”好きな子と出かけたいって普通でしょ”
そんなこと言われたら、もう意識しない方が難しい。

「いい天気でよかった、絶好の水族館日和だね」
「いや、超雨じゃん」
隣を歩く一段とテンションの高い殿井(とのい)を、俺はバッサリ切った。
「ほら、雨だからこそ天気の関係ないところでよかったよね」
それはそうかもしれないけれど、どうせなら晴れていてほしかった。梅雨入りしたからしょうがないけど。
殿井は長い傘を持ってきたが、俺は折り畳み傘。持ち物が増えるのはあまり好きではない。
(それにしても──)
隣で傘を閉じる殿井をこっそりと見つめた。
ふわふわしてるのはいつもと変わらない。けど、出かけるときの服は初めて見た。
ゆったりめのシャツに細身のパンツを合わせるシンプルなスタイル。
(普通に、めっちゃ、かっこいいんですけど!)
それにいつもと違って前髪を分けているのもよく似合っている。
うらやましさとストライクゾーンど真ん中のときめきと、いろんな感情がないまぜになって、俺は傘を畳みつつため息をついた。
「どしたの?」
そうするとゆるふわな殿井が覗き込んできた。
「……なんでもない」
今日この隣にずっといるのかと思うと、緊張する。

「どれがいいのか……」
俺は昨日、クローゼットから出した服を見つめ、頭を悩ませていた。
(普通に遊びに行くからラフな感じでいいか……、でもデートって言われたし)
かれこれ1時間くらい悩んでいる。なんでこんなに服に悩まされないといけないのか、段々と俺はイライラしてきた。
(もういい!明日気分で選ぶ!)
面倒くさくなった俺は、服を積んだベットの上にダイブした。
「お兄、お風呂あがったから……、なにしてるの?」
風呂上がりの瀬里香(せりか)は、頭にタオルを巻いた状態だった。
「おう、ありがと。兄ちゃんが乾かしてやろうか?」
「今日はいい。服決めてるの?」
「おー、明日殿井と出かけるからさぁ。でももう面倒になって」
「……これとそれ、合わせたら?」
「どれ?」
瀬里香に相談しながら、なんとか今日の服を決めた。
「どこ行くの?」
「水族館」
「ふーん……」
意味深な笑みを浮かべた瀬里香は、「楽しんできてね」と部屋から出て行った。
もしかすると瀬里香も水族館に行きたいのかもしれない。今度連れて行ってやらねばと思いつつ、ゆっくり風呂に入ってからいつもより早くベットに入った。でも変に緊張しているせいで、なかなか寝れなかった。

 券を買うとイルカとペンギンの柄だった。
七瀬(ななせ)どっちがいい?」
顔の横で一枚ずつ持った券を見せてくる殿井は、あざといと思う。
「……ペンギン」
正直、どっちでもいい。
「俺、水族館久しぶりに来たよ」
「俺も──うわぁ……」
入った瞬間、思わず声が出た。
大きな水槽の色とりどりの魚に迎えられた。少し進むとぐるっと水槽に囲まれ、まるで海の中に潜っているようだ。
神秘的で、美しい青の世界。
見上げながら、左右をきょろきょろと見つめながら進んでいると、そっと手にあたたかいものが触れた。
見ると殿井が小指だけ繋いできていて、思わず俺は殿井を見上げた。
「危ないし、今日デートだから」
照れて、むしろ無表情になっている殿井の手は、いつもより熱い気がした。
「ダメ?」
「……わざとしてるだろ?」
困り顔を俺に向けていた殿井はくしゃっとした笑みを浮かべ、また水槽に目を向けた。
(なんでこんなに、どきどきさせられるんだろう)
どうしても考えてしまう。比べるものじゃないと思ってるけど、どうしてもしてしまう。
(さとし)と付き合ってた時は、もっと安定して安心して、和やかだった。付き合う前と、そんなに変わらなかった。
けど、殿井とは違う。そばに来る心臓がうるさいし、笑ってると俺もうれしい。
それがどうしてなのか──自分の心の中が見えそうになると、俺はそこから目を背けてしまう。答えを知るのがこわいから。
それなのに俺は水槽を見ることもなく、気づけば殿井を見上げていた。
「ん?どうしたの?」
「……なんでもない」
水槽に目を戻した俺は、さっきまでと違って、もう水槽に集中なんてできなかった。
 小指だけ繋いだままゆっくりと進んで、オオサンショウウオを眺め(159㎝と俺より大きくてショックを受けた)、ペンギンが外に移動するところを見つつその光景を撮り、ドクターフィッシュ体験をして(殿井は手に食いついてくる魚に震えていた)、クマノミやスズメダイとかカラフルな熱帯魚の水槽を覗き込み、クラゲゾーンまで来た。
さっきまでのエリアよりもう一段暗がりの中、白や淡い黄色。半透明で色鮮やかに光るクラゲがふわふわと揺らめく。単色で光るクラゲもいれば、淡い緑から青、白くなって淡いオレンジからへと紫へと色を変えていく姿が幻想的だ。
(こういう風に、俺の中の殿井への気持ちも、色を変えていったのかな──)
周りが静かなのも相まってだろう。なんだか殿井と二人だけの世界にいるようだった。
だから、殿井がゆっくりと手を繋いできたとき、戸惑いも恥じらいもなく手を繋ぎ返せたのかもしれない。
「行こっか」
「……うん」
小さな子が近づいてくる声がして、クラゲエリアから出た。
歩き始めると繋いでいた手はそっと離された。
(もう少し、繋いでいたかったな)
行き場がなくなったように、俺は繋いでいた方の手をポケットに入れた。

「いったんお昼にしようか」
殿井に言われて時計を見ると、もう13時半を過ぎていた。
まだ館内を半分見終わったくらいだから、とてもゆっくり見てたのだろう。
「そうだな。カフェってどっちだっけ?」
館内図を見ようと、壁側を向いた時だった。
「あれ、七瀬……?」
その声に思わず体が震えた。もう話しかけられることもないと思っていた声の方を向いた。
「……智」
智と、智の腕に両腕を回しぴったりとくっついている彼女がそこにいた。
「あ、ごめん。つい話しかけちゃって……」
「別に……」
智も俺も、気まずすぎて言葉が続かない。
「殿井君だっけ?やっば。実物ほんとにかっこいい」
「ありがとうございます。彼氏の前でそんなこと言って大丈夫?」
「えー、妬いてくれるの?」
殿井がさらりと流すと、ラブラブなのを見せつけるかのように彼女が智にもっとくっついた。
「今そういうの言われると困るな」
困り顔で笑っている智も、見ていられなかった。
「俺お手洗い行ってくる」
その場から逃げたくて仕方なかった。
 冷たい水で手を洗っていると、少し冷静になった。
(智と会うのは気まずい。でも、それは──)
自分の中の気持ちに、気づかないふりしていたのに、本当はもう知ってしまっているから。
「あの、七瀬」
顔を上げると、所在なさげな智が立っていた。
「……なに?」
「その、あの人と、付き合ってるの?」
「……なんでそんなこと聞かれないといけないの?」
思わず語気強くにらんでしまった。
「うん。ごめんね、俺がそんなこと聞くなんておこがましいってわかってるけど……」
歯切れ悪く、智は黙り込んだ。
(いつもこうだった)
智は都合が悪くなると黙り込む。俺が言えって言っても言わない。人との衝突が苦手なんだろうけど、俺はいつもちゃんと言って欲しいと思っていた。
「でも、七瀬には幸せになって欲しいって思ってるから」
「……どういうつもりで言ってんの?」
責めるような口調でなんて話したくないのに、やめられない。
すぅっと息を吸った智は、腹をくくったかのように言った。
「見てたよ。その、体育祭でも、学校でも。七瀬、楽しそうに笑ってるなって思ってた。俺と付き合ってるときとは全然違う笑顔で、好きな人ができたんだなって思ったよ」
智にそう言われて、俺は驚きのあまり目を見開いた。
「俺のことも、好きだったんだと思う。けど恋愛じゃない好きの方が大きかった。そうでしょ?」
「それは……」
俺は、歯切れ悪く、続きを言うこともできなかった。
「俺もそうだから、わかるよ。だから七瀬に付き合おうって言われた時、関係が壊れるのがこわくて断れなかった。今更だけど、ごめん」
智は深々と、俺に頭を下げた。
(謝らないといけないのは、俺の方なのに……)
でも俺は体が固まってしまって、言葉も出ないし動けもしなかった。
「だから七瀬に好きな人ができて、俺うれしいんだ」
泣きそうな笑顔で、智はそう言った。
「……ありがとう」
もう、それしか言葉が出てこなかった。
初めて智の、本音を聞けた気がした。
でも、自分が悔しくて、泣きそうだった。

「ごめん、お待たせ」
「いーよー」
ベンチに座って待っていた殿井は笑顔で俺を迎えると、不思議そうな顔をした。
「……なに?」
「ん~、なんかあった?」
そうして殿井が俺の頬に手をあてて、じっと俺を見つめた。
その手が温かくて、つい甘えたくなってしまう。
「……なんでもない」
俺はその手に頬をすりつけた。
(すごく、自分勝手だ──)
智に振られて悲しかったのは本当。落ち込んでたのも本当。でもそれは、振られたことじゃなくて、智ともう友達に戻れないことが悲しくて寂しかったんだろう。それに俺は気づかずに、勝手に傷ついて、智も傷つけて、一方的じゃないかもしれないけど壊してしまったものは戻らない。
(でも智があぁ言ってくれたから、傷つけあって終わりじゃ、なくなった)
俺はただ相手に甘えてばかりで、自分の思い通りにならないと癇癪(かんしゃく)を起してるだけの子どもなのかもしれない。
「……ごめん」
そう思うと、殿井に優しくされたくて仕方ないけど、そんなのだめだ。
俺は殿井の手から離れようとしたけれど
「だめ。もうちょっとだけこのままでいて」
殿井が俺を離してくれず、首元に腕をまわしてきた。
「あの、殿井……?」
「俺にだけは、甘えてよ。大丈夫だから」
耳元で優しくささやくから、俺は殿井の袖口をつかんだまま、しばらくそのまま殿井に体を預けた。
「殿井、あのさ」
「うん」
「俺、すごく自分勝手なんだよ」
殿井の腕をそっとほどいて、俺は殿井と向き合うようにして座った。
「智……、前に付き合ってたやつとも、恋愛感情で付き合ってたわけじゃないってやっとわかった。ただ自分に優しくしてくれるやつが離れないようにしてただけ。俺、そんなだからさ、その……」
俺なんかやめといたほうがいい。そう言いたかったのに、言葉が出てこない。
「いいよ、それでも」
その声に顔を上げると、真剣な眼差しで殿井が俺をまっすぐに見ていた。
「誰だって自分勝手だよ。俺だって七瀬の迷惑お構いなしにずっとそばにいたし」
「それは──」
また俺がうつむこうとすると、殿井が両手で俺の顔を挟み込んだ。
「七瀬は寂しがり屋で、誰かのそばにいたくて、でも不器用で、人付き合いも苦手で、きっと自分の心の声も聞き取れてなかったんだよ。だから、俺とはちゃんと『恋人』って誰よりも近い距離で、我がまま言ってもいいし、泣いてもいいし、甘えていい。どうしたいかわからなかったら、俺がそばでずっと聞いてるから。だって俺も、そうして欲しいって思ってるから」
殿井のまっすぐな想いが、心に響いて泣きそうになったけど、今は泣きたくなかった。
「……ありがとう」
素直に、そう言うことができた。

「イルカショー、すごかったね」
「うん」
俺が落ち着くのを待って、昼飯を食べ、館内を見回った。
変な空気になることもなくて、水槽を眺め、カピバラにご飯をやったりもして、殿井も楽し気にしていた。
たまに俺に優しく微笑んでくれた。それがとても温かくて、だからつい目で追ってしまった。
「今日は一緒に来てくれてありがと」
「別に……。俺も楽しかったし」
客が大方はけるまで座っていようと、のんびりとしゃべっている。
「でも……、はぁ~」
「なに?」
急に殿井がため息をついた。
「いや、どうせなら七瀬がデートするのは俺が初めてがよかったって言うか」
小さな声でぶちぶちと殿井が言った。
「……初めてだけど」
「えっ!?マジ!?」
驚きと高揚で、殿井は俺の方に体を近づけて来た。
「え、うん。智とは学校から一緒に帰るくらいしかしてなかったし、手も、付き合ってからは一回繋いだくらいで……」
言い訳しているみたいな、なんだか恥ずかしい気持ちになって来た。顔が熱い。
「そっかー、そうなんだ」
正直、少しは嫌な気になるかなと思いきや、殿井は両手を口元の前に持ってきて顔を輝かせている。
「ごめん。ちょっと、いや、だいぶうれしい」
口元を隠している理由が分かった。すごいにやけている。
(まぁ、それで殿井が満足するなら、いいか)
自分の心に中でだけ言い訳して、俺は後頭部をボリボリとかいた。
「あ、七瀬。記念写真撮りたい」
「唐突だな」
「うん。でも撮りたいからもう少し寄って」
そうして殿井が俺の肩に手を回し、俺が殿井の肩に、殿井が俺の頭に顔を乗せた格好で「はいチーズ」とスマホをかざした。
「うん、いい感じ。あとで送っとくねー」
「……どうも」
撮り終わった後、俺は両手で顔を覆った。
(……あの距離は、無理)

「じゃあ七瀬。また月曜日ね。明日も全然ピンポン鳴らしてくれてもいいから」
「はいはい、おやすみ」
しっしとすると、殿井は先に自宅に入っていった。
(……あれ、鍵忘れたかな?)
俺はと言うと鞄に鍵が見当たらず、仕方なく呼び鈴を鳴らすも誰も出てこない。
出掛けているのだろうかと母さんに電話するも出ず、瀬里香に電話した。
『もしもしお兄?』
「うん、今出かけてる?鍵忘れてさ」
そうすると”お兄、やっぱり鍵忘れてるー”と瀬里香が叫ぶ声がした。
『もしもし七瀬?今日帰れそうにないから、殿井君のお家にお世話になってくれる?』
「……は?」
『殿井君のお母さんには出掛けに会って、お願いしてあるから。今日中に帰れると思ったんだけどおじいちゃん腰痛めちゃって。明日おばさんが来たら交代して帰るから。じゃあよろしくね』
「ちょ……っ!?」
プープーと電話が鳴り響き、俺にもう選択肢はなかった。
(まさか、自覚した日にこんなことになるとは……)
しばらくその場に立ち尽くしていた俺は重い足を上げて、隣の呼び鈴を押した。
「はいはーいって、あれ?七瀬どしたの?」
部屋着に着替えた殿井は、不思議そうに首を傾けた。
「今日、お前ん家に泊まるから」
「……えっ!?」
俺だって、同じくらいに驚いているし、それに以上に困っている。
今日、寝れるだろうか。