「綺麗だなぁ……」
月光が雲を透かし、周りの星々を輝かせる美しい夜空。
普段ならコーラ片手に眺めていただろうけど、最近はそういうこともできていない。
今日だって、雨だったらいいのにと。空も一緒に悲しんで、泣いてくれていたらいいのになんて思ってしまう。
ベランダの手すりにもたれかかったまま、目の前のまん丸な月を眺める俺にはすべてが滲んで見える。
何を見ても、何をしていても悲しくて仕方がない。
学校にいる間は我慢できているけど、今はもう流れる涙を拭く力もない。
「好きだったなぁ……」
ほんとに好きで、ずっと好きで、今もその気持ちに変わりはない。でも結局は、ただ俺が付き合わせていただけなのかもしれない。
俺は手すりに乗せた腕に顔を落として、声を殺して止まらない涙を流していた。
「ねぇ、なんで泣いてるの?」
すると急に声がして、俺はびくりと体を震わせた。
「……え?」
上げた顔を右に向けると、仕切り板を隔てた隣のベランダの手すりにもたれかかって、こっちを見ている男がいた。
(隣はずっと誰も住んでなかったのに──)
電気もついていないから、月明りだけでは男の顔はぼんやりとしか見えない。
「ね、どうしたの?どこか痛むの?」
驚いたまま突っ立っていると、ゆっくりと手を伸ばしてきた男が俺の頬を流れる涙をぬぐった。
「悲しいことでも、あった?」
気づかうような、低く柔らかい声だけが耳に響く。
ボーっと男を見ていたが、ハッとして俺は腕を前に持ってきて顔を隠した。
「ごめんなさい、大丈夫です!」
それだけ言って俺は急いで室内へと逃げ、カーテンを閉めた。
あんな姿、他人に見られたなんて恥ずかしすぎる。確実に泣いたせいだけじゃなく顔が熱くなっている。
でも──
「手が、優しかった……」
「菅谷どうしたよ?今日テンション低くね?」
俺の重たい前髪をわしゃわしゃと乱す柳の隣で、鉄が頷いた。
「なんでもないよ」
柳の手を振り払う気力もなく、俺は机に突っ伏した。
「おーい、今日ダメだこいつ」
そう言いながら柳がつついて来るが、その手を払う気力もない。
「ま、そう言うときもあるわな。それで帰りさ──」
鉄はなにも言わないけど、俺が放っておいて欲しいのを察してくれたんだろう。無口だけど、いつも優しい。
正直、俺はもう、落ち込みを隠しきれない状態だ。
(目、腫れてなくてよかった)
朝、保冷剤で冷やしてきたから、腫れもおさまった。泣いてたのがバレてないからまだましだ。
失恋して、昨日はめっちゃ泣いてしまったし、しかもそれを見られたのが恥ずかしすぎて中々寝れなかった。
寝れそうになると涙をぬぐわれた感触を思い出して、ベットの上で暴れていた。おかげで睡眠不足だ。いつものことだけど、今日はさらにひどい。
”ね、なんで泣いてるの?”
思い出すだけで、今も顔が赤くなるし、優しくされたせいで少しときめいてしまった。
それでまた失恋したばかりなのに、ときめいた自分に自己嫌悪で寝れないループだった。
「今日、転校生来るんだよな?男?女?」
「男って言ってたぞ」
俺は睡眠不足とショックのあまり会話に入る元気がない。
頭の上で続けられる会話に耳だけで参加する。
「この時期転校とか多いんかな?」
「親の転勤の都合だろ」
俺の隣の席も、先月末に親の転勤があるからって転校して空になった。
「菅谷はどうする?俺らワック行くけど」
顔だけ柳に向けると、柳は数枚のカードをひらひらとさせた。
二人は最近、セットメニューについて来る特典のカードを集めている。あと1枚が揃わないらしい。
「今日は帰るわ」
「わかったー、また今度な」
「うん、ありがと」
集めたカードを見せ合う二人は、俺が絶対に断るとわかっているのに誘ってくれる。
陰キャで、特段面白みもない俺なんかとも仲良くしてくれて、心配してくれる。智以外の初めての友達。
でも申し訳ないけど、今は自分のことでいっぱいいっぱいだ。
「はーっ……」
「おいどうしたー?なんかあったなら話聞くぞ」
俺が盛大なため息をつくと、柳がまたつついてきた。
「ありがと……」
自分勝手でごめんなさい。でも、まだ言えないんです。
「おーい、席着けー。朝礼するぞー」
俺が自己嫌悪いっぱいになっていると、ガラガラと扉を開けて担任が入ってきた。すると、雑音とともにざわめき立った。
ぼーっと黒板の方を向いて、なるほど、と思った。
「ま、あの外見じゃなぁ……」
誰に言うわけでもなく、ポツリと俺はつぶやいた。
「といことで、今日からこのクラスの一員に加わる殿井さんだ」
担任が紹介しながら、名前を黒板に書いていく。
クラス中から集める視線を遮るように伏せていた目を上げると、転校生の顔がもっとよく見える。
切れ長の目に、長いまつ毛。通った鼻筋に薄く形のいい唇。
担任よりもタッパあるから、180cmはあるだろう。スラリとしてスタイルがいいのがよくわかる。腰の位置が高い。髪がふわふわしているのは、猫っ毛なのだろう。
「それじゃ、自己紹介して」
「はい。殿井凌です、今日からよろしくお願いします」
爽やかな風が吹き抜けていくような笑顔で、さっそく女子は色めきだっているのが、俺の教室ど真ん中一番後ろの席からはその様子がよくわかる。
転校生はゆっくりと教室を見渡している。
(なんか胡散臭そ)
転校生の顔に張り付いている屈託のない笑顔をそう思ってしまうなんて、自分でもひねくれ具合が過ぎるわと思う。
(だから、振られたのかな──)
もっと可愛げがあれば、もっと俺と離れたくないって思える俺であれば、今でもそばにいてくれたんだろうか。
そんなことを考えながらぼんやりと頬杖したまま前を向いていると、転校生とバッチリと目が合った。
「……あ、隣の人だ」
そう言うと、転校生はツカツカと俺の前まで歩いてきた。
「昨日はどーも」
「……は?」
愛想のいい笑みを向けてくれるが、言ってることがわからない。
俺、こいつと会ったことあるのか?
「なんだ、菅谷と知り合いか?」
「はい」
”はい”じゃねぇ、まだ知り合ってねぇわ。
「じゃあ席は菅谷の隣で」
「はーい」
なんでだ、窓側の席も1つ空いてるのに。
もう話は終わりと言わんばかりに、担任は授業始めるぞ、と教科書をめくりだした。
「よろしくね」
「あの、俺、人違いじゃ……」
頬杖ついてた方の腕を胸に抱えながら、俺はおずおずと言った。
「え?昨日会ったでしょ、ベランダで」
「ベランダ……」
その瞬間、俺は椅子も音を立てるくらいに震えあがった。
「どうした、菅谷ー?」
「あ、すみませーん。机くっつけようとしてて」
「もう少し静かにな」
「はーい」
轟音でクラス中の視線を集めてしまった俺がなにも言えないままでいると、転校生がフォローを入れた。
「菅谷は名前、なんていうの?」
転校生は隣の席に座ると、ナチュラルに机をくっつけてきた。
「あの、なんで机……」
「俺まだ教科書ないから見せて。で、菅谷なにっていうの?」
俺は口を閉じたまま声にならない叫びをあげた。
優しく問いかけてくれているが、俺からしたら恐怖だ。絶対に昨日のことを覚えているに違いない。
俺は両手で顔を覆って、深くため息をついた。
絶望だ。あんな醜態を見られた奴だなんて。俺をもうどこかの地中にでも沈めてほしい。
「あれ、聞いてる?」
カーディガンを軽く引っ張ってくるので、ぼそぼそとつぶやいたが聞こえなかったのだろう。「なんて?」と顔を寄せられた。
転校生の髪が耳にあたって、その至近距離に俺は縮みあがった。
「……菅谷、七瀬です……」
両手から目だけ出した俺は、転校生から目をそらした。
俺の心は小鹿のように震えている、いつ”昨日泣いてたよな?”と言われるのかと。
そんなこと今ここで言われると困る。俺は適当なことなんて言えない。
「よろしくね、七瀬」
俺より背があるからか、腕に顔を乗せた体勢で転校生は俺を覗き込んできた。
「……よろしく」
本当はよろしくしたくないけれど、柔らかく微笑む転校生に顔を引きつらせながら俺はそう言った。
「ねぇ殿井君。帰りどっか寄ってかない?」
やっと帰りの時間になり、俺は心底ほっとしていた。
今日は一日中、殿井が隣にいた。
授業中は教科書を見せ、移動教室では一緒に動き、昼も一緒で俺は精神的にヘロヘロだ。
そもそも俺は人見知りなんだ。知らない奴としゃべるだけで負荷がある。昼休みも柳がペラペラとその場を盛り上げてくれていたのがせめてもの救いだった。
「殿井はなんて呼ばれてたん?」
「殿とかが多いかなぁ」
「じゃあ殿って呼ぶわ」
「うん、そうして。七瀬も鉄も」
「おう」
3人が楽しそうに話す中、俺は静かにしていた。
静かにしすぎていたせいだろう、時折殿井がじーっと俺を見て来た。
(お願いですからその視線はやめてください……)
なぜか、俺を見るときだけ殿井は張り付き笑顔から真顔になるときがある。それが値踏みでもされてるようで、俺はさっきからミニトマトを箸で挟もうとしても、うまく挟めない。
「殿、菅谷は慣れるまで時間かかるからあんま気にせんでいいよ」
「そうなの?だったらよかった」
ほっとしたような殿井は、また俺をじっと見てきた。
「うちの子がすまんなぁ」
けど柳がそんなことを言うから、俺はじとっとした目を柳に向けた。
(誰がうちの子だ。いつ柳の子になったんだ)
そう思いながら見ていると、柳は笑い出すし殿井は見つめてきているわで、俺はくさくさしながら弁当に目をやった。
「ごめんね、今日はちょっと」
「えー、いいじゃん」
だから俺は、立ち上がらせようと派手な女子が殿井の腕を引っ張っているのを小さく応援している。
早く殿井から離れたい、でも俺のいないところで俺が泣いていたことを言われたら困るから離れたくない。
自分の中のちぐはぐな感情にイライラする。
「そうだよ、俺らこれからカラオケ行くからさ」
クラスの中でも声が大きい深町達も一緒になって殿井を誘いに来た。
「それにさぁ、菅谷達とつるむより俺らといた方が数倍楽しいよ」
ぎゃははと笑う深町に合わせるように、周りも笑い出した。
確かに俺達は地味メンの集まりだけど、それはそれで放っておいて欲しい。
(よし、今のうち帰ろう)
もう考えるのも面倒になった俺は、鞄を持ってそっと立ち上がった。が、俺は中腰で動きを止めることになった。
「ごめんね、今日は七瀬と一緒に帰る約束だから」
俺の腕をつかんだ殿井がそんなことを言うから、俺は目を大きく見開いて柔らかな笑みを浮かべる殿井を見つめた。
(そんな約束してないんですけど!?)
「え~?」
「ごめんね。俺まだ道わかんないし、帰って引っ越しの片づけしないといけないから」
「あたしたち全然手伝うよ」
一軍女子達の必死な様子がよくわかる。今日のうちに他のやつらより一歩先に出たいんだろう。
けれど、動けないまま見ていた俺にはわかる。
殿井は品のいい笑みを浮かべているが”こんだけ断ってるのに、お前らまだわかんないの?”と目が言っている。
(イケメンの張り付いた笑顔、こわい)
俺が固まったまま様子を見ていると
「ほら、女の子には見せられないものとかもあるから、ね?また今度」
殿井の笑顔にやられて女子はぽわ~っとしてしまった。そんな女子に男子は”あからさますぎるだろ”の視線を向けている。
「じゃあまた明日ね」
「え、ちょっ!?」
俺は立ち上がった殿井に手を引っ張られて、教室を出ることになった。
「だる~」
下駄箱で靴を履き替えていると、ため息交じりの殿井の声が耳に入った。
(……こわい)
なんでこんなコロコロ顔色変わるやつと一緒にいないといけないんだ。柳も鉄もワックに行ってしまって、俺は心細くて仕方ない。
「あ、七瀬。今日帰ったらうち来ない?」
なんでだよ。
昇降口を出たとこでに殿井にそう言われ、げっそりした顔で見上げた。
「片付け、あるんだよね?」
「すぐ終わるし」
俺とは反対で、殿井は人懐っこい笑みを浮かべている。
それに距離が近い、そんなに顔を寄せてこないでも聞こえます。
俺に懐いて来るような態度が逆にこわい。こんな陽キャの国の住人みたいな人が俺なんかと仲良くしたいなんて思うわけがない。
(やっぱり昨日泣いてたのを理由にゆすられるんだろうか──!?)
鞄がぶつからないように、ぶつかって何か言われないように、俺は鞄を脇に抱えた。
するとその分殿井が俺との距離を詰めて来た。
「なんか、俺のことすごい警戒してない?」
「人見知りなだけです」
「鞄持ったげようか?」
「け、結構です!」
なぜこんなことになっているんだ、家までずっとこんなだろうか。
深いため息をついてから前を向くと、ピタリと俺の足は止まってしまった。
校門へと、彼女と手を繋いで歩く智が見えたから。
(あぁ、痛いなぁ)
ズキンと、胸の奥が痛む。
(これからは、あぁいう姿を見ることになるんだな──)
鼻の奥がつんとしてきたけど、まだ学校だから泣けもしない。瞬きを繰り返して、涙が落ちないようにした。
「どしたの?」
急に俺が足を止めたから、殿井が不思議そうにのぞき込んできた。
「なんでもないよ!」
「わっ、元気〜」
誤魔化そうとして出した大声が思った以上で、殿井は耳を押さえながら笑っている。
(恥ずかしい……)
周りの視線も集めてしまった、もちろん智も彼女と一緒にこちらを振り向いている。
じっと、俺を見ている気がした。
「……」
「友達?」
「え?」
左上を見上げると、すぐそばに殿井の顔があった。
「前の彼、じっとこっちを見てたから」
俺にしか聞こえない小さな声で言われて、俺もまた智を見たけれど、もう後ろ姿しか見えなかった。
「……そう。友達、だった」
もう友達にも戻れない。
「ふーん……」
それ以上、殿井も聞いてこなかった。
「七瀬ってさ」
もうさっさと家に帰りたい。やっとマンションのエントランスまで帰って来れた。
殿井はいろいろと話しかけてきてたけど、俺はまださっきのショックで「ふーん」とか「へー」しか言えなくて、話は右から左へだった。
「かわいいよね」
「うん」
だから、頭にその言葉が入ってくるまで数秒かかった。
「……は?」
聞き間違いだろうか。
ポーンと音を立て、降りて来たエレベーターの扉が開いた。殿井が乗り込むも、俺はその場に立ち尽くした。
「乗らないの?」
《開》を押したまま殿井がエレベーターの中からひょっこりと顔を出した。
「乗るけど……」
乗り込んだ俺はボタンの前にいる殿井と反対の角っこで小さくなった。
(──かわいいって聞こえたけど、俺もボーっとしてたし、聞き間違いかな)
きっとそうに違いない。だから、殿井がじっと俺を見てくるのも、きっと俺の気のせいだ。
俺はもう寄れないのに無理やり隅っこに寄った。
6階に着き、先に降りた殿井に続いて俺も外廊下を歩く。
「七瀬は毎朝何時に家出てる?」
「……?」
どうしてそんなこと聞かれてるかわからなくて、俺は首を傾げた。
「俺まだ道うろ覚えだから、通学時間かかるし、参考に」
何時?と聞いてくる殿井は、俺の家の扉の前から動かない。
たまたま、俺の家の前に差し掛かった時に、そう思ったんだろうか。
キラキラした笑顔から有無を言わせない圧を感じるのは気のせいだろうか。
「……だいたい8時くらい、かな」
もうこたえたんだから、どいていただけますでしょうか。
俺は鞄の紐をぎゅっと握ったまま殿井を見上げた。
そうすると、殿井はまた真顔で俺を見つめた。
「かわい」
「……へ?」
殿井は小さくヤバッと言ってから、口を手で抑えた。
(さっきのはやっぱり、聞き間違いじゃなく……?)
俺がぽやんとしていると、なかったかのようにふんわりと殿井が頷いた。
「そっか、わかった。念のため連絡先聞いてもいい?迷ったとき連絡するから」
「~~~~~~っ」
俺は頭の中がぐるぐるした。
(教えたくないっ)
なんとなく、やっかいなことしか起きない気がした。
考え込んでいると、ふっと影が差した。
「……だめ?」
俺の家の扉に腕を添えて、弱り切った子犬のような目をした殿井の顔がすぐそばにあった。
「……っ教えるから、離れて!」
「わーい」
美しい顔がそばに来てドキドキしすぎてしまい、負けてしまった。
IDを交換し、どんよりした気分の俺とは逆に殿井は『よろしくぴょん』とゆるふわうさぎのアイコンを送って来た。
「これからよろしくね、七瀬」
じゃあまた明日ね、と殿井は俺の頭をポンポンしてから自宅に帰っていった。
「……なんで名前呼びなんだよ」
恥ずかしいのになんか悔しくて、殿井がいなくなった空虚に向かって俺は小さく叫んだ。
月光が雲を透かし、周りの星々を輝かせる美しい夜空。
普段ならコーラ片手に眺めていただろうけど、最近はそういうこともできていない。
今日だって、雨だったらいいのにと。空も一緒に悲しんで、泣いてくれていたらいいのになんて思ってしまう。
ベランダの手すりにもたれかかったまま、目の前のまん丸な月を眺める俺にはすべてが滲んで見える。
何を見ても、何をしていても悲しくて仕方がない。
学校にいる間は我慢できているけど、今はもう流れる涙を拭く力もない。
「好きだったなぁ……」
ほんとに好きで、ずっと好きで、今もその気持ちに変わりはない。でも結局は、ただ俺が付き合わせていただけなのかもしれない。
俺は手すりに乗せた腕に顔を落として、声を殺して止まらない涙を流していた。
「ねぇ、なんで泣いてるの?」
すると急に声がして、俺はびくりと体を震わせた。
「……え?」
上げた顔を右に向けると、仕切り板を隔てた隣のベランダの手すりにもたれかかって、こっちを見ている男がいた。
(隣はずっと誰も住んでなかったのに──)
電気もついていないから、月明りだけでは男の顔はぼんやりとしか見えない。
「ね、どうしたの?どこか痛むの?」
驚いたまま突っ立っていると、ゆっくりと手を伸ばしてきた男が俺の頬を流れる涙をぬぐった。
「悲しいことでも、あった?」
気づかうような、低く柔らかい声だけが耳に響く。
ボーっと男を見ていたが、ハッとして俺は腕を前に持ってきて顔を隠した。
「ごめんなさい、大丈夫です!」
それだけ言って俺は急いで室内へと逃げ、カーテンを閉めた。
あんな姿、他人に見られたなんて恥ずかしすぎる。確実に泣いたせいだけじゃなく顔が熱くなっている。
でも──
「手が、優しかった……」
「菅谷どうしたよ?今日テンション低くね?」
俺の重たい前髪をわしゃわしゃと乱す柳の隣で、鉄が頷いた。
「なんでもないよ」
柳の手を振り払う気力もなく、俺は机に突っ伏した。
「おーい、今日ダメだこいつ」
そう言いながら柳がつついて来るが、その手を払う気力もない。
「ま、そう言うときもあるわな。それで帰りさ──」
鉄はなにも言わないけど、俺が放っておいて欲しいのを察してくれたんだろう。無口だけど、いつも優しい。
正直、俺はもう、落ち込みを隠しきれない状態だ。
(目、腫れてなくてよかった)
朝、保冷剤で冷やしてきたから、腫れもおさまった。泣いてたのがバレてないからまだましだ。
失恋して、昨日はめっちゃ泣いてしまったし、しかもそれを見られたのが恥ずかしすぎて中々寝れなかった。
寝れそうになると涙をぬぐわれた感触を思い出して、ベットの上で暴れていた。おかげで睡眠不足だ。いつものことだけど、今日はさらにひどい。
”ね、なんで泣いてるの?”
思い出すだけで、今も顔が赤くなるし、優しくされたせいで少しときめいてしまった。
それでまた失恋したばかりなのに、ときめいた自分に自己嫌悪で寝れないループだった。
「今日、転校生来るんだよな?男?女?」
「男って言ってたぞ」
俺は睡眠不足とショックのあまり会話に入る元気がない。
頭の上で続けられる会話に耳だけで参加する。
「この時期転校とか多いんかな?」
「親の転勤の都合だろ」
俺の隣の席も、先月末に親の転勤があるからって転校して空になった。
「菅谷はどうする?俺らワック行くけど」
顔だけ柳に向けると、柳は数枚のカードをひらひらとさせた。
二人は最近、セットメニューについて来る特典のカードを集めている。あと1枚が揃わないらしい。
「今日は帰るわ」
「わかったー、また今度な」
「うん、ありがと」
集めたカードを見せ合う二人は、俺が絶対に断るとわかっているのに誘ってくれる。
陰キャで、特段面白みもない俺なんかとも仲良くしてくれて、心配してくれる。智以外の初めての友達。
でも申し訳ないけど、今は自分のことでいっぱいいっぱいだ。
「はーっ……」
「おいどうしたー?なんかあったなら話聞くぞ」
俺が盛大なため息をつくと、柳がまたつついてきた。
「ありがと……」
自分勝手でごめんなさい。でも、まだ言えないんです。
「おーい、席着けー。朝礼するぞー」
俺が自己嫌悪いっぱいになっていると、ガラガラと扉を開けて担任が入ってきた。すると、雑音とともにざわめき立った。
ぼーっと黒板の方を向いて、なるほど、と思った。
「ま、あの外見じゃなぁ……」
誰に言うわけでもなく、ポツリと俺はつぶやいた。
「といことで、今日からこのクラスの一員に加わる殿井さんだ」
担任が紹介しながら、名前を黒板に書いていく。
クラス中から集める視線を遮るように伏せていた目を上げると、転校生の顔がもっとよく見える。
切れ長の目に、長いまつ毛。通った鼻筋に薄く形のいい唇。
担任よりもタッパあるから、180cmはあるだろう。スラリとしてスタイルがいいのがよくわかる。腰の位置が高い。髪がふわふわしているのは、猫っ毛なのだろう。
「それじゃ、自己紹介して」
「はい。殿井凌です、今日からよろしくお願いします」
爽やかな風が吹き抜けていくような笑顔で、さっそく女子は色めきだっているのが、俺の教室ど真ん中一番後ろの席からはその様子がよくわかる。
転校生はゆっくりと教室を見渡している。
(なんか胡散臭そ)
転校生の顔に張り付いている屈託のない笑顔をそう思ってしまうなんて、自分でもひねくれ具合が過ぎるわと思う。
(だから、振られたのかな──)
もっと可愛げがあれば、もっと俺と離れたくないって思える俺であれば、今でもそばにいてくれたんだろうか。
そんなことを考えながらぼんやりと頬杖したまま前を向いていると、転校生とバッチリと目が合った。
「……あ、隣の人だ」
そう言うと、転校生はツカツカと俺の前まで歩いてきた。
「昨日はどーも」
「……は?」
愛想のいい笑みを向けてくれるが、言ってることがわからない。
俺、こいつと会ったことあるのか?
「なんだ、菅谷と知り合いか?」
「はい」
”はい”じゃねぇ、まだ知り合ってねぇわ。
「じゃあ席は菅谷の隣で」
「はーい」
なんでだ、窓側の席も1つ空いてるのに。
もう話は終わりと言わんばかりに、担任は授業始めるぞ、と教科書をめくりだした。
「よろしくね」
「あの、俺、人違いじゃ……」
頬杖ついてた方の腕を胸に抱えながら、俺はおずおずと言った。
「え?昨日会ったでしょ、ベランダで」
「ベランダ……」
その瞬間、俺は椅子も音を立てるくらいに震えあがった。
「どうした、菅谷ー?」
「あ、すみませーん。机くっつけようとしてて」
「もう少し静かにな」
「はーい」
轟音でクラス中の視線を集めてしまった俺がなにも言えないままでいると、転校生がフォローを入れた。
「菅谷は名前、なんていうの?」
転校生は隣の席に座ると、ナチュラルに机をくっつけてきた。
「あの、なんで机……」
「俺まだ教科書ないから見せて。で、菅谷なにっていうの?」
俺は口を閉じたまま声にならない叫びをあげた。
優しく問いかけてくれているが、俺からしたら恐怖だ。絶対に昨日のことを覚えているに違いない。
俺は両手で顔を覆って、深くため息をついた。
絶望だ。あんな醜態を見られた奴だなんて。俺をもうどこかの地中にでも沈めてほしい。
「あれ、聞いてる?」
カーディガンを軽く引っ張ってくるので、ぼそぼそとつぶやいたが聞こえなかったのだろう。「なんて?」と顔を寄せられた。
転校生の髪が耳にあたって、その至近距離に俺は縮みあがった。
「……菅谷、七瀬です……」
両手から目だけ出した俺は、転校生から目をそらした。
俺の心は小鹿のように震えている、いつ”昨日泣いてたよな?”と言われるのかと。
そんなこと今ここで言われると困る。俺は適当なことなんて言えない。
「よろしくね、七瀬」
俺より背があるからか、腕に顔を乗せた体勢で転校生は俺を覗き込んできた。
「……よろしく」
本当はよろしくしたくないけれど、柔らかく微笑む転校生に顔を引きつらせながら俺はそう言った。
「ねぇ殿井君。帰りどっか寄ってかない?」
やっと帰りの時間になり、俺は心底ほっとしていた。
今日は一日中、殿井が隣にいた。
授業中は教科書を見せ、移動教室では一緒に動き、昼も一緒で俺は精神的にヘロヘロだ。
そもそも俺は人見知りなんだ。知らない奴としゃべるだけで負荷がある。昼休みも柳がペラペラとその場を盛り上げてくれていたのがせめてもの救いだった。
「殿井はなんて呼ばれてたん?」
「殿とかが多いかなぁ」
「じゃあ殿って呼ぶわ」
「うん、そうして。七瀬も鉄も」
「おう」
3人が楽しそうに話す中、俺は静かにしていた。
静かにしすぎていたせいだろう、時折殿井がじーっと俺を見て来た。
(お願いですからその視線はやめてください……)
なぜか、俺を見るときだけ殿井は張り付き笑顔から真顔になるときがある。それが値踏みでもされてるようで、俺はさっきからミニトマトを箸で挟もうとしても、うまく挟めない。
「殿、菅谷は慣れるまで時間かかるからあんま気にせんでいいよ」
「そうなの?だったらよかった」
ほっとしたような殿井は、また俺をじっと見てきた。
「うちの子がすまんなぁ」
けど柳がそんなことを言うから、俺はじとっとした目を柳に向けた。
(誰がうちの子だ。いつ柳の子になったんだ)
そう思いながら見ていると、柳は笑い出すし殿井は見つめてきているわで、俺はくさくさしながら弁当に目をやった。
「ごめんね、今日はちょっと」
「えー、いいじゃん」
だから俺は、立ち上がらせようと派手な女子が殿井の腕を引っ張っているのを小さく応援している。
早く殿井から離れたい、でも俺のいないところで俺が泣いていたことを言われたら困るから離れたくない。
自分の中のちぐはぐな感情にイライラする。
「そうだよ、俺らこれからカラオケ行くからさ」
クラスの中でも声が大きい深町達も一緒になって殿井を誘いに来た。
「それにさぁ、菅谷達とつるむより俺らといた方が数倍楽しいよ」
ぎゃははと笑う深町に合わせるように、周りも笑い出した。
確かに俺達は地味メンの集まりだけど、それはそれで放っておいて欲しい。
(よし、今のうち帰ろう)
もう考えるのも面倒になった俺は、鞄を持ってそっと立ち上がった。が、俺は中腰で動きを止めることになった。
「ごめんね、今日は七瀬と一緒に帰る約束だから」
俺の腕をつかんだ殿井がそんなことを言うから、俺は目を大きく見開いて柔らかな笑みを浮かべる殿井を見つめた。
(そんな約束してないんですけど!?)
「え~?」
「ごめんね。俺まだ道わかんないし、帰って引っ越しの片づけしないといけないから」
「あたしたち全然手伝うよ」
一軍女子達の必死な様子がよくわかる。今日のうちに他のやつらより一歩先に出たいんだろう。
けれど、動けないまま見ていた俺にはわかる。
殿井は品のいい笑みを浮かべているが”こんだけ断ってるのに、お前らまだわかんないの?”と目が言っている。
(イケメンの張り付いた笑顔、こわい)
俺が固まったまま様子を見ていると
「ほら、女の子には見せられないものとかもあるから、ね?また今度」
殿井の笑顔にやられて女子はぽわ~っとしてしまった。そんな女子に男子は”あからさますぎるだろ”の視線を向けている。
「じゃあまた明日ね」
「え、ちょっ!?」
俺は立ち上がった殿井に手を引っ張られて、教室を出ることになった。
「だる~」
下駄箱で靴を履き替えていると、ため息交じりの殿井の声が耳に入った。
(……こわい)
なんでこんなコロコロ顔色変わるやつと一緒にいないといけないんだ。柳も鉄もワックに行ってしまって、俺は心細くて仕方ない。
「あ、七瀬。今日帰ったらうち来ない?」
なんでだよ。
昇降口を出たとこでに殿井にそう言われ、げっそりした顔で見上げた。
「片付け、あるんだよね?」
「すぐ終わるし」
俺とは反対で、殿井は人懐っこい笑みを浮かべている。
それに距離が近い、そんなに顔を寄せてこないでも聞こえます。
俺に懐いて来るような態度が逆にこわい。こんな陽キャの国の住人みたいな人が俺なんかと仲良くしたいなんて思うわけがない。
(やっぱり昨日泣いてたのを理由にゆすられるんだろうか──!?)
鞄がぶつからないように、ぶつかって何か言われないように、俺は鞄を脇に抱えた。
するとその分殿井が俺との距離を詰めて来た。
「なんか、俺のことすごい警戒してない?」
「人見知りなだけです」
「鞄持ったげようか?」
「け、結構です!」
なぜこんなことになっているんだ、家までずっとこんなだろうか。
深いため息をついてから前を向くと、ピタリと俺の足は止まってしまった。
校門へと、彼女と手を繋いで歩く智が見えたから。
(あぁ、痛いなぁ)
ズキンと、胸の奥が痛む。
(これからは、あぁいう姿を見ることになるんだな──)
鼻の奥がつんとしてきたけど、まだ学校だから泣けもしない。瞬きを繰り返して、涙が落ちないようにした。
「どしたの?」
急に俺が足を止めたから、殿井が不思議そうにのぞき込んできた。
「なんでもないよ!」
「わっ、元気〜」
誤魔化そうとして出した大声が思った以上で、殿井は耳を押さえながら笑っている。
(恥ずかしい……)
周りの視線も集めてしまった、もちろん智も彼女と一緒にこちらを振り向いている。
じっと、俺を見ている気がした。
「……」
「友達?」
「え?」
左上を見上げると、すぐそばに殿井の顔があった。
「前の彼、じっとこっちを見てたから」
俺にしか聞こえない小さな声で言われて、俺もまた智を見たけれど、もう後ろ姿しか見えなかった。
「……そう。友達、だった」
もう友達にも戻れない。
「ふーん……」
それ以上、殿井も聞いてこなかった。
「七瀬ってさ」
もうさっさと家に帰りたい。やっとマンションのエントランスまで帰って来れた。
殿井はいろいろと話しかけてきてたけど、俺はまださっきのショックで「ふーん」とか「へー」しか言えなくて、話は右から左へだった。
「かわいいよね」
「うん」
だから、頭にその言葉が入ってくるまで数秒かかった。
「……は?」
聞き間違いだろうか。
ポーンと音を立て、降りて来たエレベーターの扉が開いた。殿井が乗り込むも、俺はその場に立ち尽くした。
「乗らないの?」
《開》を押したまま殿井がエレベーターの中からひょっこりと顔を出した。
「乗るけど……」
乗り込んだ俺はボタンの前にいる殿井と反対の角っこで小さくなった。
(──かわいいって聞こえたけど、俺もボーっとしてたし、聞き間違いかな)
きっとそうに違いない。だから、殿井がじっと俺を見てくるのも、きっと俺の気のせいだ。
俺はもう寄れないのに無理やり隅っこに寄った。
6階に着き、先に降りた殿井に続いて俺も外廊下を歩く。
「七瀬は毎朝何時に家出てる?」
「……?」
どうしてそんなこと聞かれてるかわからなくて、俺は首を傾げた。
「俺まだ道うろ覚えだから、通学時間かかるし、参考に」
何時?と聞いてくる殿井は、俺の家の扉の前から動かない。
たまたま、俺の家の前に差し掛かった時に、そう思ったんだろうか。
キラキラした笑顔から有無を言わせない圧を感じるのは気のせいだろうか。
「……だいたい8時くらい、かな」
もうこたえたんだから、どいていただけますでしょうか。
俺は鞄の紐をぎゅっと握ったまま殿井を見上げた。
そうすると、殿井はまた真顔で俺を見つめた。
「かわい」
「……へ?」
殿井は小さくヤバッと言ってから、口を手で抑えた。
(さっきのはやっぱり、聞き間違いじゃなく……?)
俺がぽやんとしていると、なかったかのようにふんわりと殿井が頷いた。
「そっか、わかった。念のため連絡先聞いてもいい?迷ったとき連絡するから」
「~~~~~~っ」
俺は頭の中がぐるぐるした。
(教えたくないっ)
なんとなく、やっかいなことしか起きない気がした。
考え込んでいると、ふっと影が差した。
「……だめ?」
俺の家の扉に腕を添えて、弱り切った子犬のような目をした殿井の顔がすぐそばにあった。
「……っ教えるから、離れて!」
「わーい」
美しい顔がそばに来てドキドキしすぎてしまい、負けてしまった。
IDを交換し、どんよりした気分の俺とは逆に殿井は『よろしくぴょん』とゆるふわうさぎのアイコンを送って来た。
「これからよろしくね、七瀬」
じゃあまた明日ね、と殿井は俺の頭をポンポンしてから自宅に帰っていった。
「……なんで名前呼びなんだよ」
恥ずかしいのになんか悔しくて、殿井がいなくなった空虚に向かって俺は小さく叫んだ。


