「何着て行こう……」

 その一言が、午前中からずっと朱里の部屋にこだましている。
 ベッドの上には、仕事帰りに買ったワンピース、春色のカーディガン、そしてお気に入りのスカート。
 だけど、どれも「これだ!」という決め手にならない。
 鏡の前で何度も立ったり座ったりして、ため息が出る。

 ──映画に行くだけなのに。
 頭ではわかっている。
 でも、相手が平田嵩となると、途端に「ただの映画」じゃなくなってしまう。

 スマホが光る。美鈴からのメッセージだ。
 『で?進展は?映画デートってマジ?』

 朱里は慌てて返信する。
 『マジだけどデートじゃない!たぶん、きっと、違う!』
 送った直後に、変な汗が出た。
 “違う”って言いながら、そうであってほしいと心のどこかで願ってる自分がいる。
 もう、本当にややこしい。

 着信音が鳴った。
 「朱里~?おはよ、いまヒマ?」
 電話越しの美鈴の声は、朝からテンションが高い。
 「ちょっと聞いてよ、美鈴。服が決まらなくて……」
 「は?そんなん、嵩さんの好みで選べばいいじゃん」
 「そ、それが分かったら苦労しないよ!」

 美鈴は笑って、「ほら、あの人さ、前にプレゼンのとき朱里のジャケット褒めてたじゃん。きっちり系が好きなんじゃない?」と軽く言う。
 「……そういえば、あのとき“似合ってますね”って……言ってたかも」
 思い出した瞬間、朱里の頬が熱くなった。
 電話の向こうで美鈴がにやりと笑っている気配がする。
 「ほら出た。顔真っ赤なんでしょ」
 「ち、違うし!」
 「また“大嫌い”とか言うんでしょ、どうせ」
 「だ、だってそうでも言わないと……!」

 会話が終わったあとも、朱里の心臓はドクドクとうるさく鳴っていた。
 結局、クローゼットを開けて、白いブラウスとライトグレーのスカートを手に取る。
 シンプルだけど、彼に会うにはちょうどいい。
 “きっちり系が好き”──その一言が、頭から離れなかった。

 鏡の前で服を合わせながら、朱里は小さくつぶやいた。
 「……平田さん、また“似合ってる”って言ってくれるかな」

 その声は、少しだけ期待を含んでいた。
 でも同時に、自分でも気づかないふりをしている。
 “好き”という言葉の形を、まだ認めたくないから。