金曜の夕方。
 昼の会議を終えたオフィスには、ようやく一息ついた空気が流れていた。

 デスクを整えて帰り支度をしていると、朱里のスマホが軽く震える。
 画面には短いメッセージ──。

> 『会議終わった? このあと、少しだけ時間もらえる?』



 差出人は、平田嵩。
 たった一文なのに、胸の奥が少しだけ跳ねた。

「少しだけ……って、どのくらいなんだろ」

 独り言のように呟いて、朱里は深呼吸をした。
 鏡代わりのパソコン画面に映る自分の顔を見て、慌ててリップを塗り直す。
 職場を出ると、夕方の風が少し冷たくて、心のざわめきを落ち着かせるにはちょうどよかった。




 ショッピングモールの前。
 嵩は、スーツの上着を片手にベンチに腰かけていた。
 朱里の姿を見つけると、少し照れくさそうに立ち上がる。

「忙しいところ、ごめん。会議、思ったより早く終わってさ」

「いえ、大丈夫です。ちょうど帰るところでした」

「よかった。じゃあ、ちょっとお茶でもどう?」

 自然すぎる誘い方に、朱里はかえって戸惑った。
 でも、その笑顔を断る理由なんて、見つからなかった。




 モールの中のカフェ。
 ガラス越しの夕陽が二人のテーブルを柔らかく照らしている。
 仕事帰りの人々が行き交う中で、朱里だけが時間の流れから少し外れていた。

「最近、資格の勉強またしてるって聞きましたけど……中小企業診断士、もう合格してますよね?」

「あぁ、あれは次の段階。実務登録に必要な研修があってね。
 合格して終わりじゃないんだ。意外と長い道のり」

「先輩らしいです。努力、ちゃんと積み重ねるタイプ」

「朱里だってそうだろ? 企画書、前よりずっと良くなってたし」

「……それ、褒めてます?」

「もちろん。ちょっと悔しいくらいに」

「え……悔しい?」

「俺より感覚が鋭いっていうか。朱里のプレゼン、説得力あるよ」

 嵩の穏やかな声が、ガラスに反射して響く。
 朱里はマグカップを両手で包みながら、目を逸らせなかった。

「……そんなふうに言われたら、調子に乗りますよ?」

「たまには乗ってもいいんじゃない? がんばってるんだから」

 ──心の奥で、何かがふっと溶ける。
 “少しだけ”の時間なのに、いつまでもこの空間にいたいと思ってしまう。




 外に出ると、もう街の明かりが点き始めていた。
 朱里が小さく「ありがとうございました」と頭を下げると、嵩は穏やかに笑って言った。

「こちらこそ。……また、こういう時間、もらってもいい?」

 一瞬、息が止まる。
 朱里は笑顔を作るまでに、ほんの少し間があった。

「“少しだけ”なら、いいですよ」

 その言葉に、嵩は満足そうに頷いた。




その帰り道。
朱里は自分の心に問いかける──
「“少しだけ”って、どこまでなんだろう?」と。