土曜の午後、朱里はショッピングモールの映画館前でそわそわしていた。
 約束の時間より十五分も早く来てしまい、行き交う人の流れの中で何度もスマホを確認する。
 「落ち着け、社会人として落ち着け……」
 呟いたその瞬間、背後から聞き慣れた声がした。

 「早いな、中谷さん」
 振り向くと、カジュアルなシャツ姿の嵩が立っていた。
 いつもより少しラフで、それが妙に新鮮だった。
 「べ、別に。たまたまです」
 強がる自分の声が、少し上ずって聞こえる。

 映画が始まるまで時間があり、二人はカフェに入った。
 席に向かい合って座ると、距離が近すぎて落ち着かない。
 コーヒーの香りがやけに強く感じられ、朱里は無意味にストローを回した。

 「今日は仕事のこと、忘れような」
 嵩の何気ない言葉に、朱里の胸がくすぐったくなる。
 「……忘れられるわけないじゃないですか」
 反射的に突っぱねながらも、心の奥では——
 (ほんとは、ちょっとだけ嬉しい)

 上映時間が近づき、暗い館内に入る。
 肩が並ぶ距離。
 手が触れそうなひじ掛け。
 スクリーンに光が満ちても、朱里の視線は何度も隣に吸い寄せられた。

 途中、嵩が笑う。
 その低い声が、映画の音楽よりも胸に響く。
 (やめて……そんな顔で笑わないで。集中できない……)
 頭の中で何度も叫ぶけれど、顔は真っ赤で、心臓はとっくに限界を超えていた。

 上映後、館内の照明が戻る。
 朱里は無理に平静を装いながら言った。
 「まぁまぁでしたね」
 「俺はけっこう好きだったけどな。ラスト、意外だった」
 「へぇ……そうですか」
 視線を合わせないように返す朱里の頬は、まだほんのり赤い。

 エスカレーターで並んで降りるとき、嵩がふと口を開いた。
 「また行こう。……次は、俺じゃなくて中谷さんが選んで」
 「……考えときます」
 そう答えながら、朱里の心の中では、すでに次のデートのタイトル候補が並んでいた。
 “甘くも苦くも、あなたと映画の午後”。
 けれど口には出さない。
 代わりに、小さくつぶやく。

 「……大嫌い」
 照れ隠しの呪文は、また今日も役に立った。