保健室のベッドで放課後になるまで横になっていた。咳の症状を訴えると微熱があったので、保健の先生には両親に連絡をして迎えに来てもらった方がいいと言われたけれど……両親は診察中なので断って、休んでから自力で帰宅したんだ。もう誰かに迷惑をかけたくないと反省をして、改めて弱気な自分を奮起させて、また明日から頑張ろうって。それであとになって残った一番に気がかりなのは教室でのこと。あれこれ噂になってたり余計な詮索をされたりと、この先も尾を引くのだろうと思われた。
 夕方18時頃、予備校は休んで家に帰ると玄関の様子で母がすでに帰宅していると気づく。リビングに向かいキッチンを覗くとエプロン姿の母が居て目が合った。
「ただいま。お母さん、帰ってたの?」
「おかえり。担任の先生から連絡を貰って、帆香が保健室で診てもらった経緯を聞いたのよ。それで少し早く帰ってきたわ。もう平気なの?」
 ああ、やっぱり。
 保健室を利用すると必ず親に連絡が入る決まりがある。私が断ったから担任にその責任義務が回ったんだ。結局また迷惑をかけてしまった、と自分に落胆しながら母に説明をする。
「少し風邪気味なだけ。念の為、予備校は休んで帰ってきた。早く眠れば良くなると思って」
 テーブルの椅子にカバンを置いて単調にそう言った。私が出した結論はこうだ。受験生になりちょっとした事で神経質になって身体虚弱になっただけ。次々模試や行事が詰まっているから余裕が無くて回復に時間がかかっている。でもそれは私だけじゃなくて受験生はみんな同じ条件だ。例え敵意を向けられ惑わされる事があっても、その位で狼狽えていたら私の将来の夢は叶わない。医師になるなら強い心と決断力が必要だ。私が根本から治すべき所は、弱い精神なんだと自分で診断した。これは私の問題で母はこれが完璧なのだから、私がもがいている事をわざわざ報告しなくてもいいだろう。勉強の仕方がどうとか対策をとるのとは違うのだから。
 患者を診るように私のことも注意深く見ている、そんな母の視線を感じて無表情に徹した。キッチンから出てきて私の側に寄ると話がまだあるようで母は続ける。
「先生も心配していたけれど、受験期にはよく起こり得る精神不安定な状態に陥っている可能性も指摘されたわ。自覚症状はある?」
「……頑張りたい気持ちが空回りして焦ってる自覚はある。良い結果はまだ出てないけど、もっと頑張ろうってちゃんと考察して調整するようにしてるよ」
 教室でパニック寸前になった私の行動を精神不安定と捉えられているんだ。でも私は自身で原因と思われる欠点を把握したし治す努力をしようと決意した。だから頑張るって言っているのに、母は納得できないようだ。
「先生はその兆しに気づいたから教えてくれたのよ? 心的ストレスが大きくなり過ぎると体に異常な症状をきたすの。喉が詰まったり息苦しい感じになって動悸がする場合もあるわ。あとは頭痛とか吐き気とか……」
「お母さん、いろいろ症状をあげたらきりがないんじゃない? 心配させたのは悪いと思うけど、私だけじゃなくて皆にもストレスはあるだろうし、私も体調管理に努めて頑張るって……」
「酷くなってからじゃ遅いのよ? 精神の病気を患ったら受験どころか生活だってままならな……っ!」
「私は患者じゃないっ!」
 お互いの言葉を遮るような制御の利かない言い合いの末、私の声は我慢ならず暴発した。自分でどんな表情をしているのかわからない……だから母の顔もまともに見れず……いや、そうじゃない……母の視線から逃れたかった。たぶん、今の私は、母の望んでいる長女の姿とは到底かけ離れた私になっているはずだ。いつもその自覚を持って母の姿をお手本にし、私もそうなりたいと努力してきたこれまでがボロボロと崩れ落ちそうだ。正しい自分は見せかけで脆く、装いが少しまた少しと剥がれてゆく気がする。私は母から顔をそむけたまま、なんとかこれ以上みっともない姿にならないよう歯を食いしばった。
「帆香……しばらく学校は休んだらどう?」
「っ!? どうして!?」
 母の口から意外な言葉が飛び出し私はすごい剣幕で顔を上げた。ほぼほぼ睨みつけた母の顔色はいつもと変わっておらず、私を診察した見解とのように淡々と告げられる。
「休養が必要だと思うからよ。一晩眠ったからって良くなるものではないわ」
「大丈夫って言ったよ、私」
「……きっと学校がプレッシャーなのよ。無理して登校すると体を壊すわ。この際休めるだけ休めるように先生にお話して……」
 大丈夫って、もっと頑張りたいって。
 私の気持ちはどうでもいいの?
 母の話を聞いていたら急に悲しくなって泣きたくなった。
「どうしていつも……勝手に決めちゃうの……?」
「っ!?」
 私が脱力すると同時に口からこぼれた。いとも簡単にスルスルと出ていって、まだその奥に連なっていた言葉も止まることなく排出されてしまう。
「私にプレッシャーを与えてるのはお母さんだよ……」
 ―――それを言っちゃいけないと……自分の中に閉じ込めていたのは……吐き出すと後味が非常に悪くなるとわかっていたからだ。苦い吐しゃ物が喉を通ったみたいに私の顔は歪んで直らない。それで気分が良くなるわけでもなく、胸は重苦しいし肩にも重荷を背負ったみたいに圧がかかった。前のめりになって取り返しのつかない後悔に耐える。母の顔はみるみる強張り、私が傷つけた事は明白だった。
「お母さんは完璧だから、私の粗が目立って手を出したくなるのもわかる。そうゆう自分が自分で嫌だもの……。でも、ゆっくり自分で考えて、間違ってでも自分で決めたい時もある、やりたい事もある、我儘になりたい気持ちもあるの。……だから学校は休まない。自分の体調は自分で治す、っ、お母さんは口を出さないで」
 ギリギリのところ自分の意思を保って、今まで言えなかった正直な気持ちも伝えようと努めた。普段しない事をしたせいか、息切れをしたみたいに呼吸が荒い。もうこの場の空気に気力も体力も持ちそうになく、カバンを持つと自分の部屋に急いで向かった。
 バタン。ドアを閉めて荷物を無造作に放るとベッドに駆けこみ体を預ける。そして柔らかい布団の感触に自身を沈みこませた。そうすると少し楽になったけれど落ち着いたわけではなく、心も頭の中もざわついて嵐のあとみたいに、吹き飛んだ残骸や壊れた欠片が散乱しているようだった。これでよかったんだと思える自分と、なんて事をしてしまったのかと責める自分が、私の中でせめぎ合っている。目を閉じて静かにさせようとこのまま眠りにつきたかったが……自ら味方を失くしたダメージは大きくなるばかりで……胸がしくしくと締めつけられて涙が出ただけだった―――。

 私が母を拒んだあの日から私達はまともな会話をしていない。家でも顔を合わせないようにお互い避けていると思う。自分の部屋に籠もった時も私の様子を見にドアをノックしてきたのは父だった。それから毎晩父と夕食を取っている。私を気遣って早く仕事から帰ってきているのだろう。そして母からの伝言を教えてくれるのは弟の湊だった。「何かお母さんに伝えとく事ある?」とよく聞いてくるようになり、私と母の間を取り持つ役割をしてくれているのだった。私が壊した家族の絆を……父と弟が修復を試みている事に気づいていながらも、啖呵を切ってまだ成果を上げていない自分には、御礼も謝罪も薄っぺらくなる気がして押し潰していた。
 学校は休まないと決めたので、意地でも行くつもりで翌日も出席した。さすがに朝教室に入ると変に視線を浴びた気がするが、極力ふつうを心がけて振る舞った。心配してくれた女子には笑顔を向けて失態を詫びると、私が保健室に行った後の状況を教えてくれたんだ―――。
「あのあと、体育祭の競技は皆で平等に出場することに決まってね、今年は女子にも余裕ができたよ」
「そっか、良かったぁ」
「それで和田さんは100m走と男女混合リレーの選手になったんだけど、大丈夫? 出れそう?」
「う、うん、全然大丈夫!」
「女子の中で和田さんは戦力だからさ、推し枠に入れようって話になったんだけど、勝手に決めちゃっていいのって流れになって……」
「ごめんごめんっ、気を遣わせちゃったね」
「でもそのとき浅野くんがね……」
「浅野くん?」
「うん、和田さんは決定事項は責任持ってやり遂げるから決めちゃえよ、って即決したの」
「へ、へえ……」
「私もそう思った、とか言っちゃったりして、えへ。あとねクラスTシャツが……」
「あはっ……」
 ―――ちょっと、嬉しかった。すぐには自分に自信をつける事はできないけれど、私なりにコツコツと積み上げていけるかもしれないな、と思える時もあったんだ。そして放課後は予備校の時間まで図書館で過ごすようになっていた。一番に選ぶべき場所は自習室にした方が勉強には効果があるのだけれど、利用している皆と同じように勉強に打ち込めるかといったら、今はそれこそプレッシャーにしか感じられなくて足が向かえなかった。自習室は前方と左右が仕きりに囲まれた机が並列されているだけの教室で座席数はざっと100席ある。私語厳禁で勉強に集中するにはもってこいの環境の上、努力している仲間との連帯感や意欲を刺激される空間になっている。けれどその空気感はストイックでピリついた印象があり、劣等感に悩んでいる時はなかなか息苦しいもので……もう少し自分自身が回復するまでは、落ち着ける雰囲気で他人が気にならない場所で過ごしたいと思ったんだ。そこで候補に上がったのは学校の図書館だった。クラス校舎から繋がっている幾つかの別棟のうち、他の棟と比べると小さめな2階建ての図書館棟に足を運ぶ。入口付近のカウンターに司書さんか図書委員がいつもいて、赤本だらけの棚の奥にはウッディなテーブルとイスがある。ひとり時間を過ごしたいと思われる生徒が利用しているのだろう。ポツンポツンと一定の距離が空いていて、自分の空間を確保できるのが落ち着けた。見渡しの良いテーブルで勉強するのも、息抜きに読んでみたい本を探して歩いたり、気になった本をペラペラと捲るだけでもほっとする。暗記をしたい時には内階段を上がって2階の奥にあるソファでするのがお気に入りになった。小窓の前に置かれたベンチソファに座ると、背後から採光があたり開いたテキストが明るく見える。後頭部から背中にかけて程よくぽかぽかするのも気持ちよかった。今も英単語のテキストを見つめて1ページ捲り、インプットしてまた1ページ捲るところでカクンッ。一瞬だけ意識が飛んでしまった。気持ち良すぎて眠気に襲われたみたいだ。前頭がふわふわしてゆらゆら揺れる首を頑張って―――カクッ!?
「すみませっ、ん、……優希くん!?」
「帆香ちゃん、寄りかかっていいよ?」
 落ちかけた頭が誰かにぶつかって咄嗟に声を出したけれど、いつの間に私の横にぴったりと座ったのか、目を覚ました視界に優希くんの顔があってびっくりした。まだ頭がポケーッとして何をどうしたらいいかソワソワしていると、優希くんの手が下から伸びてきて私の横顔を包むと自分に引き寄せた。頭が優希くんの肩にくっついて離れない……離して、くれなそう……。
「あ、のっ、だいじょ……」
「少しだけでも寝なよ? 帆香ちゃん、いつも頑張りすぎだから疲れちゃうでしょう」
 耳元にそっと囁くように優しい声で優希くんが言う。眠気を誘うような波長に聞こえて不思議と肩の力が抜けていった。私が優希くんの言うとおりに体を半分預けると、横顔の手がすうっと目元に移動して光が遮られる。まるで卒業式の日みたいに優希くんに目隠しされているようだ。懐かしい気持ちもあってフッと笑みがこぼれる。あの時はドキドキして堪らなかったのに……今はとても心地いい。
「いいの? 眠っても……?」
「いいよ。雨の日に帆香ちゃんも僕に肩貸してくれたでしょう。おあいこだよ」
「ふふっ、レインダンス……楽しかったね……」
「うん……ずっと忘れない……」
 私の頭にたぶん、優希くんの頭もコツンとくっついた。擽ったいような、安心するような、心の中が穏やかに静まってゆく。何か声に出したいけれど、もうそんな力もないくらい眠りの世界はすぐそこにあった。
「…………」
「いつだって僕は帆香ちゃんの味方だってこと、忘れないでね……」
 ああ、なんて嬉しい言葉なんだろう……
 胸の中いっぱいに喜びが広がってゆく。きっと優希くんが伝えてくれる言葉だから、こんなに嬉しいんだね……。私、恋をしているから、すごく嬉しいんだ……。
 優希くんありがとう……私ね、優希くんのこと―――
「…………」
「僕はね、ずうっと……帆香ちゃん―――」
 ―――
  ―――
      好きだよ
           ―――
            ―――
 遠ざかる意識が途切れる寸前で何か言った声を聞いた気がする……『今度は絶対僕が守るから―――』


 図書館の閉館時刻18時30分まで館内で過ごしてしまい慌てて飛び出してきた。昇降口にたどり着き自分の下駄箱の前で必ず躊躇する……毎日毎日この扉を開けるには勇気が必要だった。深呼吸をひとつ……吸って、吐いて……よしっ!
 ガチャ。
 ……何もない。
 すると止めてた息を安堵と共に放出した。上履きからローファーに履き替えて校舎を出ると早足で校門へ。19時からの予備校には間に合いそうだが余裕はない。もう夕陽は沈んで外は薄暗くなり始めていた。歩道橋の階段を駆け足でのぼり……まだ途中で速度を緩めた。タッタッタッタッタンタン、タン……タン……タ……。歩道橋の階段を蹴る足音を止めて私は耳を澄ませた。突如感じた背後の違和感に若干の寒気を覚える。気のせいかもしれないが誰かいるような……錯覚を確かめる為に振り返る―――やっぱり誰もいなかった。
 前にもこんな事があった気がする。たぶん条件反射しているのだろう。私は再び階段をのぼり始め上部の渡り通路に足をついた……瞬間!?
ビクッと体を震わせ驚いた。ずっと待ち伏せていたかのように、通路の端で壁に背をもたれ腕組みをしている……男子、我が校の男子がいた。ぎゅっと肩にかけたカバンの持ち手を強く握り身構える。一歩も動かずにただその子を見つめた……怖い、というより何かを探り出そうと必死で。
 ……少し幼いように見える気が……装いがなんとなく春頃に感じる独特の真新しい雰囲気……1年生?
 学校を出た時より刻一刻と暗くなってゆく空。目を凝らしても見えにくかった。ちょうどそのとき外灯が青白い光で辺りを照らし始める。
「はぁっ……」
「っ!!」
 その子が腕組みをやめてこちらを向いて立った。そして私をじっと見るので警戒する。何か言いたげに……口をぎゅっと尖らせていく。私を待ち伏せしてまで伝えたい事がある……この子があのメモを書いた!?
「あんたさぁ、俺のこと覚えてない?」
 唐突に声を上げて私を尋問するかのよう。わかるのは……私に対する怒り。声が敵意に満ちている……誰なのかは知る由もない。初めて今ここで会ったのだから。私はその子から目を離さずに首だけ横に振った。
「はっ……ほんとに忘れてんだ……」
 呆れたと言わんばかりに顔を歪ませ、その次には眉間に怒りを滲ませた。
「今年この高校に入学したらあんたがいて驚いた。まさか、おんなじ高校選ぶとかね、最悪……。しかもさ、俺が誰かわかるか聞いたら『新入生? おめでとう』って呑気になんなんだよ。こっちは人生狂わされてんのに……」
「どうしてっ……何が私のせい、なの? なんで、私が人殺しなの!?」
 この子が私にメモをよこした張本人だ、間違いない。この時を待っていた、直接話し合いをしなければいけないと。あなたが私に向ける苦しみの理由が知りたいと。私は胸に溜めていた疑問を意を決して投げかける。すると、彼は私以上に唇を震わせ泣きそうな表情になって……そして私を打ちのめす―――。
「あんた、俺の兄ちゃん見殺しにしたじゃん!」
「―――!?」
 なっ、なんて……、え?
 お兄ちゃん……?
 頭が混乱し何もわからなくて狼狽える。私がますます困惑すると彼はいきり立って吠えるように怒号を浴びせた。
「一緒に泳いでて海に流されただろ! なんであんただけ助かって兄ちゃんは亡骸さえ見つからないんだよっ! あの夏から俺ら家族がどんな思いで生きてきたか、あんたにはわかんないだろうよ!」
「……待っ、私、記憶が……」
 急に頭がキリキリと鳴って異常を知らせる。耳の上の方に変な痛みを感じ咄嗟に手で押さえつけた。
 海……男の子……あれ?
 何かが頭の中に……思い出しそうなのにはっきりしない!
 頭を小刻みに振り一生懸命に記憶を呼び起こそうとするが駄目だ……なんでそんな大事なこと、私、忘れてるの!?
「兄ちゃんは、兄ちゃんはあんたに優しくしてやっただろ!? なんで、助けてくれなかったんだよ!? あんたはのうのうと生きてるってゆうのに! どうして兄ちゃんだけ流されたんだよ!? あんたが見殺しにしたんだろ!!」
「―――っ違……、違う……、お兄ちゃんって誰?」
 ジリジリと一歩ずつ彼は怒りを吐き出す度に近寄り私を責めた。威圧的な態度に私は頭を抱え込んで後退りする。自分で自分が怖くなって涙がじわりと浮かんでいた。彼の言うとおりなら、私は本当に人殺しなのかもしれない、と思い出せない過ちに酷く怯えていたんだ。
 わからないの……私自身が。……助け、誰か助けて―――。
「―――それは間違いだよ、蒼大(そうだい)
「「 !?!? 」」
 突然聞こえてきたその声は……悠希くんだ。
 私は顔を上げて確かめる。すると悠希くんが私達の間に入って、目の前で凄む彼から私を庇ってくれていた。
「……優希くん、来てくれたんだっ」
「っ、なっ、なんでっ!? くっ……」
「帆香ちゃんのせいじゃない。僕達は一緒に波にのまれた。あの状況で帆香ちゃんが助かっただけでも奇跡なんだ」
 優希くん……?
 僕達(・・)、って言った……?
 私が不思議に思って蒼大という名の彼を見ると、目を大きく見開いたまま顔を強張らせ口元は麻痺したように開いたり閉じたりしていた。まるで、亡霊にでも遭遇したかのような驚き方で。
 それって……海で一緒に流されて……助かったのが私で、亡骸さえ見つからないのが……え?
 優希くん、なの?
 でも優希くんは……。
「……っ、兄ちゃ、兄ちゃん、なのか?」
「―――!!」
 蒼大くんは優希くんに向かって震わせた声を絞り出す。面食らった表情に疑わしい目つきでごちゃ混ぜの感情をそこに見た。私も彼と同じだった。
「そうだよ、蒼大。今までよく頑張ったな……」
 二人は兄弟で……私がお兄ちゃんを見殺しにして……
 でも優希くんは私と同じクラスで……何か、おかしい。
 思考が混迷を極める。現実か非現実か、迷い戸惑う中で蒼大くんは首を徐々に振り始め否定を強める。
「違う……兄ちゃんは十歳で死んだんだ……高校生になんてなれない。なんでウチの制服を着てる? あんた、俺は覚えてないくせになんで兄ちゃんのことはわかるんだ!? どうゆうことだよ、これ!?」
「っ、優希くんは、だって、3年生になって……え?」
 私だってこの状況が理解できない。3年生になって優希くんと友達になった、って言っても蒼大くんはきっと信じてくれない。私にその記憶はちゃんとあるのに……。
 だって蒼大くんのお兄ちゃんは死んじゃったんでしょう?
 お兄ちゃんは優希くんなんでしょう?
 じゃあ、ここに居る優希くんは……いったい誰?
「……二人共、よく聞いて」
「「 !?!? 」」
 優希くんは私と蒼大くんの真正面から向き合うように立って私達をじっと見つめた。
「7年前の夏、僕と帆香ちゃんは一緒にシュノーケリング中、波に流された。絶対に帆香ちゃんの手をはなさないって約束したのに、守れなかったのは僕の方だ。帆香ちゃんは何も悪くない。それに帆香ちゃんは助かったけど、僕のせいで記憶を失くしたんだ。だからあの夏の事は覚えていないんだよ」
 ―――それが、私の忘れた真実……?
 瞬きもせず優希くんを見つめ応えを求めれば……優しい眼差しで微笑みそっと頷いた。いつもの笑顔で……それは私が好きな笑顔で……堪らず涙が頬を伝っていった。
 私が今見ている、優希くんの笑顔は、幻なの―――?
「っ兄ちゃんは! ……生きてたのか? どうして今になって、っ」
 優希くんはその質問に首を横に振る。
「僕の運命は不運に見舞われた終わり方だったから……チャンスを貰って、見習い天使をしていたんだよ」
「見習い……?」
「……天使?」
 優希くんが、天使?
 今度は首を縦に振って、おとぎ話のような経緯を私達に説明した。
「天国まで魂を届けるのが天使の仕事なんだ。死の直前に立ち会って魂の旅立ちを手伝う。それで、今ここで……僕に与えられた任務を……放棄して運命を変える!」
 真剣な表情で優希くんは宣言し、険しい顔になると蒼大くんを叱ったのだった。
「蒼大、いいか? 自分の苦渋を誰かのせいにして執拗に責めるのは最低な行為だ。二度とするな」
「……待ってよ、俺も父さんも母さんも、兄ちゃんの帰りをずっと待って、ずっと待ち続けて! 何年経っても待ってたんだよ!? 泣きながら! 毎日涙して、毎日祈って! なのに、俺ら家族よりコイツを庇うの!? 記憶喪失だかなんだか知らないけど、都合良く呑気に生きてるじゃん! 俺らはただ……兄ちゃんに……帰ってきて欲しいだけなのに……」
 蒼大くんの優希くんに対する訴えは涙声でかすれ……溢れる気持ちが痛いほどに伝わってきた。我慢をしてもボロボロと涙がこぼれてゆく。
「もう僕は帰れない……蒼大、父さんと母さんにも伝えて。僕は運命を受け入れたから、できたら悲しまないで誇りに思って欲しい。僕より苦しんでいた魂を救ってあげたんだ。蒼大も……自分の大切なもののために誰かを犠牲にするのはいけないことだよ。結局自分も傷つけてしまうんだ……」
 優希くんは切なげな顔つきで蒼大くんに想いを捧げた。それは別れの言葉のようで、最後の言葉にしか聞こえなくて……私は涙を流しながら胸を押さえつけた。
 胸が苦しい……嫌な予感がする……。
 天使は死の直前に立ち会うって、優希くんはさっき―――『今ここで』そう言った!
「……どうしてだよっ、一緒にうちに帰ろうよ! 父さんと母さんにも会って話をしてあげてくれよ! 二人共すごく兄ちゃんに会いたがってるからさぁ……」
「……それはできないんだよ」
「なんでだよっ、今ここで……兄ちゃん生きてるじゃんかっ」
「……僕は二人を守るために、っ」
 蒼大くんは優希くんの両腕を掴んで懇願する。その必死な姿をすぐ側で見つめれば、ぎゅうぎゅう私の胸は締めつけられ涙がこぼれ続けた。蒼大くんは優希くんの胸に頭を押しつけ「兄ちゃ……お願いだよっ……」駄々をこねる小さな子のように全身で哀願することをやめない。優希くんの体はグラグラと揺すぶられ、顔は歪み困り果てていた。
 私にも弟がいるから……蒼大くんが優希くんを想う気持ちも、優希くんが蒼大くんを大事にしたい想いも、両方心に突き刺さって擬似的に感情が込み上げる。どうにか、どうにかこの兄弟の力に……私がしてあげれる事を……優希くんはきっと、兄として弟を危険から守るために……ここに居るのだと思うから―――。
「……あのっ、優希くんの話を、ちゃんと聞いたほうがっ」
「帆香ちゃん……」
 私は躊躇いながらも蒼大くんの腕を掴んで落ち着かせようとしたのだけれど―――。
「あんたは黙ってろよっ!!」
「あっ……!」
 ドンッと鈍い痛みが腕を走り、後ろへよろけた体は傾いて倒れそうになる。回避しようとした後ろ足がスカッと空振って地を踏めず、より斜めになった角度から見上げるようにふたりへ視線を合わせると、二人共驚愕の表情でこちらを見ていた。一瞬にして自分の窮地を悟る!
 駄目だ、落ちる―――。
 歩道橋の上から転落し―――私が死ぬんだ。
 見習い天使の優希くんは、私を天国へ連れてくために―――。
「帆香ちゃんっ!!」
 ―――優希くん!
 暗い空中に身を投げ出し両足が浮いた私に優希くんが手を伸ばす。その手を掴もうと懸命に私も手を差し出したが……重力に引っ張られ落下し始めていたんだ。優希くんが離れてゆく……とてつもない死の恐怖を感じた。このまま落ちてコンクリートの階段に体を打ちつける衝撃、それから止まるまで固い段差を転げ落ちるのだ。
 私……もう終わり、なんだ……。
 あきらめが全身を脱力させ意識まで奪われてゆく―――ガシッ!!
「っ!?」
 空中をあおいでいた手が何かに捕らわれる。重力に逆らう強い引力が手に伝わり、その力に私の体ごと引っ張られた。態勢を起こされた感覚……下がっていた頭も背中も何かが巻きついてきて……向きが変わった。ぎゅうっと上半身をすっぽり包まれたようだ。
 なんで私……死ぬ直前にこんな安心感を……?
 まるで赤ちゃんに戻るよう、これが走馬灯かとその心地良さに身を委ねた―――瞬間!!
「ダァンッ!! ダン! ダン! ダンッダダダダ……」
 ―――!!
 凄まじい打撃と振動が体を伝わってゆく―――。
 ぶつかって大きく跳ねた後、またぶつかりすぐガタガタと揺れながら滑っていった。全身の骨が軋むような衝撃を感じながら―――。やがて、揺れがおさまり―――何もかもが静止していた―――。

 ……ッ……

 ……トッ……

 トク……トク……トクッ……?

 ……トクン……ドッ……ドクッ、ドクン、ドクンッ、ドクンッ!!

「―――すうぅぅっ!?」
 思い切り息を吸った。喉が苦しくて無意識に呼吸を止めてたみたいだ。同時に目が覚め自分の心臓が大きな音を立てている事に気づいた。
 私、生きてる!
 どうして!?
 歩道橋の上から落ちたはずだ。痛みも感じないなんておかしい……。
 寝そべっているのに全然固くない場所にいるとはっきりわかる。ずっと包まれ、守られているような、この感触は……まさか……はっ!?
「―――優希くんっ!?」
 勢いよく手をついて起き上がると真下に優希くんが横たわっていた。そこは歩道橋の階段だった。
 上から落ちる私を、優希くんが身を挺して助けてくれたんだ!!
「はっ、ど、どうしよう……」
 おろおろと暗がりの辺りを見渡し、階段の一番下まであと数段の所で私のカバンが乱雑な格好で落ちているのを見つけた。私達は上から階段を半分以上落下したのだと推察する。事の重大さに急いで優希くんを観察すれば、ピクリともせず気絶しているのか息もないのかわからなかった。
「ゆ、優希くん! 優希くんっ!? くっ……」
 呼びかけて揺さぶろうとした自分を制した。
 頭を打っているかもしれない、揺すったら駄目だ……出血は!?
 していない……応急手当、応急手当をしなきゃ!
 心音っ、まず心音の確認!
 中学の時に習った救命講習を思い出し、私は優希くんの胸の真ん中に耳をピタリとつける。
 私が自分で聞こえたように、心臓の音が聞き取れたら、次は大声で助けを呼ぶ―――。
「……え……な……なんで……っ、しっ、心臓マッサージ!」
 心臓の音がしないっ。
 焦りを必死で抑えながら、耳を当てた同じ場所に両手を重ねて肘を伸ばしマッサージを開始しようとして……はっと思い留まる。
 駄目だ。
 優希くんの体が階段の上で斜めに傾いていて心臓マッサージがちゃんとできない……どうしよう……誰かっ!
「はっ、はっ、誰……っ!?」
「ほ、帆香ちゃん……」
「優希くん!? 苦しい!? 痛い!?」
「良かった……帆香ちゃんが無事で……」
 よく見えるように顔を近づけると、目を開けた優希くんは力なく微笑んで、私の顔に手を添えると優しく擦る……頬をそろりそろり……それは愛おしそうに。
「優希くんっ、優希くんのおかげでなんともないよ……うぅっ……優希くんが守ってくれたから……っ、今度は私が助けるからね!」
 私の顔にある優希くんの手を両手でしっかり包んで伝えた。すると優希くんはこの状況で冷静に淡々と言う。
「大丈夫……僕の運命は決まっているんだ……」
「……? 優希くんの運命って……!」
 そうだ、優希くんは見習い天使だと……放棄して運命を変えると言っていた。もう帰れない、とも……。
「最後に……帆香ちゃんを守れて、蒼大も救えた。これで旅立てる……」
「旅立つって……天国に!?」
 優希くんはゆっくり頷いて目をそっと閉じた。その顔を見た途端、よく似た幼い同じ顔の男の子が波にのまれてゆく光景が目に浮かんだ気がした……瞬きのうちに消え頭がふらっと目眩を起こす。私は目元を手で押さえ気をしっかり持つよう自分を正した。優希くんの手を再び強く握り、まだ一緒に居られる方法を模索する。
「くっ……優希くん! 行かないでっ、もう痛いことも怖いこともさせたくない! 何か、このまま生きれる方法を……」
「帆香ちゃん……僕は天使の掟を破ったから……天に帰らないと。大丈夫だよ、宵とともに天使の魂は天国へのぼってゆくんだ……」
「宵のときに? 優希くっ……え?」
 目の錯覚かと思ったが、優希くんの姿が透明に……消えかけているように見える。瞬きを何度もして間違いであって欲しいと切望したが……握っていた手の感触がなくなり、ただ自分の両手を繋ぎ合わせていて……優希くんの手はもう何処にもなかった。
「……ふっ、うぅっ、優希くん! 優希くんっ!」
 優希くんの体をはなさないでいようとしても……スルッと私の手は階段にぺたりとついてしまうのだった。
「僕は一度海に戻らないと―――」
「海!? 優希くん!? 行かないでっ!!」
 完全に、消えて、しまった―――。見逃さないよう開いたままの瞼を失意に閉じれば、ドバドバと涙が流れて止まらない。
「ふえぇっ……ぃゃ……っ優希くん!! 優希っ……!?」
 急に喉が苦しくなって両手で押さえる。
 息をしたいのに……うまく呼吸ができない!
 バシャバシャと向かってくる波が顔にかかってくる……どうしてっ、こんなのおかしいっ。
「はっ、はっ、はっ……っ―――」
 私の意識は薄くなり、前のめりに階段へ寝そべった。荒れる波の残像が消えない……たんだんと遠くなる自我は手放して、そのかわり、この波の記憶を手繰り寄せる。今ならきっとあの夏を思い出せそうだから―――。
「はっ、は……、……、……、―――」