽が目の前で死ぬところなんて、もう見たくないんだ。
「大丈夫って言わないで。私ってそんなに頼りない?」
 僕の裾を掴んで美羽は訴えた。
「違うよ! そうじゃなくて……」
「ねえ、直人くん。私を置いてかないで。たまに直人くんだけ先に大人みたいな顔すると怖くなる」
 今にも泣きそうな美羽。その瞳には零れ落ちそうな涙が溜まっている。
 僕はそっと美羽の頭を優しく撫でた。
「……ごめん、今は言えない。でも、いつか、言える日が来たら言うよ。それまで待っててくれる?」
 これが今、僕ができる精一杯だ。
「うん、わかった。……直人くん、大好きだよ、信じてるね」
 きっと、僕が美羽に本当のことを話す日はない。
 美羽は僕にぎゅっと抱きついた。そんな美羽を僕はそっと、抱きしめた。
 



【覚悟】

 僕は二十二歳になった。
 あの日がくるまで、残り五年。半分が過ぎ去った。
 あれから魔法にかかったまま、夢を見ているかのような時間が続いている。
「ゴホッゴホッ」
 美羽とデートの待ち合わせまで、あと五分。なのに、僕は今もベッドの上。
 身体が、重い。息が、苦しい。
 熱を測りながら携帯を手に取って、美羽へと連絡をする。
 送信を押すと、すぐに既読がついて電話がかかってきた。
「……もしもし」
『直人くん、大丈夫?』
 耳がキーンとする程、電話越しに聞こえる美羽の声。
「ごめん、美羽……ゴホッゴホッ、今日体調が良くなくて……風邪ひいたかも」
 ピピピピと体温計が鳴る。書かれた数字は、三十八度五分。
 数字を見て、余計に具合が悪くなりそうだ。
「ごめ……ゴホッゴホッ……美羽に移したくないから、イルミネーションは、今度でもいい……?」
 美羽から返答が無い。
 携帯を見たら、画面が真っ暗になっていた。こんな時に、充電切れ。
 昨日、充電する間もなく、眠ったからか。
 充電してから、美羽に連絡して、それで……。
 あれこれ考えていると、視界が歪んだ。
 あ、これやばいかも。
 僕は再びベッドに倒れ込んだ。
 ……ピンポーン。
 どれくらい寝ていたのだろう、昼の日差しが眩しい。
 さっきより、身体はまだマシかもしれない。
「あ、そうだ……美羽……」
 携帯を確認しようとしたが、電源が入っていない。僕は慌てて携帯を充電した。
 早く、早く携帯が復活して欲しい。
 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
 ああもう、こんな時に誰だ!
 僕は部屋から出て、玄関に向かう。
 インターホンを確認してる余裕は、無い。
 扉を開けた途端、前に倒れ込むように視界が歪んだ。
「直人くん!」
 飛び込んできたのは、昼間の僕を照らす日差しと……僕の大好きな美羽だった。
「美、羽……?」
 これは、夢? 僕の目の前に美羽がいる。
「わ、顔真っ赤。熱は?」
 僕のおでこに美羽が手を当てる。美羽の手が冷たくて、心地いい。
「玄関まで来させてごめんね、大翔に住所聞いたの。立てる?」
「う、うん。今日はごめん、美羽」
「いいよ。そんなことより、直人くんが心配で……」
 ふわふわ、ゆらゆら。視界が歪む。
「うん。……大丈夫だから」
 僕はゆっくり立ち上がる。けど、上手くバランスが取れなくて、頼りなく壁に寄りかかった。
「直人くん、大丈夫? えと、お邪魔します!」
 目眩がする。頭が痛い。
 美羽は玄関から一番近いリビングまで、連れてってくれた。
 ソファに倒れ込むように、横になる。
「直人くん、今日ご両親は?」
「……仕事で、いないよ」
 声を出すとゴホッゴホッとまた咳が出る。
「美羽、ありがとう。……もう大丈夫だから、帰って」
「やだ」
 僕は風邪を移したくないのに、美羽は変なとこが頑固だ。
「私、お母さん亡くしてから、もう後悔したくないの」
 真っ直ぐな瞳。僕の大好きな瞳。
 この瞳をしている美羽は、絶対に意志を曲げない。
「もし、僕が仮病だったら……どうしてたの?」
「それならそれで安心してたよ。でも、絶対仮病じゃないでしょ。直人くんは、そんな嘘つけないの知ってるからね。……待ってて、私、なにか作るよ。食べたいものある?」
「…………お味噌汁……」
「お味噌汁ね、任せて! キッチン借りるよ」
 美羽は台所の方へ消えて行った。
 ふと、眠気がしてウトウトする。
 トントン、とまな板の音。沸騰する音。それから、美羽のご機嫌な鼻歌。
 なんだかその音が温かくて心地良かった。

「はい、召し上がれ」
 美羽がお味噌汁を作ってる数分、僕は眠りについていた。
 机の上に置かれた味噌汁から美味しそうな香りがする。
「ありがとう」
 ネギ、豆腐、ワカメ。そして、これはなんだろう。
「納豆……?」
「正解! 身体にいいと思って入れてみたの」
 できれば、味噌汁にじゃなくて納豆単体にしてもらいたかった。
 でも、せっかく美羽が作ってくれたんだ。
「……い、いただきます」
「うん。ゆっくり食べてね」
「…………」
「お味はどうですか?」
「……美味しい」
「でしょ?」
 めちゃくちゃ美味しい。納豆と味噌汁は、合う。
 思えば、納豆も味噌と同じ大豆でできている。美味しくないはずがないか。
「ご馳走様でした」
 僕が食べ終わると隣でニコニコ笑顔の美羽。
「美味しかった?」
「すごく美味しかったよ」
「本当?」
「うん、それに美羽のお陰で楽になった!」
 食器をもって台所まで行く。
 うん、さっきより全然身体が軽い。
「ふふ、よかった。……なんか新婚さんみたいだね」
 嬉しそうに美羽が微笑む。
 美羽と結婚したら、こんな幸せな風景が待ってるのかな。
 美羽はきっとすごくいいお嫁さんになる。……でも、隣にいるのは僕じゃない。
「直人くんって愛されて育ったんだね」
「え?」
 美羽はリビングの写真を眺めながら美羽が言う。
 その写真は僕が産まれた日の写真だ。
「いいよね、こういうの」
 切なそうに写真を美羽が見つめる。
「私ね、生まれた日に雨が降ってたの。だから、最初″美雨″だったの。でもね、そのあと晴れたんだ。それで、美羽になったの」
 懐かしそうに目を細めた美羽はきっともう二度と会えないお母さんとの思い出を語った。
「ふふ、なんか懐かしくなっちゃった。直人くんは、どんな由来なの?」
「僕は……」
 真っ直ぐで素直な人になって欲しいという両親の願いだ。
 僕は、目を背けたくなる現実を思い出した。
「美羽」
「なぁに、直人くん」
「もしも、だよ。僕と付き合ってなかったら、今頃どうしてた?」
「えー、なにその質問。直人くんと付き合ってなかったら、か。考えたこともないや」
 んー、って悩む美羽。
 答えが欲しい、でも、答えを聞きたくない。
「わかんない、が答えかな」
 聞きたくない反面、思っていない答えが返ってくると答えを求めてしまう。
「……じゃあ、もしも美羽が僕以外を好きになったら?」
「もうさっきからどうしたの? 熱まだある?」
「……ごめん」
 でも、大事なことなんだ。
 美羽は僕のおでこに手を当てて「熱は下がってそうだね」と呟いた。
「最近、直人くん″もしも″が好きだよね。……私は、何度だって、直人くんのこと好きになるよ。私は直人くんと別れても直人くんのことがずっと好きだし、他の人なんて考えたくない。直人くんがいい」
 美羽があまりにも必死だから、僕が本当に聞きたかったことが聞けなかった。
 僕は何度も美羽にごめん、と謝った。
「伝わってないと思ったから言ったの。伝わったなら、いいよ」
「……うん」
 気まずい空気が流れる。
 僕は一番、聞きたかったことが聞けなかった。
 ″もしも、僕がいなくなったらどうする?″
 聞きたい。でも、聞きたくない。
 聞いてしまったら、後戻りできなくなりそうだ。
「直人くんが元気になってくれてよかった。体調悪いのに、怒っちゃってごめんね。不安にさせたならそのぶん、直人くんが好きって言うからね! 今日はゆっくり休んで!」
 美羽は僕よりずっと逞しくて強い。
 美羽がこの先もずっと一緒にいたら、どんなに幸せだろうか。
「うん、いつもありがとう」
 もうすぐ僕たちは、社会人になる。
 これから、美羽と会える時間が少なくなる。
 砂時計の砂はさらさらと時を進めた。

    ***

 それから、僕と美羽はたくさんの思い出を作った。
 部屋の中でカメラロールをスライドする。
 そのカメラロールの中は、ほとんどが美羽との思い出だ。
 美羽と同じものを見て、美味しいものを食べて、日常の音を聞いて、自然の香りを楽しんで、僕はたくさんの幸せを美羽から貰った。
 振り返っても振り返っても、笑顔しかない。
 時間というものは残酷だ。
 今が幸せであればあるほど過去の不幸だった時を忘れそうになる。
 なんて愚かなんだろう。
 幸せすぎたせいで″あの日″が来ないんじゃないかって思ってる僕が心の隅にいる。
 このままだと、犠牲になるのは僕ではなくて他の誰かにしてしまいそうだ。
「…………」
 大人になるにつれて、常に答えのない問題の解答を求められ続ける。
 なにが正解でなにが不正解なのか、わからない。
 ……考えても、仕方がない、か。
 今日は考えることを諦めてベッドに寝転がった。
『ね、人間の感情って脆いでしょ』
「ぅわああああッ!」
『あはははは! いい加減、慣れてよ』
 今日は満月の日か。
 あれから、満月の日は雨の日も多くて一年に三回くらい僕の部屋に現れてはすぐ消える。
 今回、会うのも久々だ。
『美羽と順調じゃん、幸せすぎて辛いの?』
「……そうだよ」
 手離したくない。美羽とずっといたい。
『いいんじゃないの? 他の人を犠牲にしたって君は犯罪者になるわけじゃないんだからさ』
「…………」
 すぐに否定できなくなってる僕がいる。
 一瞬でも考えた僕は、最低な人間だろう。
『君はもう自分の人生を歩み始めてるんだよ。直人は大学を卒業して来年からは社会人。ずっとなりたかった夢を叶える。美羽と結婚して、幸せにして、事故とは無縁の関係。夢じゃないよ、現実だ。罪でもなければ、苦しむこともない。ずっと幸せは続く。それで、いいんじゃない?』
「……でも、″誰か″は犠牲になるんでしょ」
 その事実は変えられない。
『そう。だけど、直人の人生には無縁の存在。知らない人が知らない場所でたまたま死ぬだけだ。君はなんも悪くない』
 他人が死んでも僕が犯罪者になる訳ではない。
 誰かが代わりになれば、苦しむことも無い。未来に僕も大翔も美羽もみんな生きられる。
 そんな未来があるのだろうか。もしも、あるなら、僕は行きたい。
 考えれば考えるほど、大きなため息がでてしまう。
 罪悪感がない、そう言われたら嘘になる。
 でも、同じ天秤にかけたとき僕は今の幸せを選びたくなってしまう。
 そしたら、美羽と別れる必要もない。
 僕が美羽を幸せにできる。
 美羽を不安にさせることもない。
「僕は最低だ」
『人間なんてそんなもんでしょ』
 いつも悪戯で嫌な奴だと思っていた少年が今日だけは優しく感じる。
『まあまだ五年、時間もあるしね。今からしっかり美羽と向き合うでもいいし、ゆっくり考えればいいよ』
「……うん、ありがとう」
 今夜の満月はあっという間に時が流れた。
 けれど、砂時計は止まってくれない。


 ***

 あれから、約二年。
 冬空の澄んだ空気を吸っては吐く。
 僕はこの二年、美羽と向き合った。大事にしよう、と思った。
 それから、美羽の笑顔は増えて僕も笑顔になる。
 本当に幸せだ。他のものなんてなにもいらないくらい。
 そんなとき、机に置いていた携帯が小刻みに震えた。
 その画面を確認したら、大翔からだった。
「もしもし?」
 携帯を取ると、電話越しに久々に大翔の声が聞こえてくる。
『よっ! 久しぶり! 直人って今暇?』
「え、うん。暇、だけど……大翔、国試前じゃなかったっけ?」
『あー、そうなんだけど』
 今は十二月。来月に試験を控えた大翔にとって今の時期は大事な時期のはずだ。
『よかった。悪いんだけど、ちょっと頼み事していい?』
「うん、いいよ」
 大翔の頼みは、大翔の家で飼ってる犬の散歩をお願いしたいってことだった。
「いや〜、マジで助かったよ。ありがとう」
「全然いいよ、いい気分転換になったし」
 僕は散歩を終えて大翔の家でお茶をもらう。
「というか足大丈夫?」
 どうやら飼い犬のプルクナ・ペンナちゃんに噛まれたらしく、腫れ上がっていた。
 痛そうな右足を見て、いつしか僕が松葉杖を使っていたことを思い出す。
「あー平気平気。来週には完治するって」
「……そっか」
 机に積まれた参考書、教科書、大量のノート。そこには、大翔の努力が積み上がっていた。
「国試の勉強は? 僕邪魔じゃない?」
「気分転換大事だからさ。散歩にも行けなくて困るよな」
 しばらく会ってなかったからかな。
 大翔ってこんな声低かったっけ。
「なあ、美羽とは順調なの?」
 いつしか、聞かれたみたい。
 でも、大翔に聞かれるとドキッとする。
「……うん」
「あはははは! いいよ、俺もう美羽のことは吹っ切れてるからさ」
 大翔は嘘つきだ。
 大翔の性格上、必要以上に言わないし聞かない。気にならないことをわざわざ聞いてくるなんてことしない。
 でも、僕も逆の立場だったことがあるからわかる。
 求めてるのは、諦める理由だ。
「幸せだよ」
 大翔に言うのは複雑だけど、大翔の求めた答えを伝えた。
 大翔は辛そうな顔で笑ってた。
 ……残酷な世界だ。
 僕がやり直さなければ、今頃、美羽と大翔が付き合っていたのに。
 でも、僕は今この場所を譲りたくない。
 美羽の彼氏は僕だ。
「強くなったな」
 優しく大翔が微笑む。その優しさに少しだけ息が詰まるかのように苦しくなる。
「大翔、僕……」
 ″美羽のこと幸せにするよ″
 そう言いかけたとき、飼い犬のペンナちゃんが邪魔するかのようにガタンとコップがひっくり返った。
「ご、ごめん!」
「あははははは! いいよ、新しいお茶持ってくるな」
「いや、僕そろそろ帰るよ」
 ガラッと大翔が隣の部屋の扉を開けた。
 そこで一瞬見えてしまった。
「大翔、隣の部屋って……」
「あー、ばあちゃんの仏壇。七年前くらいに亡くなってさ。そういえば、小学校くらいの頃、直人も会ったことあったっけ」
 ……大翔のおばあちゃん、七年も前に亡くなってたのか。
 僕は大翔にお願いして、大翔のおばあちゃんの仏壇に挨拶させてもらった。
「ばあちゃんは寿命だったんだ。主治医の父さんも看護師の母さんにも、もう長くは生きられないって、いつ死んでもおかしくないって言われてたよ。長生きして、両親も驚いてた。ばあちゃんが幸せだったなら、俺はそれでいい。合掌してくれて、ありがとな」
 僕はおばあちゃんの写真を見つめた。
 僕がこの世界に戻って来てから大翔のおばあちゃんとは会っていない。
 手紙がなかったら、僕は今ここにいない。
「なぁ、直人。今からちょっと外行かね?」
「え?」
「遠慮すんなって。俺、車出すからさ」
 僕の有無なしに大翔は強引に僕を車に乗せた。
「任せろ、安全運転は保証する」
「ええええええええ」
 大翔らしい白の外車。フェスなんかで聞くような音楽をガンガンにかけて、大翔はノリノリで歌う。
 僕は助手席で大翔の横顔を見つめた。
 サングラスなんかかけている姿が、またよく似合っている。
「なに?」
「……大翔ってなんでもできるよね」
 もしかしたら、未来の美羽は、今の僕と同じようにこの景色を見たことがあったのかな。
「なんだよ、直人。俺のこと好きなのか?」
「僕の彼女は美羽だよ」
「あはは! 言うようになったな。俺だって付き合うなら女だな」
 大翔は車を駐車場に停車させて外に降りた。
「ほら、着いたぞ」
「ここは……」
 目の前にあるのは広い敷地と、立派なお寺、のようにも見えるけど。
 なんだろう、お参り?
「ばあちゃんの墓」
 颯爽と大翔はお墓のある方へと進む。
 その後ろを僕はついて行った。
「え? なんで僕を誘ったの?」
「……なんとなく。ばあちゃんも直人に会いたがってる気がして」
 そう言って、大翔はおばあちゃんのお墓を案内してくれた。
 お墓はすごく綺麗に手入れされている。
 きっと、すごく愛されていたんだろう。
 あの優しい皺の手と笑顔を思い出す。
「……ありがとうございます」
 僕は小さい声で呟いて合唱した。
 僕がここにいる理由も彼女のおかげだ。
「直人」
 あの日、大翔のおばあちゃんが微笑んだように大翔が笑う。
 大翔の心には余裕があって穏やかだった。
「よし、じゃあ美味いもんでも食いに行こうぜ」
 大翔が何事もないように、笑えててよかった。
 大翔が泣いて悔やんでいたら、おばあちゃんは安心して天国には行けないだろう。
 改めて、僕は心の中でおばあちゃんにお礼を言った。
 そしたら、少しだけ懐かしくて優しい声が聞こえたような気がした。
『こちらこそ、ありがとう』
 いつしか聞いたことのある優しい声。
 その声は、あの日、僕に手紙を渡してくれた時と同じ声だった。

 ***

「ごちそうさまでした〜」
 駅前の小さなラーメン屋を出た僕と大翔は、肩を並べて歩いていた。
 昔と変わらない、他愛のない会話が続いている。
 だけど、僕の中には、静かに波打つ焦りがあった。
 あと何日あるんだろう。この時間が、どれくらい残っているのか、わからない。
 笑っている大翔の横顔が、眩しすぎて、直視できなかった。
「なあ直人、まだ時間ある?」
「え、うん。少しなら」
「じゃあ、遠回りして帰ろうぜ。腹ごなしに」
 そう言って、大翔は川沿いの道を選んだ。
 秋風が頬を撫で、街灯の下に揺れる影がふたり分、並んで伸びている。
 と、そのときだった。
 キイイイイイイッ!!
 耳をつんざくようなブレーキ音が響いた。
「危ないッ!」
 とっさに目を向けた先には、小さな体が転がっていた。
 赤いランドセル。小学校低学年くらいの女の子だ。
「うそ……」
 僕の身体が硬直した。
「直人! 救急車呼んで!」
 大翔の声が、空気を引き裂くように響いた。
 僕が動けずに立ち尽くしている間に、大翔は少女に駆け寄った。
 倒れた少女の頭をそっと支えながら、意識確認、呼吸確認、出血の有無を次々に確認していく。
「……頭部に外傷、骨折疑いあり。ショック兆候はまだ出てない。気道確保、すぐに止血を……!」
 大翔の声は冷静で、的確だった。
 さっきまでラーメンをすすっていた同級生とは思えない。
 その姿は、まるで医者だった。
「大翔……」
 僕は、声が出なかった。
 目の前で血を流している女の子。
 その体に添えられた、白くて大きな男の手。
 周囲で泣き叫ぶ人たち。
 「救急車を! 早く!」という声。
 そのすべてが、あの日……あの、事故の日をフラッシュバックさせた。
 美羽が倒れて、血に染まった白いドレス。
 握った手の冷たさ。何もできずに、美羽の名前を呼ぶことしかできなかった自分。
「う、ぁ……」
 ぐらりと視界が揺れた。
 震える手。冷える足。乾いた喉。
 周囲の音が、遠のいていく。
 まただ……僕は、何もできない。
 大翔が助けている。
 僕が、命を投げ出してまで願った“未来を変える”ために戻ってきたのに僕はまた、立ち尽くしているだけ。
「……ママ、ママぁ!」
 女の子がうめくように呼ぶと、駆け寄ってきた女性がしゃがみ込み、彼女の名前を叫んだ。
「大丈夫、大丈夫よ! ママがいるからね……!」
 震える母親の声に、僕の心がぐしゃぐしゃに潰れる。
 泣き叫ぶ母親。震える子ども。
 止血しながら声をかける大翔。
 ただそれを、何もできずに見ている僕。
 ……なんで、僕がここにいるんだ。
 息が詰まりそうだった。
 あの日、僕が命を投げ出しても救えなかった命。
 今日は助かった。大翔がいたから。
 じゃあ僕は?
「直人、大丈夫か?」
 遠くで大翔の声がする。
 気づけば僕は、歩道にしゃがみ込んでいた。
 ……ダメだ。
 頭の中で何度もそう繰り返していた。
 このままじゃ、また誰かを失う。
 “知ってるだけ”の僕じゃ、誰も守れない。
 後悔……そうだ。僕は、大事な目的を見失うところだった。
 僕が、この世界に戻ってきた意味を。
 大事なことを気づかせてくれて、ありがとう。
 いつまでも、夢を見ていたら……現実に戻れなくなる。
 大翔が社会人になるまでは、もうすぐ。
 僕は覚悟を決めた。










【僕の罪と罰】

「わぁ、見て見て! すごいよ直人くん!」
 冬は綺麗だ。街ごと光でいっぱいになる。
「うん。すごく、綺麗だね」
 僕は光と、大好きな美羽を目に焼き付けた。
「一昨年は直人くんの熱で、去年はお互い仕事が忙しくて来れなかったもんね」
「うん、そんなこともあったね」
 二十四歳。今日は、君と過ごす最後の冬になる。
「ね! 写真撮ろうよ!」
 美羽とツーショットで写真を撮る。
 満足そうに笑う美羽。その隣、カメラレンズ越しに微笑む僕の姿。
 カメラの中の僕は、上手く笑えていた。
「わ、盛れた! 次はあっちに行こ!」
 冬の夕空は暗い。でも、その暗さとは対照的に広場は明るい。
 まるで、僕と美羽だ。
 夜空は僕。何も無くて、薄暗い。
 対照的に、美羽は明るい。天にまで届くほど輝いて、明るく照らしてくれる。
 星が見えないのは、美羽の照らす光が眩しいから。
「美羽」
 振り返った美羽の後ろ。
 イルミネーションが煌めく。眩しいくらいに。
「直人くん……?」
 僕の一言で全てが変わる。全部終わる。
 ああ、終わってしまうのか。
 寂しい気持ちもする。
 でも、これ以上一緒にいたら僕が美羽から離れられなくなる。
 これは、美羽のため。
「別れよう」
 白い吐息と共に発した言葉は、美羽の笑顔を奪う。
 それと同時に僕の心臓に鋭い刃が刺さった。
 痛い、痛いよ。
 でも、僕は美羽と一緒にいてはいけない。
 僕はあえて美羽の顔を見ず、目を逸らした。
「約束、守れなくてごめん。僕には好きな子がいるんだ」
 嘘に嘘を重ねる。その度、心が痛む。
「気づいたら、好きになってたんだ。美羽よりも好きで、大事な子なんだ。僕は、彼女を幸せにしたい。だから、僕と別れて欲しい」
 嘘をつくのも、こんなにも好きなのに別れなければいけないのも、……美羽の辛そうな顔を見るのも。僕の心臓を刃が突き刺して壊して行く。
 俯いていた美羽は泣いているかと思ったのに、真剣な眼差しで僕を見ていた。
 その目で見られると、「全部嘘だよ」と言って僕の方が泣きそうになる。でも、揺らいだら駄目だ。
 今日だけは絶対に。
「私、直人くんが好きだよ」
 どうしてそう簡単に言えてしまうのだろう。
 美羽だって、もう子供じゃない。
 十七歳の美羽より、ずいぶん大人になった。
「直人くん以上に好きになれる人なんていない」
 相変わらず美羽の真っ直ぐな心が僕を迷わせる。
 どうして、人は欲深くなるのだろう。
 欲しいものを手に入れると、それ以上を求める。どんどん基準は上がる。
 それなのに、手離そうとすると失うことを恐れる。時間が経てば経つほど、手放すことは難しくなっていく。
 美羽の真っ直ぐな気持ちに僕は激しく動揺した。
「美羽、僕は……」
 まるで、時間が止まったようだった。
 美羽が隣にいる。この瞬間だけは永遠であってほしい。でも、秒針は今も動き続ける。
「直人くん。私は直人くんだけだよ」
 迷うな、迷うな……!
 こんなことになるなら、贅沢に″十年前″じゃなくて″一週間前″に戻れば良かったのかもしれない。
 それとも、僕はこの幸せが得られるなら十年前に戻りたいと言うだろうか。
「僕が、……居なくなるかもしれないよ」
 逸らしていた僕の目と美羽の目が合った。
 美羽は真剣な顔だったけど、今にも泣き出しそうな程、辛そうだった。
「それでも、私は直人くんとずっと一緒にいたいよ」
 美羽の真っ直ぐな瞳。その瞳に僕は弱い。
「直人くんに好きな子がいてもいい。私、二番目でもいいよ。私は、直人くんの隣に居れるなら、直人くんの彼女のままがいいよ……っ」
 とうとう泣き出した美羽を、抱きしめることさえできない。
「ごめんね……っ、私、直人くんのこと、諦められないよ……諦めたくないよっ!」
 この幸せを手放そうとしたのに失うことの方が大きいと思ってしまう。
 もう僕は限界だった。
 これ以上、美羽といると本当に離れられなくなってしまう。
「直人くんが好き、大好き。私死ぬまでずっとずっと直人くんの隣にいたい」
 僕は美羽の傍から居なくなる。
 美羽と大翔の気持ちを想うと、僕がこのままずるずると美羽の隣にいていいわけが無い。
 残された側の気持ちは、よく知っているから。
 この罪を全部背負って生きていく。
 この答えは、もう迷わない。
 僕は、どんな罰も受けるよ。今日はついにその時が来たんだ。
 これからは、対等じゃない。僕が美羽を守る番だ。
 大丈夫、彼女のことは僕が守り抜いてみせるから。
「ごめん、美羽。それでも僕は……!」
 前を向いた時、美羽からキスされた。
 塩っぱくて、涙の味がする。
 ……好きだ。僕の方がずっと前から。
 でも……。
 僕は勇気を振り絞って美羽から唇を離した。
「美羽、ごめん。今だけ聞いてほしい」
 もう二度と戻れない。僕は言わなければならない。
「やだ。聞きたくない……っ」
「僕は、美羽と別れたい」
 心臓が痛む。
 嘘を重ねること。美羽を傷つけること。
 ズルして二回目をやり直した僕にはあまりにもあっという間とはいえ、長くて贅沢すぎる時間だった。
「僕のこと恨んでもいいよ、全部僕が悪い」
「やだ……やだ、直人くん」
 無責任でごめん。美羽は何も悪くない。
 美羽の頭をポンポンと優しく撫でた。
 ずっと一緒にいたかった。君の傍で、一緒に未来を見たかった。
 でも、君の未来、隣にいるのは僕じゃない。
 僕はもう満足だ。
「ありがとう、美羽」
 大丈夫。僕が美羽と別れたら必ず大翔が美羽を守ってくれる。
 大翔なら、美羽の傍に居てくれる。
 大翔は美羽の未来の夫だから。
「直人く……ッ」
「さよなら」
 美羽の前でだけは、笑顔でいたい。最後まで。
 誰よりも大好きだよ。
 ずっと、僕の大事な人。
 僕は泣いた美羽を残して、イルミネーションから逃げるように去った。
 ふと空を見上げる。
 何も無いと思っていた夜空には無数の星が瞬いていた。
 夜空の中、僕は息を殺しながら泣いた。
 ……これでいい。
 僕は二人の前からいなくなる。
 二人は上手くいく。幸せになる。
 ねえ、美羽。
 僕はこの選択にきっと後悔はないよ。
 大事な人を守れるなら、どんなに辛いことも耐えるよ。
 美羽のお陰で、僕は自分のことが好きになれた。
 なんでもない僕の毎日が、かけがえのない特別な時間になった。
 ……ありがとう。
 僕はこの先もずっと美羽が好きだよ。
 僕がこの世から消えても、僕はまた美羽に恋をしたい。
 勇気をだして、連絡先を僕の携帯から消した。
 これで、本当にさよならだ。

    ***
 
 美羽と別れてから二週間。
 懲りずに大翔が僕のところに来た。
 連絡先を消しても、断っても、それでも会いに来る大翔。
 話す気なんて無かった。でも、毎日来るもんだから、あまりのしつこさに僕は折れた。
 会ったのは、近所の公園。
 僕と大翔は同じ地元だ。馴染みのある場所に懐かしさを感じた。
「直人、お前なんで美羽と別れたんだよ!」
 大翔は怒っていた。
 僕が霊安室で見た時とも違う。
「美羽、泣いてたぞ。聞いてもなにも教えてくれなかった! 美羽が悩むのなんて、お前しかいない」
 大翔は心の底から僕に腹を立てていた。そりゃそうだ。大翔は美羽が好きなんだから。
 大事な人を傷つけたら、誰だって怒るだろう。
「好きな人が出来たんだ」
 でも、僕の覚悟は揺らがなかった。
「は? お前、なんで今更そんな……!」
 大翔が僕の胸ぐらを掴んで、僕を見下す。
 それでも、僕は止まらない。
「美羽は飽きたから、もういらない」
 もう何もかも手放したから。
 大事なものを守るために僕は空っぽにした。
 失うものは少ない方がいい。
「大翔にあげるよ」
 自分でも最低なことを言ってると思う。
 大翔は優しすぎるから、これくらい言わないと本気を出してくれない。
「いい加減にしろ、美羽は物じゃねえ! 俺は言ったぞ、直人。お前、逃げんなよ!」
 いいんだ。これで。
 これが正しい未来なんだから。
「うん。だからさ、大翔が美羽のこと幸せにしてあげてよ」
 僕は一瞬、視界が揺らいだ。そう思ったら遅れて地面に叩きつけられた。
 手加減は、してくれたと思う。痛かったけど、大翔の方が辛そうだった。
「なんでだよ、なにかあったんだろ!」
「……なんもないよ」
 僕は表面上の笑顔は絶対に崩さない。
「ああそうかよ、もういい。俺が美羽を幸せにする」
 吐き捨てるような言葉。
 一瞬だけ、大翔が泣いてるようにも見えた。
 でも、この顔を僕は知ってる。いつしか見た時と同じ顔。……大翔が覚悟を決めた瞳だ。
「お前は、本当にそれでいいんだな」
 それでも僕に確認を取る大翔はやっぱり優しいと思う。
「……うん、もう僕には関係ない事だから。美羽のことよろしくね」
「お前、最低だよ」
 その日以来、大翔とは連絡も取ってない。
 もう二度と会うこともない。
 でも、この方が大翔だって心置きなく、僕のことを考えずに前を向けるはずだ。
 大翔なら、美羽を幸せにしてくれる。
 これは、大翔にしか頼めないことだ。
 僕は空を見て歩き出した。
 
 
 ***

『君は本当にそれでよかったの?』
 何度目かの満月の夜、突然少年は現れる。
 僕がいなくなるまで、あと三年もない。
「……うん。いいんだ、これで」
 未練がない、そう言ったら嘘になる。
 僕の隣で笑ってて欲しかった。でも、それ以上に願っているんだ。
 美羽との幸せが永遠に続くことを。きっと、それ以外に僕が幸せになる方法は無い。
『君がいいならいいけど、僕は少し勿体なかったなって思うよ。大翔も相当怒ってたし』
 はあ、なんて少年はため息をつく。それに、と続けて少年は言葉を綴った。
『少し周りの時間を奪いすぎたと思うよ』
 きっと、それが本音だ。
 僕もそう思ってる。気づくのが遅かったかもしれない。優柔不断だったかもしれない。
 でももう、僕は引き返さない。
「……うん、わかってるよ」
 僕はそれでも後悔はないよ。
 残り、あと三年もある。
 ずっと一緒にいて突然、隣から消えたら?
 その方がずっと辛い。
 僕が守らなければ、誰かが犠牲になる。
 ヒーローになりたいわけでも、偽善者になりたいわけでもない。
 誰かを犠牲にして、僕は生き続ける方が辛い。きっと後悔する。
 それは見て見ぬふりして、現実から目を背けて逃げるだけ。見殺しにするのと変わらない。
 そして、犠牲になる誰かにも大切な人がいる。
 誰かにとって悲しむ人がいる。僕が美羽や大翔を失った時みたいに。その人も誰かにとって、大事な人かもしれない。そのことを僕はそのことを思い出したから。
 もう迷わない。
「あと三年は自分のために生きるよ」
『そう。……いくらでも付き合うよ、僕はずっと君のこと近くで見守ってるから』
「ありがとう、心強いよ」


 
 


【雨】

 深く深く沈んだ空間の中。
 晴れ渡る空。真っ白い塀。いつしか見たことある景色。
 ここは、どこだろう。
 どこに繋がっているのか知らないのに知っている気がする。
 目の前にボールが跳ねる。それを公園から追いかけてくる子供。
 危ない! 逃げて!
 声を出したいのに、声が出ない。
 トラックは加速して子供に突っ込んでくる。
 やばい!
 間一髪のところで、誰かが子供を抱き抱えた。あれは、僕だ。
 そして、僕の後ろから美羽が背中を押した。
 美羽! なんで、美羽が!
 違う、違うんだ。君じゃないんだ!
 やめて、やめてくれ!
 言いたいのに声が出ない。身体も動かない。
 スローモーションで時がゆっくりと進む感覚。
 倒れ込む直前、美羽は僕を見て優しく笑った。
「ぅわあああああああああぁぁぁッ!」
 ガバッと重い身体が飛び上がる。
『あ、やっと起きた』
「はぁ、はぁ……」
『大丈夫? かなり魘されてたけど』
 ここは……現実?
 全身に汗がビッショりだった。
 時刻を確認する。今は深夜の1時。今日は事故まであと1ヶ月だ。
「……あの日の事故の夢を見てたんだ」
『そっか』
 冷静になって考える。今日は満月の夜か。
 美羽と付き合っていた頃はあんなにもあっという間だったのに、別れてからの日々は長く感じた。
 別れたあの日から僕の時は止まったまま、心がどこか彼方に行ってしまった。
『覚悟は決めたの?』
「うん、僕は決めたよ。今、夢を見て改めて思った。この気持ちに変わりはないよ」
『そう。……やっぱり僕の目に狂いはなかった』
「なんか言った?」
『ううん、なんでもない。もう日付を超えてる、今日は特別な日になりそうだね』
 次の満月は事故の日だ。
「君と会えるのも最後か」
 この契約も、もうすぐ終わる。
 僕の使命を果たすときに。
「ねえ、死んだらさ。どこにいくの?」
『…………』
 少年のことも、よく知ってきたのに。
 不利なことは答えない。無になる。
 名前も、どこからきたのかも、彼は絶対に言ってくれなかった。
 誰もが聞かれたくないことはある。
 だから、僕は今まで無理に聞かなかった。
『なに、寂しいの?』
「うん、そうだね。少し寂しくなる」
『……そう』
「あと一ヶ月後に自分が死ぬって実感はないけどね」
『誰しも、死ぬ時は選べないからね。当然だと思うよ』
 少年が微笑む。
 大人なのか子供なのかわからない。
 でも、どっちでもいい。
 この日の夜、短い時間だったけれど僕は少年と満足するまで話した。

 ***

 朝が重い。
 少年と夜遅くまで話していたから寝不足になってしまった。でも、こんな日は、きっとこの先ない。だから、後悔してないよ。
「せんせー!」
 社会人になってからの仕事はやり甲斐はもちろんあったけど、それ以上に忙しかった。
 その方がいい。余計なことを考えなくて済む。
 僕はスケジュールも、頭の中も、仕事のことでいっぱいにした。
「んーどうした? わからない問題でもあった?」
「ううん。違うの、先生に聞きたくて」
 僕は屈んで、子供たちと目線を合わせた。
 子供たちは純粋で素直だ。でも偶に、その素直さが羨ましく思う。
「なに?」
 小学校低学年の女子生徒三人。僕はこの三人のクラスの副担任をしていた。
「先生は好きな人いるの?」
「ええっ、僕?」
 最近の小学生は凄い。
 とはいえ、小学校低学年なんてこんなもんか。
 僕は当時、本ばかり読んでて無縁の話題だったけど、今思えばこんな子もいたのかもしれない。
 大人になってから当時、見えないものが見えるようになってきた。
 直球すぎる質問に僕は戸惑った。
「あ、いるんだー」
 きゃっきゃっと飛び跳ねる子供たち。
「そしたら、先生はその人と結婚するの?」
 気まずい質問。僕の胸がチクチクと痛む。
「結婚はしないよ、僕の片想いだから」
 あはは、なんて笑って誤魔化す。
 やばい。この質問かなり心が痛い。
「なんで好きな人と結婚しないの?」
 無邪気さと好奇心は、時に残酷だ。でも、子供たちに悪気は無い。
「ねえ、せんせー、なんで?」
「んー別れちゃったからかな」
 考えないようにしていたのに、頭の中には美羽のことを思い浮かべてしまう。
 美羽がいた頃を想うと切なくて、苦しい。
「好きなのに別れるなんて変なのー」
「違うよ。先生振られちゃったんでしょ」
「えー可哀想」
 痛い痛い痛い。心が痛い。
 三人からのトリプルパンチで僕の心はズタボロだ。
「そしたら先生は、好きな人に会わないの?」
 生徒の一人が真っ直ぐな瞳で僕を見つめた。
 純粋な瞳。その瞳の奥に僕が見える。
「……もう会わないよ」
 会わなくていい。会えなくていい。
 会ってしまったら、想いが溢れるから。
 幸せなレールを歩く美羽の邪魔なんて出来ない。
「会いたくないの?」
「会えないこともあるんだよ」
 どこにいても、なにをしてても誰といても、美羽が気になって頭から離れなかった。
 今頃、美羽は大翔と幸せな未来を描いているのだろうか。
「へぇー、そうなんだ」
 子供は大人の顔色を伺う。僕の顔色を見て、もうこの話題は辞めようと思ったんだと思う。
 見てないようで、よく見てる。
 美羽も子供みたいな純粋な目でいつも僕を見ていてくれた。
 これ以上考えたくなくて、もう行こうよ、と僕は三人の手を引いて教室へ向かった。
 あの日が来るまで、あと数週間。
 時間なんて、一瞬だ。
 長いと思うと、まだまだあると思うのに。急に短くなったように感じるのは、僕が歳をとったからだろうか。

    ***

 その日、僕は定時で仕事を終えた。
 定時で帰れる日なんて久々だと思う。
 せっかく早く上がれたから、なんだか寄り道したくなった。
 無意識に歩いて、ふらっと歩いて見つけたのは美羽と出会った日の公園。
 ここに来るのは校外学習以来だった。
 僕は近くのベンチに腰掛ける。
 ″会いたくないの?″
 昼間、子供に言われた声が頭の中で再生される。
「……会いたいよ」
 声に出しても、届かない。
 会いたいって願っても会えない。
 でも、どうしても美羽を忘れられない。
 なにをしてても行き止まりで、息が詰まりそうになる。
 無意識にカメラロールをスクロールしながら、昔を思い出す。
 アルバムの最初は、数年前に撮った卒業写真。初めて僕と美羽が撮ったツーショット。
 それから、色んな場所で過ごした美羽の笑顔ばかりが流れた。
 季節のイベントはもちろん、ただの日常ですら美羽といるだけで特別な日になった。
 どうして、こんな時に楽しかった思い出ばかり思い出すんだろう。
 振り返ったらダメだと思うのに、どうしても見てしまう。
 終わって欲しくないのに、終わりを知りたいと思ってしまう。
 僕は無我夢中で写真を眺めて、最後までカメラロールをスクロールした。
 イルミネーションをバックに二人で撮った写真。
 上手く笑えていたと思った写真の僕は、今にも泣きそうな顔をしていた。
「……はは、失敗しちゃったなぁ」
 ちゃんと笑えたと思ってたんだけどな。
 僕はその写真から目を背けるように、また改めて上からカメラロールを遡る。
 何度スクロールしても、美羽との幸せな日々が頭の中で繰り返される。
 美羽に出会ってから、僕の景色は変わった。
 でも、幸せな日々はもう二度と戻らない。
 美羽はもう僕の恋人じゃない。
 僕にくれた好きって言葉も大好きな笑顔も今は大翔が知ってる。
 二度と届かないとわかっている。
「……嫌だな」
 幸せになって、なんて嘘だ。僕が美羽を幸せにしたかった。
 僕の中では美羽が全てだったから。
 ずっと美羽のそばに居たい。でも、別れを切り出したのは僕だ。
「……美羽」
 僕は空を眺めた。
 空一面には大きな雲。欠けたパズルみたいに太陽の光が射しては消えてを繰り返す。
 僕は、あと何回、この青空を見れるだろうか。
 はあ、とため息をついたとき。
「……よっこいしょ」
 僕の隣のベンチに杖をついた男性が腰掛けた。
 ぼーっとしすぎて気づかなかった。
「今日はいい日和だねぇ」
 えっと……僕に話しかけてるのかな?
 周囲には僕しかいない。
「……、今日は雨が降りますよ」
「そうかい。それはいい日和だ」
 改めて、空を見る。
 もう光が無くなるほど、空は曇り空で暗い。
 どこがいい日和なんだろう。僕にはわからない。
「初恋だった」
 立ち去ろうとしたとき、横から声が飛んでくる。
「彼女は別の男性と結婚した。その人は、彼女を置いて先に亡くなった。……でも、その前からずっと彼女が好きだった」
 ドクン、ドクンと心臓が脈打った。
「ずっと、ずっと後悔してるんだ」
 切ない声が、僕を押し寄せる波のように静かに呑み込む。
「彼女に出会ったのは雨の日だった。雨は全てを浄化してくれる。素直になれる日なんだと。だから、どうしてもね……彼女に会える気がするんだよ。後悔ごと洗い流してくれる気がしてね」
 立ち上がろうとした腰が、その言葉で重力に逆らえなかった。
 よく見ると、隣に腰掛けた男性は大翔と美羽の葬式にいた人だった。
「君は後悔しない道に進んだのかい?」
「…………」
 瞼を閉じて、脳裏に焼き付いた光景。
 いつだって、楽しい思い出だった。
 できることなら、ずっと隣にいたかった。
 美羽と一緒に生きていきたかった。
 でも、美羽を幸せにできるのは、僕じゃない。
 僕は一度、人の幸せを奪った。
 幸せになるのは僕じゃないんだ。
「僕は、……幸せ、でした」
 雲は白いのに濁った色に見える。
 まるで嘘だらけの僕の心みたいだ。
「そうかい。そしたら、君にひとつ頼んでもいいかい?」
「頼み……? なんですか?」
 彼はゴソゴソとカバンから一枚の封筒を取り出した。そして、その中身を取り出す。
「これを、この先のチャペルまで届けて欲しい。足が悪くて、坂を登れなくてね」
 取り出したのは、鍵だった。
「あの、これは……なんの鍵ですか」
「これは、亡くなった彼女の形見だよ。……お守りだ」
 相当、大事な鍵だろう。
 所々が錆びていたけど、大切にしていたことはわかる。
「どうして、僕に?」
「会いたい人に会えるって言われた不思議な鍵でね、心の扉を開くってジンクスがあったんだ。彼女の旦那さんが亡くなった時、僕が彼女に渡した。なんとなく、君は僕と同じ瞳をしていたから今、君に渡したかったんだ」
 彼は空を見ていた。
 白く覆われた雲の向こう側。どこか遠くにいる人に語りかけるように。
「これを孫に渡して欲しい。……行けばわかるよ」
 僕は渋りながらも、鍵を受け取った。でも、すぐに後悔した。
 僕はその鍵を受け取らなければよかったのに、運命の砂時計は時を動かした。









【嘘】

 空一面がくらい雲で覆われる。
 僕は坂を昇って思い出した。
 ここは、美羽と大翔が結婚式を挙げたチャペルだ。
 事故にあった日とは裏側の道。頂上まで着くといつしか見たチャペルがあった。
 僕は前に青空を見ていた場所に腰掛けた。花壇に目を向けると花はまだ蕾だった。
 あの日とは、なにもかも大違いだ。
 錆びた鍵を見る。
 僕は、十年前に戻った。
 残された側の気持ちはよくわかる。
 だから、出来ることは全部したと思う。
 ……後悔は、ない。僕の選んだ選択に間違いは無いと思う。
 でも、他の方法があったんじゃないか。
 そう思わずにはいられない。
 今頃、もしかしたら美羽はもう……。
 そんなことを考えていたら、僕の頭上から雫が落ちた。
 ついに降ってきたか、と顔を上げたら。
「直人くん?」
 ドクンと心が跳ねる。
 その声で、名前を呼ばれると止まっていた僕の心が動き出す。
 そこには、僕がずっと会いたかった人がいた。
「美羽……?」
 美羽は泣いていた。
 これは、幻覚?
 なんで、ここに。どうして、今……。
 僕は美羽に会えたのに顔が見れなかった。
「やっぱり直人くんだよね」
 会いたくなかった。そう言ったら嘘になる。でも、会いたくなかった。
 今、会うわけにはいかなかった。どうして、今日出会ってしまったのだろう。
「あ、ええと……私、おじいちゃん待ってるんだけど見なかった?」
 美羽がハンカチで涙を拭った。
 その一秒さえも、僕にとっては貴重な時間だ。
「私のおじいちゃん、この裏にある保育園の理事長なんだけど全然来なくて……って、え?」
 僕は美羽に預かっていた鍵を渡した。
「え、なんでそれ……直人くんは、どうしてここに?」
 美羽は僕から鍵を受け取る。その指先は震えていた。
「そこで会っただけ。……僕もう帰るよ」
 美羽といたら僕の決意が揺らぎそうになる。
 だって、こんなにも会いたかった。
 美羽は前より少し痩せていたけど、変わらず綺麗なままだった。
 僕と別れてから、どうしてたの?
 今、美羽は誰といるの? 色々聞きたい。
 でも、聞いてしまったら、もっと知りたくなる。
「あ、待って」
 僕が立ち去ろうとしたとき、美羽に呼び止められる。
 立ち止まる気なんてなかったのに、美羽の言葉で僕はピタッと立ち止まる。
「直人くん、一つだけ聞かせて」
 美羽の声から、緊張しながら話しているのが伝わる。
 逃げ去りたい気持ち。美羽のこと知りたい気持ち。その想いが交差する。
「……なに?」
 きっと、僕の声も震えていただろう。
 ドクン、ドクンと心臓が鼓動を立てた。
 美羽と目が合う。
 苦手になってしまった僕の大好きだった瞳。
「直人くんは、今、幸せ?」
 泣きそうな瞳。潤んだその瞳を見て、思わず抱きしめたくなる。
 でも、そんなの許されない。
「うん、幸せだよ」
 僕に幸せをくれたのは、美羽だ。
「そっか、ありがとう」
 そんな切ない顔しないで欲しい。抱きしめたくなる。
 僕は悩んだ末に、最後のひとつ、僕も美羽に聞きたかった。
「美羽は、幸せ?」
 僕は美羽のことばかり考えていた。
 美羽は僕がいても居なくても変わらないかもしれない。
 でも、知りたかった。幸せなら、諦められるから。満足できると思ったから。
 これは、ただの自己満足だ。
「……私ね、大翔にプロポーズされたの」
 美羽の一言に、心臓を鷲掴みされたような感覚。
 星屑が散ったみたいに心が壊れる音がした。
 空気が重たい。いつかの深海に突き落とされたかのような感覚。
 僕は必死に酸素を求めた。
 美羽の首元から光が反射して、眩しい。
 そのネックレスにはシルバーのダイヤモンドが輝く指輪。……相手は大翔だ。
 「……そっ、か……よかったね」
 やっとの思いで口にする。
 真っ直ぐで嘘がない。僕の苦手になってしまった瞳。
 その瞳から先に逸らしたのは僕の方だ。
「私、ずっと直人くんに会いたかった」
 僕が欲しかった美羽の言葉。
 美羽はもう僕の恋人ではないのに、高鳴る鼓動。それと同時に押し寄せる感情。
 美羽が結ばれるのは僕じゃない。
 大翔が美羽を放っとくわけない。
 大翔の気持ちに嘘は無いことを痛いくらい今も未来でも見てきたから。
 僕の方が泣きそうになるのをぐっと堪えた。
 これ以上いたら、ダメだ。
「夢を見たの。事故で直人くんが亡くなる夢。直人くんが遠くに行ってしまう気がして怖かった。直人くん、前に抱えてるもの教えてくれるって約束してくれたよね? 背負ってるものがあるなら、私が一緒に背負うよ。私が直人くんを守るよ」
 違う。守るのは僕だ。僕はいなくなる。君は、大翔と結婚して、夢を叶えるんだよ。
「私、本当は……」
「僕は!」
 声を荒らげた。泣き叫ぶような、悔しい声。こんな声を発したのは初めてかもしれない。
「美羽に会いたくなかった!」
 声が響き渡る。反響する。
「美羽は幸せを全部手に入れた、この先も! 大翔と結婚して、子供もいて、幸せじゃないか!」
 酸素が薄くなる。周囲の湿度が上がった気がする。
 でも、美羽は冷静だった。顔色ひとつ変えない。
「ねえ、直人くん。私のこと連れ去ってよ」
 今更、そんなこと言われても困る。
 僕は覚悟を決めたんだ。
 君は欲しいものを全部手に入れてる。
 邪魔者は僕だ。僕は間違いなく迷惑な人間だ。
「僕はもう二度と美羽に会わないよ」
 それでも、美羽は真っ直ぐな瞳で僕を見る。
「私が会いに行く」
 いつだって僕の欲しい言葉をくれる美羽。
 僕の心の器から愛が溢れそうになる。タイムリミットが迫る。
 だってほら、雨の匂いがする。
 素直になるのはもう少し待って欲しい。
 僕にはもう、一つしか選択肢がなくなるから。
「……まだ、わかんない?」
 思ってもないことを口に出す。
 どうか。お願いだ。まだ、降らないで欲しい。
「迷惑って言ってんだよ」
 今日だって会うつもりなんてなかったのに。
 心はこんなにも会いたかったから、あえて思ってることとは反対の言葉を口に出す。
「美羽なんか大っ嫌いだ」
 ごめんね、本当は大好きだ。
 これからも、ずっと。何年、何十年も。
「……もう美羽の顔も見たくないよ」
 美羽の涙とともにポタッと空から涙が落ちた。
 ″雨は全てを浄化してくれる。素直になれる日″
 今、浄化されたら美羽を抱きしめそうだ。
 逃げるように、涙を雨で隠しながら、僕はその場を去ろうとした。
 後ろから追いかけるように、美羽の泣き叫ぶような声が飛んでくる。
「私は、直人くんが……! 直人くんのことが!」
 その先の言葉を美羽は叫んでいたけど、雨音で全てがかき消された。
 僕は逃げるように空から涙を浴びた。












【ウェディングベル】

 ついにあの事故の日を迎えた。
 天気は晴天。
 悔しいくらい綺麗な青空だった。
 遠くでウェディングベルの音が鳴り響く。
 大翔と美羽の結婚式なんて見たくなかった。
 心が傷つくから、だけじゃない。
 あんな酷いことをして、合わせる顔なんてない。
 許されるなんて思ってもいない。
 だから僕は事故が起きる時間まで、公園で過ごした。
 ここに戻ってきてから、何度、季節を超えただろう。
 どのくらい変わる空を見てきただろうか。
 今日の空は晴天だ。
 今、この景色を見ていると、とても死ぬとは思えない。
 けれど……十年。
 僕は今日のために生きてきた。この命を使う日を。
 時に、後悔を消すために回り道をしたけど、結局戻ってくるのはここだ。
 ……今度こそ、守るよ。
 もう二度と苦しませたりしない。
 そのためなら、僕はなんだってできる。
 僕が死ぬことは、誰も知らなくていい。誰も傷ついて欲しくない。だから遺書は残さなかった。
 ……そろそろかな。
 あの日の時間が何時だったか、記憶は曖昧だ。
 僕は立ち上がり、ゆっくり道路に向かう。
「あ、先生だ!」
 向かう途中にすれ違った親子が僕の顔を見て、声をかけてきた。
 そのうちの一人の子供は僕にいつしか質問をした生徒だった。
「あら、先生なの? どうも、いつもお世話になっております」
 ……まずい。そろそろ、時間なのに。
 ペコッと社交辞令で頭を下げた。
「先生、聞いて。あのねあのね、あっちでドレスの撮影してて、すごく綺麗でね」
 僕の裾を掴んで話す生徒。離して欲しいのに、この場から動けない。
「そうねぇ、花婿さんも俳優さんかしらねぇ。とっても素敵で、この子と私までうっとりしちゃったわ」
 最初は親子の会話なんて入ってこなかった。でも、親子のワードを聞いて頭を整理する。
 ドレス? 花婿?
「あの、それどこで見たんですか」
 僕は必死だった。時間が迫っていたから。
「え、っと……この先の公園だったかしら?」
 前はチャペルで行われていた。だから、油断していた。
 どうして、今……! 僕が時を戻したから?
 いやでも、もしかしたら違う人の可能性もある。それでも、行かない選択肢はなかった。
「すみません、失礼します!」
 違うなら、違うでいい。でも、確信していた。
 そこにいるのは、美羽と大翔だって。 
 ……ダメだ。今日だけは絶対にダメだ。
 もしも、もしもそこに必ず命という犠牲が必要なら、僕が犠牲になる。
 僕がこの世界に戻ってきた意味が無くなる。
 僕のこと恨んでも構わない。
 今度こそ守れるなら、僕に後悔はないよ。
 だから、お願いだ。どうか、間に合ってくれ。
 目の前から勢いよく道路に突っ込んでくるトラックが見える。
 子供が飛び出して動けなくなっている。
 それを守るように抱き抱える美羽。
 あの日の僕のように、美羽はパニックになっている。
「美羽……ッ!」
 間に合え、間に合え……!
 僕は道路に突っ込んだ。
 必死に子供を守る美羽。
 僕は思い切り美羽を反対側の道路に突き飛ばした。
「直人くんっ!」
 美羽は驚いていたけれど、今にも泣きそうな、悔しそうな顔をする。
 トラックが突っ込んでくる瞬間、僕の視界がコマ送りするようにスローモーションになったように感じた。
 ごめん、ごめんね。
 そんな顔させてごめん。
 一緒にいられなくて、ごめん。
 無責任でごめん。
 でも、君だけは死んでも守るよ。
 君が僕に手を伸ばす。
 でも、その手が届くことはない。
 ねえ、美羽。
 僕、本当は死にたくないよ。
 もっと美羽と未来を見ていたいよ。
 でも、美羽がいなくなるのはもっと苦しい。
 だからどうか僕が居なくなっても、前を向いて生きていて欲しい。
 幸せになって欲しいんだ。
 僕は美羽に出会えて良かった。
 美羽と過ごせてよかった。
 かけがえのない特別な日々は、僕の宝物だ。
「好きだよ」
 美羽への想いが溢れた。
 ずっと言いたかった言葉。
 届いただろうか。
 美羽は一瞬だけ笑顔に変わる。
 最後に、美羽の笑顔が見られてよかった。
 僕は美羽の笑顔がこの世界でなによりも大好きだから。
 ″結婚、おめでとう″
 僕の声がかき消されるほど、青い空にクラクションが鳴り響く。
 僕の視界は青空が広がって、一瞬でコンクリートに叩きつけられた。
 音がプツリと消えて、人生が一時停止したみたいに僕は頭が真っ白になった。