モールを出たあと、朱里はふと立ち止まった。
 夕焼けはすっかり夜色に変わり、街のライトがにじむ。
 手に残るのは、ほんのりとした温もりと──
 カフェで飲みきれなかったカプチーノの甘い香りだった。

 「……何あれ、ずるいなぁ」

 ぽつりと漏れた言葉に、自分で驚く。
 嵩のあの柔らかい笑い方、いつもより少し近かった距離。
 思い出すたび、心の奥がじんわり熱くなる。




 帰宅しても、頭の中は仕事の報告書より“今日の会話”でいっぱいだった。
 リビングのソファに沈み込み、スマホを手に取る。
 未読のままのメッセージ──瑠奈からだった。

> 『明日、朱里さん空いてます? 買い物付き合ってください!』



 職場の後輩であり、ライバル。
 嵩にとっても何かと関わりのある存在。
 「断る理由があるなら、今すぐ教えてください」と言いたいのに、そんな勇気は出ない。

「うん、いいよ。午後なら空いてる」

 そう返信してから、朱里は小さくため息をついた。




 鏡の前に立つ。
 カフェで嵩が言った言葉が頭の中をよぎる。

> 「朱里のプレゼン、説得力あるよ」



 あのときの目は、仕事の評価を超えた何かを含んでいたような──気がする。
 ……いや、気のせい。たぶん。

 けれど、鏡に映る自分が、いつもより少しだけ明るい顔をしているのを見て、
 思わず吹き出した。

「何やってるの、私……ほんと、単純」

 そう呟いても、頬の熱は冷めなかった。
 “少しだけ”のつもりだったはずの時間が、心の中で何度もリプレイされる。




 翌朝。
 通勤電車の窓に映る自分の顔は、どこか浮かれて見えた。
 それが恋だと気づくには、まだ少し時間がかかる。

 でも、もう気づき始めている──
 “平田嵩”という名前が、誰よりも心に残ってしまうことに。