金曜の午後。
 仕事を終えたオフィスには、週末特有の緩んだ空気が漂っていた。
 朱里は資料を閉じながら、デスク越しに嵩の姿をちらりと見た。
 彼は電話を切ったあと、静かに深呼吸して腕時計を見る。

「そろそろ行くか」
「え?」
 朱里が顔を上げると、嵩は軽く笑った。
「映画。今日だっただろ?」
「あ、はい……! でも本当に、仕事のあとで大丈夫なんですか?」
「むしろこのタイミングのほうが、ちょうどいい。週末だし」

 その穏やかな声に、朱里の心臓がひとつ跳ねた。
 “また映画行きたいです”と口にしたのは自分。
 まさか本当にこうして約束を覚えていてくれるとは思わなかった。

 ふたりは同じ駅に向かい、少し早めの電車に乗った。
 車内では、会社で見せる表情とは少し違う嵩の横顔があった。
 ネクタイを緩めて窓の外を見つめる姿が、いつもよりずっと近く感じる。

「そういえば、朱里ってアクション系苦手だっけ?」
「いえ、むしろ好きです。頭空っぽで観られるので」
「じゃあ正解だったな。俺もこういうの、最近観てなかった」

 電車の揺れに合わせて、小さく笑い合う。
 会話はたわいもないのに、不思議と心がやわらかくなる。

 ──どうしてこの人といると、時間の流れが違うんだろう。

 映画館に着くと、街はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
 並んで発券機に並ぶとき、朱里はふと手元を見た。
 スマートフォンを持つ嵩の手。
 指先に、あの日の“名刺交換”の感触がよみがえる。

 映画が始まり、スクリーンの光が二人を照らす。
 笑い声が響くシーンで、隣の嵩の肩がほんの少し触れた。
 朱里はそれだけで、全身が熱くなる。

 終映後、ロビーに出ると夜風がひんやりと頬を撫でた。
「どうだった?」
「思ってたよりずっと楽しかったです」
「よかった。チケット、もらって正解だったな」

 その何気ない言葉が、朱里にはまるで“また行こう”の約束みたいに聞こえた。

 駐車場へ向かう途中、ぽつりと雨が落ちる。
「やば、降ってきたな」
 嵩が傘を差し出し、朱里の肩に寄せる。
「車、すぐだから」

 傘の下。距離は近いのに、心はもっと近づいていた。
 朱里はそっと息を吸い込み、傘の中の小さな世界を見上げた。
 ──この時間が、終わらなければいいのに。