”俺と七瀬(ななせ)で、デートしよ?”
あのベランダの日から、数日が経った。
あのとき思いっきり泣けて、気持ちも吐き出せたからか、やっと俺は吹っ切れた。
殿井(とのい)とは学校でも一緒だし、なんならたまにベランダでも話す。
でもデートのことはあの日以来、なにも言ってこない。
(……気になる、けど聞くのはちょっと(はばか)られるというか──)
口に含んだ空気をぷくぷくと右へ左へとしつつ、隣の席で柳としゃべる殿井に目をやった。
柳のよくわからないカードゲーム論を聞く殿井は、今日も穏やかに笑っている。
殿井がはっきりと深町に言った日以来、深町達は殿井にちょっかいをかけてくることはなくなった、殿井自身にビビっているとこもあるだろうけど、そばにいる鉄にもっとビビっているような気がする。鉄は相手にもしてないようだけど。
だからか少しだけ、深町達は静かになった。それでクラスの中のたまにピリついたりするのもなくなってきて、みんな前より居心地が良くなっていると思う。
前の席に座る、大きな鉄の背中を俺は眺めた。
体格のせいもあって、相手に一目置かれる。ちびでひょろくて女顔の俺には、絶対にない。ちょっとうらやましくて、前の席に座る鉄の背中に軽くパンチした。
「なんだ?」
「なんでもない」
俺が肩肘ついてぶすっとしていても、鉄は気にせず漫画を読み続けている。
「……七瀬ってさ、鉄に懐いてるよね」
その声に殿井の方を見ると、怒ってるわけじゃなさそうだが、念のこもった顔をしている。
「慣れてるだけだろ。俺に妬かれても困る」
さらりと言う鉄は、漫画から目も離さない。
「──っわかってるよ!」
プイっと顔を背けた殿井は、転校してきたときよりも表情豊かになった気がする。
(なんの話してるんだろ?)
よくわからないけど、にやにやと柳が見てくるのがちょっとうざかった。

帰り、坂を上る俺の横を声をあげて笑いながら小さな子たちが通り過ぎて行く。
(最近、なんで一緒じゃないだろう)
今週から、殿井はひとりで登下校するようになった。朝は用事があるからと授業が始まるギリギリの時間に来るし、帰りもすぐ帰ってしまう。授業中もうつらうつらとして眠そうだし。
(別に、今までだってひとりで帰ってたし──)
智と付き合ってからは毎日送ってくれてたけど、その前はひとりで帰っていた。
最近は殿井とずっと一緒だったから、ひとりで帰るのは変な感じだ。
ふと、顔を横に向けると沈みゆく太陽が街を照らしていた。
それがなんだか少しだけ、寂しく見えた。
 マンションの集合ポストを確認して、降りて来たエレベーターに乗ろうとしたら、降りる人とぶつかりそうになった。
「あ、すみませ──」
「あ、七瀬。おかえりー」
降りて来たのは、俺にニコッと音が鳴りそうな笑顔を向ける殿井だった。
「……なんでジャージ?」
に、スニーカー姿だった。一瞬着こなしてるからおしゃれジャージかと思ったけど、学校のジャージだ。
「今から走るから」
「運動に目覚めたのか?」
趣味だろうか。走るために早く帰るようにしてるなら、そう言ってくれたらいいのに。
「好きじゃないよ。でも1位取って七瀬とデートしたいから頑張ってる」
「……は?」
見上げると、殿井に髪をぐしゃぐしゃと撫でられた。でも少しだけ、殿井の耳が赤くなっているのが見えた。
「じゃあ俺行くから。また明日ね」
ひらひらと後ろを向いたまま手を振って、そのまま殿井はエントランスから出て行ってしまった。

「おかえりお兄。……どしたの?顔真っ赤だけど」
「……なんでもない」
もう足腰もへなへなしてくるくらいにドキドキしている。
ダイニングテーブルに郵便を置いてから、俺は自分の部屋の扉を閉め、うずくまった。
「もうなんなんだよ……」
なんであんなことまっすぐに言ってくるのか、こっちの身にもなって欲しい。
 しばらくして落ち着いてからパーカーに着替えてリビングに行くと、瀬里香(せりか)がおやつにゼリーを食べていた。
「今日、遅かったね」
「友達とワック行って、下でもちょっとしゃべってた」
なんか飲もうと冷蔵庫を開けると、お茶しかなかった。
今日は珍しく柳と鉄とワックに行った。三人とも同じセットを頼み、おまけのカードを開くと柳と鉄はすでに持っているカードだったからへこんでいた。そこからダラダラとしゃべって、帰る前にトレーとか戻して、俺が忘れていたカードを開くと二人が欲しがっていたカードだった。「菅谷様なにとぞー!」と懇願してくるから二人にあげたら、すごく喜んでいた。
(あのときの柳と鉄のびっくりした顔、しばらく笑える)
冷蔵庫の前で瀬利香に隠れて思い出し笑いをしているつもりだったが、瀬利香は不審そうにこちらを見ていた。自分の妹ながら、その冷徹な視線に俺の笑いは止まった。
「下で会ったのって、殿井さん?」
なんでもなかったようにスンッとクールな顔つきに戻った瀬利香はゼリーをスプーンですくいつつ聞いてきた。
「おー。知ってんの?」
「朝いつも挨拶してるから」
「……朝?」
瀬利香はこくりと頷いた。
「毎朝、走ってるよ。ちょうど小学校行くときに殿井さん帰ってくるから、毎日挨拶してる。たまに学童から帰ってきたときも会うし」
「……あいつ、朝晩走ってんの?」
思わず、コップにお茶を入れようとする手が止まった。
「そうだと思うよ。どうして走ってるの?って聞いたら、”絶対に欲しいものがあるから、そのために頑張るんだ”って言ってたよ」
そこまで話すと、瀬利香はまた黙々とゼリーを食べ始めた。
俺はまた立ってられなくなって、流し台に隠れてしゃがみこんでしまった。
(なんでそんなこと、瀬利香に言ってるんだよ)
本当に、殿井に振り回されている気がしてならない。

体育祭当日、からっと晴れたいい天気で迎えられた。
朝からバタバタと椅子を出し、開会の挨拶を眠たくなりながら聞きつつ始まった。
俺は運動は苦手だから、玉入れと綱引きという個人の実力のみに左右されない競技に参加した。
「頑張ろうね」
「ん」
入場するとき、後ろに並んでいた殿井がゆるくファイティングポーズをしてきたから、俺も片腕だけで返した。
運動はできないけど負けず嫌いではあるから、必死にボールを投げた。
俺は何個かボールを入れることができた。が、殿井は全然だった。
あの長身、腕の長さも活かしきれず、全く違う方向にボールは飛んでいくばかり。
「殿井、お前ボールをかき集めろ!」
玉入れリーダーからの命令に、殿井は長身を折り曲げてみんなにボールを渡していた。
体育祭、優勝チームはジュースがプレゼントされる。しかもそこらのジュースではない。卒業生の農家さんから毎年ご厚意で、自家製の一本500円桃ジュースが学校に寄付されている。絶品と噂されるそのジュースのため、各クラス絶対優勝を胸に戦っている。
殿井がボールをかき集めてくれたこと、そして鉄が驚異の運動能力を発揮(素早い動きで全投球籠に入った)したこともあって、なんとか玉入れは勝つことができた。
「よっしゃー!次も行くぞー!おー!」
クラスの盛り上げ役が叫ぶと、周りからもおー!と叫び声が上がった。
「さ、設楽(さがら)様どうぞこちらに。次もお願いします」
「ん」
鉄は最前列の一番競技が見えやすい位置にエスコートされて行った。鉄もおふざけにのっているのか、大股開いて腕を組み、じっと競技を見ている。
(見てるだけで面白い……)
手で口元を隠したまま笑っていると、隣からため息が聞こえた。
うつむいたまま見上げると、脱力した殿井が見えた。
「どした?気分悪い?」
いつも疲れた顔も見せず朗らかな殿井の珍しい様子に、俺は殿井の額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど……?」
ない、と思っていたけど触っていると上がってきているような気もする。
「保健室行く?」
聞きながら殿井と目が合うと、殿井は顔を赤くして汗ばんでいた。
「殿井?」
「全然、大丈夫だから……。その、手を離してもらえると」
言われた通り手を離すと、殿井はまたふーっと息を吐きながら足の上に腕を立て、両手で顔を覆った。
(やっぱり、体調悪いのかな)
冷たい水でも飲んだらなおるだろうかと、立ち上がろうとしたら殿井に腕をつかまれた。
「どこ行くの?」
「いや、水でも飲んだ方がいいかと思って」
「ほんとに、大丈夫だから……その、────」
「え?なんて?」
殿井の声が小さすぎるのか、それとも周りの声援が大きすぎるのか。俺は殿井の口元に耳を近づけた。
「また七瀬に格好悪い姿見られたと思って、落ち込んでただけ」
殿井の方に顔を向けると、少しだけぶすっとした殿井が俺から顔を背けて、俺をわざと見ないようにして競技へと視線を移した。
「……は?」
俺は不意打ちの弾丸に、競技を見ることもできなくなった。

「じゃあ、行ってくる」
「俺も水飲みたいから、途中まで行く」
殿井が出場する最後の競技、借り人競争に向かう際に俺も一緒に席を立った。
(別に、俺も緊張しているわけじゃないけど)
さっきから心臓がうるさい。
俺はぎゅっとTシャツの胸元を握りながら、殿井を見上げた。
慌てているかと思ったが、殿井は落ち着いた表情でまっすぐに前を向いていた。
 2つ前の長距離走に出た殿井は、毎日走りこんでいた甲斐もあって、2位だった。
戻ってきたとき、とても落ち込んでいるように見えた。
「殿、惜しかったなぁ。運動部の奴がラストスパートでめっちゃ早かったからな」
その様子に柳がフォローを入れに来た。
「うん、残念だ。次の借り人競争がんばるよ」
気のせいかもしれないけど、悔しいのを我慢して、無理して笑顔を作っているように見えた。
「おう。じゃあ俺パン食い競争行ってくるわ!」
「うん、がんばってね!」
「がんば」
そうして柳が行ってしまうと、殿井はズンッと頭を下げてうつむいていた。
俺は隣で、オロオロしていることしかできなかった。
だから殿井が今、落ち込んでなくてよかったと思う。
「ねー、見た?殿下(でんか)の玉入れと長距離走」
「見た見た」
殿井がそばを歩いているのに気づかないまま、殿井のことをしゃべる子たちがいた。
「玉入れ全然ダメだったよねー。玉拾ってるとか殿下じゃなくて奴隷じゃん」
「全く入ってなかったしね」
「長距離走もさー、背中反った走りでちょっと格好悪かったね」
「まぁかわいいんじゃない?全部完璧だったら近寄りがたいし」
「でもちょっと萎えたよねー」
アハハ、と笑いながらしゃべる子たちに、怒りがわいてきた。
(殿井は運動だって苦手なのに、毎日練習してたのに──。なにも知らないくせに)
離れていくその子たちを見ていたけど、ハッとして殿井を見上げた。
殿井はしょうがないよと言ってるような、弱弱しい笑みを浮かべていた。
「まぁ、ほら。俺も普通なんだってわかってもらえたって言うか──」
「そういうことじゃないだろ!」
驚いたように、殿井は俺を見た。
「俺は、殿井ががんばってたの知ってる。だからあぁいうこと言われるの、嫌なんだ」
「七瀬──」
強い気持ちで殿井を見上げていると、殿井の手が顔に伸びてきた。
けれど触れるか触れないかのところで"借り人競争に出場の生徒は、入場ゲートに……”と放送が流れて来た。
「……行かなきゃ」
「ん。頑張って来い」
「うん!俺、頑張ってくるよ!」
満面の笑みを俺に向けた殿井は、そのまま入場ゲートまで走っていった。
俺はその背中を見送ってから、水飲み場までゆっくりと歩いた。
(殿井のあぁいう、楽しそうな笑顔、好きだな)
見た目だけじゃなくって、心の底から楽しいのが伝わってきて、俺もなんだかうれしくなる。
持っていたウォーターボトルに水を入れ、殿井の出番に間に合うように席に戻ろうとしていた。
けれど、思ったよりも時間がかかっていたらしい。
「あ、七瀬いた!ちょっと一緒に来て!」
「えぇ!?」
汗だくで、なんなら袖も肩までまくり上げた状態の殿井が息を切らせながら俺の手をつかんだ。
「早く、ここからゴールまで遠いから!」
「ちょっと待って」
俺は殿井に手を引っ張られるまま走った。けど、なにせ俺は運動音痴。精一杯走ってはいるけれど、殿井のスピードにはついていけない。
「ほら七瀬、がんばって!ふぁいとふぁいと、やればできるよ♪」
殿井の変な歌に、思わず笑ってしまった。
「なんだよそれ!」
その後も自己流応援歌を歌い続ける殿井に、俺も殿井も笑いながらゴールした。
けれど、俺はゴールした時には息絶えるかと思った。笑いながら走ると息が吸えない。今後は気をつけよう。
「はい、ではお題をどうぞ!」
「猫みたいな人、です」
隣の殿井は息も乱れていない。毎日走っているとここまで違うのか。
「ん~、確かに連れてきた人は猫みたいな目をしてますが、具体的にどういうところが猫っぽいんでしょう?」
審査人(なぜかひげ眼鏡)に聞かれ、「えっとですね」と殿井は話し出した。
「最初は警戒心たっぷりで、話しかけてもこっちを見ようともしないで怯えていたんです。でも段々と仲良くなっていく中で、触ってもびっくりしなくなったし、警戒心も溶けてきて、話していると自分から寄ってきてくれるようになりました。そんなのこっちからしたらキュンとしちゃいますよね。気まぐれでマイペースで、自分の意志もしっかり持ってるところが猫みたいだなと思いました!」
俺は膝に手を付いたまま殿井を見上げた。
"なんか七瀬って、黒猫っぽいね"
前にも、言われたことあるのに、でも前はこんなうれしいような恥ずかしいような感情にならなかった。
(なんて楽しそうに、俺のこと話すんだろう)
もう、どうにもこうにも、顔があげられなかった。
「はい、合格ー!」
「やったー!ありがとうございます」
影で、殿井が万歳しているのが見えた。
(よかったな)
誰にも見えないように、俺はそっと笑った。
ではこちらにお並びくださいと案内され、俺は殿井に引っ張られるがままついていった。
「……あれ?」

「そんなに落ち込むなよ。2位だってすごいだろ」
「だって……」
校舎裏で涼みながら、俺は落ち込んで膝を抱えている殿井を励ました。
「もう少し早く走れていれば、いや、いいお題を引いていれば……」
「ま、言ったって仕方ないだろ」
借り人競争で1位になった奴のお題は"推しがいる人”だったので、アイドルの顔Tシャツを着た奴とすぐにゴールしていたらしい。
「はぁ……」
落ち込みがなおらない殿井に、なんて言っていいかもう俺にはわからない。
「そんなに落ち込まなくても。また来年がんばろ?な?」
「そうじゃなくて……、それも少しはあるけど」
歯切れの悪い殿井が、じっと期待するように壁に背中を預けてる俺を見上げた。
「なに?」
「……1位だったら、七瀬とデートだったのに」
(……あっ!?)
俺が反応でバレたのだろう。膨れた殿井がまた膝に頭をうずめた。
「どうせ俺とのデートなんて、七瀬にとったらそんなもんなんだね」
「ご、ごめん……」
殿井を応援するのに夢中で、すっかり忘れてしまっていた。
(それでこんなに落ち込んでるのか……?)
そう思うと、胸が締め付けられるようだ。
「……まぁ、一緒に遊びに行くくらい、行ってやってもいいけ──」
「ほんとにっ!?」
俺が言い終わるより前に、しゃがんでため息をついてた殿井が勢いよく俺の方に体を伸ばしてきた。
びっくりして横に倒れこみそうになると、殿井が俺の脇に手を入れて支えてくれた。
「ごめん、うれしくて」
そう言いながらちょっとすまなそうに、でも優しく笑う殿井から、目が離せなかった。
「そんなに、俺とデートしたいの?」
無意識に口からこぼれていて、今更ながらに俺は口をふさいだ。
「したいよ。好きな子と出かけたいって普通でしょ」
「なっ……!?」
まっすぐにそう言われて、もうむずがゆ過ぎて無理だった。
「俺、もう戻るから!」
「あ、待って七瀬」
急いで殿井から逃げようと思ったのに、殿井に手を取られてしまった。
「なにっ!?」
「がんばったから、ご褒美ちょうだい」
そうして殿井が顔を近づけて来たと思ったら、耳のすぐ横でちゅっと音がした。
(…………今、なんか頬に柔らかいのが──)
俺は殿井にキスされた頬に手を当てた。
「デート、楽しみにしてるから」
いたずらっ子の笑みを見せてから、「運動場戻っか」と殿井の背中が遠ざかっていく。
(……遊びに行っていいなんて、言わなきゃよかった!)
そしたら今こんなにも、心臓がうるさくならなかったはずなのに。
「七瀬ー、置いてっちゃうよ?」
置いていくつもりなんて全くない殿井が振り返ってきて「うるさい!」と思わず言ってしまった。
俺は本当にかわいくない。