目覚ましの音が、夢の残り香を乱暴にかき消した。
 朱里はゆっくりとまぶたを開け、天井を見つめた。
 ぼんやりとした意識の中に浮かぶのは、昨夜の雨の音。そして、車の中の沈黙。

 ──「中谷さんだから、なんだよ」

 その言葉が、耳の奥で何度も反芻される。
 寝起きの心臓には刺激が強すぎる。顔が一気に熱くなって、布団の中に潜り込んだ。

「な、なんなのあれ……」
 独り言がこもった声になって空気に溶ける。
 思い出すたびに胸がぎゅっとして、どうしようもなく嬉しくなる。
 だけど同時に、怖くもあった。

 好き、なんて簡単な言葉で片づけてしまうのが惜しいほど、この感情は複雑で、甘くて、痛い。

 ──“理由なんてない”。
 嵩のあの言葉を、どう受け止めればいいのか分からない。
 彼の気持ちを信じたい。でも、まだ自信が持てない。

 カーテンを開けると、昨夜の雨が嘘のように止んでいた。
 街路樹の葉が朝日を反射して、きらきらと光っている。
 コーヒーを淹れながら、朱里はスマホをちらりと見た。

 ──新着メッセージなし。

 ため息をついて、マグカップを両手で包む。
 “別に期待してたわけじゃない”と自分に言い訳しながらも、
 心のどこかが、静かに沈んでいくのを感じた。

 出勤の支度をしながら、鏡の前に立つ。
 いつも通りのメイク、いつも通りのスーツ。
 でも、鏡の中の自分が少し違って見えた。

「……顔、赤い」
 昨夜からずっと、頬の熱が引かない。
 恋を自覚するって、こんなにも不安定なものなのか。

 通勤電車の窓に映る自分を見つめながら、朱里は思った。
 ──この気持ち、もう“知らないふり”はできない。

 職場のビルが近づくにつれて、鼓動が早くなる。
 今日、彼と顔を合わせたら、私はどんな顔をすればいいんだろう。
 まるで初恋の少女みたいに、心が追いつかない。

 そして──
 エントランスで見上げたガラス越しに、
 嵩が電話をしている姿が目に入った。

 その横顔を見た瞬間、朱里の胸が小さく震えた。
 朝の光に包まれた彼の姿が、まるで夢の続きのようで──
 彼女は立ち尽くしたまま、足を一歩も動かせなかった。