家に帰って、しばらくぶりに俺はベランダで夜風を浴びた。
夜空を見上げながらベランダでぼーっとするのが好きだ。殿井が来てからしばらくは、バッタリしたらどうしようかと思って避けていたけど、もういいと思った。
(あれ、どういうことだったんだろう)
今日は殿井のことばかり考えてしまう。
”七瀬とは俺が一番仲良くなりたいって思ってるから”
あのときの緊張したような、期待と不安が混ざったような眼差しに、不覚にもドキッとしてしまった。
(あの見た目でそんなことされたら、俺じゃなくてもきっとときめくわ!)
思わず頭を腕で抱えた俺は、でもそうじゃないだろ、と思った。
殿井は見た目通りじゃない。派手な王子様なんかじゃない。
普段は温厚な性格で、でもここぞというときははっきりと自分の意見を言える。
俺の違和感の正体も、周りが思う殿井の王子像と殿井自身が離れていたからだろう。
(でもそれは、俺も──)
そう考えていると、ガラガラと窓が開かれる音がした。
「あ、やっぱり七瀬だ。こんばんは」
「いっ!?」
隣のベランダではタオルで髪を拭く殿井が顔を出すから、俺は奇声を発してしまった。
濡髪から水が滴っていて、いつもの柔らかさだけじゃなくて、大人っぽい雰囲気が漂っている。
「ん?なに?」
「……ちゃんと髪拭けよ」
俺はベランダの手すりにもたれかかりながらそう言うと、殿井は軽く拭きながら手にしていたサイダーを飲み始めた。
(なんか、あれだよな、これが色気っていうんかな?……うん)
俺にはないものだなと諦めた納得をしつつ、なんとなく見てはいけないような、でも見たいような気もして、チラチラ殿井を見てしまう。
「別に見ていーよ。減るもんじゃないから」
殿井は気にせずそう言う。
けれど俺は盗み見てたのがバレて恥ずかしさに襲われた。
「いや、いい。ごめん。見ない。殿井そういうの嫌だろ?」
今度は殿井が目を大きくした。けど、それくらいはわかる。
「あの、あと、ごめん……。お前の見た目にちょっとビビって、俺も深町みたいに見た目で判断してたとこがあった、と思う。殿井は、謝られても困るだろうけど……」
俺は殿井の方を向いて、ごめんと頭を下げた。
「──律儀だね、普通そんなの言わないよ」
そうだと思う。そう思うけど態度悪かったのは謝りたかった。
「だって、良くなかったと思うし。殿井はただ俺と仲良くしようとしてくれてただけだし」
頭にかぶっていたタオルを肩におろした殿井は、優しい顔をした。
「七瀬のそういうところいいよね」
「……怒ってねーの?」
隣で殿井がいつもみたいにふにゃりと笑っている。
「だってこれからは見た目だけじゃなく、俺のこと見てくれるってことでしょ?嬉しいよ」
謝っても、俺だけが罪悪感から逃れるだけなら言わない方がいいと思ってた。けど殿井が嬉しそうに笑うから、言ってよかった。心の底から安心した。
「そう言ってもらえて嬉しいな~。今日は七瀬に格好悪いとこ見せて、すごい恥ずかしい思いいっぱいで寝るところだったから」
それでも恥ずかしそうに、両手で顔を覆った殿井からあ“〜と小さい呻きが聞こえた。
そんな風になった殿井に、俺はきょとんとした。
「そうかな?格好よかったけど」
俺は臆病でできないから、殿井も鉄もあぁやってはっきり言えるのはすごいと思う。
「ありがとう、そう言ってもらえるとまだ救いです」
顔が熱いのか、殿井は手でパタパタと顔を扇ぐ。
なんか言ってやらないとと思って、余計なことを言った。
「そんな、俺なんて泣いてるとこ、見られ…たし」
俺も殿井と同じように、じわじわと顔が熱くなってきた。
「あのさ、七瀬」
「なに?」
言いにくそうに、首に巻いたタオルを両手で触りながら殿井は聞いてきた。
「七瀬は、どうして泣いてたの?」
そう言われて、俺はすぐに答えられなかった。
「……なんでも──」
「なんでもないことないでしょ、そんなつらいそうな顔して」
そっと俺の頬に殿井の手が触れた。
「たまに見てる、あいつのせい?背の高い、ひょろっとした感じの」
殿井に気づかれてるだなんて思ってなくて、驚いて俺は固まってしまった。
「それは──」
「言ってよ。俺じゃ力になれないかもしれないけど、でも七瀬にそんなつらい顔させたくないんだ」
切実な声色で殿井がそんなこと言うから、俺は目を大きく見開いた。
(なんで、なんで俺よりつらそうな顔してんだよ……)
そんな殿井を見て、俺は今にも泣きだしそうだった。
「……絶対に、誰にも言わない?」
「言わない」
その真剣な眼差しに、俺は目を伏せ、何度か深呼吸してから口を開いた。
「……俺、振られたんだ」
*****************************************
「ごめんな、七瀬。本当にごめん」
学校からの帰り道、いつもはずっとしゃべっているのに、その日はお互いだんまりだった。
マンション裏の駐車場まで俺を送ると、泣きながら、智は俺に頭を下げた。
「ごめん、七瀬のことは好きだけど、でもごめんな」
泣きたいのはこっちなのに、全然泣けもしなくて、追いかけて引き留める力もなく、背を向けて離れていく智の後ろ姿が見えなくなるまで、俺はずっとその背中を見つめていた。
初恋だった。俺から告白して、いいよって言ってもらえた時はうれしくて、ほっとして、付き合ってもうすぐ1年になるからプレゼントも用意していた。それなのに──
「なぁ~、千田と菅谷って付き合ってんの?」
「……は?」
明らかにからかい口調で智のクラスメイトに聞かれた。
「俺見ちゃったんだよね、二人が手ぇ繋いで歩いてんの」
「マジでー!?」
ヒューヒューと周りも乗っかって来た。しかも2クラス合同授業の、人が多く、噂なんてすぐに広まる中で言われた。
見られた奴が悪かった、いつも上から目線のお調子者で、なのに学年でもヒエラルキー最高位にいるから質が悪い。深町達もそいつらにすぐに乗っかった。
こいつらの的にされたら、明日から地獄の始まりだ。
「なに言ってんの、七瀬が足くじいたって言うからしょうがなくだよ」
先に口を開いたのは、智の方だった。
「え~、ほんとに~?全然そんな風に見えなかったけどなぁ」
ニヤニヤと嫌な笑みを向けられて、なにも言えないでいると
「ほんとだって、男同士なんてほんとないから」
そんなことを言う智に心が軋んだけれど、俺は黙って見ていることしかできなかった。
「だよね~、俺もそうかとは思ったんだけどさぁ」
ハハハと適当に笑って誤魔化して、それで終わりだと思ってた。心にわだかまりは残ったけど、無視すればいいと思った。これでこれからも智といられるなら、心のモヤモヤを俺が抱えていればいいだけだって。
でも次の日、智は彼女と付き合い始めた。
別れて1カ月も経っても、ベランダで夜空を眺めながら俺は泣いていた。
(こんなことしてるなんて、悲しむ自分に酔ってんのかな……。もう智のことなんて考えたくないのに……)
そう思っても、どうにもならない。
人見知りが激しくて、面白いことも言えない暗くてつまらない俺とは誰とも仲良くしてくれなかった。でも智だけは小さい頃からずっとそばにいてくれた。
優しくて、でも気が弱くて、周りの目を気にするところもあって、それでも俺の気持ちを受け入れてくれて、最後に好きだって言ってくれて──そういう智が俺は好きだった。
*****************************************
話し終えた俺は、両手で手すりを強く握って黙り込んだ。もう泣きたくなかった。もうなにも、言葉が出てこない。
「そいつ、バカだね」
「……え?」
隣のベランダでは、殿井がゆっくりとサイダーを口にした。
「だって、そんなことで七瀬のこと手放すなんてありえない。俺なら絶対何があっても手放さない。七瀬が離れようとしてもすがりつく」
「すがりつくって……」
俺は殿井がなにを言おうとしているのか、わからなかった。
「だって好きってそういうことじゃないの?離れたくないし、離したくない。ずっと一緒にいたいってことでしょ?」
「それは、そうかもしれないけど──」
そうだとしたら、智は俺のこと好きじゃなかったってことなのかな。でもそれなら、どうして俺も追いかけなかったんだろう。
考え込んでいると、殿井が俺を遮るように言った。
「そいつは七瀬よりも、わが身可愛さを取っただけだよ。七瀬のことは好きだったのかもしれない。自分のことがもっと好きだっただけ七瀬を嫌いになったとか、彼女を好きになったとかとは別問題。自分勝手とまでは言わない。でも七瀬にも彼女にも配慮も思いやりもない。自分のために別れて、自分のために付き合ったんだろ?」
「……」
話し続ける殿井に気圧されて、俺は聞いてることしかできなかった。
「七瀬を想うなら、相手に気持ち残させるようなことしないと思う。自分に気持ちが残るような、そんなずるいことしないよ」
「そう、なのかな……」
しゃべり続ける殿井は、なんだか怒っているように見える。
「そうなの。だから七瀬は、もう傷つかないでいい。それに後悔するのはあいつだよ。なんで七瀬みたいなスペシャルな人と別れたんだろってね」
ベランダの境壁ごしに、手すりに置いた俺の手に殿井が手を重ねた。
「七瀬は、よく頑張ったよ。つらいのによく頑張ったよ」
優しく手を握られて、そんなことを言うから、我慢してたのに涙が流れる。
「スペシャルってなんだよ?……っ、からかってんの?」
「俺にとっては、七瀬が特別ってこと」
優しい殿井の声に、その手に、俺は殿井と手を繋いだまましゃがみこんだ。
こんな姿、絶対に見られたくない。でも殿井がそばにいてくれないと、枯れきるまでまで泣けないから。
どれくらい泣いていたかはわからない。けどずっと殿井は手を繋いでいてくれた。
「ごめっ……、ありがと。もう大丈夫」
はぁーっと深く息を吐いた俺は目をこすった。多分明日は目が腫れるだろうけど、それでもよかった。
なんだかすごく、すっきりした。
「んーん」
殿井は優しく俺の頭を撫でてくれる。
夜風が涼しくて気持ちよくて、殿井の手の温かさに俺はなんだかほっとした。
「七瀬は、俺の隣で笑ってたらいいよ」
いつもより大人びた殿井の笑みに、俺の胸は高鳴った。
(……どういう意味で言ってるんだろう)
でもそれは、とてもじゃないけど口にしにくい。
「七瀬は、これからは俺のことだけ考えてて?そしたら悲しいのも飛んでいくよ。俺が、七瀬を大事にするから」
「ははっ、なにそれ」
照れ隠ししながらふざけたように言う殿井に俺が笑うと、殿井も笑った。
でもその目はいつもと違う想いが籠っているような気がするのは、気のせいだろうか。
「あ、そうだ。今度一緒に出掛けようよ」
気分転換させてくれようとしてるんだろうか、なんて自分のいいように考えすぎだろうか。
「じゃあ柳と鉄も誘って──」
「そうじゃなくて、二人で」
「二人……?」
ピースを向けてくる殿井に俺が口をポカンと開いていると
「俺と七瀬で、デートしよ?」
「なんで?」
「え、だめ?」
「だめっていうか……、え?デートだろ?」
「うん」
だからそう言ってるよ?ときょとんとした目で殿井に見返される。
「デートって、付き合った人がするもんじゃ──」
「まぁそう固いこと言わないで」
「全然固くないと思うけど」
殿井と遊びに行きたくないわけじゃない。けど、デートってなると話は変わる。
(なんで俺はデートに誘われてるの?)
己の中のはてないっぱいを収拾しようとしていると
「んー、そうだな。じゃあ、今度の体育祭で1位取ったらデートして。それならいい?」
「なんでデート前提なの?それに殿井、そんなに走るの早くないだろ?」
「うん、だからご褒美で。俺頑張るから。ね?」
殿井の誰もを恋に落としてしまいそうな微笑みにうっかり頷きそうになったが、ハッとした俺はだめだめと首を横に振った。
「いや、だからデートは──」
「”はい”か”いいえ”かだけで返事して?」
そう言いながら殿井は片手で俺の頬を挟んできた。
「断られたら、俺悲しいよ。これでも精一杯頑張って言ってるんだから」
殿井が言うように、ふざけてる感じは全くなかった。殿井の目は真剣そのものだった。
「……ひゃい」
だからつい、そう言ってしまった。
なんだかんだで、俺はすっかり殿井のペースに飲まれている気がする。
でも嬉しそうに殿井が笑ってくれるから、気恥ずかしいけど俺もちょっとは嬉しく思ってしまう。
「へ、はにゃひて(手、離して)」
「あ、ごめんね」
夜空を見上げながらベランダでぼーっとするのが好きだ。殿井が来てからしばらくは、バッタリしたらどうしようかと思って避けていたけど、もういいと思った。
(あれ、どういうことだったんだろう)
今日は殿井のことばかり考えてしまう。
”七瀬とは俺が一番仲良くなりたいって思ってるから”
あのときの緊張したような、期待と不安が混ざったような眼差しに、不覚にもドキッとしてしまった。
(あの見た目でそんなことされたら、俺じゃなくてもきっとときめくわ!)
思わず頭を腕で抱えた俺は、でもそうじゃないだろ、と思った。
殿井は見た目通りじゃない。派手な王子様なんかじゃない。
普段は温厚な性格で、でもここぞというときははっきりと自分の意見を言える。
俺の違和感の正体も、周りが思う殿井の王子像と殿井自身が離れていたからだろう。
(でもそれは、俺も──)
そう考えていると、ガラガラと窓が開かれる音がした。
「あ、やっぱり七瀬だ。こんばんは」
「いっ!?」
隣のベランダではタオルで髪を拭く殿井が顔を出すから、俺は奇声を発してしまった。
濡髪から水が滴っていて、いつもの柔らかさだけじゃなくて、大人っぽい雰囲気が漂っている。
「ん?なに?」
「……ちゃんと髪拭けよ」
俺はベランダの手すりにもたれかかりながらそう言うと、殿井は軽く拭きながら手にしていたサイダーを飲み始めた。
(なんか、あれだよな、これが色気っていうんかな?……うん)
俺にはないものだなと諦めた納得をしつつ、なんとなく見てはいけないような、でも見たいような気もして、チラチラ殿井を見てしまう。
「別に見ていーよ。減るもんじゃないから」
殿井は気にせずそう言う。
けれど俺は盗み見てたのがバレて恥ずかしさに襲われた。
「いや、いい。ごめん。見ない。殿井そういうの嫌だろ?」
今度は殿井が目を大きくした。けど、それくらいはわかる。
「あの、あと、ごめん……。お前の見た目にちょっとビビって、俺も深町みたいに見た目で判断してたとこがあった、と思う。殿井は、謝られても困るだろうけど……」
俺は殿井の方を向いて、ごめんと頭を下げた。
「──律儀だね、普通そんなの言わないよ」
そうだと思う。そう思うけど態度悪かったのは謝りたかった。
「だって、良くなかったと思うし。殿井はただ俺と仲良くしようとしてくれてただけだし」
頭にかぶっていたタオルを肩におろした殿井は、優しい顔をした。
「七瀬のそういうところいいよね」
「……怒ってねーの?」
隣で殿井がいつもみたいにふにゃりと笑っている。
「だってこれからは見た目だけじゃなく、俺のこと見てくれるってことでしょ?嬉しいよ」
謝っても、俺だけが罪悪感から逃れるだけなら言わない方がいいと思ってた。けど殿井が嬉しそうに笑うから、言ってよかった。心の底から安心した。
「そう言ってもらえて嬉しいな~。今日は七瀬に格好悪いとこ見せて、すごい恥ずかしい思いいっぱいで寝るところだったから」
それでも恥ずかしそうに、両手で顔を覆った殿井からあ“〜と小さい呻きが聞こえた。
そんな風になった殿井に、俺はきょとんとした。
「そうかな?格好よかったけど」
俺は臆病でできないから、殿井も鉄もあぁやってはっきり言えるのはすごいと思う。
「ありがとう、そう言ってもらえるとまだ救いです」
顔が熱いのか、殿井は手でパタパタと顔を扇ぐ。
なんか言ってやらないとと思って、余計なことを言った。
「そんな、俺なんて泣いてるとこ、見られ…たし」
俺も殿井と同じように、じわじわと顔が熱くなってきた。
「あのさ、七瀬」
「なに?」
言いにくそうに、首に巻いたタオルを両手で触りながら殿井は聞いてきた。
「七瀬は、どうして泣いてたの?」
そう言われて、俺はすぐに答えられなかった。
「……なんでも──」
「なんでもないことないでしょ、そんなつらいそうな顔して」
そっと俺の頬に殿井の手が触れた。
「たまに見てる、あいつのせい?背の高い、ひょろっとした感じの」
殿井に気づかれてるだなんて思ってなくて、驚いて俺は固まってしまった。
「それは──」
「言ってよ。俺じゃ力になれないかもしれないけど、でも七瀬にそんなつらい顔させたくないんだ」
切実な声色で殿井がそんなこと言うから、俺は目を大きく見開いた。
(なんで、なんで俺よりつらそうな顔してんだよ……)
そんな殿井を見て、俺は今にも泣きだしそうだった。
「……絶対に、誰にも言わない?」
「言わない」
その真剣な眼差しに、俺は目を伏せ、何度か深呼吸してから口を開いた。
「……俺、振られたんだ」
*****************************************
「ごめんな、七瀬。本当にごめん」
学校からの帰り道、いつもはずっとしゃべっているのに、その日はお互いだんまりだった。
マンション裏の駐車場まで俺を送ると、泣きながら、智は俺に頭を下げた。
「ごめん、七瀬のことは好きだけど、でもごめんな」
泣きたいのはこっちなのに、全然泣けもしなくて、追いかけて引き留める力もなく、背を向けて離れていく智の後ろ姿が見えなくなるまで、俺はずっとその背中を見つめていた。
初恋だった。俺から告白して、いいよって言ってもらえた時はうれしくて、ほっとして、付き合ってもうすぐ1年になるからプレゼントも用意していた。それなのに──
「なぁ~、千田と菅谷って付き合ってんの?」
「……は?」
明らかにからかい口調で智のクラスメイトに聞かれた。
「俺見ちゃったんだよね、二人が手ぇ繋いで歩いてんの」
「マジでー!?」
ヒューヒューと周りも乗っかって来た。しかも2クラス合同授業の、人が多く、噂なんてすぐに広まる中で言われた。
見られた奴が悪かった、いつも上から目線のお調子者で、なのに学年でもヒエラルキー最高位にいるから質が悪い。深町達もそいつらにすぐに乗っかった。
こいつらの的にされたら、明日から地獄の始まりだ。
「なに言ってんの、七瀬が足くじいたって言うからしょうがなくだよ」
先に口を開いたのは、智の方だった。
「え~、ほんとに~?全然そんな風に見えなかったけどなぁ」
ニヤニヤと嫌な笑みを向けられて、なにも言えないでいると
「ほんとだって、男同士なんてほんとないから」
そんなことを言う智に心が軋んだけれど、俺は黙って見ていることしかできなかった。
「だよね~、俺もそうかとは思ったんだけどさぁ」
ハハハと適当に笑って誤魔化して、それで終わりだと思ってた。心にわだかまりは残ったけど、無視すればいいと思った。これでこれからも智といられるなら、心のモヤモヤを俺が抱えていればいいだけだって。
でも次の日、智は彼女と付き合い始めた。
別れて1カ月も経っても、ベランダで夜空を眺めながら俺は泣いていた。
(こんなことしてるなんて、悲しむ自分に酔ってんのかな……。もう智のことなんて考えたくないのに……)
そう思っても、どうにもならない。
人見知りが激しくて、面白いことも言えない暗くてつまらない俺とは誰とも仲良くしてくれなかった。でも智だけは小さい頃からずっとそばにいてくれた。
優しくて、でも気が弱くて、周りの目を気にするところもあって、それでも俺の気持ちを受け入れてくれて、最後に好きだって言ってくれて──そういう智が俺は好きだった。
*****************************************
話し終えた俺は、両手で手すりを強く握って黙り込んだ。もう泣きたくなかった。もうなにも、言葉が出てこない。
「そいつ、バカだね」
「……え?」
隣のベランダでは、殿井がゆっくりとサイダーを口にした。
「だって、そんなことで七瀬のこと手放すなんてありえない。俺なら絶対何があっても手放さない。七瀬が離れようとしてもすがりつく」
「すがりつくって……」
俺は殿井がなにを言おうとしているのか、わからなかった。
「だって好きってそういうことじゃないの?離れたくないし、離したくない。ずっと一緒にいたいってことでしょ?」
「それは、そうかもしれないけど──」
そうだとしたら、智は俺のこと好きじゃなかったってことなのかな。でもそれなら、どうして俺も追いかけなかったんだろう。
考え込んでいると、殿井が俺を遮るように言った。
「そいつは七瀬よりも、わが身可愛さを取っただけだよ。七瀬のことは好きだったのかもしれない。自分のことがもっと好きだっただけ七瀬を嫌いになったとか、彼女を好きになったとかとは別問題。自分勝手とまでは言わない。でも七瀬にも彼女にも配慮も思いやりもない。自分のために別れて、自分のために付き合ったんだろ?」
「……」
話し続ける殿井に気圧されて、俺は聞いてることしかできなかった。
「七瀬を想うなら、相手に気持ち残させるようなことしないと思う。自分に気持ちが残るような、そんなずるいことしないよ」
「そう、なのかな……」
しゃべり続ける殿井は、なんだか怒っているように見える。
「そうなの。だから七瀬は、もう傷つかないでいい。それに後悔するのはあいつだよ。なんで七瀬みたいなスペシャルな人と別れたんだろってね」
ベランダの境壁ごしに、手すりに置いた俺の手に殿井が手を重ねた。
「七瀬は、よく頑張ったよ。つらいのによく頑張ったよ」
優しく手を握られて、そんなことを言うから、我慢してたのに涙が流れる。
「スペシャルってなんだよ?……っ、からかってんの?」
「俺にとっては、七瀬が特別ってこと」
優しい殿井の声に、その手に、俺は殿井と手を繋いだまましゃがみこんだ。
こんな姿、絶対に見られたくない。でも殿井がそばにいてくれないと、枯れきるまでまで泣けないから。
どれくらい泣いていたかはわからない。けどずっと殿井は手を繋いでいてくれた。
「ごめっ……、ありがと。もう大丈夫」
はぁーっと深く息を吐いた俺は目をこすった。多分明日は目が腫れるだろうけど、それでもよかった。
なんだかすごく、すっきりした。
「んーん」
殿井は優しく俺の頭を撫でてくれる。
夜風が涼しくて気持ちよくて、殿井の手の温かさに俺はなんだかほっとした。
「七瀬は、俺の隣で笑ってたらいいよ」
いつもより大人びた殿井の笑みに、俺の胸は高鳴った。
(……どういう意味で言ってるんだろう)
でもそれは、とてもじゃないけど口にしにくい。
「七瀬は、これからは俺のことだけ考えてて?そしたら悲しいのも飛んでいくよ。俺が、七瀬を大事にするから」
「ははっ、なにそれ」
照れ隠ししながらふざけたように言う殿井に俺が笑うと、殿井も笑った。
でもその目はいつもと違う想いが籠っているような気がするのは、気のせいだろうか。
「あ、そうだ。今度一緒に出掛けようよ」
気分転換させてくれようとしてるんだろうか、なんて自分のいいように考えすぎだろうか。
「じゃあ柳と鉄も誘って──」
「そうじゃなくて、二人で」
「二人……?」
ピースを向けてくる殿井に俺が口をポカンと開いていると
「俺と七瀬で、デートしよ?」
「なんで?」
「え、だめ?」
「だめっていうか……、え?デートだろ?」
「うん」
だからそう言ってるよ?ときょとんとした目で殿井に見返される。
「デートって、付き合った人がするもんじゃ──」
「まぁそう固いこと言わないで」
「全然固くないと思うけど」
殿井と遊びに行きたくないわけじゃない。けど、デートってなると話は変わる。
(なんで俺はデートに誘われてるの?)
己の中のはてないっぱいを収拾しようとしていると
「んー、そうだな。じゃあ、今度の体育祭で1位取ったらデートして。それならいい?」
「なんでデート前提なの?それに殿井、そんなに走るの早くないだろ?」
「うん、だからご褒美で。俺頑張るから。ね?」
殿井の誰もを恋に落としてしまいそうな微笑みにうっかり頷きそうになったが、ハッとした俺はだめだめと首を横に振った。
「いや、だからデートは──」
「”はい”か”いいえ”かだけで返事して?」
そう言いながら殿井は片手で俺の頬を挟んできた。
「断られたら、俺悲しいよ。これでも精一杯頑張って言ってるんだから」
殿井が言うように、ふざけてる感じは全くなかった。殿井の目は真剣そのものだった。
「……ひゃい」
だからつい、そう言ってしまった。
なんだかんだで、俺はすっかり殿井のペースに飲まれている気がする。
でも嬉しそうに殿井が笑ってくれるから、気恥ずかしいけど俺もちょっとは嬉しく思ってしまう。
「へ、はにゃひて(手、離して)」
「あ、ごめんね」


