【夕日】

「ねぇ直人(なおと)くんは未来と過去どっちに行きたい?」

 あれは、十七歳の秋。
 教室の窓から見える夕日が目に染みるほど眩しく煌めいていた。
 補講が終わった放課後、教室には僕と大翔(ひろと)美羽(みう)の三人しかいなかった。

 校内のあちこちから聞こえる吹奏楽部の不協和音。
 校庭から聞こえる運動部の声。
 周囲は音で溢れてるのに、僕たち三人だけがこの世界にいる。
 まるで三人だけの時間に閉じ込められたみたいだった。

「うーん。……二人はどうなの?」
 自分のことを語るのが苦手な僕は、つい問いを返してしまう。
「俺は過去だな。赤点取る前に戻ってテスト勉強する」
「そう思うなら今から勉強すれば?」
「……美羽、正論言うなよ」
 大翔はいつだって明るくて、朗らかで、僕に無いものを全てもっている。
 誰でも仲良くなれて、いつの間にか輪の中心にいるような、そんな存在だった。
「じゃあ、美羽は?」
「私は未来。好きな人と結婚して、子供と幸せな家庭を築くのが夢だから!」
「アホみたいな夢だな」
「失礼! 素敵な夢の間違いでしょ」
 ロマンチストな美羽は浮ついたように見えるかもしれない。でも、本当は誰よりも真っ直ぐで芯がしっかりしてる。
 そんなところが好きで、僕は美羽に恋をしていた。
「「で、直人(くん)はどっち?」」
 美羽と大翔の声が同時にハモる。
 まるで息ぴったり合っているかのように。

「……僕は、」

 あの日、僕はなんて答えたのだろう。
 僕は過去と未来、どちらを選んだのだろう。

 時間は流れていく一方で、色んなものを変えていく。
 選んだ答えを、僕はもう思い出せない。

    ***

「……って、なーおーとー、何で寝てんだよ!」
「ん……ごめん。僕、寝てた?」
「それはもうぐっすり。いい夢でも見てたのか?」
「うーん。なんだか懐かしい夢を見てた気がする」
 結婚式場の控え室に、僕と大翔の二人。
 関係者以外立ち入り禁止のはずなのに、大翔が強引に僕をここに連れてきた。
 どうやら僕は彼の着替えの長さに待ちくたびれて寝てしまったらしい。
 シックなタキシードを着た彼は、爽やかなのに普段よりも男前で魅力的だった。
 同い年なのに、大人に感じてしまう。
「……おめでとう」
 僕は大翔に祝福の言葉を投げかけた。
 声は自然にでたけど、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
 それでも、僕は笑った。
「ずっと隣で着替えてたけどな! お前が寝てるから〜」
「ごめんごめん」
「でも……ありがとな」
 大翔が照れたように笑った。
 急に優しい顔をされると男の僕でもドキッとした。
 その笑顔は、普段の凛々しさとは違い、どこか人間味があった。
「正直、来てくれないかと思ったよ」
 ネクタイを直しながら大翔の手が震えている。きっと、緊張してるんだろう。
「何言ってんの。来るに決まってるよ」
 あはは、と笑ってみせる。
 すると大翔は懐かしんだ目で僕を見る。
「今日はスピーチ、頼むな」
「あー……うん、頑張るよ」
 僕が言うと、大翔は寂しげに笑った。
「本当にありがとな」
 なんでそんな顔するんだよ。そんな顔されると困る。
 僕はそんなに良い奴じゃない。
 スピーチなんて本当は断りたかったけど、お世話になった親友の頼みだ。
 心のどこかで期待に応えられるか不安になる。苦しくなる。
「……あ、そうだ! せっかくだし、美羽にも会おう!」
 突然、思いついたかのように大翔が言う。
 それが、かえってわざとらしい。
「それは無理。美羽だって僕に会いたくないだろうし」
「何言ってんだよ、前から美羽のこと気にかけてただろ。つべこべ言わず、行くぞ」
「あ、ちょっと!」
 ガッチリと鍛えている大翔にひょろひょろの僕が敵うはずない。
 ちょっと強引だけど、大翔は素直になれない僕をいつも助けてくれた。
 そんなところは、昔から変わってない。
 でも、その気遣いも今となってはただのお節介。僕が、苦しくなるだけだ。
「大翔! 僕が美羽と会うなんて、大翔は嫌じゃないの?」
 僕の腕を掴む大翔の手に力が入る。
 大翔がどんな顔してるのか僕には見えない。
 僕は怖くて、大翔から目を背けた。
「美羽が会いたがってたからな。旦那は嫁の願望を全て叶えてあげるもんだろ」
 大翔はすごい。僕には、そんなこと言えない。
 眩しすぎる。深海に差し込む日差しみたいに。
 なのに、僕は深海で光を見失う。暗闇に沈む。
「おーい、美羽。いるか?」
 隣の控え室の扉を大翔がノックして「はーい」という声が聞こえた。その数秒後、扉の開く音がした。
「……直人くん?」
 名前を呼ばれたその声に、心臓がドクンと跳ねた。
 そこにいたのは今日のもう一人の主役、美羽。
 純白のウエディングドレスに着飾った彼女は今までで一番綺麗な姿だった。
「来てくれたの、嬉しい」
 あまりに綺麗な姿に僕は目を奪われた。
 それと同時に過去に刺さった棘が僕の胸をチクチクと痛めつけた。
「……二人が結婚するって言うなら、行くよ」
 精一杯、笑ってみせる。
 顔、引きつってないかな。
 僕は二人を安心させるような自然な笑顔だろうか。
「ありがとう、直人くん」
 美羽は今までで一番可愛い笑顔で微笑む。
 あ、ダメだ。……可愛い。
 美羽から目を逸らしたけど、心を奪われる。
「綺麗だよ、美羽」
 今まで感動していた大翔が口を開いた。
 僕にとって、残酷な光景だった。
 僕なら花嫁が他の男に微笑むのなんて許せない。なのに大翔は心が広い。その心の広さを羨んで、嫌でも比べてしまう。
 笑い合う美羽の顔にどこか無理をしているような影が差した気がした。
 いや、僕の気のせいかもしれない。でも、美羽の指先がドレスの袖をそっと撫でた瞬間、指先がほんの少し震えていたのを僕は見逃さなかった。
 美羽は昔から誰よりも強がりだった。
 怒られても、怪我をしても、「大丈夫」と言って笑ってみせる人だった。
 だからこそ、その微かな揺らぎが、僕の胸の奥に不安を落とした。
 もしかして、美羽はこの結婚に不安があるのかな……?
 そんな想像をかき消すように、美羽は幸せそうに笑った。
「ありがとう、大翔」
 美羽の笑顔も、言葉も、僕のものではない。
 胸に刺さっていた棘が、毒を帯びてズキンズキンと僕を苦しめる。
 僕は、どんどん深い深海へと溺れてく。
「あ、大翔から聞いたよ。今日のスピーチ直人くんがしてくれるんだって?」
「う、うん……」
 毒が回って心臓が悲鳴をあげる。
 僕は、スピーチなんてしたくない。人前に立つのは苦手だ。
 美羽を目の前にして、なんで了承したんだろうと自分を責める。
「なんだよ、直人。今更、緊張してんのか?」
「あ、はは。そ、そう。ちょっと、緊張しちゃって……僕、スピーチの練習してくるね」
 早く、酸素が欲しい。
 胸に刺さった棘は抜けずに、僕を苦しめる。
 深海は息ができなくて、苦しい。
 早く抜け出したいのに、もがけばもがくほど溺れて、暗闇の中に落ちていく。
 もう、光すら見えなくなるくらい僕は影となって暗い場所に沈んでく。
 全部遅いってことは、嫌という程わかってた。
 もう二度と、あの頃には戻れない。
 僕は、二人から逃げるようにその場を去った。




















【初恋】

 僕は挙式には出なかった。
 今日は一生に一度の特別な日。
 今、僕が二人を見たら披露宴でスピーチが出来なくなってしまう。
 外で小鳥の歌でも聴きながら心を落ち着かせよう。
 周囲の花たちも舞踊り、透き通った青空さえも彼らを祝福する。
 この世の全てが、二人の味方をする。
「…………」
 もういいや。僕に望みなんて一パーセントもない。
 僕は空を見上げながら昔を思い出した。

 高校時代、僕は美羽と付き合っていた。
 美羽との日々は毎日が楽しくて、幸せで……僕はすごく浮かれてたんだと思う。
 きっと、そんな浮かれた僕に美羽は愛想を尽かしたのだろう。僕と美羽は別れた。
 そして、僕が失恋したと気づいた時には、美羽と大翔が付き合ってた。
 どうやって別れたかなんて、僕は忘れてしまった。
 ……思い出したくなかった。
 僕は、大翔と美羽が付き合ってから、この気持ちにずっと蓋をしてきた。
 別れてスッキリする人もいれば、関係だけ壊れる人もいる。僕は後者だ。
 美羽は前を向いて僕の親友の大翔と結婚した。なのに、僕はずっと引きずって前に進めず十年という月日が過ぎた。そして、今に至る。
「はあ……」
 眩しいほどの晴天。僕には、眩しすぎる。
 その瞬間、天からウェディングベルが鳴った。
 その音を聞いて、嫌でも背を向けたい現実から離れられない。
 結局、全てを手に入れるのは大翔だ。昔から大翔は欲しいものを全て持っていた。
 僕と大翔は腐れ縁で、ずっと傍に居たから大翔のことはよく知ってる。
 別れてからも……嫌という程、大翔は美羽の名前を出す。
「直人はさ、美羽に会うつもりないの?」
 あれは今から三年前。久しぶりに大翔に会った日だ。
 学生時代は毎日顔を合わせていたのに、社会人になると毎日どころか年に数回会うことすら珍しくなる。
 会う頻度は減ったものの、大翔は何度も僕に連絡をくれる唯一無二の友達だ。
「……うん、会わないよ」
 何度聞かれても、僕の気持ちは変わらなかった。
「なんで?」
 今更、どんな顔して会えばいい?
 美羽だって僕になんて、会いたくないだろう。
「…………」
 美羽と大翔は学生時代を経て一度別れている。大翔が美羽に振られたらしい。
 でも、性懲りも無く大翔は美羽と会っていた。
 別れてからも恋人だった人に会える大翔が、僕の気持ちなんてわかるわけない。
「……美羽に告白でもされたの?」
 様子を伺うように大翔に聞いた。
 こういう聞き方するのはズルいなって思う。
 聞くのが怖い。でも、知りたい。
「いや、そうじゃなくて。俺の一方的な片想いっつーか。成人式で再会してからまた連絡取るようになって……直人だって美羽と付き合ってたから、どうなのかなーって思って」
「……僕はもう吹っ切れたから」
 僕は、僕自身が傷つかないように大翔の話を聞き流していた。今までだって、そうやって自分を守ってきた。
 何度聞かれたのか、わからない。
 大翔にも自分の心にも嘘をついた。
「そしたら、俺が美羽とまた付き合ってもいいのか?」
 僕の心臓がズキンと悲鳴をあげた。
 嫌だ、そう言ったら変わったのだろうか。
「僕に許可とる必要なんてないでしょ」
 興味ないふりして、空っぽのジュースを飲む。
 かっこつけた僕が悪い。言った後に、後悔するなんて。
「あー、うん。そうなんだけど」
 言葉にしてしまったから取り消すことはできない。
 僕にはもう大翔の背中を押すことしかできない。
「大翔ならきっと大丈夫だよ、応援してる」
 なんでも持ってる大翔が羨ましくて、現実から目を背けた。
 心の底から、生まれ変わるなら大翔になりたいって思った。
 そしたら、僕は……。
「わかった」
 大翔は悩んでいたけど、覚悟を決めたんだと思う。
 この数日後に二人は付き合った。そして、ついこの前……数ヶ月前に大翔と美羽が婚約した。
 これでいい。これで、よかった。

 ぼーっと青空を眺めていたら、ひょこっと僕の視界に天使が舞い込んだ。
「……ぅわッ!」
「あ、やっぱり。直人くんだ」
「み、美羽……?」
 晴天の空の下で輝く彼女はさっきの薄暗い控え室なんかより、何十倍も綺麗だった。
「な、何してんの? もう式始まってるんじゃ……」
 太陽に照らされ、美羽の胸元で輝く宝石が反射する。その光は、虹の弧を描いた。
「あ、見て! てんとう虫!」
 綺麗な姿なのに、無邪気なところは全く変わってない。
「てんとう虫なんて、そんな珍しくないよ」
 普段とは違うドレス姿の美羽に僕は心を奪われる。
「でも、今日見つけるのは初めてだよ」
 僕の顔を見ながら眉を下げて頬を膨らます美羽。
 ドクン、ドクンと鼓動が高鳴る。
「みんなが探してるんじゃないの?」
「あ、そうだった! 実は一緒に入場するお父さんが迷っちゃったみたいで……」
 気まずそうに目を泳がせる美羽。
「お父さん探してたら今度は私が迷子になっちゃった」
 美羽の言葉に僕は頭を抱えた。
 昔から美羽は方向音痴だった。美羽の父親にも同じ血筋を感じる。
「ああもう! 会場はこっち」
 複雑な構造をした建物内は迷いやすい。
 二度も三度も間違えられると困るので、僕が入口まで連れていくことにした。
 隣で美羽が嬉しそうに微笑む。その笑顔にドキッとした。
「やっぱり、直人くんは優しいよね」
「何言ってんの、優しくないよ」
「ううん、直人くんは優しいよ。前だって私が迷子になった時、こうやって一緒にいてくれたよね」
「そうだっけ」
「うん、そうだよ」
 覚えていないふりをした。
 本当は、僕だってしっかり覚えてる。
 校外学習に行った先。
 高校生にもなって、迷子になってた美羽が僕と一緒にいた。
 僕が美羽に恋に落ちた日。だけど、もうそれは過去の話。
 美羽は今日、僕の親友と結婚する。
 隣を歩くのは僕じゃない。
 その現実がズキンと僕の心臓を締め付けた。
「直人くんと話せてよかった」
 美羽が安堵したように笑う。
「え、なんで?」
「嫌われてると思ってたから」
「…………」
 別れたあと、僕が避けてたからかな。心当たりはある。
 今更、美羽に会ったって、どんな顔すればいいのかわからなかった。
 だから、どうしても会いたくなかった。
 あの頃の幸せな気持ちを思い出しそうになるから。
「私ね、ずっと直人くんのことが好きだったんだよ」
 寂しそうに美羽が笑う。
 あどけない思い出と重なる。
 あの日の美羽が僕に微笑んだみたいに。
 懐かしい記憶と共に、逸る気持ち。
「ずっと直人くんがいいと思ってた」
 僕にとって都合のいい妄想なんじゃないかって思うくらい、鮮明で鮮やかに。
「ふふ、夢じゃないよ。ずっと言いたかったの」
 僕がわかりやすかったからなのだろうか。美羽が僕の心を読んだかのようにこれは現実と教えてくれる。
 言葉が出てこなくて、戸惑っていると美羽が言葉を続ける。
 僕は必死に頷いて、美羽の言葉に耳を澄ませた。
「さっきもね、直人くんに会えるだけで嬉しかったの。迷子になって、今こうして話せてるのが嬉しい。私にとって、直人くんは初恋だったから」
 微笑む美羽の顔が切なくて、どんどん曇っていく。その度に僕は、苦しくなる。
「あはは、ダメだなぁ私。今更、戻れないのにね」
 ポツリ、美羽が呟く。僕はその言葉を聞き逃さなかった。
「どういう意味?」
「ううん、なんでもない!」
 聞き返す僕に、笑って誤魔化す美羽。
 もしかして、今でも僕のこと好きだったりする……?
 これは、自惚れかもしれない。
 それでも、僕は……!
「美羽……!」
 抑えられなかった。無理だった。
 こんなこと、したらいけないのわかってる。
 ごめん、大翔。
 僕は神に逆らって、親友を裏切った。その罪は、きっと重い。
 僕は、美羽にキスをした。
 今にも泣き出しそうな美羽。
 美羽はふわりと微笑みながらも、どこかで言葉を選んでいるように見えた。
 一瞬だけ視線が泳ぎ、ドレスの裾を指先で撫でる。
「直人くん……私ね、迷ってたの」
「え?」
「結婚、していいのかなって。私、昔から自分に自信がなかったから」
 僕は言葉を失って、ただ美羽を見つめた。
「大翔のことはね、すごく好き。まっすぐで、優しくて、私なんかじゃもったいないくらいで……」
 そこまで言って、美羽はふと視線を上げた。僕の目をまっすぐに見つめる。
「でも、直人くんのことを、ちゃんと忘れたって言い切れなかった」
 風が、ゆっくりとカーテンを揺らす。時間が止まったみたいに、周囲の音が遠のいていく。
「それでも、私は大翔を選んだの。優しいから、とかじゃない。大翔となら、ちゃんと前に進めるって思ったから。……私、もう、過去ばかり見ていたくなかった」
 僕がなにも言えないでいると、美羽はふわりと笑った。
「ねえ、直人くん。もしもって、ずるいよね」
「……うん」
「“もしも直人くんだったら”って、何度も思った。けど、それを思ってるうちは、きっと何も変えられない。だから、私は今日、ちゃんと“未来”を選んだの」
 そう言って、美羽は涙ぐみながら笑った。その笑顔があまりにも綺麗で、言葉が喉に詰まった。
「私、初恋を終わりにするために、直人くんに会いたかったの。……今は大翔がいる。だから、直人くんは選べないよ」
「……うん、……ごめん」
 絶対に許されることは無い。
 でも、それでも後悔はなかった。

 僕にとっても、初恋だった。
 今にも連れ去りたいくらい泣きそうな美羽は綺麗だった。

    ***

 あのあと、美羽は父親と合流して挙式に向かった。
 僕は式場の扉が閉まるまで美羽を見守った。
 扉が閉まる瞬間、美羽が振り向いた。そんな気がした。
 一瞬しか見えなかったその顔は、泣いたような気がしたけど笑顔だった。
 その姿を見て、僕の心は上の空へと戻る。
 なにも考えられない。
 この幸せなままでいたかった。
 僕は押し寄せる現実に目を背けた。
 そのまま、披露宴のスピーチで呼ばれ、マイクの前に立つ。
 壇上に立った瞬間、身体がふわりと浮いたような気がした。
 まるで酔っているみたいだった。
 足元が地面に触れていないような、全身に熱が巡るような、奇妙な高揚感。
 怖いはずなのに、どこか気持ちいい。
 どれだけ緊張していても、不思議と笑えてしまいそうな感覚だった。
「……今日は、ありがとうございます」
 拍手が湧くと、さらに体温が上がる。視界の端がにじんでいた。
 今なら、何でも言える気がした。自分じゃない自分が喋っているような。
 そんな錯覚に身を委ねながら、言葉を紡いだ。
「僕も、美羽のことが好きで、ずっとずっと大好きで……僕の初恋でした……」
 何を言ってるんだろう、僕は。
 こんなこと言うはずじゃなかったのに。
 もっと面白い話をして、二人のことを心から応援して、無難な言葉で終わらせて、それで……。
「今でも美羽が好きです。できることなら、僕がそこにいたかった」
 さっきまで熱くたぎっていた頬が急速に冷えていく。高揚感が現実へと変化していく。
 酔いの幕が降りて、僕はようやく自分の言葉を聞いた。
 その瞬間、足の裏から冷たい何かが這い上がってくるのを感じた。
 会場の視線が一斉に自分に向けられている。
 それまで胸の中で何度も練習してきた言葉が、するすると抜け落ちていく。
 えっと、何を話すんだっけ?
 覚えていたはずなのに、口が動かない。
 頭のどこかで声がした気がするのに、音にならない。
 汗が首筋を伝って落ちていく。マイクの先で、沈黙だけがふくらんでいく。
 心臓の鼓動が耳の奥で響き始め、声にならない叫びが喉をつまらせる。
 目の前にいるはずの人たちの顔も、ぼやけていく。
 眩しいライトのせいか、それとも緊張で視界が曇っているのか、自分でもわからなかった。
「あ、あの……」
 かろうじて絞り出した声は、自分のものじゃないみたいに震えていた。
 何を言えばいいのか、わからない。
 大勢の人が僕を見てる。僕に注目している。
 言いたいことがわからなくて、頭で考えても考えても、混乱してわからなくなる。
 目の前の文字すら異国の言葉のように見えてきて、読めない。
 やばい、目眩がする。
 そのとき、誰かがゴホンと咳払いをした。
 せり上がってくるのは、後悔でも覚悟でもなく、真っ白な、空白。
 ……終わった。
 高揚感はすぐに引き潮のように引いていき、胸の中には静かな空洞が残った。
 頬に当たる空気が急に冷たく感じる。
 さっきまでの熱が嘘のように消えて、手のひらは冷たく、湿っていた。
 現実の重みが、また肩にのしかかってくる。
「二人はずっと、これからも幸せでいてください」
 この気持ちに嘘は無いのに、矛盾する。
 前を見たら大翔と美羽が泣きそうなくらい困った顔をしていた。
 おかしいな、二人には笑顔でいて欲しいのに。
 スピーチを終え、深く頭を下げたその瞬間、まばらな拍手が僕を包み込み、戸惑いとともに響いた。拍手はまだ続いているのに、それが自分のためなのかもわからない。
 舞台を降りたとき、足元がぐらついた気がして立ち止まった。
 その中で二人の姿だけが痛いほどに鮮明だった。
 ……早く帰ろう。
 二人の前にいたら、僕は僕でいられなくなる。
 僕の存在は二人を傷つける。その自信だけは断言できた。
 外に出ると、澄んだ空気が透き通る。
 僕は大きく息を吸い込んで歩き出した。






















【青空】

 教会の塀を出て、道路沿いをゆっくり歩く。
 この先が駅方向なのかどこに行くのかもわからない。けど、どこでもいいと思った。
 僕は振られた。
 ……もう、忘れよう。僕の想いは伝えられたんだから。
 そう思っても脳裏に焼き付いて離れない、好きな人の笑顔。
 彼女は僕の一番信頼する人の元で夢を叶えた。
 それだけ祝福できるはずなのに、僕の目からは想いがこぼれ落ちる。
 僕だって、大好きだった。
 最初から報われない恋だった。
 なにもかもが遅かった。
 二十七歳にもなって、嗚咽混じりでよろけながら大人が歩いてる。
 過ぎゆく人から、白い目を向けられる。
 でも、今日だけは許して欲しい。
 こんなに泣いたのもいつぶりだろう。
 さっきまで静かだったのに、突然虫たちが騒ぎ始める。
 何かがおかしいと思い、顔を上げたら道路に子供が飛び出した。
 向かい側から勢いよくトラックが走ってくる。
「危ない……ッ!」
 轟音とともに、鋼鉄の塊が一直線に突っ込んでくる。
 思考が止まり、鼓動の音だけが耳に響く。
 気づけば僕は、体を投げ出していた。
 あんなに落ち込んでいたのに、どこにそんな気力があったのだろうか。
 僕はパニックになって動けない幼い子供を抱き抱えて走った。
「……ぅわッ!」
 やばい……間に合わないッ!
 トラックのクラクションが鳴り響く。
「直人くん……!」
 僕の幻聴なのか、僕の大好きな人の声で僕の名前が呼ばれた気がして、その瞬間、背中に衝撃が走る。
 鳴り続けるクラクション音。そして、鈍い音と共に耳に残るようなブレーキ音がした。
 僕は道路の反対側に突き飛ばされた。
 コンクリートに叩きつけられた衝撃で足が痛い。
 足を捻ったようだった。
 目の前の子供がギャンギャンと泣き出す。
 よかった。大きな怪我はなさそうだ。
 ホッとしたのもつかの間、周囲から悲鳴が聞こえた。
 背筋が凍るような冷ややかな汗が伝う。
 ……嫌な予感がした。
 悲鳴のする方を向くとブレーキのタイヤ痕を残したトラックと、白と赤の、……女の子。
「え……?」
 ドクン、ドクン。
 心臓が大きく脈打つ。
「み、美羽……ッ」
 頭が真っ白になる。
 美羽が……? どうして……。
 その姿を見た瞬間、僕の中の何かが音を立てて崩れた。
「美羽っ!」
 足の痛みなど忘れて、僕は夢中で駆け寄った。
 血でぐっしょり濡れた白いドレスが、地面にべったりと貼り付いている。
 美羽の目はかすかに開いていたが、焦点は合っておらず、彼女の唇は小刻みに震えていた。
「美羽、大丈夫だよ。すぐ助け呼ぶから、だから……!」
 僕は声を張り上げて通行人に助けを求めた。
「誰か! 救急車を……!」
 泣き叫ぶ子供の声。
 通りがかりの人たちが立ち止まり、スマホを取り出し、やがて遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
 でも、その音すら、どこか遠く感じる。僕の時間だけが止まっているようだった。
「美羽、頑張って……お願いだから……っ」
 震える指で美羽の手を握る。
 でも、その手はもう、信じられないほど冷たくて、力がこもっていなかった。
「な、おと……く……」
 声にならない声で、僕の名前を呼んだように聞こえた。
 なのに、その直後、ふっと美羽のまぶたが下りて、口元の動きも止まった。
「美羽、美羽! ねえ、冗談だよね? 起きてよ、美羽っ!」
 何度呼んでも返事はない。
 震える手で彼女の頬を叩こうとしたけど、その行為がどれほど無力で、どれほど残酷か分かっていた。
 周りからは人々のざわめきと、誰かの泣き声、叫び声、サイレンの音が混じり合い、現実とは思えない空間が広がっていた。
 そして、救急隊員がやってきた。
「意識なし、呼吸微弱、高エネルギー外傷です! すぐに搬送します!」
「男性のほうも外傷あり、こちらも同乗させます!」
 美羽の身体が担架に乗せられる。彼女の顔にはすでに酸素マスクがつけられていた。
 僕も誰かに腕を取られ、気づけばストレッチャーに乗せられていた。
「美羽は……彼女は助かるんですか……!」
 そればかりを叫んでいた気がする。
 誰も答えてくれない。皆、目を逸らしていた。
 その沈黙が、僕を奈落へ突き落とす。
 美羽の手が見えなくなる瞬間、僕は叫んだ。
 僕の目の前で、世界が崩れ去っていく音がした。
 それから、僕の記憶は曖昧。
 混乱して、救急車の中で大暴れしたことは覚えている。非力な僕を救急隊員は簡単に抑え込んだ。
 僕が冷静になったのは、病院の診察室で先生に診てもらったとき。
「うーん。右足は脱臼骨折だね、全治半年ってところかな」
 ズキンズキンと右足にじわじわ痛みを感じた。
「アドレナリンが切れたんだよ。どんどん痛くなると思うから痛み止め出しとくね」
「……はい」
 無気力になった僕に落ち着いて冷静に先生は話す。
「あの、先生……」
 抜け殻みたいな僕が先生を呼ぶ。
 聞こえてくる心電図モニターの音。診察室中に漂う消毒液の匂い。
 そして、先生の白衣は純白だった。
 その純白が、僕の中の記憶をフラッシュバックさせる。
「僕と一緒にいた女の子……美羽は、無事ですか……?」
 先生はなにも言わなかった。なにも答えなかった。
 代わりに隣にいた看護師さんが言葉を放つ。
「その子は、あなたの家族?」
 家族……に、僕はなれなかった。
 看護師さんの言葉に僕は首を横に振った。
「ごめんね、家族以外には言えないの」
 こんなにも現実を叩きつけられた日は初めてだった。
 僕には知る権利もない。
 そんな現実に、なにも言い返すことはできない。
 僕は松葉杖を借りて、帰ろうとした。
 でも、身体は屋上に向かっていた。
 ただ、青い空が見たかった。
 憎たらしいほどの青い空を見たかった。

 ***

 てっきり閉まっているものかと思ったが、屋上の扉は開いていた。
 僕はひっそりと扉を開ける。
 広がっていたのは僕の求めていた青じゃなく、燃えたような赤色の景色。
 いつの間にか日が落ちて、一面が夕日に染まる。
 僕はあまりの眩しさに目を細めた。
 その視界。奥のテラス席。
 僕が目指した場所には、既に先約がいた。
 見知った顔のシルエットが照らされて逆光になっている。
 確信はなかった。
 でも、そこにいる人物が誰なのかはなんとなく直感していたんだと思う。
「……ごめん」
 僕は近づいて空を見ている男性に声をかけた。
 僕の声に反応して、彼は顔を上げる。
 ここは、彼の勤めている病院。病院の名前を見た時、間違いないと思った。
 そして、そこにいたのは僕の思った通り、大翔だった。
「直人……」
 ゆっくりと大翔が振り向く。
 ひどい泣き顔だ。でも、大翔は困ったように苦笑いした。
「なんで、お前が謝るんだよ。悪いのは、傍にいなかった俺だ」
「…………」
「だから、直人が気にすることじゃ……」
「違う。僕のせいだ」
 僕が言い切ると、大翔は目を自分の手元に向けた。落ち着かない様子で手を触る。
「聞いたよ、直人が助けた子供の母親から。……足は大丈夫か?」
 こんなの、美羽の痛みに比べればなんてことはない。
 僕は大翔の言葉にゆっくりと静かに頷いた。
「そっか、ならよかったよ」
 僕が怪我の状態を告げると、大翔はいつものように微笑んだ。
 大翔は優しい。こんな時にさえ、僕を気遣う。でも、違うんだよ、大翔。
 でもその笑顔は、どこか違和感があった。いつもの明るさじゃなくて、見透かされないように作った仮面みたいだった。
 僕が沈黙したままでいると、大翔はポツリと呟いた。
「なあ、直人。俺さ、たまに思うんだよ」
「……なにを?」
「人ってさ、いつから“大人”になるんだろうって」
 僕は返事ができなかった。
「俺の両親、仕事ばっかで家にいなかったろ。何かあると、いつも“男なんだから”って言われてさ。泣くのも怒るのも、我慢して、それが“大人になること”だって思ってた」
 夕陽が彼の横顔を照らす。あんなに強く見えた大翔が、小さく見えた。
「……でも、美羽は違ったんだ。俺のこと、ちゃんと見てくれた。泣いた顔も、怒った顔も、全部。大丈夫だよ、って言ってくれた」
 喉が詰まった。
 僕は君に言わなければいけないことがある。
 君に謝っても許されないことが。
 僕は拳を握った。震えた声で言葉を発する。
「……僕は、美羽にキスをしたんだ」
 大翔は一瞬、驚いた顔をしていた。そのあとすぐに目を伏せて泣く手前。
 大翔の顔を見ると、僕の心臓がギュッて締め付けられるように苦しくなった。
「僕は最低なことをした」
 大翔の代わりに、僕の目からポロポロと涙が零れる。
 そんな資格、僕にはない。なのに、溢れ出す涙が止まらない。
「ごめん……ごめん、大翔。僕は……ッ」
「そっか。もういいよ」
 その瞬間、大翔はどこか諦めたような顔をしていた。
 泣きそうな顔してるけど、無気力。希望も、怒りも、全て置き去りにしたような。
 だからだろうか、嫌な予感がした。
「大翔。……美羽は?」
 震えながら、口にする。
 知るのが怖かった。ましてや、大翔に聞くのは違うと思った。
 最低なことをした僕に知る権利はないと思う。
 医者も看護師も僕には教えてくれなかった。
 でも、大翔は教えてくれた。
「美羽は、死んだよ」
 それは、とても残酷な形で。
「え……」
 心臓を鷲掴みされたような痛み。
 足の痛みなんかより、ずっと心が痛い。
「……嘘、だ……」
「本当だよ。今さっき死亡が確認された」
 頭が真っ白になる。
 心臓が握りつぶりされるような痛み。
 足元が崩れていく感覚。
「……信じられないなら、一緒に会いに行く?」
 世界から僕の色が消える。視界が真っ暗になる。
 気持ち、悪い。
 歪んだ視界。吐気。
 抜け殻の身体を動かす。心は無いのに身体は動く。
 数時間前まで美羽は生きていた。
 間違いなく、生きていた。
 大翔はそんな不謹慎な嘘はつかない。
 大翔が信じられないんじゃない。
 僕自身が″美羽は死んだ″という現実を受け入れられないだけだ。
 美羽を見たら、僕がどうなってしまうのか頭ではわかっている。なのに身体は一歩、また一歩と前に進む。
 ″霊安室″と書かれた部屋。扉の前で大翔が僕に本当に美羽に会うのか再度確認した。
 その問いかけに僕は静かに頷いた。
 扉を開くと顔に布を掛けられた美羽がいた。
 その顔を確認して僕は息を呑んだ。
 美羽の手に触れようとするけれど、震えが止まらない。
 美羽の手が、冷たく冷えきっている。
 瞬間、僕の頭の中に美羽が僕の名前を呼ぶ声がフラッシュバックした。
「……ぅわあああああああああああぁぁぁ!」
 僕が泣き叫んだから、大翔はなにも言わなかった。
 多分、言えなかったんだと思う。
 大翔の方が泣きたいはずなのに。
「ごめ、ん……」
 僕は泣き叫びながら何度も大翔に謝った。
 何度謝っても、何も言わずに大翔は僕の背中を摩ってくれた。
 大翔が見ているのに、僕は涙を止められなかった。
 なんで、美羽だったんだろう。どうして、美羽の命が奪われたんだろう。
 美羽は幸せになるべき人だ。
 これから、未来があったのに。
「僕が! 僕が死ねばよかった……ッ!」
 僕は、なんて過ちを犯したのだろう。
 僕は、美羽の未来を奪った。大翔だって、これから生きていくのに大事な人を失ったんだ。
 僕が生きてて、ごめん。
 僕が代わりになれば、美羽は生きてたのに。
 僕が殺したも同然だ。
 沈黙の中、僕のすすり泣く声が響く。
「直人」
 静かに大翔が僕の名前を呼ぶ。
「お前は生きろよ!」
 ずっと黙っていた大翔が怒鳴った。
 僕が生まれて初めて見た大翔の怒った顔。
 そんな顔、付き合いが長い僕でも今まで見たことがなかった。
「逃げんな。美羽の分まで、生きろ」
 怒っていた。
 でも、大翔の目から一筋の涙が零れ落ちた。
 大翔は悔しそうに、唇を噛み締めて泣いていた。
「わかったか……!」
「は、い……」
 僕はそう言うしかなかった。
 本当は死にたくて、消えたくて、仕方がなかった。
 僕なんて無価値な人間、この世界から居なくなればいい。
 でも、大翔はそれを許さなかった。
 僕は、美羽を守れず、あの優しい大翔を怒らせた。
 二人の未来を壊した。
 僕は全身の力が抜けてその場に座り込んだ。
「……葬式、絶対来いよ」
 投げ捨てるように冷たい言葉を残して、大翔は霊安室から離れていった。

    ***

 それから、四日後に美羽のお通夜があった。
 行かないつもりだったが、僕の罪を大翔が許さない。
 仕方なく重い腰を上げて葬儀場に行く。
 その日は、雨。
 参列の人が傘をさして次々と葬儀場に向かう。
 ……人が多い。
 美羽は父子家庭で交流関係は広くないはず。
 どちらかというと、顔が広いのは大翔の方だ。
 参列の受付を終えて、大翔を探す。でも、大翔の姿はどこにもなかった。
 もう葬儀が始まる時間だ。一体、どこにいるのだろう。
 僕は何度も大翔に電話をかけたけど、電話には出ない。周囲を探したけれど、大翔はどこにもいなかった。
 時間ギリギリまで探したけど、もう葬式が始まる時間だ。
 僕は仕方なく、会場に向かった。
 松葉杖をついている僕は、後ろの入口付近の席に腰かける。
 僕は、ぼーっとしていたんだと思う。
 お坊さんがお経を唱え始めて数秒後、僕は人生で二度目の絶望を体感した。
 そこには、美羽と大翔。二人の写真が並べられていた。
 言葉が出せないくらい、驚いて動けない。
 なんで、大翔まで……?
「君、大丈夫かい?」
 僕に声をかけてきたのは、隣の席に腰掛けているお年寄りの男性だった。彼は僕の松葉杖同様に杖を持っていた。
「あ、あの。なんで大翔の写真が……」
 何かの間違いであって欲しい。
 希望を賭けて、僕は彼に聞いた。
「ああ、突然だったからね。大翔くんはねぇ、美羽が死んだ後にすぐ後追い自殺したんだと」
「自、殺……?」
「もうみんなパニックで。大翔くんも相当ショックだっただろうな」
 違う。大翔は自殺するような人間じゃない。
 病院にいた時だって、大翔は冷静で……。
「…………」
 冷静、だったのか……?
 僕が大翔の立場だったら……。
 足場が崩れるように僕の中でなにかが崩れた。
 それと同時に、悔しそうな大翔の顔がフラッシュバックして頭から離れない。
「な、んで……」
 原因なんて嫌というほど自分にあることを知ってるはずなのに、それでも確認してしまう。
 僕はなんて情けない人間なんだろう。
 そして、追い打ちをかけるように彼は話を続けた。
「亡くなった美羽のお腹に大翔くんとの″子供が居た″んだよ」
 その瞬間。
 心が、身体が、凍ったように動かなかった。
 砂時計の砂が止まったみたいに、僕の世界の時が止まった。
 叫ぶ気力もないくらい、頭が真っ白になる。
「美羽も子供がいることを必死に隠してたみたいでね。大翔くんにも言ってなかったんだって」
 吐き気がする。
 僕は……僕は…………。
「大翔くんは美羽が妊娠してることに気づいてたみたいで、静かに喜んでたよ。美羽からの報告を楽しみにしてたけど、まさか、こんな形で知るなんてね……奥さんと子供、どちらも失ってショックだっただろうな」
 僕は、取り返しのつかないことをしてしまった。
 二人の幸せを壊しただけじゃない。
 僕が殺した。美羽と大翔を。そして、美羽と大翔の子供を。
 命という大切な未来を、僕が奪った。
 死ぬべきは、やっぱり僕だったんだ。
 ごめん、僕が生きててごめん。
 死んでも、死んでも、きっと償いきれない。
 それが、僕の犯した「罪」
 僕さえいなければ、こんなことにはならなかったのに。
 一体、大翔はどんな想いで僕に「生きろ」って言ったんだろう。
 大翔の気持ちを考えれば考えるほど、僕は残酷なことをしてしまったのだと自覚する。
 あの日に戻って、僕が代わりになりたい。
 ……僕は何のために、生きているんだろう。

 葬式が終わって、みんなが席を移動する。
 その中で僕だけが取り残された。
「……直人くん」
 椅子から一歩も動けない僕に声をかけたのは、ご高齢の女性だった。
 よく見ると、その女性は大翔のおばあちゃんだった。
 大翔は両親が多忙だからか、よくおばあちゃん家にいた。小学校の頃、僕も一度だけ会ったことがある。
 大翔のおばあちゃんは、最後に会った時と何も変わっていない優しい笑顔だった。
「今日は来てくれてありがとう」
 僕は言葉が何も出なかった。
「大翔も直人くんが来てくれて、安心してるわ。だからね、大翔のことは貴方が気にしなくていいのよ」
 いっそ、文句を言われた方がマシだったかもしれない。
「…………」
 謝りたいのに息が詰まって言葉が出ない。
 僕のせいで、こうなってしまった。
 原因は僕にある。
 でも、無気力な僕は頷くことも否定することもできなかった。
 彼女はそれでも優しく微笑んだ。
「ああそうそう。大翔から預かってて……これ」
 すると、おばあちゃんは一通の白い封筒を取り出した。
 シワシワの手が僕の視界に入り込む。
 ふと、目をやると彼女は温かい笑顔のままだった。
「…………」
 無造作に僕は手紙を受け取った。
「彼らの分まで生きてね」
 きっと、彼女にそんなつもりはないのだろう。
 その言葉は、僕にとっては呪いだ。
 これから、人殺しの罪を背負って生きるくらいなら死んだ方がマシだ。
 でも、大翔と約束してしまったから許されない。
 残された側の気持ち。
 僕は一生をかけて、生きて、償わなければならない。
 生きることは、この世で僕を一番苦しませる呪いだ。
「直人くん、大丈夫よ。この手紙がきっと貴方を救ってくれるから」
 ポンポンと肩を叩かれ、顔を上げるとおばあちゃんは優しい笑顔で笑っていた。
「……ありがとう、ございます」
 俯いて絞り出した声は届いただろうか。
 再び顔を上げた時には、おばあちゃんはいなかった。
 僕は白い封筒の手紙をしっかり握った。


【手紙】

 雨上がりの空に月が登る。
 その日は満月だった。満月の周りに虹色の輪っかがかかる。綺麗な月暈ができていた。
 夕方に開催されたお通夜なのに今はもう深夜を回っている。ふらついた足取りでなんとか家にたどり着いた。
 帰って直ぐに、僕は受け取った手紙を開けた。
 そこには、一枚の紙切れしかなかった。
 中身は、なにも書いていない。羅線すらない。ただの白紙。
 目を凝らしても文字なんて何も見えなくて。
 雨がすっかり止んだ満月に手紙を照らす。それでも、やっぱりなにも書いていない。
 なにかの入れ間違いだろうか。考えたって白紙なら仕方ない。
「はあ……」
 僕は諦めて手紙を机の上に置いた。
 何が僕を救うんだろう。何一つ変わらない。
 生きろと言われても困る。
 僕は台所から包丁を取り出した。
 これで、僕は、僕は……!
 震える手で刃を首に近づける。
 ごめん、大翔。僕には無理だ。
 生きる資格なんてない。意味もない。
 だから、今、そっちにいくよ。
 僕は包丁を持ったまま、台所に突っ立っていた。
 目の前のステンレスに映る自分の顔は、どこか他人のようだった。
 震える手で包丁を首元に近づけた。
 ゆっくりと、ためらいがちに刃先が肌に触れる。
「……っ」
 冷たい。思ったよりも、ずっと冷たい。
 金属の感触に、鳥肌が立つ。
 心臓がバクバクと音を立てる。
 手のひらからは汗が流れ、包丁の柄が滑りそうになる。
 ……ここで終わらせよう。
 生きていても、誰の役にも立たない。なんの価値もない。
 罪だけが積もって、生きていくことなんてできない。
 呼吸が乱れ、視界が揺れる。
 これが最後でいい。美羽、ごめん。大翔、ごめん。
 僕の手に力が入りかけた、そのとき。
 ふいに、玄関の方からカタと音がした気がして、体がビクリと跳ねた。
 誰もいないはずなのに、誰かが見ている気がした。
「……誰か、いるの?」
 返事はない。でも、それはたぶん、幻覚なんかじゃなかった。
 直後、頭の奥がギィンと金属音のように響いて、涙が一筋、こぼれ落ちた。
『本当に、君はそれでいいの?』
 誰かが、そう問いかけてきた気がした。
 でも、何を言われたって、もう遅い。命を取り返せない現実を、僕は見てきた。
 大翔が怒鳴って言った、「お前は生きろよ!」って声が頭の中で反響する。
 でもそれすらも、僕にとってはただの呪いだった。
「ごめん、ごめん……もう、無理なんだ」
 涙がぽろぽろと落ちて止まらない。
 震える手はもう、包丁を握りしめるだけで精一杯だった。
 それでも僕は、首元に刃を近づけた。
 今度こそ、終わりにしよう。
 痛みなんて、どうでもいい。
 その瞬間だった。
『ねえ、さっきから何してんの?』
「ぅわあああああッ!」
 僕の部屋には誰もいないはずなのに知らない声がして、飛び上がる。
 驚いた僕はそのまま椅子から転げ落ちた。
『あはは! なんだ、思ったより元気じゃんか』
 そこにいたのは、未就学児から小学校低学年くらいの男の子。
 疲れているからだろうか。少しだけ幼い頃の大翔に似ている気がした。
「い、いつから? どうやって……」
『さっきから。ずっといたよ』
 どうやって家の中に入ったんだろう。
 親友と好きな人を同時に亡くしたショックで、少年が不法侵入できるくらい僕が疎くなってしまったのだろうか。
「あの、君は……」
『へぇ。君、小学校の先生してるんだ』
 少年が僕の部屋に散らかった参考書を手に取った。
『にしては汚い部屋だな〜』
「違うよ。僕は教師になりたかったのに、なれなかった落ちこぼれだよ! 部屋が汚いのは悪かったね……って、そうじゃなくて」
 周囲を漁る少年を捕まえようとするのに、簡単に僕の腕をすり抜ける。
『あ、エッチな本発見』
「ちょっと……!」
『あはは、引っかかった。ただの雑誌だよ』
「あのねぇ、君さ……」
『あ、美羽』
「え?」
『の、写真発見』
 この子がなんで美羽の名前を? 一体どこで?
『美羽って名前、いいよね』
 ニコニコと笑う少年。
 月明かりに照らされて少年の顔がはっきり見える。
 子供のくせに、どこか大人びた表情をする。それで、僕と鬼ごっこする気は無いと悟った。
 だから、僕も捕まえようとしなかった。
「僕になんの用?」
 僕が尋ねると静かに少年は答える。
『僕は、君を救いに来た』
 僕を救う……? 何を言ってるんだろう。
 少年の言う言葉に僕は思わず笑いそうになる。
「はっ……馬鹿にしないでよ」
 救うと言われても現実に救いようがないことなんて、大人になった僕は嫌というほど知っている。
 できるなら、救ってほしいくらいだ。
 いつからこんな夢も希望もない醜い大人になったんだろう。
『僕は、ある人に頼まれてここにきた。選ばれた人間だけが願いを叶えることが出来る。君は、選ばれたんだよ』
 不気味な微笑みを浮かべて僕に話しかける少年。
「なにそれ、誰が僕に?」
『さぁね、でも君は知ってる気がするよ』
 いかにも怪しい。
「もう誰でもいいよ、僕を救いにきたってなに? 二人を生き返らせることはできるの?」
 少年は悪戯好きな子供のように笑っているけど、子供とは思えないくらい大人な顔。
 その目は真っ直ぐで、吸い込まれそうなほど綺麗だった。
『それはできない』
 キッパリと。そして、ハッキリと少年は答えた。
「はは……やっぱ出来ないんじゃん」
 僕の望みなんて、一つだ。
 やっぱり現実世界はそんな甘くないことを、僕は知っていた。
「出来ないならもういいよ、帰って」
 散らかった参考書を手に取りながら、動こうとしない少年に言葉を放った。
『でも、時間を戻すことはできるよ』
 ピクっと僕の手が止まり、心臓がドクンと跳ねた。
「時間を、戻す……?」
 馬鹿げた子供の発言。信じるなんて有り得ない。
 なのに、少年の真っ直ぐな吸い込まれそうな瞳に嘘がない。そう感じた。
「どうやって……?」
 僕は藁にもすがる思いで、少年を見上げた。
 月夜に煌めく少年は微笑しながら僕をその瞳の中に捉えた。
 僕も少年に真っ直ぐ向き合う。
 嘘のない少年の瞳と僕の希望が合わさる。
『僕と″契約″してほしい』
 少年は机の上からさっき僕が眺めていた白紙の手紙を取った。
『あはは、まぁそういう顔するよね。言っとくけど、僕は本気だよ』
 窓の縁に腰をかけて少年が微笑む。
 悪戯っ子みたいな顔に僕はまだ半信半疑だ。
「本当に時間を戻せるの?」
 現実的じゃないからこそ、都合のいい夢物語だと思ってしまう。
『もちろん。注意事項さえ守ればね』
「注意事項?」
 外から風が吹く。冷たい秋風が頬に当たる。
『そう。この世には、叶えられない三つの願いがある』
 ふわっと優しい風が僕の髪の毛を揺らした。
 風も音もある。なのに、時間が止まったような不思議な感覚。
 月明かりだけが鮮明に輝いて、眩しい。
 静かに少年は話を続けた。

『一つ目、″生命を復活させることはできない″
 死んだ人間も含めて、生物を生き返らせることはできない。
 どんなに抗っても森羅万象には敵わないよ。
 消すことは簡単にできても生み出すって、そんな簡単な事じゃないからね。

 二つ目、″感情に関する願いは叶えられない″
 幸せになりたい、とか。何をもって幸せというか、人それぞれだからね。
 あ、それと人の気持ちを変えるっていうのも含まれるよ。
 気持ちを変えるのは誰かの力を借りた願いで叶えるものじゃないからね。
 その場合、契約は無効になる。

 三つ目、″願いは一回だけ″
 何度も願うことはできない。
 もちろん願いの回数を増やすってお願い事も無効だよ』

 月明かりを背景にして、逆光になる。少年の瞳は月と同じ色をしていた。
 ゆっくり、時間が進む。
 僕と少年の、この空間以外、全てがスローモーションになったように。
『この三つ以外なら、時間を戻すことはもちろん、どんな願いでも叶えることができるよ』
 少しだけ心を軽くするように風が僕を揺らす。
「……ちょっと待って。確認したいんけど」
『なに?』
「今まで叶えた人はどのくらいなの?」
 僕の質問に少年は黙り込んだ。
 やっぱり、ね。
 僕は少年から目を離した。
「前例はないんだね……」
『いや、あるよ。二回。んー取り敢えず今んとこ、願いが叶う確率は半々かな』
「半分の確率で叶わないってこと?」
『半分の確率で叶ってきたってことだよ。ま、そこは僕を信じてよ』
「………」
 信じろ、と言われて信じられる程、僕は馬鹿じゃない。
『他に質問は? 今ならなんでも答えるよ!』
「仮に叶ったとして、君にメリット無くない?」
『メリットかぁ。……あるよ』
 少年は表情を崩さない。
 本当に少年なのか疑うほど大人の表情は、二十七歳の僕にすら出来ない。
『ま、僕のことは気にしないで。君から何も奪ったりはしないからさ』
 そう思うと急に少年の顔になる。
 悪戯が好きな子供、かと思えば今度は大人な表情。
「……ちょっと考えさせて欲しい」
『ふーん、まあいいけど。時間はそんなにないからね』
「え、どういう意味?」
『僕がここにいられるのは、あと数分。願いを叶えられるのは、いくつか条件があってね。そのうちのひとつは満月の夜。そして、月暈がかかった日だけ。どちらの条件も満たすとき、願いは叶う。次はいつになるかわからないよ』
 満月を見ながら少年は言う。もう少しで日が昇る。あんなにも煌めいていた満月が薄く姿を変えていた。
『そして、願いを叶えられるのは″覚悟″のある人間だけだよ』
 少年は真っ直ぐ僕の目を捉えて離さない。
『で、やるの? やらないの?』
 薄暗い月明かりに照らされた目に嘘はなかった。
「わかった、やるよ。ここに書けばいいんだね」
 僕はペンを持って願い事を書いた。
 戻ってやり直したい、と。
『ちょっと抽象的過ぎ。一分前にやり直してもいいってこと?』
「絶対に嫌だ! ……うーん、一週間前かな」
 一週間前なら美羽と大翔の結婚式前に戻れる。
 僕が先回りして事故をなかったことにする。
 それなら、間に合う。誰も死なずに済む。
『……君はひとつ勘違いしてる』
「え? どういう意味?」
 少年ははぁ、とため息をついて僕に真剣な目で訴えた。
『さっき伝えたよ、注意事項一つ目。時間は戻せるけど、命ってそんな簡単なものじゃない、って。一週間前に戻ってどうするの? 子供を助けたよね? あの子、死ぬよ。
 わかるでしょ。あのときの事故を無かったことにしたとしても、あのスピードが突っ込んできたら他に被害者が出るのは確実だろうね。トラックの運転手を捕まえても、事故なんて起こしてないから冤罪だよ。
 人が死ぬ、そのものは変えられない。必ず命という犠牲は必要になる。
 全部助けるなんて無理だよ。それなのに、一週間前に戻る、本当にそれでいいの?』
 険しい顔で少年は僕を見た。
「誰かが死ぬ運命は変えられないってこと?」
『そういうこと』
「それなら大丈夫。僕が犠牲になるよ」
 美羽は僕のせいで死んだ。僕が大翔を殺した。
 耳に残る車のブレーキ音。血に染る美羽。
 お経、線香の香り。
 ……もう二度と同じ思いはしたくない。
 僕は真っ直ぐ少年を見つめる。
 迷いなんて、なかった。
 再度ため息をついた少年は、そっと机の上にさっきの美羽の写真を置いた。
『十年前』
「………」
『誰だって死ぬのは怖いよ。せっかく時を戻せる。どうせ死ぬならさ、少しは贅沢したくない?』
「…………」
『願い事は一度きり。高校の頃が一番仲良かったんでしょ?』
「そ、そりゃ……そう、けど」
『その方が君だって、後悔なく死ねる。そうでしょう?』
 少年の言葉が僕に突き刺さる。
 本当はあの頃の美羽にもう一度、会いたい。
 一目でもいい。
 幸せそうに笑う君がみたい。
 そしたら、僕は、後悔なく生涯を終えられるだろうか。
 今はまだ、わからない。
『君の好きにしていいよ、直人』
 子供のくせに僕より大人な顔をする。
「わかった、やるよ」
 引き込まれるような強い瞳。僕は、その瞳を信じた。
『本当? 君ならそう言ってくれると思ったよ。そしたら、ここに願い事を書いて』
 手が震えながら僕は契約書に願い事を書いた。
『そしたら、直人の名前と血印をここに』
「血印?」
『当たり前だよ。契約書だからね』
 願い事の下に僕の名前の刻印とその横に血印を残した。
『本当にいいんだね?』
「……うん」
 あとは願いを口にして、心の中で強く叶うと信じること。
 どうやら、それで契約成立らしい。
『ゆっくり目を閉じて、深呼吸して』
 僕はゆっくり目を閉じ、深呼吸した。
『最後まで僕を信じて。いい?』
 少年の言葉に僕は頷いた。
 大事なものを失って、僕は気づいたよ。
 たとえ可能性が限りなく低くてもいい。
 神でも、仏でも、なんでもいい。
 これは、僕の罪償い。
『君の願いは……?』
 その瞬間、宙に舞い上がったかのように身体が軽くなる。
 今までの出来事が頭の中で逆再生する。
「″十年前に戻ってやり直したい″」
 僕はもう一度、美羽に会う。会って、二人の未来を元通りにするよ。
 二度と苦しませたりしない。
 僕の記憶が、コマ送りのように時を刻む。
 まるで撮影した風景を巻き戻すように、急ぎ足で視界が回転する。
 僕が願いを口にしたその瞬間、空気が弾けたような音がして、世界の輪郭が一気にぼやけた。
「っ……!」
 視界がぐにゃりと歪む。
 音も光も、まるで水中にいるように、遠ざかっていく。
 さっきまでいた部屋の景色が、ひとつずつ剥がれていくように消えていく。
 頭が割れそうに痛い。
 胸の奥で、何かが引きちぎれるような感覚が走った。
 疑念がよぎるたびに、不安が心を蝕んでいく。
 手も足も感覚がなくなり、意識だけが宙に浮いているような感覚。
 時間という名の巨大な渦に、引きずり込まれていく。
 耳の奥で、ざあっと波のような音が鳴り続ける。
 今度こそ絶対に救ってみせるから。
 だからもし、本当に会えたら……もう一度、君の笑顔を見せて。
 叫ぶように、心の中で言った。
 その瞬間、視界がフラッシュのように真っ白に染まった。