駅前の予備校近くにあるファーストフード店でドリンクとチョコのスイーツを購入し、店内の入口近くにあるカウンター席に座って1時間が経った。席の前面はガラス張りで駅のロータリーを行き交う人達がよく見える。今日は土曜日だが午前中だけ3年生のみの特別授業があった。夕方から始まる予備校までの時間潰しに店で自習しながら過ごすつもりだ。このところ高校の授業が終わると自習室に行かなくなった。早く学校からはなれたいと気が急かすんだ。それに食欲はあまりないのだけれど無性に甘い物が食べたくなる。今週はほとんどこのファーストフード店のカウンター席で放課後を過ごしていたと思う。ふとガラスの外を見るといよいよ雨が降ってきたみたいだ。天気予報によると午後から傘マークがついており、朝から灰色のどんよりした曇り空をしていた。駅を利用する人達の色とりどりな傘の花が開いてゆらゆらと流れていく。憂鬱に映っていた外の景色が鮮やかに見え、少し心が弾んだような気がした……!
あれ……?
今、透明の傘をさした……っ、椎名先輩だ!!
見覚えのある顔を見つけて、ガラスに頭をぶつけそうなくらい近づいて凝視した。間違いなく先輩だと確信すると、しばらく姿を追って傘の花に隠れてしまいそうになった時……ガタン!
バタバタと自分の荷物をまとめトレイを持つと、急いで片づけて駆け足で店の外に飛び出していた。先輩が歩いて行った方へ私もあとを追いかける。
雨が……っ。
折り畳み傘をカバンから出してたらきっと間に合わない。雨粒で前が見えなくならないよう手を翳して防ぎながら、私は見失った椎名先輩を探す。
透明のビニール傘をさしてデニムっぽいシャツに黒のリュック……いない。もう何処かへ行っちゃったかな?
先輩の私服は何度か見たことがあって、たぶん服装の雰囲気からしても間違いないと思うのだけれど。目を凝らして右に左にあっちもこっちも探してみた。
「あっ……!」
見つけた!
と、一直線に椎名先輩のもとへ駆け出すところで自身にストップをかけた。私より先に先輩へ近づいた誰かがいて……その人も私には見覚えがある。そう、青山先輩だ。
……私が近づいちゃ駄目。椎名先輩に気安く近づいたら駄目だわ。恋人である青山先輩がいるのだから。
ボツボツ――。ボツボツ――。
私はその場に立ち尽くしふたりをただ眺めていた。青山先輩の私服は大人っぽくて、髪も明るめに染めたのか凄く綺麗な女性に見える。ふたりはとても大学生らしくて、何も変わっていない高校生の私には、遠い存在になってしまったような感覚がした。以前みたいに気軽に悩み事を聞いてもらおうとした、自分が恥ずかしい。それに、こんなに鬱陶しい雨の中でもふたりは笑顔で見つめ合っている。幸せそうなふたりにわざわざ水を差す行為は控えなければ……。
軽率な行動を自制して反省する。先輩達が仲良く歩いて見えなくなるまで、私はその場で雨に打たれていた。制服が濡れてじっとりと重みを感じるが、今更、傘をさしたところで……!
突然目の前をブルーのビニール傘で覆われて雨粒があたらなくなった。傘の中は澄んだ青色、まるで海の中にいるみたいな錯覚を起こす。そして傘の水面を伝うように聞こえた優しい声にはっとした。
「帆香ちゃん、傘、持ってないの?」
「!!」
急いで振り返ると私を覗き込む心配そうな顔がそこにあった。
「優希くん!?」
「いっぱい濡れちゃったね……」
―――!?
優希くんの手が私の頬をそっと撫でる。傘代わりに翳した手をどけてしまったので、雨の雫がたくさん顔を流れていた。きっと髪もべったりしていて、こんなに近くで見せれるような顔じゃない……でも、優希くんは躊躇いもせず自分の手で雨を拭ってくれる。緊張しながら少し上目で見つめた悠希くんの顔は、なぜか泣きそうな表情に見えて焦った。
「お、折り畳み傘は持ってるんだけどカバンの奥にしまってて……ありがとう」
相合傘の中で私に触れる優希くんの手が擽ったい。立ち止まったままの私達を通行人が避けて傘を傾けてゆく。いつまでこうして……恋人みたいに……触れあっているのだろうと戸惑うけれど、優希くんの顔がどうしてか泣きたそうで目を離せない。
私のせい?
私が優希くんを頼りにしないから、椎名先輩を頼ろうとしたから……嫌になっちゃったのかな……。
もしかして、卒業式の日みたいに、見てた?
「えっと、優希くん……」
「このまま僕の傘、半分こでさして使おう?」
「う、うん、ありがとう」
「びしょびしょだから乾かさなくちゃ、とりあえずあっちに行こう」
優希くんはいつものにこやかな顔になると私にそう言って、先輩達が歩いて行った逆の方向を指さした。そして、私の手を取るときゅっと繋いでふたりぴったりして傘の真下におさまる。悠希くんは私が困った時いつも側で寄り添って助けてくれる優しい人だ。今も、自分の情けなさに呆れていた惨めな私を救ってくれた。
何度もこんなふうに守ってくれる人……優希くん以外にいないんじゃないかな……。
それって私にとって特別な存在、きっと……恋をしたい相手。
「優希くん、あのね……」
「うん?」
「えっと……私……」
―――優希くんに……恋をすると思うよ!
そう、伝えたかったけれど、近くでじっくり見られちゃうと恥ずかしくて言葉にできない。すると、優希くんは口籠った私に代わって物寂しげな笑顔で口を開いた。
「……わかってるよ、言わなくても。帆香ちゃんは無理しなくていいんだよ」
「え?」
わかってるって……私の気持ち?
何か……優希くん勘違いしていない?
本当に伝わっているのかなと少し首を傾げたところで、別の質問をされ疑問が飛んでしまった。
「早く拭いたほうがいいと思うんだけど、帆香ちゃんタオル持ってる?」
「あ、ハンカチしか持ってない」
さっきいた場所をだいぶ離れて人通りが少なくなった。制服のスカートのポケットからハンカチを取り出したけれど、すでにしっとりしていて使い物にはならなそうだ。
「困ったな、僕も持ってないし。買いに行く?」
「いいよいいよ、私が悪いんだし優希くんにこれ以上迷惑かけられない」
「それは全然気にしないでいいんだけど……じゃあ……僕も濡れちゃお!」
「えっ!?」
ちょうど駅の広場まで歩いてきたところで優希くんはさしていた傘をパッと横に傾けた。ポツポツと雨が降り注ぎまた体に当たってくる。細めた目で優希くんを見ると雨のシャワーを浴びてるみたいに顔を天に向けていた。楽しそうに微笑んでいる顔が雨粒で濡れてゆく……。
「もう細かい事は気にしないで、なんにも考えないってゆうのはどお?」
優希くんが無邪気な顔で私に向かって言う。その顔には幾つも雨がくっついてタラタラと流れていた。たぶん私も同じ……でも優希くんのようにこの雨を楽しんではいない。
「私……気を遣って考え過ぎ、かな?」
「たまには能天気になってみるのもいいんじゃない? ちっちゃい子みたいに」
「そっか、神経質になってたかもしれない、わっ!?」
「今日はもういっぱい濡れちゃえー!」
優希くんは突然私と手を繋いだまま走り出す。広場をぐるっと私を連れて飛行機みたいに腕を広げ駆け回り始めたんだ。
「わぁ~、雨気持ちいい~」
「ゆ、優希く、ちょっと早いよっ」
走る途中で傘を捨て優希くんはめいっぱい手を伸ばして雨を受ける。ブルーの傘はコマのように広場でくるくるして止まった。はしゃいだ優希くんは私を外側にして引っ張るので足がもつれそうだ。まるで運動会の競技でもしているみたい。私が息切れを起こすと今度は手を大きく振りながらスキップを始めた。体が揺さぶられてもうステップも合わせられないし破茶滅茶だ。思った通りになんて全然うまく動けないで頭も混乱してきてしまう。これじゃあ本当に雨の中ではしゃぐ小さな子供みたいだ。
「ふふっ、私達高校生じゃなくて幼稚園児になってる」
「楽しくなってきた? 無理して大人ぶることないよ。童心も忘れないで正しい成人になればいいんだから!」
優希くんは子供らしい顔で大人っぽい事を言う。面白い人だと思ったら胸のつかえがスッと消えて軽くなった。優希くんと一緒にいると素直に楽しいと笑いたくなるんだ。
「ふふっ……はぁ、はぁ、もうほんとにおかしい」
「はぁ~、帆香ちゃん、カバン貸して?」
「はい……?」
「ここに置いといてとっ……」
やっと止まって私のカバンを受け取ると地面に置いてひっくり返っていた傘を立てかけた。そして、その場で私と面と向かうと足を揃えて姿勢よく立ち、胸に手を当ててお辞儀をする。頭を上げるとその紳士的なポーズのまま笑顔で私を真っ直ぐに見た。咄嗟に私はスカートの裾をつかんで膝を曲げ挨拶に応じる。なんとなく優希くんに合わせてみたけれどこれで良かったのか、送った視線に「ハハッ」と満足そうな笑い声が飛んだ。すると、優希くんは近寄ってきて私の両手を真正面から握り右に左にゆらゆらさせる。
「せぇのっ、えいっ」
「わぁ!」
「こんな感じ?」
「ダンス!?」
優希くんは勢いをつけて片手をはなすと私の頭の上で繋いだ手をぐるんと回す。もたつきながら体を回転させて止まるとまたすぐ逆回転させられた。
「ははっ上手上手、じゃあ反対もやってみよっ」
「反対も!?」
同じように繰り返してリズミカルに私が戻ってくると、はなれてた片手も受け止めて両方の繋いだ手に力を入れ優希くんは驚く。
「帆香ちゃん上手だね!?」
「私、小学生の時バレエ習ってたみたいなの」
「……みたい?」
「あ、私ね、小学5年生の時に階段から落ちて頭を打ったらしくて。それからそれまでの記憶があまりないんだ……」
夏休みの事故の話だ。どうして階段から落ちたのかも覚えていない。病院で治療を受けた時からの記憶しか私にはないんだ。一時的な記憶喪失で自分のことも家族のことも学校のこともわからなかったけれど、皆に優しく教えてもらってそのうちに感覚は取り戻したように思う。私としては痛みもなかったので特別苦しんだ過去ではないから、ただの事実として然りげ無く暴露したつもりが衝撃を与えてしまったようだ。優希くんの表情は大きく目を開き引きつっていた。
「……優希くん?」
「あ、あー、骨折とかしなかったの?」
「頭蓋骨にヒビはできたみたいだけど、記憶障害の他には何もなかった。ちゃんと骨もくっついたよ?」
「そっか、良かった。じゃ、じゃあ、バレエの練習を体感で覚えてたって事かもしれないね。ちょっとやって見せて!」
期待されて私は半信半疑だったが試してみようとその気になった。なんとなく、こんな感じかな、という曖昧な仕草で……両腕を肩の高さに上げて姿勢を正し片足に重心を置く。バランスを整えて真正面の優希くんを見たら……せーの。目で合図をして軸足の膝を曲げると回転方向の足と手を横に出してクルッと、反対の足を引き寄せて両爪先で一回転。ヨロっとしながらも片足を外に着いて止まった。ほっと一安心するとパチパチ拍手をして優希くんが喜ぶ。
「わぁ、カッコ良かったよ!」
「ちゃんとは出来てないよ絶対、足の裏で回ったから」
それっぽく見せただけで誉められるような出来栄えではないから恥ずかしい。でも私にそれなりの経験があった事の証明にはなっただろう。
いつか思い出せない記憶も戻ったりするのだろうか……?
ふとそんなことが頭をよぎった。私も自分に期待しながら優希くんのもとへ歩み寄るとまた手を強引に掴まれて、その場でぐるぐると風車のように回り始めた。
「わっ、まだするの!?」
「もちろん、雨が止むまで思いきり遊ぶんだよ!」
「ええっ!? はぁ、はぁ、この雨止むの!?」
「きっと帆香ちゃんの心が晴れたら、止むかもねっ」
優希くんは呑気な事を言ってこのおふざけを楽しんでいる。もう体中が雨でしっとりして制服も体に張り付いてるし、ローファーも中がぐしょぐしょになってきた。本降りの雨を心配したら案の定、繋いでいた手がツルッと雨で滑って体がよろけそうに……。
「わっ!」
「おっと! これで、どう?」
優希くんは私の腕をしっかり組んでスキップをする。二人で逆向きに腕組みをして回る、外国のお祭りで見たような踊り方にそっくりだ。思わずおかしさが込み上げる。
「あはっ、面白い」
「今度は反対の腕っ、逆回り~」
「えっ、はい。このダンス、いそがしいっ」
「知ってた? さっきから帆香ちゃんの方が外回りさせられてるの、ははっ」
「だと思った! ずるいっ、私息切れしてきて……」
「帆香ちゃんは回るの上手でしょ? 僕は回す方が得意みたいだ……」
そう言って優希くんは私と両手を繋ぎ輪をつくると、自分を軸に私をたくさん振り回してきた。めちゃくちゃなワルツみたいにクルクルと躍っていると、頭がふわふわする感じになって細かい事まで気が回らなくなる。もうただ単に楽しい気分しか胸の中に詰まってなかった。
「きゃぁ、あはっ、目が回りそう~」
「ははっ、嫌なこと全部忘れちゃうくらい回ってみようよ!」
私達は貸し切りの広場で、心ゆくまで子供っぽくはしゃいでいた。年相応に見えない姿でわざとおふざけに興じる。不思議と周囲の目は気にならなかった。「きゃ~」「わぁ~」声を広場に響かせて雨のダンスを全身で楽しんだ。
「はぁっ、はぁっ、もう限界っ」
「もう駄目~」
完全に頭までぐるぐる回って私達は両手をはなした。平衡感覚を保とうとしたけれど思うようにできなくてクラクラする。膝はガクガクで腰は砕けそうにフラフラと辺りを彷徨った。
「なにこれぇ、きゃははっ、止まれないよぉ」
千鳥足になっている自分が面白くて仕方ない。こんなの始めての経験で本当に馬鹿になったみたいだ。何もコントロールできてない。
「すごい体引っ張られる~、あはは。僕、酔っ払いになっちゃったよ」
優希くんも同じようにあっちに行ったりこっちに行ったり。私達どれだけ回っていたのか正常に戻るのに時間がかかりそうだ。ゆらゆらしているうちに二人の距離が近づいて……優希くんが私の手を取り、ようやくピタッと止まることができた。
「はぁ、はぁ、まだクラクラする……」
「私も……」
「ちょっと帆香ちゃん、肩貸して?」
「いいよ……」
優希くんがコテンッと私の肩におでこを乗せてきた。私も悠希くんも肩で息をして、おかしいくらいぴったり、ふたりの呼吸はリズムが一緒になっている。なぜかそれがとても心地良く……少しの間じっと……お互いの吐息だけを耳にしていた。繋いだ手がもどかしく、次第に指がモゾモゾしてしまう。恥ずかしい、けれど―――あと少し、このまま、優希くんとくっついていたかった。
たぶん、この気持ちは……きっと恋する気持ち―――。
トクン、トクン、心臓が喜びの音色を鳴らしているみたいだ。私の心に生まれた恋情を祝福するかのように……。
「ふぅっ……あ、雨、上がったね」
「え?」
優希くんが私に預けていた頭を起こして目をキョロキョロさせ言った。私も空を見上げて確認してみると、灰色の曇り空が逃げるように流れ、雲の隙間から明るい陽が少し差しこんだ。
「あ、晴れ間も覗いてるよ!」
「……帆香ちゃんの心が晴れたからだよ」
「あは、冗談だと思ったのに」
「帆香ちゃん、楽しかった?」
優希くんが濡れた髪を垂らし、その奥の優しい目で私を見つめながら尋ねてくる。私の返事は迷いなくひとつだった。
「うん! 楽しかった! あははっ」
まだ余韻が残っていてそれだけでも笑っちゃうくらい楽しかった。ありのまま素直に答えると「そっか、良かった」と優希くんもにこやかな笑顔を向けてくれる。するとそれを見て私も、また嬉しい楽しい気持ちが次々溢れてくるのだった。恥ずかしいと思う心は裏返して、優希くんと同じ笑顔で見つめ合う時間を少しでも長く続けたい、そう自分の心は望んでいるようだ。
「……? 優希くん、泣いてるの?」
目尻から雨の雫が一粒垂れたようにも見えた、けれどそれは不自然な気がして。涙と捉えた方が普通に見えた。でも涙する理由が見つからない。だから私は何も考える事なく質問したのだけれど。
笑いながら、泣きたいの……?
「……雨のせいだよ」
優希くんは答えた。そして頬を持ち上げ満面の笑顔をつくる、が、また一雫の雨がキラリとその幸福そうな頬を伝い落ちた。でも優希くんはずっと笑っているから……私の気のせいだと思うことにしたんだ。私の見間違いだ、勘違いだったんだと―――
・
・
・
そう、思いたいと、今も切実に願っている……。これも私の勘違いで、何かの間違いであって欲しかった。
[ 人殺し ]
二枚目のメモ用紙にはこう記されていた。私は下駄箱の前で呆然と立ち尽くす……。
私の犯した罪とはいったいどのような事なのか、自分で自分がわからない―――。
あきらかに私を標的にしている、私に訴えかけている。その事実が判明した。一枚目と同じように放課後下駄箱の扉を開けると、四つ折りの白い紙が私のローファーの上に置かれていた。その瞬間は恐怖というより真相を知りたい気持ちが勝ったのだと思う。私が正しい事を証明する為に追求して解決に導くつもりだった。もっと無差別的に選択された罵倒言葉だったり、或いは脅迫行為に値するような危険な言葉だったら、悪意ある嫌がらせだと思えただろう。けれど、意を決してメモ用紙を開いてみれば……[ 人殺し ]
自分の行いを省みろ、と逆に私が裁かれるべき対象者だと言われているような通告だった。一枚目の[ 全部おまえのせいだ ]というメッセージも合わせると、差出人は相当な恨みを私に抱いている。そして、私のせいで苦しんでいるという悲痛な叫びにも思えた。もちろん私がそんな大罪を犯すはずもないのだけれど、少なくとも誰かが、私の存在を理由にして苦悩を味わっている……。そう考えるとこのメッセージの差出人を私が責めるのは、いけない事のような気がしてきた。私が正しいと思っているのは自分の勘違いで、本当は人として道徳を外れた間違いをしているのかもしれない……。自分に自信が持てない……。
差出人を何がなんでも見つけ出してちゃんと話し合いをした方がいいだろう、私が悪いならきちんと謝罪したいし和解できるものならそれを望む。でもその相手が誰なのか……まだ特定できていないし、二枚目の用紙からも知る由はなかった。メモ用紙を私はまたカバンのポケットにそっとしまい込んだ。二枚になった重みがずっしりと肩にくい込む。カバンを引きずって歩きたいと思うほどに持つのも嫌だった。このまえ雨に濡れた日から時折咳込むようになってしまって、少し風邪を引いたせいもあったのか体が怠くてしかたない。それに、私に非難される落ち度があると知ってから……急に息がうまく吸えない、胸でつっかかってしまう、そんな症状が出てきた気がする。私はこれから先どうなってしまうのか―――自分を見失いかけていた。
我が校では毎年6月に区内にある運動公園の屋内球技場で体育祭が開催される。今日のホームルームでは体育祭にあたって競技のエントリーを決めるそうだ。
「これから受験に向けてハードな日程になると思うが、3年生は体育祭が高校最後の行事になるので、クラスの団結力を駆使して挑戦していこうな。じゃ、体育委員前に出て」
「うぃーす」
担任が教壇から下りると代わって体育委員の男子が席を立った。「クラス委員も手伝ってあげて」と先生が担任席に向かいながら私を見て言う。
「はい……コホッ」
思ったよりしゃがれた声が出てしまい咳払いをして教室の前へ行くと、体育委員からエントリー用紙を渡されて「この競技の出場者を決めるから黒板に書いてくれる?」と頼まれ「わかった」と承諾した。私は教壇に立ち皆に背を向けて黒板にチョークで書き始めた。
「①男子100m走2名……②女子100m走2名、次が⑤男子二人障害物2組⑥女子二人三脚2組、えっと……」
私が書いている間に体育委員は教壇を下りて黒板の横で説明を始める。
「えー、今年の得点倍率を発表します。聞いて驚け、我ら3Aの男子競技は0.7倍で過去一低い!」
うわぁ、と私もそれを聞いて心の中で引いた。「エグッ」「やる気なくす~」と男子達も当然の事ながら嘆き声を上げる。体育祭はクラス対抗で争われるので男女比の差が競技に与える影響を倍率で調整する。クラスそれぞれに決められた得点倍率があって、競技の順位に与えられる通常得点にクラスの倍率をかけた得点が獲得点数となる。うちのクラスは男子が多数なのでハンデを考慮すると倍率が低くなるのは必然だ。ということは……。
「男子はクソ倍率だけど、対して女子競技は最高倍率の1.8倍です!」
おおっ、また心でひっそりと喜びの声を上げると、クラス全体の同じどよめきを私は背中で受けたが黙々と書き続ける。
「⑪男女団体玉入れ4名ずつ……⑬男女混合リレー5名ずつ……」
「そんで、クラス対抗は全員参加で男女選抜の競技はどれか1つしか出れない。ひとり最低2回は出てくださいだって」
説明がまだ途中のようだが私は黒板に書き終えてチョークを置くと、教壇机にエントリー用紙を広げて胸ポケットからシャーペンを抜いた。さて、肝心なのは少ない女子をどう組み込んで回転させるかというところ。正直あまり去年の体育祭のエントリーの仕方や競技の結果を覚えていない。生徒会の役割で会場の設営や来賓の対応をしていたので、優遇してもらって都合のつく競技に参加しただけだった。
「コホッ、コホッ……」
口元を手で隠し小さく咳をする。ざっと計算してみてもこの競技数だと男子が1回しか出場できない人も出てくるのに、女子は3~4回も出場することになる。女子で話し合いが必要かなと思われたけれど、体育委員からさらにルール変更が発表される。
「……でね、今年から男と女で分かれてる種目にも特別枠で性別関係なく出場できるようになった」
「……どゆこと?」
「ジェンダー平等的な?」
「まぁ、うん、ハッキリ明確にはできなかったんだけど、うちのクラスみたいに男女比が激しいと出場回数の差が大きくなるから対応策ってとこです」
「その場合の倍率は?」
「男子が0.1倍で女子が2倍!」
一瞬教室がどよめく。凄い差がありすぎだし、返って不平等になっている可能性もある。議論の上での決定だと思うけれど不満が出そう……と私は右手を顎に当てて悩んだ。
「じゃあさ、例えば俺らが女子の競技に出場して1位になったら、通常10点獲得のところ1点!?」
「おいおいおい、それだと普通2位で8点のとこ俺らは0.8点になって1位以下だと1点も貰えないの!?」
「女子に負けたら恥だし精神的ダメージもデカいってゆーね」
「それ平等どころか不公正だろ?」
案の定、不平不満の声が男子から上がって教室内はザワついた。どんな協議の場でも起きてしまう事だが男女や能力の格差を失くそうと努力した結果、新たな問題が発生したり別の偏りができたりして全ての均衡をとるのが難しい。皆が皆の為により良い方向性を作ろうとした善意が報われないようで、集団の文句を聞くといつも心が萎んだみたいにきゅうっとなる。少し騒がしくなったところで担任席から先生が立ち上がって皆に声をかける。
「いいですか、意見交換は大いに結構だが持論ばかりではなく他者の意見も聞き入れること。自分達の事だけで判断しないで、逆の立場の人が居る事を忘れないようにね」
「……先生の言うとおり!」
「乗っかったよ、早く進行して~」
「お前らがうっさいから進まないんだよ?」
「いいから早く!」
教室の前に立つ体育委員と入口付近の席の男子達のやり取りを、私は教壇机でちらっと先生の居る右側から左側へと横目を振って聞いていた。
「わかったよ。だからね、結局今年の1年に女クラができちゃっててハンデが無いと無理なの。おっきいお兄さん達は納得してください」
「はい、わかりました!」
「よし、じゃあ出場選手を決めていっちゃおう」
体育委員が黒板を指差すと少量の笑い声と共に視線がこっちに集まった。急に正面から見られている意識が働いて背筋がビクッとする。最近、前に立つ事がなかったから緊張してきたみたいだ。あまり皆の方を向かないようにわざと目線を下げる。
「まずは男女混合リレー5人ずつ、女子ひとりだけ2巡だな……足速い順でいいよね?」
「あのさぁ、ハンデを逆手に取って女子が男子の競技に出たら最下位でも2点貰えるって事だよね?」
「ちょっと、うちら女子に全競技出ろってゆうの!?」
「いや効率でいったらの話、男子の最下位より女子の方が得点高い」
「あのさ女子の負担考えて? 去年5回も出て大変だったんだから。休む暇なく集合とか待機かけられるんだよ?」
後ろの席で男子と女子の諍いが始まって顔をあげて聞き入った。2年の時も同じクラスだった女子だ。2年時も男子が多いクラスで、きっと私が生徒会の仕事で抜けたりしていたから余計に負担をかけたのだと思った。今年は去年より女子が減ったわけだし、より負荷が大きくなるはずだ。
「ぶっちゃけ去年もこなせたんなら、今年もいけんじゃね?」
「こっちの苦労も知らないで好き勝手言って、殺す気なの?」
―――っ!!
女子が怪訝そうな顔つきで軽口を叩いた男子に向かって言った。なのに、その言葉で私の胸を突かれたような痛みが走る。
……違う、違う、私に言ったんじゃない。
あの子は男子に例えで言っただけ、違うっ、冗談だから!
[ 人殺し ]
頭に浮かんでしまうと……背中の方から血の気が引いて寒気に襲われたように上半身がガチガチし始めた。
「そこまで悪気はないよ。うちのクラスは男子優位だけど、全校でみると女子の方が多いから、女子ありきで戦略練らないとねって」
「私は新しいルールで女子の競技に男子に代わりに出てもらって、女子の負担を軽くしてもらいたいよ」
「はいはい、こっちで引き取ります。体育祭実行委員会としては出場機会は平等がモットーなので、勝敗にこだわりたいとこだけど安全第一でお願いします~」
「安全第一ね! 毎年ケガ人病院運ばれてるもんなぁ」
「そう、ケガ人0が目標です。一応女子の意見も確認しとくか? 負担軽減でOKなら挙手で。……6、7、全員って委員長は? ……おーい、委員長? 和田さん!」
「は、はい?」
ドキッと体が跳ねて驚いた。急に男子に呼ばれて我に返る。
「和田さんはどっち?」
「え……?」
体育委員に聞かれてなんの事かわからなくて焦る。
どうしよう、聞いてなかっ、た……っ!
前を向くと皆の視線が私に向けられていてたじろいだ。圧に負けて体が後ろに傾きかけ片足を一歩引いた。
何を話していたか、聞いてもいい感じじゃ、ない。えっと、女子が負担でって…………わからない。たくさんの目が気になって考えられない。答えられない。何も口にできない。駄目だ、怖い、怖いっ―――!!
「……和田さん?」
「どしたの?」
「固まってるよ?」
―――この中にいるの?
私を[ 人殺し ]だと思ってる人が。
私は……何をしたの?
見ないで。そんなにじろじろと、私を見ないで。
私の意見なんて聞きたくないでしょう?
私が何をしても駄目なんでしょう?
私が正しいって自信がないもの。間違ってるんだとしたら責め立てられる。人殺しだって皆の前で言われたら、いつか言われたら、それが……今かもしれない。もう怖くて、怖くて、何も言えない―――。
「―――っ!?」
左手に何か人肌の感触を感じて目線をやると、教壇机の裏で私の小刻みに震える手を誰かの手が優しく包んでいた―――優希くんだ。
「……ゆ、?」
声に出せない名前を聞いてくれたかのように、優希くんは私を見つめゆっくりとうなずいた。穏やかな眼差しで、天使みたいな微笑みで、私を見つめてくれる。そこに、すぐ横に、いつもの優希くんが私の側に居る。そして、ぎゅっと左手を握って『大丈夫』と安心を私に伝えてくれる。いつもそうやって優希くんが私を救ってくれたから、言葉にしなくてもちゃんと届いてくるんだ、優希くんの優しさが……。
私も届くまで、気持ちが伝わるまで、何もしないであきらめたらいけないよね―――。
「……皆の力になりたいけれど、私には足りない所がたくさんあります。だから、助けて貰えたら嬉しいです。よろしくお願いします……」
怖いと思ったたくさんの目を見つめて正直な自分の気持ちを声にした。それで頭を下げてもとに直る。ちゃんと伝えることができたのは……ずっと優希くんが手を握っていてくれたからだろう。隣にいる優希くんに顔を向けると私以上に喜び溢れた顔で笑っていた。いつもに増して朗らかで晴々とした夏空みたいな表情だ。私は優希くんへ、感謝の気持ちを左手に込めて。私から優希くんの手を繋ぎ返して強く握った。すうっと胸が軽くなって呼吸が楽にできるようになる。
ありがとう、優希くん。困った時いつも、私のそばに居てくれてありがとう―――。
「和田さんは体調が悪そうなので保健室に連れて行きます。行こ?」
「……うん」
優希くんが私の手を引いて教壇を一緒に下りる。心を落ち着かせてから教室に戻ってこよう、優希くんの力を借りて私はもう一度自分を見つめ直す事にした。
あれ……?
今、透明の傘をさした……っ、椎名先輩だ!!
見覚えのある顔を見つけて、ガラスに頭をぶつけそうなくらい近づいて凝視した。間違いなく先輩だと確信すると、しばらく姿を追って傘の花に隠れてしまいそうになった時……ガタン!
バタバタと自分の荷物をまとめトレイを持つと、急いで片づけて駆け足で店の外に飛び出していた。先輩が歩いて行った方へ私もあとを追いかける。
雨が……っ。
折り畳み傘をカバンから出してたらきっと間に合わない。雨粒で前が見えなくならないよう手を翳して防ぎながら、私は見失った椎名先輩を探す。
透明のビニール傘をさしてデニムっぽいシャツに黒のリュック……いない。もう何処かへ行っちゃったかな?
先輩の私服は何度か見たことがあって、たぶん服装の雰囲気からしても間違いないと思うのだけれど。目を凝らして右に左にあっちもこっちも探してみた。
「あっ……!」
見つけた!
と、一直線に椎名先輩のもとへ駆け出すところで自身にストップをかけた。私より先に先輩へ近づいた誰かがいて……その人も私には見覚えがある。そう、青山先輩だ。
……私が近づいちゃ駄目。椎名先輩に気安く近づいたら駄目だわ。恋人である青山先輩がいるのだから。
ボツボツ――。ボツボツ――。
私はその場に立ち尽くしふたりをただ眺めていた。青山先輩の私服は大人っぽくて、髪も明るめに染めたのか凄く綺麗な女性に見える。ふたりはとても大学生らしくて、何も変わっていない高校生の私には、遠い存在になってしまったような感覚がした。以前みたいに気軽に悩み事を聞いてもらおうとした、自分が恥ずかしい。それに、こんなに鬱陶しい雨の中でもふたりは笑顔で見つめ合っている。幸せそうなふたりにわざわざ水を差す行為は控えなければ……。
軽率な行動を自制して反省する。先輩達が仲良く歩いて見えなくなるまで、私はその場で雨に打たれていた。制服が濡れてじっとりと重みを感じるが、今更、傘をさしたところで……!
突然目の前をブルーのビニール傘で覆われて雨粒があたらなくなった。傘の中は澄んだ青色、まるで海の中にいるみたいな錯覚を起こす。そして傘の水面を伝うように聞こえた優しい声にはっとした。
「帆香ちゃん、傘、持ってないの?」
「!!」
急いで振り返ると私を覗き込む心配そうな顔がそこにあった。
「優希くん!?」
「いっぱい濡れちゃったね……」
―――!?
優希くんの手が私の頬をそっと撫でる。傘代わりに翳した手をどけてしまったので、雨の雫がたくさん顔を流れていた。きっと髪もべったりしていて、こんなに近くで見せれるような顔じゃない……でも、優希くんは躊躇いもせず自分の手で雨を拭ってくれる。緊張しながら少し上目で見つめた悠希くんの顔は、なぜか泣きそうな表情に見えて焦った。
「お、折り畳み傘は持ってるんだけどカバンの奥にしまってて……ありがとう」
相合傘の中で私に触れる優希くんの手が擽ったい。立ち止まったままの私達を通行人が避けて傘を傾けてゆく。いつまでこうして……恋人みたいに……触れあっているのだろうと戸惑うけれど、優希くんの顔がどうしてか泣きたそうで目を離せない。
私のせい?
私が優希くんを頼りにしないから、椎名先輩を頼ろうとしたから……嫌になっちゃったのかな……。
もしかして、卒業式の日みたいに、見てた?
「えっと、優希くん……」
「このまま僕の傘、半分こでさして使おう?」
「う、うん、ありがとう」
「びしょびしょだから乾かさなくちゃ、とりあえずあっちに行こう」
優希くんはいつものにこやかな顔になると私にそう言って、先輩達が歩いて行った逆の方向を指さした。そして、私の手を取るときゅっと繋いでふたりぴったりして傘の真下におさまる。悠希くんは私が困った時いつも側で寄り添って助けてくれる優しい人だ。今も、自分の情けなさに呆れていた惨めな私を救ってくれた。
何度もこんなふうに守ってくれる人……優希くん以外にいないんじゃないかな……。
それって私にとって特別な存在、きっと……恋をしたい相手。
「優希くん、あのね……」
「うん?」
「えっと……私……」
―――優希くんに……恋をすると思うよ!
そう、伝えたかったけれど、近くでじっくり見られちゃうと恥ずかしくて言葉にできない。すると、優希くんは口籠った私に代わって物寂しげな笑顔で口を開いた。
「……わかってるよ、言わなくても。帆香ちゃんは無理しなくていいんだよ」
「え?」
わかってるって……私の気持ち?
何か……優希くん勘違いしていない?
本当に伝わっているのかなと少し首を傾げたところで、別の質問をされ疑問が飛んでしまった。
「早く拭いたほうがいいと思うんだけど、帆香ちゃんタオル持ってる?」
「あ、ハンカチしか持ってない」
さっきいた場所をだいぶ離れて人通りが少なくなった。制服のスカートのポケットからハンカチを取り出したけれど、すでにしっとりしていて使い物にはならなそうだ。
「困ったな、僕も持ってないし。買いに行く?」
「いいよいいよ、私が悪いんだし優希くんにこれ以上迷惑かけられない」
「それは全然気にしないでいいんだけど……じゃあ……僕も濡れちゃお!」
「えっ!?」
ちょうど駅の広場まで歩いてきたところで優希くんはさしていた傘をパッと横に傾けた。ポツポツと雨が降り注ぎまた体に当たってくる。細めた目で優希くんを見ると雨のシャワーを浴びてるみたいに顔を天に向けていた。楽しそうに微笑んでいる顔が雨粒で濡れてゆく……。
「もう細かい事は気にしないで、なんにも考えないってゆうのはどお?」
優希くんが無邪気な顔で私に向かって言う。その顔には幾つも雨がくっついてタラタラと流れていた。たぶん私も同じ……でも優希くんのようにこの雨を楽しんではいない。
「私……気を遣って考え過ぎ、かな?」
「たまには能天気になってみるのもいいんじゃない? ちっちゃい子みたいに」
「そっか、神経質になってたかもしれない、わっ!?」
「今日はもういっぱい濡れちゃえー!」
優希くんは突然私と手を繋いだまま走り出す。広場をぐるっと私を連れて飛行機みたいに腕を広げ駆け回り始めたんだ。
「わぁ~、雨気持ちいい~」
「ゆ、優希く、ちょっと早いよっ」
走る途中で傘を捨て優希くんはめいっぱい手を伸ばして雨を受ける。ブルーの傘はコマのように広場でくるくるして止まった。はしゃいだ優希くんは私を外側にして引っ張るので足がもつれそうだ。まるで運動会の競技でもしているみたい。私が息切れを起こすと今度は手を大きく振りながらスキップを始めた。体が揺さぶられてもうステップも合わせられないし破茶滅茶だ。思った通りになんて全然うまく動けないで頭も混乱してきてしまう。これじゃあ本当に雨の中ではしゃぐ小さな子供みたいだ。
「ふふっ、私達高校生じゃなくて幼稚園児になってる」
「楽しくなってきた? 無理して大人ぶることないよ。童心も忘れないで正しい成人になればいいんだから!」
優希くんは子供らしい顔で大人っぽい事を言う。面白い人だと思ったら胸のつかえがスッと消えて軽くなった。優希くんと一緒にいると素直に楽しいと笑いたくなるんだ。
「ふふっ……はぁ、はぁ、もうほんとにおかしい」
「はぁ~、帆香ちゃん、カバン貸して?」
「はい……?」
「ここに置いといてとっ……」
やっと止まって私のカバンを受け取ると地面に置いてひっくり返っていた傘を立てかけた。そして、その場で私と面と向かうと足を揃えて姿勢よく立ち、胸に手を当ててお辞儀をする。頭を上げるとその紳士的なポーズのまま笑顔で私を真っ直ぐに見た。咄嗟に私はスカートの裾をつかんで膝を曲げ挨拶に応じる。なんとなく優希くんに合わせてみたけれどこれで良かったのか、送った視線に「ハハッ」と満足そうな笑い声が飛んだ。すると、優希くんは近寄ってきて私の両手を真正面から握り右に左にゆらゆらさせる。
「せぇのっ、えいっ」
「わぁ!」
「こんな感じ?」
「ダンス!?」
優希くんは勢いをつけて片手をはなすと私の頭の上で繋いだ手をぐるんと回す。もたつきながら体を回転させて止まるとまたすぐ逆回転させられた。
「ははっ上手上手、じゃあ反対もやってみよっ」
「反対も!?」
同じように繰り返してリズミカルに私が戻ってくると、はなれてた片手も受け止めて両方の繋いだ手に力を入れ優希くんは驚く。
「帆香ちゃん上手だね!?」
「私、小学生の時バレエ習ってたみたいなの」
「……みたい?」
「あ、私ね、小学5年生の時に階段から落ちて頭を打ったらしくて。それからそれまでの記憶があまりないんだ……」
夏休みの事故の話だ。どうして階段から落ちたのかも覚えていない。病院で治療を受けた時からの記憶しか私にはないんだ。一時的な記憶喪失で自分のことも家族のことも学校のこともわからなかったけれど、皆に優しく教えてもらってそのうちに感覚は取り戻したように思う。私としては痛みもなかったので特別苦しんだ過去ではないから、ただの事実として然りげ無く暴露したつもりが衝撃を与えてしまったようだ。優希くんの表情は大きく目を開き引きつっていた。
「……優希くん?」
「あ、あー、骨折とかしなかったの?」
「頭蓋骨にヒビはできたみたいだけど、記憶障害の他には何もなかった。ちゃんと骨もくっついたよ?」
「そっか、良かった。じゃ、じゃあ、バレエの練習を体感で覚えてたって事かもしれないね。ちょっとやって見せて!」
期待されて私は半信半疑だったが試してみようとその気になった。なんとなく、こんな感じかな、という曖昧な仕草で……両腕を肩の高さに上げて姿勢を正し片足に重心を置く。バランスを整えて真正面の優希くんを見たら……せーの。目で合図をして軸足の膝を曲げると回転方向の足と手を横に出してクルッと、反対の足を引き寄せて両爪先で一回転。ヨロっとしながらも片足を外に着いて止まった。ほっと一安心するとパチパチ拍手をして優希くんが喜ぶ。
「わぁ、カッコ良かったよ!」
「ちゃんとは出来てないよ絶対、足の裏で回ったから」
それっぽく見せただけで誉められるような出来栄えではないから恥ずかしい。でも私にそれなりの経験があった事の証明にはなっただろう。
いつか思い出せない記憶も戻ったりするのだろうか……?
ふとそんなことが頭をよぎった。私も自分に期待しながら優希くんのもとへ歩み寄るとまた手を強引に掴まれて、その場でぐるぐると風車のように回り始めた。
「わっ、まだするの!?」
「もちろん、雨が止むまで思いきり遊ぶんだよ!」
「ええっ!? はぁ、はぁ、この雨止むの!?」
「きっと帆香ちゃんの心が晴れたら、止むかもねっ」
優希くんは呑気な事を言ってこのおふざけを楽しんでいる。もう体中が雨でしっとりして制服も体に張り付いてるし、ローファーも中がぐしょぐしょになってきた。本降りの雨を心配したら案の定、繋いでいた手がツルッと雨で滑って体がよろけそうに……。
「わっ!」
「おっと! これで、どう?」
優希くんは私の腕をしっかり組んでスキップをする。二人で逆向きに腕組みをして回る、外国のお祭りで見たような踊り方にそっくりだ。思わずおかしさが込み上げる。
「あはっ、面白い」
「今度は反対の腕っ、逆回り~」
「えっ、はい。このダンス、いそがしいっ」
「知ってた? さっきから帆香ちゃんの方が外回りさせられてるの、ははっ」
「だと思った! ずるいっ、私息切れしてきて……」
「帆香ちゃんは回るの上手でしょ? 僕は回す方が得意みたいだ……」
そう言って優希くんは私と両手を繋ぎ輪をつくると、自分を軸に私をたくさん振り回してきた。めちゃくちゃなワルツみたいにクルクルと躍っていると、頭がふわふわする感じになって細かい事まで気が回らなくなる。もうただ単に楽しい気分しか胸の中に詰まってなかった。
「きゃぁ、あはっ、目が回りそう~」
「ははっ、嫌なこと全部忘れちゃうくらい回ってみようよ!」
私達は貸し切りの広場で、心ゆくまで子供っぽくはしゃいでいた。年相応に見えない姿でわざとおふざけに興じる。不思議と周囲の目は気にならなかった。「きゃ~」「わぁ~」声を広場に響かせて雨のダンスを全身で楽しんだ。
「はぁっ、はぁっ、もう限界っ」
「もう駄目~」
完全に頭までぐるぐる回って私達は両手をはなした。平衡感覚を保とうとしたけれど思うようにできなくてクラクラする。膝はガクガクで腰は砕けそうにフラフラと辺りを彷徨った。
「なにこれぇ、きゃははっ、止まれないよぉ」
千鳥足になっている自分が面白くて仕方ない。こんなの始めての経験で本当に馬鹿になったみたいだ。何もコントロールできてない。
「すごい体引っ張られる~、あはは。僕、酔っ払いになっちゃったよ」
優希くんも同じようにあっちに行ったりこっちに行ったり。私達どれだけ回っていたのか正常に戻るのに時間がかかりそうだ。ゆらゆらしているうちに二人の距離が近づいて……優希くんが私の手を取り、ようやくピタッと止まることができた。
「はぁ、はぁ、まだクラクラする……」
「私も……」
「ちょっと帆香ちゃん、肩貸して?」
「いいよ……」
優希くんがコテンッと私の肩におでこを乗せてきた。私も悠希くんも肩で息をして、おかしいくらいぴったり、ふたりの呼吸はリズムが一緒になっている。なぜかそれがとても心地良く……少しの間じっと……お互いの吐息だけを耳にしていた。繋いだ手がもどかしく、次第に指がモゾモゾしてしまう。恥ずかしい、けれど―――あと少し、このまま、優希くんとくっついていたかった。
たぶん、この気持ちは……きっと恋する気持ち―――。
トクン、トクン、心臓が喜びの音色を鳴らしているみたいだ。私の心に生まれた恋情を祝福するかのように……。
「ふぅっ……あ、雨、上がったね」
「え?」
優希くんが私に預けていた頭を起こして目をキョロキョロさせ言った。私も空を見上げて確認してみると、灰色の曇り空が逃げるように流れ、雲の隙間から明るい陽が少し差しこんだ。
「あ、晴れ間も覗いてるよ!」
「……帆香ちゃんの心が晴れたからだよ」
「あは、冗談だと思ったのに」
「帆香ちゃん、楽しかった?」
優希くんが濡れた髪を垂らし、その奥の優しい目で私を見つめながら尋ねてくる。私の返事は迷いなくひとつだった。
「うん! 楽しかった! あははっ」
まだ余韻が残っていてそれだけでも笑っちゃうくらい楽しかった。ありのまま素直に答えると「そっか、良かった」と優希くんもにこやかな笑顔を向けてくれる。するとそれを見て私も、また嬉しい楽しい気持ちが次々溢れてくるのだった。恥ずかしいと思う心は裏返して、優希くんと同じ笑顔で見つめ合う時間を少しでも長く続けたい、そう自分の心は望んでいるようだ。
「……? 優希くん、泣いてるの?」
目尻から雨の雫が一粒垂れたようにも見えた、けれどそれは不自然な気がして。涙と捉えた方が普通に見えた。でも涙する理由が見つからない。だから私は何も考える事なく質問したのだけれど。
笑いながら、泣きたいの……?
「……雨のせいだよ」
優希くんは答えた。そして頬を持ち上げ満面の笑顔をつくる、が、また一雫の雨がキラリとその幸福そうな頬を伝い落ちた。でも優希くんはずっと笑っているから……私の気のせいだと思うことにしたんだ。私の見間違いだ、勘違いだったんだと―――
・
・
・
そう、思いたいと、今も切実に願っている……。これも私の勘違いで、何かの間違いであって欲しかった。
[ 人殺し ]
二枚目のメモ用紙にはこう記されていた。私は下駄箱の前で呆然と立ち尽くす……。
私の犯した罪とはいったいどのような事なのか、自分で自分がわからない―――。
あきらかに私を標的にしている、私に訴えかけている。その事実が判明した。一枚目と同じように放課後下駄箱の扉を開けると、四つ折りの白い紙が私のローファーの上に置かれていた。その瞬間は恐怖というより真相を知りたい気持ちが勝ったのだと思う。私が正しい事を証明する為に追求して解決に導くつもりだった。もっと無差別的に選択された罵倒言葉だったり、或いは脅迫行為に値するような危険な言葉だったら、悪意ある嫌がらせだと思えただろう。けれど、意を決してメモ用紙を開いてみれば……[ 人殺し ]
自分の行いを省みろ、と逆に私が裁かれるべき対象者だと言われているような通告だった。一枚目の[ 全部おまえのせいだ ]というメッセージも合わせると、差出人は相当な恨みを私に抱いている。そして、私のせいで苦しんでいるという悲痛な叫びにも思えた。もちろん私がそんな大罪を犯すはずもないのだけれど、少なくとも誰かが、私の存在を理由にして苦悩を味わっている……。そう考えるとこのメッセージの差出人を私が責めるのは、いけない事のような気がしてきた。私が正しいと思っているのは自分の勘違いで、本当は人として道徳を外れた間違いをしているのかもしれない……。自分に自信が持てない……。
差出人を何がなんでも見つけ出してちゃんと話し合いをした方がいいだろう、私が悪いならきちんと謝罪したいし和解できるものならそれを望む。でもその相手が誰なのか……まだ特定できていないし、二枚目の用紙からも知る由はなかった。メモ用紙を私はまたカバンのポケットにそっとしまい込んだ。二枚になった重みがずっしりと肩にくい込む。カバンを引きずって歩きたいと思うほどに持つのも嫌だった。このまえ雨に濡れた日から時折咳込むようになってしまって、少し風邪を引いたせいもあったのか体が怠くてしかたない。それに、私に非難される落ち度があると知ってから……急に息がうまく吸えない、胸でつっかかってしまう、そんな症状が出てきた気がする。私はこれから先どうなってしまうのか―――自分を見失いかけていた。
我が校では毎年6月に区内にある運動公園の屋内球技場で体育祭が開催される。今日のホームルームでは体育祭にあたって競技のエントリーを決めるそうだ。
「これから受験に向けてハードな日程になると思うが、3年生は体育祭が高校最後の行事になるので、クラスの団結力を駆使して挑戦していこうな。じゃ、体育委員前に出て」
「うぃーす」
担任が教壇から下りると代わって体育委員の男子が席を立った。「クラス委員も手伝ってあげて」と先生が担任席に向かいながら私を見て言う。
「はい……コホッ」
思ったよりしゃがれた声が出てしまい咳払いをして教室の前へ行くと、体育委員からエントリー用紙を渡されて「この競技の出場者を決めるから黒板に書いてくれる?」と頼まれ「わかった」と承諾した。私は教壇に立ち皆に背を向けて黒板にチョークで書き始めた。
「①男子100m走2名……②女子100m走2名、次が⑤男子二人障害物2組⑥女子二人三脚2組、えっと……」
私が書いている間に体育委員は教壇を下りて黒板の横で説明を始める。
「えー、今年の得点倍率を発表します。聞いて驚け、我ら3Aの男子競技は0.7倍で過去一低い!」
うわぁ、と私もそれを聞いて心の中で引いた。「エグッ」「やる気なくす~」と男子達も当然の事ながら嘆き声を上げる。体育祭はクラス対抗で争われるので男女比の差が競技に与える影響を倍率で調整する。クラスそれぞれに決められた得点倍率があって、競技の順位に与えられる通常得点にクラスの倍率をかけた得点が獲得点数となる。うちのクラスは男子が多数なのでハンデを考慮すると倍率が低くなるのは必然だ。ということは……。
「男子はクソ倍率だけど、対して女子競技は最高倍率の1.8倍です!」
おおっ、また心でひっそりと喜びの声を上げると、クラス全体の同じどよめきを私は背中で受けたが黙々と書き続ける。
「⑪男女団体玉入れ4名ずつ……⑬男女混合リレー5名ずつ……」
「そんで、クラス対抗は全員参加で男女選抜の競技はどれか1つしか出れない。ひとり最低2回は出てくださいだって」
説明がまだ途中のようだが私は黒板に書き終えてチョークを置くと、教壇机にエントリー用紙を広げて胸ポケットからシャーペンを抜いた。さて、肝心なのは少ない女子をどう組み込んで回転させるかというところ。正直あまり去年の体育祭のエントリーの仕方や競技の結果を覚えていない。生徒会の役割で会場の設営や来賓の対応をしていたので、優遇してもらって都合のつく競技に参加しただけだった。
「コホッ、コホッ……」
口元を手で隠し小さく咳をする。ざっと計算してみてもこの競技数だと男子が1回しか出場できない人も出てくるのに、女子は3~4回も出場することになる。女子で話し合いが必要かなと思われたけれど、体育委員からさらにルール変更が発表される。
「……でね、今年から男と女で分かれてる種目にも特別枠で性別関係なく出場できるようになった」
「……どゆこと?」
「ジェンダー平等的な?」
「まぁ、うん、ハッキリ明確にはできなかったんだけど、うちのクラスみたいに男女比が激しいと出場回数の差が大きくなるから対応策ってとこです」
「その場合の倍率は?」
「男子が0.1倍で女子が2倍!」
一瞬教室がどよめく。凄い差がありすぎだし、返って不平等になっている可能性もある。議論の上での決定だと思うけれど不満が出そう……と私は右手を顎に当てて悩んだ。
「じゃあさ、例えば俺らが女子の競技に出場して1位になったら、通常10点獲得のところ1点!?」
「おいおいおい、それだと普通2位で8点のとこ俺らは0.8点になって1位以下だと1点も貰えないの!?」
「女子に負けたら恥だし精神的ダメージもデカいってゆーね」
「それ平等どころか不公正だろ?」
案の定、不平不満の声が男子から上がって教室内はザワついた。どんな協議の場でも起きてしまう事だが男女や能力の格差を失くそうと努力した結果、新たな問題が発生したり別の偏りができたりして全ての均衡をとるのが難しい。皆が皆の為により良い方向性を作ろうとした善意が報われないようで、集団の文句を聞くといつも心が萎んだみたいにきゅうっとなる。少し騒がしくなったところで担任席から先生が立ち上がって皆に声をかける。
「いいですか、意見交換は大いに結構だが持論ばかりではなく他者の意見も聞き入れること。自分達の事だけで判断しないで、逆の立場の人が居る事を忘れないようにね」
「……先生の言うとおり!」
「乗っかったよ、早く進行して~」
「お前らがうっさいから進まないんだよ?」
「いいから早く!」
教室の前に立つ体育委員と入口付近の席の男子達のやり取りを、私は教壇机でちらっと先生の居る右側から左側へと横目を振って聞いていた。
「わかったよ。だからね、結局今年の1年に女クラができちゃっててハンデが無いと無理なの。おっきいお兄さん達は納得してください」
「はい、わかりました!」
「よし、じゃあ出場選手を決めていっちゃおう」
体育委員が黒板を指差すと少量の笑い声と共に視線がこっちに集まった。急に正面から見られている意識が働いて背筋がビクッとする。最近、前に立つ事がなかったから緊張してきたみたいだ。あまり皆の方を向かないようにわざと目線を下げる。
「まずは男女混合リレー5人ずつ、女子ひとりだけ2巡だな……足速い順でいいよね?」
「あのさぁ、ハンデを逆手に取って女子が男子の競技に出たら最下位でも2点貰えるって事だよね?」
「ちょっと、うちら女子に全競技出ろってゆうの!?」
「いや効率でいったらの話、男子の最下位より女子の方が得点高い」
「あのさ女子の負担考えて? 去年5回も出て大変だったんだから。休む暇なく集合とか待機かけられるんだよ?」
後ろの席で男子と女子の諍いが始まって顔をあげて聞き入った。2年の時も同じクラスだった女子だ。2年時も男子が多いクラスで、きっと私が生徒会の仕事で抜けたりしていたから余計に負担をかけたのだと思った。今年は去年より女子が減ったわけだし、より負荷が大きくなるはずだ。
「ぶっちゃけ去年もこなせたんなら、今年もいけんじゃね?」
「こっちの苦労も知らないで好き勝手言って、殺す気なの?」
―――っ!!
女子が怪訝そうな顔つきで軽口を叩いた男子に向かって言った。なのに、その言葉で私の胸を突かれたような痛みが走る。
……違う、違う、私に言ったんじゃない。
あの子は男子に例えで言っただけ、違うっ、冗談だから!
[ 人殺し ]
頭に浮かんでしまうと……背中の方から血の気が引いて寒気に襲われたように上半身がガチガチし始めた。
「そこまで悪気はないよ。うちのクラスは男子優位だけど、全校でみると女子の方が多いから、女子ありきで戦略練らないとねって」
「私は新しいルールで女子の競技に男子に代わりに出てもらって、女子の負担を軽くしてもらいたいよ」
「はいはい、こっちで引き取ります。体育祭実行委員会としては出場機会は平等がモットーなので、勝敗にこだわりたいとこだけど安全第一でお願いします~」
「安全第一ね! 毎年ケガ人病院運ばれてるもんなぁ」
「そう、ケガ人0が目標です。一応女子の意見も確認しとくか? 負担軽減でOKなら挙手で。……6、7、全員って委員長は? ……おーい、委員長? 和田さん!」
「は、はい?」
ドキッと体が跳ねて驚いた。急に男子に呼ばれて我に返る。
「和田さんはどっち?」
「え……?」
体育委員に聞かれてなんの事かわからなくて焦る。
どうしよう、聞いてなかっ、た……っ!
前を向くと皆の視線が私に向けられていてたじろいだ。圧に負けて体が後ろに傾きかけ片足を一歩引いた。
何を話していたか、聞いてもいい感じじゃ、ない。えっと、女子が負担でって…………わからない。たくさんの目が気になって考えられない。答えられない。何も口にできない。駄目だ、怖い、怖いっ―――!!
「……和田さん?」
「どしたの?」
「固まってるよ?」
―――この中にいるの?
私を[ 人殺し ]だと思ってる人が。
私は……何をしたの?
見ないで。そんなにじろじろと、私を見ないで。
私の意見なんて聞きたくないでしょう?
私が何をしても駄目なんでしょう?
私が正しいって自信がないもの。間違ってるんだとしたら責め立てられる。人殺しだって皆の前で言われたら、いつか言われたら、それが……今かもしれない。もう怖くて、怖くて、何も言えない―――。
「―――っ!?」
左手に何か人肌の感触を感じて目線をやると、教壇机の裏で私の小刻みに震える手を誰かの手が優しく包んでいた―――優希くんだ。
「……ゆ、?」
声に出せない名前を聞いてくれたかのように、優希くんは私を見つめゆっくりとうなずいた。穏やかな眼差しで、天使みたいな微笑みで、私を見つめてくれる。そこに、すぐ横に、いつもの優希くんが私の側に居る。そして、ぎゅっと左手を握って『大丈夫』と安心を私に伝えてくれる。いつもそうやって優希くんが私を救ってくれたから、言葉にしなくてもちゃんと届いてくるんだ、優希くんの優しさが……。
私も届くまで、気持ちが伝わるまで、何もしないであきらめたらいけないよね―――。
「……皆の力になりたいけれど、私には足りない所がたくさんあります。だから、助けて貰えたら嬉しいです。よろしくお願いします……」
怖いと思ったたくさんの目を見つめて正直な自分の気持ちを声にした。それで頭を下げてもとに直る。ちゃんと伝えることができたのは……ずっと優希くんが手を握っていてくれたからだろう。隣にいる優希くんに顔を向けると私以上に喜び溢れた顔で笑っていた。いつもに増して朗らかで晴々とした夏空みたいな表情だ。私は優希くんへ、感謝の気持ちを左手に込めて。私から優希くんの手を繋ぎ返して強く握った。すうっと胸が軽くなって呼吸が楽にできるようになる。
ありがとう、優希くん。困った時いつも、私のそばに居てくれてありがとう―――。
「和田さんは体調が悪そうなので保健室に連れて行きます。行こ?」
「……うん」
優希くんが私の手を引いて教壇を一緒に下りる。心を落ち着かせてから教室に戻ってこよう、優希くんの力を借りて私はもう一度自分を見つめ直す事にした。



