その日、娘はよく晴れ渡った夏空のもと、街中を駆けていた。

 石造りの溝には昨晩、街を包んだ雨露がたまり、娘の靴を濡らしていく。浅い呼吸を繰り返しながら活気ある市場をすり抜け路地裏に入り込めば、通りには雨上がりの爽やかな香りとは程遠く、湿ってかび臭い、暗く陰気な別世界が広がった。辺りは勤めを終えた娼婦や酒浸りの男たちが煙管をくゆらせ、濁った空気が漂っている。

「待て! 物盗りめ!」

 娘を追う男たちは、娘の手に握られるいくつもの首飾りを求め泳ぎもがくように走っていた。裏通りに入ったとたん足を動かしながらも娘めがけて何度も詠唱を発するが、指先から放たれる閃光は、あと少しのところで当たらず、無造作に置かれた酒の木箱や芋の入った袋に命中し足場を悪くするばかりだ。

 一方商人から貧しい娘に所有者を変えた赤い宝石の首飾りは、かすかに届く日の光をいくつも受け、悠々と反射している。

 この国、和葉国は古から伝わる妖力によって発展してきた国である。国民の誰しもが一定の妖力を有し、それらを用いることで人々は妖魔と呼ばれる人ならざる化け物に打ち勝ち、暮らしを豊かにしてきた。だからといって、貧しさがないわけではない。食うに困らない華族もいる一方で、宝石商から一瞬の隙をついて首飾りを盗み、放たれる妖術をよけながら街を駆けることを日常としなければ、生きていけない娘もいる。

 首飾りを盗んだ娘は、つま先やかかとを泥で汚し、頬をすすだらけにして骨ばった腕を一生懸命動かしながら自分の住処へと急ぐ。

 しかし、懸命に走っていたがとうとう後ろの追手が放った閃光が脛をかすり、裏通りに出るあと一歩のところで倒れてしまった。

「くそ、手間取らせやがって!」
「宝石は無事か? 傷はついてないだろうな?」

 男たちは転がる娘を足で蹴飛ばし、首飾りを確認する。商品に傷がないことに安心して、さらに娘にもう一蹴り浴びせようとした――次の瞬間。娘に商人たちとは別の影がさした。

「なんて無粋な真似をしているのですか」

 凛として、それでいて冷えた声に商人たちの身が一瞬にしてすくむ。自分の周囲の空気が変わったことを感じた娘は、額から流れ出た血で目がかすみながらも自分を抱き起そうとする者を視界に入れた。その人物は、透き通るような空色の瞳をして、丹念に櫛で梳かしたのが分かるほどに光を纏いさらさらと流れる白い髪をした青年だった。白の軍服を纏い、銀縁の眼鏡をかける涼やかなまなざしが野菊を一瞥し、その後、商人に向けられる。

「ま、待ってください白蓮様、その子供は宝石を盗んだ泥棒で」

 商人は娘の罪状を告げる。ああ、今すぐ振り落とされるかもしれない。娘はこのまま固い地面へと叩き付けられることを覚悟したが、白蓮と呼ばれた青年は娘を立たせてやると、商人たちに真っすぐ向き直った。

「だから何だというのです。泥棒というのなら、拘束してそこらの軍人に引き渡すべきでしょう。裏路地に追い詰め、蹴り倒していい道理にはなりません」
「その子供が勝手に逃げたんです」
「では何故衛兵を呼ばないのですか? 妖術をむやみに使用して、火災を起こしたら責任を取れるのでしょうか? 市民が不用意に攻撃妖術を使わぬよう、兵がいるのでは?」

 理路整然とした青年の言葉に商人は口ごもった。間髪入れず、青年は問いかける。

「兵を呼べない理由は、これですか?」

 青年が詠唱を始めると、娘の手に握られた宝石は光を放ち、鳥が卵から孵っていくように 赤の輝きを崩し、澄んだ瑠璃色の結晶へと姿を変えた。

「この国で装飾品としての扱いは禁止されている石ですよね」

 青年は商人たちを拘束する妖術を放つと、一瞬にして男たちは光の輪によって腕を縛られた。呆然とする娘を前に青年は安心させるように笑いかける。

「君を軍人に引き渡すには、腕が足りませんね。僕はあの二人をつれていかなければいけませんから」
「えっ……」
「でも、もう盗みなんてしてはいけませんよ。悪いことをすると、人を傷つける。そして君自身、こうして危険な目に遭ってしまいます」
「……」

 娘は、口ごもり目を逸らす。今日は、失敗した。こうして危険な目に遭ったといえど、明日同じことを繰り返す気だったからだ。青年はそんな彼女の想いを察したように、自分の耳につけた飾りを取り、握らせた。

「どうか売ってください。質のいいものですから、きっと盗みなんてしなくてもよくなるはずです」

 娘は自分の手のひらにのった耳飾りを見て、目を瞬かせる。優雅な金細工で海色の結晶を幾重にも囲い揺れるそれは、彼女の手にはやや大きい。

 青年は少し道化じみた声で呪文を唱えると、縛られた商人たちの足元に妖術陣が浮かび上がった。彼は娘から身体を離し、発光する輪をまたいでいく。すると瞬く間に輪は光度を増し、周囲に向かって風を起こし始めた。

「あの」
「では、僕はこれで」

 青年が手を宙に向かって伸ばし、空へ合図を出すように呪文を唱える。輪は流れるように回転し、小さな粒子を纏って眩むほどの光を放って青年や商人を伴い消えた。

 残された少女は耳飾りを握りしめながら、今まさに青年が足をつけていた場所をじっと眺め、立ち尽くす。「白蓮、さま」 耳飾りを握りしめた娘――野菊が、そっと呟く。箱に大切にしまうように、優しく、きちんと思い出に残せるように。やがて彼女は踵を返し、通りを駆けて行ったのだった。

◇◇◇

 東の辺境に、死神令嬢と呼ばれる齢十八の娘がいる。名は野菊。熟れきり、自らその身を落そうとする葡萄にも似た色の髪は弧を描いて靡き、透けるように肌は白く、瞳は紅蓮と紫水晶が拮抗せんと揺らめくような色をしている。

 人は誰しもその容姿を見て御伽話の悪役と称してしまうほど、彼女の容姿は異彩を放つものだったが、不月家の者が皆、野菊と同じ容姿をしているかといえば、そうではない。

 辺境伯やその妻、野菊の姉である百合は、辺境でも特に多い栗色の髪をしていた。元々この国の髪色は黒、白、銀、茶が一般的だ。だからこそ紫がかった髪を持つ野菊の容姿は幼いころより悪い形で注目を集める。

 さらに彼女は十四の頃からどこに行くにでも黒一色の姿で、さらに華やかな社交の場を徹底的に避けていた。よって「縁起が悪い」「死神のようだ」と避けられるまでになった。

 しかし野菊とて己の信念があるといえど、帝一族主催の祝いに招待され、辺境からはるばる帝城へやってきたとなればまた話は別である。

 帝一族はこの和葉国を統べる一族であり、代々この国を守護している。その帝一族が臨時に開いた祝いであり、参加しなければ帝への無礼、そこにそぐわぬ着物を着ていれば参加したとて国に反感を持つと判断される。

 野菊は国を恨んでない。争いなんて望まない。ゆえに場に即した着物を着ているのは確かだが、理由はそれだけではない。

(今日は、あの人が来る……)

 野菊はぐっと詰まりそうになる心臓に、気付かないふりをする。

 ほんのひと月前まで、野菊の住まう西とは反対の、豪雪により人を寄せ付けぬ土地に巨大妖魔が現れた。

 国をつかさどりすべての軍事の決定権を握る和葉帝は、自らの血族であり高い妖力を持つ末姫茜と、平民ながら国で最も剣術の才がある階、最も優秀な妖術士の白蓮の三名を頭とし編成した討伐軍に妖魔討伐を命じ、見事討伐軍はその命を果たした。

 そして今日、西の妖魔の討伐とこれからの平和を祝した祝いが開かれたのだ。辺境の次女といえど、この国の帝が主催した祝いに黒装束を着ていくわけにもいかず、野菊は地味な色の着物を纏うことにした。

 しかしながら祝いの参加者たちは死神令嬢が普段と異なり黒装束ではないこと、死神令嬢が討伐軍を率いた三名を注視していることに注目し、勝手に噂話を始めている。

 一方とうの野菊が軍に向ける瞳には、呪いや苛立ち、憎悪ではない。幼少から育まれた、仄かな恋情である。

(ああ……白蓮様と同じ空間にいられるなんて)

 死神令嬢は、この国で最も優秀であり聡明とされる妖術士白蓮に恋をしている。彼女が白蓮をその瞳に映したのは黒の装束を纏う五年前のこと。当時野菊は辺境ではなく帝都で生活を営んでおり、あることをきっかけに人に追われ怪我をしていた際、白蓮に助けてもらったのだ。

 追っ手を軽くいなす姿に彼女の心は一瞬にして奪われた。 以降野菊は帝都から辺境に移り住んでもなお、国で発刊される新聞に白蓮の記事が載ると必ず切り抜き、木を組み、正しい順番で幾度もの工程を経なければ開かぬ深紅の箱にしまっている。

 そして、此度の祝いで白蓮と末姫茜の婚姻を祝うことを知った野菊は、箱の中に切り抜きを潜めるのと同じように、その恋情を胸に隠し、本来好まない豪華絢爛な煌めく光の下、じっと己の愛する人を見守っている。

 一方、死神令嬢に熱をのせた瞳で見つめられている白蓮はといえば、ひりついた冷たさを感じさせる天色の瞳を、慈しむはずである未来の妻、茜に向けていた。

 その敵意はまっすぐと流れた色素の薄い髪が逆立っていると錯覚するほどの強さであるが、周囲は彼と苦楽を共にし、一年にわたる長い旅路を共にしたはずの軍人とその関係者が集まっていることで、他の招待客たちに感情の機微は汲み取れない。

「今、なんとおっしゃったのですか、茜姫」
「だから、わたくしは貴方との婚約を破棄すると言ったのよ。そして、わたくしは階と結婚するの」

 ふふふ、と鈴を鳴らすように、白蓮の前に立つ茜は笑う。彼女は今日の祝いに向け、甘やかな桃の布に緑水晶を施した着物を着ている。

 それは、今日の祝いにと白蓮が贈ったものとは異なるものだ。白蓮が選んだのは、華美さがなく、色身も落ち着いた風合いのもの。宝石も今茜が身に着けているように、歩くたびにその存在を主張するものではない。

「白蓮、お前の茜への振る舞いは、非道であったと思う」

 階が茜の言葉に続いた。階の瞳は、茜の着物に用いられている宝石を彷彿とさせるもので、白蓮はすぐに今彼女の着ている着物が誰が贈ったものであるかを悟った。

「階……」
「お前よく言ってたよな。茜に、帝一族の一族としての自覚をお持ちくださいって。でもなあ白蓮、お前こそ妖術士としての自覚、いや、男としての自覚を持つべきだった」
「先ほどから、お二人の言っている意味がよく分かりません。それに、この公の場で一体何をしようと目論んでいるのですか?」
「決まっているだろう、お前の断罪だよ。散々未来の妻であり、この国の宝である茜を虐げたお前は、この祝いで罰を受けるんだ」

  徐々に階の声が張り上げられ、会場内は騒然となる。茜は驚きのあまり言葉を紡げない白蓮に向かって、声高々に宣言をした。

「志藤白蓮! 今日を以てわたくしは、貴方との婚約を破棄することをここに宣言いたしますわ!」

 茜のよく通る鈴のような声は、会場の隅で目立たぬよう努める野菊にも聞こえるほどだった。

 周りの招待客も同じように慌てふためき、突如茜から発された言葉の真意を窺い、にぎやかであった会場はしんと静まり返る。

「今まで、白蓮は婚約者であるわたくしに、ひどい言葉を浴びせ続けました。挙句の果てに私が意に添わぬ行動をとると暴力まで振るってきたのです。わたくしの身体には、彼につけられた痣が幾重にもあります。はじめこそこの婚姻がこの国のためになるならばと耐えるつもりでしたが、この痣を見て、階は泣いてくれたのです!」

 茜の掲げた腕には、青々とした痣があった。それは故意の力を加え打ち付けない限りつかないような痣であり、ただただ三人の問答を呆気にとられ眺めていた帝もさらなる驚きと、そして白蓮に対する怒りで顔を歪ませる。

「自分の妻を殴るような男に、茜を任せることなんて出来ない。それに、国に混乱を招かぬようお前の偽りを黙っていたが、やめだ!」

 階が、懐から水晶玉を取り出した。それを白蓮に向け、「水晶よ、白蓮の本当の力を示せ」と詠唱を唱えていく。すると水晶は淡く、周囲の光に溶けてしまうほどの弱々しい光を放った。

「皆様! これが本来の白蓮の力なのです! 彼はもとより常人より劣る妖力しか持っていないにも関わらず、志藤家の財力を用い妖力を込めた石を大量に手に入れそれを使うことで妖力が豊富であるように見せ、高位の妖術を使っていたのだろう!」

 本来、妖力の低いものは、高位の妖術――それこそ同じ炎の妖術を使ったとしても、ろうそくに火を灯すのが限界な者、片や山一つ焼くことすら可能な者と様々だ。

 保有量は血筋により左右される。高い妖力を持つ人間が力を込め作り出した石により他者に譲渡することも可能だが、石を作り出すにはかなりの力を消耗することから主に戦などの有事の際に用いられ、ほかの用途では高値で取引され一介の華族程度では石一つ手に入れることすらやっとの代物である。

 そして、白蓮の家である志藤家は、国の中でも極めて高い妖力を持っており、その高さ故に帝を補佐する席に歴代当主が座っていたと言っても過言ではない。志藤家の者であるならば妖力石など不要でむしろ国から作りだすことを要請される側ではあるが、志藤家の力で妖力石を大量に集めることもまた可能なことではあった。

「そんなこと、するわけがないでしょう! それに帝一族の者を叩くなんて不敬なこと、するはずがない」
「では、先の戦いはどうした。下級の妖魔を倒すのもやっとではないか!」

 階の言葉に身に覚えがあった白蓮は、悔し気に口をつぐんだ。茜は誰にも気づかれぬようふっと笑い会場を見渡すと、探していた弔いの死神――野菊に目を付けた。

「突然婚約を破棄された貴方に、帝一族から最後の慈悲として、婚約者を見繕って差し上げましょう。いっそ貴方よりずっと年上の御婦人にすることも考えたのだけれど、相手の御婦人があまりに哀れでならないから、やめたわ。歳は十八。安心して頂戴、爵位も申し分ないはずよ。何せ貴方が婿に入る相手は辺境伯の娘――不月野菊なのだから!」

 突然の指名に、野菊の目は大きく見開かれた。本来帝一族への不敬は死罪にあたる。しかし、茜から直々に発されたのは死刑の執行日ではなく、婚姻だ。

 本来婚約して三年ほどで至るはずのものを異例の速さで、さらに相手は死神令嬢であり事実上の死刑宣告も同然。帝一族に近い志藤家の三男が処されたのだ。これからの未来を案じざわめく周囲を鎮めるように、茜は手を挙げた。

「これより白蓮に、捧生の印を刻みます。さあ、指輪を持ってきて頂戴。彼に印を」

 控えていた軍人が白蓮に近づき、彼の四肢を妖術で拘束した。茜が詠唱を始めると、彼の心臓のあたりが黒い靄で覆われていく。

「う、ぐぅっ!」

 途端に呻きだした白蓮に対し、茜は気にする素振りを一切見せない。やがて詠唱を終えると控えさせていた軍人から包みを受け取り、自分たちを囲う人々をゆるやかに割くようにして歩き出す。茜の進行方向にいるのは、野菊だ。

(一体何が……)

 一直線に自分のもとへ向かってきた茜を恐々見つめる野菊は、底知れない笑みを浮かべる彼女に委縮した。そして目の前に立たれたことをようやく認識すると、慌てて頭を下げた。

「いいのよ頭なんて下げなくて。それよりほら、左手を出してちょうだい」
「え」
「ほら、早く」

 茜に言われるままに野菊が指を差し出すと、そのほっそりした薬指に黒曜石があしらわれた指輪がはめられた。枷のように重みがあるそれをただただ眺めていると、不敵な笑みを浮かべた茜が彼女の隣に立った。

「今、野菊が捧生の指輪を手にしたわ。これで白蓮の行動は、きちんと彼女によって制御される。素敵でしょう! 今日の私と階の婚約、そして野菊と白蓮の婚姻を、どうか皆様祝ってはくれないかしら?」

 茜の言葉に、周囲は戸惑いながらも拍手を始めた。周囲の反応に気をよくした帝一族はけらけらと笑いはじめ、愛しの婚約者、階へと向かっていく。彼のすぐそばには白蓮もいるが、白蓮は軍人らの拘束も解かれたというのに呆然と自分の胸元をつかみ、刻みつけられた印の熱に愕然としていた。

  しかし、何も愕然としているのは彼だけではない。今日何も知らされることなく帝一族主催の祝いに招かれ、突如初恋の人との婚姻を命じられた挙げ句彼の全ての権限を譲渡されてしまった野菊も同じである。 野菊は自らと初恋の人との婚姻を祝う拍手の中、渦の中に放り込まれた気持ちで立ち尽くしていたのだった。

◇◇◇


 祝いから三日が経った早朝のこと。帝都から不月家の領地に昨晩戻った野菊は、目を覚ますと両親と姉に挨拶を済ませ、すぐに黒の外出着に着替え領地の西の果てへ向かった。森を潜り抜け領民を弔う墓地に足を運ぶと、墓守の老婆であるみな子をつかまえた。

「私、結婚することになりました」
「そうかい。そりゃめでたい。ならこんな陰気臭い場所に来てないでさっさと帰んな」

 本来ならば突拍子もないことであるが、みな子はさして驚かず、墓と墓の隙間を縫うように生える露草を引き抜いていく。

 不月の墓地は日中でも回りが山に囲まれ、わずかにしか太陽の光が差し込まない。木々も領民が多く住まう市街の木々とは異なり葉も緑ではなく黒々として、どこもかしこも尖っている。子供の描く禍々しい森のようなこの辺りは風土柄霧に包まれやすいこともあり、常に陰鬱な雰囲気を纏っていて人が訪れることは極端に少なかった。

「相手は志藤家の白蓮様です」
「興味ないねえ」
「今日、あちらが婿に来るのです」

 野菊も雑草抜きを手伝っていると、みな子は「たまげたなぁ」と墓石の隙間から生える野草から目を逸らすことなく淡々とした声色を発した。

 みな子は、野菊が不月家の領地に移り住んでからの付き合いだ。元々人付き合いを好まず、温和で気さくな不月の民ですら距離を置いている。子供たちも「魔女みたいだ」と怖がり姿を見ただけで逃げてしまう存在だ。

 本人もそれを望むような態度で、話しかけられても軽くいなすような返事しかしない。気難しい老人であるが、野菊が毎日決まった時刻に墓地に訪れるようになってからはぽつぽつと言葉を交わすようになった。

「式の準備があるだろうに、あんたはこんな婆さんとっつかまえて何をしようっていうのかい」
「いえ、式はもう、終わったのです」
「……」
「それで、折り入ってご相談なのですが、捧生の印を解除する方法をご存知ないですか、出来れば、契約した人間に分からないように」

 捧生という単語を聞いて、みな子はそれまで野草にしか向けていなかった瞳をぎょろりと野菊へと向けた。

「その白蓮という男は、帝の家に何した」
「はい……あの、婚約者である茜に不敬を働いたと……」
「で、お前に婿入りさせようってかい。西の変人に婿入りさせて、罰を与えようなんぞまぁ陰湿なやり口だね。腹でも切らせてしまえばいいものを……生かしておいて苦しめようってことかい」

 はぁ、とみな子はしわがれた声で大きくため息を吐いた。骨と皮で形成されているような指で野菊の左腕を掴むと、彼女の腕にはめられた蒼水晶が輝く指輪を指で数回はじく。

「駄目だね、契約は帝一族の妖力でしかどうにも出来ない。それこそ帝一族殺すか、龍神様にお願いするか、それこそ妖魔にでも何とかして貰わない限りあんたは死ぬまでこの指輪と一緒だ」
「妖魔……」
「滅多なこと考えるもんじゃないよ。指輪に一太刀受ける前に心臓貫かれて終わりさ。それに、指を切り落とされたところで契約は変わらないよ」

 みな子は「良かったじゃないか。白蓮という男もそれは分かっているだろうから、あんたに変なことはしないだろうよ」と喉の奥で笑ったあと、野菊に向かって指をさした。

「いいかい。その坊ちゃんに、お前が妖術が使えないことは絶対に知られちゃならないよ」
「それは……分かってます」
「指輪がある限りあんたの意にそぐわないことをすれば、奴に頭を斧で割るような痛みを与えられる。お前を害することも出来ない。でもね、妖術士としてお国を相手に働くなんてこと、真っすぐで無邪気な人間には出来ないんだよ。舐められるようなふるまいをするのは絶対におやめ。間違っても愚図の治郎吉みたいなことはするんじゃないよ」
「……はい」

 いつになく強い口調のみな子に、野菊がためらいがちに頷く。

 野菊は少ない妖力を持って生まれた。およそ人並みの子供以下の力しかなく、日常的に妖術を使うことはおろか他人の妖力の気配を感じることすら難しい。

 彼女の秘密は家族、不月家の屋敷の使用人たち、みな子、そしてあともう一人、彼女の姉である百合の婚約者だけが知っており、秘密を知る者は野菊を受け入れているが本来ならば差別の対象であり、庇う人間も差別される。

 ゆえに死神令嬢と呼ばれ呪いを与えられると帝都の人間たちに忌避されることは、彼女の秘密を隠すことにも機能していた。

「妖術が使えないなんて、言えるわけありませんよ」

 野菊が視線を落とすと、みな子が「ほら、今日婿に来るならさっさと準備をしたらどうなんだい」と手についた泥を払い、懐から包みを取り出して野菊に放り投げた。

「これは?」

「目眩ましさ。どうせ妖術に頼り切ってる奴なんぞ、古知恵に興味なんて持たない。人の力なんて見向きもしないさ。何かあったらそれを奴の足元に投げておやり、ただし、一個しかないからね、ここぞという時に使うんだよ」

 みな子は妖術を好まない。ないわけでもないが、手を使わずに何かをすることに嫌悪を抱く老人であり、ほかの領民と異なって山々に採集に赴き自分で火を起こし薬を作っては売ることで暮らしている。墓守は趣味の一環で、迎えを待っている時間を潰しているのだと野菊は元より聞いていた。

「ありがとうございます。また、明日来ますね」
「もう二度と来るんじゃないよ。毎日毎日ここへ来て、私もうんざりしてるんだからね」

 ふん、とみな子は不満げに鼻を鳴らす。野菊は彼女に頭を下げ、包みをしまうと霧が立ち込める墓地を後にしたのだった。

 それから野菊は屋敷に戻り、朝食を済ませると使用人たちと共に白蓮を迎え入れる準備を始めた。婚姻自体突然のことであったものの、不月の屋敷にはいくつもの空き部屋があり、そのどれをも彼女は使用人たちと共に入念に手入れをしていた。

 数ある部屋の中でも、姉の婚約者が使うはずだった部屋が最適だろうと白蓮をそこに招くと決め、野菊は今まさに姉の婚約者好みである派手で奇抜な調度品を、天体を模した置物や永遠に循環を続ける水時計、観葉植物の鉢などに入れ替える作業を使用人の治郎吉と共に行っている。

「治郎吉、私は白蓮様について新聞に載っていること以外は何も知らないのですけれど、治郎吉は何か知ってますか?」
「いやあ、軍から追い出される前も噂は聞いてたっすけど……、ものすごーく真面目で、あんまり誰とも話さないとか、なんだろう、みな子の婆さんほどじゃないすけど、たぶん気難しい人だと思うっす!」
「そうですか……」

 治郎吉は、今年で二十一になる青年だ。過去に帝都の軍で働いていたことがある。だから彼に何か白蓮について聞けないかと思った野菊は、要領を得ぬ答えに落胆した。

(望まぬ結婚を強いられたのだから、少しでも彼の心が和らぐようにしたいけれど……)

 野菊は、柔らかで厄介な想いを向ける相手と結ばれる権利を、帝命で与えられた。しかし彼女は全く望んでいなかったのだ。ほんの少し、人生の瞬きにしかならない刻の中でその姿を少しだけ見たい。もう一度声を聴くことが出来たら嬉しい。でも、彼の冬を溶かした瞳に映り込みたいとは思わない。それどころか、誰とも幸せになりたくない、誰とも生きていたくない――というのが、彼女の願望だった。

「それで、光琉様用の調度品はどうするんすか? 結構な量っすけど……」
「あの方が来るまでは、屋根裏にしまっておきましょうか」

 野菊の姉の婚約者であった光琉は豪快で、規則や常識という言葉が頭の中の辞書に無い。明るくはつらつとして、気落ちし憔悴した姿を見せることはほとんどない。太陽を思わせる橙の髪に、いくら外に出ても真っ白く澄んだ肌の美丈夫はどこへ行っても人目を惹き、常に話題の中心にいた。

 声が大きく自由を体現した生き方は人に下品と言われてしまうこともあるが、そんな気性は姉と婚約しても変わらず、侯爵家の次男という立場ながら、野菊が十四歳の頃からあちこちを視察と言って鞄ひとつで放浪を始め、彼の領地はおろか婿入り予定であった不月の領地に滞在するのも殆どないほどだ。

 しかしそれでも一年に一度、姉に会う為に不月の領地に足を踏み入れはして、丁度今から一月後が約束の日であった。野菊も光琉が屋敷に訪れる準備を始めており、その準備を白蓮へ回すことで突然の婚姻の準備も酷い混乱に陥ることなく済んだのである。

(白蓮様に光琉様を紹介しておかなければ……それに、光琉様にもお伝えしないと……。手紙を送れないけれど、多分国内にいるのであれば、白蓮様が婚約を破棄されたことや、婚姻の相手が私になったことは光琉様も知っているはず……いや、知らないかもしれないわ)

 光琉は、俗世に興味がない。新聞を読むこともなければ、華族同士の噂話に交わることもない。さらに自分の興味がないことは、とことん視界に入れない。よって野菊はこれから自分の想い人がどんな経緯をもって婚姻に至ったかを説明しなければならず、深いため息を吐いた。

「大変です、御嬢様!」

 しかし、そんな彼女のため息を破るように、どたどたと騒がしい足音と共に侍女が部屋へと駆け込んできた。

「どうしたのですか。杏梨」
「屋敷に向かって辻馬車が向かってきています! たぶん! おそらくたぶん! いや絶対に志藤家の婿殿です!」
「落ち着いてください。それより貴女はまた屋上で双眼鏡を覗いていたんですか?」

 侍女の杏梨は、野菊の指摘に手に持っていた双眼鏡をさっと背中に隠した。服に沿うように隠そうとしているとはいえ、華奢な彼女の背中では、天体の星々を観察するために、本来設置し用いるそれは大きすぎる。

 杏梨の趣味は、屋敷の屋上で双眼鏡を使い、方々を観察することだ。あまりいいことではないため、野菊はそれとなく注意をしたがやめる気配は見えない。

 野菊は呆れ目を向けた後、はっとして窓に目を向けた。

「白蓮様がもう屋敷に? 到着は夕方のはずでは?」
「はい。ですから私も驚きまして、のんびり屋上で皆を警備をしていたら、馬車がこっちに来て……あっ、あれです!」
「あの横顔、白蓮様っすね!」

 野菊と杏梨が並んで窓を見ていると、治郎吉がさらに二人の隙間から顔を出し、屋敷の門の前に今まさに止まった馬車を指した。御者は馬車を止めつつも、動く気配はない。なぜ扉を開きにいかないのかと不思議に思っている間に扉は開かれ、すらりとした人影が降り立った。遠目から見ても一本のピアノ線を通したかのような佇まいに、野菊は胸をときめかせるのではなく、ただただ愕然とした。

「白蓮様だ、どっ、どうしよう」
「それより御嬢様、何か妙ですよ。御者が動こうとしません。白蓮様が荷物を運ぶようです」
「えっ、おっ、お手伝い、お手伝いをしないと」
「落ち着いてくださいっす! さっきの杏梨より酷いっすよ!」
「そ、そうですね、深呼吸をします」

 野菊が大きく息を吸う、次の瞬間。杏梨の「あ、妖術使った。荷物が屋敷の門の方へぽんぽん飛んできてますよ!」という言葉に野菊は盛大にむせた。

「う、っああ、妖術が使えるからよね。えっと、じゃあ急いでお迎えしないと」
「じゃあ俺が妖術かけてあげるっす!」
「いえ、普通に私は歩いていきま――うわっ!」

 言い終える前に、治郎吉が詠唱を放った。瞬く間に野菊の足元に小ぶりな竜巻が起こり、彼女の足が勝手に動いていく。

「あわわわわ、わわわわわ!」

 制御できない自分の足に引きずられる野菊が振り返ると、治郎吉が小さな声で「あっしまった、どうしよう」と失敗を悟らざるをえない声を発した。

 妖術を放った当人が、どうしようなんて言うのはやめてほしい。切実に野菊は思ったが、悠長に自分を憂う暇などなく足はどんどん加速して、屋敷の廊下や大広間、階段を抜ける。

 道中使用人の姿がちらりと見受けられたものの、屋敷の中で最も妖力が高いのは軍を追い出された治郎吉であり、対抗する妖術をかけられても無効化されてしまう。野菊が激突しないよう扉を開いたり、物をどかすことがやっとだ。とうとう屋敷の大扉が開かれると、泡が解け弾けるようにして治郎吉のかけた妖術が解けた。

「えっ」

 ぽんと、野菊の体が投げ出される。治郎吉のかけた妖術は、すぐに白蓮を迎えるようにする為のものだ。よって、野菊の妖術が解けたということは、彼女が白蓮の前に辿り着いたということである。

「えっ」
「えっ」

 野菊の視界いっぱいに、白蓮の整った怜悧な顔立ちが広がる。それどころか切れ長で晴れ渡った空色の瞳が広がり、やがて額に強い痛みと衝撃を感じた。

 反射的に瞳を閉じながらも、野菊は察した。自分がいま、完全に白蓮にぶつかったことに。よって彼女は着地した瞬間、押し倒す形になってしまった白蓮の身体からすぐさま飛びのいた。

「も、申し訳ございません!」
「いや……」

 白蓮は頭を左右に振り、何が起こったかよくわかっていない様子で瞳を彷徨わせた。やがてぼんやりと目の前に立つ野菊を見上げると、あっと目を見開いた。

「妖力石は!」

 白蓮がその白い髪を振り乱し、血の気が引いた顔で地面を手でさらう。その姿を前に漠然と捧生の儀を行えば、自身の妖力を使うことも指輪を持つ者に制限されることを野菊は思い出した。そうか、先ほど妖術を使ったのは、妖力石を使ったからか。大いに焦る白蓮を前に彼女が冷静に納得する中、不月の庭に絶叫が響いた。

「ああああああああああああぁっ! わ、私の妖力石が……!」

 白蓮が、愕然としながら手を伸ばし拾い上げるのは、砕けた石の欠片たちだ。子供が海で拾う砕けた貝殻程になった妖力石たちは、輝きを失いただただ散らばるばかり、彼が握りしめ詠唱を行っても反応を示す様子は無い。

「あ……あぁ……」と絶望を帯びた声色で呻きただの石と化したものを拾い集める姿を見て、野菊は自分のしたことを理解した。

「も、申し訳ございません。貴重な妖力石を、えっと、べ、弁償致します。今すぐにとは言えませんが、必ず、必ず――!」

 妖力石は、貴重な品である。人が一生のうち作れる石は三つほどと言われ、さらに膨大な妖力を必要とするため、少し妖力に自信がある程度では欠片を作るので精いっぱい。硬度はどうあっても硝子を超えることはないため、国内で生成されるのは主に戦時に備える軍事利用か、大規模な災害、疫病が広がってしまった際に用いる防災、救護に集中している。

「〜〜っ! ……だ、大丈夫です。じ、事故のようなものですし」

 白蓮は一瞬、野菊を力いっぱい睨み付けた。しかしすぐに笑みを浮かべる。野菊が立ち上がろうとする彼に手を伸ばすと、避けるようにして立ち上がった。

◇◇◇

「挨拶が遅れましたね。野菊嬢。私の名前は志藤白蓮。帝一族の命により、ここに馳せ参じました。突然のことで驚かせ、戸惑わせてしまっていることは承知ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「いえ、そ、その、こっこちらこそ、よ、よろしくお願いいたします」

 野菊はしどろもどろになりながら頭を下げた。そんな彼女を見て白蓮は怪訝な目をした。

「野菊嬢?」自分の行動に疑念を抱かれていることが雰囲気で分かった野菊は、白蓮の視線から逃れるように「お部屋までお運びしますっ」と彼の荷物を引っ掴み、屋敷の中へと入っていく。

「いえ、荷物は自分で持ちま――」

「御嬢様! っと、旦那様! 大丈夫ですか?」

 想定よりずっと重い白蓮の鞄を、引きずらないよう腕に力を籠め運ぶ野菊の前に慌てた様子の杏梨と治郎吉が飛んできた。杏梨が野菊の持つ鞄を持ち、治郎吉があわあわと手を動かしながら「どれをお持ちすれば?」と白蓮の両手に抱える鞄を見回した。

「使用人の杏梨と治郎吉です」
「へぇ、よろしくお願いしますね」

 野菊が紹介すると、白蓮が柔和な笑みを浮かべる。その視線がどこか値踏みをするようで、治郎吉は委縮した。しかし白蓮の額にあるものを見つけ、あっと声を上げた。

「あっ、も、もしかして、野菊様とぶつかっちゃったっすか? 申し訳ございません! 実はさっき、俺の妖術で……」
「治郎吉!」

 野菊は全てを話そうとしてしまう治郎吉を反射的に止めた。しかし、治郎吉のある癖を思い出し、口を手で覆う。

「あっ……、えっと……――うっぷ」

 そして野菊が口を手で覆うと同時に、治郎吉も自分の口を手で覆い、凄まじい速さでその場を離れた。

「どうしたんですか、彼は」

 治郎吉の突然の行動に、白蓮の眉間に深いしわが刻み込まれた。不審者を相手にする目で、治郎吉の走り去った方向を見つめている。

「えっと、彼は、その、あまり身体が丈夫ではなくて……」

 治郎吉には困った癖がある。それも嘘を吐くと吐いてしまうという、治郎吉本人の人生の歯車さえも簡単に歪めてしまう恐ろしい癖が。

 しかし、本人が不在の間にそんな説明をできるはずもなく、野菊は「えっと、では、お部屋に」と強引に押し切ることにした。白蓮は警戒を隠さず治郎吉の去った方向を見つめるも、野菊がそれ以上の説明はしないことを察し、屋敷の奥へと入ろうとする彼女の後に黙ってついた。

 そのまましばし無言の時間が続き、さっぱりとした顔立ちの治郎吉も合流して白蓮の荷物を運び終えると、彼は「荷ほどきは自分でしますので」と野菊たちを部屋から退出させ、扉を閉じた。残された野菊たちは、杏梨や治郎吉は夕食会の支度に、野菊は自分の部屋へ、とぼとぼ戻っていく。

(初日から失敗してしまった……)

 野菊は失敗がないよう、失礼がないよう心の中で何度も白蓮を迎え入れる練習をした。それは決して好意を持ってもらいたいからではなく、相手の記憶に残らないためだ。

 自分の存在を認識されたくない。間違ってもおかしな人間だと思われたくない。たとえ常に黒一色の装いであっても、後から思い返される発言はしたくなければ、後に違和感を抱かれる動きもしたくなかった。そして今日野菊がした行動は、彼女が忌避していたはずの、印象に残る行動だった。

(忘れられる計画が……)

 夕食会では変なことをしないよう十分に気を付けなくては。急がなくて済むように、もう今から大広間に座っていてもいいかもしれない。全くもって身にならないような対策を立てる野菊の後ろから、ぱたぱたと忙しない足音が響いた。
 また治郎吉か、杏梨か。何の気なしに振り返った野菊は、自分を追ってきた人物――白蓮を見て絶句した。

「し、白蓮様……、どこかお加減が……?」
「手紙を送りたいのですが、遣いをお借りしても構いませんか?」
「はい。もちろんです。私から杏梨に渡しますね」

 野菊が手紙を受取ろうとすると、白蓮がまた一瞬だけ怪訝な顔をした。先ほど大失敗をしたから疑われているのかもしれないと、野菊は不安な気持ちになる。しかし白蓮は「ありがとうございます」と甘く微笑み、手紙を差し出してきた。

「いえ、また何かあればいつでもおっしゃってください」

 野菊は手紙を受け取り、白蓮に背を向ける。そしてそのまま、二人は反対方向へ足を進め別れたのだった。

◇◇◇

「これ、志藤家へのお手紙じゃないですか!」

 夕食会の支度のため部屋を訪れた杏梨に、着替えを終えた野菊が受け取った手紙を渡すと、杏梨は手紙の宛名を見て声を上げた。

「そうですよ」
「そうですよ。じゃないですよ野菊様! 何故手紙を出すのか聞いたのですか?」

「いいえ」

 野菊のあっけらかんとした返事に杏梨は眩暈を覚える。女が結婚し嫁ぐときも、男が婿に入るときも、わざわざその当日に手紙を家に送ることなんてない。相手の家へ印象を良くするために渡すことはあっても、自分の屋敷に手紙なんてわざわざ送らない。送る理由がない。にも関わらず送ったということは、何かがあるということだ。

 杏梨は、六歳年下の野菊を妹のように思っているふしがあり、幸せになってほしいと願っている。だからこそ、国筆頭の妖術士といえど、突然帝一族に婚約破棄をされた白蓮を懐疑的な目で見ていた。それがいま、完全に確信へと変わった。

「危険です。中身、確認しておきますか?」
「大丈夫ですよ。心の優しい清らかな白蓮様ですから、危ないことなんてありません」
「御嬢様……」
「それに、もし私の知っている白蓮様でなかったとしても、不月家は辺境を守る家。いくらこの婚姻に不本意だとしても、おかしなことはしないはずですよ」

 不月家は国の最西端に位置している。かといって港はなく、崖下に果てない海が広がっている。海にたどり着くまでどこまでも深い森が続き、また帝都と比べかなり発展の遅れがあり、夏は猛暑冬は豪雪と極端で人の住みやすい土地ではない。帝都の者は果ての不月、人生の墓場、世捨て人は帝都にいないで不月へ行けと言うほどだ。

 だが果ての海の先には大国があり、開戦の際には最前線と戦地となる。いわば国全体の砦だ。そんな不月は今年の末、辺境を守る権利を腹心の家に譲ることが決まっている。

 野菊の姉百合の婿光琉は放浪、野菊は死神令嬢と呼ばれ信用できないというのが帝一族の認識だ。血を絶やさずに結んでいくことが本来望ましかったが、無理だと判断され、辺境の管理を譲渡することが決定した。

 しかし不月当主、夫人のこれまでの慈善活動や功績を称え、領地は不月の名を受け継ぎ、屋敷もそのまま遺すという寛大な処遇を与えられており、不月家の国への影響が表れている。

 白蓮の家――志藤公爵家も、公爵は現宰相でありそれを充分知っているはずだ。そう野菊は考え、白蓮の手紙に不信を抱くことはなかった。

「では、お手紙はお送りいたします」

 杏梨は渋々手紙を懐にしまう。野菊がお礼を言って場を後にしようとすると、杏梨は呼び止めた。

「どうしたの?」
「その、本日は初夜のご支度があると思いますので、少々湯あみの時間が伸びることでしょう。なのでいつもよりお早めにお呼びしますね」

 杏梨の言葉に、野菊は目を丸くした後、ぴたりと動きを止めた。(え、え、初夜――?)

 野菊は次は目をぱちぱちと瞬きし、「え、えっと、えっと、初夜?」と壊れたレコードのようにして繰り返す。見かねた杏梨が「しっかりしてください」と窘めた。

「いいですか。野菊様。もし何か乱暴にされたり、恐ろしくなったらすぐに大声をあげるんですよ。うなるように出してください。その方がよく聞こえるので」
「え、は、はい」
「妖術は野菊様なしに扱えませんが、帝都の華族は皆嗜む程度には剣術を楽しむと聞きます。念のため寝室から武器になりそうなものは撤去いたしましたが、武器がなくなってしまったのは野菊様も同じです。どうかお気をつけてくださいませ」
「はい……」
「では、広間に向かいますよ」

 杏梨は淡々と護身の仕方を話し、一通り説明を終えると、部屋の扉を開く。

 けれど、野菊は説明された護身術は、頭の中に一切入っていない。それは杏梨が護身について話すきっかけとなったとある単語……初夜について頭がいっぱいだったからだ。

(白蓮様と、初夜……そんなの絶対無理。きっと白蓮様の意にそぐわないことだし……どうにかして避ける方法は……)

 野菊は先ほど彼と衝突したことについてのお詫び、さらには初夜について頭を悩ませながら、ふらふらとした足取りで部屋を出たのだった。

(どうしよう、ここで私が体調不良であると示して、どうにか初夜を避けることはできないかしら……)

 野菊は夕食の場である広間にたどり着くと、何とかして白蓮に寝室を別々にすることや、今日に至るまで馬車に揺られていた彼に労いの言葉をかけつつ、それとなく今後に引き延ばせないかと考えていた。

 一方の白蓮はといえば、まだ訪れる気配がない。野菊は白蓮を待たせるなんて絶対してはならないと、予定より早く広間に着いていたからだ。よってテーブルにはただただ純白のクロスによく磨かれた食器が並べられ、天井から吊るされたシャンデリアの光を反射するばかりだった。

 野菊は、銀食器たちに自分の影がどす黒く映る姿をじっと見つめる。今日が想い人との初めての夕食でありながら、彼女は変わらず深淵を彷彿とさせる黒の装いだ。たとえ、それが好きな人の前であってもだ。野菊は暖炉の上部にある、硝子の額にはめられた肖像画に視線を移す。

(私は、絶対に、この黒から逃れてはいけない)

「お待たせいたしました。野菊嬢」

 肖像画を眺めていると、投げかけられた声に野菊はあっと声を上げそうになった。白蓮が、来ている。慌てて野菊が扉のほうに目を向けると、彼は真っ白な正装に身を包み、穏やかに微笑んでいた。(この輝きに、私はきっと殺されるのかもしれない)

 どう見ても質のいい白の上掛けには、体に沿うように曲線を帯びた金と青の刺繍がされ、職人が長い時間をかけて針を入れたのがよく分かる。埋め込まれた蒼玉と藍昌石が志藤の家紋である鷲を模していて、黄金のタッセルが垂らされその存在を強く主張していた。

 表情にも、祝賀会で見たうろたえた様子はない。涼やかな瞳はまっすぐ野菊に向けられ、彼女はどう視線を向けていいか分からなくなり、息を呑んだ。

「こちらになります! 旦那様」

 治郎吉の案内のもと、白蓮が野菊と向かい合うように座った。失礼があってはならないと野菊は意を決する。

「帝都から不月までの旅路、崖を下り山を越えとさぞ過酷だったことでしょう。食事は、果ての不月といえど料理人が食材を取りそろえ腕を振るったものです。どうぞごゆるりと、そしてお楽しみいただければ……」
「ええ。不月の魚は帝都で高級品とされていますからね。とても楽しみです」
「はい。本日は沖の魚を料理に使っていて……」
「だとすると、もしかして夜宵(やよい)の魚ですか?」
「ええ」
「まさか、夜宵の魚が食べられるとは。帝都でも中々食すことが出来ないものを頂けるとは光栄です」(大丈夫、私はきちんと話ができている。大丈夫……)

 以前から頭に叩き込んでいた不月の知識を野菊はひとつひとつ思い出しながら声に出していく。白蓮は興味深そうに野菊の目を見つめていて、彼女は黒い着物の裾を握りしめた。

「それで、あの……」
「前菜をお持ちいたしました!」

 治郎吉が前菜を持ってやってくる。今日の前菜は、不月の山で採れた山菜と、そのふもとにある酒造の名物である粕味噌で和えたものだ。特に山の香草は婦人たちが夜会の着物をさらに彩る香水にも用いられ、不月の名産といっても過言ではない。

常月草(とこつきそう)ですか? これまた貴重な品を……」
「ええ。夜にならないと採取出来ないとされていますが、この辺りは山々の影によって太陽が昇っていても夜と同じ場所が多いですから」
「なるほど……なら日を求める植物は育ちにくいのですか?」
「そうなのです。日の当たる場所も確かにあるのですが、帝都と比べると少ないですね。そういうこともあって日没から開かれる祭りは盛大に行われます。灯りを海へと送る祭りがあって……」
「ほう、どんな趣旨で開かれるのですか?」
「昔からここに伝わっているお話が起源と言われています。竜に見初められた花嫁が、戦いを終わらせようと海の先へ旅立った竜に恋を綴った灯りを送るという……」
「恋の祭り、なのですね。祭りが開かれる時には案内して頂けますか?」

 白蓮の突然の誘いに、野菊は言葉に詰まった。今季節は春を迎えたばかりで、雪解けで白く濡れている部分もまだ残っている。祭りが開かれるのは夏の終わりだ。遠い日のことといえど、白蓮と祭りに行く、そして彼に誘われたという事実は野菊の頭を大いに混乱させた。

「えっと、私に案内が務まるのかは、分かりませんが、尽力させていただきます……!」
「はは。ありがとうございます。うれしいです」

 野菊は何とか言葉を絞り出す。すると途端に白蓮のまとう空気が冷たいものに変わった気がして、慌てて顔を上げた。しかし、彼は柔らかな笑みを浮かべるばかりで、その瞳も穏やかなものだ。

「では、えっと、お食事を……」
「そうですね」

 白蓮が野菊に促され、箸へと手を伸ばす。野菊は彼の様子を窺いながらほっと息を漏らしたのだった。

◇◇◇

 夕食会が終わり、夜も始まった頃。湯あみを終えた野菊は不月家の部屋で一人、寝台を前にただただ立ち尽くしていた。

(美しい女性に来ていただいて……。駄目だ。不月に娼館はない)

 夕食会の席で白蓮は野菊に対してにこやかに、紳士的にふるまっていた。意にそぐわぬ婚姻、そして、自身の妖力の権を奪われているにも関わらずだ。

 だからこそ彼も望んでいないだろう初夜は、野菊から引き延ばすよう働きかけなければならない。

 そう考えた彼女は夕食も終わり白蓮が広間から退出する際、意を決して彼に近づいた。しかし逆に彼のほうからさらに近づいてきて「夜、お部屋に向かいますね」と囁かれてしまったのだ。

 野菊は、白蓮に一等弱い。

 白蓮でさえなければ何の問題もなく行えることが、彼を相手にしただけでその悉くが駄目になってしまう。彼女の恋心はそれほどまでに染み付いていた。

 初夜の準備は、完璧だった。侍女である杏梨の手によって、湯あみは薔薇を浮かべ香油をたらされ、出た後は髪にも肌にもしっかりとクリームを塗りこまれた。寝室はほんのり色味のあるランプだけが灯り、香が焚かれている。天蓋のついた寝台は、華奢なレースが窓からの柔い風に揺られていた。

 本来ならば、夜着姿の野菊がそのレースの中に入って籠に捕らわれた鳥のように行儀よく彼を待っていなければならない。

 しかし、野菊の浸食された恋心こそが、流されてはいけないと胸の軋みを伴い訴えかけ、彼女は天蓋レースの外に立っていた。昼間と同じ黒一色といえど、日中身にまとうものと異なり、前は開かれ滑らかな肢体は露わになっており、普段触れぬ風が触れることで、彼女をより一層弱気にさせる。

「いっそ、書き置きを残して私は自分の部屋に行ってしまおうかしら。でも、何か誤解をされ、白蓮様の評判に関わるようになってしまったら……」

 野菊は、どうして白蓮に囁かれたとき頷いてしまったのだろうと後悔をした。あの時頷いていなかったらもっと事態はいいほうに転がっていたはずだ、もしかしたら自分はこうなることを望んでいたのではないかと拳を握りしめる。

(いいえ、私はこんなこと望んでいない……でも、私はいつだって、浅ましい人間であった……)

 寝室には、大きな竜を模った像が月灯りを反射して輝いている。

 不月の地では竜に対し深い信仰心を持っており、竜を模したものを身に着ける者が何かと多い。竜神教と呼ばれ、月に一度祈りを果ての海へと捧げる教会もある。

 しかし、教会に入っていなくても竜というものは何かと馴染み深く、竜と花嫁の物語から寝室に竜を置くと夫婦円満であれるというのが言い伝えとしてあった。

 野菊は、竜を恨めし気に見つめる。彼女にとって神は三人の人間であり、竜ではない。そしてその三人は永遠に野菊が向かうことの出来ぬ場所に行ってしまったことから、すでにこの世界に彼女の神は存在しない。

 野菊が燃えるような紅い瞳に暗闇を溶かしていると、静寂を打ち破るように寝室の扉がノックされた。

「こんばんは、白蓮です」

 低く甘い菓子のような声に野菊の心は一瞬にして現実に戻り、すぐに扉へと向かう。慌てて開くと、真っ白な寝着姿の白蓮が目を丸くしいていた。

「え……」
「え……」

 本来ならば、野菊は寝台の上で了承を伝えればよかった。

 にもかかわらず彼女は寝台を抜け、扉を開いた。白蓮は目を瞬かせていて、そんな反応を見た野菊もまた自分の失態を理解し取り繕いながらも「えっと、お酒、とか、飲みますか……」と初夜を望むような言葉を吐いてしまい、また自己嫌悪を起こした。

「お酒は結構です。少しお話をしたいのですが……」

 しかし、野菊の思惑は空しくも散った。「えっと」「その」を繰り返す彼女を見かねてか、社交の場をエスコートするよう、白蓮が野菊の腰にそっと手を回した。

「まずは、座りましょう?」
「……はい」

 耳元で囁かれ、野菊がこくりと頷く。

 注ぎ込まれる声は毒だ。言いなりにされる妖術がかけられていてもおかしくはない。甘く感じるのは、自分のような愚か者を餌食にする為だ。

 野菊が何度も心の中で唱えても、紫水晶で作られたランプの光は白蓮の瞳に映り込み、妖しく揺らめていている。

 同じ寝台に並んで座り、妖艶さをまとって微笑まれ、野菊は夜着のフードを深く被り込んでしまいたくなった。しかし、夜着を掴む手は、がっしりとした手が重ねられ、そのまま掴まれた。

「緊張していますね。私が恐ろしいですか?」

 白蓮に顔を覗き込まれ、野菊は息を呑む。逃れるように身を縮めると、すかさず彼は野菊の掴んだ手を自分の胸へ導いた。

「私も、同じように緊張しています。でも、妖力の回路も、あなたのもの、私の全ては今、あなたのものなのですよ……?」
「う、えっと……私は、その、今日の初夜は……っ」

 野菊は何とか今日を引き延ばす文言を伝えるべく口を開くと、紡がれるはずの言葉は白蓮の唇に全て飲み込まれてしまった。

 氷漬けにされたように、野菊は固まってしまう。白蓮は彼女に口づけを落とし、幾度となく繰り返すと唇を離した。

「お嫌ですか? 私に触れられるのは」

 野菊は心の中で悲鳴を上げる。けれど、このまま白蓮と共に夜を過ごしてはいけないことも痛いほどに分かっていた。

 彼は、帝命により仕方なく自分と添い遂げようとしている。そして、酷く優しい彼だから、八つ当たりしたくなってもおかしくない存在の自分に甘く接してくれるのだ。

 だからこそ、甘えてはいけない。野菊が白蓮の存在を否定したと受け取られないよう、必死に言葉を考える間に、野菊の身体は寝台へと縫い付けられた。

「初めて見た時から、美しいと思っておりました。どうか私に身を委ねては頂けませんか?」
「わ、私は――」
「愛しておりますよ、野菊嬢」

 衝撃で野菊は目を閉じると、白蓮の手が野菊の夜着にかけられた。暴こうとする手にただただ動けずにいると、彼が不自然に呻き、野菊は妖術が解けたように目を開く。それと同時に、彼は野菊へとぐったりと倒れ込んだ。

「え、白蓮様……白蓮様?」

 野菊が恐る恐る体を揺らしても、白蓮の瞳は固く閉ざされ開くことはない。その姿に、野菊はざっと血の気が引いた。

「あ、ああああ、だれか、誰か来て、白蓮様が、白蓮様が!」

 震える手足を懸命に動かし、野菊は寝台をおり、何とか扉のもとへたどり着く。

 助けを求める叫びによって屋敷の者たちが駆け付けるまでの間、彼女は狂ったように「白蓮様が」と繰り返したのだった。

「重度の睡眠不足、そして栄養失調。あと、ここ数週間前まともなものを口にしていないにも関わらず、常人と同じものを食べた、というのもあるでしょう。おおよそ貧しい者が華族に引き取られた時と同じ症状が出ていますね」

 老齢であり、古くから不月の民を診ている医者、糸川は寝台に横たわり一向に目を覚まさぬ白蓮を見て、ため息を吐く。

 白蓮が倒れ使用人が駆けつけると、野菊はすぐさま医者を呼んだ。どこが重い病にかかっていると不安に思っていた彼女は、医者の診立てに目を丸くする。

「なぜ、こ、公爵でもある白蓮様にそんな症状が……」
「本当のところはわかりませんが、婚約破棄により眠れなくなり、食事が喉を通らなくなった、と考えるのが妥当でしょう。これからしばらくの間は病人の食事をさせ、眠らせていればある程度は良くなりますよ。念の為、薬も出しておきましょうか」
「お願いします」

 どんなに妖力があろうとも、人を殺すことはできても殺さぬようには出来ない。薬や治療に頼り、究極的に言えば医者でなければ当人の回復を待つことしかできない。野菊は歯がゆい気持ちで白蓮を見つめた。そんな彼女に糸川は薬を渡しながら冷たい目を向ける。

「恋心で身を亡ぼすとは、人間とは何年経っても変わらぬものですな」
「え……」
「どうかお気を付けください。眠れぬ、食事が取れぬまで追い詰められた人間が最後の最後にすることといえば、牙を向けることです。自分でも、他人でも。なるべく目を離さぬように。では私はこれで」

 鋭く淡々としているが腕のいい医者は、時折全てを見透かすようで、野菊は相対することを苦手としていた。自分の思惑を全て悟られ、最も見られたくない裏側を暴かれてしまう気がして彼女はうつむきがちに頭を下げる。

「ありがとうございます。糸川先生」
「仕事ですからね。それと、野菊様」
「はい」
「先ほど私が気を付けるよう伝えたのは、あなたの旦那様に対してだけではありませんよ。あと一月もすれば雨期が来るでしょう。それまで一度往診に呼んでいただけないのであれば、勝手にお伺いしますからね」

 刺すような糸川の視線が、野菊を貫く。そして糸川は返事を待たずに部屋を出て行った。

 寝室に取り残された野菊は、端正な白蓮の横顔をじっと見つめる。――初めて見た時から、美しいと思っておりました。――愛しておりますよ、野菊嬢

 耳に残るのは、毒を孕んだ言葉だ。野菊は、自分の容姿が人と異なることを知っている。そして、自分を愛する人間が、もう世界にいないことも。

(だって、私を愛してくれる人は、もう、会えないところに行ってしまった)

 そして白蓮は、茜に焦がれ、眠ることすら出来なくなり、食事をとることまでやめてしまった。

 愛している人間に会えない辛さを野菊は痛いほどに理解している。愛する人を失った虚ろを共有するのが好きな人だとしても、自分の恋が叶っても、彼女はただ、白蓮に傷付いてほしくなかった。

 末姫に暴力を振るったなんて、間違いだ。きっと何らかの思惑に巻き込まれている。そうでなければ、白蓮は死刑になっているはずなのだ。末姫に暴力を振るった罪は重い。いくら姫が望まないといえど、不敬は許されない。だからこれは、何者かが仕組んだ謀りだと野菊は考えていた。

 そして、白蓮を黒い渦の中へと落とすため、その背中に手を伸ばしたのは茜の可能性がある。愚かな自分でも想像に容易いのだから、聡明な白蓮が気付かないはずもない。それでもなお恋心を捨てることは出来なかった彼を、野菊は憂いた。

(もし、白蓮様が悪い人だとしても、私はきっと愛してしまう。あの日、助けてくれた優しさを思い出して、胸が痛む。きっと白蓮様も、同じように茜様を愛しているのだわ)

 どうか彼が幸せでいてくれますようにと、野菊は祈りを込める。けれど決して白蓮の手には触れない。だらりと伸びたその手に触れ、握ることは許されないと思っているからだ。彼女はそっと立ち上がると、寝室を後にしたのだった。

◇◇◇

 初夜に白蓮が眠りについて、とうとう丸二日が経過した。「少なくとも三日は目覚めることはないでしょうから、水滴で少しずつ水分を取らせるように」というのが糸川の診立てであったが、野菊は気が気ではない。毎日手の込んだ滋養食を用意しては、不安な気持ちで彼の目覚めを待っていた。

 疲れに効く文織草と虹浮木を調合した香を焚いてみたり、カーテンを白から安らぎを感じさせるといわれている新緑色に変えるなど、出来ることは全て行っている。けれどその成果が表れることはなく、長く繊細なまつげに縁どられた瞼は閉じたまま、毒によって眠りに落ちた姫のように白蓮は眠り続けていた。

 そして野菊は、温度の調節が出来るよう、額によく水で冷やした布をのせることもしていて、今日もまた冷たい水を桶へと入れるため、不月の廊下を往復していた。

「御嬢様、また旦那様のもとへ行ったんすか?」

 野菊が振り返ると、治郎吉が立っていた。彼女が持つ桶を見て、「行ったんすね」と、不安げな目を向ける。

「旦那様がお目覚めになられる前に、このままだと野菊様が倒れてしまうっす。看病は俺たちに任せて休んでほしいっす!」
「でも……」
「旦那様が起きたとき、野菊様は旦那様の看病してて倒れたって説明しなきゃいけなくなるっすよ? それでもいいっすか? 嫌なら俺、嘘ついて旦那様の前で吐いちゃうっすよ?」

 治郎吉は、自分の癖についてよく思っていない。にもかかわらず口に出したということは、よほど思いが強いということである。彼の言葉に野菊はゆっくり頷いた。

「分かりました。でも、水を汲んで、白蓮様の寝室に飾る花瓶の花を庭園で摘むことはさせてください。それが終われば、きちんと休みますから」
「仕方ないっすねえ。なら俺も郵便の確認が出来てないっすから、お供するっすよ」

 治郎吉がはぁ、と溜息を吐きながら歩き出す。治郎吉の使用人らしくない振る舞いは、気質だった。元は軍人の家系ではなく公爵家に勤める使用人の家系であったが、性格上働けないとのことで軍に入った結果、武功を上げたものの癖により退団を余儀なくされてしまった。そして巡り巡って不月の屋敷に勤めることとなったのである。

 この状態で招待客などの接待を頻繁に行うのであれば問題であるが、幸か不幸か今現在不月の屋敷に訪れ中に入ることが出来るものはごく僅かな家の関係者のみで、治郎吉の悪癖も承知している。よって治郎吉は奇跡的に仕事が続けられる状況を手にできていた。

「あれ? なんかぴっかぴかのお手紙が入ってるっす!」

 花を摘み終え水も汲み終わり、二人が郵便受けへ向かうと治郎吉は郵便受けに入っていた手紙を掲げた。手紙は白の粒子を纏ってくるくると踊るように円を描き、野菊の手元に収まる。宛名は志藤白蓮。封蝋を見ると志藤家の家紋を押されており、彼の色味を模した深海の蝋が垂らされていた。

「白蓮様宛だわ。すぐにお渡ししなきゃ」
「待ってくださいっす。置いていかないでほしいっす!」

 野菊はすぐさま屋敷へと駆けていく。不月の庭は広い。いくつもの深紅の外灯を潜り抜け黒石で出来た屋敷の中へと戻っていくと、ちょうど大階段のところで杏梨がぱたぱたと走ってくるところであった。

「野菊様! 旦那様がお目覚めになられました!」
「本当ですか!」

 杏梨の声に、野菊は驚きと喜びで目を開く。飛ぶように階段を駆け上り、一目散に白蓮のいる寝室の扉を開くと、彼は半身を起こし、ややぼんやりした目つきでこちらを見ていた。

「あ……野菊様……」
「お目覚めになられたのですね。喉の渇きはありませんか? どこか痛いところは……。医者をお呼びしますね。えっと、あとまずは……食事の用意は……」
「野菊様落ち着いてくださいっす。旦那様がびっくりしてるっす!」

 自分を追いかけてきた治郎吉に窘められ、「ああ! 申し訳ございません」と野菊は落ち着きを取り戻す。

「あの、野菊様、私は……」
「丸二日、眠っていたのです。医者は睡眠をとっていなかったことや、食事をとっていないことが原因だと言っておりました」
「そうですか……」

 野菊の言葉に、白蓮は驚く様子もなく、そっと天色の目を伏せた。いつもならばその姿にときめく野菊だが、今の白蓮はどこか泡と共にふわりと消えてしまいそうで、彼女の心を不安にさせた。

「えっと、それと、志藤家からお手紙が届きました。白蓮様宛です」
「本当ですか!!」

 野菊が手紙を差し出すと、白蓮はそれまで終末を迎えるかのような雰囲気を一変させ、手紙に飛びついた。手紙を乱雑に開くと、朝日を受けた波を彷彿とさせるほどきらきらした瞳で、便箋に綴られる文字を嬉々として読み上げ始めた。

「……拝啓白蓮、先日送ってきた手紙についての返答と、今後についての話をしよう。なに、会って話すことでもない、お前は不月へ婿に入れられたと考えているのかもしれないが、……我が家にお前の帰ってくる場所などない。代々築き上げてきた、家の名を汚す……面、汚しめ……、二度と、顔も、見たくない……」

 その内容は、間違いなく絶縁状であった。徐々に読み上げる白蓮の声から覇気がなくなり、瞳も徐々に光を失っていく。

「お前の名前は、志藤家から永遠に抹消する……。今までのお前の些細な栄誉など、お前の犯した罪に比べれば霞程度。帝都に戻れるなんて……考えないことだ。果ての不月で、せいぜい国に尽くし詫びながら苦しんで……死ね……」

 あまりの内容に、軍を追われ家を追われた治郎吉も言葉を失う。野菊は手紙を滑り落とし、愕然として瞬きひとつしない白蓮に声をかけようと近づいた。しかし、

「近付くな死神!」

 白蓮は、手を振り払いそれを制する。手を伸ばしかけていた野菊の手に音を立てて当たった。手を叩かれた野菊は、ただただ愕然と立ち尽くした。

「白蓮様……」
「馴れ馴れしく呼ぶな!」
「え……」

 白蓮の態度の急変に、野菊は言葉を止める。すると白蓮は畳みかけるように叫びだした。

「死神なんて好きになるわけがないだろ! 捧生の指輪を使えるようにして、帝都へ戻るつもりだったのに! 志藤家に僕の居場所がないのなら、お前の利用価値なんてない!」

 白蓮は、寝台に置かれた花瓶を手に取ると、誰もいない壁に向かって叩き付けた。野菊が片付けようとすると、今度は枕を取り、投げつけ威嚇する。

「くそ、くそ。俺は筆頭妖術士だ。東の妖魔だって倒したじゃないか。それなのに皆妖力妖力と……」
「白蓮様……」
「出ていけ! そんな辛気臭い黒色なんて! 縁起でもない! お前の顔なんて見たくない! 出ていけ!」
「でも……」
「出て行けと言っているだろう!」

 白蓮はうんざりだと言わんばかりに叫ぶ。あまりの様子に野菊はどうすることも出来なくなり、治郎吉や杏梨が野菊を無理やり退出させる。そして扉が閉まってもなお、白蓮は叫び続け、怒りを露わにしていたのだった。

◇◇◇

「白蓮様、お食事をお持ちしました」

 白蓮のもとへ粥を運ぶ野菊だが、寝室の扉は開かれることはない。彼女は困ったように「扉の前に置いていきますね」と声をかけ、その場を後にする。

 白蓮が、目を覚まして五日。彼が野菊に拒絶の意を伝えてから、扉の鍵は固く閉ざされたままだった。

 不月ただ一人の医者、糸川の診立ては「出るまで食事も水も出さずに放っておけば、そのうち出てくる」というあまりに慈悲のないもので、野菊は白蓮に不要だと怒鳴りつけられてもなお、部屋に食事や飲み物を献身的に運んでいた。

 無駄になってしまう可能性があるからと、料理人ではなく自分が彼の食事を作り、飲み物と共に運んでいる。そして手を付けられることなく食事を下げることを三日繰り返し、今に至っていた。

「野菊様。もう、治郎吉に扉を開けさせるべきでは? どうせ相手は妖術が使えないのですから」
「そうですね……。あまり強引な手段をとってもし何かあったらと思っていましたが、そろそろ考えないと白蓮様の身が……」

 野菊は静かにうつむいた。人間がおよそ一週間、飲まず食わずで生きられることを彼女は知っている。けれど、生きながらえていたのはそういう風に身体が慣れていたからだ。恋に身を滅ぼしかけたといえど、今は大丈夫だとしても、公爵家で育てられた白蓮の身体がこの先絶対に持つわけがない。だからどうにかして食事を、それか水だけでもとってもらいたいと彼女は考えていた。

「……明日、明日一度、扉を破ります。治郎吉に伝えておいてもらえますか」
「承知いたしました」
「では私はまた、西の森のほうに行きますので、白蓮様をよろしくお願いします」

 西の森、と聞いて杏梨の表情が一瞬曇った。「今日は午後から風が強くなるそうですよ」と彼女の言葉に、野菊は「大丈夫」と頷く。

「風が強くなる前に帰ってきます」
「野菊様……」
「いってきますね」

 野菊は杏梨の言葉を遮るようにその場を後にする。廊下から見える窓の外の景色は、分厚い雲に覆われ嵐が来ることを予兆していた。

◇◇◇

「なんだい。あんたも暇だね。婿に泣かされでもしたのかい」

 野菊が墓場にやってくると、丁度塀を掃除していた老婆、みな子が心底嫌そうに顔を向けた。辺りは春だというのに寒々しく、花芽吹く季節といえど枯れ葉が落ち、竜の鱗を象った石畳を焦げ色に染めている。

「いえ、その、彼が家からの手紙を受け取ってから……部屋から出なくなってしまって……」

「ふん。家からの手紙っていうのは、もう二度と帝都に戻るなとか、どうせそんなところだろう?」

 みな子は傍に置いてあった金の薔薇が刻まれた如雨露を塀にかけた。

「結局泣かされたんじゃないかい。で、どうするんだ。お古の婿様なんて屋敷に置いておいても、ろくなことなんてないよ」
「……捧生の契約が解かれたら、きっと彼は屋敷を出ようとすると思います。ですから、私はその契約を解く方法がないか、調べます」
「あんたも人が良すぎるね。馬小屋にでも捨て置いちまえばいいものを。自分と境遇が似てるって思ってんのかもしれないが、あっちはお華族様なんだよ? あんたとは育ってきた世界が決定的に違うんだ」
「わかってます」
「あと、あんたそろそろ護衛を連れてきな」
「え……」
「最近、東のほうが騒がしいって街の噂好きの馬鹿共が言っていたよ。妖魔が出たとか言ってねえ。こっちだっていつ同じようなことになるか分からないんだから、愚図の治郎吉でも頭でっかちの杏梨でも引っ張ってきな。二つ返事でついていくだろうさ」
「ひ、東に新たな妖魔が出たのですか?」
「街の人間はそう言ってるが、取りこぼしたってこともあろうだろうね」

 取りこぼし。もしそれが本当であるならば、筆頭妖術士の白蓮や、国一番の剣技を持つ階と、他二万の兵士の目から逃れた妖魔であり、帝都に危機が迫っているということだ。

「国は動いてるだろうけどね。西の変人を引っ張ってまで平和を知らしめる祝いを開いた後に万が一妖魔を逃がしたってことが明るみになったらそれこそ革命が起きちまうよ。内々に処理するはずさ。でも」
「でも?」
「人間、自分の都合の悪いもんは軽く見えるように出来てんだ。もしかしたら気のせいだとなーんにもしてないことだってあるかもしれない。だからお前も一人でのこのことこんな所に来るんじゃないよ。守ってもらった大事な命なんだろ」
「……はい」

 野菊は自分の胸に手をあてて、鼓動を確かめた。この心臓は、自分のものではない。三人のものだ。目を閉じて三人の笑顔を思い浮かべてから、彼女はまた前を向いた。

「では、挨拶をしてきますね」
「ああ。さっさと済ませな。雲行きがどんどん悪くなってきてるよ」

 急かすようにみな子がしっしと手を振っていく。野菊は促されるまま、墓地の中へと向かっていった。

 墓場を後にした野菊は、しっかりとした足取りで屋敷に向かって歩いていた。

 不月は土地柄、日中でも薄暗い。よってせめて視界に入る建物は明るい色でいようと、この地方の屋敷の外装は皆明るい色味だ。

 上部に竜の彫刻が置かれた街灯を幾度も通り抜け、色彩豊かな石で出来た屋敷を過ぎていくと、壁は濃紺で、屋根だけは淡い極彩石が用いられた不月の屋敷が見えてくる。

 不月当主は、その物の来歴について厭わない人柄で、見目や能力さえ伴っていればどんな物でも扱った。

 今屋根として使われている石は、妖力で加工したものではなくここから南の海街で取れたものだ。道はなく、海の中に屋敷が立ち並び人々は船で移動する場所で、いわば何も手が加えられていないもの。来歴を聞けば手抜きであると人々は避けてしまう。しかし伯爵は来歴の価値観なんて時代とともに薄れてしまい、いつかこの極彩石も日の目を見る日が来るはずだと野菊に話した。

 かつての記憶を思い出しながら野菊が歩いていると、丁度不月の門の中へと入ったところで杏梨が血相を変え走ってきた。反射的に白蓮に何かあったのだと察知して、野菊は駆け寄る。

「どうしましたか、杏梨」
「大変です、旦那様が、ま、窓に、とにかく来てください!」

 顔色が真っ青になっている杏梨を見て、ただ事ではないと感じ取った野菊は屋敷へと足を速める。しかし杏梨を追って辿り着いたのは、不月の屋敷の中央に位置する中庭だ。屋敷に囲われているこの場所は花壇が並び、屋敷の中から人々の目を愉しませられるよう職人が設計した。しかし中庭に集まっている使用人たちは、皆足元にある花々ではなく皆天を仰ぎ愕然としている。

「一体、何がー……っ!?」

 野菊が、顔を上げる。するとそこには、三階の窓――寝室の窓から身を乗り出し、外壁の縁に足をかけ、今にも飛び降りようとする白蓮の姿があった。

「し、白蓮様!」

 野菊は全身から一気に血の気が引いていくのを感じながら、白蓮が今落ちようとする真下へと駆け寄ろうとした。しかし「来るな!」とすぐさま白蓮に制され、足を止める。

 後ろについていた杏梨が「庭師が、血相変えて走ってきて……、申し訳ございません」と謝り野菊は首を横に振った。

「いいえ、こんなことになるのなら、今日扉を開いてしまえば良かったんです……私の判断の誤りです……白蓮様! 今すぐお部屋に戻ってください! 落ちたら死んでしまいます」
「うるさい死神め! 少しでも邪魔をするそぶりをしてみろ。この妖力石の欠片を使って、屋敷を燃やしてやる!」

 白蓮の言葉に、屋敷の者たちが皆息をのんだ。屋敷の使用人たちは皆野菊ほどではないものの、妖力は高くない。白蓮を浮かせ部屋の中へ押し戻したり、落ちてきた彼を受け止めるほどの妖術は使えず、だからこそ彼の暴挙を許してしまった。

 屋敷の中で唯一高い妖力を持つ治郎吉も、こればかりは手の尽くしようがない。人を早く歩かせることは、早く向かいたいという野菊の想いが根底にあったからこそ作用した。しかし、今の白蓮は部屋の中へ戻ることを望んでおらず、その手足に戻るよう命じることは出来ないのだ。

「どうして……」
「どうして? 当然じゃないか。国で一番の妖術士になれた! 将来は宰相の席だってあったんだ。帝一族の女と結婚して、その地位は完璧だったはずだ。父上だって母上だって、兄上たちだって、僕のことをこれで無視できなくなった! なのに! 全部壊れた! 挙句の果てに、死神に妖力を奪われて、一生お前の傀儡として……俺は、俺は男娼として生きろと? 冗談じゃない! 妖魔に食われた方がまだましだ!」

 白蓮は叫びながらも、縁からつま先を少しずつ出し始める。

「ま、待ってください。私は貴方を自分の言いなりになんて絶対にしません!」
「嘘だ! 僕に復讐する気か? 僕を生かして、苦しめようとしているんだろう! あの女のように」
「私はそんなことするつもりもありませんし、妖力が、殆どないんです! 貴方が私を恐れる必要なんてない!」
「僕が、お前を恐ろしいと……?」

 野菊が叫んだ瞬間、白蓮の目の色が変わった。先ほどまで窓枠にかけていた手を離し、野菊を真っすぐと見た。

「いいか、僕はお前なんてちっとも恐ろしくない! たかが不月の娘を何故恐れる必要がある! お前が捧生の指輪を身に着けようと、僕は僕のものだ! お前のものになんてなってたまるか!」

 白蓮が怒鳴り、飛び込むようにして身を投げた。野菊は咄嗟に彼を受け止めようと杏梨を振りほどき駆けていく。屋敷の者達は声を上げ、咄嗟に野菊を戻そうとするが、誰一人その手は届かない。

 やがて野菊と白蓮がぶつかった瞬間、橙、桃、そして深緑色の粒子が瞬いて、二人を包みながら眩い閃光を放った。

 周りにいた使用人たちは反射的に目を塞ぐ。眩い光が収まり、皆二人の元に駆け寄ると、野菊も白蓮も傷を受けることなく、ただ二人とも固く目を閉じたままそこに倒れていたのだった。

◇◇◇

 志藤白蓮が初めて挫折を知ったのは、五つの時であった。和葉国では、生まれて五度目の春が訪れた子供の妖力を必ず測定している。

 そしてその高さが毎年新聞の一面に取り上げられ、志藤家三兄弟の長兄、次兄はその高さを更新し続けており、末弟白蓮には、家の者のみならず、各公爵家、ひいては帝一族まで方々から大きな期待がされていた。

 しかし、その年白蓮が妖力保有量一位を取ることはなかった。

 それどころか、新聞に掲載される上位五十名に入ることすら出来なかったのだ。

 以来、志藤公爵と夫人は、彼の存在を徹底的に無視した。妖力が少ないことを上の兄が馬鹿にし、玩具のように扱っても止めることはしない。遊びの延長で白蓮が死んだとしても、むしろ都合がいいとすら考えている節があった。

 上の兄に妖力を吸い取られた、空っぽの玩具。兄のみならず周囲からも揶揄され、白蓮の居場所はどこにも無かった。

 だからこそ、白蓮は努力を重ねた。妖力が少なくとも高位の妖術が扱えるよう、寝る間も惜しんで努力を重ね、魔術の研究をした。そしてとうとう、十二の時に少ない妖力で高位の妖術を繰り出せる術式を開発し、士官学校に入学したその年の武闘大会で優勝を果たした。

 それから、兄や両親はわずかながら白蓮を視界に入れるようになった。成績一位を取れば、挨拶を交わすことができるようになった。首席で学校を卒業したら、言葉が交わせるようになった。妖術士の資格を最年少で取れば、共に食事をするようになった。

 そして、国一番の妖術士になったら、祝いの言葉をもらえるようになった。

 白蓮が家族の輪に入れたと感じるようになったのは、彼が卒業と同時に妖術士の資格をとった十五の頃だ。

 彼は軍のなかでも優秀な者が配属される部署で働きはじめ、違法な妖力石を売買する人間の取り締まりを行う仕事に就いた。そこでも最優秀の成績を納め続け、彼が二十歳になったころだ。兄たちを抜いて次期宰相の話が持ち上がり、帝一族の茜との婚約話が舞い込んだのである。

 このままいけば、きっと家族でいられる。

 白蓮はそう考え、日々の仕事に打ち込んだ。職務は順調であったが、最年少である彼と、彼より一回りも二回りも年上の部下たちとの折り合いは、決して良くなかった。

 白蓮は、神経質なところがあり、幼いころから矜持を踏みにじられ続けてきたために、気位が高すぎる面がある。そういったところで軋轢が生じていた。さらに、完璧でないと両親に目を向けてもらえないという彼の強迫観念に似た部分は、よく言えば自由、悪く言えば幼い茜と、日頃衝突を繰り返した。

 茜は、度々階と姿を眩ますことが増え、白蓮が注意をしても聞くそぶりがない。東へ向かう旅の途中、自分と婚姻することは国の均衡を保つ上でどんなに重要なことなのか、婚約者以外の男と帝一族の女が二人きりになることが、外国にどんなふうに広がり、そして国民に対してどんな影響を及ぼすのか何度説き伏せてもついぞ頷くことはなかった。

 誰も自分を理解しようとしない。

 でも、自分は将来宰相の地位を得るのだ。そうしたら、きっと皆、自分を理解せざるをえなくなる。誰にも無視なんてさせない。

 白蓮はただひたすら宰相への夢を追いかけ生きてきた。東の妖魔を見事討伐し、全てが順調にいっているはずだった。しかし、あと一歩のところで、全てが砂の城のように、荒れ狂う波にさらわれ崩れていったのだ。

 何も成せぬ、全てを失った自分に価値なんてない。

 誰にも理解されない、見てもらえない自分逆戻り。

 妖力を奪われ、挙句の果てに奴隷契約に用いられる捧生の印を与えられ、死神令嬢の婿にされる。

 白蓮は、前から死神令嬢の噂は聞いていた。

 どんな場所でも黒い服を着る女。この国ではどの色の着物を身に纏おうと自由であり規定はないが、毎季同じ色に身を包み誰とも接しようとしない彼女の存在は異質だった。

 自分はこうあるべき、こうしなければいけないと不自由のなか努力しても誰にも認めてもらえないのに、黒着物を纏う彼女はただそれだけで注目される。

 自由で、好きなことをして皆に見てもらえる、羨ましい存在。忌み嫌われてようが関係なく、むしろ、それが個性であるようにすら思った。

 そして茜が結婚相手に指名をしたということは、茜と死神令嬢が裏で繋がっていたということ。彼はどうにか死神令嬢を利用し挽回が出来ないかと考え不月の屋敷へと向かった。

 そして野菊の反応を見て、自分に気があると確信した白蓮は、茜となにか契約があったのだと踏んで、彼女を利用することにした。

 並行して家へ何とか帝都へ戻れないかという相談と、茜や階が言った白蓮の行動はすべて冤罪ということを訴える内容を認めた。

 白蓮は、茜を責めることはしても、暴力を振るったことは一度もない。

 ましてや痣になるほどなんて、人間相手にするなんてありえなかった。しかし、志藤家からの返信は彼の身が潔白であるとは全く信じておらず、帝都へ戻る白蓮を拒絶するどころか、彼の生すら拒絶するものあった。

 よって、彼は生きる意味を失った。このまま生きていても仕方がないと、導かれるように淡々と窓の外へと身を投げたのである。

 そして、そんな白蓮が目覚めると、眼前には気難しそうな老齢の医者が自分の腕を取り、骨を確認しているところだった。窓の外は日が暮れかけており、真っ赤な夕焼けが部屋に差し込み、強い光によって一面を強い橙に染め上げている。

「あ……」
「お目覚めですか白蓮様」

 声をかけられ、白蓮はすぐさま起きそうになるが、使用人の治郎吉に押さえられた。

「なっ何を!? 離せ」
「ばたばた動かれても迷惑ですからね、治郎吉くんに押さえてもらうことにしました」
「ぶっ無礼な」
「無礼? 私は医者です。貴方を治す側だ。敬意を持つべきはそちらでしょう」
「は……?」
「ですから、大人しくしていただけますか? 私は今、治療用の薬品を持っています。貴方の意識を奪うことなんて簡単だ。しかし、薬は貴重なものです。無駄な消費をさせないでください」

 冷ややかな目で糸川にそう吐き捨てられ、白蓮は口ごもった。周囲を見渡すと、自分がいつも寝泊りしている場所とは違い、家具は少なく窓しかない。隣を見るともう一つ寝台が置かれ、野菊が瞳を閉じてぐったりと横たわっていた。

「生きていますよ。彼女は」

 白蓮の視線に気づいた糸川が、無機質な声色を発した。しかし白蓮は興味ないと言わんばかりに、「興味ない。勝手にしたことだ」と視線を背ける。

「そんな言い方はあんまりではないですか!? 野菊様は貴方を庇って!」
「杏梨さん待ってくださいっす、相手は病人っす!」

 思わず掴み掛かろうとする杏梨を、治郎吉が必死に止める。白蓮は気に留めることもなく目を伏せた。

「白蓮様は、何か勘違いをしておられるようですね」

 糸川が、白蓮を見やる。その視線だけで、空気が変わった。

「彼女が生きているのは、ただただ運が良かっただけです。本当なら、今頃葬儀の準備をすべきだと、私はこの二人に伝えていたことでしょう」

 責めるわけでもない淡々とした糸川の口調に、杏梨と治郎吉の動きが一瞬にして止まる。糸川は、白蓮が顔を向けた方へ移動して、ただただ見下ろした。

「野菊様は、寝ずに貴方の看病をしていました。愚かですよ。一方的な奉仕など、自己満足でしかならないというのに。貴方が目覚めてから、不要だと言っていた食事はすべて、野菊様がご自身で作られたものです。それしか尽くし方が分からないのですよ」
「そ、それがどうした……」
「死神令嬢なんて馬鹿な噂を鵜呑みにして、貴方を庇った娘を不死か何かだと思っているのかもしれないですが、貴方が婿入りする随分前からこの娘は、棺に半身を置いた生き方しかしておりません。心なんて、もう弔いに預けている。十八だと言うのに、振る舞いに幼さを感じたことはありませんか?」

 糸川の言葉に、杏梨と治郎吉の表情が苦々しいものに変わった。空気が変わったことを敏感に察知した白蓮は、言い返すことができず押し黙る。

「この娘は、まだ産まれて十八年だ。いや、ただ死に至ってなかっただけで、正しく生きた年数なんて、三年にも満ちていない、幼子同然の特殊な娘です」

 糸川は、野菊へ視線を向けた。目を細め、鋭い目で見据えてから、無感動な瞳で白蓮を射抜く。

「貴方は多くの不幸に襲われて、心に余裕がないと見受けられます。何も優しくしろと言ってるわけではありません。自分の心のさざ波は自分で沈め、癇癪を子供にぶつけるなと、私は無傷の貴方への診立て代わりに伝えましょう」
「わ、私は癇癪など……」
「あと、それともう一つ。彼女の身体に殆ど妖力がないというのは本当のことです。不月当主や夫人、姉の百合様は優しく温かく彼女に愛情を注ぎましたが、他の者は異なります。妖力が低い者に対して、人々がどんな反応を示すのかは、貴方もよくご存じではありませんか? 白蓮様」
「き、貴様――」

 白蓮が言い終える前に、糸川は荷物をまとめさっさと部屋を後にした。杏梨と治郎吉は声をかけることもできず、ただ隣で眠る野菊の元へ集い、彼女の目が覚めることを願って祈り見つめていた。

◇◇◇

 瞼の裏に眩く白い光を感じ、波の音だけが響く。潮風の匂いに野菊が目を開けると、雪と見間違えるほどの砂浜に一面の海が広がっていた。空も鏡写しのように遥か遠くまで鮮やかな青で染まっている。

「ここは……白蓮様……?」

 自分は、先ほどまで不月の屋敷にいたはずだ。目の前の光景が理解できずに俯くと、足元に色とりどりの貝殻を見つけた。

 夏の深緑、秋の夕景、そして、春の花畑を思わせる、貝殻たち。一つ一つ手に取った野菊が、日の光に掲げていると、「野菊」と彼女を呼ぶ声が響いた。

「えっ……」

 鈴のように軽やかで甘い声に、野菊はすぐに立ち上がり、辺りを見渡す。しかし彼女の探し求める者の姿は見えず、たまらず彼女は駆け出した。

「野菊」
「野菊」

 どっしりとして、安心を覚える声が野菊を呼ぶ。続いて、どこか神経質ながら、慈愛を帯びた声が野菊を呼んだ。

「待ってください……」

 野菊は砂浜を駆けていく。走るたびに着ている着物がもつれ、やがて彼女は転び、砂浜に倒れこんでしまう。すると遠くに探し求めていた人影が見えた。

「待って、待って、私を、どうか――」

 野菊が叫ぶ。しかし人影は陽炎のようにゆらめくばかりで、とうとう景色に溶けていった。

◇◇◇

「お目覚めですか。野菊様」

 野菊が目を覚ますと、そこはいつも野菊が寝起きしている彼女の部屋だった。しかし最後の記憶は白蓮に向かって駆けたもので、混乱する彼女に糸川が声をかけた。横には杏梨や治郎吉も立っている。

「あっあの! 白蓮様は、ご無事ですか?」
「大丈夫ですよ。それよりご自身の心配をなさってください」
「野菊様、あれから三日も眠り続けてたんすよ?」
「え……」

 野菊が驚くと「散々婿殿に寝ずの看病をしていたのですから当然でしょう」と糸川が切り捨てるように言い放つ。

「は、糸川先生、白蓮様は今、どんな様子で……?」
「あなたが庇いましたから、生きてますよ。もうすぐ来る頃合いでしょう。……ほら」

 糸川が扉へ視線を向ける。すると、真っ白な布を深く被り、足先だけを出した、子供が仮装でお化けを模した姿にも似た人物がやってきた。野菊が首を傾げると、布お化けは「食事ですよ」と、不機嫌そうに手に持った盆を杏梨に渡した。

「布を被ったまま食事を運ぶことは、いささか不衛生だと思うのですがね」

 ふ、と馬鹿にしていることを隠さず、糸川が鼻で笑うと布お化けはぴくりと反応し、そそくさと部屋を出て行く。

 状況を上手く呑み込めない野菊に治郎吉が「旦那様、野菊様を下敷きにして、糸川先生にこっぴどく叱られたんす」と伝えると、糸川が鋭い目を治郎吉に向けた。

「それより、貴方たち使用人が下に綿や寝具でも重ねて並べ置いておけば、わざわざ私が無傷の人間を診にここまで足を運ぶことはなかったのですよ。それに、私の専門は人間の内臓でも、骨でもない。そのことをお忘れなきよう」
「わかったっす……」
「あの、ご足労いただきありがとうございました」
「礼などいりませんよ。慈善事業ではなく仕事ですから」
「それでも……ありがとうございます」

 野菊が頭を下げると「病人に頭を下げられても嬉しくありません」と糸川は撥ね付け、使用人二人に顔を向けた。

「では、私は本業の仕事をしてから帰りますから、杏梨、治郎吉、出て行ってくださいますか」
「分かりました。野菊様、何かご入用があればなんなりとお申しつけください」
「じゃあ失礼するっす!」

 ぱたぱたと慌ただしく杏梨と治郎吉が部屋を後にした。糸川は足音が遠ざかっていくのを見計らって、寝台近くの椅子に座る。

「あの……白蓮様は」
「ええ。貴方を下敷きにしたその日の夕方に意識が戻りました。翌日の朝からは運んできた食事も取っているので、それまで床に臥せり、使用人が泣き明かしても目を覚まさなかった貴方よりずっと健康になりましたよ」
「……ありがとうございます」
「病人の礼など不要だと、何度言えばご理解頂けるのでしょうか。それより眠れていなかったのは、旦那様の看病だけが理由ではありませんよね」

 糸川の言葉に、野菊は口を噤んだ。視線を伏せて、ぎゅっと手のひらを握りしめる。

「薬もいくつか出しておきます。雨期も近い」
「……あの、白蓮様が、もうあんな行動を取らないようにするには、どうしたらいいのでしょうか……どうにか元の気力を取り戻して頂きたいのですが……」
「何か、小さな成功体験を重ねることですね。今の彼は悉く矜持を踏みにじられ、夢も希望もない状態ですから。しかし、野菊様がそれを与えることに私は反対です」
「え……」
「共倒れ、道連れにされますよ。貴方はようやく持ち直してきたところなのですから」

 糸川は、日頃その瞳に感情をのせることはない。しかし、今日はそこに心配の色が混ざったことを感じ、野菊は静かに頷いたのだった。

◇◇◇

「私、白蓮様とお話をしてみようと思うのです」
「お前は馬鹿なんじゃないのかい」

 野菊が目覚めて一週間が経過したころ、久しぶりに彼女は不月の果ての墓地に訪れた。そしていつも通りに墓守の老婆、みな子を捕まえそう宣言する。

「お前が倒れたって愚図の治郎吉が報告に来たとき聞いたよ。お華族様、飛び降りたんだってね」
「はい。それで糸川先生に聞いたのです。白蓮様がもうそんなことをなさらないよう、元気になる方法を……そうしたら、何か小さな成功を積み重ねることが大事と聞いて……」
「はん。そんなのお前がくれてやってどうするんだい。共倒れになるって糸川に注意でもされなかったのかい?」

 まるでその場で聞いてきたとしか思えない言葉に、野菊は目を見開いた。しかしみな子は当然だと言わんばかりに鼻を鳴らす。

「あたしはね、糸川を小さい時から見てきたんだ。あいつの診立てなんてなくてもそれくらい分かるよ。で、何をする気だい。止められたところでするんだろう?」
「はい。実はちょっと考えがあって……」

 そう言って野菊は、ある計画を話す。それを理解したみな子は「あたしを巻き込むんじゃないよ」と野菊をはたいたのだった。

◇◇◇

 野菊が目覚めるまでの間、白蓮は彼女の食事を運んでいた。それは、医者である糸川に伝えられた言葉が、全て彼の行動に身に覚えがあったからだ。

 初夜の日に、自分が倒れた後、朧げにであるが、野菊が自分に声をかけていたことに、聞き覚えがあった。

 さらに目を覚ましたことを喜ぶ野菊の目には、フードで少し隠れていたものの隈があり、最初不月の屋敷で対面した時よりずっと、服の袖から伸びる指先はほっそりと、青白くなっていた。

 それでも、白蓮が彼女に感謝を抱くことはできなかった。茜に妖力の権を譲渡させられたといえど、今白蓮の妖力を奪っているのは野菊で、自分の全てを野菊が握っているのだと思っただけで白蓮は野菊が敵にしか見えなくなる。心を許す気には到底なれない。

 だからこそ、身を投げようとしたときの野菊の自分を恐れる必要はないという言葉に強い反応を示したのだ。

 自分が恐れるはずがない。妖力の権を持っているからと言って、馬鹿にするな。ただただ子供の癇癪で白蓮は飛んだ。はじめこそあと一歩で近づけたはずの自分の夢が泡と消えたことに絶望し、縁へと立ったが、あの瞬間の白蓮は、ただただ自分にわずかに残った矜持を崩されまいとする一心だった。

 そしてその、僅かながらの矜持も、霞と消えた。――彼女の身体に殆ど妖力がないというのは本当のことです。

 半信半疑で夜半、野菊の眠る部屋に入ると、糸川の言葉を裏付けるように、野菊からは妖力を感じなかったのだ。いくら妖力を失っていても、他者のそれを感じることはできる。そして人は活動するとき、無意識に妖力を放出しており、眠り、そして意識がない時は活動時に放出されるべきだった分が体内に蓄積し毒にならないよう、より放出されるはずだった。

 しかし、白蓮は野菊から、まったくと言っていいほど妖力を感じることができなかった。

 彼は戦時に幾つもの同胞の亡骸と対面してきたが、その骸と同じ、それ以下の妖力しか、感じ取ることができなかったのだ。妖力が少なく生まれた人間がこの国でどんな扱いを受けるか、白蓮はその身を以てよく知っている。野菊の身体に何が起きているかを知り、そこでようやく白蓮に、後悔、そして詫びの感情が生まれた。初めに反発しか感じなかった糸川の言葉が、深く刺さった。野菊に対して、自分がどんな態度を取っていたかをようやく理解したのだ。

 野菊が目覚めるまで白蓮は食事を運んでいた。いつか、野菊は目を覚ます日が来る。合わせる顔がないと、シーツを被って。そして野菊が目を覚ましてからは、食事を運ぶことを続けるか迷い、結局顔を合わせることから逃げ、白蓮はずっと部屋で過ごしていた。食事は治郎吉が運んできて、それとなく野菊の様子を知らせてくる。まるで、会いに行けと伝えんばかりに。

 野菊と、一度しっかり話をしなければいけない。それは白蓮もよく考えたことだった。けれどなかなか上手い言葉が思いつかず、一筆すら書けなかった。

 だから、白蓮も想定していなかったのだ。

「白蓮様、もしよろしければ、明日、共に外出を致しませんか?」

 野菊が目覚めて一週間後の夕暮れ、彼女から出かけようと誘われるなんてことは。

◇◇◇

 不月の山は、およそ登山には向かない土地だ。山頂部と麓ではその気温が大きく異なり、人々が汗をかき、外出すら億劫になる夏場でも、その山頂ではしんしんと雪が降り積もり、一面凍て付いた銀世界が広がっている。

 黒々とした針金のような木々からは剣と見間違えんほどの氷柱がいくつも並び、迷い込んだ人々の命を気紛れに奪うからと、親が子に言って聞かせるほどだ。では不月の街並みが白く染まり、一年を終えようとする頃はといえば、灼熱の暑さとともに酷い干ばつが襲う。一歩踏み入れればすぐさま身体中の水分が抜け、渇きの苦しみと共に息絶えることで、動物の侵入を悉く拒絶しているとすら言われていた。

 しかし、その麓はそうでもない。

 日差しが入り辛いことで薄暗く、どこか寒々しいのは、春夏秋冬を通してあるものの、逆を言えば常に一定といっていい気温で、人々は遠乗りに出かけたり、山菜や木の実の収穫に訪れることもしばしばあり、気晴らしにはうってつけの土地であった。

 そして、昨晩白蓮を誘った野菊もまた、晴れ渡る青空の下、彼とともに不月の山の麓へ散歩に訪れていた。

「えっと、この道はあまり町の人も訪れないところなので、安心してください」
「人知れないところで、私を殺すにはうってつけの場所ですね」

 白いローブを着て、フードを深く被った白蓮が返事をする。彼の今着ているものは、野菊が与えたものだ。自分が昨晩誘いに行ったとき、慌ててシーツを被る彼を見て、あったほうがいいだろうと朝に持っていくと、出発する際、着替えて現れた。

「そんなことしませんよ。この辺りはほかの場所より影が濃いので、子供たちに近付かないよう町の大人たちは話すのです。そして、子供たちに示しをつけるよう、昼間は必要でない限り、近付かないようにしています」
「そうですか」

 一方の野菊もまた、今日も今日とて全身真っ黒な装いに身を包んでいる。傍から見れば、黒い塊と白い塊が微妙な距離を取り並び歩く奇妙な光景であるが、黒い木々がささくれ立って並び、ぽつぽつと石が落ちているだけで周囲にそれを揶揄する人影はない。

 急ごしらえではあるが今日のためにと用意したものを詰め込んだバスケットを手に持ち、野菊は歩いていく。途中、白蓮は何度も声をかけようとしたが、その度に小鳥がさえずったり、春風が吹き、彩度の低い木の葉たちが渦を作り音を立てることで、叶わずにいる。

「この辺りは、幼い頃に家族で来ていたんです。姉様は外に出ることが好き……というより、屋敷の中にいられない気質で、よく、一緒に習っていたピアノや、ワルツのレッスンを抜け出そうと言ってきて……ここから左に逸れ、あの洞窟を抜けると、湖と木の実が沢山取れる草原に出ます」

 野菊は歩きながら、遠くに見える洞窟に指を指した。所どころ苔で覆われたその場所は、周囲の木々は白く、洞窟の奥からは柔らかな光を発していて、幻想的だ。白蓮は興味深そうに足を止めると、野菊も足を止めた。

「洞窟の中の空気の濃さが外とは極端に異なり、また、洞窟を作り出しているのが、双水岩(そうすいがん)ですから、ああいう風に見えるのですよ」
「双水岩……魔道具の材料のですか?」
「はい。帝都で使われているのは加工されたもので薄めたものだと聞きますが、あれは天然もの、いわば原石です。国もなんとかしようと動いていて、調査員が過去に何百と訪れていたのですが、やはり硬度が問題で……」
「それで……」

 双水岩といえば、妖力を使って動かす道具の主原料になるもので、妖力を内側に流すことができ、さらに外側からほかの妖力を弾くことが出来るという、極めて需要が高い素材だ。

 しかし、採掘できる場所は限られ、さらにかなりの硬度で、高い妖力を持たなければ切り出しや熱で溶かすことも困難である。ただでさえ、拳ほどでも加工に手こずる品物だ。洞窟を作り出してしまうほどの大きさともなれば、戦時を想定した妖力を用いて加工しなければならない。

 さらに場所は果ての不月。何百人もの妖術士を扱い岩を切り出しても、それを今度は帝都で職人が加工するためさらに裁断しなければならない。そこまでの労力を用いるならば、今限りある場所から発掘した岩を加工するほうが、よほど効率がいいのである。

 白蓮が感心しながら歩み始めると、今度は七色の羽を持ち、粒子を発する鶴が野菊と彼の頭上を旋回した。

「あれは、現鳥(うつつどり)ですね」
「現鳥?」
「知らないのですか? あの鶴の羽は薬効作用があり、さらに飛行妖術の力を増強する装飾に使われる鳥ですよ?」
「え……! あの鳥は、馬鹿にしたり意地悪をすると必ず仕返しをしに来るとこの辺りで言われ、子らに恐れられている鳥ですよ」
「へえ」

 自分の言葉に驚いていた野菊に気を良くした白蓮は、得意げになって話を続けた。

「帝都であの鳥は貴重な鳥です。街から少し離れていたとしても、飛べば、すぐに撃ち落とされ、我先にと羽を毟られますよ」
「なら、この辺りで子供に恐れられている方が、あの鳥にとっては幸せなのでしょうか」
「そうですね。身は特に利用価値がありませんから。捨て置かれて腐るだけでしょうし」

 説明をして、白蓮から静かに目を伏せた。自分も、散々利用するだけ利用され、帝一族に捨て置かれた。このまま腐っていくだろうことも、自分と似ている。

 さっきまで言葉を交わしていた白蓮が黙ったことで、野菊は彼の顔を見つめた後、気を紛らわせるため、先ほど見た洞窟を振り返った。

「今度、あの先へ行ってみませんか?」
「え……」
「実は今日は、町の学び舎の子らが森との触れ合いの為に来ているのです。木の実が欲しい人は朝と晩に集中しますし、昼はあまり人がいません。ですから、その時にでも」

 本当なら、人に元気を出させるとき突然外に出すことはいいことではないと医者である糸川から野菊は聞いていた。しかし今日彼女が白蓮と外出したのは、白蓮が人の目を気にするからだ。

 不月の屋敷では、白蓮を表立って悪く言うことはしないまでも、帝一族から婚約破棄をされたこと、そして飛び降りをしたことで、目立ってしまう。だから、少しでも落ち着けるようにと、野菊は今日白蓮を誘った。

「まぁ、別に構いませんよ」

 白蓮は素っ気なくも、きちんと返事はする。野菊はぽつぽつと、少しずつ、白蓮と会話を交わす。彼が負担に感じないよう、答えやすい質問を選び取って。それは丁寧に砂を集めて、城を作り出すことにも似ている。柔く壊れやすいから、そっと、恐る恐る砂を盛る。壊れそうになったと感じたら、手を止める。

 そんな風に野菊が白蓮と言葉を交わしていると、目的の場所に辿り着いた。

「ここは……」

 辺りは大きな湖が広がり、淡く鮮やかな花々が、己を見てと言わんばかりに咲き乱れている。柔らかな風が巻き上がって吹いており、花弁が絶えずひらひらと舞い上がっては、静かに降り落ちてくることを繰り返していた。それまで薄暗く、日差しの一つも入っていなかったのに、辺りは燦燦と光が差して、花々を祝福するように照らしている。

「綺麗ですよね。とっておきの場所なんです。よく、姉にここに連れられてました」

 あまりの景色に圧倒された白蓮を横目に、野菊はピクニック用の敷き布を広げる。そこには野菊が丁寧に刺繍した花々が咲いていた。

「どうぞ、座ってください」
「あ、ああ」

 白蓮は刺繍の上に座ることが申し訳なく感じて、ひと際念入りに縫われた部分を避けて座る。野菊は籠から水筒を取り出して、準備していたものを器に注ぎ、白蓮に渡した。

「どうぞ。梅のはちみつ漬けをお湯で割ったものです」
「……」
「私から飲みますね」
「いや、疑っているわけではなく……」

 受け取った器をじっと見つめる白蓮を気遣う野菊が、もう一つの器にお湯割りを注いで飲んでみせた。白蓮は慌てた様子でカップに口をつけ、そしてわずかに目を見開いた。

「美味しいです。これは、貴女が?」
「はい。梅をしばらく蜂蜜と漬けて……お湯は山で取れた水を沸かすのですが、実はほんの少し、お塩を入れてるんです」
「それで、あまり飲んだことのない味が……」

 白蓮は器に注がれたお湯割りを飲み干した。野菊がさりげなくおかわりをするか問うと、遠慮がちに器を差し出す。野菊は追加を注いだ後、籠からさらに竹の箱を取り出した。

「実は、お昼のお食事も作ってきたんです」

 野菊が包みを開くと、中から出てきたのはおにぎりだ。つやつやした米粒をふっくらと握ったのがはっきりとわかるそれにを白蓮はごくりと喉を鳴らした。

「お口に合うといいのですが」

 白蓮は野菊からおにぎりを受け取って、かぷりと一口、小さくかじった。甘辛い昆布の味が広がり、もちっとした歯ごたえのある米とよく合いまた一口、また一口と食べたくなる味だと白蓮は感じた。

「どうですか?」
「……いい味だと思います」

 がっついているのだと思われないよう、白蓮はそっけなく返す。しかし野菊は安堵した様子で、途端に申し訳ない気持ちになった。一方野菊は白蓮の返事に安心して、自分のおにぎりに手を伸ばす。食べながら湖に小鳥が止まり、水を少しずつ吸い上げていく姿を眺めていると、ぼそりと呟く声が聞こえてきた。

「……あ、貴女は、食事を作られたり、するのですね」

 近年令嬢たちの間では、意中の相手に対して菓子を贈ることが流行っている。しかし今だ華族が料理をすることは否定的に見られており、野菊はそれとなく注意をされているのかとも思ったが、白蓮の声色からはそういったことを感じず、静かに頷いた。

「ええ。でも町や不月の屋敷の料理人の方たちのようにはいきませんけどね」

 野菊が、白蓮ではなく湖に目を止めたまま答える。フードから覗くその横顔は憂いを帯びていて、白蓮は時が止まったように感じた。

「……よく、姉様や、伯爵、夫人にお作りしていたので、菓子なども焼けますよ。もしよろしければ、今度一緒に作ってみませんか?」
「……そ、そうですね」

 今にも溶け消えそうな野菊の雰囲気が、ぱっといつもと同じに戻る。白蓮は戸惑いながらも返事をした。

「おにぎり、もう一つ食べてもいいですか?」
「ぜひ」

 野菊の表情は安らかで、いつもの彼女の表情だ。しかし、どこか仄昏い静けさを感じて、狼狽えていることを隠すように、白蓮はおにぎりに手を伸ばしたのだった。

◇◇◇

 湖の前で昼食を終えた野菊と白蓮は、その後何かするでもなく、ひと並びに座り、彼女が予め一口大に切っていた果物を口にしたり、ただのんびりと過ごしていた。湖では現鳥の群れが湖を縁取りながら悠々と羽を休めている。七色の羽は湖の水に沈み込み、七色の粒子は溶けこみ、彩は水の中へ閉じ込められ、静かに底へと舞い落ちている。一方で遠方の鳥たちは一羽、また一羽と湖を飛び立ち、飛沫を挙げて天へ向かっていて、野菊はただ見送りながら午後の時を過ごしていた。

「あの」

 丁度湖の中央にいた現鳥が飛び立ったとき、白蓮が野菊へ顔を向けた。ゆっくりと振り返ると、白蓮はフードは被っているものの真っすぐその天色の瞳を野菊に向けていて、彼女は何事かと心臓が強く収縮したのを感じた。

「ど、どうしましたか」
「……」

 呼びかけたにもかかわらず、白蓮は次の言葉を紡ごうとしない。口を開き、ぱくぱくと動かして、俯く。また顔をあげて、今度は口を動かすことなく俯いた。辛抱強く野菊が待つと、ようやく白蓮は「私が、倒れていたとき……」と呟く。

「食事は、貴女が作っていたと聞きました……」
「ええ。そうですよ」
「……無駄にして、申し訳、ございません」

 ぎゅっとフードの裾を掴みながら、震える声で話す白蓮を見て、野菊は驚き固まって、すぐに首を横に振った。

「そんな、私に謝る必要なんてありませんよ。それに、体調が悪い中で無理に食べてしまったら、身体に響きます。気にしないでください」
「でも……」
「それに、私は白蓮様が元気になっていただけたらと用意したのです。食べてもらいたくて作ったわけではありません。今こうして、食事はとれているのですからそれだけで十分です」

 屈託なく野菊は笑う。より白蓮は申し訳ない気持ちになって「何か」と俯きがちに彼女を見た。

「貴女の手伝いになるようなことがあれば、したいと思っています……」
「手伝い……」
「何か、ありませんか?」

 白蓮の言葉に、野菊は考え込む。そして一つ思い至ると、彼に真剣な表情を向けた。

「あります。していただきたいことが一つ」
「なんですか?」
「それは……」

 野菊は言いかけて、ぴたりと止まる。そして空を見上げ、その後少し視線を落としてきょろきょろ周りを確認すると、晴れやかだった青い空は彩度も明度も低く分厚い空に代わり、わずかであるが遠くからは雷鳴が響いている。

「少し、天気が悪くなってしまいそうですね……まだ来たばかりですけど、撤収の準備はしておきましょう」

 てきぱきと撤収を始める野菊に、白蓮は手伝いの内容が何か問うことが出来なくなる。せめて撤収の支度はできないかと恐る恐る白蓮は敷布を畳もうとする野菊へ手を伸ばした。彼の意思を汲むように、野菊は反対側を渡した。そのまま、折りたたんで、離れてしわを伸ばして長くある面を折っていくと、運びやすい大きさへと変わっていく。二人はそうして敷布を小さくして、品物を片付け籠に詰めると、足早にその場を後にしたのだった。◇

 共に出かけて翌日のこと。白蓮は窓辺に立ち、中庭で花を見て回っている野菊をこそこそと陰から見つめていた。

 昨日の夕食は、野菊と出かけたことで、広間で食事を摂るのかとばかり思っていたが、変わらず自分の部屋に食事が運ばれてきて、部屋から出ずとも何も言われず、ただいつも通りそっとされていることに戸惑いながら彼は一夜を過ごしていた。

 そして朝はどうだと考えてみれば変わらず治郎吉が食事を持ってきたことに拍子抜けして、自分の身の置き方に悩んでいる。

「どうしたんすか? なんか困ってるんすか?」
「うわっ」

 突然後ろからぬっと現れた治郎吉に白蓮は心底驚いた。「ノックぐらいしていただけませんか?」と遺憾を示せば治郎吉が「したっすよ〜」と大して悪びれもせず答え、白蓮は眉間にしわを寄せた。

「一体何の用です?」
「旦那様に用はないっすよ。花瓶の水を入れ替えに来たんす」

 治郎吉は、白蓮が初夜に倒れたことを知り、馬鹿にしないまでも自分と同類だと感じていた。さらに除名だけではなく決定的に家から否定されたというところも似通っており、早い話敬いの対象から完全に外し、職場に入ってきた新入り程度の認識で見ていた。

「旦那様は何してるんすか? 杏梨みたいに覗きっすか?」
「はぁ!? な、なんで私がそんなことを」
「だって野菊様のこと陰からちらちら見てるじゃないっすか。なんすか。捧生の指輪なんとかして奪えないか考えてるんすか?」

 治郎吉の言葉を、白蓮は否定しようとした。しかし即座に治郎吉は「無理っすよ」と何の気なしに続ける。

「野菊様、不月でいっちばん長く生きてる婆さんのとこ行って、どうにか旦那様の捧生の契約外せないか聞いてたっすけど、駄目って言われたらしいっす」

 白蓮は、その言葉に驚いた。まさか野菊が自分の捧生の指輪を何とかしようとしてるなんて、思ってもみなかったからだ。

「それはいつの話だ」
「旦那様が屋敷に来る前っすね。婆さんから聞いて〜そんでもって婆さん、下手なやり方したら茜様に気づかれるからやめろって言ったらしいんすけど、野菊様腕切り落としかねないから、気を付けてくれって」
「腕を切り落としかねないって……」
「やるっすよ。あの人は。自分の身体に興味ないっすもん」

 治郎吉が花瓶の水を入れ替えながら、ふざけるわけでもなく言う。白蓮はその意味に愕然とした。

 花瓶を置いた治郎吉は、「じゃあまたっす〜!」と軽快に部屋を後にする。昨日見た表情といい、野菊の心根が分からず白蓮は混乱したまま立ち尽くしたのだった。

◇◇◇

「刺繍をしませんか?」

 散策から翌日の昼。食事を終えた野菊は、裁縫箱を持って白蓮のもとを訪れた。

「……もしかして、それが、手伝いということですか?」

 戸惑いがちに問いかける白蓮の問いかけに、野菊が机の上に裁縫箱を開きながら頷く。野菊の手伝ってもらいたいこと、それは刺繍だった。

 大体が同じ動作の繰り返しで、簡単なものであれば目に見えてすぐに結果が分かる。

 だからこそ、成功体験を積み重ねて白蓮の気力を取り戻すにはうってつけだと考えていたのだ。

 野菊は刺繍枠をはめた白いハンカチを取り出して、白蓮に差し出した。

「まずは、私と同じ柄を縫ってみましょう?」
「私は、一度も針を持ったことはないですよ? 私より適任な人間はいくらでもいると思いますが……」
「大丈夫です。私も初めは針を持ったことがありませんでしたし、失敗してもいいんです。解いてまた上から縫ってしまえばいいのですから」
「……」

 白蓮は恐る恐る白いハンカチを手に取った。ハンカチには薄く線が引かれていて、そこに刺繍を入れていくだけでいいようにしてある。野菊が裁縫箱を開いて、針を選び取り、白蓮には沢山の刺繍糸が並ぶ小箱を向けた。

「どんな色がいいですか? 好きな色で大丈夫ですよ」
「好きな色と言われても……」

 箱には、春の花々の印象が強い淡い黄色や桃色など暖色の糸、深みを帯びた枯れた青や緑の寒色の糸と画家の絵具箱と見間違えんばかりに様々だ。自分の好きな色すら存在しない白蓮はしばらく考え込んだ末に、白いハンカチを縫うならば、濃い色が見やすいだろうと効率を重視して濃藍色の糸を指した。野菊は手早く針に糸を通して、白蓮に渡す。

「では、私から始めますね」

 野菊は桃色を選び取り、糸を通した。そして白蓮の隣に座って、ゆっくりゆっくりと布に針を通していく。白蓮も見よう見真似で彼女に倣った。もう一度針を刺すと、野菊のハンカチには桃の点が、白蓮のハンカチには藍の点が取り残された星座のように浮かんだ。

「もうこれで完成したのと同じですよ」
「そんなはずがないでしょう」
「でも、これと同じ作業を繰り返すのです」

 野菊は少しずつ針をハンカチへ入れていく。白蓮は彼女の動きをよく観察して手を動かした。しばらくそうしていると、ぽろりと白蓮の針から糸がすり抜けてしまった。

「あっ」
「貸してください」

 野菊は手を止め、彼の糸を通してやる。「こうして入れなおせばいいだけなので、大丈夫ですよ」と落ち着かせる言葉をかけながら。白蓮が線に合わせ黙々と縫っていると、徐々に淡く引かれた炭の曲線は鮮やかな藍に覆われていく。

 ハンカチに針を刺して、糸が絡まらないようしごいて、また針を通していく。それらを繰り返し、窓から差し込む光の角度が変わり、野菊たちの手元に影が差したころ、とうとう二人の炭の線は完全に糸に覆われて消えた。

「そして、縫い終わりはこうするのです」

 野菊が手本を見せると、ゆっくりゆっくり白蓮も後に続く。野菊が余った刺繍糸を金細工の鋏で切り落としてやると、それまで縫うのに夢中で気にしていなかった図面の全体像に白蓮ははっとした。

「白蓮様の頭文字です。これは、白蓮様のものです。どうぞ」

 野菊が刺繍枠を外したハンカチを彼に差し出す。藍色の刺繍を見て、白蓮は感動したようにそれを眺めている。

 曲線を描いた白蓮の頭文字は、図面が筆入れの部分はほっそりと、そして止めの部分はあえて強く力を入れた時のものになっており、ただの文字よりもずっと映えて見える。やや拙い部分はあるものの、糸の並び部分は均一で、初めてながらに秀逸な出来栄えであった。

「少しずつ点を作っていって、綺麗な刺繍ができていくのですよ」
「き、昨日の敷き布も、同じようにするんですか?」
「はい。いくつか違う縫い方も含まれますが、大元を辿れば同じですよ。どうですか、刺繍は」
「こうして、結果が出るものは好きです」

 白蓮の言葉に、野菊は胸が痛くなった。宰相の座を失くし、好きな人との婚約を解消されてしまった彼を想い、言葉を失う。けれどぎゅっと手のひらを握りしめて、「またしませんか?」と問いかけた。

「ええ。是非」

 白蓮が午後の日差しを受けながら優しく微笑んだ。やや弱々しくあるものの、野菊は内心安堵する。

「それにしても、時間が過ぎるのがあっという間に感じました。っいてて」

 時計を見ながら伸びをした白蓮が、腰をさする。野菊は「夕食までまだ時間があるので、良ければどうぞ」と包みを取り出した。渡された白蓮が包みを開いている間に、野菊は杏梨を呼び、茶を淹れてきてほしいとお願いする。

「疲れた時には甘いものが一番ですからおはぎをと」

 野菊が、今度は白蓮と向かい合って座った。包みにはおはぎが入っている。しかし白蓮が帝都でみていたおはぎとはやや違っていた。

「これは、くるみですか」
「はい。砕いて炒った胡桃をあんこにまぜてるんです」

 杏梨が茶を淹れるのを待ってから白蓮がそれを口に運ぶと、木の実の歯ごたえと、優しい甘さが口に広がった。茶を一口飲むと、菓子のために調整されているのか、さっぱりと、どこかぴりりとしていて白蓮は驚いた。

「もしかして、茶も変えてあるのですか」
「はい。杏梨にお願いしたんです」

 野菊は、笑って湯呑に口をつける。そして思い出したように白蓮に目を合わせた。

「ハンカチは、貴方のものですから、どうぞ使ってくださいね」
「わ、分かりました」

 あなたのもの。白蓮が反芻しながら手元のハンカチを見て、藍色の刺繍をなぞる。久々に疲れを感じそのあとに甘いものを食べたのか、何かを完成させたからか、珍しく満たされた気持ちで、白蓮は茶を飲んだのだった。

◇◇◇

「できました。現鳥です」

 朝食を終え、野菊が中庭を散歩していると、白蓮が向かいからずんずんと足音を立てる勢いでやってきた。見せつけるよう広げられたハンカチには一面に青空を背景に大きく羽ばたく現鳥の姿がある。羽は七色で、粒子も散り、その身は糸を重ねたことで立体的で、嘴は今にも子供の頭を突かんという迫力だ。空も水色一色ではなく、遠くは淡く、高い場所は色濃く段階的に色を変えているため、空間が広がって見える。

 白蓮が野菊に刺繍を教わって二週間。彼の刺繍の腕は留まることなく上達し続け、名前の頭文字を恐る恐る刺していた姿から一変し、色合いを変え多様な色味を使い、異なる技法を扱い、複雑な曲線も難なく針を入れるまでになった。元々凝り性で、気になることはとことん突き詰め高みを目指し、静かな作業を苦に思わない彼の気質と、作業中に目に見えて結果が分かり、人を必要としない単独で行う刺繍が見事に合致したのだ。

 さらに、白蓮は眠りが浅く、夜起きて何もせずいることも多かった。しかし今、彼には刺繍があり、眠れなければ手を動かし、また眠りにつくという生活をしていた。

 もっといえば、彼には今何もすることがない。日中ただ窓を眺めたり他人の気配を気にしていた時間がすべて刺繍に変わり、分からないことがあれば野菊を呼べばすぐに来ることから、刺繍を上達させる環境は、完璧といっていいほどに整っていた。

「まぁ、輝いて見えるようここに白を入れているのですね……完成まで大変だったでしょう……これは、額に入れておきましょうか」

 さらに、白蓮は刺繍の話題に関してならば、野菊に滞りなく声をかけることができた。

 よって、このままならばなんとか彼女と落ち着いて話ができるのではないかと考え、元々の承認欲求の高さもあり、出来た刺繍を野菊に見せることを続けていた。

「ずっと思っていたんですけど……、白蓮様、一度その刺繍を誰かに贈ってみるのはどうですか?」
「はい?」
「実は、墓守を勤めているお婆様にケープを編んだのですが、どうも見目がしっくりこなくて、よければ白蓮様に刺繍を入れていただきたいのです」
「あなたが刺せばいいのでは?」
「もう、幾度となく刺繍を入れたものを贈っておりまして……私の入れたものは飽きたと……」

 なぜ、他人の刺繍を飽きたなどという老人のケープを刺繍してやらなければならない。白蓮は率直にそう思った。しかし野菊は話を続ける。

「私だけでは、勿体無いですし……、使用人の皆さんに見られることに気後れなさっているのでしたらと思っていて、ならばと……」

 野菊は、毎日自分のもとへ刺繍を見せに来る白蓮を見て、彼の才能を感じていた。

 ほかの人間も間違いなく白蓮の刺繍を見て喜び顔をほころばせるはずなのに、彼は

「使用人なんて皆口をそろえて褒めるにきまってますよ。相手は主なのですから」と言い、屋敷に飾ったり見せることを躊躇った。

 よって野菊は使用人ではなく、みな子に白蓮の腕を見てもらおうと考えたのだ。みな子は口が悪くそっけない老人であるが、嘘だけは吐かない。野菊の最後に贈った刺繍に向かって放った言葉も、「腕も色選びの目もいいけどね、作った人間が同じだから飽きるんだよ。いやがらせかい?」だ。

 白蓮の刺繍を見れば、きっと彼の腕を率直な言葉で認めてもらえるに違いないと考えていた。

「でも……」

 一方の白蓮はといえば、ただの墓守の老人に刺繍して自分にどんな益があるのかと返事を躊躇っていた。

「お願いします。みな子さんは嘘も吐かない方で、お世辞を言ったりすることは絶対にありませんし、わざとらしい態度で接してくることは絶対ありませんよ」
「みな子?」

 その名を聞いて、白蓮の目の色が変わる。みな子は、野菊が捧生の指輪の相談をしていた老婆だと気付いた彼は、すぐに頷こうとして、慌てて咳ばらいをした。

「し、仕方がないですね。そこまで頼むなら構いませんよ。時間はありますしね」
「ありがとうございます!」

 野菊の喜びように、白蓮はふいっと目をそらした。「で、大体いつ頃完成させればいいのですか」と問いかけると、彼女は「出来たらで大丈夫ですよ」と答える。

「は?」
「出来たら渡しに行こうと思っているので、その時で大丈夫です」

 なんだそれは。今作れということか。白蓮は気が遠くなりながらも野菊からふんだくるようにケープを受け取る。

「柄は?」
「何でも好きなものでいいですよ。好きなものを聞いたら、好きも嫌いもない、とおっしゃっていたので」

 本当に、なんなんだそれは。白蓮はどこか自分が野菊の手のひらの上で踊らされているような気がして、むしゃくしゃした気持ちでケープを掴み「じゃあ縫ってきますよ」と中庭を後にしたのだった。

◇◇◇

 野菊から刺繍を依頼され、翌日の昼間、白蓮は中庭でケープを握りしめていた。

 白蓮は、計画の立たないことが嫌いな男である。自分で目標を決め、こつこつと計画を立て実行することはできても、他人に突然課題を投げられいつでもいいと言われると困ってしまう。

 彼は大抵他の予定を鑑みて、突然入ってきた仕事に最優先の順位をつけて無理にでも消化して、事なきを得ることを繰り返してきた。

 よって、今回も白蓮はケープを縫い、不月の屋敷のあちこちに竜を象った家具があることを思い出し、ケープに竜を刺繍していた。

 あまり原型を留めた図面だと老婆にはいささか厳めしい気がして、身体は色とりどりの花にした。遠目で見れば竜に、近くで見れば花々の刺繍に見える一品で、彼自身会心の出来だと自負がある。このまま使用人に包ませ野菊に送り届けてやるのもいいが、まずは見せてやろうと彼が野菊の部屋に向かうと、ノックをしても返事がない。では中庭かと姿を探しても、そこには誰もいなかった。

「旦那様。どうされましたか?」

 待っていればここに来るか、それとも部屋の前で待つか考えていると、庭の真ん中で仁帝立ちしている白蓮の背中に声がかかった。振り返ると洗濯物を取り込んだ侍女の杏梨が首を傾げている。

「……野菊様の姿が見えないのですが……今どちらにいるかご存知で?」
「いいえ……もう午後ですから、墓参りへ向かわれているではないと思うのですが……」
「誰のですか?」
「えっ、決まっているじゃないですか。野菊様のお父様とお母さま、そしてお姉さまの百合様のですよ」

 杏梨の言葉に白蓮は霧が晴れたような、奇妙な感覚がした。そもそも自分がこの屋敷に来てから、自分のことで精いっぱいで気に留めなかったものの、野菊の伯爵や夫人、そしてその姉、百合は亡くなっている。

 婚姻はあまりに急で相手の家を知ることより自分の身の潔白をどう主張するかだけを考え、そのあとは家に戻れないと絶望し、不月の家について考えたことは、今の今まで一度たりと無かった。

 まだ帝都にいた頃、不月の夫妻とその娘が事故で亡くなったことは新聞、そして華族たちの間を瞬く間に駆け巡り、しばらく夜会はその話題で噂になった記憶が白蓮には確かにある。

 夏のある日、突然降った大雨により、夫妻とその娘が乗った馬車は崖から落ちてしまったのだ。夫妻には血の繋がらない養女がいて、実の娘は死に養女だけが生還したことから皮肉だと言われ、しばらくの間華族たちの話題の種となっていた。

 思い返してみれば野菊は深い紫の髪に赤い目をしている。一度白蓮は帝都の防衛会議の際、不月当主と夫妻を見たことがあった。野菊とは異なる色合いであり、そもそも野菊は、この国であまり見ない容姿をしていた。

 不月の養女は、死神だ。あの娘が死を招いたのだ。

 誰かがそう言ったような記憶が、白蓮にはある。白蓮が以前野菊を死神令嬢と罵ったのは、毎日毎日黒を身に纏っていたからだ。どう見ても辛気臭く、また自分を迎え入れる時も同じで馬鹿にしているのかとすら思っていた。

 しかし、彼女が死神令嬢と呼ばれる由縁が、家族の事故にあったのなら。

 なんてことを言ってしまったのだろうと、白蓮は愕然とした。ケープを持ち顔を青くする白蓮を見て、杏梨は怪訝そうにする。

「どうしました、旦那様……あ。野菊様」

 会い辛い。直感的に白蓮はそう思ったが、彼が振り向くとすぐ近くに野菊は来ていて、逃げるに逃げられなくなった。さらに杏梨が「旦那様、今ちょうど野菊様を探していたのですよ」と付け足したことで、退路は完全に絶たれてしまう。

「白蓮様、どうされたのですか……あ、それってもしかして……」
「そうです。ケープが完成しました」

 白蓮は出来上がったそれを野菊に渡す。上手く視線を合わせられずにいると、無邪気に感心する野菊の声が聞こえて、白蓮は胸が痛くてどうしようもなくなった。

「では、私はこれで……」
「待ってください。これ、せっかくですし明日持っていきませんか?」
「えっ」
「早くみな子さんに見てもらいたいですし……。白蓮様、明日のご予定は空いていますか?」
「空いているも何も、私に予定なんてありませんが」

 不貞腐れた声色になってしまい、白蓮は俯いた。しかし野菊は気にすることなく「では、明日持っていきましょう」と笑いかける。

「あっ、そうだ。せっかくですし、焼き菓子でも焼いて持っていきましょう。良ければこれから作りませんか?」
「これから?」

 白蓮が驚いている間にも、野菊は「はい!」と明るい返事をして、どんどん杏梨と話を進めていく。

「杏梨、厨房は空いていますか?」
「はい。料理人たちは買い出しの時間ですし、大丈夫ですよ」

 野菊は早速と言わんばかりに厨房を目指して歩き出す。白蓮はそんな野菊に引っ張られるように、しかし手を捕まれることもなく彼女の後を追ったのだった。

◇◇◇

「では料理をしましょう!」

 野菊は、厨房に向かうと黒い着物から、暗い色のエプロンと軽装に姿を変えた。いつだって野菊は黒を身に纏って、露出も殆どない。しかし今日は二の腕あたりまで露わになっていて、その細さや白さに白蓮は驚いた。

「どうされました?」

 自分を凝視する白蓮に、野菊が首を傾げた。彼は咳ばらいをしてふいと顔を背けると、すぐ目の前に真っ白な前かけが出された。

「白蓮様のものです」

 白蓮は、野菊にこそこそ食事を運んで以来、なんとなくローブを被っていたり、被っていなかったりする。自分でこそ理由はわからないが、なんとなくローブがないと不安な時とそうではない時がある。そして今日彼はローブを着ている日で、野菊の気遣いはありがたいものだ。

「……どうも」

 白蓮は野菊から目を反らしながらローブを受け取り、それを身に着ける。彼女に倣って袖をまくり、言われるがまま手を洗うと野菊は「では!」と麦の粉や大きな瓶をいくつも取り出した。

「今日は異国で人気の焼き菓子を作ります。まずは、生地作りです。そのあと上にのせる苺を煮て、二つを合わせて完成になります」

 白蓮は目先の計画が立たないことが苦手だ。野菊に自分の気質が知られているのか、自分をよく見ているのかと考えている間に、彼女は深皿に麦の粉、バター、砂糖を入れ始め、「こうやって切るように混ぜてくださいね」と器具を渡してきた。

「私は初めてですよ? 人に渡すものを任せていいのですか?」
「大丈夫です」

 安心させ言い含める声色に、白蓮は幼子として扱われているのかと不服に感じながら手を動かし始める。雪のようにさらさらした粉や砂糖たちは、バターと混ざり合いぽろぽろとした塊になっていった。まだ混ぜるのかと思いながら野菊のほうに目を向ければ、彼女は山苺を刻んでいる途中だった。その華奢な指先を艶めいた赤で染まり、白蓮はどきりとする。

「あ。そろそろ卵を割り入れたほうが良さそうですね」

 野菊は生地を見て手早く手を洗い、卵をぽんぽんと片手で軽快に割り入れた。指示されるがまま白蓮が混ぜていくと、ばらばらだったものが卵液と混ざり合い徐々にクリーム状に姿を変えていく。野菊はさらに追加で牛乳を加え、深皿の中身はとろとろの液状のものへと変化した。

「こんな風に、変わっていくんですね……今は液状なのに」
「はい。最終的には綺麗なケーキになりますよ」

 野菊は苺を煮始めたため、もう手は赤く染まっていない。なのにどこか落ち着かず白蓮は視線を彷徨わせる。甘酸っぱい苺の香りが部屋いっぱいに広がって、ケーキを食べている時よりずっと甘く感じ喉の渇きを強く感じた。

「味見しますか?」
「え」
「山苺のジャムです。まだ完成ではないですけど、この辺りの山苺はとても甘みが強いので、煮詰めなくても美味しいですよ」

 野菊に小皿を渡され、白蓮は戸惑いながら口をつける。舌先に酸味を感じた後に、すぐに強い甘みが迫ってきた。

「少し檸檬を足して酸味を加えますか?」
「どうでしょう……」

 心ここにあらずな返事に、野菊は迷いながら鍋の木べらを動かす。その姿を見て白蓮は何とも言えない気持ちになった。

 今まで野菊がこうして料理が出来ることは、彼女の特性のようなものだとばかり思っていた。しかし、その身に降りかかった不幸を知った今、その特性は本当に彼女が望んで得たものなのかと疑問が残る。そうして得た負の遺産を、自分を死神令嬢と罵った男に惜しげもなく与えてしまう野菊を思い、ぎりぎりと胸が締め付けられた。

「……すみませんでした」
「え……」
「死神、令嬢なんて、言ってしまって。それと、他にも、お前なんて、好きになるわけないとか、利用価値がないだとか、言って……」

 ぽつぽつと、それも突然反省の言葉を発し始めた白蓮に野菊は驚き、手の動きを止めた。

「貴方だって、望まぬ婚姻を強いられた被害者であったのに、俺は、いつだって被害者ぶって、食事だって取らず、捨てさせて。お礼の一つも、言わないで……」

 白蓮は握りしめていた調理器具から手を離し、野菊に向かって頭を下げる。軍人としての最上位、帝一族相手にしかしない傅き方をした彼に、野菊は慌てて首を横に振った。

「やめてください白蓮様。もう過ぎたことです」
「そんなことはありません。したことは消えない。……本当に、申し訳ないことをしました……」

 一歩も引かない白蓮に、野菊は戸惑い、どうしていいか分からずただただ彼に向かって伸ばしかけた手を彷徨わせた。

「白蓮様……」
「すぐに、謝ることも出来ず、避けておりました。どう謝っていいか、分からなかったんです。二十五年と生きて、酷いことをして、どんな風に謝れば、いいのかということも……それに、私は、お礼すら貴方にまともに伝えられなくて――」

 白蓮の言葉に、野菊が自分の手のひらをきゅっと握りしめた。自分には、謝罪される価値なんてない。人殺しなのだから。しかしそれを言い出せず。口を引き結んだ。静かに目を閉じ、三人の最後の表情を思い浮かべ、彼女は目を開く。

「……私は、かつて、かつて罪を犯しておりました。白蓮様が知らない、私がいるのです」
「野菊様……」
「私は、もうその罪を、終わりにすることが出来ません。でも白蓮様は、終わりにすることが出来ます。ですから」

 野菊が、震える手で白蓮の肩に触れた。そして彼の夜空色の瞳を見つめる。

「今日で、終わりにしましょう。これからを、考えましょう」

 白蓮の言葉を待たず、彼女は「お願いします。これから」と頭を下げる。白蓮はしばらく見つめ、やがて「分かりました」と頷いた。

「ありがとうございます、野菊様」
「いえ。……ケーキ、作りましょう。後は焼いて、上にジャムをのせるだけですから」

 作りかけの材料を示し、野菊は白蓮の方へ向く。白蓮は頷いて、二人は作業を再開したのだった。

◇◇◇

 麗らかな午後の昼下がり。赤々と熟れた木苺が豊富に実る不月の森の小道を、野菊と白蓮が並んで歩いていく。

 小道はきちんと舗装されていて、赤銅色の石が均等に墓地まで並んでいる。墓地に近づくたび、実りある青々とした木は、墓地に近付く度にが色味を失っていった。やがて漆の竜のアーチが見えてて、そばでは墓守の老婆、みな子が大きな箒をもってあたりの枯葉をさらっているところだった。

「みな子さん」
「ああ、また来たのか」

 野菊が手を振ると、みな子は分かったと言わんばかりに頷き、素っ気なく手を上げる。

 偏屈な老人と聞いていたものの、あまりに愛想のない老婆を見て、白蓮はぎょっとした。

「こんにちは、みな子さん。えっと、こちらが――」
「なんとなく見りゃ分かるさ。あんたの旦那だろう」

 みな子が胡散臭いものを見るような目で白蓮を見る。ぎょろりとした爬虫類を思わせる老婆の目つきに彼はやや後ずさりながらも、挨拶をした。

「えっと、白蓮と申します。よろしくお願いします」
「みな子だ。あたしゃ骨になってない人間とよろしくすることはないよ」

 ふん、と鼻で笑われ、白蓮は眉間にしわを寄せた。みな子は気にすることなく野菊に向き直る。

「で、婿を引き連れてなんでお前は墓場なんて来てるんだい。そこを下ったところに湖でも何でもあるだろうよ。正気かい?」
「今日はみな子さんにケープとお菓子を持ってきたんです」
「本当にお前は物好きだねえ。あたしなんかに構ってそのうち愛想つかされても知らないよ」

 歯に衣着せぬみな子のやり取りと気に留めない野菊の問答を見て、白蓮は圧倒されてしまう。しかしすぐに「彼が刺繍をしたのです」と話の矛先を向けられはっとした。

「えっと、僭越ながら私が刺繍をさせて頂きました」

 一応微笑んで見せたものの、みな子は白蓮の顔など目もくれずケープの刺繍に、竜に見入っていた。余程気に入ったのか、それとも逆か、ただただ黙って微動だにしない。

「竜か……腕がいいね。これで婿殿は生きるつもりかい?」
「いっいえ、そんなつもりは……」
「色遣いはまだまだだけど、技術は街で物売りしてる奴らと張り合えるよ。陰気な嫁の言いなりになって死にかけの婆の相手なんてしてないで家に金を入れな」

 どう返事をしていいか分からず、白蓮は口ごもる。みな子は「でも、これは貰っておくよ」とケープをひっつかみ、顎でついてくるよう二人に示した。

「茶くらいは出せるけど、どうするんだい」
「どうしますか?」

 みな子の言葉に、野菊は白蓮の顔色を窺った。彼もまた「私も予定はありませんので」と頷く。無理はしていない様子に安堵して、野菊がみな子に笑いかけた。

「では、お言葉に甘えさせてください」
「ふん。じゃあついてきな」

 二人そろってみな子の後ろについていく。墓守は基本的に墓の近くに住むもので、みな子の住んでいる小屋は、丁度墓場の裏手の墓参りに来る人間が通ることのない崖を背にした位置に建っている。円筒状の壁は黒く平たい屋根には鴉が羽を休めていて、遠方から見れば大きな墓にも見える外観だ。

「中にお入り」

 壁と同色の木造りの扉を開いて、みな子が中に入るよう促す。野菊は普段通りの様子で、白蓮は緊張した面持ちで入っていった。中は外見で見た通り、丸い円筒の部屋で壁伝いに棚と一体化した螺旋の階段が続いている。寝泊まりしているのは二階よりも上で、一階は食事や客人をもてなす場所として使っているらしく台所と中央に四角い机、四人掛けの椅子が並んでいた。

「ったく、立て付けが悪いったらありゃしない」

 最後に家に入ったみな子が大きな音を立てて扉を閉じ、野菊を呼んだ。

「わざわざ西洋かぶれのこじゃれた菓子なんて持ってきたんだから責任もって自分で切りな。老いぼれの手に切らせたらせっかくの努力が無駄になるよ」
「はいっ!」
「で、婿殿はこれで机を拭きな。座っておやり。彷徨かれるのは好きじゃないんだ」

 みな子の視線の先、白蓮は部屋の中央の椅子に座った。階段の用途も兼ね備えている棚には、二百年ほど昔の年代が書かれた書物が所狭しと並んでいる。部屋を半分に分割するように、片側は図鑑や賭博誌。もう一方は恋愛色の強い物語や料理に関するものと区分けされていた。白蓮が見入っているとケーキを切り分けた野菊が戻り、みな子が緑茶を並べた。

「茶だよ。堤戸の華族様の口に合うかは分からんけどね」

 野菊と白蓮が並び、みな子と向かい合って座る。みな子は野菊たちの焼いたケーキを見て「見た目につり合う味だといいけどね」と皮肉めいた声色で言ったあと、白蓮に顔を向ける。

「で、なんで婿殿は老人の本棚をじろじろ見ていたんだい」
「いえ……あの、かなり昔の書物があるのだなと思って……。あと、あの、ああいった物語を読まれるんですね」
「ふん。あんなものあたしは読まないさ。あれは同居人の本だよ」
「同居人……ご主人ですか?」
「まあそんなもんだね。あたしのことほっぽって、海の向こうにひとっ飛びさ」
「それは……、すみません。聞いてしまって」
「別に構いやしないさ。どうしたって命が違えば死に別れるしかない運命なんだから。はぁ、本当に、ろくでもない男に捕まっちまったよ」

 みな子は身に着けている牙の首飾りを握りしめた。白蓮は話を変えようと、首飾りに視線を向けた。

「この辺りの方は、皆竜神教に入っているようですね」
「らしいね。竜なんてろくなもんじゃないよ」
「そうなんですか?」
「ああ。あれらはね、人間とは異なる時間に生きてるんだ。人間がどうこうする相手じゃないんだよ。それにここら辺の馬鹿どもは神様扱いしてるけどね、全然竜神様なんて高尚な存在じゃあないのさ。蜥蜴と一緒だよ。台所に出て嫌がられるそれらと何も変わらない」

 鼻で笑うみな子を見て、白蓮は疑問に思った。みな子は今、竜の牙の首飾りをつけている。しかし、口では獣と一緒などという。そして、部屋には竜の痕跡は見られない。

 野菊に視線を向ければ、静かに茶を見つめているばかりだ。

◇◇◇

「で、だ。お前さんたち、帝一族の末姫様と平民男の結婚祝いには行くのかい」

 みな子の言葉に、野菊は心臓がはねた。茜と剣士階の婚約は、祝いの場で発表された。ということは、近い時期に結婚祝いが開かれ、正式に祝うということだ。

 招待状こそまだ来ていないが、辺境の管理権限が今年いっぱいはある以上、必ずそれは野菊と白蓮のもとに届く。

 白蓮は、窓から身を投げるほどの絶望に至った茜と顔を合わせなければならないのだと、野菊は届いた時のこと、そして出席か欠席のどちらを選べばいいのかと決めかねていた。

「帝一族主催といえど、今年からもう私は管理者の権限を譲渡致しますから……」

 弱々しい声で返事をする野菊の横顔を、白蓮はちらりと盗み見る。彼は茜への恋心を持ち合わせていなかった。彼女と婚約し、ともに旅をしたとき、彼の心にあるのは常に自分であり他者をそこへ入れたいとも、誰かの心に触れたいと思うこともなかった。

 よって、白蓮は野菊が俯き辛そうな表情を浮かべることについて、祝賀祝いの日に捧生の指輪によって見世物の扱いを受けたこと、元々死神令嬢と揶揄され忌むべき存在として扱われているからだと結論付けた。

「私も、同じ意見です」

 野菊の言葉に続き、白蓮が頷いた。みな子は「いいんじゃないかい。帝都も今や安全な場所じゃないからね、東に妖魔が出たから」と忌々しそうに窓の外へ目を向けた。

「なんです、東の妖魔とは」

 みな子のつぶやいた言葉に、白蓮がすぐに食いついた。野菊は言いづらそうにつぶやく。

「東にまた、妖魔が出たらしいのです」
「え……」

 白蓮は愕然とした。東の妖魔は、白蓮や階、茜の率いた軍の手で完全に討伐したはずだった。

 妖魔が無尽蔵に生み出されていた沼地も茜が封印をして、下級の妖魔は近づいただけで消滅するよう、強い妖術もかけてある。にもかかわらず、なぜ妖魔が出るのか。考えても白蓮は思い当たることなく、新たにまた強力な妖魔が沸いたのだと結論付けた。そして、新たな妖魔が表れてもなお、自分に声がかからないことに、完全に国から必要とされなくなってしまったのだと悟り、誰にも気付かれないよう拳を握りしめる。

「それで、軍の状況は……?」
「視察のために軍を派遣したと、先日文が届きました。念のため、気を付けるようにと……」

 みな子から話を聞いていた野菊のもとに、東の状況を知らせる文が届いたのは、彼女から聞いて十日のことだった。

 国の防衛にかかわる伝達は東と西の果てに最も早く届くようにと決められているため、帝一族の対応の遅さが如実に表れていた。

「帝一族は大事にしたくないんだろうねえ。あんな演技がかった平和を大々的に示してしまったのだから」

 その言葉が、白蓮の心に重くのしかかる。自分を呼ばないのは、出るほどのことでもないからではないか。いま野菊に妖力の権を譲渡されているから呼ばれないんじゃないか。だから呼ばれないだけで、きっと、自分が無能だからと、血を吐くほど努力した妖術の腕の評価が完全に落とされたわけではないはずだ。ぐるぐると思考は渦を巻いて、白蓮を苦しめ、彼は視線を伏せた。

 野菊はそんな白蓮を見て、机の下で自分につけられた捧生の指輪に触れ、みな子と会話を交わしながらも自分の無力さを呪ったのだった

◇◇◇

「今日はありがとうございました」

 夕焼けに染まる森の小道を並んで歩きながら、野菊は白蓮に話しかける。みな子が見送る元、小屋を後にして、白蓮はずっと考え込んだ様子で物思いにふけっていた。そして今はといえば、追い詰められた様子はなくただ前を見据えて歩いており、野菊は今だと声をかけたのだ。

「……え」
「刺繍と、あと、一緒に来るお願いを聞いてくださって」
「別に、捧生の印がある以上、私が貴方の許可なしにどこかへ出かけることは叶いませんからね。身体を動かしたいとも思っていましたし、丁度良かったんですよ」

 捧生の印は、隷属契約や奴隷契約とも呼ばれており、指輪の所有者により激痛を与えられるほか、所有者の定めた場所を動こうとしても立っていられないほどの痛みを受けるものだ。

 よって、白蓮は、野菊の同意なしに外に出ることは叶わない。けれど、野菊が自分を屋敷に留め置くような人柄でないことも、なんとなくここ一か月の彼女の行動で分かってはいた。

「でも、それでも……ありがとうございます」
「別に」

 白蓮が呟いて、静寂が訪れる。遠くでは滲むように赤い夕陽が沈もうとしていて、二人の影がより濃いものになった。逆光の光がお互いの顔を見えなくして、野菊も白蓮も、ただ黙って歩いていく。

「これ、どうぞ」

 ぽつりと何気なく言われ、野菊が振り返ると白蓮がハンカチを差し出していた。

「え……?」

 白蓮が野菊に不機嫌な調子でハンカチを押し付ける。彼女がそれを開くと、ハンカチにはともに見た花畑の花々が輪飾りになっている刺繍が入れられていた。

「契約上、貴女は私の妻です。にもかかわらず、初めて贈る刺繍が知人になる老婆では、問題があるでしょう」

 初めての刺繍。それだけではなく、白蓮からの初めての贈り物だ。ハンカチを見て野菊は胸がいっぱいになって、目を輝かせた。

 優しい微笑みを浮かべた彼女に、今まで笑顔を見たことが見たことがなかった白蓮が目を見開く。その瞬間、二人の間に花びらをまとった大きな春風が吹き抜けて、慌てて野菊はハンカチを握りしめた。

「あ、ありがとうございます。白蓮様」
「……別に、最低限の義務ですから。それより暗くなりますよ。行きましょう」

 置き去りにするように、白蓮は背を向ける。野菊はハンカチを亡くしてしまわぬよう、大切に大切に手に取って、彼の後を追ったのだった。

◇◇◇

 やがて街灯がぽつぽつと光を帯びてきた頃、二人には不月家の屋敷の前に馬車が泊まっているのが見えた。

「あれは、もしかして……」

 野菊の脳裏に、ある人物が過る。すると今まさに不月の屋敷へ通されようとしていた人影は二人へ振り返り「おっ!」と快活でそれはそれは大きな声を上げた

「我が妹ではないか!」
「妹?」

 白蓮が知っている野菊の家族構成に、兄は存在しない。首を傾げている間にうっすらと街灯に照らされ、輪郭がはっきりとしてきた。不月の屋敷に入ろうとしていたのは、がっしりとした白蓮と同い年くらいの青年だ。濃い赤銅色の髪は短く切られ、天を仰いでいる。闘志が燃えんとするほど強い青の瞳に、がっしりとした体格の――、

「姉の、婚約者です」

 野菊の姉百合と婚約をしていた光琉が、大きな鞄を抱え、二人の前に立ったのだった。

◇◇◇

「いやあ、実は乗っていた船が難破してしまってな。幸い怪我人や死人は出なかったんだが、俺の旅行計画だけは完全に駄目になってしまったんだ! わはは!」

 不月の広間で、繊細な硝子細工のグラスを片手に光琉が楽しそうに笑う。

 野菊の姉、百合の婚約者である光琉は、雨季にだけ不月の土地へと足を踏み入れる。帝都の道具開発を一手に担う華族の次男である彼は、性格も笑い方も豪快だ。白蓮と並んで椅子に座る野菊は、控えめに相槌をうった。

 本来、光琉が訪れるのは野菊の姉や両親が共に儚くなった雨季の第三週の真っ只中の日だ。

 光琉は必ず命日の二日前に訪れ、命日が過ぎた明け方に屋敷を出る。しかしまだ光琉が普段泊まる日から二週間以上の猶予があった。

「それで、俺の義弟になる婿様と会話もしたいしで、ここにやってきたんだ」

 白蓮は突然現れた光琉に、心の中で怪訝な顔をした。自分の身もほぼ居候の形に近いとはいえ、連絡もなしに泊まりに来るとは非常識であること、婿様婿様と半笑いで距離感を最初から詰めてくる光琉に対し、不月の屋敷に共に入り互いの自己紹介を交わしながら失礼な男であると判断を下していた。

「俺は兄しかいないから、ずっと弟がいたらいいのにって思ってたんだ! そういえば婿様も上に兄がいたなあ、同じだな!」

 わはは、と、心のあまり触れてないところを図々しく土足で踏み込んでくるところも、白蓮の嫌悪のひとつだ。それとなく返事をしていると、光琉はグラスを煽った。

「それに、最近東の妖魔が騒がしくなっているし、この西の辺境を守る上でも安泰だ」
「東の妖魔……光琉様も旅の途中で話をお聞きに?」
「いや? 実際に見てきたぞ」

 あっけらかんとした物言いに、野菊も光琉も驚きで目を見開いた。ぽかんとしている二人に「なんでそんな顔してるんだよ」と笑いながら光琉はグラスを傾ける。

「見てきたって……と、遠くから、ですよね?」

「いや? 六体は殺したな。小さいのだけどな。丁度あのかかってる時計と同じ身の丈くらいだ。あっ、同時じゃないぞ? 行きに一体会って、帰りにも会う。みたいなことが続いたんだ」

 光琉は平然と暖炉の上にかけられた時計を指す。彼は公爵家の子息で、剣術もある程度は習う。しかしそれは実戦向きではなく、あくまでも教養としてだ。

 妖力も人並み以上あるものの、日常的に使用する妖術に困らないだけで戦えるほどはない。それを知っている野菊はとうとう驚きで何も言えなくなった。白蓮は眉間にしわを寄せたまま光琉に問う。

「光琉様は、どうやってその妖魔を退治されたのですか」
「食った」
「……は?」
「嘘だよ。妖魔を食うと妖力を得られるらしいが短命になると言うからな! 道具を使ったんだ」
「道具?」
「ああ。俺の家は道具を扱う家だからな。まぁ、勘当されてるが……そこら辺を歩く時の為に色々くすねてきたんだよ。研究中のものも含めて。だからそれで殺した。なんならいくつかここに置いていくか?」

 傍らに置いていた大きな鞄をぼん、と叩く光琉に、白蓮は拍子抜けした。盗品を屋敷に置こうとする光琉に首を横に振り、脱力する。

「じゃあ、そろそろ寝るかなあ。俺は」

 気ままに伸びをする光琉の言葉に、野菊ははっとした。光琉の使う予定であった部屋は、今まさに白蓮が使っている。そして光琉が泊まる部屋はないのだ。事前に部屋の説明を聞いていた白蓮は、一瞬停止した野菊を見て顔をしかめた。

「えっと、すみませんが光琉様、お泊りに私のお部屋を使っていただいてもよろしいでしょうか?」
「は?」

 白蓮が意味が分からないというように低い声で聞き返す。光琉も「何故だ?」と訳がわからない様子だ。野菊は慌てて付け足した。

「お恥ずかしながら、まだお部屋の準備が出来ていないのです。なので、私は杏梨の部屋に泊めてもらうので、お兄様は私の部屋に……」
「いえ、光琉様。それならば私の部屋にお泊りください。実は今光琉様の部屋を使っているのは私です。私は野菊様の部屋に泊まりますので」
「え」

 野菊の話を白蓮が素早く遮った。光琉はといえば「お前ら寝室別だったのか?」と目を瞬いている。

「どうした。喧嘩でもしてたのか?」
「いえ。帝都から不月までの長い旅路に疲れているからと野菊様の配慮の元です。私自身体調を崩していたこともありまして、でももう今は本調子ですので」

 きっぱりとした白蓮の物言いに野菊は頭が真っ白になった。光琉は「そーかそーか。ありがとうな!」と明朗に笑う。

「この方がよろしいですよね。野菊様」

 白蓮が冷ややかな目を向ける。野菊は静かに頷きながらただただそこに座っていたのだった。

◇◇◇

(か、片付け……そ、掃除……!)

 広間でのささやかな酒の席を終えた野菊は、自室を忙しなく回遊していた。彼女の部屋は掃除婦が毎朝彼女が山へ向かう間にきちんと業務を行い整理されており、窓枠の隅やひびが入って壊れ置物と化した時計まで塵一つなく磨き上げられている。

 そのことをよく分かっている野菊は、掃除も片付けも意味がないことを思い出し、片手に持った布巾を机に置き、また手に取ることを繰り返していた。

「私は、ソファーで寝るといえど……」

 いつも野菊の部屋には、大きな二人掛けのソファーがある。左には黒の、右には桃色のクッションが置かれ、なだらかな曲線を描いているそれは、野菊の渾身の力により寝台から反対の位置にある壁に寄せられた。

 心もとない気持ちで部屋の中を彷徨いていると、扉が控えめにノックされた。

「はい」

 野菊が扉を開く。そしてノック音の主――大荷物を抱えた白蓮に、ぽかんと口を開けた。

「失礼します。今日からよろしくお願いしますね」

 白蓮は開けられた扉を片手で押さえ、すり抜けるように入っていく。その手には大荷物が抱えられていて、驚きに停止したもののすぐに彼女は手伝おうと動くが、それは白蓮の手によってどすんと大きな音を立て部屋の中央に置かれた。

「し、白蓮様、そのお荷物は……」
「私の荷物です。あそこは光琉様のお部屋ですし、ここが夫婦の部屋になるのでしょう?なので荷物を全て持ってきました」

 慌てる野菊に涼やかな顔つきで言い放った白蓮は、部屋の状況――不自然に背を向け壁に寄せられたソファを見て怪訝な顔をした。

「私は、模様替えの途中に来てしまいましたか」
「いえ。私はそこで寝ようと……」
「何故です? どんな問題で?」

 白蓮は責める口調で野菊に詰め寄った。彼女が光琉に自分の部屋で寝るよう伝えた時、白蓮の心はさざめきだった。落ち着かない感じがして、頭が痛み苛立ちばかり増してしまう。その原因も理解できず、ただただ顔を見ても声を聞いても、やり場のない怒りが沸いて、後悔をさせたいような、かといって離れられても嫌だという奇妙な感覚がしていた。

「えっと、白蓮様の眠りを……」
「初夜の際、僕はよく眠れていましたが」

 それは、昏倒では。野菊が言い返せるはずもなく、口を噤む。白蓮は「ベッドは明日私が直しておきましょうね」と、自分の荷物からあれこれ出し始めた。主に刺繍箱と、糸、そして刺繍枠のついた縫いかけのものを点検して、また箱にしまった。

「では寝ましょうか」

 野菊も白蓮も、眠る支度はできている。今だ扉の前から動けない野菊を見て、白蓮は「どうぞ」と先に寝台に入るよう促した。

「何か問題でもありますか? 野菊様」
「いえ……」

 野菊は機械のような角ばった足取りで寝台に入った。白蓮の眠りを妨げないよう隅に寄ると、部屋のランプが消された。心臓の鼓動がうるさすぎないか不安に思っている間に、寝台がぎし、と音を立てて揺れる。伝わってきた振動に白蓮が寝台に入ったことを察した野菊は、体の向きを完全に外側に向けた。

「野菊様」
「はっはい」
「ちょっとこっちに顔を向けていただけませんか。話があるので」

 言われるがまま、野菊が振り返る。すると目と鼻の先に白蓮はいて、彼女は慌てて後ろ向きに転がり落ちそうになった。しかし寸前のところで白蓮が野菊の腕を掴み、彼女は間一髪のところで難から逃れた。

「も、申し訳ございません」
「いえ。落ちそうで危ないので声をかけたのですが、危ないところでしたね。私はまだ余裕があるので、こちらに詰めても大丈夫ですよ」
「え、あ、ああ、ありがとうございます」
「では、どうぞ?」
 白蓮は少しだけ端に寄って、ぽんぽん、と二人にできた隙間を叩く。野菊が躊躇いがちに僅かな移動をすると、「まだ全然余裕がありますけど」と寄るように促した。
「えっと……」
「落ちて、糸川医師を呼ぶのは面倒です。私はあの方、あまり好きではないので」

 糸川は切り捨てるような物言いで冷たく、ちょっと言い方をどうにかできないものか。ということを使用人たちから野菊は聞いていた。

 なんとなく察した野菊は恐る恐る距離を詰める。「もう大丈夫です」と白蓮に声をかければ、「そうですか」と期待はずれだったかのような声色で返事をされた。

「では、おやすみなさい」
「はい。白蓮様」

(白蓮様がおやすみと言ってくださったけれど、今日は絶対に眠れない)

 野菊は目を閉じながら、白蓮の眠りを妨害しないよう息を顰める。動いている壁掛け時計の音がやけに大きく聞こえ、まだ肌寒い季節のはずなのに、掛け布から伝わる温度はやけに高く感じた。微かな呼吸音や布ずれさえもそうなってしまいそうで、触れれば切れてしまうピアノ線を張り巡らせているかのような緊張感が野菊を襲う。

(明日は、少し森へ行く時間を早めようかしら……)

 野菊は静かにそう決めて、瞳をぎゅっと閉じたのだった。

◇◇◇

 翌日、野菊は一睡もすることなく朝を迎えた。隣の白蓮はといえば美しい陶器の作品のように眠り、胸が苦しくなるのに耐えながら部屋を出て着替えを終えると、彼女は廊下を足早に歩く。今日はいつも起きる時間よりもだいぶ早く、屋敷の中は使用人たちが朝の業務を粛々と行っていた。挨拶を交わしながら姉の部屋の前を差し掛かると扉が僅かに開いていた。中を見ると、ちょうど光琉が姉の部屋の鏡台の前で何かを話している。その表情は冷たく寂しげで、一歩踏み入れると彼はさっと顔を扉のほうへと向けた。

「お、おーう早いな我が妹よ! 今丁度百合に挨拶をしていたところなんだ!」

 明るい笑顔に、憐憫の面影は見えない。野菊が近寄ると、光琉は立ち上がった。

「おはようございます、光琉様」

 頭を下げ、部屋を見渡す。奇抜で派手な色味の家具でまとめられた姉の部屋に入るのは、久しぶりだった。彼女は「精神が引きずられる」とあまりこの部屋に入らないよう糸川に言い含められており、訪れないようにしている。

 しかし雨が降った日にはどうしても焦がれるようにここに来て、野菊の部屋にある同じソファーに座り、いつも姉の座っていた左側にしばらく体を傾けるのだ。

「お前たち姉妹は、本当に仲が良かったよなあ。婚約者である俺は、普通ほかの令息に嫉妬を感じるものなのに、俺はいつもお前を羨ましく思うくらいだったぞ」

 光琉が窓の方へと歩いていき、野菊の顔も見ず語り掛ける。

「姉様は、私に数え切れない程……私に生きるすべてを与えてくださいました。感謝してもしきれません」
「俺も、あいつには感謝してる。だから礼を言うまで死なないでほしかったのに、なんで死んじまうんだろうな。あんまりいい奴だから、神様が欲しがったのかな」

 野菊は目を伏せる。彼女の姉である百合は、間違いなく野菊にとっての、絶対的で、最も身近な神様だった。神を信じず、未来を呪い、泥をすすりながら生きていた彼女にとっての未来が、希望こそが百合だった。

「上手くいかないよな、この世界。どうでもいい、それこそ人を傷つけることしかしないような奴がさ、のうのうと生きてるんだから」
「それは、どういう……」
「国はどうやら妖魔が沸いていること、隠蔽しようとしているらしい。挙句莫大な被害が出てるってのに、茜姫の祝い金には金をざぶざぶ使っておいて、帝一族の外の人間は無視らしいぞ。俺の家も少しは出資すればいいものをだんまりだ」

 光琉はがっくりと肩をさげ、両手を挙げた。その様子に、彼がここしばらくの間は妖魔の討伐に単独に繰り出していた可能性を悟った。

「もしかして、妖魔を討伐する過程で、姉様のもとへ……」
「そんな大層な理由じゃないぞ。旅の途中で出くわしただけだ。それに、自死だと地獄に落ちると言っても、所詮迷信だしな」

 朝日を背に受けていることで、光琉の顔は逆光によって見えない。百合と彼は、妹である野菊から見て、本当に仲のいい婚約者同士であった。

 快活で朗らか、やや風変わりな光琉と、物事をはっきりと言い、気位がやや高いものの心優しい百合の相性は抜群で、その容姿も不月の女帝と称されるほど美しい百合と野性味ある美丈夫の光琉は周囲から羨望の眼差しを集めながらも自分たちは気の向くままに過ごす、そんな二人が野菊は好きだった。

「光琉様……」
「俺、帝一族はちょっと汚いと思ってたんだが、そんなのどこの国も同じだと思っていた。でも、違う。この国は間違いなく腐ってる。一度、それこそ竜の怒りにでも触れて、めちゃくちゃにされてしまえばいい。百合はきっと俺を見て怒るだろうけど、怒られたいくらいだ」
「光琉様」
「怒られたい……でも、彼女は来てくれない。もう、いないから」

 寂し気に笑う光琉に、野菊は姉の面影を見出した。姉は、野菊に優しくしていたが、叱ることもあった。野菊が「自分なんて、私なんて」という言葉を使うたびに、「卑下はするな」と厳しく厳しく言い含めた。そんな姉の最後の表情に似ていて、野菊は俯く。

「どうした? 我が妹」
「……今の、光琉様の表情が、お姉様に、似て……」

 野菊の目尻に涙が浮かぶ、その姿を見て光琉は一歩近づいた。その瞬間、「何をしてるんです」と冷たい声が響いた。野菊が振り返ると、白蓮が立っていた。涙を浮かべる彼女を見て、白蓮が目を見開く。

「何をされているんですか。光琉様」
「何って、何も」

 白蓮の問いかけに、光琉は首を横に振る。しかし白蓮は「野菊様に何をされたんですか」とつづけた。

「白蓮様、私は何も」
「ではあなたはどうして泣いているんですか」

 白蓮の言葉に、野菊はどう答えていいかわからない表情をした。その顔が光琉を庇っているようにみえ、白蓮の苛立ちは募る。

「どうして隠すのですか? 酷いことをされても……庇わなくてはならない理由が……?」
「それは違――」
「……もういいです。少し頭を冷やしてきます」

 白蓮は、踵を返す。野菊が後を追うと「放っておいてください」と切り捨てる。

 野菊は追いかけることも出来ず、ただただ立ち尽くしていた。


 侍女、杏梨の朝の業務は多岐にわたる。使用人に対する申し付けから、仕えている野菊の身の回りの世話など一般業務のほかに、そして婿に入った白蓮の世話及び、彼が精神的に危うくなり始めてからは、屋敷の中で自傷可能なものを発見次第排除、長物を遠ざけ、趣味として行っている裁縫道具以外の刃物を遠ざける業務を彼の行動範囲分も広げて行っている。

 そんな杏梨は毎朝中庭を散歩することを習慣としている。この国は排他的で、他国から来た人間への風当たりがひどく強い。貿易品すら蔑みの対象とされる中、元々半分異国の血が流れている彼女は家から疎まれ、自分よりも三十以上歳の離れた帝都の伯爵のもとへと慰み者として送られようとしていた。

 彼女の運命を変えたのは、野菊の姉、百合だった。

 かねてより交流のあった百合は「狸爺に嫁ぐのと私に仕えるの、好きなほうを選びなさい」と言って、主従というくくりに杏梨を避難させたのだ。

 以降、多大なる感謝の意を百合に寄せており、彼女が目をかけていた野菊を大切に想っている。

 そして中庭には、百合が好きだった花々、野菊が好きだからと百合が植えさせた花々が混ざるように咲いていて、朝露に濡れ淡い色の花々が風に揺れる光景を見ることが、杏梨の至福の時であった。

 しかし、今日はその至福の空間に、一人の望まぬ客人が佇んでいた。

 死んだような表情の白蓮が、到底爛漫とした花々に向けるべきではない目を向け、中庭の真ん中で棒立ちになっている。

 なんとなく嫌な予感がして立ち去ろうか悩んだものの、また飛ばれても問題だと杏梨は近づいた。

「どうされましたか、旦那様。お加減がすぐれないようなら部屋に戻られますか」

 声をかけると、白蓮はばっと振り返り、落胆した顔をした。そして考え込みだしたことから、面倒なことになっていると悟った。

「野菊様と何か」
「……光琉様と野菊様は、仲がいいのですか」

 ぼそり、とつぶやかれた言葉に杏梨は驚いて振り返る。白蓮の顔はしまったといった様子で首を横に振り「……忘れてください」と俯いた。

「……野菊様の姉である百合様は、野菊様を本当の妹のように愛しておられました。血の繋がりなんてものは、この世に存在しないのかもしれません。二人は本当に仲が良い姉妹でした」

 杏梨の脳裏に、百合と野菊の姿が思い浮かぶ。「私に妹が出来たの。野菊。綺麗な髪と目の色でしょう。本当に面白いのよこの子は。私の妹にぴったりだわ」そう言って百合は屋敷に薄汚れぼろぼろの娘を連れてきた。誰もが目を背けるほど汚れていた娘は、百合の手によって華族の令嬢として生まれ変わり、庭園では生き生きと百合が野菊の手を引っ張り、半ば引きずる光景が散見された。

「光琉様は、野菊様に嫉妬をしていたように思えます。いえ、百合様を求める誰しもが、野菊様を羨み、時に妬んでおりました。なので貴方の感情は、もし百合様が生きておられたら、光琉様ではなく間違いなく百合様に向けられていたでしょうね」
「どういう意味です」
「嫉妬、しておられるのでしょう。光琉様に」

 杏梨は白蓮を見据える。そして、驚きに見開かれた瞳から視線をそらし、かつて百合が愛した花に目を向けた。

――私ね、紫が大好きなの。だってとても綺麗だと思わない? 野菊の色だもの。

「光琉様に勝つことなんて、旦那様が思っているよりずっと容易い。問題はそのあとです。勝てるといいですね。百合様に」

 杏梨は悠然と微笑み、中庭を後にしたのだった。

◇◇◇

 不月の廊下は、二種類存在する。主に玄関ホールから客間、そして大広間など客人が通るところは華々しい赤い絨毯に、小ぶりなシャンデリアが回廊を照らすもので、野菊や白蓮など家の者の私室につながる廊下は深海を模した段階的な色分けがされており、絨毯は花々の刺繍がされ、水辺に花が浮いているように見えるものだ。

 そして今現在白蓮はその狭間でどちらに向かうでもなくうろうろと動いていた。

 野菊と光琉が話をしているときに、自分本位な態度で逃げるように去ったことが、白蓮の頭の中から離れない。二人の前を後にしたときは、正しい怒りだと思っていたはずなのに、杏梨の話を聞いてからというもの、自分が子供の癇癪を起したと感じられた。

 まだ朝の食事にはだいぶ時間がある。そもそも白蓮は、昨晩一切眠れることがなかった。苛立ちと、そして初夜の日野菊に迫ったときは何ともなかったはずなのに、焚かれてもいない香が甘く、瞼が開かれる心持ちで仕方がなかったのだ。

 よって、僅かにカーテンの隙間から覗く景色が明るくなった頃合いに寝台を抜け出し、それから帰ってこなくなった野菊の後を追った。すると、隣の部屋から声が漏れていて、そこに野菊と光琉が立っていたのである。

 白蓮と話す時、野菊は身体を強張らせる。自分のことが好きなはずなのに、光琉といる時の方がずっと心安らぎ落ち着いて話しているところも気に入らなかった矢先、光琉の前で泣く野菊を見て白蓮は自分を制御できなくなった。

 よって、今まさに白蓮は夜着のまま当もなく彷徨っている。自分の部屋は光琉が使っていて、野菊の部屋に戻ることもできない。着替えも野菊の部屋だ。

「あれ、どうしたんすか?」

 のんびりした声に白蓮が振り返ると、使用人の治郎吉が、いつも着ている執事の服ではなく、農民のような服を着て首を傾げていた。

「あなたこそ、何しているんですか。こんな朝早くから」
「俺は今日はお休みなんでぇ〜釣りに行くっす! 一緒に行くっすか?」

 治郎吉が軽い口調で白蓮を誘う。どうせ白蓮のことだ。「馬鹿らしい」そう言うに決まっている。けれども冗談は口から飛び出していくもので、そのまま白蓮の横を通り過ぎようとした、しかし――、

「行きます。時間も空いていますし。洋服を貸して頂けますか?」 

 白蓮は現在、行く当てがない。よって治郎吉の誘いに頷いた。

「えっ、ほ、本当っすか」
「はい。たまにはいいでしょう」

 背に腹は代えられないと、白蓮は微笑んで見せる。治郎吉はぎょっとしながら「着替え、取りに行ってくるっすね……」と引き気味にその場を後にしたのだった。

 一方、野菊はといえば、白蓮に去られた後、悶々とした気持ちで墓地に来ていた。彼女は白蓮に去られた理由を、実のところよく理解していない。ただ何となく自分が怒らせたことは確かだと分かっていて、見つからぬ理由を探し続けていた。

「なんだい変な顔して。そもそも墓参りに来て悩んでんじゃないよ。ここはそういう場所じゃあないんだよ。分かってんのかい? しかも自分の家の墓の前じゃなく、他人の家の墓の前で」
「すみません……」

 みな子は溜息交じりに墓地に佇む野菊を見やる。いつも野菊は自分の憎まれ口を簡単に流すのに謝られ、今日は余程のことがあったのかと思ったものの、自分が介入すべきではないと考えみな子は特に理由も聞かず、掃き掃除をしていた。

「そういや、光琉の馬鹿が帰ってきたんだって? まだまだ百合の死んだ日よりずっと前じゃないか。どうしているんだい? 屋敷に泊めてんのかい?」
「はい……」
「婿養子の次は姉の元婚約者。不月の屋敷は今年管理権限を譲渡するってのに最後の最後まで休まらないもんだねえ」
「そうですね……」

 みな子は大方掃き掃除をして、身体を反らし腰を叩く。すると突然箒を音を立てて床に打ち「見せもんじゃあないんだよ!」と物陰に向け怒鳴った。野菊が驚きながら視線を向けると、人影がカサカサと音を立て植え込みの奥へと消えていった。

「あれは……一体……」
「どう見ても人間だ。最近いつもこうなんだよ。墓荒らしにしては上等な服を着てね、薄気味悪いったらありゃしない」

 野菊は相槌を打ちながら、不思議に思った。なぜ上等な服を着た人間が、墓を狙うのだろうと。本来ならば、物盗りなんて墓場では最も適していない場所だ。店ならばその日の売り上げ金や前もって店に置いておく金がある。屋敷は言わずもがなだが、墓場なんて狙ったところで得られるのは骨だけである。

(もしかして、おばさまが……)

「ねぇ、みな子おばさま、最近何か、おかしなことがあったりしませんか? もしかしておばさまが……」
「こんな婆狙ってどうするんだい。放っておけば死ぬようなものを。それよりあんた自分の心配してな。私は今日ちょっと山の奥に花毟りに行かなきゃいけないんだから」
「それって、毎年の……」
「そうだよ。だからついてくんじゃないよ」

 みな子は毎年この時期、花を摘んで海に流している。出会った頃から行っていたそれは、理由こそ話さないがみな子の今は亡き夫に向けているものであると何となく野菊は察していた。そして、その習慣を行うとき、みな子は必ず人を遠ざけるのだ。野菊もその心境が理解できるため、彼女は立ち止まった。

「……お気をつけください。あの、何かあればすぐ……」
「いい。それよりあんたは自分の屋敷に帰んな。何やら雲行きが怪しいからね」

 ふん、と鼻を鳴らしてみな子は野菊の前から去っていく。追いかけることもできず野菊はみな子を見送ったのだった。

◇◇◇

「全然釣れないな! わはは!」

 治郎吉と共に白蓮が釣りに出かけ、暫く立った頃。緩やかに流れる不月の川めがけ釣糸を垂らす白蓮の隣には、光琉がいた。

 事の起こりは、治郎吉と白蓮が出かけようと門をくぐろうとした時だ。ちょうど光琉が散歩に出かけようとしている場に居合せて、治郎吉がどこに行くかを話し、光琉が一緒に行きたいと言い出して三人で行くことになったのである。

 辺りは不月では珍しい太陽の光が燦々と降り注ぐ場所で、青々とした草原の朝露が朝日を反射して輝き、爽やかな風が湿った草木の香りを広げている。人々の憩いの場所として親しまれているが、光琉、白蓮、治郎吉と、気さくで裏がない二人に挟まれ、白蓮は川に到着し早々に辟易としていた。

「本当っすよ〜。いつもなら今頃五匹は釣れるっす! むぅ〜!」

 治郎吉が不満そうに口を尖らせる。「よく釣りをされるんですか?」と何の気なしに白蓮が聞くと、治郎吉は「もちろんっす!」と笑みを浮かべた。

「釣るのも楽しいし、食えるじゃないっすか。それに、食ったらもうそっから無くなることもないっす!」
「食べたら無くなりませんか?」
「あれ? 旦那様知らないっすか? 食べれば血となり肉となるんすよ?」

 小ばかにされたようで、白蓮は怪訝な目で治郎吉を見た。しかし治郎吉は川を眺めていて気付かない。

「確かに、食べれば無くならなかったんだよな……」

 光琉が昏い声を発した。白蓮が振り返ると、「なぁ白蓮くん」と光琉が明るい声で顔を向けてくる。


「俺が言えたことではないが、何か話がしたいことがあったら、きちんと話さないと後悔するぞ」
「……は?」
「今朝、我が妹に何か言おうとして、いなくなってしまっただろう。ああいうのはよくない。とてもよくないぞ!」

 光琉がばしばしと白蓮の肩を叩く。手で白蓮が制していると、治郎吉が昏い声でぼそりと呟いた。

「正直に言っても、取り返しつかなくなることもあるっすけどね」

 このせいで治郎吉は帝都の軍から見合いを勧められた際、さして好みでもない軍長の娘を褒めることを強要され盛大に吐いたことでその席を追われることになった。

 以降、彼はあまり努力が好きではない。どんなに努力をしても、嘘がつけないだけで自分の日々の積み重ねは、砂で出来た城のように儚くなってしまうからだ。

 軍を追われた経緯を百合から聞いていた光琉は、一瞬口を噤んだ。しかし、「それでもだ!」と大きな声を発する。

「正直に言わないと、一生後悔することもある! でも、正直すぎて、失うこともある! しかし白蓮くんは今絶対正直であったほうがいい!」
「何故です。というかあなたは一体何なんですか? さっきから」
「白蓮くんが恋の病に侵されている。恋をしてるならば、絶対に正直であった方がいい!」

 光琉の言葉に、白蓮は手から釣竿を滑り落とした。治郎吉が「うわああああああ。高かったんすよ!」とすぐに釣竿を引き上げる。すぐさま白蓮に抗議しようと顔を向け、言葉を失った。

「は……は、はあっ?」

 白蓮は顔を真っ赤にして、狼狽える。「そ、そんなわけないじゃないですか? っていうか誰に対して僕が恋をしていると? 意味が分からないです!」と早口で捲し立てた。

「あれ、お前自分のこと私って言ってなかったか?」
「わ、わ、わたしが、いつ、誰に恋をしていると言っているんですか?」
「そんなもん我が妹に決まってるだろ。そうじゃなきゃ問題だろう」
「確かにそうっすね……。不貞になっちゃうっす」

 自分を置いて「そうだよな」「そうっすよ」と話し始める光琉と治郎吉を見やり、白蓮はぶんぶん頭を振った。

「わ、私は野菊様なんて好きじゃありません!」
「俺も小さいころ百合に同じこと言った。俺より百合の方が俺を好きだともな。百合に鼻で笑われたよ。それから正直に生きるようになった」
「それ聞いたっす。じゃあ別の婚約者を用意するよう御父様に進言致しますわって言われたんでしょ?」
「そうだ。あの時から俺は正直に生きると決めた」
「わ、私の話を聞いてください! 私の話をしてるんですよね?」
「お前と我が妹の話だけどな」
「そうっすね」

 今、確実に自分は玩具にされているのではないだろうか。白蓮が二人を睨みつけると、治郎吉は笑い、光琉は咳払いをした。

「ともかくだ。正直に生きろ。俺はそれから百合に好きだと、大好きだとちゃんと言ったが、愛してると言えたのはあいつが死んでからだ」

 真剣なまなざしに、白蓮が口ごもった。光琉は川の対岸へ目を向け、呟くように話す。

「死んでから、ようやく言えた。言える機会なんていっぱいあったのに。何回でも言ってやれたのに。だから俺は会う人みんなに言うんだ、悔いなく生きろと」
「……」
「お前らはもう夫婦なんだ。まぁ夜に盛り上がったら素直に言葉が出てくるだろうがな! わはは!」

 光琉の言葉に治郎吉が盛大に噴き出した。さっきまでとは打って変わった様子に白蓮の怒りは頂点に達し、不月の川に盛大に白蓮の怒鳴り声が木霊したのだった。

◇◇◇

 不月の街並みを、夕景が包んでいく。あれから結局白蓮と治郎吉、そして光琉は森の麓で食事をとり、屋敷に戻ることはなかった。門番には元々治郎吉が戻るのは昼過ぎになると伝えていた為に、それを門番から聞いていた野菊は特に何か慌てることもなく一日領地に関する残った仕事をしたり、空いた時間は刺繍をするなどして過ごしていた。

 窓の外から不月の街並みを眺めていると、不意に屋敷を囲う塀の隙間から、治郎吉や白蓮、光琉の三人が歩いているのを見かけて、野菊は足早に自分の部屋を出た。

 白蓮が、何について怒っているのかわからない。けれど怒らせてしまったのもまた事実であり、まずは謝り、それから訳を聞こうと野菊は屋敷の門へと向かう。するとちょうど三人が門をくぐっているところで、迎え出ていた野菊を発見した白蓮は目をぱっと見開いた後、口をまっすぐ引き結んだ。

「野菊様!」
「我が妹よ!」
「おかえりなさいませ。皆さま」

 立ち止まる白蓮を横切り、光琉や治郎吉が野菊の元へ向かう。そして顔を見合わせにやりと笑った後、野菊の肩を叩いた。

「では、あとは二人で話してくださいっす」

 光琉も治郎吉も、今度は白蓮の方へ振り返り手を動かしたりして何かを伝える。白蓮はしっしと手を振り、怒る仕草を見せた。何が何だかわからない野菊はぽかんとして、やがて光琉と治郎吉が離れていき、白蓮が近づいてきた。

「あの……」
「あっ、白蓮様、私、お話があって……」

 同時に言葉を発してしまい、野菊は自分の口元に手を当てる。しかし白蓮は「なんです?」とばつの悪そうな顔で話すよう促した。

「えっと、今朝。私、白蓮様に失礼なことを、怒らせることをしてしまって、申し訳ございませんでした。ずっとそれが謝りたくて……」
「別に、怒らせることは何もしてませんけど」

 不機嫌な声色で、白蓮が呟く。恐る恐る顔色を窺う野菊に、白蓮はふいっと顔を横にそむけた。

「……別に……。……私こそ、突然怒ってすみませんでした。その、最近感情の制御がうまくできなくなっていて……、申し訳ございません」

 白蓮が一言ひとこと、言葉を絞り出していく。しかし、どれほど待っても野菊からの言葉が返ってこない。焦れて顔を野菊に向けると、彼女は一点を見つめ顔を青ざめさせていた。

 尋常ではない様子に、白蓮も視線を向ける。辺りは変わらず橙の夕景に包まれているが、一点だけ。不月の山の上にかつてないほどの巨大な暗雲が立ち込め、今まさに山を食らわんと包み込もうとしていた。

 二人の様子を木陰からにやにや見つめていた治郎吉や光琉も、異変に気づき不月の山を見て愕然とする。屋敷から外を見ていた杏梨も慌てて出てきた。

「あ、あれ、何すか?」
「俺もわからない。あんな雲。嵐だってあんなにならないぞ!」

 慌てる治郎吉と光琉を横目に、白蓮も暗雲を見る。白蓮が妖魔討伐に出たときに見た瘴気よりもずっと黒が色濃い。あんな雲を起こせる妖魔なんて存在しないはずで、今まで彼が読んできたどんな文献にも載っていない。嵐の可能性が高いが、気象や天候を計算してもあれほどまでの巨大な雲が現れ、山の上を覆うことはありえないことだった。

「みな子おばさまが……」

 野菊が呟く。今日、みな子は山の上にいるはずなのだ。そして黒い雲に覆われているということは、みな子に危険が迫っているということ。最悪のことを想定して、野菊はその場に膝をついた。

「野菊様!?」

 白蓮が慌てて野菊を抱き起こそうとするが。「どうして、嫌……」と繰り返し、震えるばかりだ。

「しっかりしてください野菊様、屋敷にいればきっと――」
「違うんです、今日、みな子おばさまが山に登っていて……」

 野菊の言葉に、周りにいた者全員が言葉を失う。野菊は、今すぐみな子を助けに駆け出してしまいたい気持ちだった。しかし、彼女に妖力はほとんどなく、その力を行使することはできない。みな子を助け出す前に、救助隊の世話になるか、死ぬ結末になる確率の方がずっと高いということを自身がよくわかっている。

「どうして、私は妖術が使えないの。どうして大切な人を、殺して――」

 頭を抱える野菊を、杏梨がすぐに支えに入った。

「野菊様。あなたは殺していません。あれは事故です」

 そのやりとりを見て、白蓮はすぐにわかった。野菊は自分が妖力がほとんどない。事故の現場に居合わせたとき、妖術が使えなかった自分のせいで姉や両親が死んだと思っているのだと。

「いや、嫌。どうして――!」
「行きましょう。野菊様」

 白蓮が、意を決して言葉を発した。治郎吉は「は?」と目を見開く。

「私は、野菊様に妖力の権限を譲渡している形ですが、元は国で一番の妖術士。嵐の中がなんですか。老人一人助け出すことくらい、やすやすと行って見せましょう」
「嵐の中は無理っすよ」
「それに旦那様、野菊様をお連れするなんて、自分が何を言っているのかわかっているのですか?」
「当然です。彼女には捧生の指輪がある。そして私の胸には印がある。野菊様を連れて行かなければ、死にに行くのも同然ですよ」

 地に手をつく野菊の前でそっと膝をつき、白蓮はその手を差し出す。どうしていいか分からず動かぬ野菊に、「私を見てください」とそっと声をかけた。

 野菊は、大きく目を見開く。まっすぐ自分に向けられる紺色の瞳は煌めいて、初めて出会った時の彼を彷彿とさせた。恐る恐る手に取ると、ぐっと力を入れられ引っ張り上げるように立たされる。

「大丈夫です。僕が助けますから」

 白蓮が笑う。野菊は縋るように頷いたのだった。

◇◇◇

 不月の山は、凄まじい瘴気が立ち込めているというのに、どこもかしこも静かだった。元から黒々として針金のようになっている木々が立ち並び、光は差し込まない。

 唯一光に溢れ花畑のある湖は楽園という意味の名がつけられるほど、この森は太陽を拒絶している。

 しかし、それでもみな子を助けるために森に入った白蓮と野菊、そして軍に入っていたことを見込まれ同行を許可された治郎吉は愕然とした。

「風がこんなに無いってこと、あるっすか?」

 嵐であるならば感じるはずの風が、微塵も感じられないのだ。草木も揺れることなく、動物たちは異変を察知して早々に巣に戻ったのか、物音ひとつしない。聞こえるであろう雷鳴も、地鳴りも、風の音も、世界の全てが無に還ったように、何の音もしなかった。ただただ森の周りに黒い暗雲が立ち込めているだけで、まるで瘴気を見ているのが幻覚だと思ってしまうほど、周囲は無に包まれていた。

「嵐がまだ始まらないことに越したことはありませんが……野菊様、魔道具の探知機はどんな反応を示していますか」
「まったく反応がないです」

 野菊が光琉に渡された魔道具の懐中時計を見つめる。一般的な金時計の中央に円環状に加工された妖力石がいくつも回転するそれは、妖魔が近づけば発光し、その回転速度を上げることで持ち主に危機を知らせる仕組みだ。光琉が家からくすねてきた最新の型のもので、何かの役には立つだろうと渡されている。

「妖魔でも、嵐でもない……こうなることなら、不月の古書を読んでおけば……」
「いえ、この辺りのことが記された古書は全て読み込み記憶していますが、こんな嵐が訪れたなんて記載はありません」

 野菊の返答に、白蓮は「勉強熱心ですね」と返しながら空を仰いだ。雲は黒く渦巻いて、頂上を目指すようにしている。

「婆さんも頂上っすか?」
「多分……」
「よりによってこんな時に……! 街に降りてるなんてことないっすよね?」

 森に向かう道中、みな子が街に降りてきていないか調べた結果、祈りを打ち砕く知らせが野菊のもとに届いた。さらに果てにあるはずのみな子の小屋にも彼女は不在で、山にいることが決定打となったのだ。

「それに、今日はおばさまが旦那様とお別れになった日です。なんとしてでも、花を海に送ろうとするはずです」

 野菊は、もし自分が逆の立場だったらどうだろうと考えた。もし家族をいっぺんに失った時と同じ日に、嵐に出会ってしまったら。自分はきっと、街には下ることをしないだろうと。やっと、やっと向こうに逝けると思ってしまう。

 しかし、みな子の夫は、まだ死んでいなかった。海の向こうへ行き、死体は上がっていない。もし彼女の夫が本当に帰ってきたとき、どう思うのか。野菊は胸が締め付けられる想いで足を動かした。

「あれ、あれ婆さんじゃないっすか?」

 治郎吉の言葉に、俯きかけた野菊の顔が上がる。丁度崖の途中、突出したところにみな子が立っていた。そしてその前には上等な黒服を着た男が三人立っており、物々しい雰囲気で対峙していた。

「野菊様、妖術を」
「はっはい!」

 野菊が捧生の指輪を白蓮にかざす。しかし、本来ならば指輪から妖力が流れ出し、印を持つものに注ぎ込まれるはずが、指輪は光ることもなくそのままだ。

「どうしてっ」
「このままじゃ婆さんが落とされちゃうっす! 俺行くっす!」
「治郎吉!」

 治郎吉が足元に加速の詠唱をして、そのまま差していた剣を抜き、男たちに襲い掛かった。しかし相手は三人、このままだと治郎吉が危ない。野菊は焦りながら指輪を白蓮にかざすも、指輪は微動だにしない。野菊たちがやってきたことに気付いたみな子は「なんで来たんだい、逃げな!」と怒鳴り声を上げた。

「こいつらは妖術士だ! 双水岩の洞窟を狙いに来たんだよ! あんたらに勝ち目なんてないよ、さっさと捨て置きな!」
「嫌です……!」

 もう、大切な人を失いたくない。野菊は指輪を見つめ、何が起こっているのか考え、はっとした。

「あの祝いの時、詠唱が、普通の捧生の詠唱ではありませんでした。奴隷紋の詠唱も混ざっていた。もしかしたら……普通に妖力行使を許可するのではなく、私が白蓮様に命じる必要があるのかもしれません」
「では、すぐに。まずは貴女の使用人とあの老人を飛行妖術でこちらに引き寄せましょう」
「わ、わかりました。えっと、不月野菊が、不月白蓮に命じます。みな子おばさまと、治郎吉をこちらに飛ばしてください」

 野菊が命じた瞬間、指輪から光が放たれ、白蓮の印目掛けて吸い込まれていく。自分の手を動かし感覚をつかんだ白蓮は、すぐに詠唱を始めた。すると苦戦していた治郎吉の足元とみな子の足元に妖術陣が現れ、下から風が浮かび上がり二人ともこちらに飛んでくる。

 しかし、飛ばすことを命じた為に、二人はそのままの勢いで野菊たちのもとに飛び、咄嗟に彼女を庇った白蓮を下敷きにする形で着地した。

「し、白蓮様、おばさま! 治郎吉!」
「大丈夫です、捧生の指輪を使っての妖術効果は、研究の余地がだいぶありますね……」

 白蓮が眼鏡の位置を整えながら立ち上がった。治郎吉やみな子もふらつきながら立ち上がり、慌てて野菊が手伝う。

「ったく、なんでこんなところ来たんだい。嵐だっていうのに」
「それよりおばさま、あの男たちは」
「知らないよ。一方的に追いかけてきて、逃げてみれば崖に追い詰められたよ。どうやらただ私に死んでもらいたいだけじゃなく、事故で死んでもらいたいみたいだね」

 黒服たちは、今度は野菊たちのほうへ向き直り、じりじりと近づいていく。

「野菊様」
「はい、白蓮様、ご指示を」
「土妖術でやつらの足場を崩し、それから確保です。まず……」
「なんすかあれ!?」

 白蓮の指示を治郎吉の絶叫がかき消す。白蓮が憤りを示す前に、凄まじい雷鳴が響き渡った。瞬間吹き飛ばされんばかりの豪風が吹き荒れる。瞬間的に瞳を閉じて、風が止んだのを感じ野菊が目を開くと、目の前には驚愕の光景が広がっていた。

「我の妻に手を出すとは、お前たち、自分たちが何をしたのか、分かっているんだろうな」

 野菊の視界いっぱいに広がる、どす黒い鱗たち。野菊たちと黒服の間を分つように黒竜が降り立っていた。空は竜が降り立った場所の一点から晴れはじめ、あれだけ分厚く不月の山を覆っていた暗雲が、そこから溶けるように消えていく。

 野菊も、白蓮も、治郎吉も、御伽噺でしかない存在に愕然として、言葉を失いただただ茫然とする。一方みな子だけは、目を見開いたまま一歩踏み出した。

「延珠……」

 みな子の呼びかけに、黒竜は振り返り、金色の瞳を柔らかく細める。

「遅くなった……我が妻よ。祖国の戦が中々締結しなかったのだ。許してほしい。まずは埋め合わせとして、この三人の人間を君に捧げよう……」

 竜が飛び上がったことで、野菊たちの視界に黒服の男たちが映った。男たちは三人とも竜の存在に驚き、畏怖している。足は震え、逃げることもできず後ろへとにじり寄るばかりだ。

「殺すな延珠! 生かして何が目的か――」

 みな子の叫びも虚しく、黒竜の口から無数の雷を帯びた閃光が発された。瞬く間に男たちの立っていた場所は白く染まり、地形を切り崩したように海へと落ちていく。閃光に触れた個所は皆削り取られ、煙が立ちその威力をまざまざと見せつけていた。

 黒竜は満足そうに鼻から息を吐き出す。また野菊たちの周りに降り立つと、その身を縮めさせ人の形に――みな子と同じ年くらいの、初老の男性へと姿を変化させた。黒い髪を靡かせているが、瞳だけは竜のものと同じくぎらついた金色で、その金色が先程まで閃光を放っていた竜と同じ存在であると雄弁に語っていた。

「我が妻、待たせ……」

 初老の男性へと姿を変えた黒竜――延珠が厳格な顔つきをやや綻ばせ、みな子へと近付く。しかし一歩近づいた瞬間みな子の平手打ちが炸裂した。完全に頬を直撃された延珠だったが、よろけることはなくただただ意味が分からないと立ち尽くす。

「殺すなって言っただろうが! なんで海に放った」
「しかし、やつらは君を殺そうとしていただろう」
「だから何で殺したか聞くって言っただろう! なんなんだお前は! 突然帰ってきて!」

 みな子が顔を真っ赤にして延珠を怒鳴りつける。ばしばしと胸板を叩く姿を見て、野菊たちは目を丸くした。みな子はひとしきり延珠を叩くと、野菊たちの方に振り返った。

「……私の旦那だ。あんまり広めるんじゃないよ。……で、延珠。この薄幸そうな娘が不月家の娘、で隣の神経質そうなのが婿。馬鹿そうな顔してんのが使用人だよ」
「ひどいっす! せっかく助けに来たのに!」
「馬鹿だろう! どうせ待ってれば死ぬ老人助けにこれから私の五倍六倍は生きる若者の身が危険になってどうすんだい! 大方野菊が主犯だろうが、婿も治郎吉も尻に敷かれてないで止めな! 本当に二人揃って、死ぬところだったんだよ! この大馬鹿どもが!」

 盛大にみな子がため息を吐く。そして野菊にもう一つ嫌味を言ってやろうとして、今の彼女の顔を見て言葉を止めた。

「何で、泣いてんだい。お前は本当に愚かな娘だねえ」

 野菊が、目から大粒の涙を何度も何度も、ぽろぽろと流していく。球体を作っては筋を作って流れていく涙を見て、みな子は野菊の頭を撫でた。

「ほら、墓守の婆は生きてるよ。どうせそのうち死ぬ老人が生きてたくらいで泣くんじゃないよ」
「で、でも……みな子おばさま、生きててよかった……」
「ったく……ほらこういうのは婿養子の仕事だろう。突っ立ってるんじゃないよ」

 泣く野菊をあやすみな子が白蓮に声をかけながら、野菊を押し付ける。白蓮は目元を押さえる野菊の腕を恐る恐る掴んでどかし、代わりにハンカチで拭ってやる。

 みな子は満足そうにして鼻で笑った後、一瞬三人から視線をそらし、「悪かったね」と呟いた。治郎吉が「え? なんて言ったんすか?」と聞き返すと、「ありがとうって言ってるんだよ」と言い返す。

「今日は世話になったね」

 みな子はそう言って、そっぽを向く。延珠が「彼女にとって最上級のお礼を言っているんだ」と付け足し肘で腹部を打たれた。しかし彼は体勢を崩すことなく、そのまま野菊たちに頭を下げた。

「私からも礼を言う。このたびは我が妻を助けてもらい、感謝してもしきれない。この借りは必ず返そう。ありがとう、三人の人の子よ。まずはこれを……」

 延珠が手を差し出し、左右に払うように振った。雨が降るように落ちる欠片は間違いなく伝説の品とされ、空想でしか描かれない竜の鱗で、野菊たち三人はまた言葉を失ったのだった。