会社の自動ドアが開いた瞬間、朱里の心臓はまた一段と忙しく動き出した。
 入り口の近くに、平田嵩の姿。
 黒いジャケットに淡いブルーのシャツ。朝の光を背に、電話を終えた彼がふと顔を上げた。

 ──目が合った。

 一瞬の出来事なのに、時間が止まったように感じる。
 朱里は思わず小さく会釈をして、慌てて受付を通り過ぎた。
 彼の反応を確かめる勇気なんて、今の自分にはなかった。

 「おはようございます」
 すれ違いざま、嵩の低い声が背中に届いた。
 その響きが、思いがけず胸の奥をくすぐる。
 朱里は咄嗟に振り返り、小さく返した。
 「……おはようございます」

 たったそれだけの挨拶が、どうしてこんなにも難しいのだろう。
 いつも通りを装っているのに、顔が勝手に熱を帯びていく。

 エレベーターの前に立つと、タイミング悪く嵩も同じ方向へ歩いてきた。
 「あ……」
 朱里の口から間の抜けた声が出た瞬間、扉が“ピン”と音を立てて開く。
 中には誰もいない。

「行こうか」
 嵩の声。
 朱里は小さくうなずき、二人で中に乗り込んだ。

 ──密閉された空間。
 ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。

 「……」
 無言のまま、数字がゆっくり上を目指して点灯していく。
 嵩の横顔が近い。たった数十センチの距離なのに、息が詰まりそうだった。

 何か話さなきゃ、と思うのに、言葉が出てこない。
 昨日の雨、あの沈黙、そして──あの言葉。
 “中谷さんだから、なんだよ”。
 それが頭の中を支配してしまって、まともに顔を見られなかった。

「……昨日の、帰り」
 嵩がふいに口を開いた。
 朱里の肩がびくっと揺れる。
「急に雨、すごかったな。風邪とかひいてない?」
「い、いえっ……大丈夫です!あの、ありがとうございます」
 語尾が裏返って、恥ずかしさが一気に押し寄せる。
 沈黙のエレベーターが、まるで心拍数を測る装置みたいだ。

 嵩は少しだけ笑って、前を向いた。
「よかった。それなら安心だ」

 たったそれだけの会話。
 でも、その優しい声のトーンが、朱里の心をまた揺らす。
 好き、という言葉が喉の奥までこみ上げるのに、どうしても出せない。

 エレベーターが“チン”と音を立てて開く。
「じゃあ、またあとで」
 嵩は軽く会釈して、先に降りていった。

 その背中を見送る朱里の胸に、ぽつりと浮かぶ思い。
 ──どうして、こんなに好きになってしまったんだろう。

 静かな朝のオフィスで、彼の足音が遠ざかる。
 それが消えるまで、朱里は動けなかった。