磯の豊潤な香りが鼻をくすぐる────俺は今、お刺身コーナーの前にいる。
「おかあさーん、俺シーフージャーウインナー食べたい!」
「もうすぐ晩御飯だからそれまで待ってね」
お買い物中の親子が通り過ぎる中、俺は隣の殿井を見上げた。
「七瀬、どうする?手巻き寿司でもしちゃう?」
ウキウキと籠を持った殿井は、大きめの刺身パックを手に取った。
「ご飯と海苔(のり)あんの?」
「わかんない。パックご飯買う?」
「……もうちょっと、見てから決めよ」
「わかったー」
お総菜コーナーの方へと進んでいく殿井の後ろに、俺はついていった。

「今日、お前ん家泊まるから」
「……えっ!?」
なんでもない風を装って行ったのに、動揺した殿井は玄関で動きを止めた。
俺が何度も揺らしてチョップもすると、とりあえずどうぞ、と殿井は玄関先でこけそうになりつつ俺を家に上げた。
「適当に座ってて」
パタパタとキッチンに入る殿井を横目に、俺はリビングをキョロキョロ眺めた。
殿井の家に初めて上がった。マンションだから造りはだいたい同じだけど、うちよりも広い。それに家の雰囲気が全然違う。
キッチンの奥の窓の前に、カーペットが敷かれてある。大人数人が寝ころべそうだ。そこから少し離れた和室の前に、六人掛けのテーブル。
(カーペットの方?それともテーブルに行けばいいのか?)
わからずにおろおろと立ち尽くした。
「あれ?そんな突っ立ってないでこっちどうぞ」
スリッパをぬいでカーペットに上がった殿井は、グラスの乗ったトレーを置いた。
「ん?どしたの?」
促されるようにスリッパをぬいでトレーを挟んで座った。
「殿井は、聞いてた?」
「さっきスマホ見たらお母さんからメッセ来てた。今日夜勤だから晩御飯は適当にしてって」
殿井のお母さんは看護師らしい。
「ごめん、俺が鍵忘れたから……」
「いや、全然!パジャマパーティーしちゃおう、デートの続きだね」
明るく殿井がそう言ってくれたが、顔を見合わせた俺達はお互いに顔が赤くなっていくのがわかった。
(なんか、変な空気になってしまった)
ぬるいというか熱いというか、生温かいというか。
きっとこれは、お互いを意識しているから、なんだと思う。
ちらりと見ると、殿井も照れくささから首に手を回してうつむいている。
だから、だけど、こういう雰囲気は照れくさくて苦手だ。
「じゃあ、お父さんの分も入れて三人分?」
「あー……、父さん今日出張だから、今夜は俺と七瀬の二人きり、だよ!」
言いずらそうにしてたかと思えば、最後は茶化すようにして言いきった殿井は、「あの~、七瀬?」と戸惑ったように手を伸ばしてきた。
(今日は、二人きり……?)
殿井に俺のこと好きみたいなこと言われて、俺も殿井のこと好きだと自覚して、そんな夜に二人きり──!?

 と、最初は慌てていたが、今は気持ちが心の底の方で平坦になっている。
「七瀬、唐揚げ買う?それともお好み焼きにする?あ、ジュースも買わないとね!」
初めてのお泊り会にはしゃぐ小学生なような殿井に、冷静さしかない。
そう、冷静さしかなかったはずなのに──
「結構買ったね!」
「ん」
こういうことする機会ないから、俺もはしゃいでいたのかもしれない。
皿の上には巻きずしに唐揚げ、焼きそば、キムチ、餃子、コロッケ、シーザーサラダ、ポッキーにポテチにチョコレートにプリンと家の晩御飯には絶対にない組み合わせだ。
「じゃあカンパーイ」
「かんぱい」
スーパーから帰って、順番に風呂を済ませ、着てきた服は洗濯機に、そして俺は殿井のスウェットを借りた。
ブカブカなのは思ってた通りだが、殿井の匂いがする気がして、風呂上がりにこの慌てふためく気持ちを落ち着かせるまでだいぶかかった。
「おばさん達、明日帰ってくるんだっけ」
「そう。じいちゃんが腰痛めて」
「ぎっくり腰?」
「いや、太郎とはしゃぎすぎて痛めたらしい」
「太郎?」
俺はスマホを殿井に見せた。
「え!かわいいね!」
殿井は俺のスマホの太郎フォルダの写真を見ては、かわいいだの癒されるだの声を上げている。
太郎は、じいちゃんの家で飼っている黒猫だ。
「先っぽにネズミの人形ついてるおもちゃで遊んでたらしい」
「どんだけアグレッシブに遊んでたの」
俺がわざと深刻に言うと、殿井は声を上げて笑った。
「全然病院行っても湿布貼ってたらなおるって言われてる程度だから」
「そっか。よかったね」
「ん」
そこからは今日の水族館の話をした。ペンギンが可愛かっただの、チンアナゴが結局出てこなくて見れなかっただの話していると、あっという間に時間が過ぎて行った。
「殿井ドクターフィッシュのとこで震えてたな」
「だってさぁ、あのついばまれる感じがぞわぞわとして」
思い出したのか殿井は身震いをした、
「あんま見ない感じだったから、笑えたよ」
「えー、もっとかっこいいとこ見ててよ」
もー、と言いながら殿井は俺のコップにオレンジジュースを入れてくれた。
「ありがと」
「いいえ。じゃあこっちも。はい、あー」
餌付けかよと思いながらも、俺は殿井が口元まで持ってきた唐揚げにかぶりついた。楊枝に差してあったからすぐ抜けた。
「うまい」
「あ、そう……」
反応のなさに殿井を見上げると、顔も耳も真っ赤にしていた。
「いや、お前がやっといてなんで照れてるんだよ」
俺だってだいぶ照れ臭かったのに。
「こんな素直に食べてくれるなんて思わなくて……」
両手で顔を覆いながら、殿井は天を仰いだ。
それからは、またお互いを意識するような雰囲気になって、とりあえず口に物を入れてくけど、普段は全然気にしないのに、食べ方とか気にしてなかなか食べ進まなかった。
「これ全部食べたらさぁ、明日つやつやになってんじゃない?」
「ん?」
唐突に、殿井がそんなことを言ってきた。
「油物多いでしょ」
皿に目をやると確かに。唐揚げに餃子、コロッケにポテチと盛りだくさんだ。
「明日もっと男前になってたらゴメンね?」
殿井はイケメン風を吹かすように前髪をかきあげた。
「アハハッ、なに言ってんだよ」
イケメン面(本当にイケメンではあるけど)する殿井が面白くて、でも空気を和らげようとして言ってくれてるんだってわかった。
「だからこの唐揚げは俺の~」
「あ、ずるい!俺ももう1個食べる!」
殿井が唐揚げの皿を俺から遠ざけるから、俺は座ったまま手を伸ばした。
そうして元の雰囲気に戻って、正直俺はほっとした。

「よく食べた~」
俺はお腹を押さえたまま仰向けになった。
「結構食べたね」
殿井がちらりと見た皿には、焼きそばが少しとポッキーが数本残ってる程度だった。
温かいお茶を飲み、ごろりとうつぶせになって窓の外を眺めた。
「いつも、ここからベランダ出てんの?」
「うん」
同じ景色のはずなのに、違って見える。
窓を開けベランダに出て、空を眺めた。今日は三日月、雨はもう止んで雲が流れていく。
「あの、七瀬さ」
俺の隣に、殿井が立った。
この顔はもうわかるようになった。ぶすっとしてるように見えて照れているだけ。
「なに?」
「その~……」
「だから、なに?」
もごもごしている殿井は、様子をうかがうように顔を俺の顔の前に持ってきた。
「家の中だし、ちょっとだけ、甘えていい?」
「……は?」
「手、繋ぎたい」
なんでそんなことを今、この瞬間に、お前は聞いて来るんだ!と叫びたくなるほど、恥ずかしかった。
「……ダメ?」
けれど俺を見てくる頬を染め、何なら目も潤んでるような殿井に俺は完敗だった。
「……ん」
殿井と反対を向いて、俺はぶっきらぼうに手を出した。
そうするとゆっくりと、最初の手のひらに指が触れ、その指が俺の指の間に入り、すぐにほどけるんじゃないかと思うくらいのゆるさで手が繋がれた。
「七瀬」
「なに?」
俺は月を眺めるふりをしているけど、実際は殿井の手の温もりにずっとどきどきして、でも同じくらいに安心もしていて、いつ殿井の方を向いたらいいのかもうわからない。
「あのさ、本当に、俺と付き合ってくれる?」
いつもより低く響くその声に、気づけば殿井を見上げていた。
真剣な眼差しと、握られた手から殿井の緊張が伝わってくる。
「…………殿井のことは、友達以上に思ってる」
きっと俺の緊張も、殿井に伝わっている。
「じゃあ──」
殿井が明るい笑みを浮かべたけど、「だけど」と俺は口を挟んだ。
「今はちょっと、時間がほしいって言うか」
歯切れの悪い返事しかできなかった。
もう少し、時間が欲しい。このまま殿井と付き合うのは、弱い自分を守るだけの、ただ殿井に甘えようとしているだけで、誠実じゃない気がする。
俺はつたない語彙力じゃ、これが精いっぱいだ。
「わかった」
「ごめん」
「いいよ、待ってるから」
なんでもないことのように、殿井は言った。
「心の整理したいってことでしょ?七瀬がもういいなって思ったら教えて。それまで待ってるから」
優しくて、温かくて、気持ちの籠った目が俺を見つめている。
そんな目を、見つめたまま言えなくて、俺は殿井から視線を外した。
「殿井は、優しすぎる。俺いつになるとか、全然わからないし……その間に、殿井の前にもっといいと思う人が現れるかもしれないし」
自分で言ってて、苦しくなってくる。
待ってって言ってる手前、新しく好きな人ができたなら、俺は身を引くしかないとは思っている。
「絶対にない」
殿井はぎゅっと俺の手を繋いだ。
「絶対にないから。ずっと待ってるし、ずっと俺が七瀬のそばにいるから。だから七瀬は安心して、俺のとこにおいで」
そう言いながら、殿井は繋いだ手と反対の手で俺の頭を撫でた。
「……なんかその言い方、嫌だ」
面映ゆくてプイッと顔を背けると、ブーブー言ってた殿井が「ちなみに」と背けた俺の顔を両手で挟んで自分の方へと戻した。
「俺の付き合いたいは、ずっと一緒にいたい、だから。俺が一番、七瀬のそばにいたい。あと手も繋ぎたいし、ハグしたいし、キスもしたいから」
「……キッ!?」
カァッと一気に顔が赤くなってしまった。
「七瀬、かわいいにもほどがあるよ」
にっこりと微笑む殿井に、デコピンをされた。
おでこを手で抑えつつ、照れ隠ししている殿井にそっくりそのままお返ししたかった。
 部屋に戻ってからもしばらく、だらんと横になって空を眺め、俺が頭を置いていた方の足がしびれたとあぐらを崩そうとする殿井をからかって(嫌がる俺の頭を無理やり自分の足に乗せたのは殿井だから自業自得だ、俺だって全身凝った)から後片付けをして、和室のテレビでゲームをした。
普段、瀬里香(せりか)に連戦に負け続けている俺だが、どうやら鍛えられていたようで、殿井に勝ち続けるから少し手を抜いてみたら拗ねられた。そうやって二人で騒いていたのに気づけば寝落ちしていた。
先に起きたのは俺だった。
畳の上で寝顔でもこんなに爽やかなのかと思う殿井が、気持ちよさそうに寝てるから、しばらく俺も隣で寝ころんでいた。
ずっとどこかドキドキしていて、でも隣にいるのが心地よくて、その気持ちを持ったまま家に帰った。

でも付き合うって本当に、なにを基準にしたらいいんだろう。
「おじいさん、回復してよかったね。俺も太郎に会いたいなぁ」
登校中、週末に瀬里香が撮って来た写真を見終わった殿井は、俺にスマホを戻した。
「まぁ、機会があれば」
「えっ、いいの?」
「たまにじいちゃんが出かけるとき、預かるから。そんとき声かけるわ」
「わー、ありがとう!」
本当に楽しみにしているのだろう。殿井から鼻歌が聞こえる。
「…………かわいい」
「えっ……?」
驚いた顔で殿井がこっちを見て、俺は口から出てしまっていたと気づいた。
「いや、あの、……」
やばい、逃げたい。恥ずかしくて体が熱くなって、だんだんと汗ばんできた。
殿井を見ていられなくて、俺は白線に目を落とした。
「────七瀬、危ないからこっち」
ちょうど坂を車が上ってきて、俺はくいっと殿井にカーディガンを引っ張られて、車道側から歩道側に移動させられた。
「…………ありがと」
「ん」
その声だけでも、こんなことされただけでも、恋愛偏差値の低い俺は朝から悶絶ものだ。
だって殿井だって照れてるってわかるから。
 落ち着かない気持ちのまま教室に着くと、真っ黒の四角い箱が俺の机の上に置かれていた。
(……なにこれ……、新手のいじめだろうか)
こわすぎる。サーっと気持ちが冷えた俺は、箱を前に鞄の持ち手をぎゅっと握ってたじろいだ。
「なにそれ?」
「わ、わかんない……」
俺は顔面蒼白猫背で隣の殿井に首を振った。
「俺見ようか?」
「でも、なんか爆発でもしたら」
「いや、爆発はないから。なんでこんなときだけドリーミーなの」
軽く笑いながら、殿井は不気味な黒い箱の蓋をパカッと開けた。
「…………え?」
中を覗くと、俺の好きなカフェのギフト券が入っていた。
「七瀬、なんか心当たりある?」
「あの、今日は~……」
これを言うのは、少し気が引ける。
どうにか違う話題にできないかと考えるが、全くなにも浮かばない。
「あ、七瀬。誕生日おめでと!」
その言いにくいことを、後ろのドアから入って来た柳が言い切った。
「あ、ありがと」
「それ、俺から」
ビシッと箱を指さした柳の隣にいた鉄も、俺にしわくちゃの紙を渡してきた。
広げると、鉄のバイト先のたこ焼き屋の500円クーポン券だった。
「食べに来い」
「ありがと」
去年も同じだった。多分来年も同じ気がする。
鉄のこういう揺るがないところが面白くて、笑ってしまった。
「え、七瀬今日誕生日なの?」
殿井は俺の肩が殿井の胸にあたるくらいまで近づいてきて、後ろから俺のシャツの襟をゆるく引っ張った。
「あれ?殿知らんかったの?」
「俺聞いてない」
殿井は拗ねたように片頬を膨らませた。
「……おめでとうって言ってくれないの?」
俺は真上にある殿井を見上げた。言ってもらって、この話題は終わりにしようと思った。
「────っおめでとう!あとちょっと待ってて!」
耳が痛くなるくらいの声量で祝ってくれた殿井は、慌ただしく教室から出て行った。
なんだなんだと思いながら、「俺のプレゼントも見てくれよ」と言う柳に「この箱はない」と文句を言った。
そうしているとバタバタと殿井が戻ってきた。
「七瀬、誕生日おめでと!」
全速力で買ってきたのだろう、殿井は髪は乱れてるし息も切らしている。
「あ、ありがと」
殿井から受け取ったのは、よく俺が自販機で買っているコーラだった。
(いつも、見てくれてたんだ……)
コーラをもらったことより、それがうれしかった。
「つーか、帰りになんか買ってやればよかったんじゃないのか」
鉄の悪気のないぶった切りが入り、俺は鉄の腕にグーパンをお見舞いした。
「と、殿は誕生日いつだよ?」
しおれそうな殿井を前に、柳がわざと明るく問いかけた。
「俺?4月21日だよ」
「もう過ぎてんだな。来年は祝ってやるよ」
ふざけて殿井をつつく柳に、殿井は静かに「ありがと」と言った。

(コーラ、もらったし……)
気になる、というか気にする。
隣を歩く殿井は別に気にしてないだろうけど、缶ジュースといってもプレゼントはプレゼントだし──。
「七瀬、聞いてる?」
殿井が俺の後頭部に手をあてたかと思ったら、殿井の方を向かせられた。
「なんかあった?」
心配そうに俺を見る殿井にきゅんとする。
(でも、お前の誕生日祝えてないの気にしてるなんて言えないし──)
うーんと悩んでいると、坂の下のコンビニが目に入った。
「……あのさ、今日殿井の家、行ってもいい?」
何も考えず、勢いだけで言ってしまった。
「えっ!?いいけど」
「わかった!ちょっとここで待ってて」
スタスタと早足で、俺はコンビニにへと向かった。

「1個ずつ、食べよう」
殿井の家のテーブルの上に、俺はコンビニのショートケーキの2個入りパックを置いた。
「うん、七瀬、誕生日おめでとう」
殿井は不思議そうにしつつ、俺が自分の誕生日ケーキを買ったのだとでも思ってるのだろう。
「ありがと。……殿井も、おめでとう」
「ん?」
もっと殿井ははてなでいっぱいの顔になった。
「その、殿井の誕生日、祝えてないから……、今年はこれで」
俺は胸の前で手をもじもじとさせながら、ぼそぼそと言うことしかできなかった。
(なんかもっと、言い方があるだろうが!)
自分で自分にそう思うけど、でも俺はこれでも精一杯だ。
「──七瀬、ありがとう」
ぎこちなく殿井の方を向くと、殿井は俺の好きな優しくて温かい笑みをしていた。
「うれしいなー、記念に写真撮っとこ」
「……そうかよ」
本当はもっと素直に言いたいのに、素っ気なくしか言えない。自分でも照れてるってわかってる。自分で照れてるってわかってるから余計にどうにもこうにもうまくいかない。
(でも、殿井がよろこんでくれてるからいいか)
花でも周りに飛んでるんじゃないかってくらいうれしそうな殿井がポケットから取り出したスマホのホーム画面が見えて、俺はギョッとした。
「ちょっと待て!」
「なぁに?」
「それ、画面っ……」
俺がそう言うと、ショートケーキに照準を合わそうとしていた殿井がホーム画面に戻した。
そこには、水族館で撮った俺とのツーショット写真があった。
「いいでしょ~、七瀬もお揃いにする?」
「なんでその写真にしてんだよ!?」
「え?だって七瀬かわいいし。瀬里香ちゃんセレクトの服だったんだよね。朝ばったりしたとき良い仕事ありがとって言ったらピースされたよ。無口だけど面白い子だね」
「違うのにして!」
「えー、なんで?」
「いいから!」
不満そうな殿井からスマホを奪おうとするが、殿井も俺からスマホを遠ざけようと反対に腕を伸ばした。殿井の手足が長いのはわかっていたが、リーチが長すぎて全然届かない。
絶対に、絶対に違うのにして欲しい、だって──
(あんな顔絶対に、殿井の前でしかしてない!そんなの絶対にダメた!)
必死に手を伸ばすも、殿井もまた腕を伸ばす。
「渡せって……って、うわっ!?」
体重を乗せていた方の手がすべって、気づけば俺は殿井の上に俺がのしかかってしまった。
「…………」
「…………」
殿井の上に乗っかったまま、なんとも言えない空気感の中見つめ合った。
けれど先に音を上げたのは俺の方だった。
そっと殿井の上からどいて、少し離れた場所に座った。俺がどくと、殿井も座りなおした。
「わ、悪い……」
「……いいけど」
こういう雰囲気は、未だにどうすればいいかわからない。
お互いに意識して、でもこの雰囲気を壊したくない。付き合ってたらこのままいちゃいちゃしたらいいのかもしれないけど、そうじゃないし──
「あの、七瀬」
「なに?」
お互いに様子を探り合うように、見つめたり、目をそらして、また目を合わせた。
「このままで、いいよね?」
そうやって殿井がわざとらしくスマホを見せてくるから、「ダメだって!」と俺はテーブルを叩いた。
「なんでそんなにダメなの~?」
「ダメったらダメ!」
そうやって殿井がもとの雰囲気に戻してくれたから、俺もまた駄々っ子に戻った。
「ダメ!」「ダメじゃない」なんて言い合いを繰り返し、結論が出ずじゃんけんに持ち込まれた結果、俺が勝った。
「じゃあこっちにするよ。こっちもお気に入りだから」
そう言って殿井が見せて来たのは、いつ撮られたのだろう。水族館で巨大な水槽を眺める俺の後ろ姿だった。
なんで俺縛りなんだよ。
「そんな照れなくてもいいのに」
「照れてない!」
俺は隣の殿井をにらんだ。
「そんな見つめてきてもかわいいだけだよ」
頬をゆるめて俺を見る殿井に腹立って、俺は殿井のケーキにフォークを刺し、半分くらい食べてやった。
「あっ!俺のなのに!」
「うるさい!」
今日は俺の誕生日なんだから、折れてくれたっていいじゃないかと思いつつ、殿井にまた目をやった。
「七瀬、来年も2人でお祝いしよーね」
そうして殿井が俺の口元を指で撫で、その指を殿井は舐めた。
「生クリームついてたよ」
さっき勢いよく殿井のケーキを食べたせいだ。
「なんでお前、平気でそんなこと──!!」
俺はもう愛し気な目で殿井が見てくるのも、すでに彼氏面なのも、生クリーム拭かれたのも、それを舐められたのも、全部全部恥ずかしいし緊張してくるわで頭がパンクしそうだった。
「もう帰る!」
「えっ、七瀬……」
そう言って俺は乱暴に鞄を取って大股で敵前逃亡した。
帰るとリビングにいた瀬里香に「お兄、ゆでだこみたい。殿井さんに告られでもした?」と言われ、その場で崩れ落ちた。
なんで瀬里香にもバレてるんだよ。