その日の帰り道。
 朱里はオフィスを出た瞬間、夜風の冷たさに肩をすくめた。
 嵩はまだ会議室に残っていて、何かの資料を確認しているようだった。
 背中を見送ることしかできず、モヤモヤしたまま足を止める。

「……なんであんなに落ち着いてるのよ」
 独り言が、白い息に溶けた。

 この前の週末のショッピングだって、こっちは胸が痛くなるほどドキドキしていたのに、嵩は終始穏やかで、動揺ひとつ見せない。
 あれだけ近くにいたのに、まるで何もなかったみたいに。

 ──この温度差が、たまらなく悔しい。

 スマホを取り出すと、美鈴からメッセージが届いていた。
《で、次の一手は?》
《そんなの、あるわけないでしょ》と返すと、すぐ既読がつく。
《“ない”じゃなくて、“出せない”でしょ。》
 短い一文に、図星を刺されて沈黙する。

 ……わかってる。
 本当は、素直になれないだけ。
 それが、自分でも嫌になるくらいに。



 翌朝。
 朱里は寝不足のまま出社した。
 会社のエントランスで、偶然嵩と鉢合わせる。

「おはようございます、中谷さん」
「あっ……おはようございます」

 目を合わせると、またあの穏やかな笑み。
 それだけで心が揺れるのが悔しい。

「昨日の会議資料、助かりました。ありがとう」
「い、いえ。仕事ですから」
 声が少し尖ってしまう。
 自分でも分かるくらい、刺々しいトーン。

 嵩が少しだけ首を傾げて言った。
「……なんか怒ってます?」
「怒ってません!」
 即答して、エレベーターに飛び乗った。

 ドアが閉まる直前、嵩が苦笑しているのが見えた。
 その笑顔がまた、胸の奥をかき乱す。

「もう……ほんっとに、そういうところが大嫌い!」
 思わず小声で吐き捨てた。
 でも、エレベーターの鏡に映る自分は──
 明らかに、頬を染めていた。



 昼休み、デスクで弁当をつついていると、瑠奈が軽やかに声をかけてきた。
「先輩、昨日のプレゼンすごかったですね!」
「え、あ、ありがとう」
「平田先輩、すごく褒めてましたよ。『中谷の分析は的確だ』って」

 瑠奈の笑顔は、いつも眩しい。
 その素直さが羨ましくて、少しだけ胸が痛む。
「そ、そうなんだ……。あの人、私の前じゃあんまり褒めないから」
「ふふっ、それは照れ隠しじゃないですか?」
「えっ?」
「平田先輩、たぶん先輩のこと意識してますよ」

 唐突な言葉に、朱里は箸を止めた。
 瑠奈の目は冗談めいていたけれど、どこか探るようでもあった。

 ──そのとき。
 会議室のドアが開き、嵩が出てきた。
 電話中のようで、短く「……はい、確認します」と言いながら通り過ぎる。
 何気ない仕草なのに、心臓が跳ねた。

「ね?」と瑠奈が囁く。
「やっぱり、気になるんじゃないですか?」

 朱里は顔を背け、弁当に視線を落とした。
「……知らない。もう、わかんない」

 その声は、ため息にまぎれて小さく消えた。
 心の奥で、また“こじらせモード”が暴れ始めていた。