5月になると三者面談が始まり、担任と母と私で主に進路希望について話を交わした。午後3時予定から10分遅れで始まった私の面談は、30分弱で終了し母と二人して退室した。しばらく無言で廊下を歩き母のあとをついて行く。紺色のパンツスーツで背筋を伸ばし少し早足な歩き方。母の後ろ姿はいつも私のお手本だった。堂々とした迷いのない態度が伝わってくる。白衣をまとえば患者さんに信頼される医者の風格。私はまだまだ到底母のようにはなれなくて、通学鞄を肩にかけうつむき気味に歩くのが癖だ。面談中の教室を通過して階段に出ると、母は一旦立ち止まって振り返り静かな声で私に話しかける。
「先生の仰るとおり医学部現役合格を目指すなら、このままだと手遅れになるわね。自覚してると言ってたけれど判定模試の結果が悪すぎる。何か手を打たないと、考えてるの?」
「えっと……模試の日は体調が思わしくなかったから、次は自己管理を徹底して集中できるように……」
「甘いわよ? 体調管理も実力のうち、寧ろ基本中の基本」
「……はい」
私の掠れかけた返事に母は何も言わず階段を下り始めた。私もあとを追いかける。
「あなた引っ込み思案だから、生徒会も勧めてみて正解だったと安心してたのよ。以前より積極性が身についたものね」
「そ、そうかな?」
「クラス委員にも選出されて立派だと思うわ。内申は問題ないと先生も太鼓判だったし、あとは本番で如何に実力を発揮するかよ?」
「うん、わかってる」
階段を下の階へと一歩一歩下りながら、母は私に面談の内容も踏まえた大学受験のアドバイスをする。
「それに特に医学部は浪人生が多いから、受験の経験値や勉強量でも差をつけられて現役合格はより難しいの。少しのミスが仇になるわ」
そう母に言われてみて自分の認識が甘かった事にようやく気づく。今までは同学年の子達と競い合ってきたけれど、大学受験は浪人生も含めた椅子取り合戦になるのだと改めて厳しさを感じる。浪人生の方が歳上で強い人達なのだから、クラスや学年のライバル達より考慮すべき存在だと思い知った。
「あなた2年の終わりに受けた基礎判定模試が良かったからって油断しすぎよ。あれは浪人生受けてないし、これからの模試は本番に向けて受験者数が何十万て増えるわよ?」
「あ、そこはチェックしてなかった」
「次回からは順位も重要視するべきだわ。それに医学部は総合点だから苦手科目も作ったらいけない、バランスを取るのが大事なの。あなたは数学のレベルを上げないとまずいわ。早急に対策を取った方が良さそうね。予備校以外にも塾を考えましょ……」
「……は、はい」
数学が苦手なのは相変わらずで、わからない問題をよく椎名先輩に教えてもらっていたんだ。生徒会会計なのにって先輩は笑いながら嫌な顔せずに、いつも丁寧に私が理解するまで付き合ってくれた。説明が上手でとてもわかりやすくて、その時だけは数学が好きと思えたんだ……もうそんな特別な時間は無いのだと急に気分が落ち込む。足取りが重くなったところで階段を下り終え薄暗い1階に到着した。廊下を進んで昇降口へ向かう途中、母は私を何度か振り返って躊躇いながらも忠告をしてきた。
「帆香……あのね……」
「……うん?」
「頑張ってるのはわかるけど、受験は結果が全てのシビアな戦いよ。もう少し気を引き締めて、姉としても湊に示しがつくよう、正しい姿勢であってほしいの。わかってくれる?」
「……はい。ちゃんと心掛ける」
母が切実そうに眉を下げて私に言うので、自分に『しっかり!』と心で言い聞かせ戒めた。口をぎゅっと結び決意した私の返事に母は無言で頷いて表情をやわらげる。それから母はスリッパからパンプスへ、私は上履きからローファーへ履き替えて校舎の外へ出た。
「じゃあ、私は午後の診察に戻るから。今日の予備校は20時までね?」
「うん、21時までには家に帰る」
私達は予定を確認すると手を振り合ってそれぞれ別の方向へ。母は車で診療所から学校へ来たので駐車場へ向かい、私はいつも通り正門に向かって学校を出た。少し歩いて学校前の歩道橋を道路の反対側へ渡る。募金活動を行った高校の最寄駅は学校前の道路沿いを歩いて行くと10分で到着するが、私は通学に利用していない。この歩道橋を渡った先へ15分歩くと別の沿線の駅がある。私は自宅に近い駅から乗れるその沿線で高校に通っていて、そちらからも同校の生徒が高校へ向かうのをよく見かける。私が利用する駅前には学習塾も多く現在通っている予備校もその中のひとつだ。椎名先輩も同じ予備校だったので、生徒会在籍中に何度か一緒に高校から通った時もあった。去年の秋に退任した後も先輩の受験が終わる今年の2月まではよく予備校で顔を合わせていて、予備校から駅の改札を通るまで二人で帰る時もあったのだ。あの頃が一番充実していて、自信たっぷりだったとは胸を張れないけれど、自分のことが嫌にならずに好きでいられた方かなと思う。それじゃあ今の私は―――?
自分を省みると何ひとつうまくいってない気がして溜息が出た。3年生になって躓いてばかりで思うように前へ進めない。母のように堂々と前を見据えて歩けてはいないだろう。だから正しい姿勢を取るよう注意されたんだ。医師である母が患者を目の前にして、迷ったり判断を誤るなんて許されない。私も医師を目指す道を選び進むのだから、決断して結果を出さなければいけないということだ。それに弟は小学5年生で中学受験を控えている上に、すでに将来医師になる夢を抱いている。私が不甲斐ない態度を見せたら悪影響を及ぼすのは目に見えていた。本当に私がしっかりしなきゃいけないんだと気合いを入れて歩道橋を駆け下り、母を真似して背筋を伸ばし早足で予備校へ向かった。
「ただいま」
玄関を開けて帰宅したのはちょうど21時。自宅は駅近の分譲マンションで私が中学生の時から住んでいる。ローファーを脱いでリビングに向かうと湊がテーブルで勉強をしていて、私の気配に気づくとこちらを見ないで「おかえり」と言った。いつもと変わりない様子だが母と父の姿が見当たらない。湊が顔をあげて手を止め私に視線をよこしたので話しかけた。
「お母さんは?」
「買い物に行ってる。ご飯それ食べてって」
「そう、ありがとう」
湊がテーブル上のラップされたお皿をペンを持った手で示した。ハンバーグとご飯に温野菜のワンプレート夕食。母の方が私より忙しいのに毎日夕食と朝食が用意されていなかった事は一度もない。そうゆうキッチリしているところも母を見習いたい理由のひとつだ。
「お父さんはまだ帰ってきてないんだね。湊はお風呂に入ってドライヤーしてないでしょう?」
父は皮膚科の勤務医で電車で都内の病院に通勤している。いつもなら帰宅していて父からのおかえりも受けるが時々帰りが遅い日もある。ひとりで留守番をしていた湊はパジャマを着ていたので夕食も入浴も済んでいるようだけれど、濡れたままの髪を私は手櫛でとかして弟の世話を焼く。
「宿題がまだ終わってなくて急いでた。ここ、難しい……」
「どぉれ?」
湊がペンでテキストをトントンとするので私は後ろから覗き込んだ。教えてと言われなくてもその仕草で弟が私を頼ってきている事を察知する。だから問題を見て解き方を説明してあげるのが私の姉としての役目だ。弟とは7つ離れている。母が居ない時は私が母親代わりで小さな頃からよく面倒を見てきた。弟が可愛くて率先して私から相手をしたがった姉バカだ。湊はもう私と背も変わらないくらい大きくなったけれど、いつまでたっても小さい弟という感覚で私は接している。面談後に母に言われた事を改めて考えてみると、私が母と同じくらい湊を大事に思っているのを理解した上でああ言ったんだと思う。いつまでも大事にしたいのなら、強くあれ正しくなければ守ってあげることはできないという意味合いだろう。私にそれ程までの強い気持ちが備わっているかというと、全然足りてなかったと自覚している。湊がまだ小学生のうちから医師を目指すと知った時には驚いたし凄いと思った。私はずっと医者一族だなんて煽てられながら、自分が医師になる事を決意したのは高校に入ってからだ。高3になった今でも世間知らずで要領が悪く、母の助言なしでは自主性も成績も酷い有り様になっていた事だろう。もうすぐ18歳の成人を迎えるというのに、大人の資格や自立できる可能性をまだまだ自分で見出だせていない。将来の予想をしてみても、今現在、祖父と母で診察している診療所はどう引き継がれてゆくのか……。祖父が引退して母が医院長になってその後は、私が手伝えたらいいと思ってはいるけれど……。
「えーっと、これがこうなって、わかったぁ!」
「よくできました。いい子いい子」
私が湊の頭を撫でて誉めると宿題が終わったのかテキストを閉じて席を立つ。就寝時間までゲームでもするのだろう。同じ目線の高さで湊は思い出したという顔をして話をしだす。
「さっきお母さんが日曜に受験勉強するならカテキョとオンラインどっちがいいか、って言ってきたんだ。帆香さぁ、何かやらかしたの?」
「え? あー、苦手科目の対策を早急に考えないといけなくなって……」
「だと思ったぁ! お母さんが躍起になる時って絶対帆香がらみだからさっ。それで僕も一緒にってなるんだもん」
さっき話をしたばかりでもう候補が絞ってあるなんて母の決断力に焦る。母の基準とする早急とは救急車並みだろうか、それに比べ私の考え方は自転車ぐらいのスピードだ。少し不貞腐れた顔をする湊に私は謝る。
「ごめんごめん、もう決まっちゃった?」
「ううん、もしやるなら僕はオンラインがいいって伝えた。日曜まで先生に側で見られるの嫌だもん」
「そうだね、ずっと毎日気が抜けないのは疲れるね」
「うん、自由時間もこれ以上は減らしたくないから」
「無理にやること無いよ。湊は湊で勉強こなしてるんだし」
「お母さんがまたあとで話すって言ってたから、その時に決める」
私は頷いて話を終わらせた。湊はころっと顔色を明るめに変えてお楽しみな時間に入る準備だ。私も早く夕食を済ませようとキッチンに行って食事の支度をする。やっぱり私が不出来だと湊にも負担をかけるなぁ、と反省しつつ冷蔵庫からお茶を取り出しコップに注いだ。リビングの方に目を向けるともう湊はソファでゲームを始めている。その姿は普通の男児に変わりなく至って子供らしいと思う。私の方がだいぶ歳上のお姉さんで間違いないのだけれど、気持ちのコントロールや思考能力は弟に劣っているかもしれない。母から湊は難関校受験になる予定と聞いている。レベルの高い中学に入学できる可能性がある、私よりも湊の方が優秀だということだ。そうなると将来も……診療所を継ぐのは湊であるべきだろう。一瞬、私に費用をかけるより、湊の将来に私の分を回すべきなのではないか、と思ってしまった。私の中学受験の時も母がいろいろと準備や調整をし私が勉強に専念できるよう努めてくれた。私の大学受験に構っていないで湊の合格の為に力を注いだ方がいい……と余計な考えを起こして止めた。弟の夢を優先させて自分が身を引く、なんて、体裁良く逃げたいだけの卑怯者みたいだ。どうしてか、自分が先に立つのも良くしてもらうのも遠慮したがる癖がある。私の中でずっと欠けたものが埋まらない……自信が……つかない。
「ふぅ、頑張れ私……」
自分を応援してようやくご飯を食べる気になった。美味しいはずなのに今日のハンバーグはちょっぴり辛くて苦い味が残ったようだ。
あっという間に5月も下旬になりクラスの雰囲気にも慣れてきた。3年生の時間割りにも順応できるようになったし、クラス委員として前に出たり男子と話してみたり、少しはまとめ役が板についてきたかと思うこの頃。月末から始まる1学期の中間試験まで後7日間。テストスケージュールによると苦手な数学は最終日とのことで、発表を確認した時には思わず心の中でガッツポーズ。苦手科目対策で私と湊は日曜日の補習をオンラインで受けることにした。すでにもう2回受講をしている。家でパソコンを繋げるだけなので、学校や予備校みたいに周りが気になったり、自分が見られている感覚がなくて、変に気を遣わなくていいので授業に集中できるから始めてみて良かったと思った。早く結果に繋がればいいな、と期待しながら忙しくなった休日を充実感で満たしている。
テスト前になると部活も停止期間になり放課後は帰宅する生徒が多い。明日は土曜日で学校が休みだからか特に残っている生徒は少ないようだ。私は予備校の時間まで自習室でテスト勉強をしていたので、17時半になり退室してきた。別棟から校舎棟の昇降口へ向かう廊下を歩いているが、生徒は一人も見あたらなくシーンとしている。私の上履きが廊下を踏む足音だけがキュッキュッと鳴り響いていた。まだ外は明るいが夕陽もだいぶ傾いて校舎の中は影が多く薄暗い。日頃から注意している事だが、ひとり歩きは危険なので暗くなる前に予備校に着きたかった。昇降口についてクラスの一番下の段にある自分の下駄箱の扉を開けた。ローファーを取り出して……パサッ!
白い紙、四つ折りのメモ用紙みたいなものがローファーと一緒に出てきた。
私に……?
床に落ちた紙を拾い上げてひろげてみる。伝言か何か書いてあるのかな……ドグンッ!!
「はっ――!?」
メモを開いた瞬間、そこに書いてあった文字に驚いて息をのんだ。釘づけのその文字が勝手に小刻みに震え出す―――
[ 全部おまえのせいだ ]
怒り、をその裏に読み取るとサーッと全身の血の気が引いていった。
怖い……怖い、なんでっ、怖いっ!!
恐怖が全身を包むと心臓が尋常じゃないくらい早く打ちつけて呼吸を乱した。
「はっ、はっ、はっ……」
咄嗟に口を手で覆って、静かに声も息も漏れないようにしなきゃと思った。この文字を書いた誰かにバレないように、それから考える!
私のせいってなんの事!?
私、何かした!?
恨まれるような事なんて、何もしてない!!
私の内面が荒ぶって興奮し感情を爆発させる。乱暴な叫びが体中を駆け巡った。手からはなすことも視線をそらすこともできない、このメモ用紙に書かれた断定的な誹謗は私を狂わせた。記憶を幾つも幾つもたどって、急いで遡って考えてみるが……何ひとつ原因になるようなきっかけが出てこないのだ。そうやって思い返すうちに段々と落ち着きを取り戻して、真正面から受け取るのではなく他方面の可能性も考慮する。私と誰かを間違えている、ただ下駄箱を入れ間違えたとか。もしくは、イタズラや嫌がらせなどの類のものか。そう考えてみると、心当たりが全くもってつかめないのだから、深く追求しないで様子をみたほうがよいと思った。長い長い一息をついて平常心に整える。もう一度息を吸って吐いて、冷静に騒ぎ立てないで。
大丈夫、大丈夫。
きっとイタズラだから、落ち着いて対処しよう。
そう自分に言い聞かせて考えを巡らせる。手にあるメモ用紙はどうしようか、先生に報告するという手も一理あったがやめた。今回は黙っておいて次もあったら相談する、その証拠にする為……メモは四つ折りに戻してカバンの外ポケットに忍ばせた。はじめに見た時は紙一片が鉄板のように重たく感じられたが、焦りがなくなるとただのぺらぺらの小さな紙だ。今頃になって気づいたが、黒色ペンで書かれた文字の筆跡は手書きの……
女子っぽい感じじゃなかった、男子……?
私は首を傾げながら、予想した理由の中で男子のイタズラという線が濃くなった気がした。ササッと上履きを脱ぎ下駄箱にしまうと扉をしめてローファーを履く。気を取り直して校舎を出ると校門へ向かったのだった。歩き始めるとすぐ頭の中も切り替えして、これからの予定を整理していたのだけれど……さっきの件で時間をロスしてしまって、修正しなければならなくなった事に対して苛立ちが出てきてしまう。
なんでこんな事するんだろう?
人を陥れて楽しみたいのかな……嫌な性格。
私がターゲットにされてるなら、へっちゃらな態度で見返してやろう。大丈夫、負けないんだから。
キレてます、とまではいかないけれど、頭にキタ状態になっている。たまにこんなふうに怒っている私を湊は、帆香のぷんぷん丸と言って揶揄ってくるが、怒りを感じると顔が赤くなるらしい。たぶん今もそんな感じになっているんだろう。イライラしながら校門を出たけれど……急に頭が冷えた。まだ明るいと思っていたがなぜか夕焼けが変な色に感じる。気象条件による自然現象かもしれないが、いつもより赤い空に違和感を覚えた。少し不気味で怪奇的な景色に見えてしまう。歩道橋の階段を上がってゆくと夕陽が当たって、目を細めたくなるくらい赤色の光線がキツかった―――!?
誰っ!?
背後に気配を感じ振り返るが―――誰もいない。階段の途中で立ち止まり後ろを確認したが気のせいだったみたいだ。誰かに見られている気がしたのだけれど……さっきの事があって神経が過敏になっているだけだと思う。
「……ふぅ」
息を整えてまた階段を上り始めた。カバンがずしりと重たくなって肩にかけた取っ手をぎゅっと両手で握り締める。ポケットに鉄板を入れたわけじゃないのに、ガチガチになってカバンを持っていた。私は……さっきメモの意図を解くのにケアレスミスをしたかもしれない……まだあったんだ他の解答が。
誰だかわからないその人が、何をしてくるか予想できていない。もしかしたら……エスカレートして直接手を出してくる可能性もある。それが頭をよぎると緊張が解けなかった。いつどんな時も気を緩めたらいけない気がする……?
「―――ゃん」
「……ん?」
「―――帆香ちゃん!」
「えっ!?」
歩道橋を渡っている途中で後ろから声がしてまた勢いよく振り向くと、そこには小嶋くんが私を見て立っていた。ドキッとした心臓を押さえながら知った顔に肩の力が抜けてだらしない声を出す。
「なんだぁ小嶋くんかぁ、はぁ~びっくりしちゃった」
「どうかしたの?」
「ううん、なんでもないよ。あれ、まだ残ってたんだね?」
「うん、帆香ちゃんが見えたから追いかけてきたんだよ」
そう言ってにっこり笑う小嶋くんに私も安堵の笑顔で応えた。すると私の所まで歩いてきて小嶋くんは自然に私と手を繋ぐ。余りに当然のようにそうするので抵抗する間もなかった。
「っ! あの……」
「帆香ちゃんの予備校まで一緒に帰ろ?」
今度は手をほどく隙もなく、ぎゅっとされて歩き出していた。私は慌てて歩幅を合わせ横並びになると小嶋くんに聞いてみる。
「小嶋くんもこっちの駅だったの?」
「優希だってば。帆香ちゃん、このまえ言ったこと忘れちゃったの?」
「お、覚えてるよ。仲良しを続けた結果を検証してみる……」
「ふはっ、言い方。恋の実験中でいいんじゃない?」
優希くんが楽しそうに笑う横顔を見つめる私は、繋いだ手をはなしたほうがいいのか繋いだままでいいのか迷ってしまう。小学生の仲良しこよしの帰り道じゃないんだし、どう見ても高校生のカップルにしか見えないだろう。
「ゆ、優希くん、ここ学校前の歩道橋なんだから誰かに見られたら……」
「誰も見てないよ。帆香ちゃんが危なっかしいから僕が心配で手を繋いでるだけ」
私によこす視線は優しくて私が心配する理由を自分のせいだと奪ってゆく。この前も駅で悠希くんは私を助けたいからと、まるで自分の彼女みたいに優しくしてくれたけど……このまま恋の実験を続けていいのか疑問が残る。
「でも……私達、恋とか……適当にしちゃいけない事だと思うし、受験生なのに恋の実験なんてしてていいの?」
「真面目だなぁ。一緒に……だけなのに」
「え?」
「ほら階段、気をつけて。転ばないようにね」
歩道橋の反対側まで歩いてきて下りる階段の手前で足元に注意を促した。彼女みたいじゃなくてレディかお姫様かのように私を気遣う。スマイル王子に本領発揮されるとなんだか気恥ずかしくて擽ったい。手を繋いでもらうだけで、体中安心感に包まれたような錯覚を起こしてしまう。守られている気がして嬉しい気持ちがトクトク躍ってるみたいだ。変な感情が伝わってしまわないよう黙ったまま歩道橋を下りてゆくと優希くんがさりげなく私に尋ねてくる。
「さっきずいぶん驚いてたけど、何かあった?」
「あ、う、ううん……」
「そっか。帆香ちゃんの後ろ姿が緊張してそうだったからさ、何か怖い目にでもあったのかと思って」
「そ、そうだった? 考え事してたからかな……」
確かに優希くんに声を掛けられるまでは、たぶん、強がりながらもびくびくしていたんだと思う。でもカバンに入れたあのメモの事は悠希くんに相談……できない。話さない方がいい、違う、話したくないから黙ってまた口を噤む。
「これからはなるべく一緒に帰ろうか? 女子の一人歩き危ないもんね、怖くない?」
「えっ、一緒に帰るの? だ、大丈夫だよ?」
「うーん、怖いか怖くないかって言ったらどっち?」
「えっと、暗くなると怖いと思う時もあるけど、いつも気をつけてるし」
「やっぱり怖いよねー、うん、決まりっ」
「まっ、ちょ、私の話聞いてた?」
「聞いてたよ? だから一緒に帰ろうね~」
私が首を傾げて優希くんを見ると楽しんでいるという表情で見つめ返す。悠希くんて大人っぽいのか子供じみているのかわからないな、とさらに首を傾けた。歩道橋を渡りきって駅に向かう道路に出ると、優希くんは繋いだ手を大きく振りながら歩き始めた。まるで小学生がふざけて歩いているふうにブンブンと前へ後ろに手を振り子にする。オーバーな動きに体ごと揺さぶられ、嬉しくて本当に躍っている姿みたいだ。
「ふふっ、これでずっと帰るの?」
「この方が楽しいでしょ?」
「あははっ、変な高校生って言われるよ」
「いいの、いいの」
恋の実験をする私達は、小学生からやり直しのようで……結果を得るには時間がかかりそうだと思った。でもふたりでいるとあっという間に駅に着いて、予備校の前で別れたけれど、その後も楽しかった気持ちしか残っていなかった。ふと思う……
こんなふうに恋は始まるのかな……?
一緒にいると楽しくて、またねの楽しみで胸がいっぱいになって……一緒にいたい人を好きになるのだろう、きっと―――。
中間試験の途中で6月を迎え、テストが終了すると間もなく答案返却があった。そして全てのテストが返されて中間試験の順位表が手渡されると、私にとって非常にマズイ事態が起きた。総合順位をいつもより30位以上落としてしまったのだ。テスト返却の最終日に発表される順位は、各コースの廊下にある掲示板に貼り出される。教科ごとと総合点の順位が上位30位までクラスと氏名が公表されるのが決まりだ。この毎回行われる順位発表の一覧に、私は理系科目の全てで名前を連ねていた……悔しくも前回までは。今回の中間テストで私は2教科で上位になったのみ、総合点では42位という結果だった。高校に入学して以来始めての上位落ちだ。各教科と総合点での上位はほとんどA組の生徒で占めていてやっぱり学年1位は浅野くんだった。その栄光を称える裏で私の落選も密かに噂されている事は、なんとなく自分でも感じ取っていた。生徒の間では順位発表に名前が載ると当選、上位以下は落選と揶揄される風潮がある。そして成績を落とした者に待っているのは、最も皆が嫌がっている担任からの親電だ。そして親が望めば進路指導主任を加えた四者面談に発展する。間違いなく、私の母へも電話をかけている事だろう……。
その日の夜。予備校から帰ってくると夕食の前に案の定「話をしましょう」と母に言われ、テーブルに対面して座った。わかっていたけれど少し胃がキリキリするのを我慢して背筋を伸ばす。
「夕方担任の先生から電話があったわ。理由はあなたもわかっているのよね?」
「はい。中間の結果が悪かったから」
「先生も深刻そうに心配してくださったけれど、何か特別な原因があるの?」
「ごめんなさい……」
私は伏し目がちにテーブルを見ながら謝った。探りたいであろう根本的なその原因を私は母に……言いたくない。
「すぐ対処すれば今ならまだ正せると思うわ。自分で思い当たる節はないの?」
母は困っている時の声のトーンで言った。毎日仕事も大変で家事も私と湊の事も考えて疲れているんだ。そこへ私の成績不振という悪い報告を受けてより疲弊している。ついこの前、苦手対策を取ったばかりでさらに悪化させたのだから、母はお手上げ状態で嫌気もさすだろう。私は何か他の言い訳を取り繕ってでも母を納得させなければいけない。
「……テスト前日に生理が始まって、痛み止めを飲んだけどあまり効果がなかったの。それで頭も回らないしイライラもして、ミスしたのも多かったと思う。お母さんに体調管理は基本って言われてたのにまた繰り返して……ごめんなさい」
私は再度頭を下げてから直り、母の顔を確認した。担任の先生には異性だから本当の事は話しづらかったと加えると、母は私の話を咀嚼して理解しようとしてくれていた。けれど何度か頷いたあとで健康面について指摘を始める。
「生理が重くなった気がするとか、自分の体で異変を感じた……時はない?」
「うーん、お腹が痛いとか頭が痛いとか生理の時は普通だと思うし……」
「軽視しちゃだめよ! 頭痛はどのくらいするの!?」
「えっ、そ、そうだなぁ、ズキズキして重たい感じがしたら薬を飲んでるよ?」
珍しく声を荒らげた母に少し驚いて急いで説明をする。医師の怒りを買う発言をしてしまったようで、深刻度は然程無いことを伝えた。すると母は眉間のしわを伸ばし瞬きを不自然に何回も繰り返すと、次第に冷静沈着さを取り戻したようだ。
「……そう、それでいいわ。少しでもおかしいと思ったらすぐ知らせるのよ?」
「うん、わかった」
「もう一点確認するけど、学校で困ってる事はない? 例えばクラス委員が負担だとか交友関係がうまくいかないとか。それを先生が一番気にしていたわ」
「……ないない、大丈夫っ」
私は顔の前で手を横に振って否定してみせた。手の後ろの表情はありえないよという半笑いだったが……それは正直なところ作り笑いの方が正しいのかもしれない。隠している悩み事を話したくない誤魔化しだと自分では気づいていた。
「そう、よかった。私もそれは気に掛けていたから。何か他にあなたから相談することある?」
「な、ないよ」
「先生に面談をするか聞かれたけれど、湊の保護者会もあってしょっちゅうは診察を休めないしお断りしたの。でもいつでも話を聞くって先生に仰って頂けたから、困った時は相談するのよ?」
「わかった、そうする」
私は頷いて母を安心させる為に微笑んだ。私のせいでこれ以上、母に負担をかけるわけにはいかない。私だけの母親ではないのだから、弟もいるのだから。そして先生にも他の生徒がたくさんいるのだから。私が自分で乗り越える試練なのだと改めて思った―――
[ 全部おまえのせいだ ]
誰かがそう思っているなら、私が悩むのも私のせいなのだから―――。
イタズラと受け止めたメッセージは、その時は私自身で対処できる比較的軽度な厄介事と判断した。陰湿ではあるけれどイジメには該当しない程度だろう、嫌がらせに値するような幼稚な行為だと思った。それにイジメにあった事は今まで一度もないが、一定の人物に継続的に苦痛を与えられるもの、が決定的なイジメの定義だったはずだ。イジメが原因で苦痛から解放される為に死を選んでしまう人もいる。生きるのをあきらめるほど酷く耐え難い苦悩を抱えて無気力になり、心身が疲弊した状態になるからだろう。
そのような惨い状況に比べて……まだ1回目、私は1回しか攻撃を受けていない。それに人違いの可能性も捨てきれていない。でも、私へのメッセージで間違いなかったとしたら―――?
全部を私のせいにしたいほどに……私は恨まれている、ということだ。そこに気づいてしまうと、毎日毎日頻繁に仮定や詮索をするようになって、そのぶん勉強への集中力を欠いていった。あまりに頭から離れない時もあるので、どうでもいいと放り出すか忘れようとしたけれど、カバンのポケットにしまった物的証拠がそれをさせなかった。私に有利になると思って取っておいたのに、逆に自分を追い込む強迫材料になってしまったんだ。破くことも捨てることもできないメモ用紙一枚が重荷になった。どうにか解消したくて……このメッセージを書いた人が誰なのか、探ろうとする気持ちが大きくなり……いちいち注意深く皆を観察した上に警戒心も強まった結果……成績を落とすという自滅に陥った。加えて、テスト勉強を疎かにしても誰かを特定できる確証を得ていない。男子なのではないか、という当初の憶測だけだ。効率が悪いことばかりに気を取られて下駄箱の扉を開ける度に緊張する毎日。何気ない普段の日常でも話しかけられたり目が合ったりすると、誰彼かまわず疑るようになってしまった。場を和ませようと笑わせてくれているのに、私は笑顔の裏でその子の裏の顔を勘繰ったりして……自分が嫌になる。
私も皆にそんなふうにされていたら悲しいって思うのに、自分は平気で皆を疑いの目で見ているなんてサイテーだ。でも、なんか、もう……誰も信用できない、皆が敵に見える、と感じる時もあって……自分の考えに自信が持てないし不安でいっぱいになる。ほんと私って、不甲斐ないな……。
完全に負のループで回っているこの迷走からどうやったら抜け出せるのか、まだ出口は見つかっていない。
「先生の仰るとおり医学部現役合格を目指すなら、このままだと手遅れになるわね。自覚してると言ってたけれど判定模試の結果が悪すぎる。何か手を打たないと、考えてるの?」
「えっと……模試の日は体調が思わしくなかったから、次は自己管理を徹底して集中できるように……」
「甘いわよ? 体調管理も実力のうち、寧ろ基本中の基本」
「……はい」
私の掠れかけた返事に母は何も言わず階段を下り始めた。私もあとを追いかける。
「あなた引っ込み思案だから、生徒会も勧めてみて正解だったと安心してたのよ。以前より積極性が身についたものね」
「そ、そうかな?」
「クラス委員にも選出されて立派だと思うわ。内申は問題ないと先生も太鼓判だったし、あとは本番で如何に実力を発揮するかよ?」
「うん、わかってる」
階段を下の階へと一歩一歩下りながら、母は私に面談の内容も踏まえた大学受験のアドバイスをする。
「それに特に医学部は浪人生が多いから、受験の経験値や勉強量でも差をつけられて現役合格はより難しいの。少しのミスが仇になるわ」
そう母に言われてみて自分の認識が甘かった事にようやく気づく。今までは同学年の子達と競い合ってきたけれど、大学受験は浪人生も含めた椅子取り合戦になるのだと改めて厳しさを感じる。浪人生の方が歳上で強い人達なのだから、クラスや学年のライバル達より考慮すべき存在だと思い知った。
「あなた2年の終わりに受けた基礎判定模試が良かったからって油断しすぎよ。あれは浪人生受けてないし、これからの模試は本番に向けて受験者数が何十万て増えるわよ?」
「あ、そこはチェックしてなかった」
「次回からは順位も重要視するべきだわ。それに医学部は総合点だから苦手科目も作ったらいけない、バランスを取るのが大事なの。あなたは数学のレベルを上げないとまずいわ。早急に対策を取った方が良さそうね。予備校以外にも塾を考えましょ……」
「……は、はい」
数学が苦手なのは相変わらずで、わからない問題をよく椎名先輩に教えてもらっていたんだ。生徒会会計なのにって先輩は笑いながら嫌な顔せずに、いつも丁寧に私が理解するまで付き合ってくれた。説明が上手でとてもわかりやすくて、その時だけは数学が好きと思えたんだ……もうそんな特別な時間は無いのだと急に気分が落ち込む。足取りが重くなったところで階段を下り終え薄暗い1階に到着した。廊下を進んで昇降口へ向かう途中、母は私を何度か振り返って躊躇いながらも忠告をしてきた。
「帆香……あのね……」
「……うん?」
「頑張ってるのはわかるけど、受験は結果が全てのシビアな戦いよ。もう少し気を引き締めて、姉としても湊に示しがつくよう、正しい姿勢であってほしいの。わかってくれる?」
「……はい。ちゃんと心掛ける」
母が切実そうに眉を下げて私に言うので、自分に『しっかり!』と心で言い聞かせ戒めた。口をぎゅっと結び決意した私の返事に母は無言で頷いて表情をやわらげる。それから母はスリッパからパンプスへ、私は上履きからローファーへ履き替えて校舎の外へ出た。
「じゃあ、私は午後の診察に戻るから。今日の予備校は20時までね?」
「うん、21時までには家に帰る」
私達は予定を確認すると手を振り合ってそれぞれ別の方向へ。母は車で診療所から学校へ来たので駐車場へ向かい、私はいつも通り正門に向かって学校を出た。少し歩いて学校前の歩道橋を道路の反対側へ渡る。募金活動を行った高校の最寄駅は学校前の道路沿いを歩いて行くと10分で到着するが、私は通学に利用していない。この歩道橋を渡った先へ15分歩くと別の沿線の駅がある。私は自宅に近い駅から乗れるその沿線で高校に通っていて、そちらからも同校の生徒が高校へ向かうのをよく見かける。私が利用する駅前には学習塾も多く現在通っている予備校もその中のひとつだ。椎名先輩も同じ予備校だったので、生徒会在籍中に何度か一緒に高校から通った時もあった。去年の秋に退任した後も先輩の受験が終わる今年の2月まではよく予備校で顔を合わせていて、予備校から駅の改札を通るまで二人で帰る時もあったのだ。あの頃が一番充実していて、自信たっぷりだったとは胸を張れないけれど、自分のことが嫌にならずに好きでいられた方かなと思う。それじゃあ今の私は―――?
自分を省みると何ひとつうまくいってない気がして溜息が出た。3年生になって躓いてばかりで思うように前へ進めない。母のように堂々と前を見据えて歩けてはいないだろう。だから正しい姿勢を取るよう注意されたんだ。医師である母が患者を目の前にして、迷ったり判断を誤るなんて許されない。私も医師を目指す道を選び進むのだから、決断して結果を出さなければいけないということだ。それに弟は小学5年生で中学受験を控えている上に、すでに将来医師になる夢を抱いている。私が不甲斐ない態度を見せたら悪影響を及ぼすのは目に見えていた。本当に私がしっかりしなきゃいけないんだと気合いを入れて歩道橋を駆け下り、母を真似して背筋を伸ばし早足で予備校へ向かった。
「ただいま」
玄関を開けて帰宅したのはちょうど21時。自宅は駅近の分譲マンションで私が中学生の時から住んでいる。ローファーを脱いでリビングに向かうと湊がテーブルで勉強をしていて、私の気配に気づくとこちらを見ないで「おかえり」と言った。いつもと変わりない様子だが母と父の姿が見当たらない。湊が顔をあげて手を止め私に視線をよこしたので話しかけた。
「お母さんは?」
「買い物に行ってる。ご飯それ食べてって」
「そう、ありがとう」
湊がテーブル上のラップされたお皿をペンを持った手で示した。ハンバーグとご飯に温野菜のワンプレート夕食。母の方が私より忙しいのに毎日夕食と朝食が用意されていなかった事は一度もない。そうゆうキッチリしているところも母を見習いたい理由のひとつだ。
「お父さんはまだ帰ってきてないんだね。湊はお風呂に入ってドライヤーしてないでしょう?」
父は皮膚科の勤務医で電車で都内の病院に通勤している。いつもなら帰宅していて父からのおかえりも受けるが時々帰りが遅い日もある。ひとりで留守番をしていた湊はパジャマを着ていたので夕食も入浴も済んでいるようだけれど、濡れたままの髪を私は手櫛でとかして弟の世話を焼く。
「宿題がまだ終わってなくて急いでた。ここ、難しい……」
「どぉれ?」
湊がペンでテキストをトントンとするので私は後ろから覗き込んだ。教えてと言われなくてもその仕草で弟が私を頼ってきている事を察知する。だから問題を見て解き方を説明してあげるのが私の姉としての役目だ。弟とは7つ離れている。母が居ない時は私が母親代わりで小さな頃からよく面倒を見てきた。弟が可愛くて率先して私から相手をしたがった姉バカだ。湊はもう私と背も変わらないくらい大きくなったけれど、いつまでたっても小さい弟という感覚で私は接している。面談後に母に言われた事を改めて考えてみると、私が母と同じくらい湊を大事に思っているのを理解した上でああ言ったんだと思う。いつまでも大事にしたいのなら、強くあれ正しくなければ守ってあげることはできないという意味合いだろう。私にそれ程までの強い気持ちが備わっているかというと、全然足りてなかったと自覚している。湊がまだ小学生のうちから医師を目指すと知った時には驚いたし凄いと思った。私はずっと医者一族だなんて煽てられながら、自分が医師になる事を決意したのは高校に入ってからだ。高3になった今でも世間知らずで要領が悪く、母の助言なしでは自主性も成績も酷い有り様になっていた事だろう。もうすぐ18歳の成人を迎えるというのに、大人の資格や自立できる可能性をまだまだ自分で見出だせていない。将来の予想をしてみても、今現在、祖父と母で診察している診療所はどう引き継がれてゆくのか……。祖父が引退して母が医院長になってその後は、私が手伝えたらいいと思ってはいるけれど……。
「えーっと、これがこうなって、わかったぁ!」
「よくできました。いい子いい子」
私が湊の頭を撫でて誉めると宿題が終わったのかテキストを閉じて席を立つ。就寝時間までゲームでもするのだろう。同じ目線の高さで湊は思い出したという顔をして話をしだす。
「さっきお母さんが日曜に受験勉強するならカテキョとオンラインどっちがいいか、って言ってきたんだ。帆香さぁ、何かやらかしたの?」
「え? あー、苦手科目の対策を早急に考えないといけなくなって……」
「だと思ったぁ! お母さんが躍起になる時って絶対帆香がらみだからさっ。それで僕も一緒にってなるんだもん」
さっき話をしたばかりでもう候補が絞ってあるなんて母の決断力に焦る。母の基準とする早急とは救急車並みだろうか、それに比べ私の考え方は自転車ぐらいのスピードだ。少し不貞腐れた顔をする湊に私は謝る。
「ごめんごめん、もう決まっちゃった?」
「ううん、もしやるなら僕はオンラインがいいって伝えた。日曜まで先生に側で見られるの嫌だもん」
「そうだね、ずっと毎日気が抜けないのは疲れるね」
「うん、自由時間もこれ以上は減らしたくないから」
「無理にやること無いよ。湊は湊で勉強こなしてるんだし」
「お母さんがまたあとで話すって言ってたから、その時に決める」
私は頷いて話を終わらせた。湊はころっと顔色を明るめに変えてお楽しみな時間に入る準備だ。私も早く夕食を済ませようとキッチンに行って食事の支度をする。やっぱり私が不出来だと湊にも負担をかけるなぁ、と反省しつつ冷蔵庫からお茶を取り出しコップに注いだ。リビングの方に目を向けるともう湊はソファでゲームを始めている。その姿は普通の男児に変わりなく至って子供らしいと思う。私の方がだいぶ歳上のお姉さんで間違いないのだけれど、気持ちのコントロールや思考能力は弟に劣っているかもしれない。母から湊は難関校受験になる予定と聞いている。レベルの高い中学に入学できる可能性がある、私よりも湊の方が優秀だということだ。そうなると将来も……診療所を継ぐのは湊であるべきだろう。一瞬、私に費用をかけるより、湊の将来に私の分を回すべきなのではないか、と思ってしまった。私の中学受験の時も母がいろいろと準備や調整をし私が勉強に専念できるよう努めてくれた。私の大学受験に構っていないで湊の合格の為に力を注いだ方がいい……と余計な考えを起こして止めた。弟の夢を優先させて自分が身を引く、なんて、体裁良く逃げたいだけの卑怯者みたいだ。どうしてか、自分が先に立つのも良くしてもらうのも遠慮したがる癖がある。私の中でずっと欠けたものが埋まらない……自信が……つかない。
「ふぅ、頑張れ私……」
自分を応援してようやくご飯を食べる気になった。美味しいはずなのに今日のハンバーグはちょっぴり辛くて苦い味が残ったようだ。
あっという間に5月も下旬になりクラスの雰囲気にも慣れてきた。3年生の時間割りにも順応できるようになったし、クラス委員として前に出たり男子と話してみたり、少しはまとめ役が板についてきたかと思うこの頃。月末から始まる1学期の中間試験まで後7日間。テストスケージュールによると苦手な数学は最終日とのことで、発表を確認した時には思わず心の中でガッツポーズ。苦手科目対策で私と湊は日曜日の補習をオンラインで受けることにした。すでにもう2回受講をしている。家でパソコンを繋げるだけなので、学校や予備校みたいに周りが気になったり、自分が見られている感覚がなくて、変に気を遣わなくていいので授業に集中できるから始めてみて良かったと思った。早く結果に繋がればいいな、と期待しながら忙しくなった休日を充実感で満たしている。
テスト前になると部活も停止期間になり放課後は帰宅する生徒が多い。明日は土曜日で学校が休みだからか特に残っている生徒は少ないようだ。私は予備校の時間まで自習室でテスト勉強をしていたので、17時半になり退室してきた。別棟から校舎棟の昇降口へ向かう廊下を歩いているが、生徒は一人も見あたらなくシーンとしている。私の上履きが廊下を踏む足音だけがキュッキュッと鳴り響いていた。まだ外は明るいが夕陽もだいぶ傾いて校舎の中は影が多く薄暗い。日頃から注意している事だが、ひとり歩きは危険なので暗くなる前に予備校に着きたかった。昇降口についてクラスの一番下の段にある自分の下駄箱の扉を開けた。ローファーを取り出して……パサッ!
白い紙、四つ折りのメモ用紙みたいなものがローファーと一緒に出てきた。
私に……?
床に落ちた紙を拾い上げてひろげてみる。伝言か何か書いてあるのかな……ドグンッ!!
「はっ――!?」
メモを開いた瞬間、そこに書いてあった文字に驚いて息をのんだ。釘づけのその文字が勝手に小刻みに震え出す―――
[ 全部おまえのせいだ ]
怒り、をその裏に読み取るとサーッと全身の血の気が引いていった。
怖い……怖い、なんでっ、怖いっ!!
恐怖が全身を包むと心臓が尋常じゃないくらい早く打ちつけて呼吸を乱した。
「はっ、はっ、はっ……」
咄嗟に口を手で覆って、静かに声も息も漏れないようにしなきゃと思った。この文字を書いた誰かにバレないように、それから考える!
私のせいってなんの事!?
私、何かした!?
恨まれるような事なんて、何もしてない!!
私の内面が荒ぶって興奮し感情を爆発させる。乱暴な叫びが体中を駆け巡った。手からはなすことも視線をそらすこともできない、このメモ用紙に書かれた断定的な誹謗は私を狂わせた。記憶を幾つも幾つもたどって、急いで遡って考えてみるが……何ひとつ原因になるようなきっかけが出てこないのだ。そうやって思い返すうちに段々と落ち着きを取り戻して、真正面から受け取るのではなく他方面の可能性も考慮する。私と誰かを間違えている、ただ下駄箱を入れ間違えたとか。もしくは、イタズラや嫌がらせなどの類のものか。そう考えてみると、心当たりが全くもってつかめないのだから、深く追求しないで様子をみたほうがよいと思った。長い長い一息をついて平常心に整える。もう一度息を吸って吐いて、冷静に騒ぎ立てないで。
大丈夫、大丈夫。
きっとイタズラだから、落ち着いて対処しよう。
そう自分に言い聞かせて考えを巡らせる。手にあるメモ用紙はどうしようか、先生に報告するという手も一理あったがやめた。今回は黙っておいて次もあったら相談する、その証拠にする為……メモは四つ折りに戻してカバンの外ポケットに忍ばせた。はじめに見た時は紙一片が鉄板のように重たく感じられたが、焦りがなくなるとただのぺらぺらの小さな紙だ。今頃になって気づいたが、黒色ペンで書かれた文字の筆跡は手書きの……
女子っぽい感じじゃなかった、男子……?
私は首を傾げながら、予想した理由の中で男子のイタズラという線が濃くなった気がした。ササッと上履きを脱ぎ下駄箱にしまうと扉をしめてローファーを履く。気を取り直して校舎を出ると校門へ向かったのだった。歩き始めるとすぐ頭の中も切り替えして、これからの予定を整理していたのだけれど……さっきの件で時間をロスしてしまって、修正しなければならなくなった事に対して苛立ちが出てきてしまう。
なんでこんな事するんだろう?
人を陥れて楽しみたいのかな……嫌な性格。
私がターゲットにされてるなら、へっちゃらな態度で見返してやろう。大丈夫、負けないんだから。
キレてます、とまではいかないけれど、頭にキタ状態になっている。たまにこんなふうに怒っている私を湊は、帆香のぷんぷん丸と言って揶揄ってくるが、怒りを感じると顔が赤くなるらしい。たぶん今もそんな感じになっているんだろう。イライラしながら校門を出たけれど……急に頭が冷えた。まだ明るいと思っていたがなぜか夕焼けが変な色に感じる。気象条件による自然現象かもしれないが、いつもより赤い空に違和感を覚えた。少し不気味で怪奇的な景色に見えてしまう。歩道橋の階段を上がってゆくと夕陽が当たって、目を細めたくなるくらい赤色の光線がキツかった―――!?
誰っ!?
背後に気配を感じ振り返るが―――誰もいない。階段の途中で立ち止まり後ろを確認したが気のせいだったみたいだ。誰かに見られている気がしたのだけれど……さっきの事があって神経が過敏になっているだけだと思う。
「……ふぅ」
息を整えてまた階段を上り始めた。カバンがずしりと重たくなって肩にかけた取っ手をぎゅっと両手で握り締める。ポケットに鉄板を入れたわけじゃないのに、ガチガチになってカバンを持っていた。私は……さっきメモの意図を解くのにケアレスミスをしたかもしれない……まだあったんだ他の解答が。
誰だかわからないその人が、何をしてくるか予想できていない。もしかしたら……エスカレートして直接手を出してくる可能性もある。それが頭をよぎると緊張が解けなかった。いつどんな時も気を緩めたらいけない気がする……?
「―――ゃん」
「……ん?」
「―――帆香ちゃん!」
「えっ!?」
歩道橋を渡っている途中で後ろから声がしてまた勢いよく振り向くと、そこには小嶋くんが私を見て立っていた。ドキッとした心臓を押さえながら知った顔に肩の力が抜けてだらしない声を出す。
「なんだぁ小嶋くんかぁ、はぁ~びっくりしちゃった」
「どうかしたの?」
「ううん、なんでもないよ。あれ、まだ残ってたんだね?」
「うん、帆香ちゃんが見えたから追いかけてきたんだよ」
そう言ってにっこり笑う小嶋くんに私も安堵の笑顔で応えた。すると私の所まで歩いてきて小嶋くんは自然に私と手を繋ぐ。余りに当然のようにそうするので抵抗する間もなかった。
「っ! あの……」
「帆香ちゃんの予備校まで一緒に帰ろ?」
今度は手をほどく隙もなく、ぎゅっとされて歩き出していた。私は慌てて歩幅を合わせ横並びになると小嶋くんに聞いてみる。
「小嶋くんもこっちの駅だったの?」
「優希だってば。帆香ちゃん、このまえ言ったこと忘れちゃったの?」
「お、覚えてるよ。仲良しを続けた結果を検証してみる……」
「ふはっ、言い方。恋の実験中でいいんじゃない?」
優希くんが楽しそうに笑う横顔を見つめる私は、繋いだ手をはなしたほうがいいのか繋いだままでいいのか迷ってしまう。小学生の仲良しこよしの帰り道じゃないんだし、どう見ても高校生のカップルにしか見えないだろう。
「ゆ、優希くん、ここ学校前の歩道橋なんだから誰かに見られたら……」
「誰も見てないよ。帆香ちゃんが危なっかしいから僕が心配で手を繋いでるだけ」
私によこす視線は優しくて私が心配する理由を自分のせいだと奪ってゆく。この前も駅で悠希くんは私を助けたいからと、まるで自分の彼女みたいに優しくしてくれたけど……このまま恋の実験を続けていいのか疑問が残る。
「でも……私達、恋とか……適当にしちゃいけない事だと思うし、受験生なのに恋の実験なんてしてていいの?」
「真面目だなぁ。一緒に……だけなのに」
「え?」
「ほら階段、気をつけて。転ばないようにね」
歩道橋の反対側まで歩いてきて下りる階段の手前で足元に注意を促した。彼女みたいじゃなくてレディかお姫様かのように私を気遣う。スマイル王子に本領発揮されるとなんだか気恥ずかしくて擽ったい。手を繋いでもらうだけで、体中安心感に包まれたような錯覚を起こしてしまう。守られている気がして嬉しい気持ちがトクトク躍ってるみたいだ。変な感情が伝わってしまわないよう黙ったまま歩道橋を下りてゆくと優希くんがさりげなく私に尋ねてくる。
「さっきずいぶん驚いてたけど、何かあった?」
「あ、う、ううん……」
「そっか。帆香ちゃんの後ろ姿が緊張してそうだったからさ、何か怖い目にでもあったのかと思って」
「そ、そうだった? 考え事してたからかな……」
確かに優希くんに声を掛けられるまでは、たぶん、強がりながらもびくびくしていたんだと思う。でもカバンに入れたあのメモの事は悠希くんに相談……できない。話さない方がいい、違う、話したくないから黙ってまた口を噤む。
「これからはなるべく一緒に帰ろうか? 女子の一人歩き危ないもんね、怖くない?」
「えっ、一緒に帰るの? だ、大丈夫だよ?」
「うーん、怖いか怖くないかって言ったらどっち?」
「えっと、暗くなると怖いと思う時もあるけど、いつも気をつけてるし」
「やっぱり怖いよねー、うん、決まりっ」
「まっ、ちょ、私の話聞いてた?」
「聞いてたよ? だから一緒に帰ろうね~」
私が首を傾げて優希くんを見ると楽しんでいるという表情で見つめ返す。悠希くんて大人っぽいのか子供じみているのかわからないな、とさらに首を傾けた。歩道橋を渡りきって駅に向かう道路に出ると、優希くんは繋いだ手を大きく振りながら歩き始めた。まるで小学生がふざけて歩いているふうにブンブンと前へ後ろに手を振り子にする。オーバーな動きに体ごと揺さぶられ、嬉しくて本当に躍っている姿みたいだ。
「ふふっ、これでずっと帰るの?」
「この方が楽しいでしょ?」
「あははっ、変な高校生って言われるよ」
「いいの、いいの」
恋の実験をする私達は、小学生からやり直しのようで……結果を得るには時間がかかりそうだと思った。でもふたりでいるとあっという間に駅に着いて、予備校の前で別れたけれど、その後も楽しかった気持ちしか残っていなかった。ふと思う……
こんなふうに恋は始まるのかな……?
一緒にいると楽しくて、またねの楽しみで胸がいっぱいになって……一緒にいたい人を好きになるのだろう、きっと―――。
中間試験の途中で6月を迎え、テストが終了すると間もなく答案返却があった。そして全てのテストが返されて中間試験の順位表が手渡されると、私にとって非常にマズイ事態が起きた。総合順位をいつもより30位以上落としてしまったのだ。テスト返却の最終日に発表される順位は、各コースの廊下にある掲示板に貼り出される。教科ごとと総合点の順位が上位30位までクラスと氏名が公表されるのが決まりだ。この毎回行われる順位発表の一覧に、私は理系科目の全てで名前を連ねていた……悔しくも前回までは。今回の中間テストで私は2教科で上位になったのみ、総合点では42位という結果だった。高校に入学して以来始めての上位落ちだ。各教科と総合点での上位はほとんどA組の生徒で占めていてやっぱり学年1位は浅野くんだった。その栄光を称える裏で私の落選も密かに噂されている事は、なんとなく自分でも感じ取っていた。生徒の間では順位発表に名前が載ると当選、上位以下は落選と揶揄される風潮がある。そして成績を落とした者に待っているのは、最も皆が嫌がっている担任からの親電だ。そして親が望めば進路指導主任を加えた四者面談に発展する。間違いなく、私の母へも電話をかけている事だろう……。
その日の夜。予備校から帰ってくると夕食の前に案の定「話をしましょう」と母に言われ、テーブルに対面して座った。わかっていたけれど少し胃がキリキリするのを我慢して背筋を伸ばす。
「夕方担任の先生から電話があったわ。理由はあなたもわかっているのよね?」
「はい。中間の結果が悪かったから」
「先生も深刻そうに心配してくださったけれど、何か特別な原因があるの?」
「ごめんなさい……」
私は伏し目がちにテーブルを見ながら謝った。探りたいであろう根本的なその原因を私は母に……言いたくない。
「すぐ対処すれば今ならまだ正せると思うわ。自分で思い当たる節はないの?」
母は困っている時の声のトーンで言った。毎日仕事も大変で家事も私と湊の事も考えて疲れているんだ。そこへ私の成績不振という悪い報告を受けてより疲弊している。ついこの前、苦手対策を取ったばかりでさらに悪化させたのだから、母はお手上げ状態で嫌気もさすだろう。私は何か他の言い訳を取り繕ってでも母を納得させなければいけない。
「……テスト前日に生理が始まって、痛み止めを飲んだけどあまり効果がなかったの。それで頭も回らないしイライラもして、ミスしたのも多かったと思う。お母さんに体調管理は基本って言われてたのにまた繰り返して……ごめんなさい」
私は再度頭を下げてから直り、母の顔を確認した。担任の先生には異性だから本当の事は話しづらかったと加えると、母は私の話を咀嚼して理解しようとしてくれていた。けれど何度か頷いたあとで健康面について指摘を始める。
「生理が重くなった気がするとか、自分の体で異変を感じた……時はない?」
「うーん、お腹が痛いとか頭が痛いとか生理の時は普通だと思うし……」
「軽視しちゃだめよ! 頭痛はどのくらいするの!?」
「えっ、そ、そうだなぁ、ズキズキして重たい感じがしたら薬を飲んでるよ?」
珍しく声を荒らげた母に少し驚いて急いで説明をする。医師の怒りを買う発言をしてしまったようで、深刻度は然程無いことを伝えた。すると母は眉間のしわを伸ばし瞬きを不自然に何回も繰り返すと、次第に冷静沈着さを取り戻したようだ。
「……そう、それでいいわ。少しでもおかしいと思ったらすぐ知らせるのよ?」
「うん、わかった」
「もう一点確認するけど、学校で困ってる事はない? 例えばクラス委員が負担だとか交友関係がうまくいかないとか。それを先生が一番気にしていたわ」
「……ないない、大丈夫っ」
私は顔の前で手を横に振って否定してみせた。手の後ろの表情はありえないよという半笑いだったが……それは正直なところ作り笑いの方が正しいのかもしれない。隠している悩み事を話したくない誤魔化しだと自分では気づいていた。
「そう、よかった。私もそれは気に掛けていたから。何か他にあなたから相談することある?」
「な、ないよ」
「先生に面談をするか聞かれたけれど、湊の保護者会もあってしょっちゅうは診察を休めないしお断りしたの。でもいつでも話を聞くって先生に仰って頂けたから、困った時は相談するのよ?」
「わかった、そうする」
私は頷いて母を安心させる為に微笑んだ。私のせいでこれ以上、母に負担をかけるわけにはいかない。私だけの母親ではないのだから、弟もいるのだから。そして先生にも他の生徒がたくさんいるのだから。私が自分で乗り越える試練なのだと改めて思った―――
[ 全部おまえのせいだ ]
誰かがそう思っているなら、私が悩むのも私のせいなのだから―――。
イタズラと受け止めたメッセージは、その時は私自身で対処できる比較的軽度な厄介事と判断した。陰湿ではあるけれどイジメには該当しない程度だろう、嫌がらせに値するような幼稚な行為だと思った。それにイジメにあった事は今まで一度もないが、一定の人物に継続的に苦痛を与えられるもの、が決定的なイジメの定義だったはずだ。イジメが原因で苦痛から解放される為に死を選んでしまう人もいる。生きるのをあきらめるほど酷く耐え難い苦悩を抱えて無気力になり、心身が疲弊した状態になるからだろう。
そのような惨い状況に比べて……まだ1回目、私は1回しか攻撃を受けていない。それに人違いの可能性も捨てきれていない。でも、私へのメッセージで間違いなかったとしたら―――?
全部を私のせいにしたいほどに……私は恨まれている、ということだ。そこに気づいてしまうと、毎日毎日頻繁に仮定や詮索をするようになって、そのぶん勉強への集中力を欠いていった。あまりに頭から離れない時もあるので、どうでもいいと放り出すか忘れようとしたけれど、カバンのポケットにしまった物的証拠がそれをさせなかった。私に有利になると思って取っておいたのに、逆に自分を追い込む強迫材料になってしまったんだ。破くことも捨てることもできないメモ用紙一枚が重荷になった。どうにか解消したくて……このメッセージを書いた人が誰なのか、探ろうとする気持ちが大きくなり……いちいち注意深く皆を観察した上に警戒心も強まった結果……成績を落とすという自滅に陥った。加えて、テスト勉強を疎かにしても誰かを特定できる確証を得ていない。男子なのではないか、という当初の憶測だけだ。効率が悪いことばかりに気を取られて下駄箱の扉を開ける度に緊張する毎日。何気ない普段の日常でも話しかけられたり目が合ったりすると、誰彼かまわず疑るようになってしまった。場を和ませようと笑わせてくれているのに、私は笑顔の裏でその子の裏の顔を勘繰ったりして……自分が嫌になる。
私も皆にそんなふうにされていたら悲しいって思うのに、自分は平気で皆を疑いの目で見ているなんてサイテーだ。でも、なんか、もう……誰も信用できない、皆が敵に見える、と感じる時もあって……自分の考えに自信が持てないし不安でいっぱいになる。ほんと私って、不甲斐ないな……。
完全に負のループで回っているこの迷走からどうやったら抜け出せるのか、まだ出口は見つかっていない。



