―――違う……これは……高波だ!!
優希くんの肩が私の肩にぶつかって、優希くんは咄嗟に片手で私の背中を支えてくれたようだ。けれど、ふたり重なったまま砂浜の方へ波で押し流された。一瞬の事だ。波しぶきに息を止めて耐え波が落ち着くのを待って態勢を整えた。
「ほのかちゃん! 大丈夫!?」
「だっ大丈夫! もう台風の波が!?」
「いや、どうして……とにかく今のうちに、っ!?」
「きゃあ!?」
今度は引き波だ。そう思った瞬間ぐんと速さが増した。
怖い!
波が変だ……勝手に体が流される……怖いっ!!
「ほのかちゃっ! 手をっ! 僕につかまって!」
「ゆうきくっ!」
「絶対はなさないから! 約束する!」
「うん! あ、背中が……」
決死の表情をした優希くんが私に声を届けようと強い力で引き寄せる。離ればなれにならないよう私は力いっぱいしがみついた。すると優希くんのウエットスーツのジッパーが外れかけている事に気づいたが手が回らない……まるで海を全速力で走っているかのスピードで砂浜から遠ざかっているからだ。溺れないよう息を確保するだけで精一杯……苦しいっ。
「ぷはっ、はあっ、はあっ、こんなに沖に……いったい何が……」
「はあっ、はあっ、ここはっ!?」
流されるスピードが落ちてきたので足と片手で海中をかいてバランスをとり周囲を見回した。これまで泳いだ事のない所まで流されている。きっと水深もあるはずだ。あちこちに白波が立っていて、海の中と海面上の流れが違う気がする。体が傾いてしまって上手く立ち泳ぎもできない。
あんなに穏やかだった波がどうしてこんな急に!?
早く安全な場所へ行けなければ、どこに流されるかわからない!!
「泳いで岸に着くのは、っ、難しい……救助を待つしか……」
「あっ、背中のジッパー……上げないとっ……」
「ほのかちゃん! 手はなさないで!」
「でもっ」
「いいからっ、いい!? 無理に泳いだりしないで! 浮いたまま呼吸確保だよ!?」
「わかった……」
「「 っっ!?!? 」」
また急に流れが変わって横や斜めにおかしく体が揺さぶられ、ぐるっと巻き込む力にふたりしてのみこまれる。
コポンッ、クポッ、ゴボゴボゴボゴボ―――ッ!!
……すごい、うねり、体がっ……回転するっ……!?
「ぷっはあっ!! ガハッガハッ、ほのかちゃっ……」
「ゴホッゴホッ、んっ、はあっ、すーうっ、はあっ」
うねりの中に突入して放り出された。もう方向が全くわからない。海水も飲んでしまったし目も痛くて……しぶきが顔にかかってくるから息もまともに吸えない。
苦しい……苦しい……あれ?
フィンが……なくなってる!?
「はあっはあっ、まずい……岩場が……」
「すーうっ、はあっ、すぅ、はぁ……」
体力の消耗が著しく、この荒れ狂う波に耐える気力さえ……失いかけていた。絶望的な危機を感じながらも、命綱である優希くんの手は決してはなさないよう、それだけに意識を集中させる。
「ほの……ちゃ……高波だ、っ!」
「……うぅーっ、ああっ!」
ザァバアァ―――ッ!!
大きな波力を体で受けて連れて行かれる―――今度はどこへ―――その波は岸でもなく、沖でもなく、入り江の岩場にぶつかったのだ。
「グッハアァッ!!」
「くっ!」
体中に衝撃が走った。すぐ近くでうめき声も……!!
優希くんの声だ―――はっ!?
手が……!?
「うっ、ゆ、ゆうっ! ぷはっ」
するり……繋いだ手が……ほどけていくのに気づいて、急いでつかみ直そうとしたけれど……波が邪魔をする。
「ああっ!! はっ!? ゆっ、ゆうき! カハッ」
波の上に一瞬見えた優希くんの顔は、眠ってるみたいだった。それに身動きひとつしない。どんどん流されて私からはなれてゆく―――。
「待っ! ああっ!!」
待って!
行っちゃダメッ!!
クポンッ、コポコポコポッ―――。
「―――ぷはっ! はあっ、はあっ、ゆうきっ……どこっ!? はあっ、はあっ、ゆうきくんっ!?」
引き波で沖に流されている。上下する波と黒い岩場だけだった視界が見る見る青空を写し出す。
あの岩場にぶつかった……ゆうきくんが背中を……!
私をかばって岩で体を打った!!
私を守るために……ゆうきくんがぎせいに……ううっ。
早く、早く、早くっ!!
ゆうきくんを見つけないと、見つけないとっ、意識を失ってる!!
ウエットスーツが脱げかけていたし、溺れてしまうっ!!
「はあっ、はあっ、ゆうき―――っ!!」
どこっ!?
早くっ!!
「……ゆっ、ゴホッ、ゲホッ、ゆうきぃ!」
見えない、苦しい、声が……出ないっ。
……やだ、いや、いやだっ!
このままじゃゆうきくんが―――死んじゃう!!
「ゆうっ! ゲホッゴホッゴホッ、ああっ!!」
グッポンッ、クプクプクプクプッ―――。
うねりに引き込まれ……くるくると……何か抵抗できる術があるはずもなかった。意識が朦朧としてきてしまう。
……もう……息が、続かない。苦しい、ダメだ……。
ゆうきくん、ゆうきくんっ……ごめん。
ごめん、私が手をはなしてしまったから……。
……どうか、神様。
神様お願いします……ゆうきくんを助けて―――。
―――
―――
―――
―――
―――ここは……どこだろう……?
意識を取り戻し、まず頭に浮かんだ疑問だった。夜眠りについて朝起きた感覚に似ている。自分のベッドの上かなと思った。じっと横になっているみたいだし、まだもう少し眠りたいという気持ちがあったから……でも変だ。ズキズキとした痛みが下の方から上ってくる気がして、私の意識は覚醒したようだ。
その瞬間、荒れ狂う波の映像が脳裏に浮かびあがる!
「―――すうぅぅっ! っ!?」
思い切り息を吸って瞼を開けた。息を吸わないと死ぬ、見えた光景から反射的に頭でそう命令したんだ。けれど、開いた視界にそんなものは見えなかった。動くものも何もない、ただの天井だ。
「ふうぅ……すぅ、はぁー」
普通に息ができることに安心して何度も呼吸を繰り返し確認した。自分のしている事に変なのと思いながら、息が吸えるだけでとても満たされた気分になった。そうして……やっぱりおかしいと気づく。
足が痛い……たぶん、足だ。それに目も、すごく疲れてると思う。何かしたんだろうな……えっと……私……何をして、た……?
「―――はっ!?」
ゆうきくんっ!!
私、海で、離ればなれになったゆうきくんを……。
どうやって私はここに?
誰かが助けてくれて……生きてる……生きてるんだ!
じゃあ、ゆうきくんは……?
ゆうきくんも助けてもらった?
早く確かめないと!
海での危機を思い出し、ゆうきくんの安否がわからず気が焦る。ちょうどそのとき近くで物音が聞こえて……。
「ほ、帆香っ!?」
「ママ……」
声の方に視線を動かすと驚いたママの姿があった。私がこんな事になってきっとママはすぐに駆けつけてくれたんだろう。すごく心配をかけた……だってママが泣いている。
「帆香……よかっ、よかった……本当に……」
ママは急いで私の所へ駆け寄って、何度も何度も大事そうに私の頭を撫でる。
「ママ、ママ! ゆうきくんは!?」
何よりもまず先にそれを知りたくて、教えてほしくて……尋ねたけれど、返事を躊躇っている困った表情でママは言葉を詰まらせた。それでも私はじっとママの顔を見つめて待つ。
「……捜索中よ」
「……見つかってな、っ、まだ?」
周りで鳴ってる機械音にかき消されそうな声で私達は辛い言葉を交わした。
「もう夜だから、朝になったらまた探しに行くって」
「夜? もう夜なの? ここはどこ? 私はどうして助かったの?」
「……児南島付近で海底地震が続けて起きたの。津波で帆香は沖まで流されて、島に戻ってくる途中の漁船に救助されたのよ。それで島の病院に搬送された……」
「……一緒に……ゆ……ゆうきくんっ、は……っ、助けてもらってない?」
ぼやけた視界の中でママは……首を横に振った。
―――なんてこと……もう何時間たっていると?
私だけが……生きて……っ、ゆうきくんが、ゆうきくんが!
つーっと、静かに涙が頬を落ちていった。胸が空っぽになったみたいにスースーして……むなしい、さみしい、悲しい……まるで、ひとりぼっちになったような気になる。それは、ゆうきくんの方なのに。
ゆうきくんのことを考えると、この夏の思い出が溢れるように飛び出してくる。
―――海でゆうきくん達を見つけた時はすごく嬉しかった。ゆうきくんがバディになろう、って……一緒にシュノーケリングをして私の夢を叶えてくれた。ゆうきくんも夢ができたって言ってたな……東京でも絶対会おうって約束もした。私達はバディ……また会う約束……私、それ、守らなきゃ。そうだいくんもきっと、ゆうきくんがいなくて、今ひとりぼっちで泣いてる!
「帆香!? 何するの!?」
上半身を勢いよく起こすと少し頭がクラッとしたが構わず急いだ。ここがベッドの上だとわかって下りようとしたが、腕についていたコードが邪魔で引っ張って自分から剥がす。
「やめなさいっ、帆香!?」
ママは私を止めようとつかんできたが振り払って、私は早く優希くんを探しに行きたいから、足をベッドから下ろし床に着いた……!
けれど、ぺたんと尻もちをついてしまう。片方の足が包帯でぐるぐる巻にされていたのだ。
行かなきゃ、こんなとこで寝ていられない!
「帆香! 何処に行くの!?」
「ゆうきくんを探しに行くっ!」
片足で立ち上がって歩こうとするとママが私の腕を押さえつけて制止する。私は早く海に行きたいのに、ママはすごく怒って叱りつけた。
「いけません! こんな体で無理に決まってるでしょう!?」
「じゃあ、ゆうきくんはどうなるの!? 朝まで待ってたら死んじゃうかもしれないっ! 誰も助けに行かなかったら、死んじゃうよっ!!」
「……それでも、無理なのよ」
私の体はママに支えてもらわなければ、立っていられないくらい弱っていた。足がぶるぶると震えている。
こんな私がゆうきくんを探しに行くのは無理だと自分でもわかってる!
わかってるけどっ、ゆうきくんに、生きててほしいから!!
私はママの両腕につかまってでも訴えた。けれど、ママの表情は固く首を横に振って聞き入れてはもらえない。
「うぅっ……、うっ、ぅ……」
だって、ゆうきくんが……本当に死んじゃう。
ゆうきくんは私を守ってくれたの。しがみついた私をママのように力強く支えて、ゆうきくんは守ってくれた……。
私も必死になって、たくさん助けをお願いしなきゃ……間に合わない!
「ゆうきくん、私をかばって岩にぶつかったの……私を守ってくれたの……すごく痛そうな声をあげてたっ、意識を失っちゃうくらい痛かったんだよ。助けてあげないと……早くっ、ママ……パパ、おじいちゃんもお医者さんでしょ……私が見つけるからっ、皆でゆうきくんを……ひっく……助けて……お願いっ神様ぁ……」
ズルズルとママの足元にへたり込んで、床に両手と頭をつけてお願いをした。
「早くっ、ゆうきくんを助けてあげてほしいの……うぅ、台風が来ちゃうからっ、早くっお願いします……ぅっぅっ」
「っ、帆香! すいません! 誰かっ」
私が床に伏せたままお願いを続けていると、バタバタ足音が近づいてきた。
「どうしました!?」
「娘が意識を取り戻しましたが混乱してしまって……」
「……ちょっと体起こすよ? ケガしてるからベッドに戻ろうか?」
女の人の声がして私は上半身を起こされた。ママと女の人で両腕を左右から抱えられて「せーのっ」の掛け声で立たせてもらったけれど、私は欲しくない助けを拒否する。
「違う違うっ、私のことはいいからっ、ゆうきくんを助けに行って! 助けに行ってくださいぃ!」
「帆香っ落ち着いて!」
力尽くで私の体を押さえつけようとするから、邪魔をされてる気がして激しく抵抗した。
「っ、先生に診てもらいましょうね、すぐ良くなるからね」
「いやぁっ、私のお願いを聞いてっ!」
私じゃなくてっ、私じゃないのに!
どうしてわかってくれないの!?
「帆香、先生方の言う通りにしてちょうだい!?」
「なんでも言う事聞くからっ、ゆうきくんを助けて! またあの波がっ、台風が来たら高波に連れてかれちゃう!!」
こんなにお願いしてるのに……なんで私ばかり……助けようとするの?
助けが必要なのは、ゆうきくんなのにっ……。
また一人、もう一人、私の周りに人が集まってくる。誰か一人くらい私のお願いを聞いてほしいと、私は必死で説明を続けた……。
「ひっく、ゆうきくんを……助けてくださ……ひっひっ、お願いです……まだ海で、ひっく、待っているから……ゆうきくっ……助けて……うぅっ、お願い……ゆうきく……行かないで―――」
私は彷徨う、ゆうきくんのいなくなった世界で。
―――『ほのかちゃん! 手はなさないで!』
……ごめん、ゆうきくん。私がずっと手を繋いでいられたら、離ればなれにならなかったのに。
ごめんね、ごめんね……。
「―――っ!!」
悲しい夢から逃げるように急いで瞼を開けた。目が覚めたばかりで泣きたい気持ちがぐっと込み上げる。頭の中はクラクラするようなフワフワしているような……変な感覚でまるで波に揺られている感じだ。自分の体の異変を感じるけれど、不思議なことにするべき事は私の中で決まっていて……ただ、本能に従って体は動き出した。
ゆうきくんに会いたい―――。
ベッドからするりと抜け出して立つと、ベッド横でイスに腰掛け伏せて休んでいるママがいた。放っておいて私は裸足で歩き始める。片足が思うように動いてくれなくて歩きづらかった。外に出ようと歩いていたものの、ここがどこなのかわからなくなってしまって……
あれ?
どっちに行けばいいんだろう……?
私、海に行かなきゃいけない。
「……ゆうきくぅ……どこぉ?」
歩きながら呼んでみたけど返事がない。声が上手く出せなくて届いてないのかもしれない……。
「ゆーきくーん……?」
何か聞こえた気がする……「―――ぁ―――かぁ」耳を澄まして辺りを彷徨う。
「……ゆうきっ……どこぉ?」
どっちから聞こえてくるのかわからなくて……首を右に左に向け探してみると頭がクラクラしてしまった。
「……香ぁ!? 帆香ぁー!?」
「……あれ? ゆうきく……違う? あーもう、わかんないっ」
「帆香っ、待って! 危ないっ!?」
「え? ―――!?」
ガタガタガタガタッバタンッ!!
重みのある痛みが肩に背中に伝わって、最後に強く頭に衝撃を受けた。
「ウッ……」
「ほのっ、帆香っ!?」
私……ゆうきくんに……会えない?
もう、全部、わからない―――。
私はそのとき階段から落ちたショックで、それまでの記憶を失ったのだ。
次に目覚めた時には……誰のことも覚えていなかった。
「―――帆香!? あぁ……ママの声、聞こえる!?」
「―――?」
「……帆香?」
「……ほのか、って誰ですか?」
―――ゆうきくんのいなくなった世界で、私はまた、和田帆香という私を始めからやり直していたんだ。
児南島の別荘に滞在中、誤って階段から落ちて頭を打ちつけ記憶を失くした……そう教えてもらい、こぼれ落ちた過去を一つ一つ拾い集めていく日々を送った。本当の過去……海で溺れた事と悠希くんの存在が隠されてしまったのは、私を家族が守るためにした事だったのだと理解した。あのときの私に、優希くんの死を受け入れることはできなかったのだから―――。
―――ゆっくりと瞼を開けた。あの夏から今までずうっと……頭の片隅の、端っこの方に、閉じ込めていた記憶を思い出して。
喉の奥では苦々しい後味が残ったままだったが、頭の中はすっきりとしている。忘れていた大切なことを取り戻し、本当の自分になれたからだ。真っすぐな視線で天井を見つめ思い出を整理していると、突然、驚愕する声が耳を刺激した。
「帆香!? 目を覚ましたのね!? 何処か痛い所はある!?」
取り乱した姿のその人を見るのは何度目かと……胸が痛んだ。涙し眉を垂れ下げて顔を歪ませる……どれほど辛い思いをさせてしまったのか。
「わかる!? 病院っ、外で倒れたのよ!? 歩道橋の階段を転落したんじゃないかって……」
急いで私に駆け寄るこの人が、普段、冷静沈着を装っているのは……私が心配をかけたせいで、私を不安にさせない為だ。完璧だからじゃない、私を大切にしている母親だからだ。
「……ママ、ごめんね」
「っ!? 帆香……私をママって……っ、呼んでた記憶があるの?」
「……思い出したの。私に口を出さないで、なんて……ママに酷いこと言ってごめんなさい」
「……っ、いいのよ」
私が無茶をして怪我をしたり危険な目に遭うのを、誰よりも防いでくれていたのはママなんだと思う。私のことが心配で不安でとても心労をかけたはずだ。今回もまた困惑させるのは目に見えてるのだけれど……嘘も誤魔化す事もしないで、ありのままを相談してみたい。
「あのね、私、歩道橋の上から落ちたの……でも、優希くんが守ってくれて助かったんだ。海で溺れた時みたいに私を庇ってくれて……優希くんが蘇ったの。ママ……信じてくれる?」
「……信じる!」
「本当に?」
「ええ。だって、意識を失って倒れてたというのに、帆香に異常も見つからないし傷ひとつないのよ?」
意外にもすんなりと私の発言を受け入れて納得してくれた。それはいつもの母らしくない決断に思えて逆に私が戸惑っていると、私が知らない昔の話を教えてくれる。
「海で溺れて助かったあとも……彼を探しに行くって混乱する帆香に、鎮静剤を投与して眠らせたの。けれど、あまり効かなかったのね……それとも、帆香の意志が固かったのかしら? 起き上がって徘徊している途中に階段から落ちた……私がそばにいたのに、目の前で帆香を転落させて……怪我もさせたし記憶障害も起こしてしまった。私には助けられなかったのよ……でも彼は津波の中でも帆香を庇って守ってくれたって、そうでしょう?」
「……そうだよ、っ、優希くんは自分を犠牲にしてくれた……の……」
「大事な娘を守ってくれた、彼の力を……私が信じないわけないじゃない。とっても感謝しているの。本当は……彼も助かって欲しかった、私も助けたかったのよ……でも、災害の脅威に人は無力だったの」
「うん、わかってる……」
優希くんは波にさらわれて、誰にも見つけてもらえず、海の何処かでずっと眠ってる―――。
そして、優希くんの魂は……天使の見習いとして生き続けてた。
『天国まで魂を届けるのが天使の仕事なんだ。死の直前に立ち会って魂の旅立ちを手伝う。それで、今ここで……僕に与えられた任務を……放棄して運命を変える!』
私が歩道橋の上から転落死するはずの被害者で……。
蒼大くんが加害者として罪を背負うはずだった……。
私と蒼大くんの運命を変えた天使は……掟を破ったから天に帰らないといけない……それが、優希くんの運命。
「それでね、優希くんは私を助けたあと消えちゃったんだけど……宵とともに魂は天国へのぼってゆくんだって……」
「……日が暮れてまだ間もない時、かしら?」
「たぶんそう……日が沈んだ後、夜を迎える頃、だと思う。私が転落した時はもう暗かったから……明日の宵の時が旅立ちなんじゃないかと思ってるの。合ってるかな?」
「そうね、合点がいくわ」
「優希くんは……一度海に戻らないと、って消えてしまったから。私が思うに、児南島の海から天国にのぼるんだって考えて……それで……私ね、明日の夕暮れまでに児南島に行きたい! 優希くんに会ってちゃんとお別れをしたいの!」
優希くんに会いたい―――。
今度こそ、絶対に。
私が強い意志を込めた視線でママを見つめると、固まった表情をやわらげゆっくりと頷いて見せた。
「わかったわ。でも私は診察があるから連れて行けない。おばあちゃんに相談してみるわ。それと、無茶はしないこと、いいわね?」
「はい……ママ、ありがとう」
そう私が御礼を伝えると、ママはいつになく優しい目元で朗らかな顔をしていた。ママも、本来の母親の姿に戻れたのかもしれなかった―――。
そして、私は―――優希くんと過ごした高校生活の記憶を整理する。
『ねぇ……帆香ちゃん、僕と恋をしよう?』
卒業式の日、椎名先輩に花束を届けに行った時……私の目を塞いだ優希くんは幻だ。私には視界を隠された後の記憶がちゃんとある―――。
あの時……椎名先輩が青山先輩の頬に手を添えて、ずうっと愛しそうに見つめていた、そのあとの―――本当の記憶……すなわち、現実だ。椎名先輩は青山先輩の手を取って大事そうに繋いだまま……何かを話して……青山先輩が泣きながら何度もうんうんと頷いていた。だぶん、嬉しい言葉をもらったんだろうと私は覗き見してて思ったんだ。それから椎名先輩は繋いだ手をはなさずに青山先輩の頭をポンポンとして慰めた。……そっとハグをして自分の胸を貸し、背中に回した手で青山先輩を優しくあやしていた。とても仲睦まじく……素敵なカップルに見えた。
―――失恋、ぽい?
……慕っていた先輩が恋人に優しくする場面を見てしまった、失恋して悲しみに暮れる―――私に起きた現実はそのように見えるかもしれない。天使だという優希くんには、人の記憶を共有できる力が……?
だから私に失恋という辛い思い出が残らないよう、自分との新しい記憶にすり替えた……?
3年生の始業日の出来事もおかしい。優希くんと初めて対話したという記憶も……現実ではあり得ない位置関係だ。なぜなら、私の後ろにはいつも誰もいない。新学年の初めは必ず出席番号順で座席が決まっている。私はわ行の名字だから窓際の一番後ろが定位置だ。か行の優希くんが私の後席になるはずがない。それに、何よりも、クラス委員は私一人きりで補佐役など……元々存在していないのだから。
現実には無いものも不可思議な事も、夢の中では当然のように進行してゆく。そんなふうに優希くんは私の記憶に自分の存在を入りこませている?
じゃあ募金活動の日も……と思い返してみれば、実際は踏んだり蹴ったりな結末だったんだ。募金グループは同学年で人数分けされて、同じ班になった子達はSコースの3年1組の女子だった。初めて顔を合わせる子達だったので私はまず挨拶をした。
「今日はよろしくお願いします。A組の和田帆香です」
「あ、特Aの和田さん? 知ってる知ってる」
「あー、あの有名な和田さんだ」
「有名……?」
私は彼女達を知らなかったが、彼女達は私のことを大袈裟に言うので首を傾げた。
「おうちが病院なんでしょ!? いいなぁ~、お金持ちで」
「そっ……!」
「ほんとそれぇ、代々お医者さんのうちの生まれとか勝ち組だよね~」
「い、あっ……」
ちょっと違うと説明する前に羨ましがられ、いいとこ取りの噂で私のイメージが固定されてしまっているようだった。
「生徒会もしてたよね? 凄いなぁ、私とは頭の出来が違うよぉ」
「あ、医学部受けるんだって? 誰だっけ、特Aの学年トップの子と張り合ってるんでしょ?」
「そうなの? でも和田さんなら大丈夫だよ、内申とか完璧じゃん」
「だよね~。今日も余裕でボランティアって感じ、ね?」
私が会話に入らなくとも勝手に私の話が進んで完結したみたい。訂正とか私の気持ちとかいらない気がして「そうだね……」と作り笑いで返したんだ。本心は少し悲しかった……私も頑張ってるんだよって心の中では訴えていたのに。自分のこと凄いなんて、余裕だなんて、全然思ってなくて。結構必至で毎日いっぱいいっぱいなんだけど……皆にはわかってもらえない悔しさも感じてた。その日は暑かったけれど、頑張ってボランティア活動をしていたら軽い目眩を起こすくらい疲れてしまった。解散した後に1組の子達は、アイス食べながら帰ろうって仲良く私に手を振って……またしょんぼりと落ちこんだ。私はなんでも一生懸命にしてきたけれど、一緒にアイスを食べるような仲良しの友達はいないなと思って……。孤独感を抱きながら歩いていたら、落ちていたペットボトルを踏んで……転んだ。あのとき私は転んだんだ。転びそうな私を優希くんが現れて助けてくれて……ずっと手を繋いで歩いてくれて……アイスを食べに行こうと誘ってくれたのは……優希くんの優しさで施された記憶だ。本当は膝を擦りむいて血が滲みヒリヒリと痛かった。誰かに見られるのが恥ずかしくて、急いで立ち上がり平気なフリをした。誰にも声をかけられなかった事に安堵して早足で逃げたんだ。その日の体調不良はあとを引いてしまい、翌週の判定模試では実力を発揮できなかった。擦り傷もすぐには治らず、膝を折り曲げる度に痛かったし痕が消えるまで……ずっと……ちょっぴり……悲しかった。
それから、あぁ、体育祭の話し合いで私がパニックになった時に現れた優希くんも幻だ。あのとき、本当は、皆の視線が怖くて何も喋れず……その場にへたり込んだ。バタッと教壇机の後ろで足がくずれうずくまって……一瞬何がどうなったか自分でもわからなくなった。「ああっ!」「おぉっ!?」「ちょっ!?」ガタガタといっぺんに雑音がして「和田、大丈夫か!?」と近くで響いた担任の声で失いかけた意識が留まる。
「あ、大丈夫です……」
「立てるなら保健室で休もう?」
「はい……」
この場から早く離れたい気持ちでいっぱいだった。破裂しそうな頭の中ではもう何も考えたくなくて……逃げたい、逃げよう、しかグルグル回っていなかった。だからすぐに立ち上がって教室の外へ出ようと向かったんだ。
「えーと、先生は席外すけど体育委員進めておいて。浅野、進行手伝ってやってくれるか?」
「はい、了解す」
あと少しで教室から出れる直前だった。言い残すように担任が指示をして、ざわざわした空気と共にそれは私の耳に流れついた。
「そうゆうか弱いとこ見せられちゃうと、なんでも女子特別みたいな風潮になるよな……」
何処からか発せられた言葉に胸が絞られ痛い……自分を責めながら保健室に行った。担任に付き添われていたのが現実で優希くんと一緒に行ったんじゃない。そのとき私はずっと泣きたいのを我慢していた。一人で不安も悔しさも抱え込んだまま。自分が情けない人格である事を晒すのは怖かったんだ。本当は誰かに助けてもらいたいと思っていたのに……。
だから私が辛い時、寂しい時、泣きたい時……優希くんはいつも私の側に来て助けてくれた。それが現実でなくても、夢で叶ったかのように、記憶として私の中にインプットした―――。
そして図書館で居眠りする私に、このあとの運命を変える宣誓をしてくれた『今度は絶対僕が守るから―――』。それが天使から私に与えられた施しの記憶の最後だ。
もう一度よく思い出してみる……歩道橋で蒼大くんと再会して……優希くんが現れた。私の転落死を回避するなら蒼大くんを止めればいいはずなのにそうしなかった。もしかしたら、起こり得る死の事象を変えることはできなかったのかもしれない。天使として救えるのは……天国へ導く対象者だけ……私だけだった?
それで、対象者の魂の代わりに……天使の魂が天国へのぼる。
『平気、僕の進む道はもう決まってるから。準備もできてるし後は前進あるのみなんだ』
私の運命を変える代償が、優希くんの魂だった―――。私は二度も優希くんに命を守ってもらったんだ―――。
その慈悲深い献身的な優しさに……私の心は……優希くんに助けてもらった心は……震えるほど感動し……涙をボトボトこぼして感謝し続けた。全ての記憶が戻った今、私の中に湧き上がるのは―――あなたが恋しい。優希くんが恋しくてたまらない……早く会いたい、その気持ちだけ。
優希くんに……早く会いたい―――。
優希くんの肩が私の肩にぶつかって、優希くんは咄嗟に片手で私の背中を支えてくれたようだ。けれど、ふたり重なったまま砂浜の方へ波で押し流された。一瞬の事だ。波しぶきに息を止めて耐え波が落ち着くのを待って態勢を整えた。
「ほのかちゃん! 大丈夫!?」
「だっ大丈夫! もう台風の波が!?」
「いや、どうして……とにかく今のうちに、っ!?」
「きゃあ!?」
今度は引き波だ。そう思った瞬間ぐんと速さが増した。
怖い!
波が変だ……勝手に体が流される……怖いっ!!
「ほのかちゃっ! 手をっ! 僕につかまって!」
「ゆうきくっ!」
「絶対はなさないから! 約束する!」
「うん! あ、背中が……」
決死の表情をした優希くんが私に声を届けようと強い力で引き寄せる。離ればなれにならないよう私は力いっぱいしがみついた。すると優希くんのウエットスーツのジッパーが外れかけている事に気づいたが手が回らない……まるで海を全速力で走っているかのスピードで砂浜から遠ざかっているからだ。溺れないよう息を確保するだけで精一杯……苦しいっ。
「ぷはっ、はあっ、はあっ、こんなに沖に……いったい何が……」
「はあっ、はあっ、ここはっ!?」
流されるスピードが落ちてきたので足と片手で海中をかいてバランスをとり周囲を見回した。これまで泳いだ事のない所まで流されている。きっと水深もあるはずだ。あちこちに白波が立っていて、海の中と海面上の流れが違う気がする。体が傾いてしまって上手く立ち泳ぎもできない。
あんなに穏やかだった波がどうしてこんな急に!?
早く安全な場所へ行けなければ、どこに流されるかわからない!!
「泳いで岸に着くのは、っ、難しい……救助を待つしか……」
「あっ、背中のジッパー……上げないとっ……」
「ほのかちゃん! 手はなさないで!」
「でもっ」
「いいからっ、いい!? 無理に泳いだりしないで! 浮いたまま呼吸確保だよ!?」
「わかった……」
「「 っっ!?!? 」」
また急に流れが変わって横や斜めにおかしく体が揺さぶられ、ぐるっと巻き込む力にふたりしてのみこまれる。
コポンッ、クポッ、ゴボゴボゴボゴボ―――ッ!!
……すごい、うねり、体がっ……回転するっ……!?
「ぷっはあっ!! ガハッガハッ、ほのかちゃっ……」
「ゴホッゴホッ、んっ、はあっ、すーうっ、はあっ」
うねりの中に突入して放り出された。もう方向が全くわからない。海水も飲んでしまったし目も痛くて……しぶきが顔にかかってくるから息もまともに吸えない。
苦しい……苦しい……あれ?
フィンが……なくなってる!?
「はあっはあっ、まずい……岩場が……」
「すーうっ、はあっ、すぅ、はぁ……」
体力の消耗が著しく、この荒れ狂う波に耐える気力さえ……失いかけていた。絶望的な危機を感じながらも、命綱である優希くんの手は決してはなさないよう、それだけに意識を集中させる。
「ほの……ちゃ……高波だ、っ!」
「……うぅーっ、ああっ!」
ザァバアァ―――ッ!!
大きな波力を体で受けて連れて行かれる―――今度はどこへ―――その波は岸でもなく、沖でもなく、入り江の岩場にぶつかったのだ。
「グッハアァッ!!」
「くっ!」
体中に衝撃が走った。すぐ近くでうめき声も……!!
優希くんの声だ―――はっ!?
手が……!?
「うっ、ゆ、ゆうっ! ぷはっ」
するり……繋いだ手が……ほどけていくのに気づいて、急いでつかみ直そうとしたけれど……波が邪魔をする。
「ああっ!! はっ!? ゆっ、ゆうき! カハッ」
波の上に一瞬見えた優希くんの顔は、眠ってるみたいだった。それに身動きひとつしない。どんどん流されて私からはなれてゆく―――。
「待っ! ああっ!!」
待って!
行っちゃダメッ!!
クポンッ、コポコポコポッ―――。
「―――ぷはっ! はあっ、はあっ、ゆうきっ……どこっ!? はあっ、はあっ、ゆうきくんっ!?」
引き波で沖に流されている。上下する波と黒い岩場だけだった視界が見る見る青空を写し出す。
あの岩場にぶつかった……ゆうきくんが背中を……!
私をかばって岩で体を打った!!
私を守るために……ゆうきくんがぎせいに……ううっ。
早く、早く、早くっ!!
ゆうきくんを見つけないと、見つけないとっ、意識を失ってる!!
ウエットスーツが脱げかけていたし、溺れてしまうっ!!
「はあっ、はあっ、ゆうき―――っ!!」
どこっ!?
早くっ!!
「……ゆっ、ゴホッ、ゲホッ、ゆうきぃ!」
見えない、苦しい、声が……出ないっ。
……やだ、いや、いやだっ!
このままじゃゆうきくんが―――死んじゃう!!
「ゆうっ! ゲホッゴホッゴホッ、ああっ!!」
グッポンッ、クプクプクプクプッ―――。
うねりに引き込まれ……くるくると……何か抵抗できる術があるはずもなかった。意識が朦朧としてきてしまう。
……もう……息が、続かない。苦しい、ダメだ……。
ゆうきくん、ゆうきくんっ……ごめん。
ごめん、私が手をはなしてしまったから……。
……どうか、神様。
神様お願いします……ゆうきくんを助けて―――。
―――
―――
―――
―――
―――ここは……どこだろう……?
意識を取り戻し、まず頭に浮かんだ疑問だった。夜眠りについて朝起きた感覚に似ている。自分のベッドの上かなと思った。じっと横になっているみたいだし、まだもう少し眠りたいという気持ちがあったから……でも変だ。ズキズキとした痛みが下の方から上ってくる気がして、私の意識は覚醒したようだ。
その瞬間、荒れ狂う波の映像が脳裏に浮かびあがる!
「―――すうぅぅっ! っ!?」
思い切り息を吸って瞼を開けた。息を吸わないと死ぬ、見えた光景から反射的に頭でそう命令したんだ。けれど、開いた視界にそんなものは見えなかった。動くものも何もない、ただの天井だ。
「ふうぅ……すぅ、はぁー」
普通に息ができることに安心して何度も呼吸を繰り返し確認した。自分のしている事に変なのと思いながら、息が吸えるだけでとても満たされた気分になった。そうして……やっぱりおかしいと気づく。
足が痛い……たぶん、足だ。それに目も、すごく疲れてると思う。何かしたんだろうな……えっと……私……何をして、た……?
「―――はっ!?」
ゆうきくんっ!!
私、海で、離ればなれになったゆうきくんを……。
どうやって私はここに?
誰かが助けてくれて……生きてる……生きてるんだ!
じゃあ、ゆうきくんは……?
ゆうきくんも助けてもらった?
早く確かめないと!
海での危機を思い出し、ゆうきくんの安否がわからず気が焦る。ちょうどそのとき近くで物音が聞こえて……。
「ほ、帆香っ!?」
「ママ……」
声の方に視線を動かすと驚いたママの姿があった。私がこんな事になってきっとママはすぐに駆けつけてくれたんだろう。すごく心配をかけた……だってママが泣いている。
「帆香……よかっ、よかった……本当に……」
ママは急いで私の所へ駆け寄って、何度も何度も大事そうに私の頭を撫でる。
「ママ、ママ! ゆうきくんは!?」
何よりもまず先にそれを知りたくて、教えてほしくて……尋ねたけれど、返事を躊躇っている困った表情でママは言葉を詰まらせた。それでも私はじっとママの顔を見つめて待つ。
「……捜索中よ」
「……見つかってな、っ、まだ?」
周りで鳴ってる機械音にかき消されそうな声で私達は辛い言葉を交わした。
「もう夜だから、朝になったらまた探しに行くって」
「夜? もう夜なの? ここはどこ? 私はどうして助かったの?」
「……児南島付近で海底地震が続けて起きたの。津波で帆香は沖まで流されて、島に戻ってくる途中の漁船に救助されたのよ。それで島の病院に搬送された……」
「……一緒に……ゆ……ゆうきくんっ、は……っ、助けてもらってない?」
ぼやけた視界の中でママは……首を横に振った。
―――なんてこと……もう何時間たっていると?
私だけが……生きて……っ、ゆうきくんが、ゆうきくんが!
つーっと、静かに涙が頬を落ちていった。胸が空っぽになったみたいにスースーして……むなしい、さみしい、悲しい……まるで、ひとりぼっちになったような気になる。それは、ゆうきくんの方なのに。
ゆうきくんのことを考えると、この夏の思い出が溢れるように飛び出してくる。
―――海でゆうきくん達を見つけた時はすごく嬉しかった。ゆうきくんがバディになろう、って……一緒にシュノーケリングをして私の夢を叶えてくれた。ゆうきくんも夢ができたって言ってたな……東京でも絶対会おうって約束もした。私達はバディ……また会う約束……私、それ、守らなきゃ。そうだいくんもきっと、ゆうきくんがいなくて、今ひとりぼっちで泣いてる!
「帆香!? 何するの!?」
上半身を勢いよく起こすと少し頭がクラッとしたが構わず急いだ。ここがベッドの上だとわかって下りようとしたが、腕についていたコードが邪魔で引っ張って自分から剥がす。
「やめなさいっ、帆香!?」
ママは私を止めようとつかんできたが振り払って、私は早く優希くんを探しに行きたいから、足をベッドから下ろし床に着いた……!
けれど、ぺたんと尻もちをついてしまう。片方の足が包帯でぐるぐる巻にされていたのだ。
行かなきゃ、こんなとこで寝ていられない!
「帆香! 何処に行くの!?」
「ゆうきくんを探しに行くっ!」
片足で立ち上がって歩こうとするとママが私の腕を押さえつけて制止する。私は早く海に行きたいのに、ママはすごく怒って叱りつけた。
「いけません! こんな体で無理に決まってるでしょう!?」
「じゃあ、ゆうきくんはどうなるの!? 朝まで待ってたら死んじゃうかもしれないっ! 誰も助けに行かなかったら、死んじゃうよっ!!」
「……それでも、無理なのよ」
私の体はママに支えてもらわなければ、立っていられないくらい弱っていた。足がぶるぶると震えている。
こんな私がゆうきくんを探しに行くのは無理だと自分でもわかってる!
わかってるけどっ、ゆうきくんに、生きててほしいから!!
私はママの両腕につかまってでも訴えた。けれど、ママの表情は固く首を横に振って聞き入れてはもらえない。
「うぅっ……、うっ、ぅ……」
だって、ゆうきくんが……本当に死んじゃう。
ゆうきくんは私を守ってくれたの。しがみついた私をママのように力強く支えて、ゆうきくんは守ってくれた……。
私も必死になって、たくさん助けをお願いしなきゃ……間に合わない!
「ゆうきくん、私をかばって岩にぶつかったの……私を守ってくれたの……すごく痛そうな声をあげてたっ、意識を失っちゃうくらい痛かったんだよ。助けてあげないと……早くっ、ママ……パパ、おじいちゃんもお医者さんでしょ……私が見つけるからっ、皆でゆうきくんを……ひっく……助けて……お願いっ神様ぁ……」
ズルズルとママの足元にへたり込んで、床に両手と頭をつけてお願いをした。
「早くっ、ゆうきくんを助けてあげてほしいの……うぅ、台風が来ちゃうからっ、早くっお願いします……ぅっぅっ」
「っ、帆香! すいません! 誰かっ」
私が床に伏せたままお願いを続けていると、バタバタ足音が近づいてきた。
「どうしました!?」
「娘が意識を取り戻しましたが混乱してしまって……」
「……ちょっと体起こすよ? ケガしてるからベッドに戻ろうか?」
女の人の声がして私は上半身を起こされた。ママと女の人で両腕を左右から抱えられて「せーのっ」の掛け声で立たせてもらったけれど、私は欲しくない助けを拒否する。
「違う違うっ、私のことはいいからっ、ゆうきくんを助けに行って! 助けに行ってくださいぃ!」
「帆香っ落ち着いて!」
力尽くで私の体を押さえつけようとするから、邪魔をされてる気がして激しく抵抗した。
「っ、先生に診てもらいましょうね、すぐ良くなるからね」
「いやぁっ、私のお願いを聞いてっ!」
私じゃなくてっ、私じゃないのに!
どうしてわかってくれないの!?
「帆香、先生方の言う通りにしてちょうだい!?」
「なんでも言う事聞くからっ、ゆうきくんを助けて! またあの波がっ、台風が来たら高波に連れてかれちゃう!!」
こんなにお願いしてるのに……なんで私ばかり……助けようとするの?
助けが必要なのは、ゆうきくんなのにっ……。
また一人、もう一人、私の周りに人が集まってくる。誰か一人くらい私のお願いを聞いてほしいと、私は必死で説明を続けた……。
「ひっく、ゆうきくんを……助けてくださ……ひっひっ、お願いです……まだ海で、ひっく、待っているから……ゆうきくっ……助けて……うぅっ、お願い……ゆうきく……行かないで―――」
私は彷徨う、ゆうきくんのいなくなった世界で。
―――『ほのかちゃん! 手はなさないで!』
……ごめん、ゆうきくん。私がずっと手を繋いでいられたら、離ればなれにならなかったのに。
ごめんね、ごめんね……。
「―――っ!!」
悲しい夢から逃げるように急いで瞼を開けた。目が覚めたばかりで泣きたい気持ちがぐっと込み上げる。頭の中はクラクラするようなフワフワしているような……変な感覚でまるで波に揺られている感じだ。自分の体の異変を感じるけれど、不思議なことにするべき事は私の中で決まっていて……ただ、本能に従って体は動き出した。
ゆうきくんに会いたい―――。
ベッドからするりと抜け出して立つと、ベッド横でイスに腰掛け伏せて休んでいるママがいた。放っておいて私は裸足で歩き始める。片足が思うように動いてくれなくて歩きづらかった。外に出ようと歩いていたものの、ここがどこなのかわからなくなってしまって……
あれ?
どっちに行けばいいんだろう……?
私、海に行かなきゃいけない。
「……ゆうきくぅ……どこぉ?」
歩きながら呼んでみたけど返事がない。声が上手く出せなくて届いてないのかもしれない……。
「ゆーきくーん……?」
何か聞こえた気がする……「―――ぁ―――かぁ」耳を澄まして辺りを彷徨う。
「……ゆうきっ……どこぉ?」
どっちから聞こえてくるのかわからなくて……首を右に左に向け探してみると頭がクラクラしてしまった。
「……香ぁ!? 帆香ぁー!?」
「……あれ? ゆうきく……違う? あーもう、わかんないっ」
「帆香っ、待って! 危ないっ!?」
「え? ―――!?」
ガタガタガタガタッバタンッ!!
重みのある痛みが肩に背中に伝わって、最後に強く頭に衝撃を受けた。
「ウッ……」
「ほのっ、帆香っ!?」
私……ゆうきくんに……会えない?
もう、全部、わからない―――。
私はそのとき階段から落ちたショックで、それまでの記憶を失ったのだ。
次に目覚めた時には……誰のことも覚えていなかった。
「―――帆香!? あぁ……ママの声、聞こえる!?」
「―――?」
「……帆香?」
「……ほのか、って誰ですか?」
―――ゆうきくんのいなくなった世界で、私はまた、和田帆香という私を始めからやり直していたんだ。
児南島の別荘に滞在中、誤って階段から落ちて頭を打ちつけ記憶を失くした……そう教えてもらい、こぼれ落ちた過去を一つ一つ拾い集めていく日々を送った。本当の過去……海で溺れた事と悠希くんの存在が隠されてしまったのは、私を家族が守るためにした事だったのだと理解した。あのときの私に、優希くんの死を受け入れることはできなかったのだから―――。
―――ゆっくりと瞼を開けた。あの夏から今までずうっと……頭の片隅の、端っこの方に、閉じ込めていた記憶を思い出して。
喉の奥では苦々しい後味が残ったままだったが、頭の中はすっきりとしている。忘れていた大切なことを取り戻し、本当の自分になれたからだ。真っすぐな視線で天井を見つめ思い出を整理していると、突然、驚愕する声が耳を刺激した。
「帆香!? 目を覚ましたのね!? 何処か痛い所はある!?」
取り乱した姿のその人を見るのは何度目かと……胸が痛んだ。涙し眉を垂れ下げて顔を歪ませる……どれほど辛い思いをさせてしまったのか。
「わかる!? 病院っ、外で倒れたのよ!? 歩道橋の階段を転落したんじゃないかって……」
急いで私に駆け寄るこの人が、普段、冷静沈着を装っているのは……私が心配をかけたせいで、私を不安にさせない為だ。完璧だからじゃない、私を大切にしている母親だからだ。
「……ママ、ごめんね」
「っ!? 帆香……私をママって……っ、呼んでた記憶があるの?」
「……思い出したの。私に口を出さないで、なんて……ママに酷いこと言ってごめんなさい」
「……っ、いいのよ」
私が無茶をして怪我をしたり危険な目に遭うのを、誰よりも防いでくれていたのはママなんだと思う。私のことが心配で不安でとても心労をかけたはずだ。今回もまた困惑させるのは目に見えてるのだけれど……嘘も誤魔化す事もしないで、ありのままを相談してみたい。
「あのね、私、歩道橋の上から落ちたの……でも、優希くんが守ってくれて助かったんだ。海で溺れた時みたいに私を庇ってくれて……優希くんが蘇ったの。ママ……信じてくれる?」
「……信じる!」
「本当に?」
「ええ。だって、意識を失って倒れてたというのに、帆香に異常も見つからないし傷ひとつないのよ?」
意外にもすんなりと私の発言を受け入れて納得してくれた。それはいつもの母らしくない決断に思えて逆に私が戸惑っていると、私が知らない昔の話を教えてくれる。
「海で溺れて助かったあとも……彼を探しに行くって混乱する帆香に、鎮静剤を投与して眠らせたの。けれど、あまり効かなかったのね……それとも、帆香の意志が固かったのかしら? 起き上がって徘徊している途中に階段から落ちた……私がそばにいたのに、目の前で帆香を転落させて……怪我もさせたし記憶障害も起こしてしまった。私には助けられなかったのよ……でも彼は津波の中でも帆香を庇って守ってくれたって、そうでしょう?」
「……そうだよ、っ、優希くんは自分を犠牲にしてくれた……の……」
「大事な娘を守ってくれた、彼の力を……私が信じないわけないじゃない。とっても感謝しているの。本当は……彼も助かって欲しかった、私も助けたかったのよ……でも、災害の脅威に人は無力だったの」
「うん、わかってる……」
優希くんは波にさらわれて、誰にも見つけてもらえず、海の何処かでずっと眠ってる―――。
そして、優希くんの魂は……天使の見習いとして生き続けてた。
『天国まで魂を届けるのが天使の仕事なんだ。死の直前に立ち会って魂の旅立ちを手伝う。それで、今ここで……僕に与えられた任務を……放棄して運命を変える!』
私が歩道橋の上から転落死するはずの被害者で……。
蒼大くんが加害者として罪を背負うはずだった……。
私と蒼大くんの運命を変えた天使は……掟を破ったから天に帰らないといけない……それが、優希くんの運命。
「それでね、優希くんは私を助けたあと消えちゃったんだけど……宵とともに魂は天国へのぼってゆくんだって……」
「……日が暮れてまだ間もない時、かしら?」
「たぶんそう……日が沈んだ後、夜を迎える頃、だと思う。私が転落した時はもう暗かったから……明日の宵の時が旅立ちなんじゃないかと思ってるの。合ってるかな?」
「そうね、合点がいくわ」
「優希くんは……一度海に戻らないと、って消えてしまったから。私が思うに、児南島の海から天国にのぼるんだって考えて……それで……私ね、明日の夕暮れまでに児南島に行きたい! 優希くんに会ってちゃんとお別れをしたいの!」
優希くんに会いたい―――。
今度こそ、絶対に。
私が強い意志を込めた視線でママを見つめると、固まった表情をやわらげゆっくりと頷いて見せた。
「わかったわ。でも私は診察があるから連れて行けない。おばあちゃんに相談してみるわ。それと、無茶はしないこと、いいわね?」
「はい……ママ、ありがとう」
そう私が御礼を伝えると、ママはいつになく優しい目元で朗らかな顔をしていた。ママも、本来の母親の姿に戻れたのかもしれなかった―――。
そして、私は―――優希くんと過ごした高校生活の記憶を整理する。
『ねぇ……帆香ちゃん、僕と恋をしよう?』
卒業式の日、椎名先輩に花束を届けに行った時……私の目を塞いだ優希くんは幻だ。私には視界を隠された後の記憶がちゃんとある―――。
あの時……椎名先輩が青山先輩の頬に手を添えて、ずうっと愛しそうに見つめていた、そのあとの―――本当の記憶……すなわち、現実だ。椎名先輩は青山先輩の手を取って大事そうに繋いだまま……何かを話して……青山先輩が泣きながら何度もうんうんと頷いていた。だぶん、嬉しい言葉をもらったんだろうと私は覗き見してて思ったんだ。それから椎名先輩は繋いだ手をはなさずに青山先輩の頭をポンポンとして慰めた。……そっとハグをして自分の胸を貸し、背中に回した手で青山先輩を優しくあやしていた。とても仲睦まじく……素敵なカップルに見えた。
―――失恋、ぽい?
……慕っていた先輩が恋人に優しくする場面を見てしまった、失恋して悲しみに暮れる―――私に起きた現実はそのように見えるかもしれない。天使だという優希くんには、人の記憶を共有できる力が……?
だから私に失恋という辛い思い出が残らないよう、自分との新しい記憶にすり替えた……?
3年生の始業日の出来事もおかしい。優希くんと初めて対話したという記憶も……現実ではあり得ない位置関係だ。なぜなら、私の後ろにはいつも誰もいない。新学年の初めは必ず出席番号順で座席が決まっている。私はわ行の名字だから窓際の一番後ろが定位置だ。か行の優希くんが私の後席になるはずがない。それに、何よりも、クラス委員は私一人きりで補佐役など……元々存在していないのだから。
現実には無いものも不可思議な事も、夢の中では当然のように進行してゆく。そんなふうに優希くんは私の記憶に自分の存在を入りこませている?
じゃあ募金活動の日も……と思い返してみれば、実際は踏んだり蹴ったりな結末だったんだ。募金グループは同学年で人数分けされて、同じ班になった子達はSコースの3年1組の女子だった。初めて顔を合わせる子達だったので私はまず挨拶をした。
「今日はよろしくお願いします。A組の和田帆香です」
「あ、特Aの和田さん? 知ってる知ってる」
「あー、あの有名な和田さんだ」
「有名……?」
私は彼女達を知らなかったが、彼女達は私のことを大袈裟に言うので首を傾げた。
「おうちが病院なんでしょ!? いいなぁ~、お金持ちで」
「そっ……!」
「ほんとそれぇ、代々お医者さんのうちの生まれとか勝ち組だよね~」
「い、あっ……」
ちょっと違うと説明する前に羨ましがられ、いいとこ取りの噂で私のイメージが固定されてしまっているようだった。
「生徒会もしてたよね? 凄いなぁ、私とは頭の出来が違うよぉ」
「あ、医学部受けるんだって? 誰だっけ、特Aの学年トップの子と張り合ってるんでしょ?」
「そうなの? でも和田さんなら大丈夫だよ、内申とか完璧じゃん」
「だよね~。今日も余裕でボランティアって感じ、ね?」
私が会話に入らなくとも勝手に私の話が進んで完結したみたい。訂正とか私の気持ちとかいらない気がして「そうだね……」と作り笑いで返したんだ。本心は少し悲しかった……私も頑張ってるんだよって心の中では訴えていたのに。自分のこと凄いなんて、余裕だなんて、全然思ってなくて。結構必至で毎日いっぱいいっぱいなんだけど……皆にはわかってもらえない悔しさも感じてた。その日は暑かったけれど、頑張ってボランティア活動をしていたら軽い目眩を起こすくらい疲れてしまった。解散した後に1組の子達は、アイス食べながら帰ろうって仲良く私に手を振って……またしょんぼりと落ちこんだ。私はなんでも一生懸命にしてきたけれど、一緒にアイスを食べるような仲良しの友達はいないなと思って……。孤独感を抱きながら歩いていたら、落ちていたペットボトルを踏んで……転んだ。あのとき私は転んだんだ。転びそうな私を優希くんが現れて助けてくれて……ずっと手を繋いで歩いてくれて……アイスを食べに行こうと誘ってくれたのは……優希くんの優しさで施された記憶だ。本当は膝を擦りむいて血が滲みヒリヒリと痛かった。誰かに見られるのが恥ずかしくて、急いで立ち上がり平気なフリをした。誰にも声をかけられなかった事に安堵して早足で逃げたんだ。その日の体調不良はあとを引いてしまい、翌週の判定模試では実力を発揮できなかった。擦り傷もすぐには治らず、膝を折り曲げる度に痛かったし痕が消えるまで……ずっと……ちょっぴり……悲しかった。
それから、あぁ、体育祭の話し合いで私がパニックになった時に現れた優希くんも幻だ。あのとき、本当は、皆の視線が怖くて何も喋れず……その場にへたり込んだ。バタッと教壇机の後ろで足がくずれうずくまって……一瞬何がどうなったか自分でもわからなくなった。「ああっ!」「おぉっ!?」「ちょっ!?」ガタガタといっぺんに雑音がして「和田、大丈夫か!?」と近くで響いた担任の声で失いかけた意識が留まる。
「あ、大丈夫です……」
「立てるなら保健室で休もう?」
「はい……」
この場から早く離れたい気持ちでいっぱいだった。破裂しそうな頭の中ではもう何も考えたくなくて……逃げたい、逃げよう、しかグルグル回っていなかった。だからすぐに立ち上がって教室の外へ出ようと向かったんだ。
「えーと、先生は席外すけど体育委員進めておいて。浅野、進行手伝ってやってくれるか?」
「はい、了解す」
あと少しで教室から出れる直前だった。言い残すように担任が指示をして、ざわざわした空気と共にそれは私の耳に流れついた。
「そうゆうか弱いとこ見せられちゃうと、なんでも女子特別みたいな風潮になるよな……」
何処からか発せられた言葉に胸が絞られ痛い……自分を責めながら保健室に行った。担任に付き添われていたのが現実で優希くんと一緒に行ったんじゃない。そのとき私はずっと泣きたいのを我慢していた。一人で不安も悔しさも抱え込んだまま。自分が情けない人格である事を晒すのは怖かったんだ。本当は誰かに助けてもらいたいと思っていたのに……。
だから私が辛い時、寂しい時、泣きたい時……優希くんはいつも私の側に来て助けてくれた。それが現実でなくても、夢で叶ったかのように、記憶として私の中にインプットした―――。
そして図書館で居眠りする私に、このあとの運命を変える宣誓をしてくれた『今度は絶対僕が守るから―――』。それが天使から私に与えられた施しの記憶の最後だ。
もう一度よく思い出してみる……歩道橋で蒼大くんと再会して……優希くんが現れた。私の転落死を回避するなら蒼大くんを止めればいいはずなのにそうしなかった。もしかしたら、起こり得る死の事象を変えることはできなかったのかもしれない。天使として救えるのは……天国へ導く対象者だけ……私だけだった?
それで、対象者の魂の代わりに……天使の魂が天国へのぼる。
『平気、僕の進む道はもう決まってるから。準備もできてるし後は前進あるのみなんだ』
私の運命を変える代償が、優希くんの魂だった―――。私は二度も優希くんに命を守ってもらったんだ―――。
その慈悲深い献身的な優しさに……私の心は……優希くんに助けてもらった心は……震えるほど感動し……涙をボトボトこぼして感謝し続けた。全ての記憶が戻った今、私の中に湧き上がるのは―――あなたが恋しい。優希くんが恋しくてたまらない……早く会いたい、その気持ちだけ。
優希くんに……早く会いたい―――。



