金曜の夜。
 仕事帰りの朱里は、駅へ向かう途中で、ふと冷たいものが頬に当たるのを感じた。

 ──ぽつ、ぽつ。
 空を見上げると、雲の隙間から小さな雨粒が落ちてきていた。

「えっ……傘、持ってないし……」
 朝は晴れていたのだ。
 まさか週末前の夜に、こんな不意打ちの雨が来るなんて。

 駅まであと数分。
 その距離が、妙に遠く感じる。
 立ち止まってスマホを開くと、通知に“傘マーク”が並んでいた。
 なんでこういう時に限って、天気予報見忘れるんだろう。

 小走りで近くの屋根のある場所へ避難しようとした、その時。

「中谷さん!」

 背後から名前を呼ばれて、思わず振り返る。
 ビルの角から、黒い傘を差した嵩が歩いてきた。
 シャツの袖を少し折り、片手でスーツのカバンを持つ姿。
 雨に濡れた髪が、街灯の下で少し光って見えた。

「やっぱり……傘、持ってないですよね」
「……どうしてわかったんですか」
「中谷さん、朝“晴れ女だから大丈夫です”って言ってたから」
 そう言って苦笑する嵩に、朱里は少し顔を赤くした。

「……もしかして、わざわざ戻ってきたんですか?」
「はい。駅の前で見かけて、気になって」
「そ、そんなわけ……」

 反論しかけたけど、嵩の傘が静かに差し出される。
 ふたりの距離が、自然と近づく。

「ほら、入ってください。風、強くなってきた」
「……ありがとうございます」

 肩が触れるか触れないかの距離。
 雨音と、ふたりの足音だけが響く。
 こんなに近いのに、心臓の鼓動が遠くで鳴っているような気がした。

「この前の映画……楽しかったですね」
 嵩がふと口を開いた。
 朱里はびくっと肩をすくめる。
「え、ええ。まあ……普通に」
「普通、ですか」
「そ、そういう意味じゃなくて!」
 慌てて言い直す朱里を見て、嵩はふっと笑った。

「中谷さんって、ほんとに“素直じゃない”ですよね」
「……そんなことないです」
「いや、あります」
 からかうような声。
 朱里は俯いて、小さく呟いた。

「……じゃあ、今度はちゃんと素直に言います」
「え?」
「その……また映画行きたいです」

 言った瞬間、嵩が立ち止まる。
 朱里の言葉が、雨の音に紛れずに届いてしまったから。

「……了解です」
 嵩の声が、少しだけ柔らかく響いた。
 傘の中、朱里はそっと顔を上げる。
 ふたりの影が、街灯の下でひとつに重なっていた。