小雨が、車のフロントガラスを細かく叩いていた。

 朱里は助手席で、静かに手元のカップを見つめていた。映画館を出たあと、嵩が「ちょっと温まろう」と立ち寄ったドライブスルーのコーヒー。紙コップの中の温もりは、もうほとんど残っていない。



「雨、やみそうにないな」

「ですね……」



 短い会話のあと、ふたりの間にまた静寂が落ちた。

 ワイパーが一定のリズムで窓を拭うたび、朱里の心も少しずつ整っていくようで、でも同時に、どこか締めつけられるようでもあった。



「……楽しかったです。今日」

 朱里がそう言うと、嵩はゆっくりと視線を向けた。

「俺も。なんか、時間が早かったな」

「本当に。あっという間でした」



 たった数時間なのに、何日分もの感情が詰まっている気がした。

 沈黙を破るように、嵩が小さく息をついた。



「……中谷さん」

「はい?」

「“なんで私なんですか”って、この前言ってただろ」



 朱里の胸が、きゅっと縮まった。

 忘れたくても忘れられない、あのときの自分の言葉。

 嵩は前を向いたまま、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。



「たぶん、俺……理由なんてないんだと思う。気づいたら、そうなってた」

「え……」

「理由を探すと、なんか違う気がして。中谷さんだから、なんだよ」



 その一言で、朱里の喉が熱くなった。

 何か返したくても、言葉が見つからない。

 窓の外の雨が、急に遠くに聞こえた気がした。



 嵩が車を停め、ウインカーの音が小さく鳴る。

「送ってくれて、ありがとうございました」

「こっちこそ。……気をつけて」



 朱里はドアノブに手をかけたが、開けることができなかった。

 心のどこかが「まだ帰りたくない」と叫んでいる。

 けれど、それを口に出す勇気もない。



「……じゃあ、おやすみなさい」

 朱里がようやくそう言うと、嵩は少しだけ笑った。

「おやすみ、中谷さん」



 雨の夜、朱里は小走りでマンションの階段を上る。

 玄関の前で深呼吸をして、やっと気づいた。

 ──あの沈黙の中に、きっと嵩の“答え”はあったのだと。



 濡れた髪の先から、ぽたぽたと雫が落ちる。

 それが涙か雨か、自分でももう分からなかった。